野ざらし紀行 大垣~桑名

野ざらし紀行 索引
旅立伊勢伊賀-竹内-
吉野山
大垣-
桑名
熱田-
名古屋-伊賀2
奈良-二月堂-京都
-伏見-大津-水口
熱田-
鳴海
甲斐-深川
旅の後
野ざらし紀行 大垣~桑名 索引
本文原文・訳文旅程旅程・足跡
講読山中 常盤塚 義朝の心に似たり秋の風不破 秋風や薮も畠も不破の関
大垣 木因亭 しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
大垣 草稿 師の桜むかし拾ンこの葉かな 嗒山霜の宿の旅寐に蚊屋をきせ申 如行
桑名 本統寺 冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす地蔵堂 明ぼのや白魚白きこと一寸
資料桑名・道中 侘人ふたり 歌物狂二人木がらし姿かな 木因
桑名・多度権現 宮人よ我名をちらせ落葉川多度山 鳩とんで頼朝殿の落葉哉 木因
いかめしき音や霰の檜木笠桑名・走井山 帆を枯て海は木の葉の夕かな 木因
鳶の評 木因宛の芭蕉書簡芭蕉宛の木因書簡濁子宛の芭蕉書簡

講読、その四「大垣、桑名」


 芭蕉は、門弟千里を連れ、「野ざらし紀行」の旅に出、伊勢の神宮参拝後、郷里伊賀上野を経て、千里の生家竹内に至ります。竹内からは一人旅、吉野を巡り、大垣の木因を訪問、木因と桑名経由で熱田へ行きます。
 このページでは、芭蕉真蹟「天理本」・「藤田本」を元に、大垣・桑名の段を取り上げ、原文・訳読み文・現代語訳を示し、「笈日記」・「甲子吟行の素堂序」・「桜下文集」・「木因宛書簡」などを資料にして、講読していきます。
 また、旅程表を作成し、講読の資料としつつ、この旅の実態を明らかにしていきます。




野ざらし紀行

・ 各段は、便宜上設けたもので、原文にはない。

・ 原文は、芭蕉の真蹟「天理本」による。

  また、「天理本」には、旅を補足する句が、巻末に付せられているので、「関連句」(◆印)として記しておく。

・ 講読の項に置いた文は、貞享年間の真蹟「藤田本」による。

・ いずれも、「芭蕉紀行文集、中村俊定校注(岩波文庫)」を参照したものである。

「野ざらし紀行」講読ページ解説へ

野ざらし紀行「美濃」

⑳ 山中

 大和よりやましろをへて、あふみぢに入てみのにいたる。

 大和より、山城を経て、近江路に入りて美濃に至る。

 大和国から、山城を経て、近江路に入って、美濃国に至る。

 います・中山を過ていにしへ常盤のつか有。

 今須・山中(中山と誤る)を過て、いにしへ常盤の塚あり。

 今須・山中を過ぎると、過ぎ去った時代常盤(常磐とも)御前の墓がある。

 いせの守武が云けむ義朝どのに似たる秋風とハ、いづれの所かにたりけむ。

 伊勢の守武が云ひけむ、義朝殿に似たる秋風とは、何れの所か似たりけむ。

 伊勢の荒木田守武が「義朝殿に似たる秋風」と詠んだが、どのところが似ているのだろうか。、

 我も又
  よしともの心にゝたりあきのかぜ

 我もまた、
  義朝の心に似たり。秋の風。

 ※ 句の訳は、講読・解説を参照。以下同。

㉑ 不破

     不破
  秋風やゝぶもはたけもふハの関

     不破
  秋風や。薮も畑も不破の関。

㉒ 木因亭

 大垣にゆきて木因が家にとまる。

 大垣に行きて、木因が家に泊まる。

 大垣に行って、木因の家に泊まる。

 むさし野を出し時、野ざらしを心におもひてたび立ければ

 武蔵野を出でしとき、野晒しを心に思ひて、旅立ちければ、

 武蔵野を出たとき、野晒しになる我が身を心に思って、旅立ったので、

  死にもせぬたび寐の果よ秋の暮

  死にもせぬ、旅寝の果てよ。秋の暮

野ざらし紀行天理本所載、「大垣」関連の句

師の桜

◆⑤                みの大垣
 師の桜むかし拾ンこの葉かな     

  薄に霜の髭四十一         蕉

 師の桜、昔拾はん、木の葉かな。          嗒山(美濃大垣)
  薄(すすき)に霜の、髭四十一。            芭蕉

霜の宿

◆⑥                同所
 霜の宿の旅寐に蚊屋をきせ申     如行
  古人かやうの夜のこがらし     蕉

  霜の宿の旅寐に、蚊屋を着せ申す        如行(同:大垣)
   古人、かやうの夜の木枯らし。          芭蕉

野ざらし紀行「桑名」

㉓ 桑名

    くハな本当寺にて
  冬ぼたんちどりよ雪のほとゝぎす

    桑名本統寺にて
  冬牡丹。千鳥よ、雪の時鳥。

天理本に、次の一文・一句を欠く

 草の枕に寝あきて、まだほの暗きうちに浜のかたに出て、
  明ぼのや白魚白きこと一寸

 草の枕に寝飽きて、まだほの暗きうちに、浜の方に出でて、
  明ぼのや。白魚白きこと、一寸。

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野ざらし紀行 旅程4「大垣、桑名」
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貞享元年9月25日吉野出発から、10月18日頃熱田到着まで

月日時分記事移動距離累計

9月25日~28日 大垣への旅

9/2506:00吉野発-奈良への街道- 682
 〃17:20<吉野→奈良の宿>奈良の宿45.5727
9/2606:00奈良発-草津への街道- 727
 〃17:50<奈良→山城→草津の宿>草津宿47.5775
9月25日吉野~26日草津宿

吉野~草津、足跡

※ 奈良の宿は猿沢辺りと想定。
※ 「大和より山城をへて、近江路に」とある。伏見や京を通らず、髭茶屋追分から東海道に至ったと読む。
9/2706:00草津発-中山道- 775
 〃16:30<草津-中山道→彦根の宿>鳥居本宿42.2817
9/2806:00鳥居本宿発-中山道- 817
 〃15:40<彦根-中山道→不破→大垣、木因亭>木因亭38.8856
9月27日草津~28日大垣木因亭

草津~大垣、足跡

※ 大垣で用いた季語が「秋の暮」であり、9月中に大垣に着いていなくてはならない。貞享元年の9月は小の月で、晦日は29日であるが、この日は立冬であるから、28日が秋の最終日となる。

9月28日~10月上旬 大垣

9/28※106:00彦根発-中山道- 817
15:40<彦根-中山道→不破→大垣、木因亭>木因亭38.8856
9/29陰暦9月の晦日。立冬。木因亭- 856
10/上旬塔山・如行来訪木因亭- 856
10/上旬如行亭訪問如行亭1.0857

※1 「大垣到着9月28日」の理由
 木因亭到着日の発句「しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮」の季は、秋である。
貞享元年の9月は小の月で、29日までであるが、この晦日は立冬なので、前日28日までの到着と推定した。

10月中旬のある日及びその翌日 桑名を経て熱田へ

10/16±1
a-2日
05:40如行亭から木因亭へ。1.0857
06:00木因と大垣の船町港発。1.0858
12:40<船町港-揖斐川舟行-多度、香取港>香取港26.3884
14:20<多度、香取港→多度権現→香取港>香取港6.3890
17:10<香取港-揖斐川舟行-桑名港→本統寺、古益亭>古益亭11.1901
10/17±1
a-1日
<古益亭→桑名東方・西方で紅葉狩り-走井山観音堂→古益亭>古益亭4.2905
10/18±1
a日※2
<古益亭→揖斐川河口舟行-浜の地蔵堂→古益亭>古益亭4.0909
10/19±1
a+1日
08:00古益亭発七里の渡- 909
14:30<古益亭→桑名港→宮の港→桐葉亭>桐葉亭26.0935
大垣~桑名、足跡10月中旬大垣~多度~桑名古益亭
桑名二日目は、紅葉狩り。
三日目は、白魚見物。
その翌日、桑名から熱田へ

※ 大垣から木因の舟で揖斐川を下る。水門川から揖斐川に入り、香取からは、木曽長良揖斐三川の複合した流れ(本文の古地図参照)を下る。
※ 表の時間は、すべて時速4キロで算出。
※ 桑名からは七里の渡しの航路。

※2 「地蔵堂、10月18日」の理由
 「芭蕉紀行文集」によれば、「十月 伊勢の多度権現、桑名本統寺を経て、熱田に至る」とあるのみで、地蔵堂に行った日時は分からない。
 しかし、「野ざらし紀行」に「草の枕に寝あきて、まだほの暗きうちに浜のかたに出て 明ぼのや白魚白きこと一寸」から、時刻が推定できる。

 「ほの暗きうちに浜のかたに出て」の「浜」は、浜の地蔵堂(竜福寺)のある「浜地蔵」(地名)のことである。「浜地蔵」は、白魚の産地として、「日本山海名産図会」に載る。また、同書に「潮の満るに魚登り、引潮に下る」とあって、この時刻に舟を出す理由がうなずける。
 本統寺から桑名港船だまりまで0.7㎞、港から浜地蔵まで2.4㎞。計3.1㎞を時速4㎞で移動すれば、50分かかる。舟を出す手間が10分として、本統寺から浜に至るのに1時間程と見てよい。
 「ほの暗きころ」は、「日の出の時刻」から推定できる。
 「あけぼの」は「ほのぼのと夜が明けはじめるころ」、「朝ぼらけ」より少し前をさす。「朝ぼらけ」は、「常用薄明」で、日の出前30分間である。
 「あけぼの」は、いわゆる「航海薄明」で、明るい星と水平線が見える。日の出1時間前から30分間ほどの時間帯である。
「航海薄明」とは言っても、「大型船による大海原の航海」は可能だが、水辺や水中の障害物は見えない。小舟が、浅瀬や沿岸を行くことはできない。
しかし、明るい月があれば、可能である。
 二人は暗いうちに本統寺を出て、桑名の港から舟を出す。これも明るい月がある程度高く輝いていなければできない。

桑名の曙
桑名、浜地蔵の有明。(日の出約1時間前、白線は地平)

 貞享元年10月の満月は15日で、早く沈む。16日、日の出は6時57分、その1時間前、午前6時の月を見ると、出てはいるが、すでに傾いている。翌17日は、もう少し高く、18日はさらに高い。20日を過ぎれば、頭の上から照らすが月は細り、小夜の中山が暗かったように、照明効果は期待できない。
つまり、夜明け前に行動ができるのは、満月の翌々日から三日程度である。すなわち18日の前後三日となる。
 ちなみに18日の満潮は、朝方の大潮。「芭蕉に、潮に乗って浜に寄せる白魚を見せる」という木因の意図に適合する。

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野ざらし紀行 講読「大垣」
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山中(やまなか)

<常盤御前>
 都一の美貌で、源義朝の愛妾、義経の母。東国に逃れる途中この山中(地名)で、盗賊に殺されたと伝えられる。平安末期だが、没年は不詳。
<源義朝>
 為義の子。頼朝の父。平治元年(1159)、平治の乱は、成功を収めたが、清盛が京都に帰還し、合戦に敗退。東国へ逃れる途中、尾張国知多郡野間で、入浴中に殺された。

義朝の心に似たり秋の風

吉野を発ち、奈良から山城を経て中山道の近江路に入る。今須宿から美濃国となり、山中を通ると、過ぎた時代の常盤御前の墓がある。俳諧の祖、伊勢の荒木田守武は、「月見てや常盤の里へかへるらん」の前句に、
  義朝殿に似たる秋風
と、付けたが、どこが似ているのだろうか。私もまた、
  義朝の心に似たり。秋の風。

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常盤の塚 真蹟「藤田本」 


 やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武が云けるよし朝殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又、

 義朝の心に似たり秋の風

書生

義朝の愛妾が、非業の死を遂げた塚の前で、
「常盤御前の塚に秋風が吹く。義朝の悲壮な無念の心が風となって、ほど近い尾張の国から吹き上げるのか」

※ 写真、左が常盤御前の墓。中央奥は、幕末建立の芭蕉句碑。


三文字足して、自答しましたね。正確には+4字-1字と語尾変化。
俳諧の祖は守武でしたか。

常盤御前墓

隠居

宗鑑とともに、そう呼ばれておる。

書生

地図を見ると、常盤の墓も山中地内ですね。今須宿から2キロの距離。
ここから、不破の関へは、1キロもありません。

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不破

<不破の関>
 673年、飛鳥浄御原宮を守るため設置された、三関の一つ。他に鈴鹿関(伊勢境)・愛発関(あらち、越前境)がある。789年(延暦8)、廃止。平安期の三関は、不破・鈴鹿・逢坂となる。


<歌枕として>
 ・ 人住まぬ不破の関屋の板庇 あれにし後はただ秋の風 藤原良経(新古今)

秋風や薮も畠も不破の関

 不破の関、
  秋風や。薮も畑も不破の関。
 
「寂しい秋風が吹いている。今は薮と畑であるが、ここに関屋があった不破の関だ」

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不破の関 真蹟「藤田本」 ⑦


  不破

 秋風や薮も畠も不破の関

書生

藤原良経の歌を踏まえていますね。新古今の良経ですか。

不破関句碑

隠居

良経は二人いるが、こちらは建久元年(1190)新古今の仮名序を書いた九条良経。
百人一首では、後京極摂政前太政大臣、
 きりぎりす~鳴くや霜夜のさむしろに~

書生

  衣かたしきひとりかもねむ
ですね。祖母は、「衣が固い、ひとり鴨ねぎ」と言って笑ってました。

隠居

延暦8(789)年、この関は廃止されていますから、芭蕉が来たときは900年経っています。
関西・関東の「関」は、この関のことだと聞きました。
ちなみに、九条良経の時代からは、500年近く経っていますな。
右の句碑は、関屋跡にあります。芭蕉没後100年後、文化期のものです。
今はよく整備されています。

書生

ここから、大垣の木因亭までは約15キロ、4時間くらいの距離です。


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大垣、木因亭

<木因略歴>
谷木因ぼくいん、白桜下,観水軒とも。自らも芭蕉も杭瀬河の翁と呼ぶ。通称谷可信、谷九太夫。大垣船町の船問屋。季吟門から談林、延宝8年35歳頃蕉門に入る。芭蕉の2歳下。著作に「桜下文集」など。「桜下おうか」は、木因の別号。享保10年没、80歳。

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

大垣に泊まった夜は、木因の家を宿にし、拠点とした。
武蔵野の江戸を出るとき、「野晒し」になる己を思い描いて旅立ったので、
 
  死にもせぬ旅寝の果てよ。秋の暮。

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旅寝の果 真蹟「藤田本」


 大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ければ、

 しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

書生

遂に大垣、木因亭に到着した。
「野晒しになる自分を思い描いていたのだが、遂に目的地に達し、その次に向かっているのか。この秋の暮れに」


草稿で「木因が家にとまる」が、「木因が家をあるじとす」に変わっていまので、訳に反映させました。
ここが、旅の目的地でしたか。

隠居

左様、目的地ですな。
発句を原文のまま味わえば自明。訳せばそうなりましょうが、まあ斬新であります。

大垣木因亭地図

書生

……、時にご隠居、私、この句から「死んでいたはずなのに」という感情を酌み取ったのですが、いかがなものでしょう。

隠居

それは、貴君の自由ですな。で?

書生

はい、芭蕉自身、何かが変わっていくことを、自覚はしていないんだけれど、感じ取っていた。それを死と表現したわけです。体は生きているが、中身は以前とは違う感じかな。

隠居

芭蕉の変化ですか。
この旅の第一の目的は、「虚栗」の跋文にある「西行の山家をたづねて」だと思いますが、文字通り、伊勢の西行谷、吉野の西行庵・とくとく清水を訪れつつ、西行の求めたところを求めてきたわけです。

書生

私は、何かを求めるのではなく、捨てたのでないかと。
あの、送別に「雨の晴れ間を牛捨てにいく」とありました。
で、弔うのが、「冬の日、木枯らしの巻」の「うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに」ですから、名古屋に行く前に牛を捨てています。

隠居

さて、どこで捨てますかな。
大垣から桑名・熱田を経て、名古屋へ行きますから、その間ということになるな。
先ず、大垣での付合。

大垣の門弟について、詳細は「芭蕉と大垣の蕉門俳人(pdf)」を参照

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草稿・付合

嗒山・芭蕉

<嗒山略歴>
津田前川(ぜんせん)。大垣藩士、300石の重臣。古参の大垣蕉門。役目柄、江戸へ何度か行き、芭蕉と交流を深めている。江戸から帰るとき、芭蕉から餞別の俳文をもらう。

師の桜むかし拾ンこの葉かな 嗒山 / 薄に霜の髭四十一 芭蕉

 師の桜、昔拾はん木の葉かな。  嗒山
 
  芒に霜の髭、四十一。       芭蕉

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嗒山・芭蕉、付合 「野ざらし紀行」草稿


◆⑤            みの大垣
 師の桜むかし拾ンこの葉かな 

 
  薄に霜の髭四十一     蕉

書生

塔山との付合、
発句「師の桜の句『木の葉散る桜は軽し檜木笠』の木の葉は、その昔慈童が拾った不老長寿の妙薬でしょうか」
脇「ススキに霜が降りたような髭の私、四十一歳ですよ」


発句の意が皆目つかめないので、脇から推測してみました。

隠居

枕慈童の葉は菊だから、どうであろう。

書生

歌仙が巻かれていますから、見ておきます。

 1 発句  師の櫻むかし拾はん落葉哉      嗒山 ※「野ざらし」で「この葉かな」
 2 脇    薄を霜の髭四十一         芭蕉 ※すすきを
 3 第三  月夜すむ竹の曲録琵琶澄て      木因 ※「きょくろく」は、折畳椅子
 4 初オ4  簾に鱅の聲を設し         如行 ※みすにかじかの
 5 初オ5 洞鴨の石の古巣も冷じく       芭蕉 ※ほらがもの
 6 初オ6  作らぬ松の雨にのびたる      嗒山
 7 初ウ1 草鞋を印の塚に築しより       如行 ※わらんじを
 8 初ウ2  嵐の太郎熊狩に入         木因
 9 初ウ3 武かれと聟の心やためすらん     嗒山
 10 初ウ4  破軍の誓ヒ餠北に搗        芭蕉
 11 初ウ5 日の諷ひ簇を踊る果の國       木因 ※やじりを
 12 初ウ6  早苗はじめて得し寶草       如行
 13 初ウ7 世の愛を産けん人の御粧       芭蕉 ※おんよそい
 14 初ウ8  恋降雪のうへの月しらむ      嗒山
 15 初ウ9 曙の三味せん杖にすがりたる     如行
 16 初ウ10  寄手を招く水曳の[麾扌](さい)  木因 ※みずひき。「さい」は小旗。
 17 初ウ11 花を射て梢を船に贈けり       芭蕉
 18 初ウ12  詩を啼烏柳みどりに        嗒山
 19 名オ1 不二の晴蜆に雪を斗り見る      木因
 20 名オ2  女い法を説く夜千年        如行 ※い法=祈り
 21 名オ3 朝がほに髪結ふ人ぞあはれなる    嗒山
 22 名オ4  貧のやつれに萩の庭賣る      芭蕉
 23 名オ5 犬捨る名残は露を吼けらし      如行
 24 名オ6  馬塊三谷の楊貴妃の秋       木因
 25 名オ7 誰が國の記念ぞ鏡すむ月は      芭蕉 ※かたみぞ
 26 名オ8  琴の唱歌に作り艶れて       嗒山 ※たわれて
 27 名オ9 明石なるしらゝ吹上須磨明石     木因
 28 名オ10  夕べ侘しらぬ鯛寺に寐む      如行
 29 名オ11 霰うつ草刈皷とり出て        嗒山
 30 名オ12  棺に歯朶を餝る年の夜       芭蕉
 31 名ウ1 愚を溜て金を我子に隠したる     如行
 32 名ウ2  二疋の牛を市に吟ずる       木因
 33 名ウ3 鸚兮鵡兮朝の喧き          芭蕉 ※おうなれやむなれや
 34 名ウ4  美山の瀧を産水に汲む       嗒山
 35 名ウ5 散レと折ル花に白髪の芳ク      木因
 36 挙句   世の外軽し身は野老賣       如行

書生

季語蔵で検索すると、発句の季は、「木の葉」あるいは「落葉」で、三冬ですね。
芭蕉の「木の葉散る」は、晩秋でしたが。

隠居

「木の葉かつ散る」じゃな。散りつつあれば、晩秋となる。
この歌仙は、芭蕉の来訪を歓迎したときのものでしょうな。到着翌日には、冬となっている。

書生

旅程表どおりですね。

如行・芭蕉
如水別邸跡

<如行略歴>
近藤如行(じょこう)。通称近藤源太夫。大垣藩士だったが致仕。
貞享元年芭蕉に入門。
貞享元年、「野ざらし紀行」の旅で、芭蕉を迎える。また、元禄2年「奥の細道」の旅を終えた芭蕉を迎える。
如行亭跡は、大垣市室町1。
近くの蛭子神社に「如行旧屋敷址/是より南寄」の碑があるが、近年家老如水の室町別邸と分かる。
如行亭は、南東にある大垣城との中程で、木因亭までは約1㎞のところにあった。
宝永5年(1704)没。

霜の宿の旅寐に蚊屋をきせ申 如行 / 古人かやうの夜のこがらし 芭蕉

 霜の宿の旅寝に、蚊屋を着せ申す。  如行
 
  古人、かやうの夜の木枯らし。     芭蕉

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嗒山・芭蕉、付合 「野ざらし紀行」草稿


◆⑥             同所
 霜の宿の旅寐に蚊屋をきせ申 如行
 
  古人かやうの夜のこがらし 蕉

書生

如行との付合、
発句「霜の降りるこの宿での旅寝、予備の布団がない暮らしゆえ、蚊帳を掛けて差し上げます」
脇「杜甫・西行・宗祇などの古人も、木枯らしの夜の草枕は、きっとこのようにしていたことでしょう。実に風流ですな」


如行は布団で寝るのでしょうか。

隠居

如行は風流でもてなしたわけで、実際は布団があったでしょうな。一応武士ですし。
荷兮の「春の日」には、
   芭蕉翁を宿し侍りて
 霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申(もうす)
と五七五に推敲した句がある。

書生10月中旬、芭蕉は大垣を立ちますね。
隠居鵜飼型荷船うむ。
木因は船問屋で、小型の川舟7艘、桑名湊に大型船を2隻持っていました。
芭蕉を送るのは、冬の減水期ですから、右のような鵜飼型荷船でしょう。
左は下流、右は上流から撮しています。
舳先もトモも同じような形ですから、どちらへも進めます。舟の向きを変えなくていいわけです。
しかし、平底で水切りがありませんから、波のある海は苦手です。
この水門川から揖斐川に出て桑名へ行きますが、熱田へは、少し大きな舟でしょう。

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資料、大垣~桑名

侘人ふたり 歌物狂二人木がらし姿かな 木因

浮き世を離れ、寂しく暮らす人が二人いた。下部のような粗末な身なりで、狂句を商う。
不知火(白縫)の筑紫(尽くし)に松浦潟ばち(待つ浦、片撥)でもなく、清き渚に玉拾う伊勢嶋(古浄瑠璃の名手)節でもなくて、
紙衣の褄裾をつまみ上げ、道行きの上げ歌を唱える。
 
  歌物狂ひ。二人、木枯らし姿かな。

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侘人 「桜下文集」木因稿


① 侘人ふたりあり。やつがれ姿にて狂句を商ふ。
 しらぬひのつくしに松浦潟ばちにもあらず※イ
 清き渚に玉拾ふいせ嶋ぶしにもあらで※ロ
 紙衣かいどりて通行を諷ふ。

 
  歌物狂二人木がらし姿かな 木因

書生

狂句を商う侘び人の道行きで、
「歌のモノが憑いて、戯れたわれ歌を歌う。二人ながら、木枯らしに揉まれた風狂なすがたであることよ」


これは、「道行き」ですよね。舟のはずが、歩いていませんか。

隠居多度権現歩きますな。
舟で、大垣から揖斐川を下り、芭蕉を桑名へ送る。その途中、多度権現に寄ります。
当時は、薩摩藩やデレーケの「木曽長良揖斐の三川分流工事」はされていません。
揖斐川の分流も仕切られていませんから、香取の港に入れます。
右は、香取の港からの往路です。

「侘人二人あり」と、「道行き」を謡ったのはこの道です。
書生おや、断定ですか。
隠居むろん。
ここからは、伊勢の国、伊勢藤原氏の話になりますな。
書生え?
隠居見れば、旅篭も伊藤、茶店も伊藤と伊藤が多い。
芭蕉が「果たして」と聞けば、
木因、「桑名の志知には景清屋敷がありまして、伊勢の藤原だから伊藤。」とな。
芭蕉「そう言えば藤原景清は伊藤景清と言いましたな。成る程」と合点して、二人は能の「景清」を謡いますな。
書生へえ。
隠居 〽 相模の国を~立ちいでエ~て♪相模の国を立ちいでて♪誰にゆくへを遠江とおとうみ
♪げエに遠き江に旅舟エのオ♪三河にわたす八橋の♪雲居の都オいつかさてエ♪
♪仮寝の夢に馴ア~れて見ん♪仮寝のオ~夢に馴れてエ見ん♪
 ♪ようようお急ぎ候ふほどに♪これは早、伊勢の国多度とかやに御着にて候ふ
書生長いですね。

隠居

何の、長旅である。道行きも長い。下線部、本当は「日向の国宮崎とかや」である。
さて、「侘人」は、謡曲の語りで、「げに侘人の習ひ程」とか、よく使われる用語。
「やつがれ」の「やつす」もよく出るし、「道行」、「物狂」も謡曲の語。

書生

おやおや。「狂句こがらしの巻」の言葉が出ましたね。


 ┌─────────┬───────────────────┐
 │  桜花文集   │     冬の日、第一歌仙      │
 ├─────────┼───────────────────┤
 │侘人ふたりあり  │侘つくしたるわび人          │
 ├─────────┼───────────────────┤
 │やつがれ姿にて  │紙衣はとまりとまりのあらしにもめたり │
 │紙衣かいどりて  │                   │
 ├─────────┼───────────────────┤
 │狂句を商ふ    │歌物狂                │
 │狂句       │                   │
 ├─────────┼───────────────────┤
 │木がらし姿かな  │こがらしの身は竹斎に似たる哉     │
 └─────────┴───────────────────┘


いかがでしょう。
隠居うむ。それは、名古屋の段で検討することになります。
「冬の日」の詞書きに「むかし狂歌の才士、此国にたどりし事を、不図おもひ出て申侍る」とありますから、ここで竹斎を念頭に置いたとするのは問題です。

芭蕉たちが侘び人というのは、先ず西行です。
 - 侘び人の涙に似たる桜かな 風身に沁めばまづこぼれつつ  西行
 - 侘び人のすむ山里のとがならむ 曇らじものを秋の夜の月  西行
 ┌ あはれ知る空も心のありけれは 涙に雨を添ふるなりけり  西行
 │  返し
 └ あはれ知る空にはあらじ侘び人の 涙ぞけふは雨と降るらん 院少納言の局

いかがかな。西行の侘びとは違いますな。

そこで、謡曲「景清」に戻ります。
「これは、人丸と申す女にて候」と、幼くして別れた娘が登場、先に謡った道行きを経て宮崎に着くと、乞食の古家から声が聞こえます。「シテ」は難しいので、「地歌」から。
 〽とても世を、背くとならば、墨にこそオ~。背~くとならば墨にこそ♪
 ♪染むべき袖のオ。あさましイや♪窶れやつれはてたるウ有様ア~を。我だに憂~しと思ふ身を~♪誰こそありて~憐みのオ~♪憂きをとむろオ~♪よしもなし~♪憂きをとむろオ~よしもオなしイ~
書生

おや、極め付け。
 我だに憂しと思ふ身を。
「冬の日」で恐縮ですが、詞書き「我さへあはれにおぼえける」と似ています。
ここ、極め付けですね。
 誰こそありて憐の憂きをとぶらふ。よしもなし憂きをとぶらふよしもなし。

これは、送別の脇。
  あめのはれまを牛捨にゆく   芭蕉
これが、冬の日、歌仙「木枯らしの巻」、名残表の折立。
  うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに 芭蕉


「牛」は「憂し」でした。「憂し」を捨て、「憂しの跡をとぶらふ」と詠んだわけです。
謡曲は「訪う」、句は「訪う」とも「弔う」とも取れます。

隠居芭蕉は、「虚栗」の句に満足していなかった。で、跋に理想を掲げたが実現していない。
その辺りの憂さでしょうかな。
それを、木因は①で切り捨てた。
「※イ しらぬひのつくしに松浦潟ばちにもあらず」
とな。
書生語を訳し、つなげましたが、意味が分かりません。
隠居「虚栗」です。天和2年の歌仙「花にうき世」の巻。
発句  花にうき世我酒白く食黒し   芭蕉 めしくろし
脇    眠を尽ス陽炎の痩      一晶 かげぼしのやせ
├─
名オ1 朝鮮に西瓜ヲ贈る遥ナリ    芭蕉
 〃2  つくししらぬひの松浦片撥  一晶 まつらかたばち
 〃3 めづら見るあげやあげやの萱庇 嵐雪 揚屋のかたびさし
書生はあ、なるほど。これではないと。
では、「※ロ 清き渚に玉拾ふいせ嶋ぶし」は。
隠居はて。伊勢島宮内は、古浄瑠璃の作者。江戸と京で活躍した寛永期の名手です。
ちなみに、「清き渚に玉拾う」は、「新古今」や「催馬楽」にあります。
「新古今和歌集仮名序」
 かゝりければ、よゝのみかどもこれを捨て給はず、撰びをかれたる集ども、家々のもてあそびものとして、ことばの花のこれるこのもとかたく、おもひの露もれたる草がくれもあるべからず。
 しかはあれども、伊勢の海、清き渚の玉は、拾ふとも尽くることなく、いづみのそましげき宮木は、ひくとも絶ゆべからず。ものみなかくのごとし。歌の道また同じかるべし。

催馬楽「伊勢の海」
 伊勢の海の 清き渚に 潮間しほがひに 莫告藻なのりそや摘まむ 貝や拾はむや 玉や拾はむや

歌集を編む心得、或いは和歌の道の心得です。和歌・連歌の有様を言ったかもしれません。
「虚栗」「武蔵曲」あたりを見ましたが、関連は見当たりません。
書生はい。では、多度権現へ。
宮人よ我名を散らせ落葉川

(笈日記下巻、雲水部、桑名五句の末尾)
 また、どのようなときでしょうか、多度の権現を通るときに、
 
 宮人よ、我が名を散らせ。落葉川

罫線

多度権現 「笈日記」支考編


 又いかなる時にか侍りけむ、たどの権現を過るとて

 宮人よ我名をちらせ落葉川

書生

多度大社で、
「神官よ、私の名を散らし、消してくれ。落葉川に」


多度の神官に、名前を消せという経緯が分かりません。

隠居

句商人「桜下文集」木因稿
②  伊勢の国多度権現のいます
   清き拝殿の落書。
 武州深川の隠泊船堂主芭蕉翁、濃州大垣観水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、四季折々の句召され候へ。

 伊勢人の発句すくはん落葉川 木因
  右の落書をいとふのこころ
 宮守よわが名を散らせ木葉川 桃青


これも、木因の「桜下文集」。

書生

おや、落書きですか。建造物損壊ですよ。
しかも、自分の名前だけ消すよう依頼するとは、……

隠居落書らくしょと読む。人が集まるところに落とし文、言わば張り文をする。
書生今で言えば、ネットの掲示板とかフェイスブックみたいなものですね。
隠居はて。
後に杉風が訪れたとき、この落書があったと言いますから、拝殿への直書きかも知れません。
しかし、「芭蕉という字を消せ」ではありません。「我が名を散らせ」ですな。
語句の意味でなく、前段も踏まえて、戯れを読み取る。
書生「我が名」、……。名声でしょうか。
では、「虚栗調」で得た誉れ、名声を散らせと。
隠居そう読んだほうが、味わえましょう。
極め付けは、「句商人」という詞ですな。
「虚栗」巻尾の歌仙は「詩あきんど」です。
木因は、「詩」ではなく、我々は「句あきんど」ですよと。しかも「廻国の」としています。店を構えるのではないと。
書生ここですね、牛を捨てたのは。新しい何かが見えてきて捨てたと。
隠居でしょうな。
多度の句、木因だけですが、まだあります。
鳩とんで頼朝殿の落葉哉 木因

この多度山に分け入って、暫く休んだ。
 大木が、ほらの空木となって、白く曝れ(色あせて)いるのに書いた。
 
 鳩ガ飛んで、頼朝殿の落葉かな。

罫線

「桜下文集」木因


③ 此山にわけ入りてしばらく休む。大木のほら空木と成て、白くされたるに書す。

 鳩とんで頼朝殿の落葉哉   木因

書生

朽ちて洞になった大木の空木に書いた。
「鳩が飛んで、頼朝殿の落葉かな」


鳩・頼朝・落葉と語彙は平易ですが、意味は皆目分かりません。

隠居「源平盛衰記」ですな。
「兵衛佐頼朝臥木に隠る」にある「伏木隠れ」。
石橋山の戦いで敗走した頼朝、朽ち木の「うろ」に隠れる。敵方の梶原景時が見付けたが、助けんとして、蜘蛛の巣を弓に引っ掛け、誰もいぬ証拠と見せる。なおも大庭景親が怪しむので、さらに弓を差し入れて探ると、二羽の鳩が飛び出す。これが、誰もいない証拠となり、頼朝が救われるという荒筋。
ちなみに鳩は、八幡神の化身とされます。
書生鳩と頼朝が出ますね。
「木の葉」が出ていませんが。
隠居しばし待たれよ。
……、「源平盛衰記」には出ませんな。
……、おや、これは。
(景時らが朽木の中の頼朝を)
いざや助け申さんと、弓の筈をおつ取て、木の葉を厚く、掻きかけてぞおきにける。
兵共これを見て、怪しきさまにぞ申ける。
其時二人、朽木を踏み鳴らせば、うぢ八幡の御示現にや、白鳩番ひつがい飛び出たり。
書生出ましたね、鳩・頼朝・木の葉。
出典は?
隠居古浄瑠璃「石橋山七騎落しちきおち」。
作者は驚く勿れ、伊勢島宮内!
書生な、な、なんと。
隠居驚きましたな。
木因は、盛衰記ではなく古浄瑠璃を踏まえておりました。
書生とすると、①の「しらぬひのつくしに松浦潟ばちにもあらず、清き渚に玉拾ふいせ嶋ぶしにもあらで、紙衣かいどりて通行を諷ふ」は、単純に「遊里の片撥でもなく古浄瑠璃でもなく、謡曲の道行きを謡う」という解釈でよろしいかと。
隠居はて。
書生景時と景清、「景つながり」ですか。
隠居ふむ。
景時の父の名も景清だが、梶原氏。謡曲の景清は、伊勢藤原氏で別人。「景」からの連想か、景清が頼朝を暗殺しようとする謡曲「大仏供養」からの連想か。
はたまた権現と八幡のつながりか。
多度権現帰路多度大社、往時は神仏習合、菩薩を祀る神宮寺があって、多度山権現が神号。
頃はにんぐぁつ、屋島の戦い。与一は「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神」などと祈り、扇の的を射当てましたな。
木因は舟運の無事・隆盛を祈ったことでありましょう。
さて、この一段があって、道行きは多度権現への往路となりますな。
謡曲「景清」~権現~鳩(八幡)~景時・頼朝とつながりますからな。
帰路は右の通り、山に分け入って、揖斐・長良・木曽の流れを見晴らす道です。
書生天気はどうでしょう。
隠居なに、多度権現は、天目一箇神あめのまひとつのかみ、海難防止と雨乞いを司っておられる。
芭蕉は、風狂の成就ですな。たちまち御利益が顕れたが、時節柄、霰となった次第。
いかめしき音や霰の檜木笠

 いかめしき音や。霰の桧木笠。

罫線

檜木笠 「真蹟短冊」


 いかめしき音や霰の檜木笠

書生

桑名辺りで、
「猛烈な音が耳元で。桧木笠に氷霰がたたきつけて」


頭上の太鼓、太鼓だけにバチが当たりましたか。

隠居

何の、ご利益です。
ただ、この句は、元禄2年の冬とする資料もある。
下は、湖中の「芭蕉翁略伝」。


   夫より洛に登り給ふ途中、
 いかめしき音やあられの檜笠


「奥の細道」の旅を終え、伊勢の遷宮を拝み、11月下旬奈良に行く。
それから京都、去来の落柿舎に向かう途中と言うんですな。
湖中の「略伝」は、芭蕉150回忌ごろの編、土芳の「蕉翁句集」を参照してでしょう。
土芳はこの句を元禄2年に入れている。「先祝へ梅を心の冬籠」に続けて「いかめしき音や丸雪の桧笠」とありますが、「先ず祝え」は杜国訪問の句ですから、貞享4年です。土芳の「全伝」や「句集」は当てになりません。

書生

湖中の「洛に登り給ふ途中」は推測でしたか。
最初の資料の「真蹟短冊」、貞享元年「野ざらし紀行」の途次とされる根拠は?、

隠居

自画讃の真蹟で、「桑名本統寺住職琢恵を訪う途」で詠んだと伝わります。

書生で、多度権現からの山道か、桑名への舟の上と絞られると。
隠居山路なら木陰へ遁れるでしょう。舟一択ですな。舟なら、舟板も音を立てますから、実に賑やか。逃げ場もないからじっと耐えるのが、何より風流。
書生舟・霰・西行で検索すると、
  舟中霰
 瀬戸渡る棚なし小舟おぶね心せよ 霰乱るる風巻しまき横ぎる 山家集
隠居音の表現がありませんな。
  花まゐらせける折しも、折敷に霰の散りけるを
 樒しきみおく閼伽あかの折敷おしきの縁ふちなくは何に霰の玉と散らまし 山家集
「折敷」「玉と散る」で音も出ましょう。
ん?
これは、侘びですな。
「古今集巻十九、雑体」の中に、これは長歌なので入れていないが、歌の心は誹諧歌に通じる。
  冬の長うた
 千早ふる 神無月とや 今朝よりは くもりもあへず はつ時雨 紅葉とともに ふる里の 吉野の山の 山あらしも 寒く日ごとに なりゆけば 玉の緒とけて こき散らし 霰乱れて 霜こほり いや固まれる 庭のおもに むらむら見ゆる 冬草の 上に降りしく 白雪の 積もり積もりて 新玉の 年をあまたも 過ぐしつるかな 古今集雑体 躬恒
書生誹諧歌は、嘆きを客観的に見つめて受容するときのおかしみを詠んだものでしたね。年を重ねる嘆きを詠みましたか。
隠居嘆きではあるが、それを受け入れ、「玉の緒とけてこき散らし霰乱れて」などと、冬の景に擬えて愉しんでいます。
誹諧の「誹」の訓は「そしり」ですが、自分をそしれば嘆きとなります。
それを寛大に受け容れれば、「諧」則ちおかしみが生じますな。このおかしみを一言で言えば、……
書生はて。
隠居侘びですな。通例「枯淡・閑寂を旨とした美的理念」を侘びととらえますが、心の内の枯淡・閑寂も侘びでしょう。
古今集巻十九、雑体(誹諧歌)も、すべて「侘び」で理解できます。一通り見ておいてください。
書生

誹諧は侘び、侘びは嘆きのおかしみでしたか。
「いかめしき音の霰」は、「死にもせぬ旅路の果て」に訪れましか。やはり、ご利益ですね。
では、この「霰の笠太鼓」、蕉風発祥の鳴り物として位置付けましょう。

隠居この、桑名への航路、そのまま揖斐川を下ります。
書生

揖斐川航路

国土地理院の地図(2万分の1、明治24年)を基に、航路を描きました。芭蕉の時代には、「千本松原・油島締切堤」や長良・揖斐の分流堤はまだありません。
地理院地図は、「国土交通省 木曽川下流河川事務所」の「木曽川堤防変遷図」を参考にしています。
では、桑名の本統寺へ。

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桑名、本統寺

<本統寺ほんとうじ
真宗大谷派桑名別院。
桑名駅と桑名城址の中間、北寺町にある。
第3代慧浄院琢慧たくえ上人は、藩主松平定重公と詩歌の交流をし、古益と号した。
俳諧は、季吟門(芭蕉・木因と同じ)。

冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす

(大垣から木因の船で揖斐川を下り、多度を経由し、桑名に至る。)
 桑名本統寺で、
 
  冬牡丹。千鳥よ、雪の時鳥。

罫線

冬牡丹 真蹟「藤田本」


桑名本統寺にて

  冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす

書生

桑名本統寺の古益を訪れて、
「冬牡丹が鮮やかに咲いている。本来牡丹の咲く頃に時鳥が鳴くのだが、この雪の中では、千鳥が代わって鳴くことだ」


普通、寒牡丹と言いませんか。

隠居

違います。温度管理をして冬に咲かせるのが、冬牡丹。二度咲きの変種が、寒牡丹で、冬咲くときには葉がありません。
冬牡丹には、ちゃんと葉がありますから、見れば分かりますな。

冬牡丹句碑

本統寺(桑名別院)冬牡丹句碑。昭和12年裏門に建立、戦災後現在地に移設された。

書生

しかし、難解な句ですね。「よ」と「の」以外は、皆、季語として用いられます。
この句の季語は、冬牡丹で、三冬。千鳥と冬が三冬。時鳥は、三夏。
問題は千鳥。三冬の季語ですが、実際は渡り鳥で、春と秋に日本で栄養補給をします。
陰暦10月にいたかどうか、分かりませんが、いたものとして訳しました。

隠居

そうですか。
季語の千鳥は、特定の種類ではなく、浜辺にいる小さな海鳥。冬の千鳥は和歌にも詠まれていますな。
 降り積もる雪踏む磯の浜千鳥 浪にしほれて夜半に鳴くなり 実朝(金塊集)
訳に影響はないでしょうが。

書生さて、二日目は走井山観音堂、木因句のみ残ります。

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資料、桑名

帆を枯て海は木の葉の夕かな 木因
一日、桑名の東方ひがしかたや西方にしかたの山々で紅葉狩をして、走井山はしりいざん観音堂に至る。海上が目の上に浮んで見え、何艘かの船はまつ毛に繋げるように見える。
 帆を枯て、海は木の葉の夕かな 木因
罫線観音堂 「桜下文集」木因稿
一日、東かた西かたの山々紅葉狩して、走井山観音堂に至る。海上目の上に浮みて、多少の船はまつ毛に繋ぐ気色有。
 帆を枯て海は木の葉の夕かな 木因
書生観音堂地図東方・西方は、桑名の地名です。江戸時代の資料がないので、現在の地図に、紫・赤で示しました。
揖斐川・長良川の仕切り堤は、当時ありません。
緑色は山や丘陵です。
桃色は、仮想の足跡で、実際にどう歩いたか分かりませんから、旅程表には距離を入れられません。
走井山は海抜27m、障害物はありませんから、河口を見渡せます。
見晴らしがいいので、戦国時代は城があったようです。
木因は高いところが好きですね。
隠居日ごろは海抜0メートル、舟の上に生涯を浮かべていますからな。
大垣からは、右のような小型の川舟で来ていましょうから、風があっては大変です。
浪の様子を気に懸けたわけです。
前日は、霰でしたな。
伊吹颪と言うか、木枯らしも吹いていたことでしょう。

川船

書生はあ。
隠居冬の七里の渡しは東海道、難所中の難所です。
木因句に「帆」とありますから、この日、大型船は運航していたわけです。
それが、木の葉のように見えたとな。
書生日和待ちの紅葉狩りでしたか。
隠居うむ。
書生桑名古地図さて、翌日はどうでしょう。
本統寺から港までは約700m、近いですね。
夜明けに舟で浜の地蔵にいきます。
あけぼのを浜地蔵で迎えるには、本統寺を5時頃までに出る必要があります。

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桑名、地蔵堂辺り

 桑名の海辺にて白魚白きの吟ハ、水を切て梨花となすいさぎよきに似たり。天然二寸の魚といひけんも此魚にやあらむ。

<素堂序> 

明ぼのや白魚白きこと一寸

旅寝に飽きて、まだほの暗いうちに浜辺に出て、
 
 曙や。白魚(しらうお)しろきこと、一寸。

罫線

明けぼのや 真蹟「藤田本」


 草の枕に寝あきて、まだほの暗きうちに浜のかたに出て、
 
  明ぼのや白魚白きこと一寸

地蔵堂航路心地よい旅寝の枕に飽きて、木因に話し掛け、一昨年3月の白魚一箱の礼を言う。
木因は「あの白魚は干物です。満ち潮で浜に寄せる生きた白魚を見にいきましょう。定めし驚くことでしょう」と言う。

ほの暗いうちに寺を出、2キロほど下り、浜の地蔵堂に行くと、
「ほのぼのと夜が明けかけている浜辺、まだ一寸ほどの白魚が白く見えている」
隠居地蔵の浜

今でも、揖斐川の河口右岸の浜地蔵は州浜が広がり、小船の港となっている。
 
白魚の成魚は2寸ほどで、素堂序にあるとおり。この時期はまだ1寸ほどですな。
シラウオとシロウオは違うので注意する。
句の白魚しらうおは、サケの仲間で、額に葵のご紋がある。
シロウオは、ハゼの仲間で、頭が丸い。
博多の躍り食いが有名で、これとは違います。

書生

天理本の草稿にはなく、追加されましたか。
それと、季語蔵によれば、「白魚」の季は、初春ですね。

隠居

然り、春ですな。
歳時記や辞典の扱いも春で、多数が、例句として「あけぼのや白魚-」を挙げています。
頴原退蔵博士は、「芭蕉俳諧における季節感(昭和14)」に、
「貞享元年冬の作である。初案には上五「雪薄し」とあつて、そこに冬季の詞を添へたのであるが、しかし句の生命はさうした形式的な約束に拘泥するよりも、ほのぼのとしだ暁闇の中に、白魚の白さ清らかさを感得する所にある。それは『曙や』でなければ言ひ現はせない境地なのだ。芭蕉が當季に拘はらなかったのは當然であった。」
と、当季に拘わらなかった証句としてあげておられる。
しかし、「白魚しろきこと一寸」が、当季ですな。新しい季を見付けて、後世の宝としたのでは、ありませんかな。

書生

はい?

隠居浜の地蔵句碑

だから、「白魚一寸」は、白魚の子。三冬ですな。成魚が初春なら、子のうちは冬でしょう。初案も、もち論冬の句。
  雪薄し白魚しろき事一寸
さて、木因の「桜下文集」が、面白い。


⑥ 海上に遊ぶ日は、手づから蛤をひろふてしら魚をすくふ。逍遥船にあまりて地蔵堂に書す。
 雪薄し白魚しろき事一寸  芭蕉翁
 白うをに身を驚な若翁   木因

書生

はあ、船に乗って、自分の手で白魚をすくったんですね。
わたし、高校で習ったときは、「白魚漁の網を見て」だったのですが。

隠居

いや、稚魚のうちに猟師が獲ることはない。
初春の季語であるとおり、漁は春です。「日本山海名産図会」には「春二三月の頃」とあります。もちろん陰暦ですな。

書生

「逍遙船にあまりて」は、「船で巡るのに飽きて」でしょうか。

隠居

「物足りない」ということでしょう。実際は寒かったからでしょう。この日も渡海しませんから、風もあったでしょう。

書生

で、「地蔵堂に書す」ですか。
懲りませんねえ、また落書き。

隠居雪薄し句碑

いや、ここは落し文。落書きではのうて、落書。
「地蔵堂に」の「に」は、場所を示す。対象ではない。地蔵堂「で」、木の板に書いたわけ。これは、聯として地蔵堂の内陣の柱に掛けました。
 
表に芭蕉発句。
 雪薄し白魚しろき事一寸
裏に木因発句。
 白うをに身を驚な若翁
聯が、残っていたのか、現在は輪郭鋭い籠写しで、読みやすい句碑になっておる。

書生白の崩し

木の板ですか。
木因、学習しましたね。ただ、「木の板に」と書くべきでした。
あらら、芭蕉句も木因の筆跡、「白」の崩しで分かりますよ。右に拡大して置いておきます。
「芭蕉」に「翁」が付いていますから、芭蕉が書いたわけではありません。
木因が勝手に書いたようですね。

「白魚を見て驚いて水に落ちないように気を付けてください。若翁よ」と言う。
この発句のやり取り、臨場感がありますね。付合より面白い。

隠居

では、最後に、この旅以前の二人の交流を参照しておきましょう。

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番外資料、鳶の評

木因宛の芭蕉書簡(天和2年2月上弦付)

   一日芭蕉翁より文通あり。其の書面 (この行は、木因の注)
 当地或る人、付句あり。此の句、江戸中聞人御座なく、予に聴評望み来り候へども、予も此の付味、弁へわきまえ難く候ふ。
 これに依つて御内儀(ごないぎ、内々の意見)のため、申し進じ候ふ。御聞き定めの旨趣、ひそかに御知らせ下さるべく候ふ。東武へ広めて、愚の手柄に仕り度く候ふ。

    附句
  蒜の籬に鳶をながめて      ※ひるのまがき
  鳶のゐる花の賎屋とよみにけり  ※しずやと
 二月上弦                    はせを
木因様

書生

ある人が、鳶の句に「鳶」の語を入れて付けた。江戸で聞く人がいないので、私(芭蕉)に尋ねてきた。私も分からないので、内々に(木因に)意見を頂きたい。頂いたら江戸に広めて、自分の手柄にしたい。


誰の句でしょう。
隠居

長句、短句ともに芭蕉ですな。
木因もそれを承知して、返書している。

芭蕉宛の木因書簡(天和2年2月下弦付)

   其の返書に曰く、(この行は木因の注)
 花牒(かちょう、御書面)拝見、或る人の付句、貴丈、御聞き定めこれ無く、これに依り、愚評之儀、予猶ほ考へに落ち申さず候ふゆゑ、残念ながら返進に及び申し候ふ。隨て(したがって)、下官(やつがれ)去るころ在京の節、古筆一枚、相ひ求め候ふ。此のキレ(古筆切)、京中定むる人(鑑定人)、之なく候ふ。何れの御代の撰集にや、貴丈、御覚え候はば、ひそかに御知らせ下さるべく候ふ。花洛に広めて、愚の手柄に仕り度く候ふ。

  菜園集  巻七
    春 俳諧哥           ※はいかいうた
     蒜のまがきに鳶をながめ侍りて
    鳶の居花の賎屋の朝もよひ    ※とびのいる
    まきたつ山の煙見ゆらん
    二月下弦             木因
  芭蕉翁
右趣段、もやう心に叶ひ申し候ふ哉、返翰の感章左の如し

書生

私も考えつかず返事が出来ないけれど、古筆が一枚ある。京都で鑑定する人がいないので、どの御代の撰集か、あなた(芭蕉)におぼえがあるなら、内々に(木因に)お知らせいただきたい。頂いたら京都に広めて、自分の手柄にしたい。


菜園集はうそでしょう。
隠居

そう。芭蕉の文を利用して遊んでいる。
「蒜のまがきに鳶をながめ侍りて」は、詞書きと理解すればよいと、応じているわけですな。
芭蕉はこの返信が大いに気に入って、大垣藩士の濁子に書簡を送った。

濁子宛の芭蕉書簡(天和2年3月上中旬付)

<濁子略歴>
中川濁子(じょくし)。通称守雄、惟誰軒素水。大垣藩士、江戸詰の留守居役、700石の重臣。蕉門の古参。入集「虚栗」「一楼賦」「幽蘭集」「炭俵」「続猿蓑」。大垣の屋敷は、嗒山の北隣。生没未詳。大石良雄と親交、木因より若いか。

 杭瀬河の翁(木因)こそ、予が思ふ所にたがはず、鳶の評、感会奇に候ふ。江戸衆、聴く人なきと申し候ふは聊か偽り、彼の翁が心を謀らんために候ふ。
 ここ元にも、珍しきとのみ云ふ人三分、同物に同物付けたる、古今類なきと云ひ捨てたる人二分、又道を無(ないがしろ)にして、云ひ度き事云はるるなど、嘲る野輩(やはい)も適々(たまたま)これ有り、予が心指(こころざし、志)を了察の士も一両人はこれ有り候ふを、千里を隔て自慢云ひ散らしたるも却つて愚盲の至りに御座候へども、日来(ひごろ)彼の翁此の道知りたる人と定め置き候へば、聊か了簡引き見んため、書き付け遣はし申し候ふところ、愚案一毫の違ひ御座なく、誠に浅からず候ふ。
   自慢之詞
 古往達人、花に桜を付くるに同意去るを本意と云へリ。増して鳶に鳶を付けて一物別意を付け分け、当時未来の作者に此の句を似せさせず、古往今来未来一句の格、何れの時か秋風来つて芭蕉の露もろく破れんまでの一句、一生是のみに存ずるばかりに候ふと書く内、鼻高くおごめき、肩のあたり羽だたきするやうに候ふ。

書生

「さすが、杭瀬河の翁」ということですね。木因は博識と、芭蕉も一目置いていたことがわかります。天和2年の春ですから、野ざらしの旅より、2,3年前のことですね。

隠居

それほど経ってはいないな。
木因は、干し白魚を芭蕉に贈ったらしい。芭蕉は気に入って濁子宛書簡と同じ頃礼状を送っている。この書簡も面白いが、これまでとしよう。

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野ざらし紀行、講読の振返り
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大垣到着の日
旅程<旅程検討 1> 大垣到着の月日-貞享元年9月28日までに到着
「芭蕉紀行文集」には「九月下旬 今須・山中を経て大垣に出て、木因亭に宿泊」とある。これは「九月下旬(に)今須・山中を経て大垣に出て、(九月下旬から)木因亭に宿泊」と解するのだろう。
芭蕉の大垣到着日は、次の句で絞ることができる。
① 死にもせぬたび寝の果よ秋の暮 芭蕉                   秋季
② 能程に積かはれよみのゝ雪   木因 / 冬のつれとて風も跡から  芭蕉 冬季
③ 師の桜むかし拾ンこの葉かな  嗒山 / 薄に霜の髭四十一     芭蕉 冬季
④ 霜の宿の旅寝に蚊屋をきせ申  如行 / 古人かやうの夜のこがらし 芭蕉 冬季

 ・ ①は秋季、②③④は冬季である。
 ・ ②は「幽蘭集」だけが載せ、確証がないので、このページでは扱わなかった。しかし、冬に大垣を訪れるのはこの年だけである。また、この句は、芭蕉への挨拶句ととれる。
 ・ ③は、到着2、3日後、芭蕉歓迎の句会と思われる。
 ・ ④は、木因亭が日常の業務で多忙なため、如行亭に落ち着いた際の句である。
 ①と②は、季は違うが、同日としてもよさそうである。秋季は立冬前日までである。この年の立冬は9月29日(晦日)であるから、①句は28日までの吟である。②を29日、遅くとも10月1日の句とすると、①の28日が確定する。
<旅程検討 2> 浜地蔵-貞享元年10月18日前後に訪問。
旅程表の注に示した根拠は次の通り。
① 芭蕉は曙のシラウオを浜地蔵で見て(かつ掬って)いる。
② 未明(薄明前)の歩行・舟行には、ある程度高く輝く月が必要である。(月没2時間前まで)
③ 浜地蔵は、シラウオの漁場である。シラウオは、満ち潮に乗って浜に寄せる。
 ┌──┬──┬──┬─────┬───────┬──┬─────┐
 │貞享│1684│  │  曙  │       │  │月没   │
 │元年│ 年 │日出│  ・  │干潮→満潮/潮│月齢│/月没時の│
 │10月│11月│  │(航海薄明)│(潮が寄る)  │  │ 輝面率%│
 ├──┼──┼──┼─────┼───────┼──┼─────┤
 │15日│21日│6:57│5:57~6:27│0:00~6:30大潮│13.9│5:32 97.6│
 │16日│22日│6:57│5:57~6:27│0:30~7:20大潮│14.9│6:28 99.7│
 │17日│23日│6:57│5:57~6:27│1:10~8:00大潮│15.9│7:25 99.8│
 │18日│24日│6:56│5:57~6:26│1:50~8:40大潮│16.9│8:21 97.9│
 │19日│25日│6:56│5:57~6:26│2:30~9:20  │17.9│9:16 94.1│
 │20日│26日│6:55│5:57~6:25│3:00~9:50  │18.9│10:8 88.4│
 └──┴──┴──┴─────┴───────┴──┴─────┘

・ 15・16日は月が低い。20日以後は月の光が弱まる。→18日前後(17・18・19日)が妥当である。
・ シラウオと満ち潮との関係は「日本山海名産図会」によった。明け方はいずれの日も、潮が寄せる時間帯になる。満潮時刻との関係は書かれていないので、確認の必要がある。
<旅程検討 2> 大垣・桑名の動向-多度権現からの復路、桑名滞在日数。
いずれも、「桜花文集」の記述を手掛かりとした。「桜花文集句商人の段」は、「旅に生きた芭蕉、新風をめざして」(奥の細道むすびの地記念館)に、原本の画像が載る。
旅の目的
牛捨て「牛」を「憂し」と仮定し、旅の目的を探った。
様々な資料が交錯するので、以下に整理する。
┏━ 旅立 雨の晴れ間を牛捨にゆく        ─「しばふくかぜ」
┃      ┌ 野晒しを心に風の沁む身かな  ━┓─「野ざらし紀行」
┃┌─   │ 侘び人の涙に似たる桜かな    ┃┌ 西行歌
┃│     │ 風身に沁めば         ━┫│
┃│     │ 先づこぼれつつ         ┃└「山家集」
┃│  大垣 └→死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮   ┃┌
┃│        古人かやうの夜のこがらし  ━┫└「野ざらし紀行」
┃│                       ┃
┃│  多度                   ┃
┃├── 侘人二人あり。やつがれ姿にて      ┃┌
┃│┌─ 狂句を商ふ。              ┃│
┣┿┿━ 不知火の筑紫に松浦潟ばちにもあらず、  ┃│←「虚栗」天和調脱却
┃││  清き渚に玉拾ふ伊勢嶋節にもあらで、   ┃│
┃││  紙衣かいどりて道行きを諷ふ。    ─┐┃│
┃│├─  歌物狂二人木枯し姿かな  木因  ┿┫└「桜下文集」
┃││                     │┃
┣┿┿━  宮守よわが名を散らせ木葉川     │┃─「桜下文集」名声撤回
┃││                     │┃
┃││  ~国を立ちいでて~に御着にて候ふ。 ─┘┃┌ 娘と従者の道行き
┃││  染むべき袖のあさましや。        ┃│
┃├┼─ 窶れ果てたる有様を、我だに憂しと思ふ身━┫│ 景清の述懐
┃││  を、誰こそありて、憐みの、       ┃│
┣┿┿━ 憂きをとぶらふよしもなし。       ┃└「謡曲 景清」
┃││                      ┃
┃││ 名古屋                  ┃
┃├┼┬ 笠は長途の雨にほころび、紙子はとまりと ┃┌
┃││└ まりの嵐にもめたり。侘つくしたる侘び人、┃│
┃││  我さへあはれに覚えける。       ━┫│
┃│├ 昔狂歌の才士、此国(名古屋)にたどり  ┃│
┃││  し事を、不図思ひ出て申し侍る。     ┃│
┃│├  狂句木枯しの身竹斎に似たる哉   ┛│
┃││                       │
┗┿┿  うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに      └「冬の日」第一歌仙
 ││                      
 │└─ 竹斎宿に在りあひて、折節冬の事なれば、  ┌
 ├─┬ 破れ紙子に布裏付け、帯は木綿の丸ぐけに、 │
 │ └ 羽織は、いかにも煤びたる紫紬の襟をさし、 │
 │   のけ衣紋にぞ着なしける。紙頭巾をうちか  │
 │   ぶり、あとさき丸き瓢箪を、さすがの下緒  │
 └─ にくくりつけ、破れはてたる扇をさし、屑  │
     紙のざつしより、山椒一粒取出し、前歯に  │
     かけてつみわりて、大びやくたいにひやく  │
     たいして、門の外へぞ出にける。      └「竹斎」

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  ─── 野ざらし紀行講読ページの解説 ───