俳諧の作法 北枝資料

資料の索引
「山中問答」の出処「山中問答」の評
芭蕉と北枝の動向「奥の細道」、旅程「金沢~福井」から
「奥の細道」と北枝出会い天竜寺の段「卯辰集」北枝宛芭蕉書簡「茶店句」
芭蕉との交流北枝宛、芭蕉書簡「池魚の災」
北枝宛、芭蕉書簡「歳旦句、上京など」
北枝宛、芭蕉書簡「北枝歳旦句、『元日や』の評」
芭蕉宛、北枝書簡「自作句紹介、再会について」
芭蕉十七条を巡って去来抄
去来湖東問答
北枝宛、芭蕉書簡「付合十七体について」
「削りかけの返事」(支考)「猪の早太」(越人)
それからの北枝「俳諧名誉談」
北枝の美談
「俳諧芭蕉談」
芭蕉の教示
「北枝発句集」
北枝の逸話

北枝の資料 

「山中問答」の出処

 「山中問答」は、支考が自分勝手に製造して芭蕉の直伝だと世を誑つ(たばかっ)て居る貞享式、廿五個條等よりも、夐に(はるかに)出處の正しいものである。

「俳諧新研究」(樋口銅牛著、隆文館、明42)より

 山中問答の評は、概ねこの通りである。芭蕉存命中に完成し、芭蕉も目を通しているので、問題はない。

 ただ、「二十五箇条」について、「支考が云々」は言い過ぎである。もっとも、一部文言の変更、付会の解釈について指摘されても致し方ないとはいえ、全否定はいかがなものか。管見ではあるが、「二十五箇条」には「山中問答」と共通する表現があり、芭蕉一座の俳諧に概ね沿ったものである。 →「二十五箇条


奥の細道、旅程「金沢~福井」

事項 宿所等
元禄2715奥の細道途次、芭蕉、金沢着。
宿、京屋吉兵衛(森下町もりもとまち、浅野川大橋北詰)。
竹雀と一笑に連絡。竹雀・牧童来り、一笑の死を伝える。快晴。
金沢・京屋
元禄27/15 ~7/23四吟(小春・芭蕉・曽良・北枝)「寝る迄の」四句。
この頃小春は親元(竹雀の三男)。
金沢
元禄2716竹雀の旅宿、宮竹屋喜左衛門(犀川大橋北)に移る。快晴。金沢・宮竹屋
元禄2717北枝亭跡

北枝亭源意庵(浅野川大橋南西、尾張町)へ行き、「あかあかと日はつれなくも秋の風」を披露。

曽良随行日記に「予、病気故不随(したがわず)」とある。快晴。

金沢・宮竹屋
元禄2718午前2時頃から強い雨、暁止む。快晴。金沢・宮竹屋
元禄2719宮竹屋に俳人集まる。快晴。金沢・宮竹屋
元禄2720

一泉亭松幻庵(桜橋南詰)にて、十三吟(芭蕉・一泉・左任・丿松・竹意・語子・雲口・乙州・如柳・北枝・曽良・流志・浪生)、半歌仙「残暑暫」。

野田山にて、「翁にぞ蚊帳つり草を習いけり 北枝(卯辰集)」。快晴。

金沢・宮竹屋
元禄2721北枝・一水が同道、卯辰山の寺に遊ぶ。快晴。金沢・宮竹屋
元禄2722

願念寺(犀川大橋南東)で一笑追善句会。

亭主は、兄の丿松(べっしょう)。「塚も動け我が泣く声は秋の風」。快晴。

金沢・宮竹屋
元禄2723西浜(宮の腰)にて、雲口亭主の五吟(芭蕉・名なし・小春・雲江・北枝・牧童)、表六句「小鯛さす」。快晴。金沢・宮竹屋
元禄2724金沢を発つ。乙州らが見送り。北枝・竹意同行、小松近江屋へ。夜中雨。小松・近江屋
元禄2725小松、鼓蟾(こせん、日吉神社藤村伊豆)亭。十吟(芭蕉・鼓蟾・北枝・斧卜・塵生・志格・夕市・致益・観生・曽良)、世吉「しほらしき」。夕刻雨。小松・鼓蟾亭
元禄2726午前10時頃より風雨甚だし。小松、亨子(歓生)亭で十一吟(芭蕉・亨子・曽良・北枝・コ蟾・志格・斧卜・塵生・季邑・視三・夕市)、五十韻「ぬれて行や」。午後4時頃より晴れ。小松・近江屋
元禄2727

多太八幡にて、「むざんやな甲の下のきりぎりす」。

山中温泉泉屋に、曽良・北枝と8日間逗留。故泉屋又兵衛(貞室の逸話あり)の子、14歳の主久米之助に桃夭と名付く。「桃の木の其の葉散らすな秋の風」。別号に、桃妖・桃葉・桃[虫+羊]など。

山中温泉
・泉屋
元禄27/27 ~ 8/5

山中温泉にて、三吟(北枝・曽良・芭蕉)、歌仙「馬かりて」。

北枝の発句「馬かりて燕追ひ行く別れ哉」は、体調を崩し、独り長島へ行く曽良への餞別であろう。

山中温泉
・泉屋
元禄2728快晴。夜に雨。山中温泉
・泉屋
元禄2729

北枝と道明が淵に遊ぶ。曽良は行けず。

如行宛書簡。「山中の湯にあそび候……何れ其前後其元へ」。快晴。

山中温泉
・泉屋
元禄2730晦日。再び道明が淵に遊ぶ。快晴。山中温泉
・泉屋
元禄281黒谷橋黒谷橋へ行く。快晴。山中温泉
元禄282小松の塵生宛書簡。「珍敷乾うどん弍箱……入湯仕舞はヾ其元へ立寄申筈」。快晴。山中温泉
・泉屋
元禄283雨。暮れに晴れるが、山中のため月は見られない。夜中雨。山中温泉
・泉屋
元禄284午前10時頃降って止む。夜雨。山中温泉
・泉屋
元禄285那谷寺

曽良留別句
「ゆきゆきて倒れ伏すとも萩の原」

芭蕉餞別句
「けふよりや書付消さん笠の露」

曽良と別れ、小松に戻る途中、北枝と那谷寺参詣。
「石山の石より白し秋の風」

小松
元禄28/6 ~ 8/9

小松で、三吟(芭蕉・亨子・鼓蟾)、歌仙「あなむざんやな」。発句は、7/27の作。

万子と共に、連歌で名高い小松天満宮の宮司能順を訪ねる。

小松
元禄28/9 頃全昌寺

北枝と全昌寺泊。

※曽良の随行日記と奥の細道の整合が問われるところである。曽良の全昌寺泊は、5,6日の二泊で、7日出立。細道の「曽良も前の夜この寺に泊まりて」に従えば、芭蕉の泊は7日となる。ちなみに、全昌寺は、山中和泉屋の檀那寺。

大聖寺
・全昌寺
元禄28/10 頃天竜寺

北潟湖の対岸、汐越の松訪問。

松岡天竜寺にて、両吟(芭蕉・北枝)、付合「もの書て」。天竜寺泊。

松岡・天竜寺
元禄28/11 頃北枝と別れ、永平寺へ。夕食後、等哉亭(福井市左内町)へ。二泊福井・等哉亭
※ 奥の細道及び曽良随行日記(「おくのほそ道」角川文庫)、並びに「芭蕉連句集」(岩波文庫)を基に、「石川県史」を参照しつつ作成。但し、日記に記録のない8月9日以降は、「福井県史」を参照した。

 奥の細道では、「金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて此処(天竜寺)までしたひ来る」とあって、見送っただけの印象である。

 しかし、こうして、金沢から福井にかけて芭蕉の旅程をみると、北枝は芭蕉にぴったりと寄り添っているのが分かる。病気の曽良に代わって、随行したかのようである。山中温泉には、7月27日から8月5日までの九日間の滞在である。これは、曽良の快復を願っての湯治であろう。「山中問答」の北枝自跋に、「翁山中温泉にして翁の物がたり給へることゞも、あらあら書とゞめ」とあるが、確かにそうした濃密な交流の時間は、十分にあったことがうかがえる。

奥の細道と北枝

芭蕉との出会い

俳諧名誉談

    ○立花北枝の美談
北枝は加州金沢の人。業研刀。始梅翁門人。後芭蕉門人。牧童の弟にして、其元小松に産る。通称三左衛門。闌更俳脈伝には、森氏とあり。翁、奥の細道の帰るさ。加賀にてまみえて門人となる。
   赤々と日はつれなくも秋の風    翁
此句、はじめ「秋の山」と書て見せければ、北枝しばらく首をひねりて、挨拶せざるまゝ。「いかなるや」と問へば、「先生の句には」といひ出るに、翁、「さればこそ『秋の風』と作りし句なり。未此さかひ聞けるや否と。試みに山と書たり。北国に汝あれば。必正風の俳諧おこるべし」と、よろこび給ひしとぞ。<以下、「それからの北枝」に続く ↓

「俳諧名誉談」(三森幹雄著、庚寅新誌社、明26年)

北枝亭跡

 元禄2年7月17日、北枝の源意庵でのことである。「としのうち」の詞書きに「犀川橋上の吟」とある。前日移った宮竹屋からほど近い橋である。

 この逸話は、俳家奇人談などにも出るが、北枝が「山の字は風の佳なるには如かず」と答えるのは出来過ぎであろう。また、芭蕉が「ことさらに」句の字を変えて、人を試すこともないだろう。

 芭蕉がうっかり間違えるか、試しに字を変えてみたとするほうが、真実味がある。

 三森幹雄(みもりみきお)氏は白門の俳人で、春秋庵十一世。江戸から明治に掛けて活躍し、子規の攻撃対象になったから信頼できる。

 次は、奥の細道の本文。

奥の細道、天竜寺の段

天竜寺

 丸岡(○松岡)天竜寺の長老、古き因あれば尋ぬ。また、金沢の北枝といふ者、かりそめに見送りて、この所までしたひ来る。所々の風景過さ(すぐさ)ず思ひ続けて、折節あはれなる作意など聞こゆ。今既に別れに臨みて、
  物書きて扇引きさくなごりかな

天竜寺

 松岡天竜寺の長老は、昔江戸でのよしみがあるので、尋ねた。また、北枝という者が、ちょいとのつもりで見送ったが、ついにここまで慕ってついてきた。みちすがら所々の風景を見逃さず、句を案じ続けて、折につけ、趣のある着想の句などを聞かせてくれた。今、いよいよ別れの時がきたので、

  もの(句など)書きて、扇引き裂く。名残かな。

 原本(素竜本)の表記は、

  物書て扇引さく余波哉

 である。(細道自筆本は「名残」)

 この句の初案と、北枝の脇は次のとおり。

「卯辰集」(北枝編、元禄4年4月)

卯辰集

 松岡にて翁に別侍し時、あふぎに書て給る
  もの書て扇子へぎ分る別哉   翁
   笑ふて霧にきほひ出ばや   北枝
 となくなく申侍る

 松岡にて、翁にお別れしたとき、扇に書いていただきました。

   もの書きて、扇子へぎ分くる。別れかな。 翁

    笑ふて、霧に、気負ひ出でばや     北枝

 と、泣く泣く脇を詠みました。

 この北枝の脇について触れる芭蕉書簡は、次のとおり。

元禄年10月13日付、芭蕉書簡「松岡茶店にての句について」

元禄年十月十三日付
芭蕉書簡

一、松岡茶店にての句、物書いて扇引きさく別れかな、と直し申候。脇手爾波留にて候。手爾波留は脇にては草にて、神祗、追善、祝儀、本式俳諧、貴人の挨拶、すべてわれより上たる人の発句には、せぬことに候。われも唯今にては、そのもとの師に候間、挨拶の脇に手爾波留よろしからず候。外より彼是申す者御座候ては、両人ともに不束に見え申候。山中問答にも、三つ物の事御尋ねなく、われも心付き申さず候。この度委しく三つ物伝別紙にて申入れ候。これにて第三文字留草のことも、よくわかり申候。山中問答へ御書き加へなさるべく候。去来丈草、凡兆、正秀なども問答見たがリ申候。脇付けかはり候はゞ、第三四句目付けて進ずべく候。お望みの両吟はじめ申すべく候。

春は西国望みに御座候間、冬中調へ申したく候。されども伊賀へ用事も御座候間、伊賀を先にいたすべきも計りがたく候。ちと親類内用にて捨てがたき事に御座候。伊賀便り次第に心得申すべく候。西国へは何卒同行に致候間、その御心得頼み入り候。さやうに候へば、両吟急ぎ申すこともなく候。二十六七年以前、太宰府に參詣いたし候。外連二人、われと三人にて歩き候へども、知音もなく候て、見物どころばかり尋ね帰り侯。宗房時分の事に候へば、處々発句留め候へども、をかしからず、整はぬことのみにて、一句も噺すことなく候間、此の度は吟じ直したき存念に侯。そのもと同行に於ては十人にもまさり力を得候事に候間、決定の御返事まち入り候。またまた問答いたすべく候。万子牧童秋の坊句空小春などの英雄へも、よくよく御達し頼み存侯。不具。
  十月十三日       はせを
 北枝様

 下線部、先ず芭蕉句が「物書いて扇引きさく別れかな」に改案されたことを伝える。奥の細道の、「物書て扇引さく余波哉(素竜本。自筆本は「名残」)」と異なる。

 素竜本は、芭蕉が素龍に清書させ、自ら題箋を記したもので、元禄7年の没後去来に譲られたものである。素龍の奥書が、元禄4年であるから、その年までには「余波」と推敲されている。従って、この書簡は、元禄4年以前でなければならない。芭蕉の発句改案の連絡は、通例旅の後まもなくであるから、元禄2年の10月が妥当であろう。しかし、元禄4年刊の卯辰集は、上記の通り、発句は初案のまま、脇はてには止めのままである。

 また、後段にある西国行脚の計画は、芭蕉の晩年であることから、元禄6年の10月が妥当となる。こうした矛盾があることから、偽簡とみるべきだろうか。

 しかしながら、奥細道菅菰抄付録には、一部改まった芭蕉発句「物書て扇へぎ分る余波哉」と、韻字止めに改まった北枝の脇「笑ふて出づる秋霧の中」が掲載されているそうであるから、下線部の内容が北枝に伝わっていたことは、違いないであろう。

 

 では、「三つ物伝」は、伝わったかを見ておきたい。

 「三つ物伝」というと、「誹諧之秘記」、「三つ物之事」が浮かぶが、これは歳旦の発句・脇・第三のことである。「天地人の三ツ也。歳旦は天意尤よし、脇尤地理也。第三尤人意也」で、陽を貯める祈祷をする三句である。こうした特別な三つ物のことではあるまい。

 ここで言う三つ物とは、発句・脇・第三の3句のことで、それぞれについての伝であろう。

 発句には⑨切字と⑪句の姿が対応し、脇は⑫脇、⑬第三が対応するが、ここで北枝句を基に検証できるのは脇だけである。

 北枝の脇は、

    笑ふて霧にきほひ出ばや

 で、芭蕉の発句、

   もの書て扇子へぎ分る別哉

 に添えたものである。

 「⑫脇」に、「脇の句は発句と一体の物なり、別に趣向・奇語をもとむべからず。唯発句の余情をいひあらはして発句の光をかゝぐる也」とある。北枝の脇は、発句の人物に別れを告げられる人物の心情で、北枝自身の心情を語ったとしか読めない。これでは発句と一体にはならない。

 北枝の改案、

   笑ふて出づる秋霧の中

 ではどうか。こちらは、発句の人物の行動として読め、一体となっている。

 やはり、「⑫脇」の伝を得、心得を学んでからの句と了解できる。山中温泉で学ばなかったことを、後に追加したとみてよいであろう。

 以下、芭蕉との交流を、書簡を中心に見ていく。


芭蕉との交流

元禄3年4月24日付、芭蕉書簡「池魚の災」

 北枝が、3月下旬大火の難に遭ったことを知った芭蕉が、見舞う内容の書簡である。

 元禄4年3月16・17・24日、それぞれの日に金沢城下が炎上し、計8千件が焼失したと言う。

 このときの北枝の句。

  元禄三のとしの大火に、庭の桜も灰に成たるを

   焼けにけりされども花はちりすまし  北枝 (卯辰集)

  ※ 焼けにけり。されども、花は、散り済まし。 

芭蕉書簡

 池魚の災承り、われも甲裴の山里に引きうつり、さまざま苦労いたし候へば、御難儀のほど察し申候。されども焼けにけりの御秀作、かゝる時に臨み大丈夫(だいじょうふ)感心、去来丈艸も御作驚き申すばかりに候。名歌を命に代へたる古人も候へば、かゝる名句にお代へなされ候へば、さのみ惜しかるまじくと存候。知音だれだれ、此の度の難に免かれずや。連中たしかなること承らず候間、短紙も遣はさず候。よく御伝達下さるべく候。
   四月廿四日         はせを
    北枝丈

 岩波「芭蕉書簡集」に載る。

 北枝の罹災連絡の返書である。名句が得られたと、褒める。

 元禄4年3月16日は、新暦1691年4月14日である。現在金沢の平年満開日は、4月10日であるから、早めに咲き、散り終えたのであろう。

 

 次は、猿蓑に入集した北枝句の評釈。

「七部集大鏡 猿蓑四」 (月院社何丸撰釈)

北枝句評釈

(猿蓑)

   焼けにけりされども花はちりすまし  (加州北枝)
 愚考、明心宝鑑(めいしんほうかん、明代の名言集)に曰く、「積穀帛者不飢寒道徳者不凶邪」(穀帛を積む者は、飢寒を憂へず。道徳を積む者は、凶邪を畏れず)などの趣を考ふるに、「家を焼くは時節なり。されども花のちりしまひたれば、おなじくはよかりし。もしや花の盛りにしもあらば、風騒の人のさはりにもなるべきを」と、凶邪を恐れざるの風雅うらやむべきの覚悟也。

 一説に「花さへ見てしまふたれば、家はやけても大事ないと、風興にしたる句なり」といふは、狂人の沙汰なり。 

 茂呂何丸(なにまる)は、文化文政の芭蕉研究家で、闌更門。表面的な解釈をしていない。

 次は、罹災後の正月を迎えた北枝への書簡。

元禄4年1月3日、芭蕉書簡「歳旦句、上京など」

 岩波の芭蕉書簡集に、推定北枝宛として載る。内容から元禄4年で、北枝宛と推察されている。芭蕉は義仲寺か乙州新宅にいる。

正月3日付

 

芭蕉書簡

①乙州上津之節、御細翰忝く存じ候ふ。其元、大雪之由、一尺計りは此方申し請け度く候ふ。愈(いよいよ)御無事に御勤め成さるる哉。拙者、持病持病とのみ、顔しかめたる計りに御座候ふ。②其元歳旦等、いかなる風流にて御座候ふ哉。③此方年々ノ事ゆゑ、当春は非番に致し候ふ。たれ、せつくものも御座無く、是まで年々の骨折さへ、くやしき事に覚え候ふ。④貴様集之事、不埒成る様に御おもひ候らはんと、気の毒に存じ候ふ。心緒、句空僧まで申し達し候ふ間、御内談成さる可く候ふ。⑤何とぞ暮春之初め、御上京候へと、存ぜられ候ふ。頃日(けいじつ)寒気ゆゑ、持病散散、神以つて、気分重く御座候ふ間、早々此の如くに御座候ふ。⑥牧童へ、然る可く、御意得(おんこころえ)成され下さる可く候ふ。 以上
    正月三日                          芭蕉
⑦ 尚尚、風雅、段々便(だんだんだより)に、承り度く候ふ。

⑧ 追而書。其元にて、書き申し候ふ者は、御燒け成られざる候ふよし、米櫃は、やけ申す可く候ふ。此の度、一二枚は書き進じ申し候ふ。急々書き候ふて、例の通り見苦しく候ふ。

① 乙州が携えてきた書簡の礼。乙州は5月頃から金沢に行き、戻らないので、12月芭蕉が句空に早く帰らすよう依頼していた。乙州は伝馬役で、またこの正月に江戸に立つ際、芭蕉餞別句「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」を得ている。

② 北枝の歳旦句を求めている。北枝歳旦句は、次項の芭蕉書簡のとおり。

③ 芭蕉は歳旦句を詠まず、4日に「大津絵の筆のはじめは何仏」を詠んで(三が日に、釈教句は詠まない)いる。

④ 12月の句空宛書簡で、「卯辰山」では山の字が重いので、「卯辰集」とすること、三年昔の句は、時宜を逸しているなどと伝えているので、要領を得ていないだろうが、句空に直接説明したから、句空が金沢に帰ったら、聞くようにということである。

⑤ 3月初旬京都に行くから、北枝もおいでということ。

⑥ 牧童は北枝の兄。

⑦ 岩波の芭蕉書簡集にある追伸。句ができた都度送るように。

⑧ 「俳諧一葉集」の書簡集にある同じ書簡の追伸。米びつは焼けただろうが、芭蕉が金沢で書いた物は焼けなかった。すなわち、大切に持ち出したということを聞いたということ。なお、この書簡の追伸は、「元禄3年7月17日付、兄牧童宛芭蕉書簡」の追伸と一致する。

 乙州の動向や、卯辰集成立の過程が分かる。なお、京都行きの計画は、後に変更される。 

元禄4年1月24日、芭蕉書簡「北枝句、元日や」

 これも、岩波の書簡集にはない。内容から、元禄4年伊賀上野での筆と推察できるが、北枝が書き送ったと思われる内容が、そのまま冒頭にあるのは、珍しい。

正月廿四日付

 

芭蕉書簡

① 此君舎よリ白米五斗。発句一句、
②   一に俵ふまえて越えよ年の阪
  かく恵みたまふに。たゞ四壁なる仮の住居に、過ぎたる年玉ながら、寝覚こゝろよくて
③   元日や畳の上に米俵  北枝

④ さてさて感心斜めならず。神代のことも思はるゝと云ひける句の下に立たんこと難く候。神代の句は、守武神主身分相応に、情の奇なるところ御座候。米俵はそのもと相応に、姿の妙なるところこれあり候。別して歳旦歳暮、不相応なるは、名句にても感慨なきものに候、今年天下第一の歳旦なるべしと、京大津の作者も称美いたし候。不備。
   正月廿四日          芭蕉
    北枝様

① 此君舎は、生駒万子(まんし)の庵号。加賀金沢藩一千石取の上級藩士、素堂・木因とともに芭蕉三友と称される。北枝被災後の年越しに白米5斗を贈る。5斗は一俵で、75キロほど。半年分の食糧とされ、下級武士の年俸に相当する。

② 万子の句。「一に俵ふまえて」は、数え歌の一節で、大黒様の姿。「二で にっこり笑ろて、 三で 酒造って、 四つ 世の中良いように」と続く。

③ 「元日やたたみのうへにこめ俵」は、「北枝発句集」(北海編、天保3刊)の巻頭を飾る。

④ 荒木田守武の歳旦句「元日や神代のことも思はるる」のこと。

 芭蕉は、1月3日まで、北枝歳旦句を知らない。④に「京大津の作者も称美」とあるので、上旬の早い内に北枝句が届いたか。歌仙「梅若菜」の興行は、1月4~6日ごろ、大津で開始された。初日は、芭蕉・乙州・珍碩・素男、2日め以降、乙州・智月・凡兆・去来・正秀が連衆となり、名残表2句まで進めている。また、芭蕉は、1月上旬の末、伊賀上野に行き、郷里で名残裏2句まで巻いている。

 一応、北枝句が届いてさえおれば、京大津の俳人が、北枝句を称美する機会はあったことになる。

元禄7年8月1日、北枝書簡「自作句紹介、再会について」

 伊賀上野帰省中の芭蕉に宛てた北枝の書簡で、岩波の書簡集に載る。春から夏の自作句を紹介している。

八月朔日付

 

北枝書簡

  かたまらぬ角おもげなり夏の鹿
  ふむ花や見上て登る山ざくら
  手にうつるこれもはかなや蝶のはく
  われ鐘のひヾきもあつし夏の月
   しら山にて
  うす霧の雨くろみたる行衛かな

① 誠に御はづかしく、おそれみおそれみ、つたなき事共を御目に懸け申し候ふ。
② 扨々、ことし御上京ノ事、夢ばかり承申し候はゞ、此秋参宮仕り、尊慮を得奉り候はゞ、いか斗のよろこびたるべき事と、くりかへして不幸をなげき申し候ふ。
③ 何とぞ何とぞ此の上には、御入湯ノ事、おぼしめし御立ち候へかしと、待ち奉り候ふ。何かと跡言(あとごと)なる仕合、御手紙に申上げがたく存じ奉り候ふ。
 猶ほ以つて、万端跡より申し上ぐべく候ふ。恐惶頓首。

      八月朔日                北枝

① 自句照覧の謙遜である。

② 「今年上京との知らせを、夢のように嬉しく思い、伊勢参宮を兼ねて、お目にかかれたら、どれほどの喜びかと思っていたのですが、繰り返して不幸なことになり、歎いております」と言う。「繰り返しの不幸」とは何か、分からない。火災のことなら、「他の資料、俳諧名誉談」に逸話がある。

③ 「また、山中温泉へと思い立たれますよう、祈っております」ということか。



芭蕉十七条を巡って

去来抄

去来抄

修行教

宇鹿曰、先師十七條の付方、路通に伝授し侍ると承る。いかヾ。
去来曰、遠境の門人の願に依て、付方を書出し給ふ。されど、後々はせをの付方は是に限りたりと、人の迷はん事を恐れて、是を捨られしと也。其書出し 給ふ分、十七ケ條とやらん聞たり。是を伝授し給ふ事をしらず。大津にての事とやらんなれば、路通もしその反古を取て、人に教ゆるにや。
許六曰、此事を願ひたるは千那法師也 。

 宇鹿が言った。「先師芭蕉は、十七条の付け方を、路通に伝授されたと承りました。いかがでしょうか」
 去来が言った。「遠隔地の門人の願いで、付け方を書き出されました。しかし、『後々に、芭蕉の付け方は、これだけだ』と、人が迷うようなことを危惧して、これを捨られたわけです。その書出しなされたものは、『十七か条』とやら聞いています。これを<路通に>伝授なさったことは知りません。大津でのことだろうということであるなら、ひょっとして路通がその反故を拾って、人に教えたのではないですか」
 許六が言った。「このことを願っていたのは、千那法師です」

 芭蕉は、古来行われてきた形での伝授をしていない。形を教えず、人を育てることに重きを置いたのであろう。

 「遠境の門人」とは、誰か示されない。許六の言う千那法師であろうか。

 「大津にてのこと」であれば、大津本福寺の千那ではあるまい。また、千那は堅田本福寺住職を兼務していたが、堅田であっても「遠境」とは言いがたい。

 誰の求めかは、湖東問答がやや詳しい。

去来湖東問答

湖東問答

余評

或人問ふ、「蕉門の付句十七体の教え有りとて、一とせ路通この浦(長崎)に来て人々に伝授す。定めて此事を聞き給ふらむ」。
(去来)答ふ、「十七体とやらん、四体とやらん、書たる文を破り給ふことは承り侍る。これを伝授し給ふことは知らず。
 先年野水、先師に語りて言ふ、『近来大津の連衆、名古屋に来て、蕉門十七体の付句残らず伝授し侍るよしを申す。名古屋の連衆曽て(かつて=ついぞ)信ぜず。若しかゝることも侍るや』。
 先師言ふ、『是れ誠に十方無きことなり。先比、加賀の門人何某がもとより、〔常に遠国に侍れば、親しく教え受くること叶ず、願はく、付句の体書き記し示し給る〕べきよしを望む。是れがために付句の大数(おおよそ)を書き出し侍れども、かくの如く記さば、付句爰にとゞまりて、却つて初心の迷ひあるべしと思ひ、終に其書をとゞむ。定めて、(路通は)反故の端を拾ひ見て、是れを言ふなるべし』と、大笑ひし給へり。
 おもふに此文を調へ給ふは、大津にての事なり。路通久しくかしこに侍れば、その文を見、その旨を知らずして、みだりに遠境の人に伝ふなるべし。もっとも、付句は千変万化にして、数をもつていふものにあらず」。

 ある人が問う、「蕉門の付句十七体の教えがあると言って、昨年路通が長崎に来て、人々に伝授した。きっとこのことをお聞きでしょう」。
(去来)答えは、「十七体とか、四体とか、書いた文をお破りになったことは、聞いています。これを伝授なさったことは知らない。
 先年、野水が先師芭蕉に語って言うには、『近ごろ、大津の連衆が名古屋に来て、蕉門十七体の付句を残らず伝授したことを言う。名古屋の連衆は、まったく信じなかった。ひょっとして、こうしたことはありましたか』。
 先師言う、『これは誠にとんでもないことだ。先ごろ、加賀の門人何某がもとから、〔いつもに遠国にいますので、親しく教えを受けることがかなわない。願うのは、付句の体を書き記し、示してくださる〕ことを望む。このために、付句のおおよそを書き出しましたが、このように記せば、付句はそこにに留まって、かえって初心の迷いがあるはずと思い、終にその書を留めた。おそらく、(路通は)切れ端を拾い見て、そのように言うのだろう』と、大笑ひなさった。
 思うに、この文を書き調へになったのは、大津でことだ。路通は、長くそこにいましたので、その文を見、その旨を知らずに、むやみに長崎という遠境の人に伝えたのであろう。当然のことだが、付句は千変万化であって、数でもつて言うものではない」。

 これで、「遠境の門人」は、「加賀の門人何某」と分かる。加賀であれば、北枝であって差し支えはない。
 しかし、「是を捨られしと也(去来抄)」「終に其書をとゞむ(湖東問答)」とあって、北枝に送られてはいないのは明らかである。
 しかるに、次のような書簡がある。

(元禄4年?)6月27日、北枝宛芭蕉書簡「付合十七体について」

6月27日付

北枝宛書簡

 付合十七体、別紙に記し進め候。初心には見せ申されまじく候。術の叶はぬうちに、此の味を付けんといたし却て一句も調はず、付意も知れぬことになるものに候。又むつかしきものなり、かゝる味はとても叶ふまじと、退く人もあるものにて候。術叶ひ候後に扱ひ候はゞ、一巻の運び甚だむつかしき處にて、人の付け悩みたるを、或は響、或は情などにて発して付けて、変化おもしろくなり申候。さもなき人は、打越三句を恐れて、つまるところは、いつもいつも迯句のみいたし候は、初心に見え、功者おこして二三句も付きたる上に、無理に付けるも、炎天に砂道を辿る如くなゐものに候。

 よくよくお考へ、お扱ひなされ候はゞ、鬼に鉄棒にてこれあるべく、門人の中にも、五七人ならでは沙汰いたし申さず候。名高くても、付合の術さほどになき人、却て迷ひ申すべくと存候ゆゑに候。隠し申すにては御座なく候。十七体を得たる上が、千変萬化の術を得ることに候。たゞ付くと付かぬといふことばかり知りて、付合は千変萬化と口にていふ人御座候、をかしく候。十七体の法も知らずして、何とて千変萬化の働きが出来申すべきや。百韻千句に及びても付心一二体を出で申さず候。知リたる者は笑ひ候。小器は早く満つる輩多く、後には人々あけて通し、相手にならず。たゞ四五人同心の連中にて、互に他を譲り、蔭にては俳諧気違などゝ、名をつけられ候も、あさましく候、御連中御示しなさるべく候。

   六月廿七日       はせを
  結ぶよりまづ歯にひびく清水かな
 北枝様

 この書簡は、「俳諧一葉集」(湖中・仏兮編)所載書簡からの引用で、岩波の「芭蕉書簡集」には収録されていない。まず偽簡であろう。

 冒頭、「進め候」は、「進上いたします」と解する。「記し進めているところです」と解したのでは、以下の「使用上の注意」が分からなくなる。
 末尾の句は、貞享年間の作であり、「都曲」(元禄3年跋)に、既に出ている句(むすぶより早歯にひびく泉かな)である。古い句をあえて添えたのはどうか、「『十七体』は歯に響く清冽な清水のようなもの」と言うのか。

 なお、「6月27日」が元禄4年とすれば、京で猿蓑編集を終え、6月25日義仲寺無名庵に移動して二日後の筆となる。7月には、また京に行き、去来にも会うので、去来が「十七条」が芭蕉によって書かれ、後破棄されたことを、直接芭蕉に聞いたとしても、差し支えないわけである。

 偽簡と判断する理由。
1 芭蕉が反故にした内容を北枝に送るはずがない。
2 北枝の所望は、「付方八方自他伝」参考のため。刊記「元禄5年春」の「自他伝」に、その記述がない。
3  2段「よくよく~」は、初めて伝える北枝宛ての内容というより、

  付様は三法や百法と限る事なし。前に云如く趣向は泉の涌くごとく限りなきもの也。
 と、越人が「不猫蛇」で言うようなことへの、回答に見える。
4 門人をを論評する姿勢は芭蕉のものでない。
5 貞享年間、遅くとも元禄2年と推定される句が添えられている。

 しかし、この反故が思わぬ影響を与えているのは去来抄とおり、路通が「人に教ゆる」ということをして問題となっている。ここで、去来抄以外の資料を整理しておく。

「削りかけの返事」(支考)

 野水と越人が路通の所行を非難し、芭蕉の不興をかったと、支考の書「削りかけの返事」にある。

 書名は、「削り掛けの神事」をもじったもの。この神事は、八坂神社で、大晦日から元旦にかけて行われる。「削り掛け」は、白い木を薄く削り垂らした御幣。削り花ともいう。

削りかけの返事

渡邊ノ狂

① 扨(さて)翌年の九月のはじめならむ、野水と越人と京へ登り、凡兆をかたらひ、路通事あしざまにいひて、祖翁の機嫌を大きにそこなひ、夜半頃に駕籠に乗つて、大津の乙州亭に帰り給へり。其後越公は、浴衣の旅姿にて、京より名古屋へ帰るとて、無名庵へ立より、蓮の実のすつぽんとぬけて何もなしとせられしは、庭前の即興ながら、路通が取合も遺恨なき断にや。其時は縁に腰懸けながら、翁の機嫌をとりかねて、直に名古屋へ帰られ候由。

② 我師も洒堂も、そこに居合せて越顔を見られしは、其日を始ながら、終に手をついて、近付にならずとぞ。<享保13年1月>

 渡邊ノ狂は、支考の変名。

① 反故を利用した路通を悪く言って、野水・越人は芭蕉を怒らせた。

② 支考や洒堂は、その日初対面だったが、敬意を表し近付くことはなかった。

「猪の早太」(越人)

 北枝からは離れるが、十七条にかかわる出来事について、越人の名が出たので、その資料も見ておく。

 この「削りかけの返事」に、越人が「猪の早太(いのはやた)」を、弟子が書いた体で著し、反駁する。

  ※ 猪早太は平安末の武将。頼政の鵺(ぬえ)退治に従い、鵺にとどめを刺す。

 この書の初め部分で、支考の奸計を暴露する。概要は、「元禄4年10月20日ころ、熱田のゑびすや(桐葉亭の愛称又は屋号、向かい隣が初えびす多賀殿)に、江戸に帰る芭蕉が立ち寄る。芭蕉は、名古屋の野水・越人らに到着の旨書簡を書くが、支考が出立後に出すよう留めたというのである。このことは、元禄7年5月23日、芭蕉が荷兮亭に立ち寄った際明らかになった」ということである。これに続いて、以下の段となる。

猪の早太

<翌年の九月はじめならん、野水と越人京へ登り凡兆をかたらひ路通が事あしざまにいひて祖翁の機嫌を大きにそこなひ、夜半比に駕籠に乗りて大津の乙州亭に帰給へり。其後越公は湯衣の旅姿にて京より名古屋へ帰るとて無名庵へ立より、蓮の実の発句あり。椽(てん、縁か)に腰かけながら翁の機嫌をとりかねて直になごやへ帰られしよし。我が師も洒堂もそこに居合て越顔を見られしは其日を始ながら、終に手をついて近づきにはなられず>と云々。

  此一段は貴房が邪曲にて、越人野水は翁勘当といひふれたる品玉(しなだま、手品)のたねと見えたり。まづ蕉翁大きに不機嫌にて夜半比に駕籠に乗、京より大津へ帰らるとは、いかに貴房の先非を掩ふ勝手によきとてもあまりなる偽也。

 わきて温和に生れつき給ひし風流の翁を芋虫のやうに申なす貴房が俳諧冥加はこれにて尽ぬべし。そのかみ翁仕官の身にて居給ふ時も、武士は沈勇をもとゝして一朝の怒をつゝしむべき事とよく進退ををさめたる人なりしとぞ。ことさら一たび禄を辞し、雲水の身となられては、何ぞさやうの嗔意あるべきや。たとひ門人道に違ひぬること申とも、和かに教訓せらるべし。夜半の腹立不作な嘘。宵と成とも作れかし。翁を乗せたる駕籠は勿論貴房が舌根ならん。

 おもふに路通に悪名つけたるは、却而貴房と許六たるべし。本朝文選列伝に、路通は軽薄不実にて師命に違ふといらざることを板行にあらはし、路通も大にはら立て、彼文選を絶板せしむ。後に返店(変転か)文を削りて風俗文選と題号を直したる事世に隠なし。されば、其ころは貴房も許六と共におとりあひ、薫門の先輩にいろいろ難を付けていひ貶したがる時分なれば、路通が事をもあしざまにふれ廻られしならん。許六貴房は翁晩年の門人にて居ながら、知ざるをしらざるとせず、同門の豪傑をねたみ、我をたかぶる癖あり。

 何程貴房達の批判あるとても。野水越人は自然の風骨すぐれたるに、古翁へ久しく隨侍せられ、次韻の主意を方寸にをさめ、冬の日より猿蓑まで蕉門風雅の真つ盛に名誉を天下にひゞかせたる両人なり。まして其ころ路通がごときは長くらべする相手にはあらず。何の益ありて凡兆迄かたらひ、路通を翁へさゝへらるべきや。扨無名庵にて洒堂も貴房も越知を見たるは其日をはじめとは。是こそ持あげられぬ大嘘なれ。

 貴房なごやにて越人顔は穴のあくほど見て居ながら、つひに見ぬとは厚皮なる人かな。洒堂をこゝに引用られしも先づ出物があしく候。洒堂は則珍碩にて、ひさごの撰者なり。此集を越人へ贈り、序まで頼みし因みあり。其上湖南洛陽の参会にもとより越人知る人なれば。逢ふ度ごとに手をついて近づきになるものか。是も証人を引て貴房の嘘をかためんとして、かへつて尻のほぐれたるは笑止笑止。<享保14年7月>

・ 越人・野水が勘当された事実はないが、言いふらしたのは、支考である。

・ 路通に悪名を付けたのは、支考と許六である。

と、主張する。

 享保14(1729)年、越人74歳、支考65歳である。因みに、野水72,路通81、杉風83、土芳73、露川69、野坡68、洒堂62で存命。芭蕉没後35年のことで、他は既に鬼籍に入る。


それからの北枝

「俳諧名誉談」幹雄著

翁の戒め

    ○立花北枝の美談 <↑ 「芭蕉との出会い」から続く

北枝は強酒なる者にて、俳席にも酒肴恭しく持出たるに、翁戒めて云、
  白露のさびしき味を忘るゝな  翁
と戒しめければ、是より加州の風儀直れりとぞ。

「一葉集、巻一」に
   一草庵の席上饗応を辞して
  しら露のさびしき味をわするゝな

とあるが、存疑句。

翁の評

  元日や畳のうへに米俵
此句は、北枝の身分に対して、翁の誉め給ふ事一かたならず。
  夕風に何吹あけておぼろ月
  来る秋は風ばかりでも無り鳧 ※けり
  竹売りて酒にかへばや露しぐれ
句作、いづれも一奇術(いつきじゅつ)あり。加州正風の俳諧、此の叟よりおこれりといふも、むべなり。

 「正月廿四日付芭蕉書簡」のとおり。

盗人

又、或夜、友人打集て、連句に夜更しければ、ひそかに盗人忍び入てかくれけるを、見知りたるものありて、かくと告げれど、更に聞入たるふりもせず、煤掃きの時は出づべしと戯れつゝ、
    世間ばなしに茶がまちんちん
といふ前句出たりければ、北枝とりあへず、
    盗人に眼を掛らるゝ愛度さよ  北枝 ※めでたさよ
と付たりしとぞ。

 芭蕉の戒めを守り、貧に徹していたのであろう。

   夏酒や我と乗り込む火の車

 盗られる物がなかったのかもしれない。

類焼1

又、金沢の城下大火にて、北枝も類焼しけるを、訪ひ来る人の答へに、
    焼にけりされども花は散すまし

 「四月廿四日付芭蕉書簡」のとおり。

類焼2

従吾といふ人、先に来りて、狂歌に、
 ○諸ともに硯も筆もすみとなるけぶりの中に一句什麼 ※そもさん
    北枝とりあへず
 ○諸ともに硯も筆もすみとなり其ことの葉を書く物ぞなき
此洒落ものに、節迫(切迫?)せぬ処、頗る勇気ありとしるべし。

 従吾は金澤の俳人、白尾屋伝右衞門。北枝と終生親交。二度目の罹災での逸話。

 「俳家奇人談」(竹窓玄々一著)に、「再び火災に」とあって、以下のとおり。

  この時に家見舞という集できたり。その中に、

   焼けにけりされども桜さかぬうち (北枝)

   梅が香やまづ一番に焼見舞     支考

   うぐひすも笠着て登れ小屋の屋根  牧童 ※北枝発句集では、北枝句

 北枝また普請に掛かりて、歌仙。

   材槌の祝儀にならす水鶏かな   北枝 ※さいづち

    曇りはすれど卯の花の時     従吾

   坂越ゆる人の笠きて杖突ひて   支考

 ※ 支考の金沢訪問は、元禄14年が最初であるから、それ以後のこととなる。

 北枝の伝は、概ねこの書のとおり、好意的なものである。

「俳諧芭蕉談」(卯七編)

 編者の蓑田卯七(うしち)は、去来の従弟で、長崎唐人屋敷組頭。庵号十里亭。芭蕉は、長崎に卯七ありと言う。

 本書は、肥後八代正教寺の文暁が見いだし、享和2(1802)年板行したものである。中に卯七の求めに応じた北枝の書簡があった。 

俳諧芭蕉談

乾の巻

① 一 御懇忝拝見、暑中――――――、然は(さは)翁滅後の俳諧、<翁が>九州表一順せざるに付き、蕉門の教示等、これ有り候はゞ、書き付け遣し申す可き由、承知致し候ふ。
② 愚老も、翁を慕ひ申し候ふゆゑ、山中に随侍の時分、一派の格式等承り度き由、申し述べ候へども、我門には教方とては、これ無き由にて、格式(きゃくしき、決まり)等は、一向に承らず候ふ。
③ 尤も、日夜随従仕り候ふ事ゆゑ、いろいろ承り候ふ事、これ有り。書記いたし置き候へ共、翁滅後に早速焼き捨て申し候ふ。漸く闇記(暗記)いたし候ふ事、御座候ふゆゑ、一二書き付け進じ候ふ。
④ 世に流布して、翁の教方と触れあるき候ふ者、皆々虚談にて御座候ふ。御取り合ひ成さる間敷く候ふ。
⑤ 処柄とて、唐物品々忝く受納致し候ふ。
⑥ 魯長・素行の二子にも、宜御伝え下さる可く候ふ。以上
  六月七日    北技

    卯七様
⑦ 一 発句のすがたは、青柳の小雨にたれたるがごとくして。折々微風にあやなすもをかし。付方は、薄月の夜に梅のどことなく香るがごとく、竹林をへだてゝ、かすかに琴声を聞がごとく、情は心裏の花をもたづね、 真如の月をも観すべし。口は飛流の直ちにくだるが如く句をはくべし。
⑧ 一 式は、古式に倣へ。
⑨ 一 てに葉は、古書を見るべし。
⑩ 一 古池等の句意を問しに、我句を人に説は、我頬かまちを人にいふがごとし。
⑪ 一 会席等は、一座の時宜にまかせよ。
⑫ 一 見てよき書は何ならん。翁曰、見て悪き書とてはなし。儒仏より国書、共外、謡、浄瑠璃本も見るべし。
⑬ 一 他門と交りても苦しからずや。くるしからず。交りて悪きものは、博奕と盗人なるべし。
⑭ 一 貴書忝拝見。弥――――――、扨俳諧示教の書これ有候ふ。|←上巻の末

<「俳諧芭蕉談」(西天庵文暁編、西尾市立図書館岩瀬文庫蔵)>

① 卯七は、北枝の回答書簡をすべて載せている。この一文により、芭蕉談編集の意図が分かる。

② 格式とは、発句の作り方、巻き方・付け方、会席の持ち方などの決まりであろう。尋ねたけれど聞いていないという。一七条のことにも触れていない。

③ 書き置いたものがあったが、芭蕉没後焼却したという。北枝の姿勢が分かる一文である。

④ 芭蕉の教え方を流布する者とは、誰であろうか。「皆々虚談」と断じている。

⑤ 依頼状に、長崎ならではの名物が添えられたのであろう。

⑥ 魯長(魯町)は、去来の弟向井元成(げんせい)の別号、長崎の儒者。久米素行(そこう)は、長崎為替取次役。

⑦ 発句の姿と付け方の伝。

⑧ 「式目は、古式にならえ」は、古式でせよと言っていない。ならうのである。

⑨ 「てには」は、古書で学ぶということ。

⑩ 「頬かまち」とは顔構えのことか。無理であるし、説明すれば違ってくる。

⑪~⑬ なるほどという内容である。

⑭ これは、別段である。この一行以外は、失われているが、そのまま文暁が板行した。「細大漏らさず」という構え。

・ 「一葉集」は、⑦から⑬の七つを、北枝の得た伝として載せている。

「北枝発句集(北海編、梅室序)」 天保3(1832)年刊

 北海(ほっかい)は、北枝に私淑した加賀の俳人。

 桜井梅室(ばいしつ)は、加賀藩刀剣師、研刀職。闌更門で著作も多い。

梅室序より

 叟、常に杉あみの大笠をかぶり、樫の太杖をつき走らかし、足にまかせて吟行けるを、街にむらがる童部ども是を見て、「やよ北枝をぢ、何事ありていづち行き給ふぞ」と、かしましくもあさみ(はさみ?)問へば、「吾は発句拾ひにあるくなり」と答へて去りぬ。これを興ありとして、わらはべのならひ、あこぎにもこの事につのりて、日ごろにもなれど、けしきをもかへず、「我は発句拾ひに歩行なり」と、幾度も同じさまにこたへられしとなん。

 北枝は享保3(1718)年没。生年未詳だが、芭蕉と出会った歳を20歳と仮定すると享年は50歳となる。「叟」は、翁、40歳以上の敬称である。上の逸話は、晩年の姿か。

北枝句

亡師百日の忌
  とひのこす歎の數やうめの花  北枝
翁の事、霜月三日の暮がたにうちきゝて、
  きゝ忌にこもる霜夜の恨みかな 北枝

 芭蕉の百か日は、元禄8(1695)年1月23日である。

 11月3日は、三七日忌の翌日。この暮れ方に訃報を受けたのである。

 どちらの句も無念さがあふれる。次は、「芭蕉翁行状記」(路通著・編)に載る北枝文通の句。

  是も散る不断桜の冬の花 賀州 北枝

 


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山中問答 索引
序文乙也、秋江・鴬村宛て書簡
俳諧大意前書き①俳諧の心②道理と理屈③虚実④俳諧の文字
⑤道草の花⑥俳諧の姿⑦俳諧の楽しみ⑧工夫は平生⑨切字
⑩曲節地⑪句の姿⑫脇⑬第三⑭初折⑮二の表
⑯三の折⑰名残の折⑱風雅⑲謡ものなり後書き
付方八方自他伝①自・場・他②他・場・自③場・自・(自・他)④場・他・他⑤場・他・(他ア・自)
⑥自・自・他⑦自・他・(他ア・他)⑧他・他・(他ア・自)⑨他・他ア・自 ⑩他・他ア・自
⑪半・場・他⑫自・自・他⑬自・自・他注釈 後書
巻末也同跋書肆