直旨伝・師説録/資料

資料 索引
その1元禄7年、芭蕉は、最後の旅で、芭蕉庵の資料をすべて持ち出したか。芭蕉の遺品
その2芭蕉は名古屋に立ち寄ったか。杉風宛書簡曽良宛書簡猪の早太
その3越人は、熊本へ行ったか。越人、九国へ肥後藩士 佐分利越人
蕉門諸生全伝俳諧者流奇談 夢の桟碧梧桐の炯眼
仮説 越人は熊本藩士であったそれからの越人 / 歳旦帳
越人の没年 / 誹諧古渡集越智越人略歴
その4鳳朗の祖父は、越人に会ったか。鳳朗の祖父鳳朗の父鳳朗の師
その5「直旨伝・師説録」の内容は、他の芭蕉の伝書と矛盾しないか。伝書・著作との整合
「元禄式」との一致「元禄式」による修正「元禄式」はまとめ・抜き書き
 「笈の小文」「山中問答」・「二十五箇条」

 

はじめに

 「蕉門俳諧師説録(直旨伝・師説録の二書)」の「直旨伝」は、昭和50年発見された「元禄式」の内容を含み、芭蕉俳諧の作法・式目を知る上で、極めて価値の高いものである。
にもかかわらず、ほとんど取り沙汰されないのは、何か欠陥でもあるのであろうか。ここでは、その成立の経緯を見つつ、その価値を確認していきたい。


<その1>
 ・ 元禄7年、芭蕉は、最後の旅で、芭蕉庵の資料をすべて持ち出したか。

<その2>
 ・ 元禄7年、芭蕉最後の旅で、芭蕉は、名古屋に立ち寄ったか。

<その3>
 ・ 越人は、熊本へ行ったか。

<その4>
 ・ 鳳朗の祖父は、越人に会ったか。
 ※ 「蕉門俳諧師説録(直旨伝・師説録)」の跋に「わが祖父此事を越人に受け」て、書き写し、鳳朗が、虫損・汚損の字を補ったとある。

<その5>
 ・ 「直旨伝・師説録」の内容は、他の芭蕉の伝書と矛盾しないか。


 以上を確認していく。


その1

1 芭蕉は、芭蕉庵の資料をすべて持ち出したか。
 芭蕉が、最後の旅で、芭蕉庵から何を持ち出したかは、遺言から推定でき、すべてであったろうと推察できる。

芭蕉の遺品

遺言状

① 三日月の記  伊賀に有り。
② 発句の書付  同断。
③ 新式     是は杉風へ遣はさるべく候ふ。落字これ有り候ふ間、本写を改め、校せらるべく候ふ。
④ 百人一首・古今序註  抜書、是は支考へ遣はさるべく候ふ。
⑤ 埋木     半残方にこれ有り候ふ。
  江戸 
⑥ 杉風方に、前々よりの発句・文章の覚書、これ有るべく候ふ。支考、これを校し、文章、引き直さるべく候ふ。何れも草稿にて御座候ふ。
・ 所持品の内、①②⑤は、伊賀上野に置いてあった。この年、伊賀上野には、5月28日から閏5月16日まで滞在している。
・ ⑥は、出発前杉風に預けたもの。この後に「一、羽州岸本八郎右衛門(兵衛)発句二句、炭俵に拙者句になり、公羽と翁との紛れにてこれ有るべく、杉風より急度御断り給るべく候ふ」の一文がある。
・ ③④が、所持していた遺品である。
・ その他、「芭蕉翁反故文(花屋日記トモ、文暁編)」に、「奥之細道」、頭陀袋に「杜子美詩集子美は杜甫の字(あざな)」「後猿蓑、歌仙三巻」「松島蚶潟の絵二枚」があったと出る。

① 元禄5年、出羽の呂丸が、8月に芭蕉庵を訪れ、「三日月の記」を記念に写す。呂丸はこれを羽黒に送り、行脚の途中翌6年2月、京で客死。後、羽黒の李夕の所有となり、支考の肝いりで、享保15(1730)年「三日月日記」を刊行。その序に支考は「此日記はいまだ其比の草案なるに三日月日記は伊賀にあるよし祖翁は遺状にかきたまへば其後撰の見まほしくて爰に年月もおくり侍りしかかくてかれこれにただしあはすれば蓮二を選場の証人とし百世の記念にはつたへんとぞ」と書くが、元禄5年8月までの内容で、追加は見受けられない。これは、素堂が相次いで身内を亡くし、芭蕉も病人を抱える状況があることと関係するか。
② これは、「続猿蓑の稿」と、支考が笈日記の序で言う「笈の小文」とに大別できる。
 ・ 続猿蓑の稿二巻は、猿雖のもとにあった。この撰集の「続猿蓑」或いは「後猿蓑」という名は、旅の途次「元禄7年閏5月21日付、曽良宛書簡」に、「沾圃会感心、まづは早速相勤め候段、珍重満足のよし、御申し伝へ下さるべく候。/二巻の歌仙、名のこと、相心得候よし、御申し下さるべく候。追つて、くはしく申すべく候」とある通りである。
 ・ 芭蕉は、伊賀上野に多くの文書を残している。後、「⑥杉風方の覚書」とともに、支考によって「笈日記」や「庚午紀行」などの素材とされていよう。
③ 「新式」とは、「連歌の新式」ではなく、元禄三年去来に伝授した「元禄式」のことである。去来伝授の「元禄式」の末尾に、
  右一巻者俳諧之新式也。門人去来、依懇望、即於落柿舎、自書而与之者也。
     元禄三年春三月   芭蕉翁  桃青

 とあるがごときのものである。
 元禄6年、同じような内容を許六に伝授したときには、
  新式今案之大事用連歌多、今為俳諧用捨集名新々式為此一冊、
  吾家大事極之無他、漫伝之可蒙和歌三神御罰者也、必莫重千金、仍如件

  旹(時)元禄六癸酉春三月日  芭蕉翁桃青
  森川氏許六雅丈参

 のごとく、名称を「新々式」としている。これは、「貞享式」を「新式」と称したことがあり、それと区別するための名称と推測できる。

④ 「俳諧十論(支考)」に、
 故翁は…略…洛の季吟に俳諧を学びて、「埋木」は書本にて朱点を加へたるもの二冊あり。其伝は寛文の中頃ならん。連歌の新式は、幽叟(幽斎)より伝へられて、是も頭書に朱点を加ふ。或は「百人一首の秘抄」あり。或は「古今の序伝」あり。すべては孔子に七人の師あるがごとき、……
 とある。


 この外に、遺状は、「庵の仏」などに言及するが、書き物でないので割愛した。

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その2

2 芭蕉は、最後の旅で、名古屋に立ち寄ったか。
  越人が「はからずも予の手にとどまりたる」という経緯を探る。

芭蕉書簡

杉風宛
元禄7年
閏5月21日

 …略…
 名古屋へかけより候ふて、三宿二日逗留。佐屋へまはり候ふところに、荷兮例の連衆※1、道にて抜け駆け、待ち受け候ふて、また佐屋半日一宿逗留、
 …略…
 名古屋・伊賀・膳所、俳諧なほいまだよき所に尻を掛け居り申し候ふ。そこもとの風情、存知もよらず候ふあひだ、深切に御励ましなさるべく候ふ。名古屋は「深川集」を手本に、若き者ども修業のよし申し候ふ※2。総じて俳諧評判の事などこれ有り候へども、他にあたり候事も、これ有り候へばいかがゆゑ、書きしるし申さず候ふあひだ、ほのかに筆のはしを御悟り候ふて、最もそこもと御励みなさるべく候ふ。
 …略…
    荷兮方にて
   世を旅に代掻く小田の行きもどり
    野水隠居所※3支度の折節
   涼しさを飛騨の工がさしづかな
   涼しさの指図に見ゆる住居(すまい)哉 

 句作り二色の内、越人相談候ふて、「住居」の方を採り申し候ふ。「飛騨のたくみ」まさり申すべく候ふ※4。そのほか発句も致さず候ふ。伊賀にて歌仙一巻言ひ捨て申し候ふ。

※1 荷兮らと折合いの悪かった露川の一派。佐屋街道岩塚宿か万場宿で待ち受けたのは、露川と素覧(※8・9)。
※2 大意は「名古屋・伊賀・膳所の俳諧は、古きよきころのままで、『かるみ』をまだ知らない。若い者には深川集を手本にするよう伝えた」ということ。
※3 野水は名古屋屈指の呉服商で、大和町に備前屋を構える。後、総町代になる。この年35歳、隠居に備えて新築を進めていた。
※4 「かるみ」という観点からは、「飛騨のたくみ」であろう。

曽良宛
元禄7年
閏5月21日

 …略…。
一、荷兮へ寄り候ふて、三夜二日逗留、荷兮よろこび、野水・越人同前にて、語り続け申し候ふ。朝飯・夕飯・夜食、一日に三所づつの振舞にて、是非、得参らざるかたより音物それぞれに心をつかひ、例の浮気者ども騒ぎののしり候ふ。越人かたへは朝飯に参り、夏大根の人参汁、一風流と作をはたらかせ候ふ。
 いささか心入れ候ふゆゑ、鳴海・宮へは音づればかりにて、立ち寄り申さず候へば、名古屋まで見舞に参り、鳴海へ引き返すべきよし、たつて申し候ふを、いろいろ挨拶いたし帰し候ふ※5
 名古屋古老の者どもは、少し俳諧も仕下げたるやうに相見え候ふ。旦藁といふ者は、頃日商ひにかかり、風雅もやめて居り申すよし、てんぽなるうはさなど相聞え候ふ。中老・若手さかりに勇み、俳諧もことのほか精出だし候ゆゑ、よほど「かろみ」を致し候※6
 秋冬の内、必ず迎ひを立つべきよし、達て申し候ふ。まづ請け合ひ、足早やに伊賀へ※7立ち越え候ふ。
 露川かたは、荷兮と出会ひこれ無きゆゑ、逗留の内だまり候て※8、町はづれ一里余りまで、荷兮・越人大将にて、若き者ども残らず送りて出で、餞別の句など、道々申し候ふ。
   麦糠に餅屋の店の別れかな  荷兮
   別れ端や思ひ出すべき田植歌 傘下

 そのほか、まづ忘れ候ふ。越人も挨拶など御座候ふ。
 荷兮かた別れ候あとを、露川、門人ひとり召し連れ、道にて待ちかけ、佐屋まで付き参り候ふて※9、佐屋に半日一夜とどまり、ふらちなる言ひ捨て十句ばかり、俳談少々説き聞かせ候ふ。これ(露川)はもと伊賀の在辺の生れにて候ふゆゑ、「年々伊賀へ参り候あひだ、正月ごろ伊賀へ参るべく」と、別れ候。…略…

※5 「知足斎日々記」に「二十三日、名古屋行。江戸芭蕉翁、備前屋方に見廻」。鳴海から知足が来ている。また、次項「猪の早太(越人)」によれば、住まいが熱田の羽笠、隠居所が熱田の重五も来ている。
※6 24日の歌仙「世は旅に」に見える古老は、荷兮・越人。中老は、「曠野」からの巴丈・長江(長虹)・傘下辺り。若手は桃里・桃首・大椿・初雪。
※7 主語が省略され、分かりにくい。「申す」は謙譲語だが、丁寧語にも用いられた。「今年の秋冬の内に、必ず向かいの者を行かせるので是非とも(お願いします)と(名古屋の者が)言う。(私は)ともかく引き受けて、早々に伊賀へ」ということ。「※5鳴海へ~」と同じ書きぶり。
※8 露川は荷兮らと仲が悪いので来ない。露川は、本町通りと伝馬町筋が交差する「札の辻」の数珠商、伊賀友生とものの出身。
※9 荷兮らが、岩塚宿手前の烏森かすもりまで見送る。別れた後に露川・素覧が登場し佐屋宿まで送った。佐屋山田亭で、歌仙「水鶏なくと」の18句まで、三吟。

猪の早太

越人著
享保14年

 さて、元禄七年の夏、翁、尾城に杖を曳、荷兮・野水の二亭にて、越人・重五・羽笠等の連輩会合あり。その節翁、咄の次手に「先に熱田止宿のとき、早々状を指越たるに、何とて音づれなかりしや※10」と、不審顔に尋ねられしかば、
 …略…
 此時たしかに支考が謀計、あらはれける。翁名古屋を立給ふにも、荷兮・越人、烏森(かすもり)村まで、送り、再会をちぎり申されしに、はかなや翁はその年の冬、世を去り給へり。

※10 2年半前の元禄4年10月下旬、芭蕉が熱田に着いてすぐに越人・野水宛に書いた手紙を、支考は芭蕉出立後に届けるよう桐葉に言い付けたことを言う。結果、越人・野水が熱田に行っても、芭蕉に会えなかった。この時の桐葉の言い分、今回の芭蕉の言葉で明らかになったわけである。

 芭蕉が、名古屋に立ち寄ったことは、以上で明らかである。


  月/日   事項         距離 累計(km)  「薄茶」は推定。
 5/11 深川芭蕉庵- 戸塚宿    44.2  80
 〃 12 戸塚宿  - 小田原宿   39.4 119
 〃 13 小田原宿 - 三島宿    31.4 150 ・曽良箱根まで見送る。沼津屋泊。
 〃 14 三島宿  - 由比宿    39.2 190
 〃 15 由比宿  - 島田宿    53.9 244 ・如舟亭泊。
      大井川、川止め
 〃 19 島田宿  - 浜松宿    50.2 294
 〃 20 浜松宿  - 吉田宿    35.3 329
 〃 21 吉田宿  - 池鯉鮒宿   41.8 371
 〃 22 池鯉鮒宿 - 桑名町荷兮亭 24.2 395
 〃 23 大和町の野水訪問 発句「涼しさを」。知足来る。
 〃 24 歌仙「世は旅に」
 〃 25 岩塚宿烏森辺りまで見送り   5.7 401
  〃   佐屋街道で佐屋山田亭へ   14.0 415

 ・ 大井川の川止めで三日の遅れ。「野ざらし」や「笈の小文」の旅と比べると、名古屋までの行程で、一日分を取り戻していることが分かる。


 杉風・曽良宛の書簡を見ると、尾張の連衆がまだ「かるみ」に移っていないことを、芭蕉が残念に感じていると分かる。「冬の日」で蕉風確立の原動力となった尾張の門人たちであるから、なおさらのことである。
 しかし、旅の遅れもあって、きちんと新風を伝える時間もない。そこで、芭蕉庵に蓄積された資料を渡し、秋冬に会ったときに返してもらうということにしたのではないか。こう推量すれば、「はからずも予の手にとどまりたる(師説伝、越人序)」という経緯は、納得できる。

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その3

3 越人は、熊本へ行ったか。
 これは、直接的な証拠がない。しかし、「行ったとしたほうが合理的」である。
 一方、「行かなかった」という証拠はない。
 以下、資料を整理しつつ、否定できない部分を青字で示していく。

越人、九国へ

評伝
俳諧二百年史
元禄之巻

斎藤渓舟
隆文館
明治44年

 千代倉千足知足は尾州鳴海の人にして、一家皆、俳諧の風流に遊べりとて、其の名高し。
遺著「伊賀さくら」中に、築山または窪田猿雖に対して、越人の事をほのめかせる一節あり。
 越人叟は、まこと得難き器量にてありき。此叟、前かた、我ら方にも、つとつと訪れ来られしが、常にはあまり口もきかねど、時に俳諧をいふて、夜を明すも飽ず。
 当門の為には不易得殊勝なり。若、此叟にしてなほ在ば、我らも俳諧の先見とよろこぶなれど、今の世の俳諧は、唯争論のみにて、我よくば人は何でもよしと、他を非謗誹謗して、自ら人の上に立んとす。
 浅間しきは今の風流なり。されば、此叟はやく火宅の風流をのがれて、九国に下るは、かへつて当門の安堵なりしか。

 とありて、越人が熊本に帰参せるは、却つて同人の為め、当風のために喜ぶべき事なりとせり。如何さま、越人にして其後なほ尾州に在りしならむには、彼と支考、露川一輩の間には、必ずや殺風景なる事件が出来ししに相違なからむ。知足が「かへつて当門の安堵なり」と云へるは、其の当を得たりといふべきのみ。

* 「九国に下る」を「熊本に帰参せる」と飛躍しているのは、次項「肥後藩士 佐分利越人」のような説によるのであろう。

知足と越人

 「伊賀さくら」は知足の遺稿なので、宝永元(1704)年(元禄17年3月に改元)までの稿としてよい。
 この時期は、「越人が名古屋にいたという記録が見当たらない約20年間」の中程である。
 知足がいた鳴海宿は、熱田に隣接する。現在は、ともに名古屋市に編入されている。名古屋にほど近く、熱田には、桐葉・羽笠・重五らもいるので、「九国に下る」という情報は、すぐ得られていたであろう。また、越人のいた桑名町と目と鼻の先と言ってよい「札の辻」に住む露川とも交流があった。知足逝去の半年前、元禄16(1703)年10月下旬、露川が団友(涼菟)らと、千代倉に止宿していることが「知足斎日々記」に記され、そのときの歌仙二巻の一部が「千鳥掛」に出る。丁度「伊賀さくら」を書いている頃である。越人の移住が、露川との話題に上ったであろうことも想像に難くない。


 以上、知足の記録により、名古屋において、越人が「早くから九州に移った」と言われていたことは明らかである。「早くから」と表現されている。芭蕉の没後に、尾張蕉門内の確執が深まった頃で、「5~10年前のこと」であろう。


 九州、さらに限定して「熊本へ行った」ことを、師説録から探る。
 鳳朗の跋には「然して、わが祖父此事を越人に受けて、反故の裏に書写す」とある。しかし、「どこで」が書かれていない。祖父は熊本の人であるが「越人に受け」た場所は、熊本とは限らない。
 あきらめて、他の記録から探る。

肥後藩士 佐分利越人

肥後先哲偉蹟
武藤厳男
隆文館
明治44年

① 名は氏恒七兵衛と称し、俳名を越人と云、三十口米を賜はり、大組おおぐみたり、芭蕉の門に入り、俳諧を善くせり、元禄十五年三月十四日没す、享年未詳、坪井流長院※1に葬る、

  一 俳諧者滑稽之流也、而其始也戯謔而已、及芭蕉翁
    同其体裁、而変風旨、然後言近而指遠者有焉、謂
    之正風、吾藩佐分利越人、嘗出居濃州、学於翁門、
    及其後帰也、職事鞅掌、不暇伝人、正風自綺石子
    云、(下略○久武綺石墓表)

① 熊本の佐分利越人は、享年未詳、元禄15年没とあるので、正徳5年年歳旦吟を残す名古屋の越人とは別の人と分かる。
※1 熊本坪井の流長院(曹洞宗)である。
② 綺石の墓標に記された文の一部である。熊本の俳人綺石は、鳳朗より8歳上、文化2(1805)年51歳で没。越人が没したという元禄15年から103年経過している。

・ 一 芭蕉翁、越人と同伴して、伊勢四日市に宿り、…略…
・ 単なる逸話なので略す。芭蕉と越人が四日市へ行った事実は見当たらない。
③ 一 芭蕉の門、佐分利越人、元禄十五壬午年三月十四日没、佐分利氏、通称平次郎、肥後熊本の藩士なり、故ありて仕を辞し、尾州名古屋に来り、紺屋を業とす、後芦夕・芦碩などと称せり、墓は熊本流長院にあり、
③ 引用元不明。内容は「俳諧小伝(光久輯、弘化2)」に近い。
④ 一 越智越人、通称平次郎、眉山子と号す、肥後熊本の士にして、佐分利流槍術家なり、禄五百石を食せし、細川侯の近習たりしが、好色の癖ありて、吉原遊女を家に迎へ、之が為に改易せられ、従弟の知行所、尾州知多に移住す、ややありて、名古屋桑名町に染工の業を創め、菱屋重蔵と称す、後赦されて国に帰り、其主越中守の名を憚り、越人を改めて蕗磧と号し、芭蕉に従ひ俳句を能くす、芭蕉其女色に溺るるを見て、終らざるを憐み、曽て行脚の句ありしも、疎んじて其家に寄食せず、越人之を後悔し、羨まし思ひ切る時猫の恋の句あり、芭蕉其慚愧を嘉し、後の選集に此句を加へしと云、元禄十五年三月十四日没す、著す所不猫蛇・蕉門正風仰説録師説録あり、 (好古類纂)
③④ 通称・別号・没年・経歴等が一致している。
⑤ 一 雪渓苔恥居士、元禄十五壬午年三月十四日、(墓石文・過去帳)墓坪井流長院にあり、(過去帳に佐分利平右衛門父俳名越人とあり)佐分利七兵衛氏恒、 (家記)
⑤ 戒名に「恥」の字を入れるのであろうか。意味もさることながら、この字音は、通常戒名に用いない。過去帳の子の名「平右衛門」は、⑦に一致する。
⑥ 一 先祖佐分利左京亮、代々尾州一宮荘に居住、今に子孫彼地に居候、
左京亮嫡子佐分利作左衛門儀、織田信長幕下にて、所々御陳ごじん、御陣に御供仕、
其後加藤主計頭かずえのかみ、清正殿宇土熊本市の西南出陣の砌、佐左衛門嫡子佐分利兵太夫、父子一同に罷越、帰陣の上、父子名々に、知行八百石づつ下され、感状をも給り侯、
然処存念有之、彼家を立退、上方に罷越侯処、於豊前三斎細川忠興様、慶長十三年父子共召出され、御知行八百石づつ拝領、両人共御鉄砲三十挺頭相勤、
寛永九年、当御国に御供罷越、作左衛門儀、有馬御陳に御供仕相働、後御番頭、作左衛門、二男加左衛門、親跡相続仕候、右兵太夫三十挺頭、寛永十三年八月病死、御知行の内五百石嫡子彦左衛門、三百石は二男清太夫へ分知奉願拝領、清太夫儀壮年にて病死、断絶、
右彦左衛門(長成)儀、後兵太夫と改、五百石御鉄砲二十挺頭、寛文十一年御暇、
⑦ 養子七兵衛(氏恒)実は島又左衛門三男なり、
養父兵太夫御暇後、実方兄御旗本島角左衛門領知、美濃国の内に七年罷越居、
元禄四年十月帰参仰付られ、三十人扶持拝領、大組付相勤居、
病気に罷成、御扶持方差上申度奉願候節、柏原新左衛門を以、段々御懇の御意筋にて隠居仰付られ候、
妻佐分利長政女、二代平右衛門、(政高)七兵衛嫡子なり、元禄九年十二月三百石拝領、大組付、後勘左衛門と改、

三代平左衛門、(政恒)実は島又之允弟なり、御番方、御小姓組、
四代兵太夫(正虎)御番方、御小姓組、御使番、
五代平右衛門(二百五十石)御番方、
六代平八、(二百石)御番方、御小姓組、
七代勘左衛門、(百石)御番方、
八代平内、実は弟なり、御番方、
九代彦左衛門、実は平野新四郎二男なり、御番方、番士、
⑧ (諸家先祖付○厳云、諸家先祖付佐分利家記には、越人の通称七兵衛とあり、俳諧集好古類纂には平次郎なり、美濃に寓居せし比平次郎と称せしものか、未確証を得ず、日(同)?類纂に、越人の失行によりて改易せらるとあれども、養父平太夫暇を賜はりしものなり)

⑥ 越人らしき佐分利七兵衛、4代の祖を書いているが、俳諧師越人とのかかわりは示されない。
・ 祖先は、佐分利左京亮(越人高祖父)で、尾張の一宮に住む。
・ その嫡男作左衛門(越人曽祖父)は信長に仕えたが、後、嫡子兵太夫(越人祖父)と、清正の宇土(熊本の南西)出陣慶長5(1600)年に随い手柄を立てる。思う所あって上方に行くが、慶長13(1608)年忠興の命で親子共豊前に移り、それぞれが知行を賜る。
・ 作左衛門の知行はその二男加左衛門が継いだ。
・ 寛永13(1636)年兵太夫が病死。その跡は嫡子彦左衛門(越人父)と二男清太夫が分けて継いだが、清太夫は病死し断絶となる。
・ 彦左衛門は名を兵太夫と改め、寛文11(1671)年御暇おいとまとなった。暇の理由を示していない。
⑦ 越人と覚しき七兵衛の実父は島又左衛門であった。
・ 「柏原新左衛門定治」は、延宝4(1676)年から旅家老、元禄6(1693)年から中老を勤める重臣。
・ 養父兵太夫(彦左衛門)御暇の後、越人は、美濃に住む実の兄島角左衛門のところへ移った。
・ 「七年」は、「御暇後7年」か「延宝7年」か「7年間」か不明。
・ (三代肥後熊本藩主細川越中守綱利に、)元禄4(1691)年10月帰参を命じられた。三十人扶持、大組付を勤めたが、病気になり隠居した。隠居、即ち家督を子に継いだということになる。
・ 妻は、佐分利長政女である。
・ 二代は、平右衛門(政高)、嫡子である。元禄九年十二月三百石拝領、大組付、後に勘左衛門と改名。 …以下略…
⑧ 編者注釈
・ 諸家先祖付の佐分利家記には、越人の通称は七兵衛だが、好古類纂(④)には平次郎とある。
・ 類纂(④)に、「越人の失行によりて改易せらる」とあるが、養父平太夫(兵太夫)が暇を賜ったものである。家督を継ぐための養子であり、相続前に御暇となったのであるから、極めて道理に適っている。「兵太夫」を「平太夫」とするのは、「蚊帳釣草(碧梧桐、明治39年)」(後述)を参照したか。
 ※ 「緑字」は、後段「仮説 越人は熊本藩士であった」で引く。

<佐分利家と越人>
①~④は、⑤~⑦を根拠としたものである。
・ ⑤は私的な記録、⑥⑦は公的記録である。仮に事実としても、俳人越人と佐分利家をつなぐ根拠となり得るのは、⑤「過去帳に佐分利平右衛門父俳名越人とあり」のみである。
・ 但し、俳名が越人というだけであって、名古屋の越人とは限らない。しかも、熊本にあって「越中の守の名を憚った」のであれば、「芦夕・芦碩・蕗磧」であらねばならない。
<佐分利家と尾張>
・ ⑥に尾張一宮とある。一宮の佐分利姓は、佐分さぶり・さわけとして残る。佐分利姓は、尾張知多の佐分利から出たとされる。
・ 知多に承久3年築城の佐分利城跡がある。今は佐布里そうりという地名が残る。
・ 隣国美濃に実兄島角左衛門がいる。岡山大学池田家文庫の美濃国図に「美濃国高目 テ一高千石・島角左衛門」とある。養父御暇の後、頼っている。
・ なお、島姓は黒部発祥ともされ、高岡・富山・黒部に多い。
①③④の略歴は、幕末・明治のものである。それより以前に作られたものを見る。

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蕉門諸生全伝
曰人著
文政年間
(1818~1830)
成立

日本俳書大系第15巻
俳諧系譜逸話集
勝峰晋風編
日本俳書大系刊行会
昭和2年
越人
⑨ 佐分利勘左衛門、肥後熊本馬廻リ広間番、佐分利流之槍術家也、(別家也)。細川越中守殿近習也。好色人ニテ吉原遊女ヲ請出シ、屋敷ニ置がたく改易せらる。
⑩ (羨し思切時の句あり。)
⑪ 尾州従弟ノ知行所知多ト云処ニユカリヲモトメ行カクレ住ム。
⑫ (鳰のうき巣の句あり。)
⑬ 尾張野水之輩不便也トテ、紺屋ノ株ヲ世話ヤキニテ、名古屋伊勢町杉ノ丁(クワナ丁ナリ)ト云処ニ菱屋重蔵ト名ヲ改メ、染物ヲ以身過トス。
⑭ サシタル咎ナラネバ槍ノ家ナレバ召かへされタリ。三年御暇ヲ延被下ト願、染物借貸ヲ片付帰国ス。越中ノ守ノ越ノ字ヲハゞカリ、越人ヲ改メ蕗碩ト改ム。
⑮ 三年ト云時ニ死ス。流長院ニ墓アリ、
⑯ 不猫蛇集ヲアラハス。
⑰ ナゴヤ入江丁本通西へ入寺ニハカアリ。
⑱ 成瀬来書、三家ノウチ、五百石・三百石・二百五十石越人ナリ。
⑲ 鴬笠談也。
⑳ (晋風曰、此説大ニ誤レリ、越人は越智氏、佐分利氏ニ非ズ、又熊本ノ士ニ非ズ、北越ノ人、名古屋ニ於テ享保ノ末年歿セルナリ。鴬笠即チ鳳朗ノ誤リ伝ヘタルモノゝ如シ。)

⑨ 「勘左衛門」は嫡子の名である。⑱の石高も、子と取り違えたか。また、⑧のとおり、越人は相続していないから、改易はありえない。これは、父兵太夫と取り違えたか。
⑩ 元禄4年7月の「猿蓑」所収。
    うらやましおもひ切時猫の恋 越人
※ うらやまし世をもしのばずのら猫の妻こひさそふ春の夕ぐれ 定家 (逆志抄)
※ うらやまし声もをしまずのら猫の心のままに妻こふるかな 定家 (北条五代記)
⑪ いつかと従弟名を示さない。⑥注のように、知多に佐布里があるので、佐分利家の縁と思わせる。
⑫ 「鳰の浮巣」は、「俳諧白雄夜話(天保4(1833)年刊)」に出る。
 一 越人が鳰の巣
 此人、俳諧に名高しといへども、色に耽る病あり。蕉翁、是をいましめ給ふに、かしこまり、翁の境界を深く羨み「おのれも生涯妻妾の覇につかはれ候まじ」と、かたく契約申せしに、頼母しくおぼしけん。翁かさねて尾張の国わたらひし給ふのついでに、渠が家をとひ給ひしに、稚き子のふたり迄、戸外にゆあみして居たり。越人いと恥らひて
 はづかしや鳰の浮巣を見せもふす
 と書つけ、翁へまゐらせしに、約のたがひたるをうらみ給ひけん。よしあしの沙汰もなく、履はきものだにとかで、帰り去給ひしと、色に耽る人は、必偽りもいふなるべし。
 後に越人、勘事を得たる、口おしき事なり。

 ・ 面白半分の物語である。
 「俳諧小弓集(東鷲、元禄12(1699)年)」に
    老師に茅屋を訪はれて
   御目にかくる鳰の浮巣ぞ恥しき

 とある。越人が夏に芭蕉を迎えるのは、元禄7年5月だけで、この時朝食に「夏大根の人参汁」を振る舞っている。

越人叟之墓

⑬ 岡田野水は清洲越しである。仮に越人が佐分利の出であるとすれば、祖父・曽祖父の代に、行政の中心地であった清洲で、両家の交流があったとして差し支えない。
・ 「伊勢町杉ノ丁」は、京都式の住所表示である。南北の伊勢町通りと東西の杉ノ町筋との交差する辺りを指す。「クワナ丁ナリ」とあるが、中央の本町通りの3本西が桑名町通り、3本東が伊勢町通りで随分異なる。
⑭ 元禄4年10月に召還され、3年の猶予をもらえば、元禄7年5月に名古屋にいる事実と矛盾しない。
⑮ 「三年ト云時ニ」が分からない。帰参後とすれば、元禄15年没であるから、元禄12年に帰参となり、⑭に会わない。
⑯ 「不猫蛇」は、享保10(1725)年であるから、⑮に没年が書けない。
⑰ これも京都式、東西の入江町筋と南北の本町通り交差点西に長円寺がある。「負山子越人叟之墓」とのみ彫られている。越人の没年は享保19(1734)年から元文元(1736)年と推定される。
⑱ 「成瀬」氏は尾張藩家老・犬山城主。来書は書面の情報。「三家」が分からない。
⑲ どこからどこまでが「鴬笠談」か、示されていないが、鳳朗の知り得る内容は(括弧内)であろう。
⑳ 底本「日本俳書大系」の編者勝峰晋風の注釈。「北越ノ人」とするが、根拠を示さない。北越とは、越中と越後(富山と新潟の一部)のことで、特に越後を指す。
・ 晋風は、大正・昭和の俳人で国文学者。この人による鴬笠(鳳朗)の扱いは、次項の通り。

俳諧者流奇談夢の桟

俳諧者流奇談
夢の桟

行過大人撰
語免名斎校
勝峰晋風編
天青堂
大正13年

<越人、鴬笠を責む>
 江戸西の窪に卜居す田川鴬笠、大に江戸座を満し、大家めかし高ぶりける。ある日俳諧の会をはり、経済の工夫に倦て、良やや暫く頭をかたむけ、一睡の夢に、古人越人が、うら山しおもひ切とき猫の恋といふ句の霊魂に出合たり。かの句忽ち猫と変体し大声をあげて、鴬笠鴬笠と呼ぶ。鴬、立止まり、汝は是猫ならずやと問へば、しかり、此句越人が作られしに、…省略…
<編者頭注>
 鳳朗、熊本出身にて其の俳系を高くせん為め越人の系統なりと自称し、熊本に越人の墓ありとの説を流布せるが、同人(曰人)蕉門諸生全伝※1その他皆欺かれて佐分利氏とす、虚誕にして信ず可からず。
<解題>
  夢の桟の外題に代へて     勝峰晋風
 「誰れだえ、鴬笠は?」
 「鳳朗だ。越人の伝統だといふが、何でもありやしない。大山師だ。俗説に、越人は熊本の藩士で元禄十五年に死んだ事になつてるが、享保十年名古屋で越人一派の出した歳旦帖がある程で大嘘だ。越人の事蹟不明瞭なのを好い事に佐分利勘左衛門つて、縁もゆかりもない人間に結びつけ、自分がその俳系をついでるなんて、江戸の俳諧師をごまかして、売名手段に用ひたので、不埓な奴だ。蕉門師説録を読んだもの(者)で、鳳朗の偽説に惑はされない者はない」
 「ぢや、明治以前には、鳳朗は越人の後継者と信じられてたのだね」
 「明治になつても、洒竹やその他の俳諧史家※2は、越人を熊本の武士とばかり信じて来たのだ。碧梧桐がそれに疑ひをはさんだ※3のはさすがに炯眼だ」
※1 「蕉門諸生全伝」の越人についての事績を「すべて鴬笠からの情報」と誤る。これについては、後述。
※2 洒竹や鳴雪、秋旻らを指す。例えば、洒竹は「俳家系譜(経済雑誌社、明治29年)」で越人の系譜を
                       ┌草野聞二
 越人─[此間伝統不詳]─田川鼎山─田川鳳朗─┼古川風外
                       └稲田鳳棲

 とする。鳴雪・秋旻も、「日本俳諧史(明治44年)」で、このような系譜を示す。
※3 碧梧桐は「疑いを挟んだ」のではなく、根拠を示し、否定すべきは否定している。次項に整理しておく。

碧梧桐の炯眼

蚊帳釣草

碧梧桐著
俳書堂
明39年

㋑ 越人の著書 「不猫蛇」は、支考の「本朝文鑑」と「俳諧十論」を弁駁したものである。
・ 「本朝文鑑」は享保二年の著である。
・ 「俳諧十論」は、享保四年である。
 (よって、)越人が元禄十五年に没したものとすれば「不猫蛇」は其著書ではない。「不猫蛇」が越人の著であるとすれば、越人は元禄十五年に没したのではない。
 きちんと根拠を示し、「かほど明らかな事が今日迄等閑に付してあるのは寧ろ奇怪」と言う。
㋺ (越人の)「鵲尾冠」、~享保二年に外ならぬ。この書の編年も亦た明白。~、元禄十五年没すといふ説は全然誤伝である
 この外、記述内容からも説明を加えている。
㋩ 得川氏熊本の俳人曰く、
「市内流長院に赴き調査仕候、左の通りに御座候」。
  雪 渓 苔 恥 居 士  元禄十五壬午/天三月十有四日
  苔陽院天翁円清太姉  享保十七壬子/天閏五月十二日

   (高さ五尺五寸許、葛蔓之を縈ふまとう、まつわるの意
 夫婦合葬の墓標である。夫が道号・戒名・位号、婦が院号・道号・戒名・位号となっている。両者の没年は30年の差がある。
越人墓、朱㋥ 観魚氏名古屋の俳人曰く、「名古屋長円寺に越人の塚ある由、熊本流長院に葬りし由各書に明白なれば、髪塚位など噂せしことあり。早々参詣仕候。先のとがりし四角にて『負山子越人之墓』の文字あり。外に文字無く道標の如く候。されど、ここに注意すべきは、右越人の文字中に朱を入れし痕跡あること、~死後に建てたるものとは思はれず。~過去帳を取り調べ候ひしも、遂に見当たらず~」。
※ さらに90年以上たった今日、朱の痕跡も薄れている。
 観魚氏は、「過去帳にないこと、没年が彫られていないこと」を根拠に、「越人はここに葬られていない」と結論付けている。根拠としては弱い。
 また、報告書の墓碑銘に「叟」が抜けている。朱が残っていれば存命中の建立であるが、「叟」は老人名に付ける敬称なので、自ら設けたものとは考えづらい。
㋭ 熊本埋骨の跡片もなき訛伝であることを知ると同時に、~観魚氏の示教は、~越人の新たな生涯を知る端緒となるかも知れぬ。
 厳密な表現である。「知った」のであって、推量・推定・断定ではない。
㋬ 得川氏によると、
・ 佐分利家の系図で、雪渓苔恥居士に、俳人としての事歴なし。
・ 遊女云々は、佐分利平太夫兵太夫の逸事であること明白。
・ 佐分利家は名古屋付近の出で、親戚もあり名古屋へは屡々遊びに行ったらしい。
・ 同時代なので、真の越人と来往したかも知れぬ。そんな事から越人と平太夫とを混ずるに至ったのであろうという推測談~ 。
 武家の系図に俳諧など道楽のことは書かないのが通例である。私的な過去帳には「俳名越人」とある。
㋣ 「俳諧小伝」に別号眉山子とあるは負山子の誤りである。「鵲尾冠」に「負山走る」と由来を示してをる。
 「峨眉山」論中に「負山走る」とある。これは、間違いやすい。また、眉山は鳳朗の別号である。
 碧梧桐の指摘を整理すると、
・ 越人は、元禄15年に没していない。
・ 越人の別号は「負山子」で「眉山子」ではない。
この2点に限られる。
「熊本流長院埋骨」については、「誤伝と知った」のであり、指摘ではない。

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 ここまでに出た、越人の名を整理しておく。
 ┌──┬────┬────┬────┬────┬────┬────┬────┬────┐
 │  │ 過去帳 │ 先祖付 │肥後先哲│俳諧小伝│好古類纂│諸生全伝│蚊帳釣草│名家全伝│
 │  │    │ ・家記 │偉蹟  │    │    │・夢の桟│    │    │
 ├──┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┤
 │  │ 七兵衛 │ 七兵衛 │ 七兵衛 │     │     │     │     │ 七兵衛 │
 │通称│     │     │     │ 平次郎 │ 平次郎 │     │     │ 兵太夫 │
 │  │     │     │     │(平治郞)│     │勘左衛門│     │ 勘助 │
 ├──┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┤
 │養父│     │ 兵太夫 │     │     │     │     │ 平太夫 │     │
 ├──┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┤
 │嫡子│     │平右衛門│     │     │     │勘左衛門│     │     │
 ├──┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┤
 │ 名 │ 氏恒 │ 氏恒 │ 氏恒 │     │     │     │     │     │
 ├──┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┤
 │俳号│ 越人 │     │     │ 芦夕 │ 蕗磧 │     │     │     │
 │  │     │     │     │ 芦碩 │     │     │     │     │
 ├──┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┤
 │屋号│     │     │     │菱屋重蔵│菱屋重蔵│     │     │     │
 └──┴────┴────┴────┴────┴────┴────┴────┴────┘

 越人の通称が父や子の名と重なるが、子が父祖の名を襲うことは通例であり、棄却できない。
 帰参後の俳号の典拠は不明である。

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 以上のように、「越人は、熊本へ行ったか」という問いの答えは得られなかった。
 しかし、否定しきれないものが三つ(青字)あった。
㋑ 知足「伊賀さくら」に、「此叟はやく火宅の風流をのがれて、九国に下る」。
 ・ 「はやく」は、「芭蕉没後尾張蕉門内の確執が深まり、事の起こらぬ内に」と解することができる。
 ・ 知足は、名古屋近隣鳴海宿の人で、親交のある越人の消息をとらえることは容易である。
 ・ 知足「伊賀さくら」の著述は遺稿である。知足没の半年前、越人と対立する露川が投宿しているので、越人の消息に誤りがあれば修正できる。
㋺ 「肥後先哲偉蹟」に、「過去帳に佐分利平右衛門父俳名越人とあり」とある。
 ・ 子の名「平右衛門」は、「先祖付・家記」と一致する。
 ・ この過去帳の記述が、挿入または別の筆跡であれば、後人の改竄と疑うが、確認していないので、信ずるのみである。
 ・ 仮に改竄でないと判明しても、「越中の守の名を憚」らぬ「越人」とするのは、疑問が残る。
 ・ 但し、過去帳にある「元禄十五壬午年三月十四日没」は否定される
㋩ 曰人「蕉門諸生全伝」に「成瀬来書、三家ノウチ、五百石・三百石・二百五十石越人ナリ」とある。
 ・ 「成瀬」は尾張藩家老・犬山城主成瀬正寿である。仙台藩士曰人は、踏査により蕉門俳人の事績を著した。元犬山藩士丈草の項、尚書に「右は成瀬侯臣 尾州犬山、酒井佐四郎南窓珉古ニ、曰人直ニ聞ク。外ニ八人、荷兮・野水・杜国・越人(鴬笠ニモキク)・重五・露川・知足・史邦」とある。
 ・ 成瀬来書は松平冠山(鳥取の藩主池田定常、文学研究者)宛書面の情報。文学研究者である冠山の求めに応じ、尾張藩家老である成瀬氏が、資料を基に責任を持って回答したものと思われる。これを無下に否定する事はできない。
 ・ 上記「越人(鴬笠ニモキク)」の「にも」に着目すると、主に聞いたのは酒井佐四郎南窓珉古からであり、鳳朗は付け足しである。「蕉門諸生全伝」における越人の項のどこが鳳朗の付け足しか、晋風の活字本でなく、曰人の自筆本で、書き様を確認する必要がある。
  ・ 上記を踏まえ、改めて8人の記述を見ると、人別帳のような資料を基にしたものが目立つ。越人についても、俳諧師鳳朗が得た情報ではなく、大半は、尾張藩家老成瀬侯臣酒井氏から得た情報であろう。「鴬笠談」は、せいぜい括弧内のものではないか。

 では、以上を満足させる越人の伝は、成り立つのであろうか。先ず、否定しきれないものを再掲する。
㋑ 芭蕉の没後、尾張蕉門内の確執が深まる中、早くから越人は九州へ移った。(元禄8~12)
  此叟はやく火宅の風流をのがれて、九国に下る。(「伊賀さくら」)
㋺ 熊本の佐分利七兵衛氏恒の俳号は越人であった。
  過去帳に佐分利平右衛門父俳名越人とあり。(熊本流長院「過去帳」)
 ただし、越人は、元禄15年に没していない。(「蚊屋釣草」)
㋩ 越人は二百五十石取りの武士であった。
  成瀬来書、三家ノウチ、五百石・三百石・二百五十石越人ナリ。(蕉門諸生全伝)
 また、蕉門諸生全伝の尾張蕉門俳人8人の記述は、尾張藩家老の臣酒井氏から直にきいたものであることは、丈草の項尚書のとおりで、再確認しなければならない。
 なお、「庭竈集(越人編著、享保13(1728)年)」に元禄元年の芭蕉句と詞書きがある。
 尾張の十蔵(重蔵)、越人と号す、越路の人なれば也※1粟飯、柴薪のたよりに市中に隠れ※2、二日勤めて二日遊び、三日つとめて三日あそぶ。性、酒をこのみ、酔和する時は平家をうたふ。これ、我友なり。
    二人見し雪は今年も降りけるか 芭蕉

※1 「越路の人なれば也」は、「俳諧雑筆(伊藤松宇著、明治書院、昭和9年)」で、「正しく越人の越の国人なる事は、芭蕉翁が裏書をして居る事になる」としている。越人も「鵲尾冠」で、自ら「越路の者に候」と言っている。「越路」は「北陸道」のことで、7か国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)の総称である。範囲が広すぎる。普通は出身国で言うところである。
※2 「粟飯、柴薪のたよりに市中に隠れ」とある。一般町民には用いない表現であろう。「隠れる」は、身を人目につかないようにすることであり、「紺屋重蔵は、世を忍ぶ仮の姿」と読める。「然してその実体は」と続けてほしいところであるが、この時代隠れ住むのは、凶状持か訳あり士分くらいのものであるから、言う必要はなかったかもしれない。ともあれ、これは、㋩を補完する証拠なり得る。

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越人物語 - 月入りて影ぼし我に成にけり -

仮説 越人は熊本藩士であった
明暦2(1656)

1歳
・ 島又左衛門三男として生まれる。名は七兵衛(氏恒)。<肥後先哲偉蹟、先祖付>
・ 島某の二男なり。<俳諧名家全伝
※ 「俳諧名家全伝」は、以下見てきたかのように詳しいが、情報源が分からない。
万治4~
寛文5

6~10歳
・ 佐分利彦左衛門(長成、後兵太夫と改、五百石御鉄砲二十挺頭)の養子となる。<肥後先哲偉蹟、先祖付>
・ 稍長じて佐分利氏の養子となる。<俳諧名家全伝>
寛文11(1671)

16歳
・ 寛文十一年御暇。/養父兵太夫御暇。<肥後先哲偉蹟、先祖付>
・ 佐分利勘左衛門、肥後熊本馬廻リ広間番、佐分利流之槍術家也、(別家也)。細川越中守殿近習也。好色人ニテ吉原遊女ヲ請出シ、屋敷ニ置がたく改易せらる。<蕉門諸生全伝>
・ 稍長じて佐分利氏の養子となる、後数年を経て、養父某罪あり俸禄を没せらる。<俳諧名家全伝>
※ 「勘左衛門」は子の名。資料の読み誤りか。「吉原遊女」で江戸詰と分かる。父が健在であり、16歳の越人は家督を継いでいないから、改易は父のことに決まる。
寛文11~
延宝6頃

16~23歳
・ 養父兵太夫御暇後、実方兄御旗本※1島角左衛門領知、美濃国の内に七年罷越居。<肥後先哲偉蹟、先祖付>
・ 尾州従弟ノ知行所知多ト云処ニユカリヲモトメ行カクレ住ム※2。<蕉門諸生全伝>
・ 養父依つて以て氏恒を実家に復せんと欲し、之れを語ぐ(つぐ)、氏恒泣き且つ嘆じて曰く、仮令養父たりといへども、是れ我が父なり。今や父藩籍を失ひたりとて、いずくんぞ去るに忍びんや、死すとも其の奉養を怠らざるは児の願なりと、逐に父に従ひて国を出で、知己の人を便りて、美濃の加納※3に移る。<俳諧名家全伝>
※1 美濃の旗本とあるから二男への分知であろう。島角左衛門は千石取であった。
※2 「知多~カクレ住ム」とある。尾張藩の情報とすれば、佐分利方「従弟知行の地」は正しいであろう。しかも、知多の佐布里は、佐分利家発祥の地であるから、ありそうな話である。
※3 この「加納」が角左衛門の所領であれば信じられる。
延宝7~
天和4頃

24~29歳
・ 尾張野水之輩※1不便ふびん=不憫也トテ、紺屋ノ株ヲ世話ヤキニテ、名古屋伊勢町杉ノ丁(クワナ丁ナリ)ト云処ニ菱屋重蔵ト名ヲ改メ、染物ヲ以身過トス。<蕉門諸生全伝>
・ 後幾ばくもなくして父没す、氏恒乃ち家を提げて名古屋に移る、はじめ江戸に在りしとき、既に芭蕉の門に入る※2、爰に至つて専ら身を俳諧に委ぬ。<俳諧名家全伝>
※1 上から目線で「野水のやから」とある。鳳朗談ではあるまい。
※2 越人が「はじめ江戸に在りしとき」は、養父が江戸詰であった寛文11年までのこと。芭蕉が江戸に出たのは寛文12年なので、「名家全伝」は、真っ赤な嘘。
「鵲尾冠」
杜国子は予が羈客たるをあはれみ※3、旦暮懇情を尽さる。おもふに管鮑が昔に似たり。彼は富り、我は貧なり。与へて報を思はず、同志断金の情浅からず。さらに、予が誹諧の手を引、泣み笑みせしも、去て三紀に近し。其馴睦びし年月の深ければ※4、時として夢に入り、昔をかたり、さめて又、夢を泣く。
※3 羈客きかくとは、旅人のことである。これを「憐れみ」とある。「諸生全伝」には、「野水~不憫なりとて」とあった。これは、父兵太夫が、お暇となり、16歳の氏恒(越人)も流寓の身となったことと重なる。
※4 杜国が尾張を追放となったのは、貞享2(1685)年8月である。「年月の深ければ」とあるが、これは、越人が桑名町に来てから、それまでの期間である。2年や3年ではない。少なくとも5年はたっている表現であろう。ちなみに、氏恒が越人とすれば、父が藩籍を失ったのは、寛文11(1671)年。「7年間実兄の領地美濃に罷り越す」から、最大7年間となる(30歳)。
貞享元~
元禄7

29~39歳
 貞享2年の「春の日」に名が出てから、元禄7年5月に芭蕉を迎えるまで、名古屋にいる。
・ 粟飯、柴薪のたよりに市中に隠れ二日勤めて二日遊び、三日つとめて三日あそぶ。。<庭竈集、元禄元年芭蕉詞書>
元禄4~
元禄7

36~39歳
・ 元禄四年十月帰参仰付られ、三十人扶持拝領、大組付相勤居。<肥後先哲偉蹟、先祖付>
・ サシタル咎ナラネバ槍ノ家ナレバ召かへされタリ。三年御暇ヲ延被下ト願、染物借貸ヲ片付帰国ス。越中ノ守ノ越ノ字ヲハゞカリ、越人ヲ改メ蕗碩ト改ム。<蕉門諸生全伝>
 「蕉門諸生全伝」は、帰参の理由を示す。3年の猶予で、丁度元禄7年が帰参期限となる。
扶持米30人は、手取り50石、知行に換算して100石程度だが、中村主水の10倍もある。
・ 成瀬来書、三家ノウチ、五百石・三百石・二百五十石越人ナリ。<蕉門諸生全伝>
 三家とあっても、どの三家か、どのような資料に基づいているか分からない。子や父と取り違えている可能性がある。
元禄8・9年

40・41歳
・ 此叟はやく火宅の風流をのがれて、九国に下る。<伊賀さくら>
・ 病気に罷成、御扶持方差上申度奉願候節、柏原新左衛門を以、段々御懇の御意筋にて隠居仰付られ候、妻佐分利長政女、二代平右衛門、(政高)七兵衛嫡子なり。<肥後先哲偉蹟、先祖付>
 病気になったので、扶持を返上したい旨願いを出したところ、家老の計らいで隠居となった。家督は、嫡子平右衛門が継いだという。
 40歳を越えれば事情により隠居できたが、帰藩後すぐに隠居するのは異例であろう。
元禄9(1696)年

41歳
・ 元禄九年十二月三百石拝領、大組付、後勘左衛門と改。<肥後先哲偉蹟、先祖付>
 家督を継いだ後、子は知行300石取になり、「勘左衛門」と改名する。
元禄15(1702)年

47歳
・ 雪渓苔恥居士、元禄十五壬午年三月十四日、墓坪井流長院にあり、(過去帳に佐分利平右衛門父俳名越人とあり)佐分利七兵衛氏恒。<肥後先哲偉蹟、過去帳等>
 過去帳や墓碑により、佐分利七兵衛の命日であることは明白である。また、この年が越人の没年でないことも、明白である。
 この二題を満足させる解は、「別人とする」ことだけではない。
 「佯死」としたほうが、むしろ、諸々の経緯や諸伝を、よく説明できる。要は脱藩のための佯死なのである。
 「三つのかほ(享保11(1726)年)」に、
    渠=彼今正是我 我今正是渠
   月入りて影ぼし我に成にけり 越人

 とあるのは、このことではないか。
 越人の帰藩は、元禄7年秋以降である。隠居は40歳になる元禄8年以降で、子が300石を拝領する元禄9年12月以前の約2年足らずに限定される。
 子が家督を継ぎ、佐分利家は安泰となるが、隠居の理由が病とあっては、越人の行動は限定される。出歩くなどは以ての外、邸内にあっても自重しなければ、雇人の口から息災であることが漏れて、子の沽券にかかわることになる。
 蟄居と変わらぬ生活が5,6年続いた元禄15年、ついに臨界を迎えたのである。
 隠居とは言え、脱藩すれば当人は切り捨て、家は断絶となる。死ぬのは全く問題がない。
 戒名に詳しい僧侶が「恥」の字を入れることはない。素人の命名である。取り残される妻子による腹癒せと解すれば納得できよう。
それからの越人

 その元禄15年から13年後の正徳5年、歳旦帳に越人の名が出る。
 名は出ないが、この年、荷兮(68歳、翌年没)・重五(62歳、翌々年没)・野水(58歳、寛保3年86歳没)は健在である。

正徳5(1715)
歳旦帳

60歳
    正徳五乙未暦正月 尾陽名古屋負山子越智越人
     元日
    君が世を千代に八千代とは
    五十六億七千万歳也
   弥勒迄御世や兎の御吸物  越人
 羽笠・釣雪・旦藁など、「冬の日・春の日・曠野」に入集する尾張俳人の名、後の「鵲尾冠」に散見する伊勢内宮三友・三州岡崎胡叟などの名が出る。
 越人の跋に、「年の夜貧居なす事ながら世の穀つぶしと成て白頭にいたる」とある。
 「穀潰し」とは、「他からの支援に頼り、定職もなくぶらぶらと遊び暮らす者」を言う。熊本からの仕送りがあったか。
 越人の歳旦吟は、君が代を言祝ぐ内容である。杜国の「蓬莱や御国の飾り桧木山」の古事に習い、発覚に備えたかのようである。
正徳5年
5月28日

蝶羽日記
 なごや越人、三川三河より帰、一宿。歌仙スル。
    寝ぬべしと一夜は聞てかんこ鳥  蝶羽
     座敷よごさん汗の帷子     越人
 越人が千代倉を訪れたのは、知足没後11年のこと。蝶羽は知足の息。
 「鵲尾冠」を編んでいるころである。同書は杜国追慕の集であるから、伊良湖の保美に取材に行った可能性がある。「鵲尾冠」に、
    越人三河国に遊び、
    久しく帰らざるに便たよりありて
   あめやまの言伝申せほととぎす   旦藁

 という句がある。千代倉のある鳴海は尾張である。三河なら、岡崎に芦帆・夫乙・秋冬・胡叟、藤川に夫推・先子・時笑、碧南に梅翁などがいる。こちらに逗留したかも知れない。
 次の「問ず語」は、その「鵲尾冠」の序文。
享保2(1717)
鵲尾冠

62歳
   問ず語
 私は越路の者に候間、名も越人と申候。壮年に及ぶ比より故郷を出、流浪仕リ、貧乏にて学文(学問)など申事不存、本など読ミ候事もなく候へば、しらぬ字は節用集にて見、それになく候へば、其分にて置候様成文盲者に候間、物知リ達、此本を御覧候はゞ、笑ひ種にて可存候はん。

 …以下略。内容は序文となる…
 わざわざ「問わず語り」と題して言いたいのは、「越路の出身で無学である」ということであった。つまり、「熊本の武士」を否定するのが、この文章の要件なのであろう。
 また、名古屋の字も書かず、尾陽負山子越智越人とあるのみで、町名も明かさない。

 露川は宝永3年落飾、家業を子に任せ勢力拡大に努め、支考の縄張りを侵した。享保8(1723)年、支考は「露川責(露川状)」を著し、露川は翌年「相楔」で反駁するが、芭蕉の伝を捏造し、芭蕉を売る点では、目糞鼻糞の争いである。その渦中の支考が「翁三十三回忌及び取越五十回忌」に向けての投句を要請してきた。享保9年のことである。

越人晩年  当時存命の者は、江戸に杉風・才丸・沾徳、伊賀に土芳・半残、尾張に菐言、近江に洒堂、長崎に卯七などだが、誰も取り合わない。
 応じたのは露沾公、野坡、木因。
 越人には、書状だけでなく名古屋七間町ひちけんちょうに住む相把が説得に当たった。七間町は、本町の一つ東の通りである。越人はその近くに住んだか。
 その翌年、越人は、支考及びその著「十論」、並びに露川を論駁する「不猫蛇」を書いた。
 こんなやり取りである。


〔越人→支考・露川〕 「不猫蛇
 ~、去春の様に、久敷不御意床敷其後翁追善仕御相談仕度事も御座候と状をおこし、もはや何事もわすれたるなるべしと思ひ、予に発句でもうかとさせ、夫を又商ひにする分別、子どもをだます如く浅はかなる事、をかし。去年の事なれば慥に覚有べし。只虚言をいふことをそちは何とも不思、人の第一の疵、大罪也。
〔支考→越人〕 「削りかけの返事
 一 去春、久敷不貴意御床敷奉存候。翁追善仕候御相談仕度事も御座候。と状をおこせし事は忘れて、予に発句でも第三でもうかとさせてそれを又商にする分別、子共だますごとく浅はかなる事をかしと云々。
 是は大きに推量違ひ也。先達而祖翁の法事前に、其元の相把子を使にて、兄の蓮二坊より状通せられしは偽なし。其子細は、花鳥五十歌仙の巻頭は遊行上人の御発句にて、脇はもとより蓮二房也。第三岩城の露沾公なり。然るに大垣の木因は、季吟門下の吟友といひ、遊行上人へ吹挙推挙の故あれば、此翁を五句目とは三年前より約束也。然ば四句目・六句目には越人か野坡か蕉門に在世の古老をと、扨こそ状通はせられたり。されど返事さへ聞へねば、四句目は武陵の氷花を頼み、六句目は難波の野坡子なり。必残念にはおぼすなよ。発句でも第三でもなし。貴公の得手の四句目ぶりに猫の尾ふめば飛ひ上りけり のごときなぐり句を頼むとの事なり。発句の沙汰は我もしらず。第三などの位をとりて、転変自在の上手わざは、貴公において御無用御無用。
〔越人→支考〕 「猪の早太
 一 貴坊三千化を撰るゝ前に、爰許七間町何がしを頼み、越人へ状通の事偽なしと雌伏せらるれば論に及ばず。其節越人許諾あらば四句目・六句目の内を頼べきにと思はれしが、越人返事なき故に氷花にて相済よし。御知せ迄も無之に、念の入たる御文体に候。残念におもふなどは誰の事に候哉。推するに、貴房七間町の何がしを以、随分口説かせ、越人をだき入べきと思れしに、越人一向取合れぬ故、貴房の内存相違して残念なるとのいひ違へか。発句の沙汰は貴房にも御存知なきとは尤に候。如仰、お下手也。さて第三の位を取て転変自在の上手わざは越公は御無用とや。いかに貴房の腹が立とて是は過言と申もの也。蕉門の十大弟子が第三の位を知らず、貴房も猶遠慮ありて表に月をせぬ対に、第三なしの表をも後代の笑ぐさに建立可然侯。
 これでけりが付いている。因みに「三千化」の、月・花のある珍妙な六句表は次の通り。
    双林寺開莚
   芭蕉葉も苔の下萌見る世哉  遊行上人他阿 春?
    呼子の声に三千の弟子   蓮二(支考) 春?
   大書院月のあしたの東風冴て 露沾     春? 月
    山を証拠に国しづか也   氷花     雑
   仮橋のいくつも遊ぶひでり川 木因     夏
    冬の花咲あかつきの里   野坡     冬  花

越人の没年
享保18
(1733)年

誹諧古渡集
冬央編

78歳
    負山子を招んと
   暖な席見立たり床ばしら   荒川氏芽幸
    身は花生ケを知らぬ菜の花 越人
 これが、記録に残る越人最後の句とされる。古渡は地名で、名古屋城から熱田に至る本町通りのほぼ中間点。
 「古渡集」を閲覧できなかったので、上は「芭蕉と蕉門俳人(大礒義雄著、平成9年)」によった。越人の没年は、確定こそできないが、同書に詳細な考察がある。

<まとめ>
1 元禄7年5月、芭蕉を名古屋に迎えた後から、正徳5年歳旦帳までの約20年間、越人が名古屋にいた記録がない。
2 元禄17年、知足の「伊賀さくら」に、「早くから九国にのがれて」とある。
3 曰人の「蕉門諸生全伝 越人」の情報源は、鳳朗ではなく、大半が尾張藩家老の臣酒井氏と考えられた。また、その家老である犬山藩主成瀬侯が、鳥取の藩主への回答も含まれ、特に信頼すべきものであった。
4 熊本流長院、佐分利家過去帳に、「佐分利平右衛門父俳名越人」とあり、越人と佐分利七兵衛がつながった。
 以上は、根拠なしに否定できないものであり、さらに、「元禄15年佯死、脱藩」の仮説を立てることで、さまざまな事柄を説明できた。  


 最後に、比較資料として「越智越人」の略歴を掲げる。これは、「佐分利七兵衛(氏恒)」の経歴と矛盾しない。

越智越人略歴

 越智越人(えつじん)、名は十蔵・重蔵、別号負山子・槿花翁。編書「鵲尾冠」の序で、貧しく学問をしたことがないと言うが、漢詩・老荘に造詣が深い。
・ 明暦2(1656)年、生まれる。 (氏恒) 島又左衛門三男として生まれる。
・ 万治4~寛文5年 (氏恒) 佐分利兵太夫の養子となる。
・ 寛文11(1671)年 (氏恒) 養父兵太夫(細川越中守殿近習)、お暇となる。以後7年間、実兄島角左衛門の領地美濃に移る。

・ 延宝7(1679)年頃、越人(24歳)は、野水(22歳)の世話で紺屋を営み、荷兮(32歳)亭近くの名古屋桑名町に住む。杜国(23歳)の支援を受ける。野水は大和町、杜国は御薗町か正万寺町の町代。
・ 貞享元(1684)年11月~同2年4月の間に、芭蕉に入門。
・ 貞享2(1685)年、「春の日」(貞享3刊)編集。(8月、杜国が伊良湖へ移る)
・ 貞享4(1687)年11月11~13日、芭蕉と伊良湖の杜国を訪問。11月下旬~12月上旬、名古屋で芭蕉と俳諧興行。
・ 貞享5(1688)年6月17日、岐阜妙照寺の芭蕉を訪ね、六吟六句。18日鵜飼い見物。19日、十五吟五十韻。7月20日、名古屋の長虹亭で七吟歌仙。8月11日、更科紀行に同行、出立。8月22日前後芭蕉庵に到着。9月上旬、8吟半歌仙。10日、素堂亭で十日菊の会。13日、芭蕉庵十三夜の会で平曲を謡う。他、芭蕉との両吟歌仙、其角との両吟歌仙、嵐雪との両吟十八句、越人発句の六吟半歌仙を巻く。9月下旬まで滞在か。以後、尾張の蕉門発展に尽力。
・ 元禄2(1689)年9月3日迄に、旅を終えた芭蕉が逗留する大垣如行亭に行く。4日左柳亭で歌仙「はやう咲」参加。6日芭蕉を船場まで見送る。
・ 元禄3(1690)年4~5月、近江国見山幻住庵に入庵した芭蕉を、野水と訪問。
・ 元禄3(1690)年6月、「ひさご」の序文執筆。「いろいろの」の巻、後半を荷兮と継いで満尾、入集。
・ 元禄4(1691)年9月、越人と野水が、路通を誹謗し、芭蕉の怒りを買ったと支考が伝える。
・  〃      10月、熱田からの芭蕉の書状を支考が差し止めて、会えず。
・ 元禄7(1694)年5月、帰郷する芭蕉を名古屋で歓待する。
・ 元禄7(1694)年 (氏恒) 肥後に召しかえされる。
○ 元禄8年~正徳4年、この20年間、記録なし。知足の遺稿(正徳元(1704)年)に「此叟はやく火宅の風流をのがれて、九国に下る」とある。
・ 元禄9(1696)年 (氏恒) 隠居を仰せ付られ、子の勘左衛門が家督を継ぐ。
・ 元禄15(1702)年3月、(氏恒) 没。過去帳に俳名越人とある。

・ 正徳5(1715)年、「歳旦帖」に、尾陽名古屋負山子越智越人とある。
・ 享保2(1717)年、「鵲尾冠(しゃくびかん)」編著。尾陽負山子越智越人とある。
・ 享保10(1725)年、「古稀歳旦帳」に、尾陽名護屋越智負山子とある。「不猫蛇(ふみょうじゃ)」で、支考・露川を論駁。
・ 享保11(1726)年、「三つのかほ」風扇跋に丙午仲秋上浣(8月上旬)。
・ 享保13(1728)年、「庭竈(にわかまど)集」編。
・ 享保14(1729)年、「猫の耳」編・「猪の早太(いのはやた)」、「越人自註独吟」「越人集」「冬日集槿花翁解」。
・ 享保15(1730)年、「歳旦帳」に、負山子越智越人とある。
・ 享保18(1733)年、冬央の「誹諧古渡集」に入集。
・ 享保20(1735)年前後に没、80歳くらい。 墓標は、浄土真宗本願寺派「転輪山長円寺」(名古屋市中区栄2)、「負山子越人叟之墓」とのみ彫られる。

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その4

4 鳳朗の祖父は、越人に会ったか。

 鳳朗の祖父は、名前すら分からない。越人と同じ時代に生きたか、鳳朗の生年から遡ってみる。

鳳朗祖父

 鳳朗は宝暦13(1763)生である。このとき、祖父が60歳くらいと仮定すると、越人が熊本で生きた最後の年、元禄15年ごろの誕生となってしまう。祖父が81歳くらいと仮定しなければ、越人の教えを受けられないであろう。父鼎山の生年は未詳であるが、間を取って入れておいた。鼎山・鳳朗ともに父が41歳となり、当時の生活環が20~30歳とはかなり離れる。しかし、あり得ないわけではない。

鳳朗の父祖・俳諧の師

鳳朗の祖父と越人

師説録跋

 ~、わが祖父此事を越人に受けて、反故の裏に書写す。古の間易(簡易)、しかも極めて麁(粗)なるがうへに、或は紙魚のために文字を欠かれ、垢の為に端を朽され、見るに甚心をわづらはしむ。~
 祖父が越人から受け、反故の裏に書き写したという。経緯は示されていない。
 この祖父については、父の父ということしか分からない。

鳳朗の父

肥後先哲偉蹟
武藤厳男
隆文館
明治44年

 花ノ本鳳朗宗匠は、江戸飯倉片町に寓居して、自然堂と号し、俗姓は田川図書助源興教と称す、初義長と云、肥後国飽田郡五町郷山室村の人、父は五町郷御惣庄屋、永井卯七兵衛と云て、熊本の御家人※1なり。
※1 五町郷山村は、熊本市北区。永井家は、一応武家と分かる。

俳諧名家全伝
桃李庵南濤編
三松堂
明治30年

 鳳朗名は東源、字は中立、肥後熊本の藩士なり。家父鼎山、夙に俳諧を好みて、之れを能くし、越智越人の伝統なりと云ふ。此の故に鳳朗は父に従って学び※2、得るところ少なからず。~
※2 父の号は鼎山、俳諧を好むと分かる。越人の伝統とあり、祖父からのつながりを感じさせる。

鳳朗の師

肥後先哲偉蹟
武藤厳男
隆文館
明治44年

 花ノ本鳳朗宗匠は、江戸飯倉片町に寓居して、自然堂と号し、俗姓は田川図書助源興教と称す、初義長と云、肥後国飽田郡五町郷山室村の人、父は五町郷御惣庄屋、永井卯七兵衛と云て、熊本の御家人なり。宝暦十二壬午生れ、幼名を永井午三郎と云、
 …略…
 十六七歳の頃熊本の用職平井太郎八の若党に雇はれ、江戸の御館に、~
 …略…
 午三郎熊本へ帰りし後、政府の書記役見習に召出され、一家を起し、厳島源弥と改む、永井の家の祖、安芸の厳島に住ける故なり。
 源弥熊本に出て勤めの暇には、俳諧に心をよせ、自ら京陵と号し、熊本の士久武喜内(綺石と号す)又阿弥陀寺の住持明誉などに従ひ、道をとふこと年あり※3
※3 綺石は、「肥後藩士佐分利越人 ②」参照。明誉は未詳。
 綺石の墓表には、
    俳諧者滑稽之流也、而其始也戯謔而已、及芭蕉翁
    同其体裁、而変風旨、然後言近而指遠者有焉、謂
    之正風、吾藩佐分利越人、嘗出居濃州、学於翁門、
    及其後帰也、職事鞅掌、不暇伝人、正風自綺石子
    云、(下略○久武綺石墓表)

 とあった。「職事鞅掌、不暇伝人」は、「職事ハ鞅掌(=多忙)ニシテ、人ニ伝フルニ暇ナラズ」と読むか。
 この文は、肥後国学の祖紫溟のもののようだが、その遺稿集に見当たらない。略された部分に手掛かりがありそうである。
 越人の名がある以上、「美濃で芭蕉から俳諧を学んだ熊本藩士佐分利越人の流れを汲む」と書いてあるか。
 綺石は鳳朗より8歳年長なだけで、越人没後約20年の誕生である。鳳朗の祖父や鳳朗の父鼎山から教わる年代である。
 年齢的に、祖父は越人から教えを受ける可能性があるから、系譜は、
  佐分利越人-祖父-鼎山-((綺石・明誉)-鳳朗)
 となろうか。
 元禄8・9年、病を理由に隠居した越人は、元禄15年の佯死まで、蟄居同然の暮らしであるから、元禄7年に芭蕉から預かった草稿を「直旨伝・師説録」に編む時間は十分にあった。また、鳳朗の祖父が出入りすれば、書き写すこともできたわけであるから、これらを否定することはできない。

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その5

5 「直旨伝・師説録」の内容は、他の芭蕉の伝書と矛盾しないか。

 「直旨伝・師説録」の内容が、芭蕉の伝としてふさわしくなければ、伝来の経路が明らかになっても、何ら意味はない。また、その経路で、書き替えられたり、加筆されたりしても、信頼できなくなる。
 ちなみに、当サイトで挙げる伝書でも、
① 「十五箇条……芭蕉が北枝依頼で書いたが、初心の害となると思い直して捨てた。その反故を路通が写したと言われる。芭蕉が捨てたものを高弟の嵐雪が伝えるはずがないから、極めて疑わしい。
② 「二十五箇条……芭蕉が去来に与えたもので、「貞享式」「新式」とも言われる。板行本は、支考が去来の遺品から買い取ったもので、支考が自説のために何か所か書き替えた形跡がある。「埋木」や「山中問答」と一致する部分は信じられる。
③ 「新々式」……芭蕉が許六に与えたもの。次の「元禄式」の内容を、一つを除いて他はすべて含むという。信頼すべき伝書だが、まだ見ていない。ただ、その片鱗は、許六門伝書の「秘蘊集」、著書の「宇陀法師」などに、垣間見ることはできる。
④ 「元禄式……芭蕉が去来に与えたもの。その内巻三が昭和49年見つかり、翌年大礒義雄氏により確認された。芭蕉の伝書と信頼できる。
⑤ 「山中問答……北枝の聞き書きだが、芭蕉が確認しており、信頼できる。
⑥ 「聞書七日草……呂丸の聞き書きだが、四道・三体・六座の付合が中心で、些末のものである。証句に、蕉風開眼前のものや呂丸没後のものがあり、不審。閲覧した範囲で、直指伝との一致なし。
⑦ 「誹諧之秘記……「誹諧三部書」の一。伝不詳。芭蕉序、巻末に在判とあり、却って信頼できない。
 などと、信頼度は大いに異なる。以下、これらと「直旨伝・師説録」とを引き合わせつつ見ていきたい。

伝書・著作との整合

元禄式との一致

 「元禄式」は、元禄6年の「新々式」とほとんど同じ内容という。「元禄式」は「巻三雑之部」しか出ていないが、その7割が、「直旨伝・師説録」に一致する。

 例えば、

元禄式

直旨伝

① 春の宮 雑なり。東宮の御事なり。


⑥ 玉柏 石の事なり。又屋根の雪をおとす物ともいへり。

→ 春の宮、雑なり。東宮の御事なり。


→ 玉柏、石の事なり。又、屋根の雪を落すものをもいふ。

 ①は完全に一致し、⑥はほぼ一致する。このような一致は、14の段(①②③⑥⑪⑫⑭⑮⑳㉒㉓㉕㉘㉙)に見られる。

 段落番号は、「元禄式のページ」参照。

 さらに、

⑤ 村雨 雑なり。しかし、春冬の前句には付べからず。四月・七月にふる雨なり。
⑦ 松の門 杉の門 杉の窓 雑なり。板にてしたるをいふ。非植物。
 

→ 村雨、季なし。但、春冬の句には付べからず。大方、夏秋の宵にふる雨なり。
→ 松の門・杉の窓、板にていふなり。非植物。但、松の戸・松の住居など、隠者の住所に云立たるは、句の仕立によりて植物にもなるべし。

 ⑤は概ね一致し、⑦は直旨伝の説明を略す。このような一致は、15の段(⑤⑦⑧⑩⑬㉑㉔㉗㉚㉜㊱㊲㊴㊵㊶)に見られる。なお、㊶は師説録との一致である。

 一方、

⑨ 月花といふ句 雑なり。

→ なし

 ⑨は直旨伝・師説録に見当たらない。このような段は、12(④⑨⑯⑰⑱⑲㉖㉛㉝㉞㉟㊳)ある。なお、⑨は新々式にもない。

「元禄式」による修正

 「直旨伝・師説録」と「元禄式」の一致度が高いことは、以上の通りである。

 跋に、「虫損・汚損のため、判読が困難」の旨が書かれていて、実際、了解困難な箇所が多い。これは「元禄式」を参照することで、以下のように修正は容易である。

直旨伝j19

原文修正文
伝授の事は心安き重くする。唯、道を重んずるのことはりなり。伝授の事は、あまりに心安きゆゑ重くするものなり。唯、道を重んずるのことはりなり。

元禄式㉜

すべて伝受事、あまり心安き伝受なれば、わざとおもくするもの也

直旨伝j15

発句に作者揚句せずといふは、句引して末に揚句の作者を書なり。発句に発句の作者揚句せずといふは、句引して末に揚句の作者を書なり。

元禄式㉑

発句の作者、挙句をせず。為其、句引の末に揚句と作者を書くなり。

直旨伝j17

是より三句・五句・七句、それぞれに分別して、付の支るやうに定るなり。是より三句・五句・七句、それぞれに分別して、付の支るやうに付よきやうに定るなり。

元禄式㉗

これより七句隔る物などは、それぞれに分別して、付よき様に定むるなり。

直旨伝j11

都は表にもすべし。水海同前なり。凡名所所名故なり。都は表にもすべし。水海同前なり。凡名所所名故非名所、同前なり。

元禄式㊱

都、二つなり。面にもすべし。非名所水海、同前なり

直旨伝j14

草枕、植物にあらず。迷路といふ事なり。草枕、植物にあらず。迷路逆旅といふ事なり。

元禄式②

草枕 植物にあらず。逆旅と書くゆへなり。

直旨伝j14

笹枕・苔枕、植物なり。笹枕・苔枕苔莚、植物なり。

元禄式③

笹枕・苔莚 植物なり。

直旨伝j14

村雨、季なし。但、春秋の句には付べからず。大方、夏秋の宵にふる雨なり。村雨、季なし。但、春秋春冬の句には付べからず。大方、夏秋の宵にふる雨なり。

元禄式⑤

村雨 雑なり。しかし、春冬の前句には付べからず。四月・七月にふる雨なり。

直旨伝j15

春日に春の字、同前。春日春日山に春の字・日の字、同前。

元禄式⑬

春日山に春の字・日字、付句を嫌はず。

 以上の誤りは「直旨伝・師説録」が「元禄式」を参照していないことの証左となる。

「元禄式」はまとめ・抜き書き

 「元禄式」が補足・説明する箇所もあるが、次のように「直旨伝・師説録」のほうが詳細であることが多い。
 「元禄式」は、「直旨伝・師説録」の冗長な表現を簡潔にしたものにしている。

直旨伝j12

月並の月の字、発句にあるときは、本月、連歌に三句去なり。俳諧には二句去べし。有明とも桂男ともする法なり。兼て有の字明の字など嗜べし。同字なれば、月とうち出してせず。表の心得大切なり。

元禄式㊵

月次の月の字、発句・脇などにある時、表の月、有明の類なるべし。

直旨伝j12

浜庇、居所にあらず。砂の崩て、空(うろ)に成たる所をいふ。但、浜辺にある庇をいふ時は、勿論居所なり。但、非居所浜庇たりとも、浜辺の家の庇にかけて、作れる句ならば、いふに及ばず、居所なり。浜手の岸の根、なみにされくぼみて、上の方ばかり残て、さし出たるを云。 

元禄式㊴

浜庇 非居所。砂の崩れたる所をいふなり。

 以上からは、むしろ「元禄式」が「直旨伝・師説録」を基に生成されたかのような印象を受ける。
 次のように、説明部分を省略したものもある。

直旨伝j15

発句に発句の作者揚句せずといふは、句引して末に揚句の作者を書なり。句引とは巻末に誰何句と書。他は准てわきまふべし。

元禄式㉑

発句の作者、挙句をせず。為其、句引の末に揚句と作者を書くなり。

直旨伝j16

移徙のはいかいに、燃・焼・倒るゝの言葉、尤禁忌なり。ためる・枯るなどの類も用捨すべし。其他推てしるべし。

元禄式㉚

移徙の俳諧に、燃る・焼る・ひしぐ・倒るゝの詞、尤禁忌なり。

 上の 斜体部 は、伝授する者が高弟去来とあっては、必要のない部分である。
 以下、他の伝書・著作との整合を探る。

「笈の小文」

直旨伝
巻頭j01

夫、天地は風雅なり。万象も亦風雅なり。此風雅は、仏祖の肝胆にして、四時に従て、移らずといふことなし。思ふ所、月にあらずといふことなく、観ずる所、花にあらずといふことなし。心、月にあらざれば、夷狄に類し、容、花にあらざれば、禽獣にひとし。夷狄を出て、禽獣をはなれ、容、造化にかへれよ。

笈の小文
序章

 ~、しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ処月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。~

「山中問答」・「二十五箇条」

直旨伝
俳の字j01

翁曰、字義の論にかかはらず。只、はいかいといふ名にてよきなり。他門に対して論ずべからず。それを捨て、是を用る人、唯我門に遊ぶ人なり。

山中問答
正風俳諧の心

世に俳諧の文字を説て、誹は非の音にて俳の字然るべしといへる人もあり。或は史記の滑稽をひきて穿鑿の沙汰に及ぶものもあり。しかれども吾門には俳諧に古人なしと看破する眼より、言語にあそぶといへる道理に任せて、誹・俳の二字とも用ひて捨ず、他門に對して論ずることなかれと、翁申給ひき。

二十五箇条
誹諧と俳諧

~、八雲御抄にも俳諧と誹諧の二様あり、され共我家には、はいかいには古人なしと看破したる眼より、玄とも妙とも名は別にさだむべけれ共、言語に遊ぶといふ道理をしらば、我家には、いまよりは、俳諧の二字もしかるぺし。他門に対して穿鑿すべからず。

直旨伝
変風の俳諧の弁
j03

昔より詩歌に名ある人、多し。みな、其実より入て、実をたどるのみ。われは、実なきものより実を求んと思ふなり。虚実の間に遊て、しかも虚実にとどまらず。これ、わが家の秘事なり。

山中問答
虚実

虚実に文章あり、世智弁あり、仁義礼智あり、虚に実あるを文章といひ、礼智といふ。虚に虚あるものは稀にして、正風伝授の人とするとて翁笑ひ給ひき。私曰、虚に虚なるものとは、儒に荘子、釈に達摩なるべし。

二十五箇条
虚実の事

万物は虚に居て実に働く、実に居て虚に働くべからず。実は己を立て、人をうらむる所有。譬ばはなの散るをかなしみ、月のかたぶくを惜むも、実に惜むは連歌の実なり。虚におしむははいかいの実なり。抑、詩歌・連俳といふ物は、上手に嘘をつく事なり。虚に実あるを文章と云、実に虚あるを世智弁と云、実に実あるを仁義礼智と云。虚に虚ある者は世に稀にして、あるひは又多かるべし。此人をさして我家の伝授と云べし。

直旨伝
名残の裏j07

翁曰、名残の裏は句の事を捨て、いかにもすらすらと句作すべし。不深切にやり句するやうにせよとにはあらず。今更事をもとめ、耳立やうの事を慎べきなり。又句並を追ふにも及ばず。

山中問答
名残の折

名残の折は一巻の首尾なれば、その坐を屈せぬやうにすべし。匂ひの花・挙句にいたつて、高貴の人をまたせぬるは不礼也。俳諧は言語の遊びにして、信をもって交る道なり。妙句に一坐を屈しさせんよりは、麁句にその坐の興を調へよとなり。一巻の変化を第一にして滞らず、あたらしみを心懸べし。好句の古きより、悪き句の新しきを俳諧の第一とす。

師説録
軽くs07

四句目は軽くすべしといふ事、昔よりの教なり。さるを心得違てやり句するやうに覚たるは誤なり。蕉門の説には四句目を変化のはじめとす大切の場なり。すらすらとするは作のこゝろへなり。此故に「也留」にするが宜しなどもいへり。その旨を知らば何ぞかゝはる所あらん。

二十五箇条
四句目軽き事

四句めは決前生後の句なれば、殊更大事の場所なり。軽みといふは、発句・脇・第三までに骨折たる故としるべし。只、やり句するやうに云なしたれど、一巻の変化は此句よりはじまる故に、万物一合とは註したるなり。都て、発句より四句め迄にかぎらず、あるひは重く、あるひは軽く、あるひは安く、あるひは六ヶ敷、其句其時の変化をしるべし。

直旨伝
星月夜
j05

翁曰、星月夜は秋季にて、賞翫の月にはあらず。若発句に出る時は、素秋にして、他の季の有明などの付句致すべし。
師説録
星月夜s06
発句星月夜s18
星月夜は月にならぬなり。其時は句のあつかひ、大切の心得あり。
星月夜、発句に出る時は、素秋にして、他の季の有明などの句を敍るなり。伝授のひとつなり。

二十五箇条
二季に~

星月夜は秋季なり。月にあらず。発句に此辞ある時は、七句め他の季にて、異名の月あるべし。

「誹諧之秘記」

直旨伝
てにはの事j20

 翁曰、俳諧伝といふ事、世に周く多し。予、年来此一道にわづらひ、気力を尽す。神に詫託し、因縁を尋て、時々妙有り。語事なく、いひはなすにあらず。われに、師五人あり。師として師とせず。俳諧に成就の時日は、ただ、差合くりと云はれんよりは、句者と云れんこそ、成就の本意なれ。此境は専要、外に云事なし。「御傘」はありといひ、亦見あたらずなどと、老顔したる宗匠のいふ稀々有り。芳席の不興、浅まし。貞徳も、全く「御傘」ごときに、本心を砕かず。道の草の鎌なり。なほ一座の了簡専要と書きたる高情に、心をとめぬこそ本意すくなき。てにはは、先、姉小路殿の一巻、よく明らめやすし。堂上の各も、このてにはの外なし。

誹諧之秘記
端書

 誹諧伝といふこと、世に周く多し。予、年来一道に煩ひ、気力を尽す。神に託し、因縁を尋て、時々妙あり。語事なく、いひ放すにあらず。吾、俳師としたる人、五人あり。師にして師とせず。俳諧に成就の時日あり。只、差合くりと云はれんよりは、句者と云はれんこそ、成就の本意。此境、尤も専要、外なし。「御傘」にありといひ、亦見あたらずなどと、老宗匠の云ふ、稀々あり。芳席の不興、浅まし。貞徳、まつたく、御傘ごときに、本心をくだかず。道の草の鎌成べし。なお、一座の了簡専要と書きたる高情、心をとめぬこそ本意すくなし。てにをはは、姉小路殿の一巻添物なり。堂上の面々、各々此てにをはの外なし。

直旨伝
名残の裏j07

 翁曰、名残の裏は句の事を捨て、いかにもすらすらと句作すべし。不深切にやり句するやうにせよとにはあらず。今更事をもとめ、耳立やうの事を慎べきなり。又句並を追ふにも及ばず。揚句は付かぬやうにといふ古説も、一句に成て、一座退屈し興醒るゆゑにかくいふなり。

誹諧之秘記
名残のうら

 名残のうら一順などは、句の事を捨て、いかにもすらすらとすべし。多くかかる無益の所なり。骨を折り、一座誹諧も興ざめ、板行にしても、くどくどと誹諧の拍子、跡へもどるものなり。

直旨伝
皮肉骨j29

 皮肉骨と三つにわけたる体、予、年来是を工夫するに、一句一句に、皮肉骨、調ふ物なり。骨をせんと考へ、皮をなさんと思ひ、肉をつけんとおもふは、此道の大煩ひなり。自然と満足の俳諧は調ひ、未練の人に教ても、埓せぬ事なり。此境、修行すべし。真草行も同断なり。

誹諧之秘記
皮肉骨

 皮肉骨と三つにわけたる体有り。予、年来是を工夫するに、一句一句に皮肉骨調ひ、申物なり。骨をせんと考へ、皮をなさんと思ひ、肉をつけんとおもふは、此道の大煩ひなり。自然と満足の誹諧は、ととのほひ、未練の人に教へても、埒せぬものにて候へば、此境執行あるべし。真草行、右同断。

直旨伝
付合下の句j29

 付合、下の句に、二五・三四・五二・四三といふ事、いかにも覚ねばならね事なり。
  二五 三四とは
   まさにしぐれをさくさくらかな
   待たる君に来たるあかつき
  五二 四三とは
   橋翻りほとゝぎすなく
   峰の旅人の行衛もしらず
 二五・五二、別条なし。三四心よく、四三よろしからず。好ざるなり。然ども、千句などには、場に任すべし。

誹諧之秘記
二五・三四・五二・四三

 下の句に、二五・三四・五二・四三といふ事、いかにも覚えねばならぬ事なり。
 二五、三四とは、
   まさに時節を  さく●さくら花
   待たる君に   来たる●あかつき
 五二、四三とは、
   橋翻ひるがえり ほととぎす●なく
   峰の旅人の   行衛も●しらず
 二五、五二別条なし。三四心よく、四三よろしからず。好まず候。然れども、千句などには。

直旨伝
三十体j26

 翁曰、発句案る時、和歌の三十体、つかまへ方より案じ力なり。いかにも発句の心得に成べし。よき句は自然と三十体のうち、いづれになりとも叶ふものなり。
 幽玄体 行雲 廻雪 長高 高山 遠白 有心 物哀 不明 理世 撫民 至極 澄海 麗体 存直 花麗 松体 竹体 可然体 秀逸体 抜群 写古 面白 一興 景曲 濃体 見様 一節 拉鬼 強力

誹諧之秘記
発句三十体

 十体の内より出る事なり。発句の心得にいかにも成るべし。自然とよろしき句は、三十体の内、いづれに成るとも、叶ふ物なり。
 幽玄体 行雲 廻雪 長高 高山 遠白 澄海 有心 物哀 不明 理世 撫民 至極 麗体 存直 花麗 松体 竹体 可然体 秀逸体 抜群 写古 面白 一興 景曲 濃体 見様 一節 拉鬼 強力

直旨伝
付合六体j29

  ひつとり くらべ ひつはり くりつけ うみ出し よそへ
 是より別れて、万体に変ずべし。変体等を定べからず。広く自然なるを専要とすべし。

誹諧之秘記
付句六体

  ヒツトリ クラベ ヒツパリ クリツケ ウミタシ ヨソヘ

直旨伝
三十体j26

 翁曰、発句案る時、和歌の三十体、つかまへ方より案じ力なり。

誹諧之秘記
主人公

 右発句題、之在る時、つかまへかたより案じ力なり。

・ 「笈の小文」「山中問答」「二十五箇条」などに、似通った表現があると確認できたが、「元禄式」ほどの一致は見ない。
・ 「元禄式」は、「巻三雑之部」しか見られないが、巻一・巻二が出現すれば、さらに一致箇所が増えると期待する。「新々式」を閲覧できれば、一応解決はするかも知れない。

 以上、「直旨伝・師説録」の内容は、他の芭蕉の伝書と矛盾するものでなかった。芭蕉の伝書・言行録として、認めてよいのではないか。これは、「元禄式」との一致度だけをもってしても、認めてよい価値である。
 また、明治・大正の研究者が、曰人の「蕉門諸生全伝」における越人の伝を「山師鳳朗売名手段の偽説」として退けたのは、単なる読み取り違いであった。佐分利越人が越智越人でないという証拠はどこにもない。越人が熊本で、鳳朗の祖父に、書き写させた可能性は否定できない。


 越人晩年の集、「三つのかほ」に、
    彼、今正是我ナリ。我、今正是彼ナリ
   月入りて影ぼし我に成にけり  越人

 とあった。
 彼と我と、さらに一人いるのではないか。
    夕顔
   三つの顔ひとつは煙る夕かな  越人

    往し年負山叟の三の顔あって ~略~
    爰にならべて巴調をうたふ
   昼顔の塘は馬士の鼾かな    負山子

   あさがほは咲と凋むを師走かな 負山子

 三つの顔とは、この集では朝顔・昼顔・夕顔であるが、それは越人自身であろう。即ち菱屋重蔵・佐分利七兵衛氏恒・尾陽負山子、それぞれの顔である。

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蕉門俳諧師説録(直旨伝・師説録) 索引
総論初折名残折
月・花・恋付合・指合・去嫌諸般奥書等