野ざらし紀行 旅立

野ざらし紀行 索引
旅立伊勢伊賀-竹内-
吉野山
大垣-
桑名
熱田-
名古屋-伊賀2
奈良-二月堂-京都
-伏見-大津-水口
熱田-
鳴海
甲斐-深川
旅の後
野ざらし紀行 大垣~桑名 索引
本文原文・訳文旅程旅程・足跡
講読送別  杉風「柴吹く風」草稿・付合 李下「ばせを野分」
旅立ち  「野ざらしを」「秋十とせ」箱根、関越え  「冨士を見ぬ日」
同行者  千里「深川や」富士川のほとり  「捨子に秋の風」
大井川、川止め  千里「秋の日の雨」小夜の中山  「道のべの木槿」「馬に寝て」
資料千里について 「海苔汁の手際見せけり浅黄椀」

講読、その一「旅立」


 芭蕉は、門弟千里を連れ、「野ざらし紀行」の旅に出ます。

 このページでは、芭蕉真蹟「天理本」・「藤田本」を元に、伊勢山田に至る手前までを取り上げ、原文・訳読み文・現代語訳を示し、出発前の「送別吟」、「甲子吟行の素堂序」・「濁子本の素堂跋」を資料にして、講読していきます。

 また、旅程表を作成し、講読の資料としつつ、この旅の実態を明らかにしていきます。



野ざらし紀行

・ 各段は、便宜上設けたもので、原文にはない。

・ 原文は、芭蕉の真蹟「天理本」による。

  また、「天理本」には、旅を補足する句が、巻末に付せられているので、「関連句」(◆印)として記しておく。

・ 講読の項に置いた文は、貞享年間の真蹟「藤田本」による。

・ いずれも、「芭蕉紀行文集、中村俊定校注(岩波文庫)」を参照したものである。

「野ざらし紀行」講読ページ解説へ

野ざらし紀行「旅立」

① 旅立ち

 千里に旅立て、みち粮をつゝまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享きのえね秋八月江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ寒気なり。

 「千里に旅立ちて、道糧を包まず、三更月下無何に入る」と言ひけむ、昔の人の杖に縋りて、貞享甲子(貞享元年)秋、八月江上の破屋を出づるほど、風の声そぞろ寒げなり。

 「千里の旅をする者は、三月分の食糧をと言うが、道中食の用意はせず、深夜の月影の下、無我無心になる」という、古人広聞和尚の言葉にすがって、貞享元年秋八月、隅田川畔のあばら家を出ると、風の音が、なんとなく寒げである。

  野ざらしをこゝろに風のしむみかな
  野晒しを心に、風の沁む凍む身かな。

 ※ 句の訳は、講読・解説を参照。以下同。

  秋十とせ却てゑどをさす故郷
  秋十年、却って江戸を指す。故郷

② 関越え

 関こゆる日は終日雨降て、山ハみな雲にかくれたり。

 関越ゆる日は、終日雨降りて、山は皆、雲に隠れたり。

 箱根の関を越える日は、一日中雨が降って、山は皆、雲に隠れていた。

  雰しぐれふじをみぬ日ぞおもしろき  ※原文「雱」
  霧時雨。富士を見ぬ日ぞ、面白き。

③ 同行

 何がしちりと云けるは、此たびみちのたすけとなりて、万いたはり心を尽し侍る。常に莫逆の交深く、我にまこと有哉この人。

 何某千里と言ひけるは、この度、道の助けとなりて、よろず労り、心を尽くし侍る。常に莫逆の交はり深く、我に誠あるかな、この人

 何々千里という人は、この度の旅を助けてくれ、何事もいたわり、誠意を尽くしてくれました。常日頃、互いに裏切らない交流が深く、この人は、私に誠意を示してくれています。

  ふかゞハやばせををふじに預ゆく  ちり ※原文「ふかハヽやばせをふ……

  深川や。バショウを富士に預けゆく。

④ 富士川のほとり

 ふじがハのほとりをゆくに、三ばかりなるちごのかなしげに泣有。此川のはや瀬にかけてうき世の波をふせぐにたえず。露ばかりの命待まと捨置けむ。小萩が本の秋の風、こよひやちらむあすやしほれむと、袂より喰物なげてとをるに

 富士川のほとりを行くに、三つばかりなる稚児の悲しげに泣くあり。「この川の早瀬に掛けて、憂き世の波を防ぐに堪えず。露ばかりの命待つ間」と、捨て置きけむ。小萩が本の秋の風、今宵や散らむ、明日や萎れむと、袂より食い物投げて通るに

 富士川の畔を行くと、数え三歳ほどの子供が悲しげに泣いていた。「この川の早瀬に投げ込んでは、自分たち親は、現実世間の荒波を防ぐことはできない。露のようにはかない命の終わるまで」と。捨て置いたのであろう。「小萩のもとに吹く秋の風で、この宵には散るだろう、明日は萎れるだろう」と、たもとの食い物を投げて通るとき、

  猿を聴人すて子に秋の風いかに
  猿を聴人、捨て子に秋の風、如何に。

 いかにぞや汝ちゝにゝくまれたるか、はゝにうとまれたるか。ちゝは汝をにくむにあらじ、はゝは汝をうとむにあらじ。たゞ是天にして汝が性のつたなきをなけ。

 如何にぞや。汝、父に憎まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を憎むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け。

 どういうことなのか。お前は父親に憎まれたか、母親に嫌われたか。父がお前を憎んでのことではない。母がお前を嫌ったわけでもない。ただこれは、天のしたことで、自分の運命のつたなさを泣け。

⑤ 川止め

 大井がハわたる日は雨降。

 大井川渡る日は、雨降る。

 東海道の難所、大井川を渡る日は、終日雨が降っていた。

  秋の日の雨ゑどに指折ンおほ井がハ ちり ※ゑどは、ママ。

  秋の日の雨、江戸にテハ指折らん。大井川。  千里

⑥ 佐夜の中山

   眼前

   眼前

 (馬に乗る。その)目の前で。

  みちのべのむくげは馬にくハれけり

  道の辺の木槿は、馬に食われけり。

 はつか余りの月かすかに見えて、やまのねぎハいと暗く、こまの蹄もたどたどしけれバ、落ぬべきことあまたゝびなりけるに、数里いまだけいめいならず、とぼくが早行の残夢小夜の中山にいたりてたちまち驚く。

 二十日余りの月、微かに見えて、山の根際いと暗く、駒の蹄(ひずめ)もたどたどしければ、落ちぬべきこと数多たびなりけるに、数里[行けど]いまだ鶏鳴ならず、杜朴が早行の残夢[のごとし]。小夜の中山に至りて、忽ち驚く。

 二十日あまりの月が、薄雲を透かし、かすかに見えているが、山側斜面の際は大層暗く、馬が進める蹄もおぼつかないので、落ちてしまいそうになることが幾度もあって、数里進んだが、いまだ里の鶏は鳴かず、夜明けは遠い。唐の詩人杜牧の詩「早行」にある残夢(覚めても残る夢心地)のとおりで、小夜の中山に着いて、にわかに目が覚めた。

  馬に寝て残夢月遠し茶の煙
  馬に寝て、残夢月遠し。茶の煙。

野ざらし紀行天理本所載、「旅立」関連の句

送別

◆① えどをたつ日
 ばせを野分其句に草鞋かへよかし   李下
  月ともみぢを酒の乞食       蕉

   江戸を立つ日
 「ばせを野分」、その句に草鞋、替えよかし   李下
  月と紅葉を、酒の乞食(こつじき)。       芭蕉

 ※ 句の訳は、講読・解説を参照。以下同。

餞別

◆② 自烏巾を持きたりて
 頭巾きて君見よふじの初颪      コ斎

  自ら烏巾(うきん)を持ちきたりて

   頭巾着て、君見よ。富士の初颪(はつおろし) コ斎

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野ざらし紀行 旅程1「旅立」(深川~外宮)
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この表は、食事など休憩を考慮せず、ひたすら歩いた場合。平均時速4キロ、峠越えは2キロとしてある。

貞享元年8月14日から、同27日伊勢山田到着まで

月日時分記事移動距離累計

第1日 深川~戸塚宿(44.2㎞)

8/14 ±106:00

 野晒しを心に風のしむ身かな

 芭蕉野分其句に草鞋替へよかし 李下

 頭巾着て君見よ富士の初颪 コ斎

 秋十とせ却つて江戸を指す故郷

千里を同行させ、芭蕉庵を出立。 ※千里の資料

 深川や芭蕉を冨士に預けゆく 千里

深川-

0
 〃06:50日本橋から東海道に入る。-日本橋-33
 〃08:50品川宿を通過。-品川-7.911
 〃11:20六郷の渡し、川崎宿を通過。-川崎-9.821
 〃13:50神奈川宿を通過。-神奈川-9.831
 〃15:00保土ヶ谷宿を通過。-保土ケ谷-4.935
 〃17:10戸塚に宿泊と推定。-戸塚宿8.844
深川-小田原、足跡第1日 8月14日頃
深川~戸塚

第2日 8月15日頃
戸塚~小田原

※ 本文「はつか余りの月~小夜の中山に至りて」を21日頃として逆算。
※ 宿泊地は推定。

第2日 戸塚宿~小田原宿(39.4㎞)

8/15 ±106:00戸塚を出発。戸塚宿-44
 〃07:50藤沢宿を通過。-藤沢-7.251
 〃11:20馬入川を越え、平塚宿を通過。-平塚-13.765
 〃12:00大磯宿を通過。-大磯-2.868
 〃16:00小田原に宿泊と推定。-小田原宿15.784

第3日  小田原宿~三島宿(31.4㎞)

8/16 ±106:00小田原を出発。小田原宿-84
 〃14:20箱根関所を通過。-箱根-16.6100
 〃17:20三島に宿泊と推定-三島宿14.8115
小田原-蒲原、足跡第3日 8月16日頃
小田原~三島

第4日 8月17日頃
三島~蒲原

※ 本文「はつか余りの月~小夜の中山に至りて」を21日頃として逆算。
※ 宿泊地は推定。

第4日 三島宿~蒲原宿(35.3㎞)

8/17 ±106:00三島を出発三島宿-115
 〃07:30沼津を通過。-沼津-5.9121
 〃09:00原を通過。-原-5.9127
 〃12:10

吉原を通過。

-吉原-12.4139
 〃15:00 猿を聞人捨子に秋の風いかに
富士川を越え、蒲原に宿泊と推定。
-蒲原宿11.1150

第5日 蒲原宿~丸子宿(34.1㎞)

8/18 ±106:00蒲原を出発。蒲原宿-150
 〃07:00由比を通過。-由比-3.9154
 〃09:20薩田峠を越え、興津を通過。-興津-9.2163
 〃10:20江尻を通過。-江尻-4.3168
 〃13:00府中を通過。-府中-10.8179
 〃14:30丸子に宿泊と推定。-丸子宿5.9184
蒲原-島田、足跡第5日 8月18日頃 蒲原~丸子
第6日 8月19日頃 丸子~島田

※ 本文「はつか余りの月~小夜の中山に至りて」を21日頃として逆算。
※ 丸子宿泊は推定。島田宿泊は川止めのためと断定。

第6日 丸子宿~島田宿(23.7㎞)

8/19 ±106:00丸子を出発。丸子宿-184
 〃08:00宇津ノ谷峠を越え、岡部を通過。-岡部-7.9192
 〃09:50藤枝を通過。-藤枝-7.1199
 〃12:00終日雨。大井川の川止めで、島田に宿泊-島田宿8.7208

第7日 島田宿

8/20 ±1

島田に足止め。
 秋の日の雨江戸に指折らん大井川 千里

島田宿208

第8日 島田宿~金谷宿(3.9㎞)

8/21 ±116:00川止めが解け、島田を夕刻に出発。川を渡る。島田宿-208
 〃17:20金谷に着き、月の出を待つ。-金谷宿3.9212
島田-浜松、足跡第8日 8月21日頃 島田~金谷~掛川
第9日 8月22日頃 袋井~浜松

※ 本文「はつか余りの月~小夜の中山に至りて」を21日頃として逆算。
※ 宿泊地は推定。

第8日 金谷宿~掛川宿 / 第9日 袋井宿~浜松宿(46.3㎞)

8/21 ±100:00

馬を借り、深夜金谷宿を出発。
 道の辺の木槿は馬に食はれけり

金谷宿-212
 〃03:30佐夜の中山まで一里。
 馬に寝て残夢月遠し茶の煙
日坂を通過。
-日坂-7.1219
 〃05:20掛川を通過。-掛川-7.1226
8/22 ±107:405:40、日の出で日付が変わる。袋井を通過。-袋井-9.6236
 〃09:10見付を通過。-見付-5.9242
 〃13:20浜松に宿泊と推定-浜松宿16.6258

第10日 浜松宿~赤坂宿(47.3㎞)

8/23 ±106:00浜松宿を出発。浜松宿-258
 〃08:50舞阪を通過。-舞阪-11.1269
 〃09:50新居を通過。-新居-3.9273
 〃11:30白須賀を通過。-白須賀-6.8280
 〃13:20二川を通過。-二川-7.6288
 〃14:50吉田を通過。-吉田-5.9294
 〃17:20御油を通過。-御油-10.3304
 〃17:50赤坂に宿泊と推定-赤坂宿1.7306
第10日 8月23日頃 浜松~赤坂 / 第11日 8月24日頃 赤坂~宮(熱田)

浜松-宮、足跡

※ 本文「外宮に詣侍りける」、句「みそか月なし」を8月晦日の29日として逆算。
※ 伊勢に至るまでの宿泊地は推定。

第11日 赤坂宿~宮宿(46.8㎞)

8/24 ±106:00赤坂宿を出発。赤坂宿- 306
 〃08:10藤川を通過。-藤川-8.8314
 〃09:40岡崎を通過。-岡崎-5.9320
 〃13:30池鯉鮒を通過。-池鯉鮒-15.1335
 〃16:20鳴海を通過。-鳴海-11.1347
 〃17:50宮に宿泊。-宮宿5.9352

第12日 宮宿~四日市宿(40.2㎞)

8/25 ±106:00宮宿を出、七里の渡しで桑名へ。-宮宿- 352
 〃12:50桑名を通過。-桑名-27.5380
 〃16:00四日市に宿泊。-四日市宿12.7393
宮-雲出、足跡
第12日 8月25日頃 宮(熱田)~桑名~四日市
第13日 8月26日頃 四日市~雲出

※ 本文「外宮に詣侍りける」、句「みそか月なし」を8月晦日の29日として逆算。
※ 伊勢に至るまでの宿泊地は推定。

第13日 四日市宿~雲出宿(38.4㎞)

8/26 ±106:00四日市宿を出発。四日市宿- 393
 〃07:10日永追分で、伊勢参宮街道に入る。-日永追分-4.9398
 〃08:50神戸かんべを通過。-神戸-6.5404
 〃10:10白子しろこを通過。-白子-5.5410
 〃11:40上野うえのを通過。-上野-6416
 〃14:00津を通過。-津-9.4425
 〃15:30雲出くもずに宿泊。-雲出宿6.1431

第14日 雲出宿~山田宿(30.5㎞)

8/2706:00雲出宿を出発。雲出宿- 431
 〃08:40松坂まつさかを通過。-松坂-10.4441
 〃12:50小俣おばたを通過。-小俣-16.3458
 〃13:50伊勢山田大世古の松葉屋風瀑亭に到着。-風瀑亭3.8462
雲出~外宮、足跡
第14日 8月27日まで 雲出~外宮

※ 本文「外宮に詣侍りける」、句「みそか月なし」を8月晦日の29日として逆算。
※ 伊勢に至るまでの宿泊地は推定。
※ 「27日まで」としたが、「遅くても27日着」でなければ「十日ばかり」の滞在にはならない。

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旅程、資料

金谷から外宮まで
伊勢の段に、「まつばや風瀑がいせに有けるを尋音信て、十日ばかり足を休るほどに、くれて外宮に詣侍りける。一の華表の陰ほのくらく、御燈処々にみえて、またうへもなき峯のまつかぜ身にしむ計ふかき心を起して、みそか月なし千とせの杉を抱嵐」とある。
これを漫然と、「伊勢風瀑亭に十日ばかり足を休めて後、外宮に詣でる」と解すると旅程が成立しない。
外宮の月は、「みそかの月」である。この年の8月は、小の月で、29日が晦日みそかとなる。「十日あまり」留まって、29日に外宮を参拝するなら、20・21日に伊勢にいなければならない。
東海道金谷宿出立の日付は、本文に「はつか余りの月」とあるから、土台無理である。
ここは、「伊勢風瀑亭に十日ばかり足を休める間に、外宮に詣でる」と解さなければならない。

既に掲げた旅程に問題はないが、一応「金谷から急いだ場合」、伊勢にいつ着くか確認しておく。
金谷出立の日付は、本文「はつか余りの月~小夜の中山」から、21日前後とする。
通常の旅程急ぎの旅程累計
(㎞)
月日時分地名距離月日時分地名距離
8/21 ±100:00金谷発46.3 ㎞8/21 ±100:00金谷発93.6 ㎞212
03:30日坂02:20日坂219
05:20掛川03:30掛川226
8/22 ±107:40袋井8/22 ±105:10袋井236
09:10見附06:10見附242
13:20浜松着09:00浜松258
8/23 ±106:00浜松発47.3 ㎞
08:50舞阪10:50舞阪269
09:50新居11:30新居273
11:30白須賀12:40白須賀280
13:20二川14:00二川288
14:50吉田15:00吉田294
17:20御油16:40御油304
17:50赤坂着17:00赤坂着306
8/24 ±106:00赤坂発46.8 ㎞8/23 ±106:00赤坂発74.3 ㎞
08:10藤川07:30藤川314
09:40岡崎08:30岡崎320
13:30池鯉鮒11:00池鯉鮒335
16:20鳴海12:50鳴海347
17:50宮着13:50
七里の渡
352
8/25 ±106:00宮発
七里の渡
40.2 ㎞
12:50桑名17:50桑名着380
8/24 ±106:00桑名発81.6 ㎞
16:00四日市着08:10四日市393
8/26 ±106:00四日市発38.4
07:10追分09:00追分398
08:50神戸10:10神戸404
10:10白子11:10白子410
11:40上野12:10上野416
14:0013:40425
15:30雲津着14:40雲津431
8/2706:00雲津発30.5 ㎞
08:40松坂16:20松坂441
12:50小俣19:00小俣458
13:50山田着19:40山田着462

文化元曰人写の「芭蕉翁全伝」に、小さめの字で書き込みがある。
△貞享元年子ノ冬ヨリ此国ノ逗留 │九月八日ノ夜尾張ノ駅ヨリ此所二
                │移四五日ノ間ヲハリニ戻ラレ
  臘月廿五日ノ夜又此所二入テ歳暮ノ吟アリ
九月八日の夜尾張の駅より此所(伊賀)に移四五日の間尾張に戻られ」は、「貞享元年冬より(伊賀に)逗留」より前のことである。
また、久しぶりに伊賀上野に帰った28歳の土芳が、芭蕉の帰郷を聞き、東海道で待ち受け、水口で20年ぶりの芭蕉に再会するのは、翌貞享2年3月中旬である。
さらに、竹人の「芭蕉翁全伝」に「九月八日の~」の記述はない。
従って、この記録は、土芳がその折に直接書き留めたものではなく、竹人よりも後の人が伊賀の記録(おそらく猿雖の記録)をもとに追加したものと考えられる。
内容に誤りがある。
尾張の駅より → 伊勢より
尾張に戻られ → 葛城の竹内へ行かれ
また、「四五日の間」は、伊賀上野滞在の日数である。伊勢は「十日ばかり」、竹内は「8~10日」滞在する。
九月八日の夜」に帰郷、伊勢に10日滞在とすれば、次のように遅くても27日に伊勢に着いている。

 ┌──────┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┐
 │伊勢滞在日数│ 1 │ 2 │ 3 │ 4 │ 5 │ 6 │ 7 │ 8 │ 9 │10│
 ├──────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
 │  月/日  │8/27│8/28│8/29│9/01│9/02│9/03│9/04│9/05│9/06│9/07│
 └──────┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┘

伊勢着は、早くても25、6日で、無理をして24日に着く必要はない。

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野ざらし紀行 講読「旅立」
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送別

 金こがねは人の求めなれど、求むれば心静かならず。色は人の好むものから、好めば身を誤つ。ただ、心の友と語り慰むより、楽しきはなし。
 ここに隠士あり、その名を芭蕉と呼ぶ。芭蕉は己を知るの友※1にして、十暑市中に風月を語り※2三霜江上の幽居を訪ふ※3
 往にし秋のころ、古里の古きを尋ねんとて、草庵を出でぬ。親しきかぎりは、これを送り、なほ葎を訪ふ人もありけり。

  何もなく芝ふく風も哀なり      杉風
 他は漏らしつ。この句、秋なるや冬なるや、作者も知らず。ただ思ふことの深きならん。

素堂跋※4

※1 己を知るの友知己のこと。「士為知己者死 士は己を知る者のために死す(史記、刺客列伝)」
※2 十暑寛文12江戸に下り約10年。
※3 三霜……延宝8深川に移り約3年。杜甫詩、「十暑岷山葛 三霜楚戸砧」による。
※4 濁子本より抜粋し、仮名漢字を変更。以下「素堂跋」とのみ記す。

<素堂略歴>

山口素堂(そどう)、名信章、通称勘兵衛・市右衛門、別号来雪・松子・素仙堂・蓮池翁、茶号今日庵・其日庵。甲斐の郷士、甲府で酒造業、20歳頃家督を弟に譲る。季吟門、芭蕉と親交、2歳上。儒学・算学で仕官するが、延宝7年(1679)致仕。上野に隠棲、貞享2年(1685)葛飾に、元禄4(1691)深川に移住。著作物多数。正徳6年(1716)没、75歳。

芭蕉 「留別の句である」

     野晒しを心に風の沁む身かな 

杉風 「ならば、餞別に」

     何となふ柴吹く風も哀れなり

芭蕉 「では、脇を」

     雨の晴れ間を牛捨てに行く

罫線

杉風・芭蕉、付合 


何となふ柴ふく風もあはれなり 杉風

 あめのはれまを牛捨にゆく  芭蕉

 

※「しはふくかせ」平角(1757-1825)編より

書生

芭蕉は、別れに当たって、「旅の末には野辺のされこうべとなることを胸に置くと、秋風も深く身に染みいることだ」と挨拶した。

杉風は、この句を踏まえ、「何となく、旅立つ庵の柴の門を吹く風も、しみじみとした趣が感じられます」と、無季の発句を贈った。

芭蕉は感じ入り、「雨の晴れ間。この機会に牛を捨てに行く、そんな心地です」と、脇も無季で応じた。

隠居

杉風の句に、秋風を感じ取る向きもあるようだが、芭蕉は「季と見るところ」がない句としている。これは、「去来抄」で明らかとなりましょう。


去来曰く、「無季の句は折々あリ。興行はいまだ聞かず」
先師曰く、「発句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別・等、無季の句ハ有りたきものなり。されど、いかなる故ありて、四季のみとは定め置かれけん。その事を知らざれば、暫く黙し侍るなり。その無季といふに、二つあり。一つは前後、表裏、季と見るべきものなし。落馬即興に、

 歩行ならば杖突坂を落馬哉  はせを
 何となく柴吹く風も哀れなり 杉風

また、詞(ことば)に季なしと言へども、一句に季と見るところガありて、あるいは歳旦とも、名月とも定まるあり。
 年々や猿に着せたる猿の面  はせを」

「去来抄 故実」参照


また、素堂跋は、上五を「何もなく」とあるが、去来抄に「何となく」とあるので、初案か誤載と見る。

書生

「牛捨て」が分かりません。近年、BSEや口蹄疫で牛を処分あるいは放棄した記事がありましたが。

隠居

明治の頃まで、「捨て場」があった。衰えた牛や馬を捨てる所でな、そこで処理する。

牛の体重は600キロを超え、運ぶのは困難。自力で歩ける限界を見極め捨てに行くことになる。馬頭観音が祀られているのがその名残でしょうな。

書生

芭蕉が捨てに行く「牛」は何でしょうか。何かを喩えていますね。

隠居

そうですな。

そう、芭蕉はこの牛を弔いますな。

この旅の途次の、名古屋でな。「冬の日」の歌仙をご覧。

芭蕉七部集「冬の日」参照

書生

はあ、……「名ウ折立」に、確かに。

なるほど。

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草稿・付合

江戸を出立する日に

李下 「翁が風流の拠とするこのバショウや茅舎を後にされるので」

     芭蕉野分(して盥に雨を聞く夜かな)

     その句に草鞋替えよかし

芭蕉 「では、これを脇に。」

     月と紅葉を酒の乞食

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杉風・芭蕉、付合 「野ざらし紀行」草稿


◆①  えどをたつ日

ばせを野分其句に草鞋かへよかし 李下

 月ともみぢを酒の乞食       蕉

書生

李下は、芭蕉出立の日、「『芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな』と詠まれたように、庭のバショウや庵を風流の基いとしておいででしたが、これからは、草鞋をその代わりとなさってください。ぜひとも」と挨拶した。

芭蕉はその思いを受けて、「では、その草鞋を履いて、月や紅葉の美しいことは酒を貰いに歩きましょう」と、脇を添えた。

発句に込められた思いに、きちんと応じているのに感服しました。

隠居

延宝9年春、李下が、バショウの株を贈り、芭蕉庵の名の元になったことを押さえれば、理解も深まるでしょうな。「芭蕉野分」の句は同年秋、旅の4年前の吟。

書生

芭蕉庵を忘れないでほしいという思いが、感じられます。

で、草鞋を贈ったのでしょうか。

隠居

多分贈ったであろうが、草鞋はすぐ消耗する。餞別の品は、次に触れる。

芭蕉の頭巾

自ら黒い頭巾を持ちきて

コ斎 「君は『風の沁む身』と言うが、
   剃髪の頭はもっと沁みるであろう」

   頭巾着て君見よ富士の初颪

芭蕉翁之像画 杉風画

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コ斎、餞別 「野ざらし紀行」草稿


◆②
  自烏巾を持きたりて

 頭巾きて君見よふじの初颪  コ斎

書生

コ斎は、芭蕉に黒い頭巾を渡しつつ、「この頭巾を身につけて、君は見よ、富士の裾野を吹き下ろす初颪を」と、餞別句を詠んだ。
芭蕉は、「自ら」と書いていますが、高齢だったのでしょうか。わざわざ持参していただいたことに感動したようです。

隠居

高齢だったのかな。年齢は不詳だが、4年後の貞享5年7月21日に亡くなる。芭蕉が更科紀行から帰るひと月ほど前になるか。コ斎の辞世は、「あはれ也灯篭一つに主コ斎(阿羅野)」。

其角の父、東順(とうじゅん63歳)は、旅の常備薬。李下は紙子、蚊足(ぶんそく)は頭陀袋、嵐雪(らんせつ)が桧笠、ト尺(ぼくせき)が椿の杖を贈っている。

卜尺は、日本橋近くの町名主で、若い芭蕉を京から江戸に案内したと言われる人。義仲寺で見た椿の杖は、このときのものだろうか。

ツバキの杖

ツバキの杖は、芭蕉の遺品として、関の惟然、姫路の千山を経て、義仲寺に保存されている。
上の短冊(杖大に拡大)も義仲寺が保存する真筆。元禄2年4月中旬、殺生石への途次に書いたものか。

書生

「野をよこにむま引むけよほととぎす」と読めます。奥の細道ですね。

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旅立ち

 そも野ざらしの風は、出で立つ足元に千里の思ひを抱くや、聞く人さへぞ、そぞろ寒げなり。

<素堂序> 

※ 波静本「甲子吟行」より抜粋し、仮名漢字を変更。以下「素堂序」とのみ記す。

 荘子の逍遙遊に、「百里をゆく者は、宿(前夜)に糧を搗き、千里をゆく者は、三月糧を集む」とあるが、千里の旅に出て、「路糧を賚まず、(と、笑いまた歌う。)深夜月影の下、無心の境に入る」という先人の言葉。また椿の杖に頼って、貞享元年8月に、隅田川河畔の茅屋を立つとき、風の音が何となく寒げである。

 野晒しを心に、風の沁む身かな。

 秋十年、却つて江戸を指す故郷。

※広聞禅師の偈、「路不賚粮笑復歌。三更月下入無可。太平……」(江湖風月集)による。

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野ざらし紀行 真蹟「藤田本」


 千里に旅立て、路粮をつゝまず。
 三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月、江上の破屋を出づる程、風の声そぞろ寒気也。


 野ざらしを心に風のしむ身哉

 秋十とせ却て江戸を指故郷

書生

「旅の末には野辺のされこうべとなることを胸に置くと、秋風も深く身に染みいることだ」、「江戸に来て十年目の秋ともなると、却って江戸を故郷と言ってしまうようになった」という句を留別の吟として出立した。

隠居

3年後の「笈の小文」では、「三月さんげつの糧を集むるに、力を入れず」で、随分違いますな。

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箱根、関越え

 次に「富士を見ぬ日ぞ面白き」と詠じけるは、見るに猶ほ、風興勝れるものをや。

<素堂序>

 箱根の関を越える日は、雨が降っていて、山は皆、雲に隠れていた。

 

 霧時雨、富士を見ぬ日ぞ、面白き。

 

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野ざらし紀行 真蹟「藤田本」


 関こゆる日は、雨降て、山皆雲にかくれたり。

 

  雰しぐれ冨士を見ぬ日ぞ面白き

書生

江戸を出て三日目、いよいよ峠越え。この日は雨が降り、山は雲で見えない。

幸い霧時雨、峠道を歩くには心地よい。
徒然草に「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは(137段)」とある通りで、見なくとも、この関所から芦ノ湖の向こうに見えるはずの富士を思い描くのも味わい深いものだ。

 

ちなみに、見えていたら、こんな景色。

関所の富士

カシミール3Dで描画。箱根関所から眺望。28㎜広角(画角62°)。

隠居

ちなみに、霧時雨という季語は、「時雨が降るように深くたちこめた霧」「少し降ってはすぐ止む小粒の雨」。

書生

山道ですから、雨雲の中を歩いていたのでしょう。それが風流かと。

隠居

景色が見えないから、次は、同行者の紹介となる。序跋とも素堂の寸評がないので、千里の略歴を置く。

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同行者

<千里略歴>

 苗村千里ちり、知里とも。通称粕屋甚四郎・ 油屋嘉右衛門。屋号から植物油の製造販売の業と思われる。実家は奈良の竹内。浅草には、家業の出張所があった。

 この年37歳。「猿蓑」「蛙合」などに入集。69歳で没する。

「笈の小文、孝女お伊麻」の項を参照

 何々千里という人は、この度の旅を助けてくれ、何事もいたわり、誠意を尽くしてくれました。

 常日頃、互いに裏切らない交流が深く、この人は、私に誠意を示してくれています。

 

 深川や。芭蕉を冨士に預けゆく。 千里

 

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野ざらし紀行 真蹟「藤田本」


 何某ちりと云けるは、此たびみちのたすけとなりて、万いたはり、心を尽し侍る。常に莫逆の交ふかく、朋友信有哉此人。

 

  深川や芭蕉を冨士に預行  ちり

書生

千里は、浅草から駒形両国を経て、約1里の道を通って深川を訪れていた。経済力もあり、芭蕉も千里を頼りに思っていたことであろう。この千里も、大和の竹内に帰省する。

「深川ともしばらくのお別れだ。私も手入れをしたこのバショウ、富士山よ適度な雨で潤し、見守ってください」と祈りました。

隠居

この年芭蕉は41歳、千里は四つ下。芭蕉から友とされるのは光栄なことですな。

ときに、深川から富士は見えましょうか。

書生

建造物がなければ、大丈夫です。

預け富士

深川の芭蕉稲荷神社から、日の出30分後の眺望です。丹沢山塊の中央から頭を出しています。画角は、ライカ判50㎜標準レンズに相当、画角37°です。


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千里、資料

綿弓や琵琶に慰む竹のおく

この年、天和4年1月(2月21日貞享に改元)に、芭蕉は、千里の浅草の住まいを訪れている。

「心づくしの海苔の汁を頂いた。その調理の手際のよさを、浅黄椀の出来映えのよさが物語り、よく調和している」

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浅黄椀 「茶の草子」雪丸・桃先編


 浅草、千里がもとにて。

 海苔汁の手際見せけり浅黄椀

書生

浅黄椀が分かりません。

隠居浅葱

広辞苑には、「黒塗りの地に浅葱と赤白の漆で,花鳥の模様を描いた椀で、江戸初期に京都南北新町で作られた」とある。

浅黄という文字から、薄黄色と思いがちだが、本来は浅葱と書く。

右は色見本。

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富士川のほとり

 冨士川の捨子ハ惻隠の心を見えける。かゝるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすがに流よとハおもハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや。

<素堂序>


 冨士川の捨子ハ其親にあらずして天をなくや。なく子ハ独りなるを往来いくばく人の仁の端をかみる。猿を聞人に一等の悲しミをくはへて今猶三声のなミだゝりぬ。

<素堂跋>

 箱根峠を越え、三島で一宿。沼津、原、吉原と過ぎ、富士川の畔を行くと、乳離れしたくらいの幼児が悲しげに泣いていた。親が捨て置いたのであろう。

小萩のもとに吹く秋の風で、この宵には散るだろう、明日は萎れるだろう」と、たもとの食い物を投げて通るとき、

 

 猿を聞人捨子に秋の風いかに

 

 どういうことなのか。お前は父親に憎まれたか、母親に嫌われたか。父がお前を憎んでのことではない。母がお前を嫌ったわけでもない。ただこれは、天のしたことで、自分の運命のつたなさを泣け。

※「宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ」桐壺の死に、幼い源氏を思う帝の歌。

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野ざらし紀行 真蹟「藤田本」


 冨士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたへず、露計(ばかり)の命待間と捨て置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしをれんと、袂より喰物なげてとほるに、

 

  猿を聞人捨子に秋の風いかに

 

 いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる欤、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。
 唯これ天にして、汝が性のつたなきを泣け。

書生

ようやく箱根峠を越え、江戸を出て四日、富士川に至ると捨て子がいる。

明日は野ざらしとなる身が連れ歩く訳にはいかない。食い物を与えて、

 「猿を聞く人よ。秋風の中に捨て子の泣き声があるが、どう聞くか」

と詠んで通り過ぎた。

 

「猿を聞く人」は、杜甫。「秋興八首其二」に「聴猿実下三声涙(猿を聴きてげにも下す三声の涙」を踏まえていますね。

隠居

素堂もそう受け止めたようですな。でも、「いかに」と問われても杜甫は答えぬ。

芭蕉は、遣る方のない思いに駆られ、救いが欲しい。先にすがった広聞禅師に問うたのではないか。これも、江湖風月集(ごうこふうげつしゅう)にある。

 後夜聽猿啼落月  後夜(ごや、夜明け前)、猿の落月に啼くを聴く。

この偈に涙はない。また、素堂の言う惻隠もない。

 ※三山偃溪廣聞禪師「越山入夢幾重重/歇處應難忘鷲峯/後夜聽猿啼落月/又添新寺一樓鐘」

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大井川、川止め

 <川止め>

 大井川の水深は、平常2尺5寸(76センチ)で、4尺5寸(136センチ)になると川止めとなった。

 水深により、料金が異なったという。

 大井川を越える日は、一日中雨が降ったので、

 

  秋の日の雨、江戸に指折らん、大井川。  千里

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野ざらし紀行 真蹟「藤田本」


大井川越る日は、終日ひねもす雨降ければ、

秋の日の雨江戸に指をらん大井川 千里

書生

六日目の午後、大井川を渡るつもりであったが、川止めであった。やむなく島田宿に泊まる。

 「秋の日の長雨、江戸ではさぞかし指を折って『今はどの辺り』と話していることでしょう。しかし、今日、大井川は渡れません。」と、千里が句を詠んだ。

 

「秋の日の雨」は、「3・2・2」の7音節。「秋の雨」の5音でよいかと思いますが。

隠居

気になるかな。

他に「秋の梅雨」「秋時雨」「秋驟雨」など5音の季語はいくらでもあるし、「秋雨や」とすることもできるが、そうしないのには訳があろう。

 「秋の雨江戸に指折らん大井川」と定型に収めて味わうと。

書生

はあ、2か所で切れて、何か変ですね。

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小夜の中山

 また、小夜の中山の馬上の吟、茶の烟の朝景色、ふもとに夢を帯びて、葉の落るとき驚きけん詩人の心を写せるや。

<素堂序>


 次に小夜の中山の夢は、千歳の杜牧(松枝)留まれるや。西行の命、ここにあらん。なお、古里のあはれはその身に迫りて、他に言はば浅からん。

<素堂跋>

書生

この川止め期間についての記録は知らないので、伊勢山田到着から逆算し、1,2日で解除と推定しました。

また、東海道難所の一つ「小夜の中山」を夜間に越えることから、川止め解除は夕刻と推定しています。

 馬に乗って詠んだ。

  道の辺の木槿は、馬に食はれけり。

 

 二十日あまりの月が、薄雲を透かし、かすかに見えているが、山側斜面の際は大層暗く、馬が進める蹄もおぼつかないので、落ちてしまいそうになることが幾度もあって、数里進んだが、いまだ里の鶏は鳴かず、夜明けは遠い。唐の詩人杜牧の詩「早行」にある残夢(覚めても残る夢心地)のとおりで、小夜の中山に着いて、にわかに目が覚めた。

  馬に寝て、残夢月遠し。茶の煙。

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野ざらし紀行 真蹟「藤田本」


  馬上吟ばじょうのぎん

 道のべの木槿は馬にくはれけり

 

 廿日余の月かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚く。

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

書生

大井川は、何とか渡ったが、既に日は暮れかかっている。旅の遅れを取り戻したいが、、この日の月齢は20.7、月の出は遅い。金谷宿で馬を借り、月が出るのを待って深夜の出発となった。

金谷の月
地平からの月の出は、10時20分頃で、10分後には
山から顔を出し、1時間後には道を照らしてくれる。

 朝には開くであろう木槿の花が月明かりに白く浮かんでいる。あっと思う間もなく馬がぱくりと食んだ。あの花はもう咲くことはないが、これも宿命である。
 後ろから差す下弦のかすかな月明かりを頼りに、峠へと金谷坂を慎重に進むが、暗くて石や穴が分からず何度も落ちそうになる。

峠の月
佐夜の中山峠は、金谷宿から約一里。夜道で上り坂なので、通過は
午前2時頃。この下弦の月は東の空、地平から40°近くに昇る。

 馬上で眠りつつ峠を越えると、茶に香る煙で、ぱっと目が覚めた。夢見心地の眼には、高く輝く月が、随分遠くに感じられる。

 

この詞書きの「馬上吟」、天理本では「眼前」となっておりますが。

隠居

「眼前」を「馬上吟」に書き改めたということ。

「馬上」であれば、当然「眼前」ということが分かる。王翰の「涼州詞」に「欲飲琵琶馬上催(飲まんと欲すれば、琵琶馬上に催す)」のように、「馬上」は、なじみのある漢詩の用語である。
槿の句が深夜の吟というのは、斬新に過ぎたのではないか。

書生句は、日中の吟にしたいところですが、行程上ありえぬことでし、咲く前の花が句意に合うかと。
整理します。
・ 小夜の中山を「夜明け前に越えている」ことは、表現から否定できません。
これがすべてです。
川止めの解除が、朝から昼ならば、2里もない中山の峠道は、せいぜい2時間あれば、日の高いうちに越えられます。
ですから、川越えは、日没2時間前より後と断定できます。峠越えは諦め、金谷宿で泊まることになりましょう。なぜなら、宵のうちは無月、闇夜だからです。馬を借りてそのまま峠に向かうことはありえません。また、川越え地点から金谷宿までの距離は短く、馬を借りることはありえません。
芭蕉たちは、一旦金谷宿に行き、善後策を練ったことでしょう。
「遅れを取り戻したい。月が出なければ泊まる。雲がなく、出れば立とう」
この日の月の出は午後9時30分で、道を照らすのは、おおよそ3時間後からです。
深夜の出発は、「遅れを取り戻す強行」としましたが、宿が満員であったからかも知れませんね。
隠居で、月影の槿の蕾をパクリか。朝咲いたであろうものをのう。
書生

素堂序の「葉の落るとき驚きけん」とは?

隠居

杜牧の「早行」にある。石川丈山撰「三十六詩仙」の一つ。


  「早行」 杜牧
 垂鞭信馬行     鞭を垂れて、馬にまかせて行き、
 数里未鶏鳴     数里、いまだ鶏鳴ならず。
 林下帯残夢     林下、残夢を帯び、
 葉飛時忽驚     葉飛びて、時にたちまち驚く。
 霜凝孤雁迥     霜凝りて、孤雁はるかに、
 月暁遠山横     月、暁にして、遠山横たはる。
 僮僕休辞険     僮僕(どうぼく)よ、険(けん)を辞するをやめよ。
 何時世路平     いずれの時か、世路平らかならん


素堂が敬愛した丈山の詩仙堂に掲げられている。素堂がこの詩を紹介したのかも知れない。

書生

素堂跋の「西行の命」は、
 年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山
です。この峠を越えて、郷里に行く芭蕉の思いを読めということでしょう。

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野ざらし紀行 講読の振返り

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「旅立」の段
旅程<旅程検討>
 右は、「芭蕉紀行文集(中村俊定校注、岩波書店、2011年48刷)に示された旅程である。
 当然、学術的検討を経た過不足のないものである。諸資料を合わせ、正確を旨に書き表せば、このようにあるであろう。
罫線芭蕉紀行文集 紀行旅程表
貞享元年
 八月中旬    江戸を出立。
 八月二十日過ぎ 小夜中山を越える。
 八月三十日   伊勢外宮に参詣。
   二十九日
 ・ 中旬出立であるが、「中旬」とは「11日~20日」である。
 ・ 「小夜中山20日過ぎ」は、本文「二十日余の月」から導かれる。「21日以後の月」である。
 ・ 「三十日」は「晦日みそか」の誤りであろう。この月の晦日は二十九日である。
 以上を、一覧表にすれば、以下のとおり。
 ┌──┬───────────────┬────────────┬──────┐
 │  │    江戸出立(上旬)   │ 小夜中山(20日過ぎ) │外宮(晦日)│
 ├──┼───────────────┼────────────┼──────┤
 │8月│11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 │21 22 23 24 25 26 27 28 │   29   │
 └──┴───────────────┴────────────┴──────┘

 しかし、これでは現実的でないことに気付く。例えば、20日に江戸を立ち21日に小夜中山を越えることはできないのは明らかである。実際には移動時間などを考慮することが必要である。
 次にそれを考慮した場合を示す。
 ・ 江戸・島田間は、約210㎞ある。急いでも3日、通常6日掛かる。
  → 江戸11日発、島田13~16日着。大井川足止め、14~24日(日付)までの数日。
  → 足止め解除・同日小夜の中山峠を夜明け前に通過。21~24日
 ・ 金谷・伊勢山田間は、約250㎞ある。急げば3日、通常7日掛かる。
  → 24日~28日、伊勢山田着。
 これを表にすれば、次の通り。
 ┌──┬─────────┬──────┬──────┬──────┬──┐
 │  │  江戸出立・旅  │旅・島田足止│小夜中山・旅│旅・山田滞在│外宮│
 ├──┼─────────┼──────┼──────┼──────┼──┤
 │8月│11 12 13 14 15 16 │17 18 19 20 │21 22 23 24 │25 26 27 28 │ 29 │
 └──┴─────────┴──────┴──────┴──────┴──┘
 当サイトの旅程表は、上の旅程を基に、次のように想定している。
 ・ 江戸を14日頃出立、19日頃昼島田着。5日半の旅。
 ・ 19日はそのまま島田に足止め、21日午後足止め解除。
 ・ 昼過ぎに大井川を渡り、夕刻金谷着。
 ・ 月の出を待って小夜の中山峠を越える。(道を照らす月は、明るさや月の出の時刻からして22日が限界。)
 ・ 伊勢山田着は、「伊勢、十日ばかり足をとどむ」とあるので、伊賀上野着が9月8日夜から逆算して、27日頃とした。
 概ね妥当な旅程ではないか。
芭蕉句 道のべの木槿は馬にくはれけり
 この句を深夜の句とした。
 藤田本の詞書きは「馬上の吟」である。大井川を越え、小夜の中山に至る中で、馬に乗るのは金谷宿からで、深夜は妥当である。
旅の目的「芭蕉紀行文集」は、「野ざらし紀行」の旅の目的について、次のように説明する。
 この旅の動機・目的についてば二つの説がある。
 一つは新風探求の悲壮な決意によるものであるとし、他は実用的現実的用件、具体的には美濃の谷木因(通称九太夫、大垣の人、俳諧は季吟門、延宝末年頃から芭蕉に接近)の招きによるもの、あるいは前年(天和三年)郷里で没した亡母の展墓が目的であったと考える説である。
 このサイトでは、新風探求という動機を踏まえた目的を、芭蕉の脇句、
  雨の晴れ間を牛捨てに行く
とし、講読を進めていく。
この「牛」は「憂し」であろうか。
名古屋までに「牛(憂し)」を捨てたのであろう。「冬の日」に、
 うしの跡とぶらふ弔う草の夕ぐれに
という句を見ることができる。
 → 次の段「伊勢」へ

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「野ざらし紀行」講読ページ解説

・ 俳諧を趣味とする隠居と書生との、講読記録です。

 

・ 購読図書

 

・ 参考文献

 

・ 利用ソフトウェア

 

・ 「野ざらし紀行」の文章は、以下のように変更しています。原文は上記講読図書を参照。

 

・ 古文に以下のように追加しています。

※ 凡例


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