奥の細道 序章、旅立、草加

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奥の細道 序章、旅立、草加 索引(ページ内)
奥の細道序章・旅立・草加
旅程深川採荼庵-千住-春日部-栗橋-小山屋敷-間々田
曽良旅日記3月20日(深川採荼庵-千住)-27日(-春日部)-28日(-栗橋-間々田)
旅への憧
れと計画
芭蕉発句/正月芭蕉俳諧/正月芭蕉俳諧/2月7日
新たな旅への憧れ猿雖宛書簡 閏正月桐葉宛書簡 2月15日
旅の計画同行者は路通?路通の出奔
其角への伝受返店の文 路通同行予定者は曽良であった??
資料塩竃の桜などを見るための出立について
出立日及
び出立地
出立日及び出立地奥細道菅菰抄(草の戸も)杉風詠草
落梧宛書簡 3月23日「曽良旅日記」及び「曽良日記(写)」
杉風宛書簡 4月26日奥の細道 旅立の光景奥の細道の出立日及び出立地のまとめ
余談草加か春日部か西行五百年忌


序章、旅立、草加


 芭蕉は、「笈の小文・更科紀行」の旅を終え、貞享5年8月下旬江戸に戻る。それから、閏月を挟む8か月後、芭蕉庵を引き払い、奥州へから大垣へと旅立つ。

 このページでは、「奥の細道」の原文を基に、「曽良日記」などを資料として、旅の様子を探る。



奥の細道
「奥の細道」を味わいつつ、旅程や足跡をたどります。

奥の細道

本文
元禄2(1689)年2月末まで 深川芭蕉庵-採荼庵
武蔵/江戸序章 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえ(へ)て老をむかふる物(者)は、日々旅にして、旅を栖とす。
 古人も多く旅に死せるあり。
 予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もも引の破をつづり、笠の緒付かえ(へ)て、三里に灸すゆ(う)るより、松島の月先心にかかりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
  草の戸も住替る代ぞひなの家
 面八句を庵の柱に懸置。
元禄2年3月27日 深川-千住
武蔵/江戸旅立 弥生も末の七日、明ぼのの空朧々として、月は在明にて光お(を)さまれる物(もの)から、不二の峰、幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
 むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
 千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ、胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
  行春や鳥啼魚の目は泪
 是を矢立の初として、行道なを(ほ)すすまず。
 人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。
元禄2年3月27日
武蔵/埼玉草加 ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日、漸、草加と云宿にたどり着にけり。
 痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。
 只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。
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奥の細道 旅程

元禄2年3月27日から、同28日まで
月日時刻地名 距離 累計 時速滞在
武蔵/江戸序章2月末、芭蕉庵から、杉風の別墅に移る。(1.1) 
旅立出立
3/276:30深川、採荼庵 <庵採茶跡 >第 1 日
9:00千住 <奥の細道 矢立初めの地> 9.7 10 41:00
武蔵/埼玉草加13:50草加 <草加郵便局> 11.6 21 3 
15:30(越谷宿) <越谷郵便局> 6.4 28 4 
18:10春日部 <日光道中粕壁宿 ④本陣跡> 10.4 38 4 
3/288:00春日部第 2 日
9:40(杉戸宿) <杉戸郵便局> 6.9 45 4 
13:00栗橋の関所 <栗橋関所址> 13.2 58 4 
15:20(野木宿) <36.216394, 139.712448> 9.1 67 4 
下野17:10間々田 <小山間々田三郵便局の向> 7.5 75 4 
凡例【国】旧国名/都県名。 【段】「おくのほそ道(萩原恭男、岩波書店、2014)」に付された章・段に準拠。 【月日】陰暦の月/日。元禄2年の小の月は、3月・4月・6月・8月。 【時刻】時:分。 【地名等】本文や曽良日記に示されたもの及び他の資料で確認されたもの。( )内は、修正前の当て字、及び本文や日記に示されないもの。< >内は、Google Map で確認できるランドマーク(目印)。「辺」を付したものは、おおよその位置。 【距離】区間距離。 【累計】採荼庵からの距離。 【時速】時刻計算のための目安。標高差や乗り物を考慮。 【滞在】「滞在時間」の推量、時刻計算に使用。
※ 街道において、通過・宿泊地点が明らかでない場合、地点の目印に郵便局を指定すると、経路がなめらかにつながることが多い。本陣近くには伝馬があった名残か、多くが交通の要衝にある。

曽良旅日記

巳三月廿日同出、深川、出船。巳の下刻[午前10時台]、千住に揚る。
一 廿七日夜春日部に泊る。江戸より九里余。
一 廿八日

間々田に泊る。春日部より九里。

前夜より雨降る。辰上刻[7時台]止に依て宿出。間もなく降る。午の下刻[午後12時台]止。

此日、栗橋の関所通る。手形も断断書も入ず。

凡例自分で読みやすいよう、以下のようにした。
 ・ 縦書きを横書きにして、句読点を加えた。
 ・ 変体仮名及び片仮名を平仮名にした。
 ・ 用字は簡略なものに換えた。(曾良→曽良、尅→刻)
 ・ 十二支による方角・時刻、借字の地名・人名は、[ ]内に注釈を示した。
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旅への憧れと計画

 旅への憧れが感じ取れる俳諧や書簡をまとめた。
芭蕉発句/「木曽の渓」 正月
  其年越歳旦
 元日は田毎の日こそ恋しけれ※1
芭蕉俳諧/「春と秋」 正月
 発句  ┌ 水仙は見るまを春に得たりけり   路通
 脇   │  窓のほそめに開く歳旦      李沓
     ├
 初ウ2 │  恋に古風の残る奥筋       芭蕉※2
     │
 初ウ5 │ 此里に持つたへたる布袴      芭蕉
     ├
 名オ8 │  陀袋さがす木曽の橡の実     路通
 名オ9 │ 月の宿亭主盃持いでよ       芭蕉
     ├
 名ウ5 │ 華さけり静が舞を形見にて     芭蕉※3
     └
芭蕉俳諧/「真蹟懐紙」 2月7日
 発句  ┌ かげろふのわが肩に立かみこかな  芭蕉※4
 脇   │  水やはらかに走り行音      曽良
     │
 初オ5 │ いざよひもおなじ名所にかへりけり 曽良
     ├
 初ウ3 │ 五月まで小袖のわたもぬきあへず  芭蕉
     ├
 名オ12 │  水のいはやに仏きざみて     嗒山
     ├
 名ウ2 │  おひねわびたる関のうちもの   曽良
 名ウ3 │ 何故に人の従者と身をさげて    嵐蘭
     │
 挙句  └  藤をつたふる摂政の筋      嵐竹
        於嗒山旅店興行
        元禄二年仲春七日 芭蕉
※1 「田毎の月」を「日(太陽)」と言い換えたおかしみと、姨捨で過ごした「その日」を懐かしむ思いとをかさねた。係り助詞「こそ」を用いた句は、他に2句あるが、已然形で結んだのはこの句のみ。
 下の猿雖宛書簡にも見る。
※2 奥州路への憧れがあって生まれた句であろう。
※3 静の舞を形見とするのは義経である。
※4 「そぞろ神の物につきて」、紙子の肩に立ち上ったかのごとくである。この句、下の桐葉宛書簡にも見る。
新たな旅への憧れ
 新年を迎えた芭蕉は、昨秋の「更科紀行」の旅を懐かしみ、さらに新たな旅への憧れを感じさせる句を詠んだ。
 また、芭蕉書簡には、旅の計画が綴られる。
猿雖宛書簡 元禄2年閏正月(16日まで※5
去年の秋より ~略~
去秋は越人といふしれもの木曽路を伴ひ、桟のあやう(ふ)き命、姨捨のなぐさみがたき折、きぬた・引板の音、しゝを追すたか巣鷹、あはれも見つくして、御事のみ心に思ひ出候。
とし明ても猶旅の心ちやまず
 元日は田毎の日こそ恋しけれ はせを
弥生に至り、待侘候塩竈の桜、松島の朧月、浅香の沼のかつみふくころより、北の国にめぐり、秋の初、冬までには、美濃・尾張へ出候。露命つゝがなく候はゞ、又みえ候て立ながらにも立寄り申すべきかなど、たのもしくおもひこめ候。
 ~略~
猶、今年の旅はやつしやつして、菰かぶるべき心がけにて御座候。其上能道づれ、堅固の修業、道の風雅の乞食尋出し、隣庵に朝夕かたり候て、此僧にさそはれ、今年も草鞋にて年をくらし申べくと、うれしくたのもしく、あたゝかになるを待侘て居申候。
一、宗無老御無事に御座候哉。何角に付ておもひ出られ候。尚々江戸御下成され候はゞ、節句過には拙者は発足仕候間、それまでに候はゞ、御目に懸り度候。 以上
~略~
※5 閏正月乃至二月初旬とされるが、下載「鳥居金右衛門宛書簡」により閏正月16日までと決まる。
桐葉宛書簡 元禄2年2月15日
御約束 ~略~
拙者、三月節句過早々、松島の朧月見にと思ひ立候。
白川・塩竃の桜
、御うらやましかるべく候。
欄木良医師、一伝頼み奉り候。
仙台より北陸道・美濃へ出申候て、草臥申候はゞ、又其元へ立寄申事も御座有べく候。もはや其元より御状遣さるまじく候。
 二月十五日/はせを/桐葉子雅丈
 かげろふの我が肩に立紙子哉
 紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ
~略~
落梧宛書簡に見る旅の計画
 上の2書簡の内容をつなげば、
「弥生に至り、節句過ぎ早々、発足仕り候ふ。待ち侘び候ひし白川・塩竈の桜(4月中下旬)、松島の朧月(春)、浅香の沼のかつみ葺くころ(5月5日前夜)より、北の国(仙台より北陸道)に巡り、秋の初め、冬までには、美濃・尾張へ出候ふ。草臥れ申し候はゞ、又其元(熱田のえびす屋)へ立ち寄り申す事も御座有るべく候ふ。(伊賀上野の猿雖亭に)立寄り申すべきか。」となる。概ね「奥の細道」の行程である。乱暴につないでみたが、2書簡に矛盾は生じない。
 さらに、次項の落梧宛書簡から、「陸奥・三越路の風流佳人もあれかしとのみに候」も加えて整理する。
・ 3月3日過ぎには、出立する。
・ 陸奥の白川・塩竈の桜(陽暦4月中下旬が見ごろ)、松島の朧月(春)、浅香の沼のかつみ葺くころ(端午の節句前)と進み、北の国、仙台に至る。
・ 風流佳人に巡りあうよう祈りつつ、北陸道(三越路、越後・越中・加賀・越前)と巡る。
・ 初秋、遅くとも冬までに、美濃・尾張へ出る。熱田に立ち寄ることもある。
・ 伊賀上野に行き、猿雖亭に立ち寄る予定である。
猿雖宛書簡に見る同行者は路通!
 猿雖宛書簡(閏1月)に、「その上、よき道づれ、堅固の修業、道の風雅の乞食尋ね出し隣庵に朝夕かたり候ふて、この僧に誘はれ、今年も草鞋にて年を暮らし申すべくと、嬉しく頼もしく、暖かになるを待侘て」とある。
 尚白宛芭蕉書簡(元禄元(1688)年12月5日付)に、
  火桶抱いておとがい臍をかくしけり 路通
 此の作者は、松本にてつれづれよみたる狂隠者、今我が隣庵に有り。俳作、妙を得たり」とある。
 路通である。「(大津)松本にて徒然読みたる」は、貞享2(1685)年3月13日前後のことである。路通は12日、小関の峠で芭蕉に「尋ね出」され、露通の名をもらい、熱田辺りまで同行。貞享5年(1688)更科紀行の芭蕉を、深川で待ち受け、素堂亭観菊会参加、芭蕉庵十三夜句会参加、深川八貧の一人となる。
  元禄元年12月17日
    はつ雪や菜食一釜たき出だす     路通
  元禄2年1月、歌仙「水仙は」の巻、連衆:路通・李沓・芭蕉・亀仙・泉川
   発句  水仙は見るまを春に得たりけり 路通
  〃  閏1月1日の吟、
    元朝や何となけれど遅ざくら     路通
  〃  閏1月の歌仙「衣装して」の巻、連衆:曽良・前川・路通・芭蕉
   第三  掃よせて消る雪をやかこふ覧  路通

 次の書簡で、路通は、閏1月17日深川を立って上方に向かうと分かる。
 これは、3月27日出立より遡ること69日の出来事であった。
鳥居金右衛門宛書簡 元禄2年閏1月20日 -路通の出奔-
 ~略~
 路通方へ、御手翰遣はされ候ふ処、
(路通は)「にわかに思ひ立て、十七日、上方へ登り候ふ」とて、夜前、江戸より、愚庵(に)音信御座候ふて、(私は)残り多く、千歳の愁ひ、昨日より泪落しがちにて、茫々然とあきれたる計に御座候ふ。
 いさゝかの交りに、哀れなる情ども云ひ残して、行衛行方したはしく、打ち暮らし申し候ふ。
 ~略~
 閏正月廿日/芭蕉桃青/鳥鳥居金右衛門様 (江戸勤番膳所藩士、膳所椿原住)
 閏1月と言えば、猿雖宛書簡に、路通を「よき道づれ、堅固の修業、道の風雅の乞食」とし、「朝夕語り、この僧に誘はれ、今年も草鞋にて年を暮らし申すべくと、嬉しく頼もしく」と書いた月である。
 この鳥居金右衛門宛書簡に、「茫々然とあきれたるばかり」とあるのは、全く思い当たる節がなく、「旅のよき道づれと嬉しく頼もしく」という当てが外れたからであろう。
 路通に代わって、曽良が同行することになるが、その辺りの経緯を知る資料は管見に入らない。
 路通の資料はあるので、見ておく。
返店の文 路通
<「本朝文選」許六編、井筒屋庄兵衛、宝永3年(1706)年刊>
 旅店、食物をかしがむとて、鍋ひとつを求めたり。おほきさ一升あまり。其料にすへ置たるへつゐ、また一めぐりもちいさかるべし。火のあたる所わづかなれば、鍋の底みなひびきれたり。手にふるる毎に、いとうあやうければ。煤おとす業もなむ、なかりけり。
 旅店、一物二用の物あり。夏はすみずみを釣て、蚊虻の觜をとをざけ、冬はよきころにたたみて、打かぶりぬれば、霜雪の愁、藁の ふすまにかへたり。
 旅店は、わづかの板庇なり。是は、貧しき人々のすむ長屋の端をしきりて、一間なる所にしつらひたれば、仮のやどりに事かよひて、 中々おかしき住居なりけり。月の末には、家のあるじなりける人に、少づつのあたひをやる。もらひ求めて贈る時は、心を易くし、贈ら ざるをりは、追出されむ事を思ふ。
 其是非にある事三十日、日々世にむかひ、人に随ふ毎に、にくまれむ事を悲しみ、誉られむ事をよろこぶ。油皿をこぼさざるがごとく。氷の橋をつとふばかりになむ侍りける。
 おのおの三ツの物、求めざりしむかし、髪すり是をかろくして容かたちも潤ひ、こころもさかむなりしかば、十とせ余り、こころざしのびるに任せて、乞丐こつがいのまねをしあるきけり。しかありしも、其境にいらざればにや、あるは風雅に云覚、うごき、あるは、人情にすがた転ぜられて、いまだ止やみぬる道をしらず。
 折から深川の翁、行脚のつてに、かり初の縁を結※6び、その様もゆかしかりければ、過し比の歳江戸の府まで、尋ね来れり※7。六十余州、あまねく人挙こぞり、気のあつまる所なれば、ゆゆしき事の数々にして、悲しき品をかくせり。まづはとて、翁を訪らひまいらせければ、古郷の方に斗薮とそうし給ふと、あたりの人々こたえ侍りぬ。
 むなしき跡は、草ふかき庵を閉て、はせを一もとを残せり。薮梅のにほひ簾にちり、小鳥の声軒にあそぶ※8。頼み来し心より、悲しみを求めて、しばしのあはれさ、いはむ方なし。
 情あるものありて、なつかしがりつつ、我を伴ひ、おもひかけぬ、此すまゐのあるじとなりける。それかれは、ちなみやすく、友とする人ひとりふたりまうけ侍れば、あなたこなたに思ひそみて、一とせあまり、ふたとせの春まで、とどまりけり。
 翁も頃日留庵なりしかば、かぎりある命に、求がたき願ひみちて、侘るにつのり、詠ずるに高し。昼は杖を攀じ、沓を宬ひきて、志を雲雨の外にあそばしめ、夜はともしびをとり、机にそひて、おほくは千古の余あまりを論ず。かならず世をいろひ、人を謗るとはなけれど、目なれ聞馴し、上ざま下ざまの品など、物ずきにいひののしるは、暫時の情をむすぶなるべし。
 かくてなむ、此歳も春めきぬれば、霞の濛々たるは、目をくつろぎ、梅のかうばしきは、鼻をうごかし、雲雀のちりちりと囀るは、我に流浪の思ひをすすむ。嗚呼、いづれの時、いづれの里、いづれの狂人か、同じく此むねをあはれまむ。つながれたる庵はぬしにかへし、彼かの鍋は人にうちくれて、身は笠ひとつのかげを頼みて、行所なき方をぞたのしみけり。
   肌のよき石にねむらん花のやま
 路通の動向を読み取る。
※6 「深川の翁、行脚のつてに、かり初の縁を結」んだのは、貞享元(1684)年3月12日小関越えの道、あるいは3月下旬から4月上旬熱田でのことである。(「野ざらし紀行/大津/熱田」)
※7 「過し比の歳、江戸の府まで、尋ね来れり」は、※8・9により「昨年春のこと」と分かる。
※8 「薮梅のにほひ簾にちり、小鳥の声軒にあそぶ」は、仲春・晩春。
※9 「一とせあまり、ふたとせの春まで、とどまり」は、「1年ほど、2度目の春まで留まり」である。
・ これらの表現で、路通は貞享5年春から翌元禄2年春までの約1年間、深川にいたと分かる。
・ 陸奥への旅については、一切触れられていない。
・ 路通の旅は、「行き所ある方」ではなく、「行き所なき方」、すなわち目的地のない旅が理想であった。
同行予定者は曽良であった??
 猿雖宛書簡に「能道づれ、堅固の修業、道の風雅乞食尋出し隣庵に朝夕かたり候て、此にさそはれ」とあるのにもかかわらず、予定者は曽良であったとする説があるそうで、一応見ておく。
 <「芭蕉論稿」昭和19(1944)年>より
・ 同行者は最初から曽良に定まっていたと考える。
・ 芭蕉庵の近隣に住んでいたのは路通に限らない。
 A 岱水 芭蕉庵に軒をならべ~中にも岱水なり。(木曽の谷)
  * 僧形ではなかったから、この際省かれるべき。
 B 宗波 隣庵の僧宗波たびにおもむかれけるを、(続深川)
  * 水雲の僧(鹿島紀行)~宗波はさまで風雅に執していたとは思われない。
 C 路通 乞食沙弥路通、~路通説は一応尤も。「俳乍妙を得たり(尚白宛書簡)」
      師翁に~三十棒を受け(俳諧の)修行にいそしんだ。近隣に住んでいた。
  * 新参の路通に~杉風らが安心しておれたかどうか疑わしい。
  * 路通にあっては~同門から持たれた好意も妨げられがちでなかったのではないかと思われる節がある。
   (以下元禄3(1690)年書簡を引用)勘気を蒙ってと解され~持って生まれた性格~。
   ~敢えて路通に拘泥することは要らない。
 D 曽良 曽良某此あたりちかくかりに居をしめて朝な夕なにとひつとはる。(雪丸げ)
  * 浪客の士・僧にもあらず俗にもあらず(鹿島紀行)
   ~剃髪は元禄元年の歳末迄とみるべき。
  * 「旧年名を改て / 古き名は新敷名のとしおとこ 曽良」(歳旦吟集) 
   → これ(「奥の細道」)でみると曽良の剃髪は「旅立暁」に行われ、~(改名も)同時で~。
    ~同時であるなら、元禄元年の歳末となる。

 題に論稿とあるので、論旨を拾おうとしたが、なかなか大変である。
 著者は、「㋭隣庵」に該当する者を挙げ、「㋬僧」という条件で、ふるいに掛けると「A岱水(苔翠)」が脱落する。
 次に「㋺風雅」について、「B宗波」は「さまで執していたとは思われない」と除外する。
 「C路通」は、新参とか杉風らの安心とか、よく分からない基準で「~なかったのではないかと思われる節があ」って、翌年9月のその頃の内容が書かれた書簡を引き合いに、「路通に拘泥することは要らない」と断じている。
 「D曽良」が残る。消去法であったが、BCを消したのは、筆者が「そう思われない」「そう思われる」という画期的な根拠があってのことであったと思われる節がある。
 ・ 曽良は、「㋭隣庵」という基準ですでに疑問を持つべきである。「雪丸け」には、「この辺り近くに居をしめて」とあって、「隣」とは書いてない。しかも、「ここ近く」ではなく、「この辺り近く」である。「芭蕉庵を含む集落や区画」の近くであって、「隣庵」ではないことが示されている。
 ・ 「鹿島紀行」の「(曽良は)僧にもあらず」を引くならば、「㋬僧」ではないとすべきを、元禄2年の歳旦句を根拠に、「年末に剃髪し法名に替えた」とする。句は、
   旧年名を改て
 古き名は新敷名のとしおとこ  曽良

である。
 先ず、「年末」と書いてない。「旧年」すなわち「貞享5年/元禄元年」中に名を改めたことが、詞書きで分かるのみである。
 次に、句の意味を見る。「古き名」とは、家代々が用いる名である。貞享5年に曽良は40歳になった。初めの老いを迎え、家代々の名に替えたのである。替えるのは歳を取る年初であろう。この「新しき名」になって、元禄2年の歳旦に、初めて若水を汲んだということである。「栞草」に「若水を汲むを年男といふ」とある。一家を代表しての初仕事である。この句のどこに得度をし法名(禅門では戒名というか)に替えたと書いてあるか不審である。年男は神祇の行事である。釈教の匂いはしない。
 また、法名の付与を「改号」と書いているが、「俳号」を「法号」に替えたわけではない。
 「年末に剃髪し法名に替えた」ということは、「奥の細道」を否定することになるがと、続きを読むと、果たして書いてある。
 「奥の細道/日光/黒髪山」の段を引用し、猿雖の例を挙げ、曽良も歳末に剃髪し、「風雅への精進」のため「乞食の境涯にも甘んずるということを証する」という。
 これで、曽良は「㋺風雅」「㋩乞食」の条件を満たすことになったということか。曽良が元禄2年閏1月に乞食修行に精進をしたという資料は提示されていない。筆者がそう思ったというだけのことである。猿雖を例に引くなら、曽良はどこの寺で得度したかという資料も提示すべきである。
 以上の記述を基に、条件と人物の適合について整理する。
 ┌──┬──────┬─────┬───┬────┬─────────┬───┐
 │  │㋑堅固の修業│㋺道の風雅│㋩乞食│㋥尋出し│㋭隣庵に朝夕かたり│ ㋬僧 │
 ├──┼──────┼─────┼───┼────┼─────────┼───┤
 │岱水│   ?   │  ○  │ × │  -  │    ○    │ × │
 ├──┼──────┼─────┼───┼────┼─────────┼───┤
 │宗波│   ?   │  ○  │ ? │  -  │    △    │ ○ │
 ├──┼──────┼─────┼───┼────┼─────────┼───┤
 │路通│   ?   │  ○  │ ○ │  -  │    ○    │ ○ │
 ├──┼──────┼─────┼───┼────┼─────────┼───┤
 │曽良│   ?   │  ○  │ ○ │  -  │    ○    │ ○ │
 └──┴──────┴─────┴───┴────┴─────────┴───┘

・ 路通はあてはまるものの、人品骨柄、素行などの問題により、排除されている。
・ 「㋑堅固の修業」を取り上げていない。路通についてのみ「師翁のもとで俳諧の修行にいそしんだ」とある。この「修行」は、俳諧のみならず、仏道・武道・歌道などの修行も含まれよう。
・ 「㋺道の風雅」も、俳諧のみならず、詩や歌も含まれよう。
・ 「㋩乞食」、こつじきと読んで、生業をなざず、食物を乞いつつ生命を維持し解脱を目指す修行である。行乞・托鉢・頭陀行・遊行とも言い、その人を乞丐と呼ぶ。論中、曽良も乞食であることを言うために、「乞食の境涯にも甘んずる」とあるのは、修行者に失礼であろう。あるいは「乞食の境涯」は「こじきの身の上」の意で用いたか。
 「乞食の境涯にも甘んずる覚悟で剃髪したから、曽良も乞食である」という論旨である。元禄2年の春、曽良が托鉢に出たという資料はない。「曽良旅日記 4月19日」に「快晴。予、鉢[托鉢]に出る。朝飯後~」とあるが、これは旅先、那須湯本でのことである。
・ 「㋥尋出し」に触れていない。自説に不都合な条件であったか。
・ 「㋭隣庵」、「この辺り近くに居をしめて」を隣庵とはとうてい読めない。
・ 「㋬僧」、証句をどう読んでも、「年末」「法号・剃髪」がつかめない。読めるのは、「昨年中(おそらくは年初)」「父祖代々の名の襲名・一家の主としての若水汲み」である。
 以上、根拠のあることのみを取り上げて整理すれば、次のようになる。
 ┌──┬──────┬─────┬───┬────┬─────────┬───┐
 │  │㋑堅固の修業│㋺道の風雅│㋩乞食│㋥尋出し│㋭隣庵に朝夕かたり│ ㋬僧 │
 ├──┼──────┼─────┼───┼────┼─────────┼───┤
 │路通│   ○   │  ○  │ ○ │  ○  │    ○    │ ○ │
 ├──┼──────┼─────┼───┼────┼─────────┼───┤
 │曽良│   ○   │  ○  │ × │  ×  │    ×    │ × │
 └──┴──────┴─────┴───┴────┴─────────┴───┘

 「※6」の通り、芭蕉が行脚の途次、仮初めの縁を結んだのは、貞享元(1684)年3月12日小関越えの道、あるいは4月上旬熱田でのことである。(「野ざらし紀行/大津/熱田」)
 京六条から大津本福寺への近道、小関越えで、路傍に寝ていた乞食僧に食事を与え弟子に誘ったという。僧は「露と見る浮き世を旅の儘ならば いつこも草の枕ならまし」と応じ、露通と名付けられる。この時の芭蕉句は、
   大津に至る道、山路を越えて
  山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉 「野ざらし紀行」

 また、露通は、4月上旬熱田にいる芭蕉を訪ねてきたので、芭蕉は、
   伊豆の国蛭が小嶋の桑門、是も去年の秋より行脚して、
   我跡をしたひ、おはりのくにまで尋きたりけるに
  いざ共に穂麦くらはむくさまくら 芭蕉 「野ざらし紀行」

と、詠んで、弟子と認めている。この詞書きは、「伊豆蛭が小島の僧は、去年の秋より(伊豆を出て)行脚して、(大津に至る山中で芭蕉に見出され)私の跡を慕い、尾張(の熱田)まで尋ね来ったので」と解する。伊豆から慕い来たのではないことは、3月12日以後の動向で明らかである。
 また、芭蕉が俳諧の経験がない人の才を認めて入門を勧めたことは、露通の外にない。
其角への伝受 閏1月2日 -昼の錦-
 芭蕉庵を引き払っての旅立に当たって、門人の憂いを断つ必要があった。
芭蕉は、貞享年間に書き溜めた芭蕉俳諧の秘訣を、この年の閏1月、其角に伝受している。「昼の錦、二十五ヶ条」である。
 これは、元禄7(1694)年まで増補改訂され、写本が市立米沢図書館(市立米沢図書館デジタルライブラリーで公開、http://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/AA188.html) に残る。
 其角は上方の行脚を終え、年末に戻っている。年が改まり、旅心が定まった芭蕉は、約一月で推敲・清書を済ませ、其角に伝受したということになる。これも重要な旅支度である。
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塩竃の桜などを見るための出立について

 書簡により、旅の計画を知ることができたが、いつ出発すれば思いがかなうのだろうか。先ず、塩竈の桜を調べてみる。
 この項、陰暦(太陰太陽暦)の日付に印、陽暦(太陽暦)の日付に印を付す。
陰暦陽暦事項移動距離所要日時備考
2/294/18深川採荼庵出立・時速4㎞で、1日に32㎞ずつ均等に移動したものとする。 
春日部宿,間々田宿,鹿沼宿,日光五左衛門,玉生名主,余瀬翠桃亭,那須湯本五左衛門,白河旗宿,須賀川等躬邸,郡山宿,福島宿,白石宿,仙台国分町を経由
3/125/1塩竈法蓮寺門前、治兵衛 429.1 13日と3時間
 塩竃桜は通年見られるが、花の見頃は、4月下旬から5月上旬に訪れる。中を取って5月1日に着くためには、何日に深川を立てばよいか、それを示したのが上の表である。
 ・ 「奥の細道」で宿泊した地を結ぶと、深川・塩竃間は429.1㎞である。
 ・ 1日に32㎞ずつ移動すると、13日と3時間で塩竃に着くことが分かる。
 ・ 5月1日に着くためには、4月18日に深川を立つ必要がある。
 ・ 4月18日は、陰暦に直すと、2月29日である。
 次に、「松島の朧月」について見る。
陰暦陽暦事項移動距離所要日時備考
3/24/21深川採荼庵出立・時速4㎞で、1日に32㎞ずつ均等に移動したものとする。 
春日部宿,間々田宿,鹿沼宿,日光五左衛門,玉生名主,余瀬翠桃亭,那須湯本五左衛門,白河旗宿,須賀川等躬邸,郡山宿,福島宿,白石宿,仙台国分町,塩竈法蓮寺門前を経由
3/165/5松島、熱田屋久之助 437.8 14日と5時間
 朧月とは、春の霧や靄などで、柔らかくほのかに霞む夜の月である。塩竃の花を3月12日に見れば、翌日松島の月を見ることができる。
 できれば満月を、遅くとも十六夜の月は見ておきたいので、上の表は16日到着に設定した。
 最後に「浅香の沼のかつみ葺くころ」を見る。
陰暦陽暦事項移動距離所要日時備考
4/246/10深川採荼庵出立・時速4㎞で、1日に32㎞ずつ均等に移動したものとする。 
春日部宿,間々田宿,鹿沼宿,日光五左衛門,玉生名主,余瀬翠桃亭,那須湯本五左衛門,白河旗宿,須賀川等躬邸,郡山宿を経由
5/46/20安積山 297.5 9日と2時間
 「葺く」は、軒端に挿すの意である。「徒然草」に「五月、あやめ菖蒲の古名ふくころ」という表現がある。端午の節句前夜に、菖蒲ショウブ科の葉を葺くことで、夏に発生する毒虫や火災を防ぎ、邪気を払うという風習である。花は花弁のない黄緑の蒲状。紫の花が美しいカキツバタに似たハナショウブ・アヤメとは異なる。
 古今集に、
  陸奥の浅香の沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ よみ人知らず
 とある。浅香では、菖蒲がないので、かつみの葉を葺いたという。
 安積山は、塩竃・松島より約130㎞手前である。端午の節句を浅香で迎え、塩竃の花・松島の朧月を見るという計画はいかがなものか。
 同行者は曽良となる。次に、旅立つまでを見る。
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出立日及び出立地

 閏1月__日 猿雖宛書簡(閏1)に、同行者のこと、節供過ぎの出立予定などを知らせる。
  〃 17日 鳥居金右衛門宛書簡(閏1/20付)。路通から上方へ行く知らせを受け、涙を落とす。
  2月15日 桐葉宛書簡。旅の予定、熱田立ち寄りの可能性を知らせる。
  〃  末  落梧宛書簡(3/23付)。2月末、芭蕉庵を譲ったと知らせる。
  3月 7日 曽良日記(写)。深川なる蝸牛の栖を出て奥羽の行脚に首途し給。翁の年は四十六歳。
  〃 20日 曽良日記(写)。三月廿日より廿六日迄千住宿滞留、此処所々の吟会に招かる。
  〃  〃  曽良旅日記。巳三月廿日、同出、深川出船。巳の下刻、千住に揚る。
  〃 26日 落梧宛書簡(3/23付)。26日出立予定と知らせる。
  〃  〃  杉風宛書簡(4/26付)。出立地に杉風が来たことを喜び、感謝する。
 以上は、これまでに資料で分かったこと、及び以下の資料で分かることである。
 次に、芭蕉庵出立の日を確認する。
奥細道菅菰抄/草の戸も住替る代ぞひなの家
頃は二月末にて、上巳のせちに近き故に。雛を商ふもの、翁の明キ庵をかりて売物を入置所となせしによりて、此吟ありと云。勿論、雛の家箱は、あるは二つの人形を一箱になし、或は大小の箱を取かへなど、年々其収蔵の定なきものなれば、
 年年歳歳花相似、歳歳年年人不同、
の心ばえにて、人生の常なきを観想の吟なるべし。
 「菅菰抄」によれば、2月末の出庵である。落梧宛書簡に「先、衣更着末、草庵を人に譲る」とある通りである。ただし、書簡には妻と娘がいる人とあって、雛を商う者とは書かれていない。
 草庵も、新しい住人が雛を飾って春らしくなったと解してよいのではないか。
→ ❶ 芭蕉庵を出たのは2月末である。2月は大の月で30日まである。
 芭蕉は、杉風の別墅に移る。採荼庵は、芭蕉庵の南南東740mの地点、六間堀の畔にある。
元禄二年三月杉風詠草/杉風が別墅に移る
 翁 陸奥の歌枕見む事をおもひ立侍りて、日比住ける芭蕉庵を先破り捨、
しばらく我茶庵に移り侍る程、猶其筋余寒ありと、白川白河のたよりに告こす人もありければ、
多病心もとなしと、弥生の末つかたまで引とどめて、
  花の陰我が草の戸や旅はじめ 杉風
 採荼庵に移ったのが2月末日とすると、陽暦では4月19日である。江戸では遅咲きの花も散る頃である。
 採荼庵に滞在中、杉風は白河の人とやり取りして、陸奥はまだ寒いことをとらえ、「3月の末つかた」まで引き留める。
 出庵のときの餞別。
   素堂送別松島の詞
  夏初松島自清幽/雲外杜鵑声未聞/願望洗心都似水/可隣蒼翠対青眸   *「素堂歌集」

   送芭蕉翁
  西上人の其きさらぎは、法けつたれば我願にあらず。
  ねがはくば、花の陰より松の陰。
  寿はいつの春にても、我とともなはむ時。
  松島の松かげに春死なむ 素堂  *「己が光」(車庸編、元禄5(1692)年)

 「原安適、松がうらしまの和歌を贈らる(奥の細道 松島)」

 「且、杉風・濁子が発句あり(奥の細道 松島)」

 採荼庵滞在中の餞別・送別に、
    松島行脚の餞別
  月花を両の袂の色香かな   露沾
   蛙のからに身を入る声   芭蕉 *「いつを昔」(其角編、元禄3年)

  松島や名にとめられぬ春の旅 沾徳

 がある。これらは、六本木の露沾邸に出向いたときのものであろう。
 「奥の細道 武隈」に、  「武隈の松みせ申せ遅桜と、挙白と云ものの餞別したりければ」、とある。
 芭蕉は、「3月26日出立」と予定したことが、次の書簡で分かる。
落梧宛書簡 元禄2年3月23日
 御同境 ~略~
 野生(私)、年明候へば、又々たびごゝちそぞろになりて、松嶋一見のおもひやまず、
 此廿六日 、江上を立出候。※6
 みちのく・三越路之風流佳人もあれかしとのみに候。はるけきたび寝の空をおもふにも、心に障らんものいかヾと、先衣更着末、草庵を人にゆづる。此人なん妻をぐし、むすめをもたりければ、草庵のかはれるやうをかしくて、
  草の戸も住みかはる世や雛の家
 三月廿三日/ばせを/落梧雅丈
  ~略~
※6 この書簡に「3月26日、江上を出立」とあることから、「奥の細道(本文)」のとおり、3月27日出立とすることがあるが、それでいいのか。
・ この書簡には「3月26日」とある。これは予定で、実際は「27日」になったというなら、何日でもいいことになる。
・ 「江上」は、深川に限定されるのか。「江上」とは、「もと、揚子江のほとりの意。大きな川の上、またはほとり」である。「奥の細道」に「江上の破屋に蜘の古巣をはらひて」とあり、これは「隅田川のほとりにある芭蕉庵」を指す。しかし、ここでは「江上の庵」とも「江上の採荼庵」とも言っていない。「隅田川のほとり」と言うだけである。
 根拠がないかぎり、「江上」を「深川採荼庵」に限定する資料とはなりえない。
→ ❷ 3月23日の時点で、芭蕉は「江上」のある地点から、26日に出立する心づもりがあった。
 一方、「菅菰抄」には、「江上ハ。江都ナド云が如シ。江戸ヲサスナリ」とある。この意味では、「江戸を立つ」となる。やはり、深川に限るものではない。
 しかし、以下の資料で、27日に立った「江上」は、採荼庵ではなく千住であったと確定する。
「曽良旅日記」及び「曽良日記(写)」
 「曽良旅日記」は、昭和18(1943)年、「曽良 奥の細道随行日記」が翻刻・発刊され、世に知られるようになった。しかし、その存在は、前から知られていた。
 例えば、「芭蕉風景(井泉水著、新潮社、昭和13(1938)年」に、「勝峯晋風氏が所持する『芭蕉桃青翁御正伝記』(南総、天堂一叟編)といふ写本の中に、曽良の日記やうのものが出てゐると聞き、同氏から借覧する事を得た」というものである。これには、「3月7日~4月20日」及び「5月10日~17日」の日記と編者の注釈らしきものが載る。
 ─────────────────────┬────────────────────
       「曽良旅日記」        │      「曽良日記(写)」
 ─────────────────────┼────────────────────
                      │ 三月七日 深川なる蝸牛の栖を出て奥羽の
                      │  行脚に首途し給、翁の年は四十六歳、
 巳三月廿日、同出、深川出船。巳の下刻、千住│ 三月廿日より廿六日迄 千住宿滞留、此処
 に揚る。                 │  所々の吟会に招かる
                      │
 一 廿七日夜、春日部に泊る。江戸より九里 │  廿七日 粕壁宿、旅宿泊 晴天
  余。                  │
 一 廿八日、間々田に泊る。春日部より九里。│  廿八日 間々田宿、旅店泊 晴
  前夜より雨降る。辰上刻止に依て宿出。間も│
  なく降る。午の下刻止。此日栗橋の関所通 │
  る。手形も断(断書)も入らず。     │
 ─────────────────────┴────────────────────

・ 「曽良旅日記」は、「奥の細道」成立後、旅日記の草稿を清書したものと思われる。
・ 「曽良日記(写)」は、曽良の草稿を抜粋、筆写したものと思われる。
 「曽良日記(写)」に3月7日の記述がある。「深川なる蝸牛の栖」は、芭蕉庵であろうが、どこへ移ったかは書かれていない。出庵は2月末のはずである。3月7日は、陽暦4月26日である。江戸では遅桜も葉桜となり、杉風の花の餞別句が合わない。この日付は、日記を付け始めた日として了解する。
 「曽良日記(写)」のほうも3月20日とあり、内容は具体的である。「誰が」は書かれていないが、「吟会に招か」れたのは、芭蕉と曽良であろうから、千住に「滞留」したのも芭蕉と曽良の二人ということになる。
→ ❸ 3月20日から26日まで、芭蕉と曽良は千住に滞在し、27日に千住を立った。
 ▼ 「曽良旅日記」の「巳3月廿日」は、「七」を書き落としたとする説があるという。もし書き落としで「廿七日」だったなら、次の「一 二十七日夜」は、「一 同夜」となるはずである。
 △ 数多い日付の中、ここだけを違うというなら、相当な根拠を示す必要がある。  次の杉風宛書簡が、❸の裏付けとなる。
杉風宛書簡 元禄2年4月26日
  那須黒羽より ~略~
  発足前に、灸能覚申候故、逗留之内、又、足な │[奥の細道]
 どへ灸すへ申候。               │ 笠の緒付かへて、三里に灸すうるより
  ~略~ ──────────────────┼────────────────────
                        │[曽良日記]
  城代図書と申方に逗留、長雨之内、那須、居申、│ 3日 翠桃宅、余瀬と云所也
 道中、雨に一度、合申ず、仕合よき旅にて御ざ候。│ 4日 浄法寺図書(桃雪、翠桃兄)へ招かる。
  那須を十五日に出、湯本、殺生石ある筈なれば、│ 16日 余瀬を立~雨降り出~宿角左衛門(大
 六里ほど見物に参候。             │   名主高久氏)、図書より状添へらる。
  尤、道筋、湯本共に大関殿御領分にて、道にて │ 18日 湯本五左衛門方
 雨降候。庄屋に二日逗留、湯本に二三日居申候。 │ 19日 図書家来角左衛門を黒羽へ戻す。
  尤、其内、図書より仲間送らせられ候。    │   温泉神社へ参詣~夫より殺生石を見る。
  白川ノ関、廿一日に越申候。         │ 21日 古の関の明神~参詣。
  ~略~ 須賀川~に乍憚(等躬)と申作者、  │ 22日 須賀川、乍単斎[等躬]宿、俳有。
  ~略~ 是ヲ尋候而、今日廿六日まで居申候。 │
  ~略~ ──────────────────┼────────────────────
 先月のけふは、貴様御出候、たれより忝候などゝいふ事のみに泣きいだし候。※7
  ~略~ 
  卯月廿六日/桃青/杉風様
・ 「灸を据えたこと」や「4月26日」までの経過報告は、「曽良日記」と比べても面白い。
・ ※7 下線部が不審である。「3月26日は、貴様(杉風様が、~へ)お出で候こと、誰より忝く候などといふ事のみに(私、芭蕉は)泣き出し候」と読むのだが、採荼庵は「杉風が別墅」であるから、庵主の杉風が来て、何ら不思議はない。
 「むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る」とある。では、「杉風」が「舟に乗りて送」ったことを言うのか。いや違う。「貴様御出候」である。芭蕉がいるところへ杉風が出かけたのである。「千住まで一緒に行った」のではない。
→ ❹ 芭蕉は、3月26日、採荼庵を除く出立の地(千住)に、杉風が来たことを喜び、その後も涙を流した。 
 出立日及び出立地について、❶~❹の条件を踏まえて整理する。
 ❶ 2月 末  芭蕉庵を出、採荼庵に移る。
 ◆        採荼庵に二十日間ほど滞在する。
 ❸ 3月20日 採荼庵から千住に移る。
 ❷ 〃 23日 26日に出立する心づもりがあった。
 ◆ 〃 24日 「27日出立に変更」はこの日までに連絡しないと、「むつまじきかぎり」が25日に来てしまう。
 ❹ 3月26日 千住に、杉風が来る。「むつまじきかぎり」が「宵より集」う。
 ❸ 3月27日 千住を立つ。
 では、これが事実としたら、「奥の細道 旅立の段」とどこが違うのか検討する。

奥の細道 旅立の段

① 弥生も末の七日、 明ぼのの空朧々として、月は在明にて光お(を)さまれる物(もの)から、
② 不二の峰、幽にみえて、
③ 上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。






④ むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
⑤ 千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ、胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
⑥  行春や鳥啼魚の目は泪
⑦ 是を矢立の初として、行道なを(ほ)すすまず。
⑧ 人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。

検討

① 27日の月齢は26.3。※8千住に移った20日の光景と見れば、月齢19.3である。
② 富士山は、深川からも千住からも見え、問題なし。
③ 採荼庵からは、家屋や樹木があって、上野は見えない。芭蕉庵からは、隅田川の上流方向に上野が見える。
◆ 深川芭蕉庵辺から上野との距離は4.0㎞、谷中との距離は4.9㎞。但し、谷中は上野の陰で見えない。
◆ 千住大橋辺から上野との距離は3.3㎞、谷中との距離は2.9㎞。
※9
④ 前日26日の宵である。「舟に乗りて※10」が問題となる。
⑤ 千住で船を上がり、離別の涙とつながる。※11

⑥ 留別句。初案、鮎の子の白魚送る別れ哉。
⑦ 問題なし。
⑧ 問題なし。
 

※8 27日の月齢は26.3で、逆三日月、則ち「-3日」の月である。月の出は午前3時。この頃から空が白み出し、30分後には、陸と海の境界が見え出す。日の出の4時34分には、逆三日月は空に溶け込む。
 ▼ この月を有明と言うのは苦しい。
 △ 20日であれば、月齢19.3。下弦の二日前でまだ膨らみがある。この日の日の出は4時40分。月は、南南西の空、25°の高さにあって、沈むまで3時間以上見えている。こちらは、有明と呼べる。以下、「奥の細道 旅立の光景※12」へ。
※9 芭蕉庵辺りから隅田川上流を眺めると、その先に4㎞離れた上野が見えるが、谷中は上野に隠れて見えない。どちらも海抜20mの台地である。
 浅草手前、駒形の渡し辺りで上野が2㎞と近付くが、舟の上からは見えず、土手に上がることになる。上がれば谷中も見える。
 ▼ 深川から谷中は見えないし、わざわざ舟から下りて見たとも思われない。
※10 「舟に乗りて」であって「舟で」ではない。「舟で」だと、「芭蕉たちを乗せて」と輸送したことになる。ただ、「むつまじきかぎり」の見送る人たちは、舟に乗って来たということである。
※11 この一文で、「船をあが」ったのは、「前途三千里のおもひ、胸にふさが」る芭蕉である。従って、27日の曙に深川を立ち、千住で舟を降りたと読み取らざるを得ないが、実際はどうであろうか。
 平地を流れ、舟運が発達した隅田川では、潮の干満を利用し、満ち潮の時に遡り、干き潮の時に下るのが常識である。
 1689年5月16日(元禄2年3月27日)の潮汐を見ると、満潮2時半、干潮9時(潮位差1.5mと大きめ)である。明け方3時から8時が引き潮で、上流から大量の舟が下ってくる時間帯である。
 ▼ 27日明け方は引き潮なので、深川から千住を目指すのは無謀である。
 △ では、「この日から遡って、明け方に満ち潮になる日」はと調べると、5月9日に行き着く。干潮1時半、満潮6時半である。陰暦はと見ると、奇しくも3月20日である。月齢は19.3、日の出は4時40分。日の出と共に深川を出ても、上げ潮に乗れば5時には千住に着くであろう。
 ただ、この日の満潮は6時頃で、遅くとも引き潮が始まる7時頃までには着いていなければならない。「曽良旅日記」に、「巳の下刻[午前10時台]、千住に揚る」とある。深川を、引き潮になる7~8時に出たのであろうか、不審である。「明ぼのの空朧々として~」は、全くの作りごとか、あるいは、7時前には千住に着いていたが、辺りを舟で逍遙してから舟を揚がったのか。当時は、千住大橋を2,3㎞過ぎた本木に、川魚の河岸があった。「日本橋川魚問屋の仕入れ船に便乗し、見学方々取引を終えるのを待ったか」と想像するのも面白い。
奥の細道 旅立の光景

 弥生も末の七日、明ぼのの空朧々として、月は在明にて光をさまれるものから※12不二の峰、幽にみえて※13上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし※14

 「奥の細道」に、3月27日と書いてあるのは明白であるが、芭蕉はこれが旅立ちの日であるなどと、どこにも書いていない。この段に「旅立」という表題を付けたのは後年の編集者であり、旅立ちだと思うのは読み手の自由である。
 見送る杉風は、
  花の陰我が草の戸や旅はじめ 杉風
のごとく、2月末に芭蕉庵を出たときが旅立ちだと認識している。家を出たときから旅が始まるのは、世間の通念である。
 曽良は、3月7日に日記を付け始め、「三月廿日」から千住に移ったと書いている。この日記は、「おくのほそ道」成立後、読まれることを前提に清書されたものであるから、決して「七」を書き落としたものではない。27日については、「廿七日夜 春日部に泊る」とある。「廿日 ~千住に揚がる」とあるから、これで、「27日千住を旅立ち」が読み取れる。


※12 夜明けの空に残る月を有明と言うが、この朝は、逆三日月、則ち「-3日」の月である。「あけぼのの空」であるから、まだ日は出ていない。月は3時頃に出、日の出前には「月は在明にて光をさまれる」という光景になる。
 下の絵は、採荼庵から東の空を眺めたものだが、日の出後に月を見付けるのは困難である。

深川の夜明

カシミール3D(カシバード、28㎜)で描画

※13 「朧々とし」た曙の地平に「富士の峰、幽かに見え」たとある。富士山頂の日の出は、深川より2分早い。残雪の山頂が日光を浴び、浮かび上がったのであろう
※14 上野・谷中に別れを告げる。元禄2年の3月27日は、太陽暦の5月16日に当たる。花の盛りを4月上旬に迎えるので、既に若葉青葉しか見えないのも当然である。「上野・谷中の花の梢、又いつかは」見たいと思うが、必ず見られるものでもないと思えば「心細」いのである。
 芭蕉庵辺りから上流を眺めれば、進行方向に上野が見えるが、谷中は見えない。上野も谷中も海抜20mの台地で、上野の向こうに谷中がある。谷中が見えだすのは、浅草の手前、駒形の渡し辺りだが、舟の上では見えない。土手に登る必要がある。

 「曽良旅日記」に「巳[元禄2年]三月廿日 同出、深川、出船。巳の下刻、千住に揚る」とある。千住大橋北詰の夜明けを見る。

千住到着

 有明の二十日月、富士、上野・谷中(深川よりずっと近い)が一望でき、奥の細道出立の段にふさわしい光景である。
 ただ、「巳の下刻」とあって、午前10時台の下船である。芭蕉はこの千住のあけぼのを描いたとすれば、翌21か22日の有明となる。

本文記述の確認
① 弥生も末の七日、明ぼのの空朧々として、月は在明にて光をさまれるものから、不二の峰、幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
① 千住出立のあけぼのの光景としてそのまま味わえる。陰暦27日の月を直感的に思い描けない現代人が、西空の有明月を想像しても仕方ない。
 また、27日の月は日の出直後まで見えるので、「有明」として問題はない。
 千住からの行く手に有明の月があり、振り返れば、深川で見慣れた富士の峰、その手前に上野・谷中が間近に見られたのである。
 芭蕉は「発句は屏風の絵のごとく」と言う。冒頭に続くこの一文も、時空の推移をとらえた屏風の絵のようである。
② むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
② 杉風が前夜、千住に来たと了解できた。他の人々も乗せてきたのであろう。
 → 「睦まじきかぎりは、宵より集ひて送る」「むつましきかぎりは、舟に乗て送る」この2点に嘘はない。26日の宵、千住に来たのである。
③ 千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ、胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
 「千住といふ所にて船を揚がれば」は、20日のことである。
 「猶、其筋余寒ありと、白河のたよりに告こす人もありければ、多病心もとなしと、弥生の末つかた(まで、出立は待て)」という杉風の言葉を振り切って出たものの、「前途三千里の思ひ、胸に塞がりて」、忠告に従い、しばらくは千住に留まったのである。
 こうすれば、二つのことに合点がいく。
 一つは、「曽良旅日記」の記述である。
  巳三月廿日、同出、深川出船。巳の下刻、千住に揚る。
  一 廿七日夜、春日部に泊る。

 曽良は、20日を旅立ちと思い記録したのである。当然千住出立の27日まで空白となる。
 ところが、「曽良日記(写)」には、「三月廿日より廿六日迄 千住宿滞留、この処、所々の吟会に招かる」とある。この「写」には、「曽良自筆の日記にして」とある。「泊先」の写しをという所望に応じ、20日から26日までの泊り先を曽良が書き足したのである。
 これで、20日から27日に飛んだことが納得できる。
 もう一つは、芭蕉の杉風に対する大げさな謝意である。
 芭蕉は、「20日になればもう『弥生の下つ方』だろう」と、採荼庵を勝手に出たのではないか。杉風の思いを踏みにじった自分であるにもかかわらず、千住に来てくれた有難味を表現したものと了解できる。
奥の細道の出立日及び出立地のまとめ
紀行「おくのほそ道」
① 出立日 元禄2年3月27日 / 出立地 深川採荼庵 →「おくのほそ道」

実際の動向
② 出立日 元禄2年2月末   / 出立地 深川芭蕉庵 →「奥細道菅菰抄」「杉風詠草」
③ 出立日 元禄2年3月20日 / 出立地 深川採荼庵 →「曽良旅日記」
④ 出立日 元禄2年3月27日 / 出立地 千住の宿  →「曽良旅日記」
<備考>
・ ①を実際の動向とはしない根拠 →※8・※9・※10
・ 出立日が3月の末になった経緯 →「杉風詠草」
・ 同行者が路通でなくなった事情 →「鳥居金右衛門宛書」(閏1/20)
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余談

草加か春日部か
 1日目の宿泊地が、「奥の細道」と「曽良日記(写)」とでは違うというようなことを、井泉水が「芭蕉風景」(昭和13(1938)年序、新潮社)に書いている。「奥の細道」の記述を確認する。
 ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日、漸、草加と云宿にたどり着にけり
 痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。
 只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。
 「草加にたどり着」いたと書いてあるが、どこにも「草加で泊まった」とは書いていない。草加は千住の次の宿場である。旅程表の通り、わずか11.6㎞。ここで泊まる訳がない。井泉水は「奥の細道がをかしい」と言うが、「宿」を「やど」と読んだか。「奥の細道ノート」(昭和31(1956)年、新潮社)にも「(草加の)旅篭」とする。
ことし元禄二とせにや -西行五百年忌-
 岩波本の注に、「西行五百年忌、~『にや』は朧化表現」とある。なるほど、西行略年譜を見ると、「建久元(1190)年 73歳 西行、2月16日、河内国弘川寺で示寂」とある。
 文治2(1186)年 69歳 俊乗、4月伊勢の神宮に参拝し、平泉藤原家と遠縁(藤原秀郷9代)の西行に、金の勧進を依頼。
  ・ 西行、7月に伊勢二見浦から渡航、伊良湖を経由し陸奥に向かう。
  ・ 西行、平泉で藤原秀衡に会い、勧進に成功。
 文治3(1187)年 70歳 西行、春に陸奥から京に帰る。

 晩年のことであった。若い頃にも行っている
 康治2(1143)年 26歳 西行、春、仁和寺に暇を乞い、伊勢を経て、奥州の旅に出る。10月、平泉に到着。(西行の奥州行きは30歳ころとも言う)  元禄2年は、義経・秀衡の没後500年にも当たる。
 文治5(1189)年 4月、藤原泰衡、源義経を討ち、首級を鎌倉に届ける。7月、源頼朝、藤原泰衡を討つ。
 元禄2年は、西行五百年忌であり、義経・秀衡の没後500年目に当たっていた。
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