俳諧ガイド 目録

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歌仙系百韻系発句作法脇作法
第三作法初表作法平句作法・付句名残裏・挙句作法


発句の作法

発句の作法 索引

発句発句について蕉風以外の説確認したこと
発句作法発句作法総論
発句の在り方発句の趣向・案じ方趣向をとること
案じ方・象り方案じどころ発句の成否
発句の切れ切ること・切字について切字の伝

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発句と切れ芭蕉句の切字切字の働き切字ない芭蕉句切字の補足切字のメモ

 


 


発句
発句について
① 俳諧1番目の長句(五・七・五)である。
② 起句・立句とも言う。
③ 当季の語、季の詞・季語を一つは入れる。また、入れないこともある。
④ 発句は切る。切るために切字を用いるが、発句が切れていれば、切字は必要ない。
⑤ 「客発句、亭主脇」と言い、「発句は客の位」である。
⑥ 発句に「表六句の制約」は、及ばない。
蕉風以外の説
❶㋑ 発句は、すべて「一座へ挨拶する心で」詠む。
 ㋺ 発句は、連衆が今感じ取れる、その場の季の詞を入れる。
❷ 発句以下、季重なりを嫌う。
❸㋑ 「や」「かな」などの切字を二つ使ってはいけない。
 ㋺ 三段切は避ける。
❹ 発句に用いた字(月花を除く)は、再び使ってはいけない。
芭蕉の俳諧で確認したこと
❶㋑ 発句は、「一座へ挨拶する心」で詠むこともある。
 「熱田皺筥物語」(貞享元年10月18日頃の吟)に、
     旅亭桐葉の主、心ざし浅からざりければ、暫くとゞまらむとせし程に
    此海に草鞋捨む笠しぐれ   芭蕉
 では、次はどうであろうか。
 「熱田三歌仙」(貞享元年12月17か18日の吟)に、
     尾張の国熱田にまかりける比、人々師走の海みんと船さしけるに
    海くれて鴨の声ほのかに白し 芭蕉
 挨拶ではない。「今ここで」の感動は、連衆も共有できるから発句として成立する。では、次はどうか。
 「野ざらし紀行」(貞享2年3月14日の吟)に、
     湖水の眺望
    辛崎の松は花より朧にて   芭蕉(当初、辛崎の松は小町が身の朧)
 浜大津での句で、辛崎に思いを馳せての句である。千那にも5キロ先にある宵の松は見えないが、句によって共感できる。「今どこかで」の例。
 次は、「かつて、どこかで」の例。
    何とはなしに何やら床し董草 芭蕉(後に、「山路きて」)
 「大津に至る道、山路を越えて(小関越、貞享元年3月12日)」の吟を、熱田法持寺の会(同年3月27日)で立句とした。この句をどう味わうかは、桐葉たちの自由である。
 「この先、そこで」もある。「猿蓑、梅若菜」(元禄4年1月1から5日)に、
     餞乙州東武行(乙州が東武行に餞けす)
    梅若菜まりこの宿のとろゝ汁 芭蕉
 大津から江戸へ旅立つ乙州へのはなむけ。道中梅が咲くだろうという時季である。

 「挨拶する心」の発句ばかりではない。句を詠むこと、或いは、詠んだ句そのものが挨拶である。
 また、脇も挨拶・応答ではない。短句では無礼であろう。挨拶のやりとりや贈答は、長句同士で行う。
 「しろさうし(土芳)」、「客発句とて、むかしは必客より挨拶第一に発句をなす。脇も答るごとくにうけて挨拶を付侍る也。師のいはく、『脇、亭主の句を云る所、則挨拶也。雪月花の事のみ云たる句にても、あいさつの心也』との教也」のとおりである。

→「貞享式海印録、脇」参照。

  発句は、すべて「一座へ挨拶する心で」詠む。
 △ 対面情況やあいさつの意は詞書きまで。発句に「一座へ挨拶する心」が篭もることもある。


❶㋺ 上記のように、「今ここで」の詞でなくとも、「今」の季詞であればよい。
 さらに、七部集「春の日」第二歌仙の詞書きに、「三月六日(貞享2年)野水亭にて」と、詞書きをして、
    なら坂や畑うつ山の八重ざくら   旦藁
 と続く。蓬左の野水亭で、奈良の八重桜を詠む発句である。芭蕉はこの1月下旬、伊賀上野から笠置を越え、奈良へ行っている。
      奈良に出る道のほど
    春なれや名もなき山の薄霞     芭蕉
 芭蕉からの書簡を受け、触発されたのであろう。越人が、初オ4で、
     口すゝぐべき清水ながるゝ    越人
 と、芭蕉の面影を詠んでいるのが面白い。
 次に、勧誘の句。貞享5(1688)年5月中旬、京にいる芭蕉を岐阜妙照寺の己百が誘う。
    しるべして見せばや美濃の田植歌  己百
 また、その6月19日、岐阜に出向いた芭蕉を関の惟然が誘う。
    見せばやな茄子をちぎる軒の畑   惟然
 いずれも、「ここで」の季詞ではない。ついでに、その二日前、岐阜郊外折立三ツ又の寸木が岐阜に来て、
    どこまでも武蔵野の月影涼し    寸木
 と、深川の三又を想像して景を詠む。

  発句は、連衆が今感じ取れる、その場の季の詞を入れる。
 △ 発句は、連衆が感じ取れる、当季の詞を入れる。


❷ 「季重なり」は、単独で完結すべき俳句の問題である。俳句は俳諧の発句になるが、俳諧の発句は俳句ではない。
    目には青葉無季時鳥三夏初鰹初夏      素堂 ※この句の青葉は無季
・ 「七部集」、42連句の内、11の発句に複数の季語。(26%)
    つゝみかねて三秋とり落す初冬かな    杜国
    霜月仲冬三冬の彳々ならびゐて      荷兮
    なら坂や畑うつ晩春山の八重ざくら晩春    且藁
    初夏をわすれ晩春におぼれぬ晩秋ならし 素堂
    三秋に柄をさしたらばよき三夏哉     宗鑑
    一里の炭売三冬はいつ冬籠り三冬       一井
    初春若菜新年まりこの宿のとろゝ汁無季   芭蕉
    空豆の花晩春さきにけり初夏の縁      孤屋
    振売の鴈晩秋あはれ也ゑびす講初冬      芭蕉
    雪の松三冬おれ口みれば尚寒し三冬      杉風
    夏の夜三夏や崩て明し冷し物三夏       芭蕉

・ 上のように「七部集」の連句の内、12の発句が「季重なり」だが、問題はない。季語の問題ではなく、「句の季」の問題であることが分かる。これは、季語を入れなくても、「季の句」となる次の句からも自明である。
<無季の格>
    年々や猿にきせたる猿の面    芭蕉 ※元禄6年歳旦
・ 季語がなくても、この句は新年と分かる。「隠し題」と言われるものもある。
    世の中はさらに宗祇の舎りかな  芭蕉 ※題は時雨
・ 当然、逆に、いわゆる「季語」を入れても、季にかかわらない句(雑体の句)がある。
    蝸牛角ふり分けよ須磨明石    芭蕉
・ 季語の扱いで、無季にもなる。
    亀の甲烹らゝ時は鳴もせず    乙州
・ 「亀鳴く」は「三春」の季語であるが、鳴かないから無季となる。

  発句以下、季重なりを嫌う。
 △ 発句は、当季の詞を頼りとするが、必要がなければ入れない。殊に、名所の句は、季語に頼らないことが多い。


・ 「発句以下」と一括りにできない。平句には平句の格がある。
<平句の季詞>
 「二十五箇条、発句の時は季に用事」に、「あるひは、夜着と布団・足袋・頭巾の類、扇・袷など尋常に用るもの多し。発句にする時は当季、平句にしては、指合繰るべからず。されど、一句のさまにて、たしかに冬、たしかに夏と見ゆる時は、其せんぎに及まじ。此掟は道理の指合を知て、文字の指合を穿鑿すべからずとなり」とある。「三四考、芭蕉翁口授」は、簡潔に「袷・布団・夜着・扇など、発句の時は季になる。付合の時は雑にもなる。前句、作りやう次第なり」とある。


❸㋑ 「や」「かな」「けり」の切字を二つ使うことはある。
    夕顔秋はいろいろの瓢
    被き伏す蒲団寒き夜すごき
    君蝶我荘子が夢心

 俳句も同様である。
    春昔十五万石の城下     子規
    降る雪明治は遠くなりにけり  草田男
    茶を買ふ麻布も暑くなりにけり 波郷

 切字を三つ使うこともある。(三字切)
    子供等昼顔咲き瓜剥か      ※季吟の挙げる切字28字にある。

❸㋺ 三段切も問題ない。
    梅/若菜/まりこの宿のとろゝ汁/
    奈良七重/七堂伽藍/八重ざくら/
    目には青葉/山時鳥/初鰹/   素堂

  「や」「かな」などの切字を二つ使ってはいけない。三段切は避ける。
 △ 発句は、切る。切れたところに切字がある。


❹ 「発句に用いた字(月花を除く)は、再び使ってはいけない」という決まりは、芭蕉の俳諧にはない。七部集を見る。
   ┌ 発句  狂句木枯らしのは竹斎に似たる哉
   └ 初ウ2  髪はやすまをしのぶのほど
   ┌ 発句  めくやさまざまの伊勢まいり
   │ 初ウ7 霧はらふ鏡にの影移り
   │ 名ウ2  釣瓶ひとつを二してわけ
   └ 名ウ5 いくを花と竹とにいそがしく
   ┌ 発句  なら坂や畑うつの八ざくら
   │ 初ウ10  月なき浪に石ををく橋
   │ 初ウ12  諷尽せる春の湯の
   └ 名ウ4  高びくのみぞ雪の山々
   ┌ 発句  いろいろの名もむつかしやの草
   │ 初ウ12  生鯛あがる浦の
   └ 挙句   は旅ともおもはざる旅
   ┌ 発句  亀の甲烹らるゝ時はもせず
   └ 初ウ3 鶯の寒き聲にて出し
   ┌ 発句  畦道や苗代の角大師
   │ 初ウ7 月氷る走の空の銀河
   │ 初ウ9 いらぬとて脇指も打くれて
   └ 名オ8  口上果ぬいにざまの
   ┌ 発句  むめがゝにのつと日のる山路かな
   │ 初ウ6  ひたといひすお袋の事
   └ 名オ12  なは手を下りて靑麥の
   ┌ 発句  の空尾の杉に離れたり
   │ 名オ9 辛崎へ雀のこもるのくれ
   └ 名オ12  塗なしに張てをく壁
   ┌ 発句  道くだり拾ひあつめてかな ┐
   │ 名オ11 帷も肩にかゝらぬ暑さにて   │七部集にはこの2文字のみ
   └ 名ウ3 髪置は雪踏とらする思にて   ┘
   ┌ 発句  振賣の鴈あはれゑびす講
   └ 初ウ3 ひだるきは殊軍の大事
   ┌ 発句  の松おれ口みれば尚寒し
   │ 初ウ5 竹の皮踏に替へる夏の來て
   └ 名オ7 舟でなくばと自慢こきちらし
   ┌ 発句  八九間空で雨降る柳かな
   │ 名オ3 長持に小挙の仲そはそはと
   └ 名オ4  くはらりとの晴る青雲
   ┌ 発句  いさみ鷹引すうる嵐かな
   │ 初ウ9 うき旅は鵙とつれ渡り鳥
   └ 名ウ2 参宮の衆をこちで仕
   ┌ 発句  猿蓑にもれたる霜の露哉
   └ 名ウ1 鳥籠をづらりとおこすの風
・ 仮名・漢字と書き換えても同じであろう。
   ┌ 発句  はつ雪のことしも袴きてかへる
   └ 初ウ11 はなの世とや嫁のいかめしく
   ┌ 発句  鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
   │ 初ウ4  里見えて午の貝ふく
   └ 名オ12  湖水の秋の比良のはつ
   ┌ 発句  こがらしの身は竹斎に似たる哉
   │ 名オ6  冬がれわけてひとり唐苣
   └ 名オ12  巾に槿をはさむ琵琶打
   ┌ 発句  いろいろの名もむつかしや春の草
   └ 初ウ1  秋の宮ものぞかせ給ひけり

・ この妙な式目は、別字や仮名への書き換えは考慮していないのであろうか。仮名は除くというなら、すべてかなでかけばゆるされることになる。
 「本質的なものの差し障りをわきまえて、字面の差し障りを、とやかく言うべきでない」と、踏まえる。

  「発句に用いた字(月花を除く)は、再び使ってはいけない。
 △ 発句に用いた自立語は、挙句で用いない。但し、多用の「春」を除く。

発句作法総論

 芭蕉は、その人に応じて教えた。
 ・ 句は、手強く、俳意たしかに作る。
 ・ 一句わずか十七字、一字もおろそかに置くべからず。俳諧も和歌の一体、句にしおりの有るように作るべし。
 ・ 発句は頭よりすらすらと、いいくだし来るを上品とする。
 ・ 物二つ三つ取集めて作るものでない。金を打ちのべたるようにありたい。
 ・ 発句はものを合わせれば出来る。
 蕉門の句
 ・ 趣向を求め、案じ方を求めること。
 ・ 趣向とは、題中に向い、趣をとること。
 ・ 趣向は、理屈ではなく、心に描いてみる。鏡花水月。姿先情後。
 ・ 蕉門は、景・情ともに、実際にあるところを詠む。
 ・ 蕉門では、凡夫や少年によい句がある。
 発句の評価
 ・ 人が、なるほどと感じること。
 ・ 七情万景、心に留まるところに発句があるが、誰しも経験したところ、経験しうるところでなくては、発句とし難い。
 ・ 句中に理屈を言ったり、比べたり、並べたりする句は、位が低い。
発句の在り方
直旨伝

発句案じ方
 翁曰、発句は頭よりすらすらと言下し来るを上品とす。もの、一つ二つ三つ、取合てなすはよからず。黄金を打延たるごとく作るべし。
 又曰、発句は取合ものなり。題にものひとつ取合せて、よく取合すを上手といふ。
 又曰、題の内より案じては、なきものなり。題の外を尋れば、有ものなり。
 又曰、発句は一もつの上にて仕立る事はかたき物なり。
   毛衣につつみてぬくし鴨の足
 一物のうへにて仕立たるとなり。
 翁の詞、かやうに其人によりて、一筋ならず。彼と是と工夫して偏執をはなるべし
去来抄

修行教
 先師は門人に教へ給ふに、そのことば極り(きまり)なし。
 予に示し給ふには、「句毎句毎に、さのみ念を入るものにあらず。又、句は、手強く俳意たしかに作るべし」となり。
 凡兆には、「一句わづかに十七字なり。一字もおろそかに置くべからず。俳諧もさすがに和歌の一体なり。句にしほりの有やうに作るべし」となり。
 是は作者の気性と口質とによりてなり。悪しく心得る輩は迷ふべきすぢなり。同門の中にも、ここに迷ひをとる人多し。
 先師曰、「発句は頭よりすらすらと、いひくだし来るを上品とす」。
 洒堂曰、「先師曰、『発句は汝が如く、物二ツ三ツ取集めて作るものにあらず。金を打ちのべたるやうにありたし』となり」。
 先師曰、「発句は物を合すれば出来るものなり。それをよく取合するを上手と言ひ、悪しきを下手と言ふなり」。
 許六曰、「発句は、取り合せて作する時は、句多く出来るものなり」。
 初学の輩これをおもふべし。巧者に及んでは、取合・不取合の論にはあらず。
発句の趣向・案じ方
直旨伝

発句案じ方
 発句の、題に動くうごかぬといふ事、功者の上には論なき事なり。其ものより案じ入て、しほりより生来る詞なれば、動くべきやうなし。
 初心の句作するは、其題の本情を見ずして、其場に生来らぬ物を、しほりのわきまへなく、詞をきりつき、柳にやせん桜にやせんと、跡より取付る故に、何にも成べく見ゆるなり。其本情より入らぬ故なり。
 嵐雪論ず、雷電の謡に、菅公大に怒り給ひ、御前にありあふ柘榴をかみくだき、妻戸にくはつと吹かけ給へば火焔と成てと書し文勢、此御前にありあふもの、饅頭・羊羹ならば、火焔となる文勢、しほらし。きはめて柘榴の外なし。物の本情、慥なる故に、動事なしと申しぬ。
俳諧詞寄

発端
 発句は、その見る所、その聞く所、その思ふ処、その感ずる所を、仮字十七文字の句に発し、言ふものなり。故に、発句は自然に発するものにして、その霊妙なる鬼神をも感ぜしむべし。
 而して、これを案じ出さんとするものは、先づ趣向を索(もと)め、次に案法をもとむべし。然りと雖も、もとめて後、趣向をもとむることあるべし。
 又、初学の者は先づ題を設けて、発句を案じ、この道に功者なる人につき、点削を受け、また古人の句集を読みそらんずべし。自然に趣向も案法も得やすくなりて、終には口に出ること、何にても発句句となるべし。
 発句は仮名にて、五文字七文字五文字と、三段に言て十七文字なり。
 祖翁芭蕉の句に、「風流の始や奥の田植歌」といへるを以てしるべし。
 「風流の」上五文字、「はじめや奥の」中七文字、「田植歌」下五字と知るべし。

<日本諸芸大全、第二編「俳諧詞寄、発句作法案内」(梧窓庵主人撰)>

趣向をとること
俳諧発句小鑑

趣向をとる
 或やんごとなき方の仰せられしは、「先づ恋の題を得て歌詠まむとおもふには、我が恋する人をひとりむかふに立てて、その人に深く思ひ入りて、逢ふ恋、あはざる恋、或は忍ぶ恋にもせよ、実によむべし。題と思ふべからず」と、教へ給ひぬ。
 誠にありがたきことなり。
    忍ぶ恋
   夏痩と人にこたへるなみだ哉
 かく題中に向うて、趣をとるを趣向とは申すなり。
案じ方・象り方
直旨伝

発句案じ方
又曰、句を作るに、作過て、心の直を失ふなり。心の作はよし。詞の作、好むべからず
 又曰、句は、七八分に言つめてはけやけし。五六分の句はいつまでも飽かず。但、かくいへばとて、案方を五六分にせよとにはあらず。案は十分にして、作を五六分にせよとなり。
 又曰、発句は大方、物語のやうになる物なり。とかく主人公をたてて、いかにも句になるやうに作配可然。主人公なきは絵にかゝれぬ物なり。絵にかゝれぬは、発句にあらず
二十五箇条

発句像やうの事
 発句は屏風の画と思ふべし。己が句を作りて、目を閉、画に準らへて見るべし。死活をのづからあらはるゝものなり。此ゆへに、俳かいは姿を先にして、心を後にするとなり。
 都て、発句とても、付句とても、目を閉て、眼前に見るべし。心に思ひはかつてするは、見ぬ事の推量なり。目に見て付ると、心に量て付ると、自門・他門のさかひ、紙筆の上に尽がたし。諸集の付合を見て工夫すべし。
貞享式海印録

発句像やうの事
 発句は屏風の画と思ふべし。己が句を作りて目を閉て画に準へて見る時は、死活自らあらはるるものなり。この故に俳諧は、姿を先にして、情を後にすといふなり。
 すべて、発句・付句ともに、目を閉て(心ヲシヅメ)、眼前に見るべし。心に量りてするは、見ぬ事の推量なり。
 ▲ 此の段は、「実景に叶ふか叶はざるか、分別せよ」との戒めなり。
<引> [俳諧十論、為弁抄九]
 翁は、眼界に只今の姿を浮かべて、それをそのままに作れる故に、明暮の咄の古からぬごとく、その句はその日に新たなり。
 我が輩の目を塞ぐ時は、唐・高麗の書物に覚えたる、詩の体の歌の様のと、昔より言ひ伝へし上手の発句の邪魔に成りて、一字もただ今の姿は見えず。かくても人のせかむ時は、詞の切屑を取集めて、上手の細工は論に及ばざらむ。
 ▲ この戒め、老婆心切なり。
 さて、発句に種々の心得、篇突(へんつき)、旅寝論、去来抄、三冊子等に詳しければ、ここに略す。
俳諧発句小鑑

理屈をぬく
 発句は、理屈より案ずべからず。理屈は勿論なり。古人、句に絵をもて教へ給ふは、理屈を抜きて、自然の風姿にうつさんがためなり。
俳諧発句小鑑

案じ方
 翁云く。発句案ずるには、先づ題に結ばむと思ふものを、胸中に画きて見るべし。絵は鏡にものの映るがごとく、あるひは梅に社頭、あるひは桜に寺院とも、姿あきらかなり。これを鏡花水月の案じ方といふなり。
案じどころ
去来抄

修行教
【案じ所】
去来曰、「他流と蕉門と、第一、案じ処に違ひ有りと見ゆ。蕉門は景情ともに有る処を吟ず。他流は心中に巧まるゝと見えたり。たとへば、
   『御蓬来夜はうすものをきせつべし
   『元日の空は青きに出船哉
   『鴨川や二度目の網に鮎一ツ

 といへるごとし。
 禁闕(きんけつ、皇居)に蓬莱なし。洛陽に出舟なし。鮎ひとつは少なき事にや。皆これ細工せらるゝなり。

去来曰、「蕉門の発句は、一字不通の田夫、十歳以下の小児も、時によりてはよき句あり。却て他門の功者といへる人は覚束なし。他流は其流の功者ならざれば、其流のよき好句はなしがたしと見えたり」。
発句の工夫
直旨伝

発句案じ方
 「皮肉骨」と三つにわけたる体、予、年来是を工夫するに、一句一句に、「皮肉骨」調ふ物なり。
 骨をせんと考へ、皮をなさんと思ひ、肉をつけんとおもふは、此道の大煩ひなり。
 自然と満足の俳諧は調ひ、未練の人に教ても、埓せぬ事なり。此境、修行すべし。「真草行」も同断なり。
  翁曰、発句案る時、和歌の三十体、つかまへ方より案じ力なり。いかにも発句の心得に成べし。よき句は自然と三十体のうち、いづれになりとも叶ふものなり。
  幽玄体 行雲 廻雪 長高 高山 遠白 有心 物哀 不明  理世   撫民  至極 澄海 麗体 存直 花麗 松体 竹体 可然体 秀逸体   抜群  写古 面白 一興 景曲 濃体 見様 一節 拉鬼  強力
発句の成否
直旨伝

発句案じ方
 連歌に句難をいふ事あり。俳諧にも有るべし。
 心敬僧都云、「凡俗なる句、姿の凡俗・心の凡俗なり。姿の凡俗は聞へ安く、心の凡俗は少、わきがたくやあらん」。
 道に心地を思はぬ人の句に、其あやまち有物なり。景曲の句には大かたなし。有心なる句を作るに用心すべし。
 無心所着といふ事、既に万葉集に沙汰あり。素より、俳諧にも有べき事なり。「未来記」に、
  ふる山の千尋の松のたがみそぎ このゆふつけてつもる白雪
 定家卿判曰、布留山といふ名所にや。又如何。「たがみそぎゆうつけ鳥のから衣」といふ歌をとりて、したるとみゆ。松の雪・みそぎ、心得ず。一向、無心所着のさたとやと、云々。
  句を見る事、大やう、一句の成就と不成就と、新古・糟粕・等類・同巣、又古事・古意等の寄せ、扨、其うへ好悪と見るなり。位絶勝に至ては、判者の力つくなり。
 同巣と等類とは別なり。作例、亦別なり。
  句を判ずる事、物を鏡にうつすごとし。此故に、名師ならざれば、判者となし難し。
 匂ひの句といふ事、歌に上品なり。発句、又しかり。
 古人、定家興の歌を評して云、「朧月夜に仙女の俤、かりに顕れて消失たらん、匂ひなるべし」となり。
去来抄

修行教
【発句の良し悪し】
牡年曰、「発句の善し悪しはいかに」。
去来曰、「発句は、人の『もっとも』と感ずるがよし。『さも有べし』といふはその次なり。『さも有べきや』というは、又その次なり。『さはあらじ』といふは下なり」。
【発句と付句】
牡年曰、「発句と付句の境はいかに」。
去来曰、「七情万景、心に留まる処に発句あり。付句は常なり。たとへば、『鴬の梅にとまりて啼く』といふは、発句にならず。『鴬の身を逆さまに鳴く』といふは、発句なり」。
牡年曰、「心に留まる所は、皆発句なるべきか」。
去来曰、「この内、発句になるとならぬとあり。たとへば、
     つき出すや樋のつまりのひきがへる 好春
 この句を、先師の古池の蛙と同じやうに思へるとなん。こと珍らしく等類なし。さぞ心にもとゞまり、興もあらむ。されど、発句には、なしがたし」。
去来曰、「畢竟句位は、格の高きにあり。句中に理屈を言ひ、或は物をたくらべ、或はあたり合たる発句は、位くだるものなり」。
発句の聞き方
直旨伝

発句案じ方
 他の句を聞く事、大切の習あり。わが好かたを胸中にさだめては、人の句、聞がたし。
 われをはなれて、その句の天性を見るべし。うち聞より、よく感ずる句あり。これは、人をして、よく感ざしむ句なり。

 又、深切に聞ざれば、聞へがたき句は、意味深長の句なり。強てまかりて聞て、漸聞たるは、まことに聞ゆる句にあらず。其句の入ほが入穿。たくみ過ぎていやみに落ちることなり。聞人、正しければ、是を咎るなり。己くらき時は、ともに作者の邪路に入て、是を聞とりたりとす。志あさく、さかいに入らぬ輩、幽玄の心、おぼろげにもさとりしるべからず。

発句の切れ

切ること・切字について

<切るとは>
 ・ 一句の中で、言葉が留まって、様々な余情を含むところを言う。

→「資料、切るということ」参照 

<切字>
 ・ 「切字」とは、古くからの習わしで言う名称である。
 ・ 蕉門の切字は、一句を裁ち切るものではない。
 ・ 切字は、発句の確実な姿を作る道具である。
 ・ 「切字」を入れずに切れる句がある。切れるなら、「切字」を入れる必要がない。
 ・ 切れていれば、四十八字、皆切字と言える。

→ 「資料、切字を入れること」参照 
→ 「資料、切字の働き」参照 
→ 「資料、切字のない芭蕉句」参照 

<発句の切れ>
 ・ 発句は、詞を言い残すところに、心があまって余情を含む。これを指して、切れと言う。
 ・ また、「てには」を働かせ、余情に包んで、十七字にまとめる。これを切ると言う。
 ・ 発句が切れていれば、「切字」は必要ない。切れに用いた字、四十八字は皆切字と言える。
 ・ 一句に「切字」があっても、切れていなければ、発句ではない。

切字の伝
直旨伝

切字の事
 師曰、切字なしの発句の事、伝受せぬ人、推量に色々申侍るといへども、一つもあたることなし。
 初心の中に、切字なしにてよき発句あるものなり。
 されども、功者の人に、「切字はいづれにある」と、咎められたる時、云開くべき事をしらざれば、よき発句とても捨るなり。
 此ゆゑによき師を撰て、はやく此大事を伝授すべきなり。
 伝授の事は、あまりに心安きゆゑ、重くするものなり。唯、道を重んずるのことはりなり。
 又曰、詞を云残す所に、心あまりて、余情を含む。爰をさして、切といふ
 又曰、自他の分る所、言葉の休む所、是句の切なり。
去来抄

故実
先師曰、「汝、切字を知ルや」。
去来曰、「いまだ伝授なし、自分覚悟し侍る」。
先師曰、「いかに」。
去来曰、「たとへば、発句は一本木のごとしといへども、梢・根あり。付句は枝のごとし。大いなりといへども全からず。梢・根有る句は、切字の有無によらず、発句の体なり」。
先師曰、「然り。しかれども、それは面影を知りたるなり。是を伝授すべし。切字のことは連・俳ともに深く秘す。みだりに人に語るべからず」。
 総じて先師に承る事多しといへども、秘すべしと有しは、是のみなれば、其事は暫く遠慮し侍る。
 ・ 第一は、切字を入る句は、句を切るため也。きれたる句は、字を以て切るに及ばず。いまだ句の切れる切れざるを知らざる作者のため、先達、切字の数を定られたり。
 此字を入るときは、十に七八は句切る也。残り二三は、入れて切れざる句あり。又入れずして切れる句あり。此故に、或は、「このやは口合ひのや」、「このしは過去のしにて切れず」。或は「是は三段切」、「是は何切れ」などと、名目して伝授事なり。
 ・ 又、丈草に向て先師曰、「歌は三十一字にて切れ、発句は十七字にて切る」。丈草拶入有り。
 ・ 又、ある人曰、「先師曰、『きれ字に用る時は、四十八字皆切れ字也。用いざる時は、一字もきれ字なし』と也」。
 是等は、皆々ここを知れと、障子ひとへを教へ給ふなり。
去来曰、「此事を記す、同門にもみだりなりと思ふ人あらん。愚意は格別也。この事、あながち、先師の秘し給ふべき事にもあらず。ただ先師の伝授の時、かく有りし故なるべし。予も秘せよとありけるは書せず。ただ、このあたりを記して、人も推せよと思ひ侍るなり」。
俳諧詞寄

発句切字
 発句には、切字といふものあるは、うい学びの者も知れり。然れども、初学の者、あながちになづひべからず。
 何となれば、吾邦は言葉の国なれば、われわれ常に用ゆる言葉にも「てにをは」あり、「切字」あるは自然の道理なればなり。さりながら、またこれを学ばずんば、あるべからず。
 祖翁の「唐崎の松は花より朧にて」といへるを、「切字なし」とて、衆人の恠(あやし)みければ、晋子、理を示して、旨を翁に問ひしに、平然として、「去る六ヶ敷理窟にもあらず」といへるを見よ。
 されば、心なきものの切にまねびて、「『切字』なくともよし」と思ふは、誤りなり。
 ある人の「時鳥鳴たと下女が告げて来て」「あの僧も時雨て来たか知らねども」なぞいへる発句にはあらで、話なり。
 法に入りて、法を脱するの古ごとを思はざるの誤なり。近頃諸の俳書の中にて、切字のこと書けるを見るに、「や」の字にさまざまの類を分ち、「らん・なん・なり・せり・かな・てん・てめ・こそ」等の字をならべあるを、「題切れ」「心の切れ」などいひて、ことごとしく説き明かせり。一応理あるに似たれど、これこれと限るは世人を惑はすものなり。
 彼の、「いろは四十七文字みな切字なり※1」といへるを思ふべし。
 古来、兎角に規矩を用ゐんとして、遂に模糊たる「幽玄の切れ」などいふの止を得ざるに落つるに至るべし。
 要するに、切字は発句のまさしき一の姿を作る道具にして、発句とは、雑駁なる自然の一部を明かにいひ纏めたる五七五言の一体なり。
 若しいひ出して、遺憾なく自然の一部をまとめ得ば、切字も用なきものなり。

 ・めり・たり・けり・さぞ・たそ・たれこそなにかはいくいさ・いざ・かも・そも・けれ・らし・らめ・らん・みん・せん・けん・いづれいかに・いかが・いづこさぞなかしな・ならし・けらし・もなし・あり・なり※2

※1 去来抄には「四十八字」とある。

※2 切字の太字部は、季吟の示すものに同じ。季吟は外に、「いつ・けりな・し(じ)・つ・など・ぬ・む(ん)・もがな・やは」を挙げる。計28。
 下線部は、宗祇の示すものに同じ。宗祇は外に、「し(じ)・つ・ぬ・もがな・け・ず・せ・へ・れ」を挙げる。計18。

貞享式海印録
切字の道理
[本書(二十五箇条)]
 発句の切字といふは差別の心なり。(中略)
 たとへ切字ある発句とても、心の切れぬ時は発句にあらず
   桐の木に鶉なくなる塀の内※2
 此の句、上五文字にて心を隔てたるなり。
 伝に云ふ。
 「万物は一に始まりて、相対する時は二となる。その一は虚に起こり、その二は実と成りて姿を備ふるなり」
[古今抄]
 切字の用といふは、物に対して差別の義なり
「それはこれぞ」と埒を明けて、物を二つにする故に、始めあり終りありて、二句一章の発句とはなれり。
▲ 切字とは古来俗習の名なり。
 蕉門に切字と云ふは、ものを裁ちきる事ならず。一句の中、詞滞ほりて種々の余情を含むところをいへり
 この故に、強ひて定めたる文字なし。
 おほよそ俗言もていはゞ、三十字もあらむ事を、辞(てには)に持たせ、余情に包みて、十七言に約め(つづめ)たる物を発句といひ、ただ句面に顕はれたるのみにて、余情も曲節もなく、十七字に事尽きたるものを平句といへり。
 これを「たとへ切字ある発句とても、心の切れぬ時は発句にあらず」と云へり。
 さて、切字の事に就きて、直弟子の諸書多かれども、その頃は御国の学衰へし時なれば、紛らはしき事もあめるを、鈴屋翁(すずやのおじ、本居宣長)の打ち開かれてより、今は初の山踏(うひやまぶみ、国学入門書)のわらはべも、独り千代の古道に分入るべき時代と成りければ、その栞(しおり)を伝へかし。
 世には「俗談平話の俳諧に、和歌の辞(てには)、仮名遣ひは無用の物好」といふ人もあるよし。歎かはしき事なり。
 俳諧のをかしみ寂しみといふも、皆詞のあやのみなれば、須臾もはなるべき道ならず。そもそも神の御国に生れて、言霊の幸はふ理ことわりに暗きは、いと悔しき事と思ひ起して、せちに心がくべき事になむ。
引続錦紙

発句切字
此段(二十五箇条、上の海印録と同じ)は切字入たるに、句とても切ぬ時は発句ならずと云義なり。
  桐の木に鶉鳴なる塀の内
此句、塀の内と中にのの字を入、一句の首尾云切なり。
塀の内かなとは云れず。此のの字なくては叶はず。
或は、宵の雨・雲の月・松の花・花の春などと如此。二字の中を結ぶ故、むすびののと云切也。
他流の人是に疎くしらざるなり。此五文字にて心を隔たる也
切字の事は歌にも詮議有。
先は発句の骨髄と云いふべしと有。此句下の五文字にて心隔たりて切るなり。能々覚へべく秘事なり。