俳諧の歴史  -作成中-

索引

俳諧の歴史
上 - 唱和から連歌へ-下 - 俳諧の発展 -
上代古事記江戸

前期
貞徳(貞門)
伊邪那岐命
伊邪那美命
神武天皇倭建命新増犬筑波集貞徳翁追善百韻
芭蕉参加、季吟脇
万葉集宗因(談林)
平安伊勢物語古今六帖源順集今鏡談林十百韻宗因歓迎百韻
芭蕉参加、宗因発句
鎌倉概要談林の信徳歓迎百韻、芭蕉発句
中 - 連歌から俳諧へ -次韻、蕉風発祥虚栗、蕉風の理想
室町二條良基江戸

中期
蕉風開眼、野晒紀行・桜下文集・冬の日
菟玖波集筑波問答野晒紀行笈の小文奥の細道その他
宗祇冬の日ひさご猿蓑炭俵
吾妻問答新撰菟玖波集水無瀬三吟蕉門の継承
細川高国、歌仙之連歌(歌仙形式の誕生)江戸近江尾張伊賀
宗鑑、犬筑波集
守武、誹諧之連歌独吟千句

俳諧の歴史

 俳諧、五七五と七七の連続した形式の歴史を探る。

 記紀で五と七の詞が、既に二人の唱和であったことから、奈良、平安、鎌倉と連歌が成立する過程と、俳諧の派生と進化について、整理しました。


俳諧の歴史(上)

 「俳諧」の歴史は、記紀万葉の唱和から連歌へと、連歌から俳諧へとの二つに分けることができます。

まず、(上)では、上代から鎌倉時代まで、連歌の成立について、資料をもとに見ていきます。

上代

古事記

伊邪那岐命
伊邪那美命

かく契りて、すなはち詔り給ひしく、
「汝は右より巡り逢へ。我は左より巡り逢はむ」
と詔りたまひて、契り終へて巡り給ふ時に、伊耶那美の命先づ
① 「あなにやし、えをとこを」
と詔り給ひ、後に伊耶那岐の命
② 「あなにやし、えをとめを」
と詔り給ひき。

 いざなみの命といざなぎの命の、五・五の唱和。これが「俳諧」の源であり、この唱和を

  アナニヱヤニヱヤウマシヲトコニアヒヌ
  アナニヱヤニヱヤウマシヲトメニアヒヌ

として、この音数を歌仙が36句であることのもととする説がある。

 ※ 「筑波問答」(二條良基)には、「あなうれしゑやうましをとめにあひぬ/あなうれしゑやうましをとこにあひぬ」と、ある。これは、34音。良基は、この二神の唱和を、「連歌の起源」としている。

 ※ 「日本書紀」は、「あなうれしやうましをとこにあひぬ/あなうれしやうましをとめにあひぬ」。

神武天皇
大久米命
伊須気余理姫

③ 倭の たかさし野を 七ゆく 乙女ども 誰をしまかむ 大久米命 ※なな行く
   <訳>大和の高佐士野を七人行く乙女たちよ、誰を妻としようか。

④ かつがつも いや先だてる 媛(え)をしまかむ    神武天皇
   <訳>ともかく先に立つ、年上の姫を妻としよう。


⑤ あめつつ ちとりましとと などさける利目      伊須気余理姫
   <訳>あめ・つつ・ちとり・ましとの鳥のように、なぜ裂けた鋭い目なのでしょう。

⑥ 乙女に 直(ただ)に逢はむと 我が裂ける利目    大久米命
   <訳>姫にひらすら会いたいと、私は鋭い目をしているのです。

 ③④は、混本歌(五・七・五・七の四句形式か。実体は不明)の類に、片歌(五・七・七の三句形)で唱和。

 ⑤⑥は、片歌に片歌で唱和したもので、2首合わせて、旋頭歌となる。

この唱和は、次の「筑波の唱和」より、ずっと古い。

※ 「和歌連歌俳諧の研究」(福井久蔵、山一書房、昭和18)による。

倭建命
御火焼老人

即ち其の国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮(さかおりのみや)に坐しし時、歌曰(うた)ひたまひしく、
⑦ 新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
   <訳>開墾した筑波をすぎて、幾夜寝たのか。
とうたひたまひき。爾に其の御火焼(みひたち)の老人(おきな)、御歌に続(つ)ぎて歌曰ひしく、
⑧ 日々並(かがな)べて 夜には九夜 日には十日を
   <訳>日数を重ねて夜では九夜、昼では十日になります。
とうたひき。是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の国造を給ひき。

 ⑦⑧も、片歌に片歌で唱和したもの。

 日本書紀の歌も同様である。「釈日本紀(鎌倉後期)」で、卜部兼方は、この唱和を連歌の濫觴としている。連歌のことを「筑波の道」というのは、これによる。

万葉集

(巻八)
家持と尼

[題詞] 尼作頭句并大伴宿祢家持所誂尼續末句等和歌一首

⑨ 佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を  尼作
⑩  刈れる初飯はひとりなるべし    家持続 
※はついい

 娘を稲にたとえる秋の相聞。

 ⑨の五七五に、⑩が七七を継いでいる。

 これが、上の句と下の句からなる連歌最古のもので、合作の連歌であることは、題詞からも明らかである。

 この一対は、短歌形式の和歌となり、平安期に盛んに行われ、連歌として独立し、後に長連歌に対し単連歌と呼ばれるようになる。

平安

伊勢物語

第六十九段
男・女

昔、男ありけり。

<略>

 夜やうやう明けなむとするほどに、女方よりいだすさかづきの皿に、歌を書きていだしたり。とりて見れば、
 ① かち人の渡れど濡れぬ江にしあれば
と書きて、末はなし、
 そのさかづきの皿に、続松の炭して歌の末を書きつぐ。
 ②  またあふさかの関は越えなむ
とて、明くれば、尾張の国へ越えにけり。

 上の句だけの①の歌に、男が②を書き足すという設定である。

 この逆に、上の句を付ける例が、同じく平安中期の「古今六帖」に出る。

※ 以下、「和歌連歌俳諧の研究」の主な例を引く。

古今六帖

紀友則

③ 瀧つ瀬にうき草の根はとめつとも
   人の心をいかが頼まむ        紀友則

この歌の下の句を題とし、上の句を付けている。


④ 朝顔のきのふの花は枯れずとも (人の心をいかが頼まむ) 紀友則
⑤ 毛の末にはねつる馬は繋ぐとも (人の心をいかが頼まむ) 在原滋春
⑥ 陽炎のかげをば行きてとりつとも(人の心をいかが頼まむ) 紀貫之
⑦ ます鏡ぬしなき影はうつるとも (人の心をいかが頼まむ) 凡河内躬恒

 これは、合作を競うという形であり、それぞれの歌につながりはない。

 しかし、さらに展開して連作をするものが現れる。

源順集

「五七」に
「五七七」

「和漢朗詠集」の沙弥満誓の歌、

 世の中を 何に譬へむ あさぼらけ 漕ぎゆく舟の 跡のしらなみ

この上五七「世の中を 何に喩へむ」を題の如くして


⑧(世の中を 何に喩へむ) あかねさす 朝日まつまの 萩の上の露  源順
⑨(世の中を 何に喩へむ) 夕露も またで消えぬる 朝貌の花    源順

 これは、合作の展開して連歌の性質を具したものと見るべく、潜念した作品であることはいふまでもない。

 「拾遺集」には合作のものが多く取られ、「金葉集」に至っては連歌の部門が設けられるに至つた。而してその附句はやうやく独立した形をとるものが多くなつて来た。

 金葉集の撰者俊頼の家集「散木奇歌集」や、またその歌学書たる「山木髄脳」に、連歌を多く挙げてあるなど、俊頼の斯壇に力を用ゐた業跡は相当に大きなものである。

(「和歌連歌俳諧の研究」)

今鏡

花園左大臣家
鎖連歌

    奈良の都を思ひこそやれ     実重
   八重桜秋のもみぢやいかならん   有仁
    しぐるゝたびに色やかさなる   越後乳母

 以上三句、鎖連歌の断片が、挙げられてある。

 これは長連歌の現存せる最古のもので、院政時代の初には短連歌から長連歌に展開を見るに至つたのである。
 前の句を題又はその延長とし、次の句で完成し、それから次の句を題又はその延長とし、第三句でその意を完了するといふ如く、連鎖的に続けることが起つて来た。
 これは非常な変化で、合作の和歌とは趣を異にする。

 蓋しその発生を詩の聯句にもつてゆく人も少くないが、自分は民族性や国語の性質に関するものと思ふ。多数集って楽しみつゝ互に創作をなす習慣や、言葉の尻取や秀句地口を喜ぶ国民性は自ら駆つてこの如き特殊の文学を発生するに至つたと考へられる。

(「和歌連歌俳諧の研究」)

「しりとりの連ね歌」及び「冠字連歌」についてを略す。

鎌倉

 鎖連歌及び冠字連歌は、新古今時代に至り、種々の格法を立てられ、従来の如き和歌の附庸的地位を離れて、厳然たる文学として独立するに至つた。
 その格法は、歌学には後れて、順徳院の「八雲御抄」に、始めて載せられてある。

 その後、建治に式目が制定されたといひ、応長以前に本式目が成立したといひ、鎌倉末期から吉野時代にかけて、次第に細かくなり、応安前後に至り完備するやうになつた。
 連歌が和歌から派生し、連歌師は、兼ねて歌を学んでゐたので、連歌法にも歌学と一脈相通ずるものが少くない。

 連歌師またその保護者も、最初は、和歌と同じレヴェルに連歌を引きあげるといふことに専念してゐた。
 用語の洗煉、幽玄の表現、六義の句、十体の区分、本歌取のこと、撰集の体裁、曰く何、曰く何と対照すれば、類似の多きに驚くばかりで、和歌に百首五十首五百首等があれば、連歌に歌仙、五十韻、百句、千句がある。

 五條三位が、天台の「一心三観」を歌の極意にいへば、心敬僧都は「さゞめごと」に「歌連歌も仏の法報応の三身、空仮中の三諦の等分侍るべくや」といふ。

然し、独立した連歌は、和歌と同じ分野のものでない。

(「和歌連歌俳諧の研究」)

 和歌の上五七五と下七七による「連歌」の源は、万葉の「さほ川」の歌であった。<8世紀>

 順徳院の「八雲御抄(みしょう)」も、これを「連歌の根源なり」としている。
 また、五七の調べについて見れば、日本武尊の、日本武尊(倭建命)の「にひはりつくば」の詠は、片歌の連歌であり、連歌の起源と言える。<4世紀>

 さらに、神武天皇の詠に片歌の連歌が見られ<1世紀>、伊弉諾伊弉冉二神の詞<紀元前>まで遡ることができた。

 

 鎌倉時代、後鳥羽上皇のころ、和歌のように典雅な連歌(有心連歌)を詠む人々を「柿本衆」、滑稽で座興的な連歌(無心連歌)を詠む人々を「栗本衆(くりのもとのしゅう)と呼んだ。


俳諧の歴史(中)

 南北朝時代の歌人、二條良基は、日本武尊の「にひはりつくば」の詠を、連歌の起源として、「菟玖波」の文字を用い、「菟玖波集、、正平11/延文元(1356)成立」を編纂した。

 これをならって、宗祇も「新撰菟玖波集、明応4(1495)成立」、宗鑑も「犬筑波集、大永4年(1524)以後成立」を編んでいる。

 このころから、和歌を「敷島の道」、連歌を「筑波の道」と呼び分けている。

室町

菟玖波集

【菟玖波集】最初の連歌撰集。20巻。二条良基・救済(きゆうせい)撰。正平11/延文元(1356)年頃完成、翌年勅撰に準ぜられる。それまで和歌に比して低くみられていた連歌の文学的地位を高めた。総句数2190句。書名は、連歌を「つくばの道」ともいうことから。<大辞林>

二條良基
救済

  仮字序
やまと言のはは、天地ひらけしよりおこりて、ちはや振神代に伝はれりといへ共、人のしはざと成てそ、句をとゝのへ、文字の数定れりける、風賦比興雅頌の六くさをわかち、長短旋頭混本のさまざまのすがたを定しより、ことばの花、色をあらそひ、思ひの露・光をそへずといふ事なし。しかるに連歌は、つゝましやかに旨ひろくして、文の心にわたり、歌のさまにかなへり。日本武尊は、夷の乱れをやはらげて、つくばねのことしげきわざをあらはし、中納言家持は、佐保川の水に浅からぬ心をのべ、業平朝臣はあふ坂の関に情をとゞめ、天暦の御門は滋野内侍にみことのりをのこし、北野天神はあまの御戸ふり行ことを告給ひき。
<略>
于時文和五年三月廿五日しるしをはりぬる。
とをきをたつとみ、ちかきをいやしくするならひ、古を忍ひ、今をはつといへ共、菟玖波の道を尋ね、さほ川のみなもとを知て、流をうけよといふことしかなり。

 

菟玖波集巻第一
    春連歌上
   宝治元年八月十五夜百韻連歌に
  山かけしるき雪の村消  と侍に
 新玉の年の越ける道なれや    後嵯峨院御製
  絶えぬ烟と立のぼる哉
 春はまた浅間の岳の薄霞     前大納言為家

<中略>

菟玖波集巻第十九
  雑体連歌
   俳諧
 大内朱雀の門も有物を
  引におどろくけふの青馬    導誉法師
   二品法親王北野社千句に
 鳥の二つそ羽をかさねたる
  鴬のあはせの声はこまかなれ  関白前左大臣
   梅の花を折てつかはすとて
 流俗の色どはみゑす梅の花    後小野宮右大臣
  珍重すへき物とこそしれ    源俊方朝臣
  寒返りても春そかすめる
 鴬のなかひすたちを鳴あはせ   導誉法師
  近付かたき恋をする哉
 奥山に巣かくる鷹のをとしかひ  読人不知
  只一時のたのしみもゆめ
 いかにして百年蝶と成ぬらん   前大納言為氏
 物毎に心とかなふ時なれや
  月に雲なし花に風なし     周阿法師

※ 早稲田大学図書館本(阿州太子聖光明院本)による。

 二條良基は連歌の第一人者。南北朝時代の撰で、鎌倉時代の古いものも収められる。また、勅撰和歌集の部立てに倣う。

 巻十九は、俳諧連歌の部、優美・幽玄を主とする純正連歌の中に、おかしみを主とする俳諧連歌、日本武尊から当代の名匠までの約130首を加えてある。

筑波問答

【筑波問答】連歌学書。一冊。二条良基著。1357~72年の成立。連歌に関する名称・起源・発達・式目・作法などを問答体で概説したもの。連歌文学の正統性を強調している。<大辞林>

二條良基

問云。連歌はいづれの代よりはじまるにや。つたはれるさまもこまかにうけたまはるべし。
答曰。古今仮名序に、貫之のかける「あまのうきはしのえびす歌」といふは、則連歌也。
先男神の発句に
  あなうれしゑやうましをとめにあひぬ

とあるに、女神のつけてのたまはく、
  あなうれしゑやうましをとこにあひぬ
と付給也。歌を二人していふを連歌とは申すなり。二はしらの神の発句、脇句にあらずや。この句三十一字にもあらず。みじかく侍るは、うたがひなき連歌と翁心得て侍るなり。古の明匠達にも尋ね申し侍りしかば、まことにいはれありとぞ仰せられし。

又連歌とていひおきたるは、さきに申し侍りつるやうに、日本紀に、景行天皇の御代、日本武の尊のあづまのえびすしづめに向ひ給ひて、此の翁が此の頃すみ侍りしつくばを過ぎて、甲斐国酒折宮にとゞまり給ひし時、日本武尊御句に、
  珥比麼利菟玖波瑦須擬底異玖用加祢菟流
すべて付け申す人のなかりしに、火をともすいはれなきわらはの付けて云ふ。
  伽餓奈倍底用珥波虚々能用比珥波菟瑦伽瑦
と申し侍りければ、尊ほめ給ひけるとなむ。其の後万葉集に入りたる家持卿の、
  さほ川の水せき入れてうゑし田を
といふに、尼、
   かるわさ稲はひとりなるべし
と付け侍る。

かやうの事共、次第におほうなり、拾遺、金葉などよりは、勅撰に入り侍るなり。されどたゞ一句づゝ言ひすてたるばかりにて、五十句百句などにおよぶ事はなかりき。しかあるに後鳥羽院建保の頃より、しろくろ、又色々のふし物のひとり連歌を、定家、家隆卿などにめされ侍りしより、百韻などにも侍るにや。又さまざまの懸物などいたされて、おびたゞしき御会ども侍りき。よき連歌をば、柿本のしゆと名付けられ、わろきをば栗のもとの衆とて、別座につきてぞし侍りし。有心無心とて、うるはしき連歌と狂句とをまぜまぜにせられし事もつねに侍り。土御門院……

 南北朝時代、応安5 (1372) 年、二条良基作の連歌学書である。筑波酒折出身の老翁が、主の問いに答えるという物語の体裁。

 日本書紀の伊弉諾伊弉冉二神の例、及び日本武尊と老人(「おきな」で、「わらは」は誤り)の例、並びに万葉集家持と尼(両者取り違え)の例を挙げる。

 また、勅撰連歌集や長連歌の始まりから、連歌の流れを語る。

 次に、次代の「吾妻問答」で、正風体連歌の確立までを見る。

吾妻問答

【吾妻問答】連歌論書。一巻。宗祇著。1470年頃成立。問答体によって、連歌の歴史・代表作家・会席作法など連歌の基本的問題を述べたもの。別名角田川(すみだがわ)。宗祇問答。<大辞林>

宗祇

問曰。連歌の道、中古当世とて人申し侍るば、いつの頃を中古とし何の代を上古とするや。此の外に、かずかず不審の事侍るを尋ね申すべし。月待ち出づる程のこと種に宣ふべくなむ。
答曰。連歌の事、おほかたは歌を二に分けて上句下句と申すばかりにて、昔ば必連歌とも申さず哉侍りけむ。只上句をいひかくれば、下句をつけ、下句を申せば、上句を付けるなるべし。
業平、斎宮にあひ奉りし朝、
  かち人のわたれどぬれぬえにしあれば
といひ出させ給ひけるに、
   又あふさかの関はこえなむ
とつい松(松明)のすみにて盃に書きけるとなむ。是を筑波集に入れ侍り。拾遺集にも連歌とて入れ侍りぬれば、上古とはさやうの時をこそ申し侍るべけれ。
此の道の再興は、故二條摂政殿(良基)このみすかせ給ひて、好士をえらび給ひしに、そのころの達者、善阿(ぜんな)、順覚(じゅんかく)、救済(ぐさい・きゅうせい)、信照(しんしょう)、周阿(しゅうあ)、良阿(りょうあ)など侍るや。
当時も、千句などといふ事侍れども、式目をさだめ法度を正しくせられて、末代に其の旨を守るは、彼の御時よりの事なれば、此の折節をさして上古とは申すべき哉。句の様も長高有心にして、歌に其の心ひとしく、殊勝の事おほく侍り。然はあれど、うたの継句などのやうにいひかけて、一句にその理なきも侍りけるにや。
侍公(じこう、救済の通称)うせて後、周阿一人の風を残しで、天下に是をたよりとして学びけるに、救済に心及ばずやありけむ。一句を嗜む心ばかりにて、前に大様なる句侍るなるべし。
されども、周阿が句には、猶以前句にもよく付け侍りけめども、有心の様などおくれけるを、共の後の好士、周阿にも亦及び難ければ、次第に心劣り来て、世上皆侍公の心に、少しも似たる事なし。
梵灯庵主(ぼんとう-)といひし人、周阿已後の上手にて、門弟おほく侍りけるにや。かやうの頃を中古とは申し侍りけるなり。
当世と申し侍るは、宗砌法師(そうぜい-)、此の道の明鏡にて、上古中古をよくみあきらめて、救済、周阿が風骨をうつして中古の風情を捨てけるにや。宗砌も、我が身は梵灯の門弟たりしかども、招月庵(しょうげつ-)と申しける名匠にちかづき奉りて、源氏の物がたりをならひ、歌の道のふかき旨を学びて、おのづから至り深く侍るによりて、連歌をよく用捨して、古風の有心幽玄の姿をしたひて、然も一句たゞしからぬ事などを除きて、直旨を守り侍りしなり。
是を中古の人たまたま残りて侍るが、心をば尋ねずして、只いかで、中古の梵灯、満廣、信永、持政、重阿、相阿などいふ人には、まさるべきと申し侍るは、以の外浅智のいたす所なるべし。只此の道は、上中当の三つの時をよく分別して心中に私なからむ事、神慮佛意にも叶ふべきにや。

 上は、冒頭。連歌の歴史を三つに区分して説明。

 業平の歌に始まり、良基・周阿を経て、宗砌が、「前代の風骨を写し、詞を弄する中古の風情を捨て、招月庵に学んで直旨を守った」とある。これは、宗砌が正風連歌を確立させる過程である。

 宗祇は、この宗砌を手本として、正風連歌を完成させていく。

新撰菟玖波集

【新撰菟玖波集】連歌撰集。20巻。大内政弘の発意により、一条冬良・宗祇が撰進。1495年成立。準勅撰集。「菟玖波集」のあとを受けて、永享(1429~1441)以後明応(1492~1501)までの約60年間の作品2053句(発句251句・付句1802句)を収める。作者255人。典雅で幽玄な傾向が強い。<大辞林>

宗祇

  ┌ 人の身や生るゝたびにうからまし
  └  花にて知りぬ世々の春かぜ
  ┌  なげきし夢のさむるはかなさ
  └ 花に人風も吹きあへずちりはてゝ
  ┌  ゆふ露すゞし道のべの里
  └ あふち吹くそともの葉山蝉鳴きて
  ┌  けしきばかりの夕立の空
  └ しみづせく岩根の月はなづさへて
  ┌  いつしかさびし奈良の古里
  └ 柳散る佐保の川風けさふきて
  ┌  おのづからなる理りを見よ
  └ やどすともみづは思はぬ月すみて
  ┌  雲無き月の暁の空
  └ さよまくら時雨も風も夢さめて
  ┌  こなたかなたの松風の声
  └ かたはらの一むら薄枯るゝ野に

 上は付合の例。五七五に七七、七七に五七五を付け、できた五七五七七の歌が調っている。かくして、できた歌が文学的な価値を持ち、人口に膾炙したとは言えないが、不完全なものとも言えない。そういう視点からは、まじめに結んだ連歌と言え、次の水無瀬三吟百韻に、神髄とも言える完成形を見る。

ただし、菟玖波集に収められた面白おかしい俳諧連歌は、除去されている。俳諧を芸術とする芭蕉が、宗祇を古人と慕う理由は、この辺りにあるか。

水無瀬三吟百韻

【水無瀬三吟】連歌。一巻。宗祇・肖柏・宗長作。1488年成立。後鳥羽上皇の離宮のあった水無瀬殿において、上皇の法楽のため詠んだ三吟百韻。古来百韻連歌の亀鑑とされている。水無瀬三吟百韻。<大辞林>

宗祇
竹柏
宗長

    何人 (長享二年正月)
  ┌ 雪ながらやまもとかすむ夕かな   宗祇
  └  行水遠く梅にほふさと      竹柏
  ┌ 河かぜに一むらやなぎ春見えて   宗長
  └  舟さす音もしきるあけがた    宗祇
  ┌ 月やなほきり渡る夜に残るらん   竹柏
  └  しもおく野はら秋はくれけり   宗長
  ┌ 鳴く虫のこゝろともなく草かれて  宗祇
  └  かきねをとへばあらはなるみち  竹柏

 上は、その表八句。

 発句と脇の照応が実に心地よい。蕉風に比べると、長句のて止めらん止めがうるさいが、百韻の表としては、勢いがある。どこを取ってもよいのだが、

  月やなほきり渡る夜に残るらん 舟さす音もしきるあけがた
  月やなほきり渡る夜に残るらん しもおく野はら秋はくれけり

 和歌としての味わいがある。これは、海から陸への転じも見事である。

 次は、歌仙発祥について。

歌仙之連歌、細川高国

【細川高国】(1484~1531) 室町後期の武将。管領細川政元の養子。家督争いで細川澄元と対立してこれを追い、将軍に足利義稙(よしたね)を迎えて実権を握った。のち足利義澄の子義晴を将軍とし、管領となったが、三好氏に追われて自刃。<大辞林>

柿本  山かきのもとつ葉そめよ秋の雨  常桓
忠岑   置しら露はたゞ峯にのみ
順   横雲もしたかふ月に明はてゝ
友則   末しらねとものりてさす舟
遍照  世をそへんせうつりのほる鵜飼人
貫之   くらき川つらゆきてこそみめ
興風  陰とをき風の青柳打けふり
敏行   ふるとしゆきもかつ消えてけり
躬恒  谷深みつねにも春のはやく来て
忠見   霞めどもたゞみちは迷はず
頼基  人よりもとき知ものは雁なれや
清忠   有明のつきよたゞにこそ見れ
兼盛  忍びかねもりぬる露の床の上
猿丸   こはおもはさる丸ねをぞする
兼輔  今朝のかねすけなく残る声もうし
是則   かゝけしやこれ法のともし火
赤人  古寺のあかひとりすむ山の井に
公忠   民やはつきんたゝんまもなし

宗干  富士はむねゆきを心の風吹て
信明   こぬよをかさねあきらけき月
素性  ゆく八十瀬いく秋ならし天川
仲文   露の中ふむ足はたとらず
高光  山高みつえにかゝりてのぼりけり
小大君  たのまゝく斯大君のかけ
中務  片田舎つかさの望かなふ世に
業平   花さきぬなりひらく朝顔
能宣  よしのふく風に目覚す春の夢
元真   妹とさねしもうらゝなるころ
家持  我やかもちきりをあだに結びけん
元輔   岩もとすけのみだれては何
重之  旅衣草はおりしけゆき暮ぬ
斎宮   手向しもいさいくうらの道
伊勢  伊勢の海波をはるかに舟出して
敦忠   をはりのあつたたづねてもみよ
小町  のれる駒千々にいさむや春の風
朝忠   野べは霜朝たゞのどかなり

  高国(たかくに)は、戦国大名、室町幕府管領であった。大永4(1524)年、剃髪し道永(どうえい)と号する。発句の名、常桓(じょうかん)は、享禄3(1530)年付けた戒名、翌年戦に敗れ自刃するので、この頃の作となる。

 各句に歌仙の名を織り込んでいるが、これが三十六歌仙を賦物(ふしもの)にした連歌の始まりである。後に歌仙の名を入れぬ36句2折のものも「歌仙」と呼ぶようになる。

 なお、このころ、賦物として、長句に源氏物語の巻名、短句に六十余州の国名を詠み込むものが現れ、源氏国名連歌と称される。形式としては、「源氏」と呼ばれ、巻に因む54句か60句の連歌である。

 また、百韻の4折の中2折を省いた44句の形式が登場する。これは、「四十四(よよし)」「世吉(よよし)」と称する。

犬筑波集

【犬筑波集】俳諧撰集。山崎宗鑑編。享禄(1528~1532)末から天文(1532~1555)初年頃に成るか。俳諧が文芸として独立する機運を示した句集。奔放な作風は次に来る貞門派よりも、むしろ談林俳諧に受け継がれた。誹諧連歌。誹諧連歌抄。新撰犬筑波集。犬筑波。<大辞林>

山崎宗鑑

<巻頭>

  霞の衣裾は濡れにけり
 佐保姫の春立ちながら尿をして 
※しと


  きりたくもありきりたくもなし
 盗人を捕へて見れば我が子なり
 さやかなる月を隠せる花の枝


・ 月に柄をさしたらばよきうちは哉
・ にがにがしいつまで嵐ふきの薹
・ うづききてねぶとに鳴くや郭公 
※ほととぎす

 宗祇が新撰菟玖波集で捨てた俳諧連歌を、拾い集めたのが犬筑波集である。

 内容は上のような、猥雑卑属なものだが、和歌や正風連歌と異なる通俗な世界に目を向け、文芸を庶民に近付かせた功績は大きい。

誹諧之連歌独吟千句

【守武千句】 俳諧句集。一冊。荒木田守武作。1540年成立。1652年刊。伊勢内宮神官の守武が伊勢神宮に奉納した独吟千句。俳諧形式の確立、地位向上に大きな役割を果たす。誹諧之連歌独吟千句。飛梅千句。<大辞林>

荒木田守武

 飛梅や軽々しくも神の春
  われもわれもの烏うぐひす
 長閑なる風ふくろうに山みえて
  めもとすさまし月残るかげ
 朝顔の花のしげくやしほるらむ
  これてうほうの松の露けさ
 村雨の跡につなげる馬の角
  かたつぶりかと夕ぐれの空

 いわゆる「守武千句」、約4年間の推敲を経たもの。詠み捨ての座興であった俳諧に、正式の形を与え、「俳諧の連歌」という分野の確立に貢献している。


俳諧の歴史(下)

江戸前期

貞門

【貞門】俳諧の一派。松永貞徳を祖とし、寛永(1624~1644)初期から約半世紀にわたって盛行。安原貞室・山本西武・北村季吟などを代表とし知識層を中心に普及。発句は言語遊戯を、付合は詞付を主とする。古風。貞徳風。<大辞林>

【松永貞徳】(1571~1653) 江戸初期の俳人・歌人・歌学者。京都の人。幼名、勝熊。号、逍遊軒・松友・長頭丸(ちようずまる)・花咲の翁など。九条稙通・細川幽斎らから和歌・歌学、里村紹巴(じようは)から連歌を学ぶ。豊かな学殖で古典を講義、私塾を開き、また庶民の間に俳諧を広めた。門下から北村季吟・加藤盤斎・伊藤仁斎らを輩出。江戸初期の代表的な狂歌師でもあった。編著「俳諧御傘(ごさん)」「新増犬筑波集」「天水抄」など。<大辞林>

新増犬筑波集

【新増犬筑波集】江戸前期の付句集、俳諧論書。松永貞徳著。寛永20(1643)年刊。上巻「油糟」、下巻「淀川」。

松永貞徳

   霞の衣裾は濡れけり
  佐保姫の春立ちながら尿をして ※しと
   おほぶくやのみ過す神達   
※おおぶくちゃの「ち」を欠く。大服茶。

佐保姫も神なればかくの如く付け侍る。
   あなうれしやな餅祝ふ頃
  梅が香の先づ鼻へ入る春立ちて
   目ロあかれぬ谷の朝東風

目と口とをば塞ぎたる故に鼻へ入るなり。
   しうとの為の若菜なりけり
  沢水につかりて洗ふ娶がはぎ  ※よめ
   しそめし脚布をよごす春の野 
※きゃふ、腰巻

よごしたる脚布を娶が洗ふなり。姑(又舅)に娶聟など今は付くべからず


   うへにかたかた下にかたかた
  二階にも宿かり有てうつ衣
  大錫を野山の月に分のみて
  霧まよりちよつといすかの嘴みえて
  紅葉ゝを踏じと人のあしりこき
  相撲取に王のやうな手もとして

 上段は、犬筑波集の付合に付句をしたもの。「新春、若水で立てた大服茶を飲み過ぎたと理由をつけている」など、知的遊戯の付けである。

 「今は付くべからず」というものに、貞徳は「無誹言」も挙げている。諧謔味が必要というのである。

 下段、一つの下の句に、種々の上の句を付けたもの。ならべてみると成る程と面白いが、これを一首としてみると、

  二階にも宿かり有てうつ衣 うへにかたかた下にかたかた

と、なり、歌としての味わいは皆無で、正風連歌とは全く違うものになっていることが分かる。

 この貞徳の「俳諧御傘」の序に、

「山崎の宗鑑、犬筑波を撰しより連歌を貴み俳諧をばいやしき道と思へり、宗鑑の心はさにあらず、そのかみ二條殿の筑波集、宗祇法師新筑波集をあかめ、わが身を卑下してつけたる名なり、筑波とは連歌の事なり、犬蓼、犬桜、犬神人のやうに、俳諧を犬連歌といふ義にはあらず、抑はじめは連歌と俳諧のわいため(弁別、区別)なし、其中よりやさしき詞のみをつゞけて連歌といふ、俗言を嫌はず作する句を俳諧といふなり

とある。ここで、「俳諧」の意味が大きく変わる。上品で風流な中に俗語を使い、面白くおかしいものをめざしたのである。

貞徳は、発句のみを多く紹介している。

  霞さへまだらに立やとらの年 以下貞徳 /まだら-とら
  梅も先にほひてくるや午の年      /匂い-荷負い
  鴬よかけて卵をうめの花        /産め-梅

 読む者は、洒落を探し、見付けては興じるわけである。門人たちも洒落・地口・穿ちの句を多く作っている。

 

 次に、門下の季吟がかかわった百韻。芭蕉22歳の年である。

貞門期の芭蕉
貞徳翁追善、「野は雪に」百韻 寛文5(1665)年11月
 

【北村季吟】1624~1705。近江生まれの俳人・歌人・和学者。貞徳に俳諧を学び、飛鳥井雅章に和歌を学ぶ。和漢の学に精通し、古典注釈書を多く著すが、俳諧は貞門の域を出ず、特色はない。門下の芭蕉、素堂、木因らを育てた功績は大きい。この年42歳

【藤堂蝉吟】藤堂良忠、伊賀上野城代付侍大将、藤堂新七郎良精の三男。芭蕉は少年時代に小姓として出仕。この半年後寛文6(1666)年4月、25歳で死去。芭蕉は良忠の遺骨を高野山におさめ、致仕出奔、俳諧に専念。

【窪田正好】政好(せいこう)、通称六兵衛。伊賀上野の富商。窪田猿雖は甥。窪田宗好の親戚。

【保川一笑】伊賀上野の紙屋で富商。上野天神に灯篭を寄進。貞享4(1687)年頃、大坂に移転。「笈の小文」の旅で芭蕉が訪問。

【松木一以】伊賀上野の富商。

藤堂蝉吟
北村季吟
窪田正好
保川一笑
松木一以
宗房(芭蕉)

 野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉  蝉吟公 ※紫苑-師恩
  鷹の餌ごひと音をばなき跡   季吟  ※↑雪→鷹
 飼狗のごとく手馴れし年を経て  正好  ※↑鷹→犬
  兀たはりこも捨ぬわらはべ   一笑  ※↑童→(はげた張り子の)犬
 けふあるともてはやしけり雛迄  一以  ※↑張子→雛(ひいな)
  月のくれまで汲むもゝの酒   宗房  ※↑雛(→節句)→桃
 長閑なる仙の遊にしくはあらじ  執筆  ※↑酒→仙
  景よき方にのぶる絵むしろ   公   ※↑敷く→むしろ

 この百韻は、「貞徳翁十三回忌追善俳諧」とある。蝉吟はこの年24歳、貞徳13回忌で、「師恩」を掛けているから、12歳まで貞徳に師事していたのであろう。蝉吟に仕えていた芭蕉は、この百韻に連座し、表の第6句を詠んでいる。他の句同様貞門風である。

 なお、「↑→」は、貞門の特色である詞付(物付)の流れを示している。

貞徳亡き後、季吟に師事した蝉吟は、季吟に脇のみ所望したのであろう。季吟の名は脇のみに見られるが、季吟はこの百韻を清書し、貞徳の菩提寺に納めている。


 これが記録に残る芭蕉最古の俳諧である。

 翌寛文6(1666)年4月、蝉吟が夭折。芭蕉は高野山に主君の遺髪を納め、晩秋城内の上屋敷に宿直した夜、

  雲とへだつ友かや雁の生き別れ

と書いた短冊を、邸内の城孫大夫(じょうまごだゆう)居所の門に掲げて出奔、遊学の旅に出る。<「芭蕉翁絵詞伝」蝶夢>

 武門を放抛し主家を脱走したる後、京都に行きて季吟の門に寄り、和学俳諧を受け、又伊藤坦庵に従ひて詩を学びぬ。世に称す彼れ脱走して難波に赴き西山宗因に師事したりと、蓋し当時宗因が談林風盛に行はれ、当時彼れが句も亦その風なりしよりの推測なるのみ。

 京都に居ること前後七年、其間東山の麓に住し、後又伊賀に帰省す、……。<「俳人芭蕉」山崎藤吉>

 寛文12(1672)年1月、伊賀鉤月軒で「貝おほひ」を成し、伊賀上野菅原神社に奉納 春江戸に下る。29歳。

 延宝3(1675)年5月、江戸に宗因来り、百韻に同席。

談林派

【談林派・檀林派】俳諧の一派。西山宗因を中心に、井原西鶴・岡西惟中らが集まり、延宝年間(1673~1681)に隆盛をみた。言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化をはかり、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色とする。蕉風(しようふう)の発生とともに衰退。宗因流。飛体(とびてい)。阿蘭陀(オランダ)流。<大辞林>

談林十百韻

西山宗因

 されば茲に談林の樹あり梅の花  宗因
  世俗眠を醒すうぐひす     雪柴
 朝霞煙草の煙横折れて      在色 ↑醒ます→朝の一服、煙
  駕篭舁き過ぐるあとの山風   一鉄 ↑横折れ→山の曲がり道
 眺むれば供鑓つゞく峰の松    正友 ↑山風←眺め・峰の松
  追手に近きかけはしの月    志計 ↑共槍→追手(おうて)門、追っ手→桟
 小男鹿や藁人形に恐るらん    一朝 ↑追っ手→鹿・藁人形の故事
  五色の紙に萩の下露      松臼 ↑鹿→萩

 宗因(1605~1682、この年71歳) 江戸前期の連歌師・俳人。肥後八代生。名豊一(とよかず)。通称次郎作。俳号一幽・西山翁・梅翁。加藤正方の側近、後浪人。京で里村昌琢に師事し、大坂天満宮連歌所宗匠となる。自由・斬新な俳風は談林風として俳壇を風靡、門下から西鶴・芭蕉などを輩出。

 談林とは、俳談の叢林の略で、俳諧を学ぶ場所である。


 宗因も、発句単独を多く残す。以下宗因句。

  花に吹暁風残念此時なり    /  いろはにほへの字形なる薄哉
  里人の渡り侯か橋の霜     /  やがて見よ棒くらはせん蕎麦花
  蚊柱や削らるるなら一かんな  /  浪花津にさくやの雨や梅の花
  今こんといひしは雁の料理哉  /  さる程にちゝに物こそかな仏

 洒落や地口・見立てのほか、漢語、人口に膾炙した和歌・歌謡を詠み込むなど、直感的におかしみを感じられる句が目立つ。


 上の百韻は、延宝3(1675) 年夏、東下した西山宗因に田代松意(しょうい)が発句を請い受けたもの。

 発句の勢いが、第三で折れているが、付けは、地口駄洒落に頼らず、式目の多くを無視し、自由かつ斬新である。なお、単に単語の関連で付けるのではなく、前句全体の意味に応じて付けている。これを心付と言い、談林の特色である。

 この興行は、貞門の古風が広まっていた江戸の俳諧師に衝撃を与え、松意は、俳諧談林という結社を組織。これは江戸談林と呼ばれた。

 次は、江戸にいた幽山などが、興行した宗因歓迎の百韻である。幽山に師事していた芭蕉は桃青の名で、素堂は信章の名で参加している。

談林期の芭蕉
「いと涼しき」百韻 延宝3
(1675)年5月 

宗因
従画
幽山
桃青(芭蕉)
信章(素堂)
木也
吟市
少才
似春
又吟

 いと涼しき大徳也けり法の水 宗因 ※だいとこ、のり
  軒を宗と因む蓮池     従画 ※のきばをむねと
 反橋のけしきに扇ひらき来て 幽山 ※そりはし。 ↑蓮池→反橋
  石壇よりも夕日こぼるゝ  桃青 ↑反橋→石檀。 ↑扇→日
 領境松に残して一時雨    信章 ※りょうざかい。 ↑石檀→領境。夕日→時雨
  雲路をわけし跡の山公事  木也 ※やまくじ。 ↑領境→山公事
 或は曰月は海から出るとも  吟市 ※いわく。 ↑雲路→月、山→海
  よみくせいかに渡る鴈がね 少才 
※レ点はかりがね点。↑或は曰→よみくせ。↑月→鴈がね
 四季もはや漸々早田刈ほして 似春 ※ようようわさだ。↑よみくせ→(史記)→四季
  あの間此間に秋風ぞふく  執筆 ※↑早稲田→秋風

     以下略

 本所猿江町大徳寺での興行。

 発句は、源氏若紫「いとたふとき大徳なりけり」を踏まえる。

 脇は、大徳寺住職、[石へんに従]画(字が難しいので「従」で代用)。玉葉集「法の水深きさとりをたねとしてむねの蓮の花ぞひらくる」を踏まえつつ、宗因の号を詠み込んでいる。他に、

 4句目、謡曲竜田「夕日や花の時雨なるらん」

 5句目、新古今「雲は皆はらひ果てたる秋風を松に残して月を見るかな」(後京極良経)

 7句目、土佐日記「その月は海よりぞ出でける」

など、古典の引用が目立っている。

 連衆のうち、木成・小才・又吟については不詳。吟一は、季吟門で安住院住職、従画の弟子である。似春も季吟門で、内藤風虎・芭蕉と交友があり、のち宗因に私淑して、江戸談林で活躍する。また、このとき鎌倉で宗因を送る。

 幽山は、貞門であったが、以後談林派となり、素堂と「江戸八百韻」を刊行。

 これが記録に残る、芭蕉二つ目の百韻である。芭蕉もこのころから談林派らしい句を残していくが、次の百韻で、その傾向が明確になる。

新風模索期の芭蕉
「あら何共なや」百韻 延宝5(1677)年冬

桃青(芭蕉)
信章(素堂)
伊藤信徳

 あら何共なやきのふは過て河豚汁 桃青 ※ふくとじる
  寒さしさつて足の先迄     信章
 居あいぬき霰の玉やみだすらん 京信徳
  拙者名字は風の篠原      桃青  ↑霰の玉-占い-那須野→篠原
 相應の御用もあらば池のほとり  信章  ↑篠原→池
  海老ざこまじりに折節は鮒   信徳  ↑池→海老・雑魚・鮒
 醤油の後は湯水に月すみて    桃青 ※しょうゆう。↑魚介-刺身→醤油
  ふけてしばしば小便の露    信章  ↑月すみて→ふけて、湯水→小便、月-露
 きゝ耳や余所にあやしき荻の声  信徳  ↑ふけて→きき耳・声
  難波の芦は伊勢のよもいち   桃青  ↑荻→芦-そよぎ-↑聞き耳→よもいち

・ 素堂と親交のあった京都新町通りの富商伊藤信徳(貞門のち談林)歓迎の三吟百韻。このとき、芭蕉34歳、素堂36歳、信徳45歳。

・ 当時武士が禁じられていた河豚料理を堪能した翌日の芭蕉発句は、謡曲芦刈の文言「『昨日と過ぎ今日と暮れ、明日又かくこそ荒磯海の。……』『あら何ともなや。さらば何とて御津の浜とは御尋ね候ふぞ』」を、引いて軽口に仕立てた。

・ 脇の「しさる」は、「退る」で、足の先まで温まったと添えた。

・ 第三、謡曲歌占(うたうら)「白汗を流して袂には、露の繁玉。時ならぬ霰玉散る。足踏はと うとうと」を踏まえ。発句の「や」を疑問としてとらえ、「らん」でとめた。
・ 4句目、謡曲殺生石「安倍の泰成占なつて、……。玉藻化生を本の身に、那須野の草の露と消えし跡はこれなり」から、那須与一を連想し、金槐集上「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」をもじった。発句を疑問として、「らん」で止めた。
・ 5句目謡曲実盛「行くかと見れば篠原の池のほとりにて姿は幻となりて……」。
・ 初裏2句目、発句と同じ謡曲芦刈「この芦を伊勢の人は浜荻といい難波の人は芦という」から、喩え詞「難波の芦は伊勢の浜荻」をもじった。「よも一」は伊勢の占い師。見えないが、耳さとく音で吉凶を占った。西鶴の「好色二代男」に、「一言聞身行衛-神風や伊勢の右望都(よもいち)といふ座頭。五音(ごいん)の占を聞て。万の事を見通しぞかし」とあるが、天和4(1684)年刊で、これを読んだわけではない。

 芭蕉、談林風時代の代表作である。言葉の遊びだとは言え、どの付合も見事で、中でも芭蕉の「難波の芦」が光る。

 門弟の内、入門が遅い許六はこのとき22歳、既に俳諧に没頭し、談林の常矩に師事していたが、この芭蕉の付けに驚嘆し、「桃青を上手」と称し、入門の機をうかがっている。しかし、芭蕉と行き違い、願いを果たしたのは15年後の元禄5年、37歳のことであった。この間の事は、「俳諧問答青根が峯、許六・去来著、天明5(1785)年刊」に詳しい。


 此の芭蕉が巻頭の句は、初め頭の五文字を得ずして止みしに、恰も信徳の江戸に来るに会す、依りて議して、あら何ともなや、の七字を冠せるなりと云ふ、其の佶屈(きっくつ)にして旦贅牙(聱牙、ごうがの誤り)なる、砂礫を噛むの感あり。蓋し信徳は芭蕉より先きに既に新風を起さんと企て、信章も亦夙に漢詩より入りて俳風を改めんと欲したる時なれば、さてこそ共同して斯かるものを作りたるなれ。

「俳人芭蕉」(山崎藤吉著、俳書堂、大正5)から


・ のち、信徳の新風と言われる「七百五十韻」が成立した。付合の多くは古風のままであったが、江戸の芭蕉たちは触発され、「次韻」(二百五十韻)を興行した。刊行は共に、翌延宝6(1678)年である。

・ 次韻とは、他の漢詩と同じ韻字を用いて作った漢詩を言うが、「次韻」は「七百五十韻」を継ぐ形で制作されている。

・ 「冬の日」歌仙が、蕉風の発祥といわれるが、名古屋の荷兮や越人は、「次韻」を挙げている。

荷兮……「雉脛長く続ぎそへてと付けて、是より宗因流かはれり」<「橋守」元禄10(1697)年刊>

越人……「汝等(本華坊・渡部狂・支考、同一人)は、当流開基の次韻といふ、二百五十韻の集は知らぬか。信徳が七百五十韻までは、色々ありても古風なり。其次韻二百五十韻よりが当流ぞ。ここをしらで新古のわかちはしれぬぞ。汝等は何を以て、古いの新しいのといふか、をかし」<「不猫蛇(ふみょうじゃ)」享保10(1725)年>

蕉風発祥
「次韻」 延宝8年(1680)年成

桃青(芭蕉)
其角
揚水
才丸

   表題
 晋伯倫傳酒德頌   ※晋の伯倫、酒徳の頌を伝ふ)
 樂天継以酒功讃   ※楽天継ぐに、酒功の讃を以てす
 青醉之續信德七   ※青、之に酔つて(えって)信徳が七百五十韻を続く二百五十句
  百五十韻 二百五十句
49  挨拶を爰では仕たい花なれど 
※「七百五十韻」巻末五十韻、第49句、正長(せいちょう)
50挙句 又かさねての春もあるべく ※〃挙句、常之(じょうし・つねゆき)

 

1 鷺のあし雉子脛長く継そへて  桃青
2  這句以荘子可見矣      其角 ※この句荘子を以て見つべきか
3 禅骨の力たわわに成るまでに  才丸 
4  しばらく風の松にをかしき  揚水
5 夢に来て鼾を語る郭公     其角 ※ほととぎす
6  灯心うりと詠じけん月    桃青 ※とうしみ売り
7 微雨行麻がら山の木の間より  揚水 ※こさめゆく、麻殻山。 ↑灯心→麻殻
8  粟に稗さく黍原の守リ    才丸 ※裂く・離く。 ↑麻殻→黍

底本、「俳諧次韻」寺田重徳版、国立図書館蔵。

・ 信徳五十韻第49句、「挨拶をここではしたい花なれど」。花の定座で挨拶の必要はないが、「一巻末の匂いの花として、句を仕立てたいが、まだ続くかもしれないので、遠慮をした」の意か。

・ 同挙句、「また重ねての春もあるべく」は、前句の意を直接うけて補っている。句の仕立ては、「好色一代男」、「はずかしながら文言葉」の「師匠もあきれはてて、是迄はわざと書きつづけて、『もはや鳥の子(紙)もない』と申されければ、『然らばなほなほ書きを』と、(8歳の世乃介が)のぞみける。『又重ねてたよりも有るべし。先づ是にてやりやれ』と、大方の事ならねば笑はれもせず。ほかにいろはを書きて、是を習はせける」から文言を引き、「一歳(ひととせ)にかさなる春のあらばこそ ふた度花を見むと頼まめ(後撰集、読み人知らず)」を踏まえて、句末を連用形とした。

・ 以上の2句で、京都の連衆は続きがあることを承知していたと、推測できる。

・ 「次韻」の第1句は、付句であることから「発句」とは見なされないが「立句」ではある。京の五十韻に50句を継いで、百韻にしたことになる。しかし、体裁は発句のない五十韻である。

・ 第1句は、「意味のないことですが、京の韻に継ぎ足しましょう」と挨拶。謙遜ではない。

・ 第2句は、立句の注釈を添えた。荘子を以て見ると、鷺は鷺として、雉子は雉子としての価値を認めることになる。荘子、駢拇(へんぼ)編に「彼の至正なる者は…略…、長き者も余りありと為さず。短き者も足らずと為さず。この故に、鳧(フ、かも)の脛は短しといへども之を続げ(つげ)ば則ち憂ふ。鶴の脛は長しといへども之を断れ(きれ)ば即ち悲しむ。故に性の長きは断つところに非ず。故に性の短きは續ぐに非ず。憂いの去る所無ければなり」とある。

・ 第3句、「禅骨(造語)」則ち禅の修行者が、参究を重ね禅機整うまで、読み解くと言う。

・ 第4句、「風の松にをかしき」、悟後の境地として付けた。禅語に「澗水(かんすい)松風は悉く説法」、「巌松無心風来りて吟ず」などがある。

・ 第5句、松を眺め、松韻を聴くうちに寝たとして付ける。ホトトギスが、夢中に出ていびきの様を語る。物語を滑稽に展開させる、新風の付けである。

・ 第6句、「詠じ」たのは、「七十一番職人歌合、40番」。「月に寝ぬとうしみ売りの身の業を誰聞き知らぬいびきとかいふ」とある。「いびき」は「鼾」でなく「藺引き」である。灯心は、細藺(ほそい)のずいを引き抜いて、3・5・7本縒って作る。月夜が過ぎれば7本縒りの灯心が売れるので、忙しくなる。月灯りの下、灯心売りは、精を出す。「『灯心うりと』と詠じたのは、このように明るい月であろう」と解する。詠じたのは、灯心売りでも、月(擬人)でもない。

・ 第7句、「微雨」は、「こさめ」と読んで「小雨」、「行」は雨が上がること。「木の間より月」と、前句に付いて倒置となる。よく人麻呂の「石見なる高角山の木の間ゆも我が袖振るを妹見けむかも」を引き合いにするが、次韻とは言え、表八句に「離別の相聞」歌を踏まえるはずがない。「木の間」は多く詠まれており、万葉集、二十一代集、金葉・山家などの家集から拾えば、62首ある。内、「月+木の間」50首、「山+木の間」24首、「○○山の木の間」6首である。前句の月に付けたとして、「月+山+木の間」は3首、「玉くしけふたかみ山の木の間よりいつれは明る夏の夜の 源親房、金葉」「さ夜ふくるままに外山の木の間よりさそふかをひとり鳴く鹿 源実朝、金塊」「郭公なくねもしけき夏山の木の間そ秋にまされる 従三位行能、新千載」である。月に木の間は、よくある取り合わせで、どの歌ということはないだろう。

・ 第8句(折端)、「隠れ生える粟や稗を引き抜く黍原の番人が、木の間から出た」と解する。「粟に」の「に」は並立。「さく」は、力を加えて離れさせるの意。「咲く」では「守り」の意が通らない。

上のように、談林派風の物付・詞付は残るものの、芭蕉の新風は、「前句の景色や人物の情を見定め、発展させたり転じたりする」ものであった。

去来は、「師の風雅見及処、次韻にあらたまり、みなし栗にうつり」(贈晋子其角書)と言う。次の虚栗は、老荘、李杜など、漢詩漢文を翻案・引用したり、漢語を取り入れたりしている。

「虚栗」 延宝8年(1680)年成

【虚栗】俳諧撰集。二冊。榎本其角編。天和3(1683)年刊。蕉門の発句・歌仙などを四季別に収める。漢詩漢文調の作風は虚栗調・天和調と呼ばれ、貞享(1684~1688)の新風体への過渡的役割を果たした。<大辞林>

其角

芭蕉

① 凩よ世に拾はれぬみなし栗      晋其角敬

② 礼者敲門しだくらく花明か也     幻吁(げんう) ※門を敲く
③ 餅を焼て富を知ル日の博士哉     麋塒(びじ)
④ いでや春地なし小袖のかいとりせる  信徳 ※掻い取り、裾や褄の引き上げ

⑤  憂方知酒聖/貧始覚銭神(憂ては方に酒の聖を知り、貧しては始て銭の神を覚る)
  花に憂き世我酒しろく食くろし    芭蕉 ※めしくろし

⑥  憶老杜 (老杜を憶ふ)         ※杜甫
  髭風を吹て暮秋嘆ずるは誰が子ぞ   芭蕉

⑦ 貧山の釜霜に啼声寒し        芭蕉

⑧   茅舎買水 (水を買ふ)
  氷苦く偃鼠が咽をうるほせり     芭蕉 ※えんそ

⑨   酔登二階 (酔て二階に登る)
  酒の曝布冷麦の九天より落るらん   其角 ※酒のたき

⑩ 草の戸に我は蓼くふほたるかな    其角
⑪   和角蓼蛍句(角が蓼蛍の句に和す)
  朝かほに我は飯喰ふ男かな      芭蕉


<巻末の歌仙「詩商人」>

   酒債尋常往処有、 (酒債尋常往く処に有り、) ※しゅさい
   人生七十古来稀、 (人生七十古来稀なり、)
発句 詩あきんど年を貪る酒債かな    其角 ※としをむさぼるさかて
脇   冬湖日暮て駕馬鯉        芭蕉 ※馬にのする鯉
第三 干鈍き夷に関をゆるすらん     芭蕉 ※ほこ(鉾)にぶきえびす
4   三線○人の鬼を泣しむ      其角 ※さんせんは三味線、心に潜む鬼
5  月は袖かうろぎ睡る膝のうへに   其角 ※こほろぎ
6   鴫の羽しばる夜深き也      芭蕉 ※しばるは、閉じる・縛る
     …略…
35  詩あきんど花を貪る酒債哉     其角 ※匂いの花
挙句  春湖日暮て駕興吟        芭蕉 ※しゅんこ、興にのる吟


「虚栗」跋文

栗といふ一書、其味四あり。
李杜が心酒を嘗(なめ)て、寒山が法粥(ほうじゅく)を啜る(すする)。 これに依て、其句見るに遙かにして、聞くに遠し。
侘と風雅の其正(そのつね)にあらぬは、西行の山家を尋て、人の拾はぬ蝕(むしくい)栗なり。
恋の情つくし得たり。昔は西施がふり袖の顔(かんばせ)、黄金鋳小紫(黄金は小紫を鋳る)。上陽人(不遇の老宮女)の閨の中には衣桁に葛のかゝるまでなり。下(しも)の品には、眉ごもり(繭籠もり、則ち)親そひの娘、娶姑(よめしゅうとめ)のたけき争ひをあつかふ、寺の児、歌舞の若衆の情をも捨ず、白氏が歌を仮名にやつして、初心を救ふたよりならんとす。
其語震動、虚実をわかたず、宝の鼎に句を煉って、龍の泉に文字を冶ふ(きたう)。
是必ず他のたからにあらず、汝が宝にして後の盗人を待て。
  天和三癸亥年仲夏日   芭蕉洞桃青皷舞書

①は、序文末、其角の句。
②は巻頭句、幻吁は其角参禅の師、伊豆の大顛(だいてん;)禅師。
③は、谷村藩江戸詰家老の句、他に門弟の句が多数。
④は、新風を目指す信徳の句。
⑤白楽天「江南謫居十韻」
⑥杜甫、七律「白帝城の最高樓」、杖藜歎世者誰子(藜を杖つき世を歎く者は誰が子ぞ)。
⑦「山海経」、「豊山之鐘霜降而自鳴(豊山の鐘、霜降りて自ら鳴る)」を「貧山」に。
⑧荘子、「逍遥遊」。「偃鼠河に飲むも、満腹に過ぎず」。
⑨李白「望廬山瀑布」。「飛流直下三千尺、疑是銀河落九天。(飛流直下三千尺、疑ふらくは、是れ銀河の九天より落つるかと)」。
⑩は、謡曲「鉄輪(かなわ)」、「我は貴船の川瀬の蛍火」というシテの執念が下地。蓼は俳諧。
⑪は、其角の⑩に和したもの。飲酒の戒めは疑問。飯が俳諧。


歌仙「詩商人」

・ 発句前書は、杜甫の七律「曲江、二」から。47歳の作。今のうちに楽しもうという意。この歳末(延宝7年の前年)、其角は19歳。家業(父東順は医者)を継がず、勉学・俳諧・遊蕩に励む「蓼食う蛍」で、杜甫に共感。「詩あきんど」は杜甫のこと。

・ 脇は、杜甫五律「春日憶李白(春日、李白を憶ふ)」の「渭北春天樹/江東日暮雲/何時一尊酒 (渭北、春天の樹/江東、日暮の雲/何れの時か、一尊[樽]の酒)」を踏まえる。江東は李白の居所で長江下流。詩人は、冬も終日魚を釣り酒代に充てたと添える。鯉としたのは、魚問屋である鯉屋杉風を想起させる興か。なお、杜甫七律「昼夢」、「桃花氣暖眼自醉、春渚日落夢相牽。(桃花の気暖かに眼自から酔ふ、春渚に日落ちて夢に相牽かる)」を踏まえたという説があるが、ならば、脇は「日落ちて」となっていただろう。

・ 35花の句と挙句は、発句と脇の面影。少し替えただけの、珍しい匂いの句。


「虚栗」跋文

この栗という一書には、四つの味わいがある。
一、李白や杜甫の詩を心の酒としてなめ、寒山の詩を朝がゆとしてすする。 こうしてできた句は、遙かな趣や深い味わいがある。

二、侘と風雅が、尋常でないのは、西行の山家集から学んだもので、言わば人が拾わなかった虫食いの栗である。

三、恋の情を詠みつくせた。中国の美女西施、日本の花魁の小紫。帝に捨てられた老宮女、民衆としては、引き籠もりの娘、嫁姑の争いを扱い、寺の稚児、歌舞の若衆の情をも捨てていない。また、白楽天の詩を仮名に翻案して、初心者に分かりやすくした。

四、こうして生成した言葉は、震え動き、虚実は一体となり、数ある宝鼎(ほうてい)から選ぶように句を練って、龍泉に剣を淬ぐ(にらぐ、焼入れる)ように表現を鍛えた。

この虚栗は、他者の宝でなく其角自身の宝であって、後にまねられ、広く踏襲されていくのを待ちなさい。

天和3(1683)年5月   芭蕉洞桃青皷舞書

 漢文書き下し調の芭蕉句は、天和2(1682)年刊「武蔵曲(むさしぶり、千春撰)」の「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」「櫓の声波を打って腸氷る夜や涙」が先行するが、やや遅れて「虚栗」で結実した。

 これまでの俳諧は、通俗卑近な事物の滑稽を主眼としたが、和歌や連歌の持つ文芸性を求めてこなかった。しかし、通俗卑近なものと侘びや幽玄は相反するものではないところに着目し、できたのが「芭蕉野分」や「櫓の声」であり、それを広めて集めたのが虚栗である。

 しかし、3年後の貞享2(1685)年1月28日、郷里伊賀上野で越年し、二月堂の水取を見学すべく奈良の竹内に赴いた芭蕉は、自句評を求めた生家近隣の半残に宛て、江戸蕉門の句帳を非難する書簡を送っている。

  一、江戸句帳等、なまぎたへなる句、或ひは云ひたらぬ句ども多く見え申し候ふを、

    若し手本と思し召し、御句作り成され候はば、聊か違いも御座あるべく候ふ。

    みなし栗など、沙汰の限りなる句ども多く見え申し候ふ。

 虚栗の跋で、其角に自信をもたせるべく鼓舞したのと正反対のように思える言辞であるが、それは違う。虚栗の跋で示したことに、虚栗の句はまだ到達していなかったということであり、その内容を否定したわけではない。

 次に、この書簡を書いた「野ざらし紀行」の旅で、何があったかを探る。

蕉風開眼
「野ざらし紀行」 貞享元年8月~貞享2年5月

野ざらし紀行

 貞享元(1685)年8月半ば、

  野ざらしをこゝろに風のしむみかな

と詠んで出立し、伊勢・伊賀上野・葛城・芳野と巡って、9月末大垣に着いた。

  死にもせぬたび寝の果よ秋の暮

まるで、ここが旅の目的地であるかのような句である。大垣には、旧友谷木因(たにぼくいん)がいる。

 木因も季吟門であったが、延宝8(1680)年頃蕉門に入る。船問屋を営み、この年39歳。

 10月中旬、芭蕉を熱田に送るため、舟で揖斐川を下り、途中多度大社に参詣。

桜下文集

木因

  伊勢の国多度権現のいます清き拝殿の落書。
 武州深川の隠泊船堂主芭蕉翁、濃州大垣観水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、四季折々の句召され候へ。
  伊勢人の発句すくはん落葉川 木因
    右の落書をいとふのこころ
  宮守よわが名を散らせ木葉川 桃青


 佗人ふたりあり。やつがれ姿にて狂句を商ふ。
… 略 …
 紙衣かいどりて通行を諷ふ。

  歌物狂二人木がらし姿かな

・ 太字部「句商人」は、虚栗の「詩あきんど」の言い替え。他は謡曲の用語であり口振りである。

 →「野ざらし紀行>熱田>資料」を参照。

・ この道行きを気取ったやり取りは、「野ざらし紀行」に簡潔に示される。

野ざらし紀行
(天理本)

    なごやに入みちのほど風吟ス

  狂句こがらしのみは竹斎にゝたる哉

・ 途中、桑名に一宿、熱田で木因と別れ、桐葉亭に2、3日泊まって、名古屋に入る「道の程」である。

・ 芭蕉は、この自己紹介の句を名古屋の連衆への挨拶とし、歌仙を巻いた。

 →「野ざらし紀行>名古屋」を参照。

冬の日

     笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまりのあらしにもめたり。

     侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才士、

     此国にたどりし事を、不図おもひ出て申侍る

  狂句こがらしのみは竹斎に似たる哉  芭蕉
   たそやとばしるかさの山茶花    野水 ※さざんか・さんざか
  有明の主水に酒屋つくらせて     荷兮 ※もんど(中井主水)、月の句
   かしらの露をふるふあかむま    重五 ※赤毛のよくある馬。↑月→露
  朝鮮のほそりすゝきのにほひなき   杜国 ※においは、風情。↑露→すすき
   日のちりちりに野に米を苅     正平 
※ちりちりは、日の薄れ。刈る

 →以下「芭蕉七部集、冬の日」を参照。

・ 詞書きは、木因との道行き気分そのままに、仮名草子「竹斎物語」の藪医者竹斎が名古屋に逗留したことから、我が身になぞらえたものである。

・ 発句、「狂句」を詞書きとすれば、五七五が整うが、「狂句」があって、句意が整う。「泊船集」には、後に芭蕉自らこの二字を省いたとある。「狂句」は良基の連歌十五体に出る。

・ 脇、謡曲の常套句「誰そや」と用い、問答体とする。謡曲「蝉丸」に「誰そや此藁屋の外面に音するは。此程をりをり訪はれつる。博雅の三位にて ましますか」、謡曲「通盛」に「 ワキ『誰そや此鳴門の沖に音するは』、 シテ『泊定めぬ海士の釣舟候ふよ』」、謡曲「小督」に「シテ『いかにこの戸あけさせ給へ』、 ツレ『誰そや門に人音のするは。心得て聞き給へ』」、など。
・ 第三は、「誰そや」に応じる。主水は徳川家作事方の大工頭、大和の守中井主水正清のこと。野水の家は、名古屋城築城の折建築した主水の居宅を、父祖が150両で買い請けたもの。大和町の名もこれによる。

・ 4句目:酒屋→荷→馬。遁句、軽く付ける。

・ 5句目:馬→尾花→ススキ。打越の長者から、貧村に移る。細いすすきで、前句はやせ馬となる。

・ 6句目:ススキ→稲。田に刈るでなく、「野に刈る」で、貧村の風情を承ける。

・ 蕉風では、長句・短句ともに、単独で完結した内容を持った表現としている。

・ 句の内容や姿に、わび(侘、佗)・さび(寂、錆)・しおり(栞、撓、萎)と名付けられた情趣が感じられるような工夫をしている。

・ 古風の物付・談林の意味付に加え、うつり(移)・ひびき(響)・におい(匂)・くらい(位)などの付け方が用いられている。前句の趣致風韻によって付ける匂付が特徴的で、前句に感応感合、前句の情緒気分を感じ取って付ける。

・ これらの特長は、既に「虚栗」に表れているが、この「冬の日」で明瞭な形となって示されたことになる。

・ また、虚栗の跋文に、「白氏が歌を仮名にやつして、初心を救ふたよりならんとす」とあったが、 「白居易の漢詩文を仮名文字にして分かりやすくする」ように、謡曲の人物を卑近な仮名草子の人物になぞらえたり、漢詩文調の句を避けるなど、平易化している。

・ 野ざらしの旅、杉風の餞別発句「何となふ柴ふく風もあはれなり」に、芭蕉は「あめのはれまを牛捨にゆく」と付けた。「牛」は「憂し」である。「牛(憂し)」は捨てたのであろう。「冬の日、狂句木枯らしの巻、名残の折・裏の折立」に、「うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに 芭蕉」とある

 

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