俳諧の作法 「二十五箇条」の伝承と空阿 工事中

 索引
   


蕉門極秘昼の錦(俳諧廿五ケ条掟)

<経緯>
 この「昼の錦」と命名された「俳諧廿五ケ條掟」(以下廿五ヶ条)の奥書に、「元禄七甲戌六月付芭蕉奥書があるものを、宝永七辛卯三月十二日に支考が写」し、「百葉泉冨鈴が井泉斎磯音に伝譲」したとある。
 ただ、「晋子・去来・支考/秘伝書也」は誤りで、伝受したのは「晋子・去来」である。
 この書が世に出る契機は、「去来妾。去来死後伝書共、支考に売、乾金十五両(蕉門諸生全伝)」のとおりで、支考の手に入るのは、去来没後の宝永元(1704)年10月以後である。


このページの前書
<去来伝受本「昼の錦/二十五ヶ条」>
 去来が、奥付に従って秘蔵した「昼の錦」は、没後支考に買い取られ、東山の双林寺に仮名碑を建立する際、有償で書写頒布された。
 その例が、宋屋本「昼の錦」であり、空阿本「不易鏡」である。両者の内題・奥書は、
  内題  俳諧廿五ヶ条掟
  巻尾   右新式廿五ヶ条大秘訣
       芭蕉翁奥書有略之
      元禄七甲戌六月
     伝書ハ東花坊支考之写
     宝永七辛卯三月十二日

 の部分が完全に一致する。  宋屋は、京に住み、其角門下の原松門、のち巴人門である。このころの巴人・原松は、ともにまだ京にいない。同門の湖十は宝永7年当時、京大坂を行脚しており、双林寺に来た可能性があるが、筆写者は不明。ちなみに、宋屋23歳、原松26歳、湖十34歳、巴人35歳である。
 空阿は33歳、京の岡崎に住み、双林寺へは南に2キロほどと近い。
 ここでは、空阿と「二十五箇条」とのつながりを見る。


二十五箇条の伝承
空阿本「不易鏡」の存在
 本サイトは、「芭蕉俳諧の作法・式目」を見付けるという目的がある。
 板行本「二十五箇条」では、意味の取りにくいところを「貞享式海印録」を参照したり、「資料二十五箇条」をまとめたりしながら、「山中問答」「葛の松原」と一致する表現を見出してきた。
 しかし、意味不明な箇所が多く、読み取りが難渋し、諸本を探る内に、冬雨写本の朱書きが当を得て分かりやすいので引用した。ところが、後に、宋屋本「昼の錦」を見て驚いた。分かりやすいのである。しかも、冬雨本の朱書きの元と思われるところが何か所もあった。
 早速、「検討二十五箇条」で、諸本を比較してみた。結果、初版本「昼錦抄」に本来の表現があったこと、校正本「二十五箇条」は、相伝本「二十五ヶ条」を元としたこと、相伝本の見せ消し訂正は、宋屋本「昼の錦」のような「支考之写」と記された本を元としたことなどが見えてきた。
 そして、空阿本「不易鏡」は、宋屋本と同じ奥書を持つことが分かった。空阿本の由来を解くことは、宋屋本の価値を認めることに通じるであろう。
去来と空阿

去来は、其角の押しがあって、芭蕉の伝授を得たことは明らかである。また、空阿が、去来の遺物を受けたことも明らかである。
 従って、去来と空阿との関係を押さえる必要がある。
<去来と向井家>

向井家系図  先ず去来の系図を見る。
向井家は、下長者町油小路西へ入丁。御所の真西である。
 去来は、向井元升の二男で、家業・家督は2歳上の長男元端が継いでいる。
 姉の春は早世。二女の佐世は、他家に嫁ぐ。
 三男の元成は、俳号魯町。長崎に戻り、長崎聖堂の祭酒、書物改(輸入書調査役)を務める。
 四男の利文は、俳号牡年。長崎の叔父の養子となり、町年寄を務める。
 三女千代は、俳号千子ちね。去来の10ほど歳下と推定。貞享3(1686)年、25歳位で去来と「伊勢記行」。他家に嫁すが、28歳ほどで逝去。
 元桂は、兄の娘「文室」の夫。元禄12年、向井家に入る。既に子が三人(長男は早世)あって、結婚は元禄3年までにしていたと思われる。元端の嫡子元雄が早世して、長崎の久米家に出した牡年の子英俊を迎えたが、元禄11年16歳で逝去。翌年、元桂夫婦が、向井家相続のため入籍。元桂の実家は、上立売下町烏丸、向井家に近い。
 ちなみに、去来の長崎訪問は、英俊の遺髪等を久米家に届けるためのものであった。

 去来は仕官を断り、下長者町の向井家で家業の手助けをしていたが、猿蓑撰の頃の居宅は、「中長者町堀川東ヘ入」と、「誹諧京羽二重」(元禄4(1691)年板)に出る。向井家と百メートルも離れないところである。

<可南(ヲツマ?)>

去来系図 去来の嫁は、俳号可南。実名は不明だが、原松の記録に妾ヲツマと出る。
 可南は「妾」、後に「妻」と称される。当時、去来のように一家をなさない身分の者は、妻を持たないのが一般的であったと言われる。二号という意味での妾ではない。
 可南とヲツマは同一人であるか否は不明。
 可南の子は、登美と多美の二女。これは、長崎から帰ったときの、元禄12(1699)年10月、魯町宛去来書簡の漢詩で、娘の年齢が示される。
 季女三齢唯頼母
 阿児五歳不忘翁

 また、家も、
 家在洛東聖護院村
 とある。
 件の空阿の名は庄五郎である。大礒氏によれば、中田姓は、母の実家か養家と思われるという。
 次に、庄五郎少年が「嵯峨日記」に登場するとされるところを引く。
  さらに「嵯峨日記」廿日の条の「今宵は羽紅丈婦をとゞめて、蚊屋一はりに上下五人挙り伏したれば、
  夜もいねがたうて云々」とある箇所の五人は、芭蕉・去来・羽紅夫婦四人のもう一人が誰かわからない。
   …略…
  この一人こそ庄五郎少年にほかならない。羽紅夫岫も事情を察していたと思われる。
  逆に一つ蚊帳に寝た事実から、庄五郎少年がただ者ではないことが証明されよう。
  以上の考察により、少年庄五郎のちの空阿は去来の妾腹の子、すなわち庶子であると確信する。

 驚くべき炯眼と、これに従い、空阿の年齢を確認する。

年譜

 上の表、可南とヲツマは同一人と仮定。年齢は、空阿を16歳で産んだとした場合のものである。後に触れるが、老後は甥の元桂が「孝養す」と言う。可南が空阿の母とすれば、元桂より十歳以上年上となり、「孝養」という言葉によく合うのではないか。

 可南の句は、「罌粟合けしあわせ」(嵐蘭撰、元禄5(1692)年秋序)のものが初出である。
  罌粟合 八番 罌粟咲や雛の小袖の虫はらひ    可南
  炭俵  夏  月影にうごく夏木や葉の光り   女可南
  続猿蓑 秋  きぼうしの傍に経よむいとゝかな 女可南

 去来が世を去ったのは、元禄が宝永と改元した年の9月である。許六の「去来ガ誄」によれば、「(芭蕉と)同じ痢疾の病を受けて」とある。また、
  現の境も千々の思ひを砕き、娘の生さき、其子の母の行く末、いかに覚束なく見果つらん
と言う。登美10歳、多美8歳の年である。
 去来追善「誰身の秋たがみのあき」(元察・吾仲編、宝永2(1705)年)に、
   その事此ことおもひ出るかぎりはなかりけるが過つる名月の夜は
   病の床に有ながらとかくのもの語りをなし玉ひぬるに今はかゝる
   なげきとなりてうき世の月をかこつばかり悲しかりける
  ふして見し面影かへせ後の月  可南尼貞松
  さや豆を手向けて悲し後の月  娘とみ
   正月の二日に墓まいりして
  雪汁に裾をそめけり墓の前   娘たみ

と出る。可南は「貞松」としている。「貞」は、向井家代々の正室が戒名に用いる字である。向井家でも去来の妻として認められていた証しになろう。

<空阿>
 空阿は、延宝6(1678)年に生まれる。元禄4(1691)年4月20日、落柿舎にいる芭蕉を、去来・凡兆夫婦とともに訪問したときは、14歳であった。このころ、芭蕉に桃雨号を授かる。その名の句が一句、「続有磯海」(浪化撰、元禄11年)に出る。
  夕たちにあふて涼しき土瓜かな 桃雨
 元禄12年、去来は長崎から聖護院村に帰り、そのときの書簡(前述)で、登美は5歳、多美は3歳と分かった。この年、空阿は22歳。長女より17歳年長であるが、当時としては特別なことではない。
 また、この年、空阿が去来に入門、向井家当主元端の娘文室に元桂が婿入り(子の年齢からして、元禄8年までに結婚)している。
 翌元禄13年、去来は、23歳の空阿に、芭蕉の伝書「元禄式・蕉門姿情之伝」(合冊)を伝授している。
  芭蕉翁曰、俳諧に姿情の事は我家の大事にして是をしらされは誠の発句をなす事かたし
  姿は物の形也情は物の心也風雅あるを姿といひ風雅なきを形といふ情と心とも又しか也
  俳諧は姿を先にして情を後にと心得へし
   元禄十三庚辰二月 落柿舎主人

 その他、「発句会法式」「蕉門秘訣」「芭蕉翁句解」「芭焦翁句解」「蕉門伝系」などは、去来生前に伝授されたものか。
 ただし、「不易鏡(二十五箇条)」は、「支考之写」であることから、没後に決まる。

 享保18(1733)年、吾仲没。弟子により追悼集「秋の名残」(同年成立)が編まれ、中に「去来室可南尼」の追悼文が載る。

年譜

 「去来妾在命尼」が、「随斎諧話」(成美著、文政2(1819)年)に出る。これは、「都不覚宛原松書簡」を引く。


 原松が古き手紙をあまた持るものあり。その中に、晋子雨乞の句。
  夕立や田も見めぐりの神ならば   ※元禄6年6月、旱魃
 只今三囲稲荷の神主方、晋子直筆、奉納のたんざく、宝物にて御座候。以上。
  九月二日  猩々庵
   都不覚 様

 とありて、其末に俳諧の論を書るものあり。その中ニ云、去来死後の伝書、去来妾、是を秘蔵す。支考乾字金十五両出して、買得て後、翁直伝と偽り、其目六十条を作りかへて、己が門人を誑タブラカし、多くの金銭を貪ムサボれり。
 十論並に古今抄といふ書を撰て、祖翁の流儀なりと称して、自作の妄談モウダンを出す事、数百ヶ条あり。嗚呼、一人其虚を伝へて、万人実を称す。死して、何の面目ありて、師に黄泉に見えんや。無間の罪おそるべしおそるべし。
 去来妾在命尼となりて、今下長者町油ノ小路西へ入町に住す。去来は向井元丹元端弟、今の向井元桂伯父なり。是故に去来妾、今元桂孝養す
 按、原松号猩々庵。加藤氏、江戸人、狂名烏鵲坊また虎翼居士といふ。其角が高弟なり。後京師に住す。都不覚は、比叡山大善院に住す。仏行坊といふ。

 太字は、「蕉門諸生全伝」(曰人編、文政年中稿)に採録されている部分である。
 これは、内容から推して、支考没後間もないころのことである。「今」とは、原松が京都に移った元文元年後か。
 都不覚は、比叡山無動寺善住院一世だったが、院務を厭い山麓の坂本に隠棲、仏道に精進する傍ら俳諧もよくした。坂本は、其角の故郷堅田の近くである。
 当時原松は、「星月夜、其角三十三回忌」(元文4年板)を編んでおり、国々到来の追善発句の冒頭に、都不覚の句「うぐひすの又暁となりにけり」を置いている。

 去来甥の元桂が「孝養す」とある「在命尼」は、可南であろう。
 去来の没後、幼い二人の女児と母親の可南を、兄元端が庇護するのは自然な成り行きである。当時向井家では、元桂の二男元隆が8歳、三男元進が5歳、妻文室は長女峰野を身ごもっていたわけで、子守役としても重宝されたのではないか。元端没後は、子の元桂が庇護を引き継ぐことになるので、「在命尼」が可南であってこそ、経緯がつながる。また、宗阿を16歳で産んだと仮定したとき、「今」の時点で74歳となり、別段の問題はない。

 「去来死後の伝書、去来妾、是を秘蔵す」とある。これについて、「岡崎日記と研究」に興味深いことが載る。
 原松自筆らしい折本三冊の伝書が私の手元にあり、門人松鼡に伝与したものであるが、その二冊は元文三年三月、一冊は元文三年五月の年記がある。前者の一冊に「祖翁一流建立二十五ヶ条 新式伝系譜」というのが載り、祖翁から晋子・去来・許六に伝わったとし、去来の条に次のような系譜が記載されている。
   (写)貞享五辰年於嵯峨ノ落柿舎   ヲツマ
 去来─────────────去来妾─────支考
      真筆伝之

 これは、「貞享5(1688)年、落柿舎に於いて、芭蕉自ら写し、去来に伝う」と解釈する。「旅寝論」に、「其後よしの行脚の帰りに立より給ひて」とあって、その「笈の小文」の旅では、「箕面の滝-金竜寺-宗鑑屋敷と移動して京に入る。その後、愛宕山へ行く心づもり」という経路から、まだ落柿舎と命名する前の嵯峨野の去来亭に行っている。貞享5年4月23日から、5月9日瀬田に立つまでの逗留である。
 「星月夜」に
 「新式の根元は~工案三年を歴て、漸く貞享四年卯の五月の比、全部一軸とはなれりける。即、自筆にて晋子に授く。其後、去来に付属ありき。去来、篤実の人之。晋子が吹嘘推挙によりて、爰に及べり」
 とある。新式は、貞享4年5月に成立し、そのまま其角に伝授した。芭蕉は、5月12日は其角母五七日追善俳諧に出座しているが、このころのこととなる。「去来への付属」(ふぞく。弟子に教えを授け、さらに後世に伝えるよう託すこと。付嘱とも)は、まさに「笈の小文」の旅を終えた貞享5年4・5月で、「貞享五辰年於嵯峨ノ落柿舎」はそれを物語る。
 ここで、初版本「昼錦抄」の刊記に「元禄戊辰六月日」とあったことを思い出す。貞享5年は、元禄元年であるが、改元は9月30日である。6月であれば貞享でなくてはならない。ただ、この年の6月、芭蕉は嵯峨野にいなかったので、4月・5月でなければならない。
 校正本「二十五箇条」では、「元禄七甲戊六月日」と訂正されている。元禄7年は閏5月22日から6月14日まで、芭蕉が落柿舎にいるのは明白で、こちらの「六月」は、信じられる。なお、引用句に元禄6年10月のものがあり、成立はそれ以降となり、矛盾しない。
 新式は、貞享年間に成立伝授されたので、「貞享式」と呼ばれている。「新式伝系譜」の年次も尊重し、一次伝授が貞享5年で、増補改訂された二次の伝授が、元禄7年6月と了解する。
支考のかかわり
・ 支考は「去来ハ死後に東花坊に伝ふ」と「八夕暮」(正徳5年)で嘯き、自らの追善集「阿誰話たそのわ」(支考編、正徳元年十月下浣序)で、自ら門人渡部狂を名のって「我師東花坊は古芭蕉の遺誡をうけて廿五条の式をひろめながら」と、功績を称えている。
・ 当時の蕉門俳人が原松のように「多くの金銭を貪り」と怒り、「杉風は、~其後支考と交をたつ。『かれは芭蕉の名を売つて、風雅を銭にすあさましの坊也。もし東武に脚を入ば、両足をきり折らん』と、老を噛て訇ののしりしとぞ」というまことしやかな話が、涼袋の「蕉門頭陀物語」に残る。
 確かに、支考が「二十五箇条」を写させることで、金銭を得ていた形跡がある。宝永7年3月12日、双林寺仮名碑建立のころである。また、堀切実氏によれば、「三月十八日付山只福井連中宛東花坊書簡」があり、「双林寺石碑造立・供養の件を報じ、『此度の事存外物入今更生涯の難儀となりて云々』と述べ、資金調達の協力を依頼している」と言う。この「存外物入」とは何か。内容を明かさないところに、事情があるのではないかと勘ぐれば、答えは「二十五箇条」の代金支払いに行き着く。
 支考の金策は、代金を工面するためのものであろう。15両と言えば大金である。支払いは乾字金とあるので、通用が開始する宝永7年4月15日以降と決まる。
 支考の「二十五箇条」入手時期はある程度絞られる。宝永4年秋の「南無俳諧」まで、支考の著作に、虚実・変化・道理などの語彙は出るが、「二十五箇条」とは意味・用法が違う。ところが、半年後の宝永5年4月出立の「夏衣」を見ると、「虚に居てよく実なるべし。実に居てかならず虚なる事なかれ。~、俳諧は世情の工夫なり~、鳶に鳶の句……宵闇の一句を~、その場の変化をしらざれば、……辛崎の松のとまり、~俳諧の道理にあそべ。言語の理屈にはあそぶべからずと也」など、「二十五箇条」を参照して書いたかのような、筆致である。また、原文に「百千の数」とあるものが、「されば芭蕉門に一大事の師伝あり。趣向を定る事也。是を執中の法とはいふ也。物その中をとつて前後と見る時は千万の数とも」と、筆が滑るなど、手に入れた高揚感が漂う。
 ともあれ、これで、宝永4年秋から翌5年春まで間の入手と絞られ、さらに、吾仲の「宇治嵯峨賦」により、支考の京訪問は、宝永5年春3月と分かる。

二十五箇条流布の仮説
 支考が「二十五箇条」を広めたこと、また、その前後の状況をまとめ、矢印右に仮説を添えた。
<支考の入手>
・ 宝永5(1708)年3月、支考は吾仲らと花の嵯峨に遊んだ。
 → その折、嵯峨の落柿舎か、下長者町油小路西へ入丁の向井邸に於いて、去来室可南尼(在命尼)から、「二十五箇条」を譲り受け、後日の支払いを約束したのではないか。
・ 同年4月、六条の柳後園で吾仲の落髪式を行い、「夏衣」の旅に出る。越後等の旅先で、「二十五箇条」の内容を吹聴する。
 → 宝暦5から6年の行脚では、双林寺仮名碑建立の勧進及び追善俳諧参加の勧誘をしたのではないか。
・ 宝永7(1710)年3月12日、東山双林寺に於いて、仮名碑建立及び芭蕉十七回忌追善俳諧を挙行する。
 → その際、参加者に、自身が書き写した「二十五箇条」を筆写させ、代価を得ていたのではないか。
・ 同年3月18日付、福井連中宛の支考書簡により、金策に苦慮したことが分かる。
 → 不足分は、他からの融通に頼ったのではないか。実際、支払いを終えたのは、乾字金が流通開始する4月15日以降である。
<支考の佯死>
・ 翌正徳元(4/26改元1711)年8月16日、支考自らの追悼集「阿誰話」によれば、東花坊支考は自ら終焉の記を書き、筆を捨てて往生。当日は、吾仲らが葬儀を行っている。
・ 佯死に至る経緯の説に、支払い金工面のための集金活動を、「芭蕉を売る不埒者」という蕉門諸兄の批判をかわすためというものがある。4年後の正徳5(1715)年3月12日、支考は木曽寺に参り、蓮二の変名で、「爰の木曽寺には十百韻の手向を残し、洛の双林寺には七字の碑の供養をとげたるに、世の人はその功をかぞへずして、つねに利名をむさぼりて、その身をかざる人なりとそしれり」と歎く「発願文」をよめば、納得できる説である。
 → しかし、現実的な実利のある行動ではないかという推測もできる。例えば、借銭と香奠を相殺するというようなことである。自らの終焉記に「東花坊もなく西花坊もなく獅子庵もなく野盤子もなく」と、名を捨てる記述がある。これは、借銭の証文に書かれた名であろうか。証文の名が死者のもので、相続人たる妻子がなければ、無効になるという道理である。
 当時の香料は、弔問者の財力に応じて、十疋から百疋(百~千文)程度が相場だったらしいが、債権者が多数いて、それぞれ少額であれば、香奠無用で帳消しにしてもらったと、考えられないことなはい。
空阿の入手
岡崎古地図  去来と可南が住んだ家は、去来書簡により「洛東聖護院村に在り」と分かる。
 さらに、「誰身の秋」に載る支考の「送落柿先生/挽歌」に、「家は聖護院の森にかくれて 寒き梟の声に驚き」とあって、具体性を帯びる。
 元禄9(1696)年の「京都大地図」を見ると、「聖護院の森」は聖護院村の西にあった森の名と分かる。この地は、御所の西にある向井家から、1キロ半のところである。
 去来はこの家で、54歳の生涯を閉じた。そのとき、空阿は27歳で、既に中井家の養子となっている。
 空阿は、東隣の岡崎村に住んでいた。茂竹の「岡崎日記」に、「隠士(空阿)を尋ぬ。黄昏に及べり。岡崎の家並を少しばかりおくへ入りて竹林あり。奥に幽なる草庵あり。壁落ち垣崩れて、夕顔などの這い懸かれるさま、先ず哀れに覚ゆ。~、掛け物は、去来の落柿舎の起なり」とある。
 ここは、日常的に行き来できる距離で、父去来から、俳諧作法書の伝授を受けている。また、没後は、遺愛の品々を受け継いでいるが、「二十五箇条」は、伝授から漏れていた。落柿舎に残されていたのかもしれない。
 空阿からすべてを渡された茂竹の遺品に「不易鏡」がある。この書の奥書は、宋屋本「昼の錦」と干支の誤りまで同じで、支考の写した「二十五箇条」に違いない。空阿が、写したのは宝永7年3月12日以降と決まる。
 「不易鏡」と題したのは、「去来抄修行教」に出る「不易は古によろしく、後に叶ふ句なる故に、千歳不易といふ」から取ったか、父に是は「不易の鑑だ」と聞いていたからか、想像するしかない。
二十五箇条伝受の系譜
 二十五箇条伝授の系譜を整理する。
 其角と去来への伝授は、「星月夜」の記述から、二度にわたったと思われる。 <一次伝授> 
・ 貞享2(1685)年、晋子は、伏見で辛崎句の難問に遭い、芭蕉に伝目の作成を願った。ようやく、貞享4(1687)年5月成立し、其角に授けた。
・ 翌貞享5(1688)年4月、「笈の小文」の旅後、嵯峨に去来を訪ね、直に授けた。
<二次伝授>
・ その後、「糸桜のこと」「宵闇の句のこと」などの段や、「炭俵・ひさご・猿蓑」などから、証句を付け加えて完成させ、其角に伝授して旅に出る。
・ 大坂への旅の途次、元禄7(1694)年6月、落柿舎で去来に授けた。

伝授系譜

 許六への伝授も、なされている。ただ、「二十五箇条」には元禄6年10月の証句がある。同年5月6日、許六が江戸を立って以降、芭蕉は許六に会っていないので、去来が伝授した完成版の伝授は不可能である。遺品の「新式(二十五箇条)」は、杉風に与えるよう遺言している。
・ 許六は、元禄6(1693)年3月、古式の「白砂人集」(これは伝譲)と「新々式(元禄式)」を受けている。「新式(貞享式、二十五箇条)」の伝授(許六は口訣と言う)も、この頃のことであろう。
・ 許六が伝受した「新式」は、発句に関する一部が「俳諧雅楽抄」(宝永3(1706)年記)に「翁曰、」「と、翁宣ふ」として引用されている。共通部分が多いが、文章の長さや、条項の構成など相違点も多い。

<「二十五箇条」伝授の系譜>
     貞享4(1687)年5月頃伝授
    ┌─ 其角 ※ 口伝集「引続錦紙」あり。
 芭蕉─┤貞享5(1688)年4月頃及び元禄7(1694)年6月伝授
    ├─ 去来 ───── 可南 ───── 支考
    │        宝永元(1704)年相続  宝永7(1710)年買取り
    │元禄6(1693)年3月頃伝授(口訣)
    ├─ 許六 ※ 「俳諧雅楽抄」に引用。
    │元禄7(1694)年冬、遺言により伝譲
    └─ 杉風

・ 許六は、「二十五ヶ條の口訣は、先師の奥儀にして、是をしらざれば、俳諧の道にくらし。世に執心の人なき事を、先師、常になげき給ふなり。これらの事は、人の信、不信の上なるべし。(宇陀法師)」と言い、同門の伝書「秘蘊集」でも、口伝として扱っている。
<支考からの伝播>
               支考之写を写 宝永七辛卯三月十二日 ※宝永七は庚寅
             ┌ 宋屋 「昼の錦・俳諧廿五ヶ条掟」
            ┌┤ 支考之写を写 宝永七辛卯三月十二日 ※宝永七は庚寅
 芭蕉─去来─可南─支考┤├ 空阿 「不易鏡・芭蕉翁俳諧廿五ヶ条掟」
            ││ 支考の写を伝譲 宝永七寅五月
            │├ 吾仲 ※ 現存しない。
            ││
            │└ その他の俳諧宗匠・自門の弟子
            │  伝受 享保三酉十月十二日 ※享保三は戊戌
            └─ 支考門相伝本「俳諧二十五ヶ条」 ※ 加筆・変更あり

・ 支考は口訣まで買えなかった。原松が「支考は、去来死後の目録を得て、十論・貞享式(古今抄)・東花式等を自作すといへども、口訣、伝はらざれば、祖意に蹉へする事おほし(「星月夜」)」と言う通りである。


昼の錦/二十五箇条 関連ページ目録
其角伝受翻刻・校訂 昼の錦  元禄2年伝受・元禄17年相伝
米沢本を翻刻、横書きに変換。諸本と照合し訂正を加え、伝受時の芭蕉伝書を再現。
去来伝受校訂 二十五箇条  元禄7年伝受・宝永7年支考入手
初版本「昼錦抄」・宋屋本「昼の錦」・其角本「昼の錦」と照合、支考の改変部分が顕在化。
宋屋本 昼の錦・引続錦紙  宝永7年支考写本の写
初版本「昼錦抄」と、よく一致する。口伝集を併せて載せる。
校合・再現 昼の錦
諸本を校合、去来伝受本を再現。
許六伝受俳諧雅楽抄  元禄6年伝受
許六の発句作法書。口訣を得た内から、五箇条を「翁曰」と引用。
資料 資料「昼の錦/二十五箇条」 : 古今集・去来抄・七部集・三四考・寂栞などの関連部分をまとめる。
「二十五箇条」と諸伝書 : 山中問答・葛の松原・有也無也之関・貞享式海印録などとの関連を探る。
「昼の錦・二十五箇条」検討 : 去来相伝本、初版本・校正本・支考門本・宋屋本の表現を比較検討。
「二十五箇条」の伝承と空阿 : 空阿の遺品に「不易鏡」があって、宋屋本とほぼ同じ奥書を記す。
「昼の錦・二十五箇条」諸本の関連 : 其角伝受本と各去来伝受本とを比較し、校合の資料とする。

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