野ざらし紀行 伊賀上野~竹内~吉野

野ざらし紀行・索引

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大井川閑人の茅舎西行庵桑名 熱田三歌仙1大津 送別***
小夜中山峠付合後醍醐天皇陵浜の地蔵堂伊賀上野2水口 付合、熱田***
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講読、その三「伊賀、竹内、吉野山」

 芭蕉は、門弟千里を連れ、「野ざらし紀行」の旅に出、伊勢の神宮参拝後、郷里伊賀上野を経て、千里の生家竹内に至ります。竹内からは一人吉野を巡ります。

 このページでは、芭蕉真蹟「天理本」・「藤田本」を元に、伊賀上野・竹内・吉野山の段を取り上げ、原文・訳読み文・現代語訳を示し、「甲子吟行の素堂序」・「竹内に残された真蹟」・「濁子本の素堂跋」などを資料にして、講読していきます。

 また、旅程表を作成し、講読の資料としつつ、この旅の実態を明らかにしていきます。


野ざらし紀行
隠居line

各段は、便宜上設けたもので、原文にはない。

以下の文は、芭蕉の真蹟「天理本」による。仮名が多く読みにくいかも知れない。

また、「天理本」には、旅を補足する句が、巻末に付せられているので、「関連句」(◆印)として記しておく。

後に講読の項に置いた文は、貞享年間の真蹟「藤田本」による。

どちらも、「芭蕉紀行文集、中村俊定校注(岩波文庫)」を参照したものである。

書生

私は、旅程表を作りますが、訳はどうしましょう。

隠居

わしは、訳を好まぬ。原文のまま味わいたいので、訳読み文のみ示す。

書生

では、現代語訳は、私がします。

野ざらし紀行「伊賀上野」

⑫ 生家

 ながつきの初、故郷にかへりて、北堂の萱艸も霜がれていまは跡だになし。

 長月の初め、故郷に帰りて、北堂の萱草(かんぞう)も霜枯れて、今は跡だになし。

 陰暦9月の初めに伊賀上野の故郷に帰ってみると、亡き母の居所に植わっていたカンゾウも霜枯れて、今は跡形もない。

 なにごともむかしにかハりて、はらからの鬢しろく、眉しハよりて、たゞ命有りてとのみ云ひて言葉はなきに、このかミの守袋をほどきて、はゝのしら髪拝めよ、浦嶋の子のたまてばこ、汝がまゆもやや老たりと暫くなきて、

 何事も昔に変わって、同胞(はらから)の鬢(びん)白く、眉寄りて、ただ「命有りて」とのみ言ひて言葉はなきに、「この髪の守袋をほどきて、母の白髪拝めよ、浦嶋の子の玉手箱、汝が眉もやや老いたり」と暫く泣きて、

 何もかも昔とは変わっていて、兄のびん髪(頭の左右、耳の上)は白く、眉は皺が寄って、ただ「命があってよかった」とだけ言って、言葉はないのだが、兄は「この髪の守り袋をほどいて、母の白髪を拝め。浦島子が玉手箱を開いたようだな。お前の眉も少し年をとってきたな」としばらくは泣いて、

  手にとらば消む泪ぞあつき秋の霜

  手に取らば、消えむ。涙ぞ熱き、秋の霜。

 ※ 句の訳は、講読・解説を参照。以下同。

野ざらし紀行「葛城、竹内」

⑬ 竹内

 大和のくにゝ行脚して葛城の下の郡竹の内と云処にいたる。

 大和の国に行脚して、葛城の下の郡(しものこおり)竹の内と言うところに至る。

 大和の国を巡り歩いて、葛城の下の郡、竹内(たけのうち)というところに着いた。

 此処ハ彼ちりが旧里なれバ、日比とゞまる。

 ここは、彼(か)の千里が旧里なれば、日頃留まる 。

 ここは、かの千里の故郷なので、しばらく逗留した。

    やぶよりおくに家有。
  綿弓や琵琶になぐさむ竹のおく

    薮より奥に家あり。
  綿弓や。琵琶[の音]に慰む竹の奥。

⑮ 当麻寺

 ふたかみ山当麻寺に詣て庭上の松をみるに、まことに千とせもへたるならむ、大イサ牛をかくすとも云べけむ。

 二上山当麻寺(にじょうざんたいまでら)に詣でて、庭上の松を見るに、誠に千年も経たるならむ、大いさ牛を隠すとも言ふべけむ。

 二上山当麻寺に詣でて、庭先の松を見ると、本当に千年は経ているであろう。その大きさは、牛を隠すと言ってよいだろう。

 彼非情といへ共、仏縁にひかれて、斧斤の罪をまぬがれたるぞ、幸にしてたふとし。

 彼非情と言へども、仏縁に引かれて、斧斤の罪を免れたるぞ、幸いにして尊し。

 あの松に感情はないと言えど、仏の縁に導かれ、切り倒されることがなかったのは、幸いであり尊いことだ。

   僧朝がほ幾死かへるのりのまつ

   僧朝顔ノゴトク幾死に還る。法の松

野ざらし紀行「吉野」

⑯ 吉野山

 独よし野のおくにたどりけるに、まことに山ふかく、白雲峯にかさなり、煙雨谷を埋て、山賤の家処々にちいさく、西に木を伐音東にひゞき、院々の鐘の声ハ心のそこにこたふ。

 独り吉野の奥に辿りけるに、誠に山深く、白雲峰に重なり、煙雨谷を埋めて、山賤(やまがつ)の家所々に小さく、西に木を伐る音東に響き、院々の鐘の声は心の底に応ふ。

 独り吉野の奥を辿ったが、実に山が深く、白雲が峰に重なり、霧雨が谷を埋めて、木こりの家が所々に小さく見え、西で木を切る音が東に響き、寺々の鐘の音は、心の底まで響き渡る。

 むかしより此やまにかくれて世をわすれたる人、おほくは詩にのがれ歌にあそぶ。

 昔よりこの山に隠れて世を忘れたる人、多くは詩に逃れ歌に遊ぶ。

 昔から、この山に隠棲し、世を捨て忘れた人の多くは、詩や歌を詠み、世事から逃れ、心を慰めてきた。

⑰ 宿坊

     ある坊に一夜をかりて

     ある坊に、一夜を借りて

     とある寺に、一夜の宿を借りて

  碪うちて我にきかせよや坊が妻

  碪打ちて、我に聞かせよや。坊が妻

⑱ 西行庵

 西上人の草の庵の跡は、おくの院より二町程わけ入て、柴びとのかよふみちのミわづかに有て、 さがしきたにをへだてたるぞ、いとたふとし。

 西[行]上人の草の庵の跡は、奥の院より二町程分け入りて、柴人の通ふ道のみ僅かにありて、 険しき(さがしき)谷を隔てたるぞ、いと尊し。

 西行上人の草庵の跡は、金峯神社、奥の院から二町ほど山道を分け入って、柴刈りの人が通ふ道だけ、細々とあり、 険しい谷を隔てているのは、誠に尊いことだ。

 彼とくとくの清水ハ、むかしにかハらずとみえて、いまもとくとくと雫落ける。

 彼のとくとくの清水は、昔に変わらずと見えて、今も、とくとくと雫落ちける。

 かの有名な「とくとくの清水」は、昔と変わらないようで、今でもとくとくと滴が落ちている。

  露とくとく心みに浮世すゝがばや

  露とくとく。試みに、憂き世濯がばや。

 若是扶桑に伯夷あらばかならず口をすゝがむ。若是許由につげバかならず耳を洗ハむ。

 若しこれ、扶桑に伯夷あらば、必ず口を漱がむ。若しこれ、許由に告げば、必ず耳を洗はむ。

 もしこの清水があって、我が国に伯夷がいたら、必ず口をすすぐだろう。もしこの清水を許由に伝えたら、必ず耳を洗うだろう。

⑲ 天皇陵

 やまをのぼり坂を下るに、秋日既斜になれバ、名有処々み残して、先後醍醐帝のみさゝぎを拝む。

 山を登り坂を下るに、秋日既に斜めになれば、名有る所々見残して、先づ後醍醐帝の陵を拝む。

 帰路、山を登り、坂を下ると、秋の日は既に傾いているので、名所を見残して、何はともあれ後醍醐天皇の御陵を参拝した。

  御廟年へてしのぶハ何をしのぶぐさ

  御廟経て、忍ぶは、何を忍ぶ草。

原文・口語訳][旅程表][ 生家竹内当麻寺吉野山宿坊西行庵天皇陵 ][まとめ

野ざらし紀行 旅程3「伊賀上野、竹内、吉野」
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貞享元年9月8日伊勢山田出発から、9月28日大垣到着まで

月日時分記事移動距離累計

9月9日~9月14日 伊賀上野

9/708:00伊勢山田発-伊勢街道 - 507
16:00<伊勢山田-伊勢街道→月本追分-伊賀街道→久居の宿>久居の宿 32.0 539
9/806:00久居発-伊賀街道 - 539
16:10

<久居-伊賀街道→長野峠→芭蕉生家>

伊賀上野到着。2度目の帰郷、生家に滞在

生家 40.5 579
9/10~9/13生家 - 579

※ 「長月の初、故郷に帰りて」とある。伊勢に「十日ばかり足をとどむ」内、外宮参拝が8月29日(晦日)であることを勘案し、帰郷は9月8日と仮定した。

※ 曰人の「芭蕉翁全伝」によっても、「九月八日夜」帰着である。伊勢・伊賀間72.5キロを時速4キロで歩くと、朝六時に発ったとして、到着は深夜0時10分となる。途中一泊するのが妥当であろう。

9月7日伊勢山田~8日芭蕉生家

外宮-芭蕉生家、足跡

※ 伊賀街道で帰ったと想定。奈良街道経由は1.5㎞長い。

9月15日~9月22日 葛城の竹内

9/1406:00伊賀上野発-初瀬街道 - 579
 〃12:40<芭蕉生家→名張→三本松>三本松宿 26.7 606
9/1506:00三本松発-初瀬街道 - 606
 〃14:40

<三本松→初瀬→竹内>

千里の故郷、葛城竹内村に滞在。

興善庵 34.3 640
9/16~9/22この間、近くの当麻寺に一度行く。興善庵 4.0 644
伊賀~竹内、足跡9月14日伊賀上野~
9月15日竹内

※ 竹内には「日ごろとどまりて」とあるのみ。10日とする情報もあるが、寡聞にしてその根拠を知らないので、この表では8日間である。10日であれば、伊賀上野出発が12日となる。

9月23日・24日 吉野

9/2306:00竹内発-吉野への街道 - 644
 〃13:10<竹内-葛城→大淀-伊勢街道→吉野の宿坊>吉野宿坊 28.5 673
9/24<吉野の宿坊→西行庵→後醍醐天皇陵→吉野の宿>吉野の宿 9.0 682

竹内~吉野、足跡9月23日竹内~9月24日吉野

※ 表のように吉野には昼過ぎには着くので、その日のうちに西行庵を訪れることも可能であるが、野ざらし紀行本文の記述に沿って、翌日とした。
※ 吉野の宿は、浄土真宗系の宿坊と推定。後醍醐天皇陵は宿の近くにある。
※ 後の「笈の小文」に、葛城の一言主の神が登場する。この地を訪れた経験を土台にしたかとも思われるので、この経路を設定した。なお、当時は金剛山も葛城山と称していた。
原文・口語訳][旅程表][ 生家竹内当麻寺吉野山宿坊西行庵天皇陵 ][まとめ

野ざらし紀行 講読「伊賀上野」

生家

 それより古郷に至りて、はらからの守袋より、たらちねの白髪を出して拝ませけるは、まことにあはれさは其身にせまりて、他にいはばあさかるべし。

<素堂序>

陰暦9月の初め、故郷に帰ると、亡き母の居室であった北堂の萱草は霜枯れし果てたか、跡さえ見えない。

あらゆることが昔と変わって、兄者のびんは白くなり、眉には皺が寄って、「よく命があって」とだけいうと、兄は守り袋を開いて、「母の白髪を拝め。浦島が玉手箱を開いたか、お前の眉も少し年老いたな」としばらく泣いて、

  手にとらば消えん。涙ぞ熱き、秋の霜。

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生家 真蹟「藤田本」 ⑦


 長月の初、故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、只命有てとのみ云て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて、母の白髪をがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老たり、としばらくなきて、

 

  手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

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書生line

兄者半左右衛門が、母の遺髪を拝めと、袋をほどいた。

「白い母の遺髪は、まるで薄い秋の霜のように頼りげなく見えた。込み上げる熱い涙で、手に取れば消えてしまいそうだ」


母の死以後、久々の帰郷でしたか。line

隠居

前年6月20日、60歳くらいでの逝去だが、芭蕉は帰郷していない。

というか、戻る余裕がなかったか。

その前の冬(歳末)に、大火があって芭蕉庵が焼失、甲斐に疎開していた。6月は、やっと江戸に戻ったころじゃな。周囲の人々も被災し、町は復興の最中、庵の再建もしなくてはならない。

帰郷は7年ぶり、延宝4年(1676)以来である。

母親の年齢や帰郷については、笈の小文「旧里や句」参照

書生

7年前、黒髪であった母親が、無沙汰の内に白髪になっていたのでしょう。また、看病もできず、死に目にも会えなかった。熱い涙は悔いの涙でしょう。

原文・口語訳][旅程表][ 生家竹内当麻寺吉野山宿坊西行庵天皇陵 ][まとめ

野ざらし紀行 講読「葛城、竹内」

竹内1

 しばらく故園にとどまりて、大和廻りすとて、わたゆみを琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける。此両句をとりわけ世人もてはやしけるとなり。

<素堂序>

しばらく伊賀上野の生家に留まり、大和の国を歩いて、葛城の竹内に何日か留まった。ここは、同行者千里の故郷である。

 

 綿弓や。琵琶[の音]に慰む竹の奥。

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竹内 真蹟「藤田本」 ⑦


 大和の国に行脚して、葛下(かつげ)の郡竹の内と云処は、彼(かの)ちりが旧里(ふるさと)なれば、日ごろとゞまりて足を休む。


 わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

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書生line

ひっそりとした竹林の奥のこの家に宿り、ひなびた綿弓の音を琵琶の音と聞

きなして、しばし旅愁を慰めている。

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隠居

竹内の宿は興善庵で、主は庄屋の油屋喜右衛門(きえもん)。

書生

あれ、千里の通称は油屋嘉右衛門(かえもん)ともあります。よく似ていますね。

千里の親ではないですか。

隠居竹の内マップ

いや、千里の家と喜右衛門の家は別でしょう。

私も気になりましてな、綿弓記念館のイラストマップを見てまいった。右がそれで、「竹内自然を愛する会」が、古老に聞き取り作成した貴重なもの。

緑色の囲いは、左から、

・粕屋(油屋)千里旧宅

・庄屋油屋喜右衛門

・造酒屋(綿弓記念館)

・興善庵

で、千里の家も油屋と分かる。

油は「綿実(めんじつ)油」、綿の実油とも言う。上質な食用油で、素麺作りやツナ缶には欠かせない。

絞りかすは、肥料として重宝される。

粕屋という屋号はそれですな。

それに、千里はその長男ということです。こちらは、嘉右衛門家だったわけ。

紛らわしいので、以下、喜右衛門のことは、「庄屋」と言う。

では、庄屋に贈った俳文。

竹内1、資料

綿弓や琵琶に慰む竹のおく

大和の竹内というところに、何日か留まったが、この里長(さとおさ)が、朝夕訪れて、旅の愁いを慰めようとしてくれた。誠にその人は普通の人ではない。心は高みに置いて、身は木こりや猟師と交わり、自ら鋤を担いで、陶淵明の園に分け入り、牛を引いて、蓑山に隠れ住む許由のような人を引き連れる。また、そうでありながら、職を務めておろそかにしない。家は質素倹約を旨とし、貧しい人と変わりない。このことは、町中に暮らしつつも、忙しい中からわずかな暇を見出しそうとし、心のゆとりを得た人とは、この里長のことであろう。

 

 綿弓や。琵琶[の音]に慰む竹の奥。

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竹の奥 真蹟懐紙


 大和国竹内と云処に日比とどまり侍るに、其里の長也ける人、朝夕問来りて、旅の愁を慰みけらし。誠その人は尋常(よのつね)にあらず。心は高きに遊んで、身は芻蕘雉兎(すうじょうちと)の交をなし、自ら鋤を荷て、渕明が園に分け入り、牛を引ては箕山(きざん)の隠士を伴ふ。且(かつ)其の職を勤て職に倦ず。家は貧(まど)しきを悦びてまどしきに似たり。唯是(これ)市中に閑を偸(ぬすみ)て、閑を得たらん人は此の長ならん。


 綿弓や琵琶に慰む竹のおく

                   蕉散人桃青

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書生line

素堂序を見ると、伊勢の隠士に対すると同様、この里長に心を寄せていたのですね。

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隠居

この里長は、浮き世で精一杯働きつつ、隠士のような自由を得ていた訳ですな。

この人が、庄屋の油屋喜右衛門。

書生

なるほど。

次は、長尾の里の人ですね。

冬しらぬ宿やもみする音あられ

大和の長尾の里(竹内東方約1キロ)というところは、なるほど都が遠くはなく、山里ではあるがそれらしくもない。主は誠意あふれる様子で、老いた母がいらっしゃるが、家の傍らに居室を設け、その庭に草木の様がよいのを、植え置いて、大きな岩を珍しいさまに据え置いて、自ら枝をたわめ石をなでつつ、「この築山は、蓬莱の島ともなってしまってほしいものだ。不老不死の薬もとれるはずだ」と言って、老母に仕え、慰めなどをするのは、実に誠意があふれる。「家が貧しいと孝行者が現れる」と言うことは聞くが、貧しくないのに孝を尽くすことは、先人も難しいことだと言っている。

 

 冬知らぬ宿や。籾摺る音、霰。

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長尾の里 真蹟懐紙


 大和国長尾の里と云処は、さすがに都遠きにあらず、山里ながら山里に似ず。あるじ心有さまにて、老たる母のおはしけるを、其家のかたへにしつらひ、庭前に木草のをかしげなるを植置て、岩尾めづらかにすゑなし、手づから枝をたはめ石を撫ては、「此山蓬莱の嶋ともなりね、生薬(いくぐすり)とりてんよ」と老母につかへ、慰めなんどせし実(まこと)有けり。「家貧(ひんに)して孝をあらはす」とこそ聞なれ、貧しからずして孝を尽す、古人も難事になんいひける。


 冬しらぬ宿やもみする音あられ

                   蕉散人桃青

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書生line

長尾の誠実な人の家に泊まって、

「この家には冬が来ないのだろうか。霰の降るこの時期、土間では籾を摺る音が、霰の音のように絶え間なく聞こえてくる。収穫が多いのか、実に豊かだ」


山里ではあるが、都に近く山里らしくないという、微妙な表現ですね。

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隠居

長尾は竹内の東隣だが、まあ都にはその分近く、平地が広がっておる。

この懐紙は、長尾に住む千里の孫が所持していた。吉川という家で、後に孫が婿入りしたのかな。

書生

「冬」や「あられ」は三冬の季語ですね。この時の句ではないかと。

隠居

「籾摺り」が句の中心で、晩秋ですな。「冬しらぬ」だから冬でない。「あられ」は比喩。

次の句は、「春」である。

初春先酒に梅売にほひかな

葛城の竹内に住む人がいた。妻子はみすぼらしくない程度に質素な身なりで、使用人は多く、春は耕し秋は収穫で忙しそうだ。

家には杏子の花の香が漂い、詩人の心を励まし、愁いのある人を慰める。季節が、菖蒲から菊に移る中、慈童の不老長寿の水と効能を争うことは間違いない。

 

 初春(しょしゅん)先ず、酒に梅売る匂ひかな。

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酒に梅 真蹟懐紙


 葛城の郡竹内に住人(すむひと)有けり。妻子寒からず、家子(けご)ゆたかにして、春田かへし、秋いそがはし。
 家は杏花のにほひに富て、詩人をいさめ、愁人を慰す。菖蒲(あやめ)に替、菊に移て、慈童が水に徳をあらそはん事必(ひつ)とせり。


  初春先酒に梅売にほひかな
                   芭蕉庵桃青

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書生line

竹内の人の家に泊まって、

「春の初め、梅が馥郁と香るこのお家で、お酒の匂いが漂い、何とも言えないよい気分になったことです」


なるほど、春になっています。「はつはる」と読めば新年ですが。

慈童とは、誰でしょう。

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隠居

聞かれれば止むを得ん。

♪本より薬の水なれば~♪その身も変らず~八百歳を♪既に経たりや~猶ことぶきは♪

謡曲「枕慈童」ですな。「菊慈童」もある。この年でまだ少年という。

書生

はあ。

隠居

まだ、春がある。

世に匂ひ梅花一枝のみそさざい

良医玄随子は、「三度肱を折る」の言葉通り、苦節を経て円熟した良医となった。その家を一枝軒と名付けている。

「一枝」とは言っても、一番で官吏となって「崑崙山の玉の一片を得たにすぎぬ」という、「桂林の一枝の花」ではなく、摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)の拈華微笑、一枝の花でもない。これは、荘子の「一巣一枝の楽み」である。もぐらもちは大きな川で水を飲んで、その小さな腹を満たして腹を叩き、無何有の理想郷に遊び、無知という誤った熱を冷まし、偏見偏狭の病を治すことを願うのだろう。

 

 世に匂ひ、梅花一枝のみそさざい。

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一枝軒 真蹟懐紙


 良医玄随子は三度(みたび)肱を折て、家を医し国を医す。其居を名付て一枝軒といふ。

 是彼桂林の一枝の花にもあらず、微笑一枝の花にも寄らず。南花真人の謂所(いわゆる)一巣一枝の楽み、偃鼠(えんそ)が腹を叩て、無何有(むかう)の郷に遊び、愚盲の邪熱をさまし、僻智小見の病を治せん事を願ふならん。


 世に匂ひ梅花一枝のみそさざい

                   蕉散人桃青

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良医玄随の家は、一枝軒と言う。

「『一枝』とは、広い森を飛び回るミソサザイが巣とする梅の一枝のことである。ならば、梅花の匂いが広がるように、名医の名もまた広がるであろう」


荘子でしたか。

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隠居綿弓塚看板

荘子「逍遥遊」である。

貞享1、2年とおぼしきものは以上であるが、綿弓塚の看板によれば、竹内の句は、あと二つある。

 里人は稲に歌よむ都かな

 楽しさや青田に涼む水の音

「稲」は三秋、「青田」は、晩夏である。

何時詠んだものか、詞書きも見ておこう。

書生

竹内には何度来たのか、興味深いですね。

里人は稲に歌よむ都かな

「蓮は花の君子なるもの、牡丹は花の富貴なるもの」と、周敦頤(とんい)の「愛蓮説」にある。

だが、早苗は泥から生え、蓮よりも清らかだ。秋には香稲(こうとう)が実って、牡丹より富んでいる。稲は、それ一つで、蓮・牡丹の二つを兼ねて、誠に清く富貴である。

 

 里人は、稲に歌詠む都かな。

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稲に歌 真蹟懐紙


 蓮は花の君子なる物なり。牡丹は花の富貴なる由。早苗は泥濘より出でて蓮より清し。秋は香稲実りて牡丹より富めり。一物にして二草を兼ね、誠に清く富貴なり。


  里人は稲に歌詠む都かな

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蓮は君子の花、牡丹は富貴の花と言うが、稲は君子であり富貴である。

「竹内の里は、蓮・牡丹の二草を兼ねた稲を育てる。この稲こそ都で詠む歌に匹敵し、里は、都そのものである」


愛蓮説でしたか。

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隠居

陶淵明は菊を愛し、唐の時代からは牡丹が愛された。だが敦頤は蓮を愛すということである。それらは詩歌の題材とされてきたものですな。

書生

で、芭蕉は稲を愛し稲を詠んだということですね。

隠居

そう、芭蕉の姿勢が明確に出ておる。

楽しさや青田に涼む水の音

鴬が宿る竹の内に梅が次第に散って桜が咲き、五月雨の空が晴れ、早苗を取って植えろと鳴く早苗鳥(時鳥)の声がして、夕暮れの里の細道を、肥えた牛にまたがって、煙管の火で蛍を呼び寄せ、瓢箪の生る蔓の本は暑いなどと言って、月が映った盃で聞く曲、これはもう、僅かな酒が千金に値するという思いが湧いて、

 

 楽しさや。青田に涼む、水の音。

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一枝軒 真蹟懐紙


 鶯宿る竹内に梅微(やや)散て桜咲より、五月雨の空打晴れて、早苗をとれと啼く鳥の声、夕暮るる里の細道、肥えたる牛にまたがりて、きせるを採りて蛍を招き、ひさごがもとは暑しなんどとて、月を洗へる盃の曲、げにや一瓢千金の思ひ出で


  楽しさや青田に涼む水の音

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理想郷竹内の四季に思いを巡らし、

「青田を潤す涼しげな水の音、豊かな収穫が期待され、実に心楽しい一時である」


「竹内」は、「竹藪の中」と地名「竹内」を掛けていましたか。

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隠居

で、こちらは稲の青田を詠んでいる。芭蕉に花鳥風月を詠んだ句も多いが、身近な題材として詠んでいることを念頭に味わいたいですな。

芭蕉の竹内訪問
書生

で、これら竹内で詠んだ句は、何時詠んだかですが、春夏秋冬四季にわたっていますね。

隠居

綿弓塚の案内看板にあるとおり「数回当地を訪れ」たということでしょうな。

しかし、「野ざらし紀行」「笈の小文」などの資料で、確認できるのは、

 ・貞享元年9月中下旬の連続した数日で、晩秋。

 ・貞享5年4月12日の昼前後、数時間。初夏で、この日は雨模様。

の2度だけ。

書生

竹内へ行くことのできる日、可能性ですが、旅程表から探ってみましょう。

・貞享元年9月末から、年内は無理です。

 大垣-桑名-熱田-名古屋と巡り、年末伊賀上野に戻っています。

・貞享2年1月から2月中旬は、可能性があります。

 二月堂の水取の前後いずれかですね。下旬は京都へ行きますから、それまでに竹内にいくことはできます。

1月28日付の「半残宛書簡」は、何でしょう。

隠居

詳しくは後になるが、伊賀上野の門弟半残が芭蕉に句稿の評を求めた返信。

書生

と言うことは、芭蕉は伊賀上野にいなかった。お水取りには早いですね。

書簡集をお借りして、……

「御細簡、辱けなく拝見致し候ふ。御清書、請け取り申し候ふ。……略……江戸まで持参し、彼是れにもきかせ申すべく候ふ」

芭蕉は旅先にいて、そこで清書を受け取り、返信しています。「江戸まで持参」とあるのは、伊賀上野に戻らないということですね。

隠居

そういうことですな。

書生

貞享2年1月28日には、「既に竹内にいたと仮定すると」と言うより、竹内にいなければなりません。

 初春先酒に梅売にほひかな

 世に匂ひ梅花一枝のみそさざい

この2句は、成る程と理解できましょう。

 冬しらぬ宿やもみする音あられ

この句は、「籾摺り」が晩秋の季語で、「冬しらぬ」は、収穫が多いので冬になっても摺りつづけるだろうという理解でよろしかろうかと。

貞享元年9月の句ということです。

隠居

残り2句ですな。

これらは、誉田八幡(こんだはちまん)の宿で詠まれたとも伝わっています。

書生

 里人は稲に歌よむ都かな

 楽しさや青田に涼む水の音

この2句ですね……

どちらも、個人に宛てたものでなく、竹内の里を褒めた内容で、他の句と区別できます。詞書きから、当季に関するものでなく、竹内の体験をもとに想像した内容と思われます。「いつ・だれに」が、限定されるわけでもないので、貞享5年4月、笈の小文の旅でもよろしいかと。

ただ、誉田八幡、羽曳野でというのが腑に落ちないだけです。

隠居

「笈の小文」の旅で、4月12日、大和八木から竹内・当麻寺、岩屋峠から太子を経て誉田八幡に至ったことは、猿雖宛書簡で分かる。

書生

この2句の詞書きを改めて見ると、綿弓句以下他の句の詞書きと、決定的な相違があります。それは、「人が登場しない」ということです。しかも「人」は、句を贈られる人、則ち芭蕉の謝意を受ける人です。

言い方を変えると、その2句文は当座の即興ではないということです。

隠居

なるほど。で、誉田八幡にどうつながるかな。

書生

そのことは、例えば、

・芭蕉はすでに、この2句を竹内の人に贈ろうと思っていた。

・そして、それぞれを俳文として完成させていた。

・「笈の小文」の旅で、大坂へ行く際、竹内で渡そうと思っていた。

・ところが、渡す機会がなかったか、忘れたかして羽曳野まで来てしまった。

・そして、誉田八幡の宿で懐紙を渡した。

とすれば、一応はつながります。

隠居

まあ、「竹内」の語が入った俳文が、誉田八幡で書かれたと言われる理由にはなりますな。「青田」句は、当季に近いのでよいとして。

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当麻寺

<当麻寺(たいまでら)>

二上山の東麓にある真言宗・浄土宗の寺。中将姫の伝説や東西の両塔が残ることで有名。山号「二上山」、法号「禅林寺」。

<法の松>

 中之坊書院の前にある大きな松。中将姫手植えと伝わり、来迎の松と呼ばれる。芭蕉の見た松は枯れ、今は二代目。

二上山当麻寺に詣でて、庭の松を見ると、約千年は経ているだろうか、大きさは「牛を隠すほど」というべきであろう。松に心はないと言っても、仏の加護によって、切り倒される罪を免れたのは、幸いであり、ありがたいことである。

 

  僧朝顔、幾死に返る。法の松

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法の松 真蹟「藤田本」 ⑦


 二上山當麻寺に詣でて、庭上の松をみるに、凡(およそ)千とせも経たるならむ、大いさ牛を隠す共云べけむ。かれ非情といへども、仏縁に引かれて、斧斤の罪をまぬがれたるぞ、幸にしてたつとし。

 

  僧朝顔幾死かへる法(のり)の松

書生line

当麻寺の庭に、大きな松がある。

「寺の僧は、朝顔のようにはかない命で、何度代替りしていることだろうか。その長い年月、松は仏縁に恵まれ、見守ってきたことであろう」

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隠居

訳せばそうなるが、味気ないな。発句は原文のまま味わいたいものです。

書生

……

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吉野山

 それよりみよしののよしののおくにわけいり、南帝の御廟にしのぶ草の生たるに、そのよの花やかなるを忍び、またとくとくの水にのぞみて、洗(あらう)にちりもなからましを、こころみにすすぎけん。此翁年ごろ山家集をしたひて、をのづから粉骨のさも似たるをもつて、とりわき心とまりぬ。おもふに伯牙の琴の音、こころざし高山にあれば、峨々ときこへ、こころざし流水にあるときは流るるごとしとかや。我に鐘子期(しょうしき)がみみなしといへども、翁のとくとくの句をきけば、眼前岩間を伝ふしたたりを見るがごとし。

<素堂序> 

独り吉野の奥に、道を尋ねつつ入ったが、実に山深く、白雲が峰に重なり、霧雨が谷を埋めて、木こりの家が所々に小さく見え、西で木を切る音が東に響き、寺々の鐘の音は、心の底まで響き渡る。

昔から、この山に入って隠棲し、世を捨て忘れた人の多くは、詩や歌を詠み、世事から逃れ、心を慰めてきた。

いやもう、この吉野の地を、唐国の廬山になぞらえるのも、いかにも然りと言わざるを得ないであろう。

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吉野の奥 真蹟「藤田本」


 独(ひとり)よし野の奥にたどりけるに、まことに山ふかく、白雲峰に重り、煙雨谷を埋んで、山賤(やまがつ)の家処々にちひさく、西に木を伐音東にひびき、院々の鐘の声は心の底にこたふ。

 むかしよりこの山に入て世を忘たる人の、おほくは詩にのがれ、歌にかくる。

 いでや唐土(もろこし)の廬山(ろざん)といはむもまたむべならずや。

書生line

ここからは、芭蕉一人です。

「いでや唐土」の一文が、草稿にはありませんね。

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隠居

「むかしより」の一文の意を補うものですな。

九江市南部、長江の河畔にあり、最高峰の漢陽峰は、海抜約1500メートル。

陶淵明・李白・杜甫・白居易など、文人墨客が名を慕って訪れている。

書生

素堂序の伯牙とは。

隠居

その友が、鐘子期。伯牙の奏でる琴の音から、その心まで聞き取った。鐘子期亡き後、伯牙は琴の糸を切り、二度と弾かなかったという。親友を知音と言うが、その語源である。

廬山近く、とは言っても200キロはあるかな。武漢の亀山でのお話。

書生

それで「われに鐘子期が耳なし」ですか。なるほど。

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宿坊

同じくふもとの坊にやどりて坊が妻に砧をこのみけん。むかし、潯陽(じんよう)の江のほとりにて楽天をなかしむるは、あき人の妻のしらべならずや。坊が妻の砧は、いかに打て翁をなぐさめしぞや。ともにきかまほしけれ。それは江のほとり、これはふもとの坊、地をかふるとも又しからん。いづれの浦にてか笠着てぞうりはきながらの歳暮のことぐさ、これなん皆人うきよの旅なることをしりがほにして、しらざるを諷したるにや。

<素堂序>


 翁の心きぬたにあれば、うたぬ砧のひびきを伝ふ。昔白氏をなかせしは茶売が妻のしらべならずや。坊が妻の砧は、いかに打てなぐさめしぞや。それは江のほとり、これはふもとの坊、地をかゆともまたしからん。

<素堂跋>

吉野の奥に、修験者を泊める施設がいくつかある。その一つの坊を、一夜の宿に借りて、

 

 碪(きぬた)打ちて、我に聞かせよや。坊が妻よ。

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野ざらし紀行 真蹟「藤田本」


  ある坊に一夜を借りて

 

 碪打て我にきかせよや坊が妻

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書生line

 

「この寺の内儀よ。きぬた(木づちで打って布を柔らかくしたり、つやを出したりする木や石の台)を打って、新古今、雅経の『み吉野の山の秋風さ夜深けて古郷さむく衣うつなり』のように、私に聞かせ、旅情を慰めておくれ」


僧侶に妻帯が許されるのは、明治になってからと聞いていますが。

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隠居

半僧半俗、宿泊業を専らにしていたのでしょうな。大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)の修験者が多くいたようである。建物は、寺院の体だが、いわゆる「出家」ではない僧形の者が経営していたのではないかな。

書生

宿坊の妻と、素堂序の「あき人の妻」との関係は。

隠居

ああ、それは白居易「琵琶行」で、「商人の妻」。左遷先に向かう途中、旅愁をその妻の弾く琵琶で慰められる。七言八十八句と、長いので引用は勘弁じゃ。

書生

「旅愁を慰める音」という点でつながっているわけですね。

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西行庵

 それよりみよしののよしののおくにわけいり、南帝の御廟にしのぶ草の生たるに、そのよの花やかなるを忍び、またとくとくの水にのぞみて、洗(あらう)にちりもなからましを、こころみにすすぎけん。……、我に鐘子期(しょうしき)がみみなしといへども、翁のとくとくの句をきけば、眼前岩間を伝ふしたたりを見るがごとし。

<素堂序> 


 誠や伯牙のこころざし流水にあれば、其曲流るるがごとしと、我に鐘期が耳なしといへども、翁の心、とくとくの水をうつせば、句もまた、とくとくとしたたる。

<素堂跋>

 西行上人の草庵の跡は、安禅寺奥の院から、右(西)のほうへ、山道を220メートルほど分け入ると、芝刈りで通う細い道があって、険しい谷を隔てているのは、崇高で近寄りがたい。

 例の「とくとくの清水」は、西行の昔と変わらぬようで、今もとくとくと滴が落ちている。

 

 露とくとく。試みに浮き世濯がばや。

 

 もしも、我が国に、国を譲って餓死を選んだ伯夷がいたなら、必ず口を濯ぐことだろう。もしも、国を譲ろうという言葉を聞いた耳を洗った許由に伝えたら、耳を洗うことだろう。

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とくとくの清水 真蹟「藤田本」


西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計(ばかり)分け入ほど、柴人の通ふ道のみわづかに有て、さがしき谷を隔てたる、いとたふとし。

彼(かの)とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ける。

 

 露とくとく心みに浮世すすがばや

 

若これ扶桑に伯夷あらば、必口をすすがん。もし是許由に告ば、耳をあらはむ。

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書生line

青根ヶ峰の南にある奥の院から、西行庵に向かう道にとくとくの清水がある。

「『とくとくと落つる岩間の苔清水 くみほすほどもなきすまひかな』という西行の歌のまま、清水は今もとくとくと湧きこぼれている。私の心の欲や汚れを濯いでみたいものだ」


次に、天下を治めることをよしとしなかった伯夷や許由が出ていますが、芭蕉が濯ぎたかったのは、そうした名利を得たいというような願望でしょうか。

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隠居

まあ、金・地位・名誉というものかも知れませんがな、俳諧師として、句作を邪魔する何ものかなんでしょう。

書生

……、「何ものか」なんですね。

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後醍醐天皇陵

それよりみよしののよしののおくにわけいり、南帝の御廟にしのぶ草の生たるに、そのよの花やかなるを忍び、またとくとくの水に。

<素堂序>

西行庵からの帰り道、山を登り坂を下るうちに、秋の日は既に傾いているので、所々の名所を見残して、何はともあれ後醍醐天皇の御陵に参拝した。

  御廟経て、忍ぶは、何を忍ぶ草。

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御廟 真蹟「藤田本」


 山を昇り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある所々み残して、先(まず)後醍醐帝の御廟を拝む。

  御廟年経て忍は何をしのぶ草

書生line

山の日暮れは早いので、後醍醐天皇陵を参拝し、

「南朝、吉野朝廷を開いたが、失意の内に52歳で崩御されてから、345年の時が流れた。忍ぶ草が生い茂るが、今なお何を忍んでいらっしゃるのか」


忍ぶと言えば、「百敷や古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり」を思い起こしますが。

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隠居

さらに百年ほどさかのぼる続後撰集、順徳院の御歌ですな。武家の台頭以後は忍ぶことが多かったことでしょう。

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吉野山、資料

木の葉散る桜は軽し檜木笠

 暮れの秋、桜の紅葉を見ようと、吉野の奥に分け入ったのですが、慣れぬわら靴で、足が痛くなり、杖を立てて休む内に、

 

  木の葉散る。桜は軽し、桧木笠

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桜の紅葉 真蹟懐紙

 暮秋、桜の紅葉見んとて吉野の奥に分け入り侍るに、藁沓に足痛く、杖を立ててやすらふほどに

 

  木の葉散る桜は軽し檜木笠

書生line

吉野の奥で、

「紅葉した桜の葉が散っている。桧木笠に落ち掛かるが、桜の葉は軽いことだ」


わら靴は、痛いですか。

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隠居

吉野の奥は道も急で、濡れていると滑りやすい。わら靴は滑り止めに有効だが、その分足も擦れてしまう。「杖を立てて」と言うのは、いわゆる「滑落停止」の基本。

わしは、吉野へ行くとき、スポーツショップで、国産の何倍もするトレッキングシューズを奮発したが、何のことはない。乗り換えで、雨に濡れた近鉄名古屋駅のビルに入るところで滑ってこけた。

地下足袋の方がましではないかと、悔しかった。

書生

……

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野ざらし紀行、講読の振返り
伊賀上野・竹内・吉野
書生line

9月の初め、郷里伊賀上野から、千里の故郷竹内、吉野山へ行き、大垣に着くまでの旅程です。

日にちが確定する「みそか月なし」の外宮参拝、8月29日を基準に、「大垣着は秋」を根拠に推定しました。

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隠居

大垣は秋の最終日というのが意外ですな。

移動に何日か費やすから止むを得んが。

書生

野ざらし紀行を読んでいると、瞬間移動ですから、見落としが生じます。時間の変化、季節の移ろいなどを、行間から読むことも大切でしょう。

それと、旧暦に関する知識も必要ですね。

隠居

太陰暦ですな。陰暦は生活に密着した便利な暦なのだが、現代人にはなじまない。けれど、古典を読んだり、俳諧をしたりするときには、知識として必要ですな。

書生

岩波の紀行文集に「八月三十日外宮の参拝」とありますが、この8月は小の月で、30日はありませんね。「三十日」と漢字で書いてありますから、「みそか」と読めばいいんでしょうが、引用して「30日」とした例も散見します。

おや、その左に、「九月八日伊賀上野に到着」とありますよ。

隠居

勿論根拠があっての記述、わしの管見には入らぬ資料であろう。

……、待たれよ。

これ、土芳の「芭蕉翁全伝」に、「九月八日ノ夜尾張ノ駅ヨリ此所ニ移四五日ノ間ヲハリニ戻ラレ」とある。これだな。

しかし、このとき、まだ土芳は会っておらぬし、尾張とあるのは、推量か伝聞か、……悩ましい。

全伝の記述は、土芳編・竹人編とも悩ましいところが若干ある。笈の小文を講読するときに分かろう。

お主の旅程表、伊勢から1日で移動すれば、8日帰着で、符合すれではないか。

書生

「夜」とあるのは、伊勢から一日で72.5キロの道を帰ったものと思われます。追記しておきます。

隠居

よきように計らいなされ。

それにしても、「竹内」では、力が入りましたな。

書生

はい。

竹内に多くの句が残されたこと。誉田八幡にも残されたこと。いくつかの季にわたること。

そんな謎がほぼ解けたと思います。

隠居

まあ、奈良のページで、すべて解けましょう。

書生

楽しみです。

隠居

大垣到着の日が9月28日と特定できたのも、収穫ですな。

書生

季語を追っていくと、自ずとそうなります。9月の晦日、29日の可能性もありますが。

隠居

大差ありません。

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竹内桑名名古屋 東大寺二月堂旅の後
吉野山熱田2京都、鳴滝
伊賀上野2伏見
大津
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