野ざらし紀行 奈良~京都~伏見~大津~水口

野ざらし紀行 索引
旅立伊勢伊賀-竹内-
吉野山
大垣-
桑名
熱田-
名古屋-伊賀2
奈良-二月堂-京都
-伏見-大津-水口
熱田-
鳴海
甲斐-深川
旅の後
野ざらし紀行 奈良~京都~伏見~大津~水口 索引
本文原文・訳文旅程旅程・足跡
講読奈良への道 「春なれや名もなき山の薄霞」
東大寺二月堂 「水とりや氷の僧の沓の音」
京都、鳴滝「梅白し」「我桜」「樫の木の」「梅たえて」伏見「我がきぬに」「人をあだに」
大津「山路来て何やらゆかしすみれ草」
辛崎「辛崎の松は花より朧にて」
石部~水口、「つつじいけて」「菜畠に」「命二つの」
資料 梅の竹内 「初春先」「世に匂ひ」「半残」宛芭蕉書簡
資料、千那・尚白との出会い「千那・尚白・青鴉」宛芭蕉書簡
「尚白」宛芭蕉書簡「去来抄 同門評」
付合「辛崎の」「去来抄 先師評」「蕉翁全伝」


講読、その六「奈良、京、伏見、大津、水口」


 芭蕉は、門弟千里を連れ、「野ざらし紀行」の旅に出、伊勢の神宮参拝後、郷里伊賀上野を経て、千里の生家竹内に至ります。竹内からは一人旅、吉野を巡り、大垣の木因を訪問、木因と桑名、熱田へ。さらに、単身名古屋へ出向き、冬の日五歌仙を巻きます。
 さらに、郷里で新年を迎え、竹内、奈良、京都、伏見、大津、辛崎、石部、水口と巡ります。
 このページでは、芭蕉真蹟「天理本」・「藤田本」を元に、奈良、京、伏見、大津、水口の段を取り上げ、原文・訳読み文・現代語訳を示し、「竹内に残された真蹟」・「半残宛書簡」・「俳人芭蕉(山崎藤吉著)」・「千那等宛書簡」・「甲子吟行の素堂序」・「尚白宛書簡」・「去来抄」・「鎌倉海道」・「蕉翁全伝」などを資料にして、講読していきます。
 また、旅程表を作成し、講読の資料としつつ、この旅の実態を明らかにしていきます。

野ざらし紀行
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原本line

1 「原文・現代語訳」の文は、芭蕉の真蹟「天理本」による。
 ・ 巻末に付せられた、旅を補足する付合は、「関連句」(◆印)として示す。
2 講読の項に置いた文は、貞享年間の真蹟「藤田本」による。
 ※ どちらも、「芭蕉紀行文集、中村俊定校注(岩波文庫)」を参照。

凡例

1 各段は、便宜上設けたもので、原文にはない。
2 仮名漢字は、適宜変更している。
 ・ 仮名遣いの適正化。- おしむ→をしむ、山あい→山あひ
 ・ 用字や字体の変更。- 影移り→影映り。杜國→杜国
 ・ 踊り字は、「々(同の字点)」「ゝ、ゞ(一の字点)」のみ。

野ざらし紀行「奈良、京都、伏見」 原文・現代語訳

㉘ 伊賀越え奈良道

 ならに出るみちの程 

 奈良に出づる道のほど、

 奈良に行く街道で、

  はるなれや名もなき山の朝がすミ

  春なれや。名もなき山の朝霞。

 ※ 句の訳は、講読・解説を参照。以下同。

㉙ 奈良、東大寺二月堂

 二月堂に篭りて

 二月堂に篭もりて、

 東大寺二月堂に篭もって、

  水とりや氷の僧の沓のおと

  水取りや。氷の僧の沓(くつ)の音。

㉚ 京、鳴滝

  きやうにのぼりて、みつ井秋風が鳴滝の山家をとふ。

  京に上りて、三井秋風が鳴滝の山家を、訪ふ。

  京都に上って、三井秋風の鳴滝の山荘を訪れた。

   梅林

   梅林。

   山荘の梅林にて。

 むめしろしきのふや靏をぬすまれし

 梅白し。昨日や、鶴を盗まれし。

 かしの木の花にかまはぬ姿かな

 樫の木の、花に構わぬ姿かな。

㉛ 伏見

  伏見西岸寺任口上人に逢て

  伏見西岸寺、任口(にんこう)上人に会ひて。

  伏見西岸寺の任口上人に会って。

 我きぬにふしみのもゝの雫せよ

 我が衣(きぬ)に、伏見の桃の滴せよ。

㉜ 大津

  大津にいづる道、やまぢを越て

  大津に出づる道、山路を越えて。

  大津に出る道で、山道を越えて。

 やまぢきて何やらゆかしすみれ草

 山路来て、何やらゆかし、菫草。

  湖水の眺望

  湖水の眺望。

  湖水の眺望。

 辛崎の松は花よりおぼろにて

 唐崎の松は、花より朧にて。

㉝ 水口

  みなぐちにて、廿年をへて故人にあふ

  水口にて、二十年を経て故人に会ふ。

  水口で、二十年ぶりに、なつかしい人に会う。

 いのちふたつのなかにいきたる桜かな

 命二つの中に生きたる桜かな。

野ざらし紀行天理本所載、「京都、伏見」関連の句

京都

◆⑧             
 我桜あゆさく枇杷の広葉哉   秋風
  筧にうごくやま藤の花    蕉

  我、桜鮎割く(さく)枇杷の広葉かな。  (京)秋風
   筧に動く、山藤の花。           芭蕉

◆⑨
 樫の木の花にかまはぬ姿かな  同
  家するつちをはこぶつばくら 秋風

  樫の木の、花に構はぬ姿かな。     芭蕉
   家する土を、運ぶ燕(つばくら)。    秋風

伏見

◆⑩  我頓而かへらむと云を 伏み
 人をあだにやらうと待や江戸桜 任口

      我、頓而(やがて)帰らむと言ふを、
 人を婀娜に(あだに)、野郎と待つや。江戸桜。 (伏見)任口

京都

◆⑪
 梅たえて日永し桜いま三日      湖春
  東の窻の虫くハにつく       蕉
 巣の中につばめの顔のならびゐて   々

 梅絶えて、日永し。桜、今三日。      湖春
  東の窓の虫、桑に付く。          芭蕉
 巣の中に、ツバメの顔の並びゐて。    芭蕉

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野ざらし紀行 旅程6「奈良、京都、伏見、大津、水口」

貞享元年12月25日伊賀上野滞在~貞享2年3月26日熱田桐葉亭逗留まで

月日時分記事移動距離累計

貞享元年12月25日~貞享2年1月24日頃 伊賀上野生家

1/24頃迄生家に滞在上野赤坂

 日付は、4月9日(熱田)から逆算している。

1月26日~2月11日、奈良葛城、竹内に滞在

1/25迄に06:00伊賀上野生家発
15:50<伊賀上野赤坂→芭蕉尻もち坂→笠置→二月堂→猿沢>猿沢の宿39.1 1085
1/26迄に06:00猿沢の宿発
12:40<猿沢→竹内>竹内に滞在竹内26.9 1112
1/281月28日付、山岸半残宛書簡竹内

 初春、仲春の句が、竹内に残されていることから推定。15日間滞在。

2月12,13日、奈良東大寺二月堂、修二会を見物

2/1206:00竹内発
13:20<竹内→二月堂>夕刻薪能見物。明朝まで修二会の行事を見学。二月堂29.0 1141
2/1306:00二月堂発
06:30<二月堂→猿沢>宿で休養。夕刻興福寺薪能見物か。猿沢の宿2.1 1143

 薪能、走りの行法が見られるのは6,7日か、12,13日である。ここでは、水取りのある12日とした。

2月14日~3月9日、京都鳴滝、秋風亭に滞在

2/1406:00猿沢の宿発
17:10<猿沢→鳴滝>秋風亭に滞在秋風亭44.5 1188

 25日間滞在。
※ 京都の桜、満開(平年)が3月2日(陽暦4月5日)。 

3月10日、新玉津島町の湖春、伏見の任口亭を訪問。六条で一宿

3/1006:00秋風亭発
08:00<鳴滝→新玉津嶋神社>季吟・湖春亭に立ち寄る。6.61194

※ 季吟亭は、新玉津島神社で、前年赴任している。湖春亭は、旧季吟亭で、神社に近い山伏山町。
※ 秋風亭に行く前にも立ち寄ったか。「芭蕉(蘿月著)」に「北村季吟を新玉津島神社に訪れ、其子湖春を連れて、秋風の庵を訪れ」とある。「梅たえて」の付合は、桜の開花時期から推して、帰り道に立ち寄ったと推定。

3/1008:40新玉津島発
10:10<新玉津嶋神社→伏見西岸寺>伏見任口亭7.81202
15:00伏見発
15:40<伏見→六条の宿>六条の宿7.61210

※ 任口亭の滞在は、句の遣り取りから、短時間と推測。

3月11日、京都、六条で一宿

3/10湖春と「梅たえて」の三つ物。
※ 尚白・千那・青鴉ら来訪。六条の宿

※ 六条の宿か新玉津島神社で、湖春亭と付合。
※「六条の宿」は、千那門千梅の言(「俳人芭蕉」に記載)による。

3月12日~14日、大津

3/1206:00六条発
09:00<六条の宿→大津本福寺>小関越で大津に至る。大津本福寺12.1 1222
3/1306:00大津本福寺発
07:50<大津本福寺→唐崎→坂本の宿>唐崎の松を見、千那らと坂本に一宿。坂本の宿7.1 1229
3/1406:00坂本発
07:50<坂本の宿→大津本福寺>唐崎の松を発句に、千那と付合。大津本福寺7.1 1236

「坂本一宿」は、千那宛芭蕉書簡(7月18日付)による。「大津本福寺で付合」は、千梅の言及び同寺の伝による。ちなみに、千那は、堅田本福寺及び大津本福寺の住職。

3月15日~20日、水口

3/1506:00大津本福寺発
11:20<大津本福寺→石部の旅店>昼食時、干鱈の句を詠む。21.6 1258
14:30<石部の旅店→水口の駅(うまや)>横田の渡しで土芳に邂逅。水口の宿12.6 1270
3/1610:00水口の宿発
10:10<水口の宿→水口柳軒邸>中村柳軒に招かれる。水口柳軒邸0.7 1271
3/1710:00水口柳軒邸発
10:10<水口柳軒邸→水口蓮花寺>蓮花寺に来ていた伊賀上野大仙寺の岳淵に合い、4、5日逗留。水口蓮花寺0.8 1272

水口での動向は、「蕉翁全伝(土芳編)」による。

3月22日~24日、桑名本統寺

3/2106:00水口発
14:10<水口→亀山宿>亀山宿で一宿と想定。亀山宿32.6 1304
3/2206:00亀山発
15:00<亀山→桑名本統寺>本統寺に三日逗留。桑名本統寺35.8 1340

「本統寺に三日逗留」は、3月26日付木因宛書簡による。

3月25日~、熱田桐葉亭

3/2506:00桑名発
11:40<桑名本統寺→桑名-七里の渡し→熱田→桐葉亭>桐葉亭に五三日逗留。熱田桐葉亭29.01369
3/263月26日付木因宛書簡熱田桐葉亭

3月26日付木因宛書簡から、熱田到着を前日と仮定している。「五三日逗留」は、書簡にある。

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野ざらし紀行 講読「奈良」
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大和街道、奈良への道

<大和街道>
東海道から奈良への近道。関宿西の追分から、加太峠(かぶととうげ)、柘植、伊賀、島ヶ原、笠置を経由し、北から奈良に入る。江戸時代には加太越奈良道と呼ばれた。

はるなれや名もなき山の朝がすミ (真蹟天理本)

 奈良に出る道で、
 
 春なれや。名もなき山の薄霞。

罫線

茶袋 真蹟「藤田本」


  奈良に出る道のほど

 春なれや名もなき山の薄霞

奈良に出る道で、
「春なのだなあ。名もない山にかかった薄い霞、実に風情がある」

書生

もう少しで奈良に出るところの、名もない山ですか。

隠居

奈良近くと思いますが、これは「伊賀越え奈良道で」ということです。
実はこの句碑、芭蕉生家から約5キロ、伊賀市三軒家の路傍にあって、昭和58年(1983)建立とのこと。

書生

「奈良に出る」という表現から、「奈良盆地に出、視界が開ける手前」と、勝手にイメージしていました。「奈良に至る道中」であれば、伊賀・奈良間のどこでもいいわけですね。

隠居

「薄霞」の句は、そうですな。
 はるなれや名もなき山の朝がすミ (真蹟天理本)
 春なれや名もなき山の朝霞  「芭蕉句選」(華雀編)
このように、下七が「朝霞」の句がある。こちらが初案でしょう。
伊賀上野の芭蕉生家は、大和街道沿いにあります。生家を発ち、上野天神を通って西に進みます。郊外に出て見る「朝霞」、この辺りがふさわしいというのでしょうな。
この句碑を右に見て、少し行くと、伊賀市島ヶ原に入る。その手前に坂があって、その名も芭蕉尻もち坂。
名のとおり、この時芭蕉が尻もちを搗いたと伝わっている。

書生

誰が見たんでしょうね。
無季の発句はありませんか。「馬ならば」とか。

隠居

いや、ない。あっても、餅搗きでは歳末になる。
時に、芭蕉は、初春に竹内に行ったのではなかったかな。

書生

そうでした。
 初春先酒に梅売にほひかな
 世に匂ひ梅花一枝のみそさざい
この2句は、当季当地の句としました。

※ 「野ざらし紀行 伊賀上野1 竹内1、資料」を、別窓で参照する。

隠居

二月堂へ行く前、竹内に行っていたとして差し支えあるまい。
ならば、大和街道でなくてもよかろう。

書生

はあ、前回のように名張街道で行けば、61.0キロ、……大和街道から竹内へは、65.8キロ。

隠居

あまり差はないか。
では、句碑に敬意を表して、大和街道としよう。
二月堂辺りで水取の予定を確かめ、竹内に行ったとしてもよい。

書生

では、行程は、伊賀、竹内、二月堂の順にしておきます。


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資料 竹内2「梅の竹内」

初春先酒に梅売にほひかな
書生

 
初春は、「はつはる」でなく、「しょしゅん」と読んで、文字通り初春の季語。陰暦1月に当たります。
富農、或いは酒造に滞在しての礼に詠んだと思われます。


※ 「野ざらし紀行 竹内1、初春句」を、別窓で参照する。

隠居

これは、1月に、竹内にいたという根拠になりますな。
初春とは、立春から啓蟄の前日まで。啓蟄は何日ですかな。

書生

この年は、2月1日ですから、1月の晦日、29日までです。

世に匂ひ梅花一枝のみそさざい
書生

こちらも、季語は「梅」で、初春・仲春。
みそさざいは、「鷦鷯・三十三才、三冬」と季語蔵にありますが、この句の季語ではありません。
竹内の医者「一枝軒」の「一枝」を詠み込んだ挨拶句です。


※ 「野ざらし紀行 竹内1、世に匂ひ句」を、別窓で参照する。

隠居梅

一枝軒玄随邸にも泊まったようですな。
この竹内訪問、わしは、「江戸へ帰るに当たって、千里を誘うつもりがあった」と仮説を立ててみた。
しかし、千里は既に郷里を後にしていたので、二月堂水取まで逗留したということですな。
一応、これで、初春に千里の記事や句がないこと、興善庵以外にも泊まったことなどの説明が付く。
しかし、何ら裏付けるものはない。
でも、梅の時期に竹内にいたことは、否定できなぬ。右は、平成25年(2013)3月10日に、伊賀の産直花広場で撮った梅の苗。近くの寺の梅は咲きかけであった。
この日付を陰暦にすると、どうかな。

書生

……、1月29日です。

隠居

おお、1日違い。ほぼ同じで、梅は咲いていましたな。
先に言った半残宛書簡は、1月28日付である。
これは、普通伊賀で書いたとされるが、半残も伊賀上野の武士で、伊賀の住人。

書生

おや、伊賀上野同士の書簡ですか。

隠居

家は近いから、これまでの説では、半残が旅先にいたと推量されていますな。
その書簡を、見てまいろう。

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正月28日付、山岸半残宛書簡

<半残略歴>
山岸半残(はんざん)、本名山岸重(十)左衛門棟常。侍大将藤堂玄蕃家の家老。父陽和(享保4没)、子車来ともに俳人。母は芭蕉の姉と言われる。この年半残は32歳。上野玄蕃町に住み、土芳とともに伊賀蕉門の形成に貢献。「続虚栗」「猿蓑」「続猿蓑」などに入集。享保11年(1726)没、73歳。

書生

半残は、芭蕉の甥でしたか。

隠居

という説で、確かなことではないようです。
まあ、ややこしいが一応聞きなされ。
芭蕉は、兄一人、姉一人、妹三人の6人きょうだい。妹二人はそれぞれ商家に嫁ぎ、末妹は、後に松尾家の養女となり家督を継ぎます。姉は一人です。
この姉について、
 A 山岸陽和家に嫁し、半残を産む。
 B 夫亡き後、5,6歳の桃印を連れ、松尾家に出戻る。
という説がある。
この二説は、両立するや否や、悩ましい。
姉の結婚は、承応2,3年、芭蕉10,11歳ころ。
姉が出戻ったのは、寛文5,6年。芭蕉は22,3歳、山岸半残は、12,3歳ということになります。

書生

どうなんでしょう。

隠居

夫陽和は、享保4年(1719)3月10日没。この年半残は66歳であるから、86歳くらいでの逝去で、Bの「夫亡き後」が合いません。
また、桃印の父は誰か不明とされています。

書生

はあ、ではこうしましょう。
姉は、仮に15歳で山岸家に嫁し、翌年半残を産みます。
21歳までに山岸家を離縁され、翌年以後再婚、23歳で桃印を産み、4,5年後夫と死に分かれ、松尾家に戻る。

隠居

まあ、一応筋は通りますな。
では、姉についてもう一つ、
 C 西柘植、愛田村の庄屋竹島家に嫁す。元禄10年8月17日没。生年不詳。

書生

でも、桃隣を連れて戻ったとき姉が27,8歳なら、まだ再婚は可能でしょう。元禄10年没なら、享年59,60歳ですね。

隠居

桃印を残して、再婚か。ないわけではありませんな。
芭蕉は桃印を、随分不憫に思っていますが、そういうことかな。
延宝4年(1676)、芭蕉は帰郷し、6月桃印を連れて江戸に戻りました。芭蕉33歳、桃印16,7歳のことです。

書生

でも、姉が2,3人いて、ABCそれぞれ別人なら、もっとすっきりしますね。

隠居

いや、それでは、山岸家の過去帳に陽和の妻の記載がないことの説明がつかなくなる。
土芳の蕉翁全伝の家系図を見ても、姉は一人です。もっとも、全伝では「女子 早世」としてありますが、これはこれで悩ましい。
半残に戻りましょう。

書生

半残は、藤堂玄蕃家の家臣で、玄蕃町と。

隠居玄蕃町古地図

地図を見ますか。
現在の上野玄蕃町(うえのげんばまち)は、概ね線で囲ったところです。
芭蕉生家のある、上野赤坂町(うえのあかさかちょう)の西隣です。
赤い天の字が、上野天神。
 
半残の主、藤堂玄蕃の上屋敷はお城敷。
囲みの白い部分は、藤堂新七郎家の下屋敷です。様々園は、こちらにあります。
残りの半分が、玄蕃家の下屋敷。
こちらは、色が付けてあります。
半残の家は、玄蕃の下屋敷地内でしょうな。

書生

残り半分が半残……。
いえ、まさに目と鼻の先。

隠居

ですから、「芭蕉書簡集(岩波)」は、「句稿の評を求められていたが、奈良へ薪能などの見物に出かけ、多忙の最中であったので、書面ですました」と、理由付けしています。
どんな書面か、読みますか。

正月28日付、山岸半残宛書簡

  一の文(一枚目)
   半残雅丈          芭蕉子(「子」は卑下)
    正月二十八日

 御細簡、辱く(かたじけなく)拝見いたし候ふ。御清書、請け取り申し候ふ。※1 
 先日、了簡(りょうけん=句意)残り候ふ句ども、残念にて、その後いろいろ工夫※2 いたし候ふて、大かたは聞きすゑ、珍重に存じ候へども、少しづゝのてには(てにをは、助詞、語法)通ぜざる所ども、愚意に落ち申さず候ふ。
句々、秀逸妙々のところ、捨てがたきところどころ、これ有り候へども、しかと分明(ぶんみょう)ならず候ふ間、御残り多く、江戸まで持参、彼これ(門弟)にもきかせ※3 申すべく候ふ。
△ 「海士の蚊屋」、蛍の夜と申すところにて、聞きまがひ(紛い、間違い)候ふ。
△ 「京の砧(きぬた)」、御講釈の上にて、あらかた聞こへ申し候ふ。是はさも御座有るべく候ふか。
一、「祢宜が桜」は、しかも珍重秀逸に候ふ。祇園か賀茂などにて、これ有り候へば名句に有るべく候ふ。一の宮の景気、移り兼ね候ふて、判じ残し候ふ。

 祢宜独り人は桜のまばら哉
と申すにて、一の宮の景気は尽くし候はんか。されども句の景は、はるかに劣り申し候ふ。
 
  二の文(二枚目)
△ 「あれをのこ」、自他明らかに聴こえがたく候ふ。自分の句に言い究め候はば、秀逸たるべく候ふ。
△ 帰路、横に乗りていづく外山の花に馬子、珍重珍重。風景感じ、春情尽くし候ふ。
△ 夜話四睡(やわしすい)、これまた珍妙。一体(いってい)おとなしく候ふ。その外二句、とくと追って考へ申すべく候ふ。先づ判詞むつかしく、気の毒なる(困る)こと、多く御座候ふゆゑ、点筆を染め申すことはは、まれまれのことに御坐候ふ間、重ねて御免なされ下さるべく候ふ。
一、江戸句帳等、なま鍛へなる句、或いは言いたらぬ句ども多く見え申し候ふを、もし手本と思し召し、御句作なされ候はば、いささか違ひも御坐有るべく候ふ。みなし栗なども、沙汰の限りなる句ども多く見え申し候ふ。※4 ただ、李・杜・定家・西行等の御作など、お手本と御心得なさるべく候ふ。先づ、この度の御句ども、江戸へ持参候ふて、よき句帳も出来候はば、加入申すべく候ふ。御了簡も御坐候はば、尤も延引仕まつるべく候ふ。

書生

※1、半残が句稿を清書し、書簡とともに、芭蕉に届けたと分かります。
「御細簡、辱く拝見いたし候ふ。御清書、請け取り申し候ふ」ですから、半残が直接持ってきたわけではありません。
また、どこにいる芭蕉に届けたかが、問題でしょう。
伊賀上野か旅先かどちらかですが、伊賀上野は、「目と鼻の先」で、棄却されましょう。

隠居

いや、半残が旅に出ておれば、伊賀上野でもよかろう。まあ、根拠はないが、否定はできまい。
では、芭蕉の旅先なら、どこかということが問題になる。

書生

二月堂辺りの宿坊・旅宿とするなら、出立前に決まってなければ、手紙は届けられません。仮に決まっていたとして、お水取りの見物に、1月下旬から行かないでしょう。

隠居

東大寺修二会の本行は、陰暦2月1日から14日までの二七日ですな。陽暦では、零時に日付が変わるから、15日までとなるが。
1月下旬に別火の行に入り、晦日前に大中臣の祓い、2月1日から本行に入り、1日6回の行がある。夕暮れのお松明は毎夜行われるが、芭蕉の言う「沓の音」は、走りの行法の木ぐつの音でしょうかな。これは、5・6・7日と、12・13・14日の深夜。七日区切りの節目となる。
興福寺南大門での薪能は、室町以後、6から13日まで七日間、春日大社の薪能は、5日と8から12日までの四日間あったそうです。

書生

では、沓の音が聞こえ、薪能が見られる、6,7日か12,13日に決まりますね。
1月下旬から行ったとは思えません。
竹内ならどうでしょう。
芭蕉は、大和街道から奈良に入り、こうした情報を得てから竹内へ行き、そこに半残の書簡が届いたとすれば、何ら無理はありません。
まあ、旅先の半残から生家に届いたのが出発直前だったので、その書簡を持って出たとしても同じですが。
二月堂を経由すると、65.6キロです。旅程表は、猿沢池畔で一宿にします。

隠居

よろしかろう。
書簡に戻りましょう。

書生

※2、この文で、何日か前、半残が直接句を見せていたと分かります。
※3、半残の清書を江戸に持って行くということで、伊賀に戻る予定はないと分かります。
他は、今回の講読にかかわりがないかと。

隠居

句評についてはよかろうが、末尾の1段は見ておかれよ。

書生

はあ。
※4 江戸句帳などは、生鍛え、言い足らないので手本にはならない。「虚栗(みなしぐり)」などは沙汰の限り、もってのほかですか。
江戸句帳って。

隠居

「虚栗」のほかには、「武蔵曲(むさしぶり)」ですかな。
漢詩文調の字余り句が、しばしば見られます。

書生

で、「正月28日付」ですが、竹内での「初春先」句が1月29日までに詠まれたということから、この書簡は竹内で書かれたと見てよろしかろうと。
ちなみに貞享2年の1月は、小の月で、29日が晦日です。

隠居

「初春先」句は、どう読んでも嘱目吟。28日付の半残宛書簡を伊賀上野で書いていたら、初春(しょしゅん)のうちに竹内に着きませんな。
竹内で28日に書簡を書いたとしたほうが、遙かに合理的ですな。

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奈良、東大寺二月堂

<二月堂>
 東大寺大仏殿の東、上院にある十一面観音を本尊とする仏堂。大仏開眼供養の年、天平勝宝4年(752)に創建、修二会が初めて行われる。
 治承、永禄の兵火は免れたが、寛文7年(1667)、修二会満行前日2月13日に失火焼失。2年後に再建されるので、芭蕉の訪問は、再建15年後となる。なお、貞享2年の修二会は、933回目。

水とりや氷の僧の沓のおと (真蹟天理本)

  二月堂に篭もって、
 
 水取りや。氷の僧の沓の音。

罫線

二月堂 真蹟「藤田本」 


  二月堂に籠りて

 水とりや氷の僧の沓の音

二月堂に篭もって、
「本格的な春を呼ぶ、伝統の水取り。夜のしじまを破り、堂内から僧の木ぐつが、堅く凍り付いたかのような音を響かせている」

書生

芭蕉も篭もりましたか。

隠居

いや、芭蕉が篭もったとは書いてありません。二月堂に篭もるのは、特に選ばれた11人の僧侶則ち練行衆、1月下旬の別火の行から参篭所に入る。一般人は参加できないし、篭もっておったら、1月28日付の手紙など書けん。
「僧たちは」などの主語が省略されただけですな。
 水とりやこもりの僧の沓の音

書生

おや、「篭もりの、僧の、沓の」ですか。
「(((こもりの僧)の)沓の)音」で、修飾関係がかなりあいまいです。
「氷の」でないと分かりません。
 水とりや氷の僧の沓の音
「僧の」は「沓の」に掛かり、「沓の」は「音」に掛かり、「氷の」は、音に掛かる。
「(氷の((僧の沓)の音))」ですね。
これは分かります。ワープロでは、いずれ「『の』の連続」と警告されますが。
「篭もりの僧」としたのは、蝶夢ですか。

隠居

よくお分かりじゃな。いかにも、蝶夢の芭蕉翁発句集に、「こもりの僧」とある。
予習をしてござったか。重畳重畳。

書生

いえね、前回の講読、「市人に」の句で、「蝶夢は調べて初案の句にする」とおっしゃいましたので、またかなと。

隠居

なるほど。
まあ、これは、「氷の音」でなく、「氷の僧」と読んで、練行衆のことだから「篭もりの僧」の書き違いと解釈したかも知れんな。芭蕉に、仮名遣い以外の誤りは、まずないがな。
「二月堂に篭もりて」は、夕刻の薪能、お松明から、深夜の走りの行、お水取りと、二月堂前で一夜を明かしたというように、「篭もる」を一所にじっとしていたと、拡大解釈する向きもある。

書生

はあ、芭蕉が「篭もっ」たのはいつか、について推測してみます。
修二会で、見逃せないと言うか、中心行事は何でしょう。

隠居

そりゃあ水取りでしょうな。12日深夜、陽暦で言うと13日午前1時半ごろからの行の中で、松明に照らされた中、52段の石段を降り、若狭井の水を汲む。
それと、その間に行われる達陀だったんの行法。僧は跳ねながら大松明を突き上げたり、床にたたきつけたりする。この行法は、12日から3日間見られる。

書生

では、旅程表は、2月12日としておきましょう。
・ 1月28日付の半残宛書簡は、芭蕉が旅先で書いたとするのが無理のない解釈である。
・ 竹内に、初春の句が残されているので、お水取り見物に行くまで滞在したと推定できる。
・ 2月12日は、水取りを終夜見物した。
明けて13日は、旅宿で休養、夕刻は薪能見物。14日に京へ向かったとするのが、無理のない旅程です。

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 洛陽に至り、三井氏秋風子の梅林をたづね、きのふや靏をぬすまれしと、西湖にすむ人の靏を子とし、梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたゝんことかたかるべし。

<素堂序> 

<秋風略歴>
三井秋風(しゅうふう)、通称;六右衛門・時治・時次・俊寅。4歳で父重俊没、伯父俊次が養育。京・江戸の富商。28歳のとき、伯父没、遺産を継ぐ。芭蕉の2歳下で、このとき40歳。梅盛・宗因門、漢詩調の句を詠む。洛外鳴滝に別荘があり、多くの文人が集まる。「打曇砥(うちぐもりと)」「俳諧吐綬雞(とじゅけい)」編。享保2年(1717)没、72歳。

むめしろしきのふや靏をぬすまれし (真蹟天理本)

 京に上って、三井秋風の鳴滝山荘を訪問する。
 
  梅林
 
 梅白し。昨日や、鶴を盗まれし。

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鳴滝の山荘1 真蹟「藤田本」 ⑦


  京にのぼりて、三井秋風が鳴滝の山家をとふ。
 
  梅林


 梅白し昨日ふ(ママ)や鶴を盗れし

京都西の郊外鳴滝、三井秋風の山荘を訪問し、梅林を見て
「梅が白い。おや、いるべき鶴がいない。昨日鶴が盗まれたのでしょうか」

書生

鶴がいましたか。

隠居

梅妻鶴子と言われた、宋の詩人林逋(りんぽ、967~1028)。幼くして父を亡くし、苦学の後放鶴亭に隠棲、妻帯せず、梅を妻、二羽の鶴を子とし、清新・繊細な詩を詠んだ。死後皇帝に和靖の名を賜る。
幼くして父を亡くした境遇の似た秋風を和靖に、鳴滝の山荘「花林園」を和靖の「放鶴亭」に見立てたあいさつ。
また、「鶴を盗まれ」は、白居易の詩にある。
 偸ぬすミ将ル虚白堂前ノ鶴  失却ス樟亭駅後ノ梅
秋風の詠んだ脇
  杉菜に身する牛二ツ馬一ツ  秋風 ※身擦る

書生

杉菜って、土筆の親?また小さな牛と馬ですね。
謙遜しているのでしょうか。

隠居

さて。難しいな、秋風の句は。
 哥よまず詩作らず自然と夜着に雪を聴ク
 おどりは島原馬町よし田
  吉野にて
 花花花花花花花かな

書生

難解です。

隠居

秋風発句の付合がある。

草稿・付合「我桜あゆ」

 発句 我桜鮎割く、枇杷の広葉かな。(京)秋風

 脇    掛樋に動く、山藤の花。 芭蕉
 
 第三 日の霞。夜、胴(あかがね)の気を知りて。 湖春

罫線

秋風・芭蕉、付合 「野ざらし紀行」草稿


◆⑧           
 我桜あゆさく枇杷の広葉哉 秋風
  筧にうごくやま藤の花  蕉
(日の霞夜銅の気をしりて   湖春)

※ 括弧内、湖春の第三は、「熱田三歌仙」による。三歌仙の発句は、「桜鯛割く」としてある。

秋風、発句「吉野川で獲れた桜鮎、鮎を背越しで割いて、刺身を枇杷の広葉の上にこう並べると、きれいでしょう」
芭蕉、脇「掛樋で引いた水で、山藤の花房が垂れて、踊り動いています」
湖春、第三「春らしい日中の霞は、夜地中にある銅の気が表れて」

書生

「桜」と「割く」を掛けていますね。どうも難しくていけません。

隠居

桜鮎というアユ、ありましたか。

書生

吉野川、天然遡上のアユで、成長すると、背中に黄色い模様が出て、それを桜に見立てて、桜鮎と言います。

隠居

ほう、「成長すると」な。

書生

……、桜開花のころでしたね。これは、うっかりだ。

隠居

吉野川から生け簀で運ばせたとしてもですね、秋風亭には、陰暦2月中旬から3月初旬の滞在でしたな。
この時期、アユの大きさは。

書生

陽暦3,4月、遡上の時期ですね。5センチから10センチですね。

隠居

ですな。

書生

はあ。
「われ桜鮎さく」でなく、「我が桜、鮎さく」でしたか。

隠居

まあ、貴君は川釣りをするので、知識が却って邪魔しましたな。
脇は、桜の下で鮎を割いていると見て、藤の花を添えている訳ですな。
枇杷は常緑ですから、葉はいつでも採れます。「広葉」ですから、長さ30センチ、幅8,9センチですかな。その上にわた抜きした、稚鮎を何匹か並べるわけです。

書生

なるほど、脇句から読み解けますね。
脇句の「うごく」で、発句のアユも動くような生きのよさを感じます。

隠居

発句を生かしたわけですな。

書生

第三の湖春は、どんな人でしょう。

隠居

季吟の子、北村湖春こしゅん。家は四条烏丸近く山伏山町、この年36歳。
父季吟が、ただ一人免許皆伝の「埋木」を与えた芭蕉に、敬意を表して来たのでしょうかな。
さて、次は、本文と付合、珍しくどちらにも入る句。

かしの木の花にかまはぬ姿かな (真蹟天理本)

 樫の木の、花に構わぬ姿かな。

罫線

鳴滝の山荘2 真蹟「藤田本」 ⑦


  樫の木の花にかまはぬ姿かな

「なるほど、桜が咲き始めたというのに、花に頓着しない堂々とした樫の木のようですな」

書生

秋風を、樫の木に喩えましたか。

隠居

桜が終わると、樫が花を付けるが、花びらを持たない。そんな虚飾のなさも味わいのひとつですな。
で、付合が天理本にあります。

草稿・付合「樫の木の」

  樫の木の、花に構はぬ姿かな。     芭蕉
 
   家する土を、運ぶ燕(つばくら)。    秋風

罫線

芭蕉・秋風、付合 「野ざらし紀行」草稿


◆⑨
 樫の木の花にかまはぬ姿かな  同
  家するつちをはこぶつばくら 秋風

芭蕉、発句「なるほど、桜の花には頓着しませんか。広葉樹でありながら常緑、花は付けるが虚飾の花弁は持たない樫の木。また、時として若葉を朱に染める。まあ、貴殿は堂々とした樫の木のようですな」
秋風、脇「何の。私は巣作りにせっせと土を運ぶツバメのように、ちょこまかとしていますよ」

書生

秋風は、働き者でしたか。

隠居

脇の訳に、詠み手自身のことは入れませんよ、蕉風では。
樫の木が家の近くと定め、「つばくら」を添えたのみです。「せっせと」というのは、貴君の自己投影ですな。

書生

はあ。

隠居

ともあれ、秋風は島原や先斗町にせっせと通う働き者でしたな。うらやましいことです。
一方、従弟の高房は、秋風について、「殊の外成る不行跡者にて、中々商売にかまい申さず、奢りの余り、後は鳴滝に山荘を構へ、それへ引き篭もり、種々の栄耀を極む」と、商いの道を説く「町人考見録」に書いている。

書生

……、若いツバメというオチではなさそう。40歳ではね。
で、「商売に構わず」ですか。

隠居

略歴にも書いたが、28歳のとき、養父の俊次が死に、江戸の2店と千貫目を相続する。これを銀千貫目とし、銀1貫目が17両、1両を少なく見積もって今の10万円とすると、……

書生

おお、17億円!

隠居

これを使い果たして、破産したときには、銀千貫目の借財があったという。

書生

なんと、借財含めて34億円。34年で使うとして、年1億円。1日当たり27万、これは、私の月給より多いではないですか。
なんでまた、こんなことを。もう少し詳しく、是非。

隠居

人のすることに「なんで」の答えはない。少し長くなるが、是非と言われましてはな。
話は慶長年間に遡る。越後守高安が、信長の上洛により越後から松坂に逃亡、その子高俊が武士を廃業し、松坂に店を開く。これが商家三井の始まりですな。
そして、寛永年間初め高俊の長男俊次は、寛永年間初め江戸日本橋本町4に「越後屋」を開く。二男弘重、三男重俊も江戸や松坂で店を開く。

書生

はあ。

隠居

四男高利が、12歳のとき、父高俊が死去。14歳で、江戸の長兄俊次の店に見習いに出る。高利は利発で、めきめき頭角を現し、店を支配するまでになって、自分の店を持つため本町に土地を持つ。高利の商才を高く買っていた俊次だが、これには脅威を感じ、母の看病を理由に、28歳の高利を松坂に帰している。

書生

秋風は?

隠居

秋風は、高利が松坂に帰る年、4歳であったが、父である三男重俊が死去し、伯父である長兄俊次に養育されることになる。
高利の雌伏25年、52歳のとき、果たして、長兄俊次が死去。秋風が店を継ぐ、このとき28歳であった。

書生

高利が松坂に帰ったときと同じ、奇しくも28歳。

隠居

偶々である。
この高利、俊次が亡くなるやいなや、江戸金座(今の日本銀行)の近く、日本橋本町1に店を出す。これが、いわゆる、今の三越。

書生

はあ。

隠居

高利は、普通にやっていたのでは、数多ある老舗、中でも越後屋に敵わぬと、始めたのが店頭販売、現金掛け値なしと反物の切り売り。これに庶民が飛びつき、商売は大繁盛。
さらに得た金を、上方で銀に換え、その差益もすごい。仕入れ値で売っても、儲けが出たという。

書生

で、秋風は?

隠居

それは、分からぬ。少なくとも、主人が俳諧と遊蕩に明け暮れていては、店員の士気は上がらぬ道理。ついには、江戸の2店がつぶれてしまう。
晩年は貧しく、江戸で蝋燭を商ったとも伝わる。

書生

蝋燭を売り、身は爪に火を点すという下げでしょうか。

隠居

いや、身は立ち枯れる。その辞世句、
 此の秋この夕けぶり身は立枯れのみねの松

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伏見

<任口略歴>
任口(にんこう)、別号如羊、法名宝誉。山城伏見、浄土宗油懸山(あぶらかけざん)地蔵院西岸寺(せいがんじ)3世住職。松江重頼門で、談林の長老と慕われる。この年80歳、貞享3年(1686)没、81歳。「俳諧続独吟集(重徳編)」「古今誹諧師手鑑(西鶴編)」入集。

かしの木の花にかまはぬ姿かな (真蹟天理本)

   伏見西岸寺任口上人に逢ふて
 
 我が衣(来ぬ)に、伏見(不死身)の桃の雫せよ。

罫線

鳴滝の山荘2 真蹟「藤田本」 ⑦


  伏見西岸寺任口上人に逢て

 我がきぬにふしみの桃の雫せよ
書生

伏見西岸寺の任口上人に会って、
「やって参りました私の衣に、伏見名産桃の滴を、

隠居

待たれよ。桃の実は初秋である。

書生

あ、……
「やって参りました私の衣に、不老長寿、伏見の桃花の滴を垂らし、ご威徳をおわけください」


桃の花でしたか。

隠居

時に、この一句で、昭和の御代に銘酒「桃の滴」が生まれ、実に祝着。採算を度外視した純米大吟醸は実にふくよかで、天下一品。純米大吟醸以外は、桃の実がラベルに描いてあっていけません。芭蕉の句は晩春、桃の花。中元も近いゆえ、以後留意されたい。

書生

それは、酒造に……

草稿・任口発句「人をあだに」

  私が、直においとましょうと言うのに、
 
人を徒に(婀娜に)、遣らう(野郎)と待つや。江戸桜。 (伏見)任口

罫線任口発句 「野ざらし紀行」草稿
◆⑩  我頓而やがてかへらむと云を
               伏み
 人をあだにやらうと待や江戸桜 任口
書生

では、これにてと、帰ろうとすると、
任口「人をいたずらに差し向けつつ、なまめかしい姿態で、陰間とともに待っていることでしょうな。江戸の桜が」


まさに口任せでしたか。

隠居

80の御ン歳でこそ詠める、洒脱な句。また、口任せに句が出るのが理想で、ひねり出してもろくな句にはならん。

書生

はあ。
任口は、「ニンコウ」ですよね。ネットの旅ガイドでは「ニンク」が多いのですが。

隠居

「ニンコウ」は、「芭蕉紀行文集(岩波)」の振り仮名に従っています。

書生

も一つ。
伏見には西岸寺が二つあって、真宗大谷派西岸寺。任口の資料では、こちらにしているものもあります。住所は、伏見深草、何と読みますか、「直違橋」……

隠居

ああ、「すじかいばし」ですな。
こちらも立派な寺ですが、直違橋は筋違い。
油掛の西岸寺には、文化期建立の芭蕉句碑と、任口の墓がありますからこちらでしょう。
純米大吟醸「桃の滴」の酒造も油掛の近くだから間違いあるまい。

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六条の宿

草稿・三つ物「梅たえて」

六条地図野ざらし紀行天理本所載、「京都、伏見」関連の句の最後に「梅たえて」の付合が載る。
この発句の季から、当然最後に来るべきであるが、どこで興行したか示されていない。
ここでは、天理本の通り伏見の後に配置した。
右図の通り、新玉津島町は六条に近いので、行程上の矛盾はない。

ちなみに、東海道に通じる五条橋は、五条大路ではなく、六条坊門通りに建設された橋である。この五条橋通の南は、六条院・六条内裏跡で、一帯が六条と呼ばれていた。
また、新玉津島神社東の道は烏丸通りで、真っ直ぐ伏見につながる街道である。

<季吟略歴>
北村季吟きぎん、通称北村久助。別号慮庵、呂庵、湖月亭など。貞室・貞徳門。芭蕉の師。京山伏山町の医者。この前年天和3年から新玉津嶋神社の神主。湖春と幕府和歌所に仕える。
芭蕉・素堂の師で、この年62歳。「山の井」「増山の井」「犬千句」「新続犬筑波集」外著多数。宝永2年没、82歳。
<湖春略歴>
北村湖春こしゅん、通称北村休(久)太郎。別号湖長、花果院。季吟の子、正保5年(1648)生。京の歌人・俳人。芭蕉・其角と交流、この年38歳。「続山井」編、「洛陽集」「あら野」「炭俵」入集。元禄10年没、50歳。

 梅絶えて、日永し。桜、今三日。      湖春

  東の窓の虫、桑に付く。          芭蕉

 巣の中に、ツバメの顔の並びゐて。    芭蕉

罫線

湖春・芭蕉、三つ物 「野ざらし紀行」草稿


◆⑪
梅たえて日永し桜いま三日  湖春

  東の
の虫くハにつく  蕉

 巣の中につばめの顔のならびゐて 々

湖春、発句「梅の花は絶えて、春の日永となりました。桜の開花から、今日で三日になりますな」
芭蕉、脇「東の窓にいた虫も、今日はいよいよ桑に付き、今後が楽しみです」
芭蕉、第三「蚕が桑につくように、巣の中にツバメの顔がならんでいまして」

書生

第三も芭蕉でしたか。

隠居

いや、これは両吟の進行ですな。脇以降2句ずつ詠む形。第三までで終わるとしても、湖春は詠めない。長句短句を分け合うしきたりがありますから。

書生

発句の季ですが、桜の開花から三日ということで、調べました。
京都の平年開花日ば、陽暦3月28日です。これを貞享2年に当てはめますと、陰暦2月24日で、三日目は26日ですね。但し、年により開花は数日前後します。

隠居

やや遅めですが、陰暦3月上旬でよしとしましょう。

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資料、千那・尚白との出会い

隠居

実は、大津から千那や尚白が来ていましてな。
「俳人芭蕉(山崎藤吉、俳書堂)」の一節。


 鳴瀧を去りて北村季吟を訪ひ、次いで六條の旅舎に宿る。
 時に僧千那来りて教を受け、尚白青亜もまた謁を執る、千那は近江堅田本福寺の住僧にして、後関東には其角、関西には千那と称へられし斯道の名家なり。
 千梅は、千那が芭蕉の教を受けしことに就きて、次の如く言へり。
「ここに芭蕉の翁、桃青と称して始めて錫を坂西に曳くの候、洛下の旅舎に会して正風の奥義を丁寧に尋正し、即時に向上を悟して既往の俳諧みな倥言(こうげん、愚かな説)なることを知り、忽ち芭師の門に入りて寝食を忘れ、是を錬磨して終に其神精に入り得たり」
と。
 斯かる有様を以て、前後旅中に入門せる者少なからざりき。


季吟は、天和3年(1683)に再建された新玉津島神社の神主となった。以後俳諧をやめたので、湖春が対応したと思われる。新玉津島神社は、五条烏丸の北ですが、今の五条、昔は六条坊門通で、200メートルも離れていません。
湖春と会ったのが、新玉津島神社でなくて、湖春が住む山伏山町の季吟の旧宅であっても構いません。神社の北方、たかだか800メートルほど、四条烏丸の近くである。上の地図、貞享3年のものを参照してありますから、確かめてください。

書生

千那たちは、たまたま六条の旅舎で巡り会いましたか。

隠居

いや、千那たちが、芭蕉を慕って尋ね来たのでしょう。
千那が、江戸の其角に、芭蕉の旅程を尋ねて、待ち受けたのでしょうな。
其角も堅田の出、千那の寺、堅田本福寺の東隣に、父膳所藩典医の屋敷があり、ここを寓居として、時折堅田に帰っていました。
今は其角寓居跡の碑があります。

其角寓居跡
書生

へえ、後の関東・関西の名家は、二人とも堅田ですか。
で、この時は3人の訪問ですね。

隠居

然り、この3人宛の書簡を読まれよ。

資料、貞享2年7月18日付、「千那・尚白・青鴉」宛芭蕉書簡

書生

帰庵後の書簡ですね。では。


      別紙 
坂本にて一宿、早苗に鹿を追ふ声、御なつかしく覚え候ふ。坂本の鹿、いづれの秋にかと存ずるばかりに、御座候ふ。罷り帰り候へば、又いつ上り申すべき様にも御座なく、一入(ひとしお)一入御ゆかしきのみに候ふ。
   下向の比、桑名本統寺御会に
  薄を切つて苫に茨き(ふき)けり
 琵琶負ふて鹿聞きに入る篠(ささ)のくま
   坂本を心の底に置き候ふか ※前の句の注釈
   熱田の会に
  独り書を見る草の戸の内
 二町程西に砧の聞ゆなり
重ねて委細に書き付け、これを進ずべく候ふ
   七月十八日
 千那叟
 尚白士
 青鴉丈 ※青亜


ふむ。鹿を追うと秋になると、なるほど。
坂本で、3人と泊まりましたか。

隠居

そう書いてありますな。
この3人の略歴を置いておきます。

堅田の本福寺

<千那略歴>
三上千那(せんな)、号宮山子、蒲萄坊(ふとうぼう、「葡」でない)。堅田本福寺及び大津本福寺10世住職。京都談林の高政に師事。この年芭蕉に会い、千那と改号、35歳。近江蕉門を形成に貢献。「白馬紀行」著。享保8年没、73歳。
<尚白略歴>
江左尚白(しょうはく)、本姓塩川。字三益。別号木翁、芳斎。大津枡屋町(現浜大津)の医師。不卜門。この年芭蕉に会い、師事、36歳。近江蕉門古老として活躍。「孤松(ひとつまつ)」編著。享保7年没、73歳。
<青亜略歴>
青亜(せいあ)、名は玄甫、別号青鴉。大津の僧。この年、芭蕉に入門するが、2年後の貞享4年(1687)没、生年不詳。「孤松」入集。

書生

青亜は、早く亡くなりましたね。
「俳人芭蕉」にある千梅は?

隠居

この年、まだ生まれてもいない。千那門で著作が多く、芭蕉五十年忌のものもある。そのどれかは知らぬが、著作からの引用ですな。

書生

「俳人芭蕉」の記述から分かることを整理します。
・芭蕉は、鳴滝から伏見へ行く途中季吟を訪れた。
・季吟は、その2年前新玉津島神社に移り、俳諧をやめていて、湖春と両吟の三つ物を巻いた。
・その新玉津島神社にほど近い六条の宿で、大津の3人に会った。
・その大津の3人が千那・尚白・青亜であることは、芭蕉書簡で確認できる。
さらにその書簡から、3人と大津坂本に一宿したと分かる。

隠居

こうして整理してみると、この3人との邂逅が偶然ではなく必然であったことが分かりますな。
六条の宿に何日逗留したかは分からぬが、せいぜい1,2日でしょう。
世の「野ざらし」の解説書は、あいまいで、大津で出会うとされるのが一般的じゃが、「俳人芭蕉」を読んで、まさに目から鱗。
其角と交流のあった大津の俳人が、芭蕉に会いたいと思い、芭蕉上洛の報を得、六条に宿り、季吟亭で待ち受ける。そういうことです。
ただ、「六条の旅宿」の典拠が示されておらぬのが残念ではあるが、これで、辛崎の句の謎も解ける。
では、大津へ参る。

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大津

 しかれ共、山路きてのすみれ、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべけれ。

<素堂序> 

やまぢきて何やらゆかしすみれ草 (真蹟天理本)

  京から大津に至る道中、山路を越えて
 
 山路来て、何やらゆかし。すみれ草。

罫線

すみれ草 真蹟「藤田本」


  大津に至る道、山路を越えて

 山路来て何やらゆかしすみれ草
書生

東海道を山科から外れ、小関峠を越え、大津に出る山路で、
「山路に、人知れずスミレが咲いている。ただ可憐な花であるが、何やら心ひかれることだ」


小関峠ですか。逢坂越えの東海道ではありませんね。

隠居

然り。小関越え、またの名を「三井寺観音道」と言って、京阪から三井寺への近道で、千那の大津本福寺のある東今颪町、尚白の住む大津枡屋町に出る。

書生

なるほど。芭蕉は、千那亭か尚白亭を目指しましたか。伏見の後に立ち寄る約束ができていたんですね。

隠居

経路はこれで、解明できました。しかし、大きな謎がありましてな。
「路通が、大津の松本で徒然草を読む」という。

書生

何ですか、そりゃ。路通は有名ですから分かりますが。
大津・松本・徒然草、これが分かりません。

隠居

然らば、これを読まれよ。

資料、元禄元年12月5日付、「尚白」宛芭蕉書簡

書生

「元禄元年」って、4年後ですね。


 襟巻に首引き入れて冬の月       杉風
 火桶抱いておとがい臍をかくしけり   路通
此の作者は、松本にてつれづれよみたる狂隠者、今我が隣庵に有り。俳作、妙を得たり。

 雪ごとにうつばりゆがむ住ゐ哉     苔翠
 冬篭り又依りそはん此のはしら     愚句
 菊鶏頭切り尽くしけりおめいこう    愚句
句はあしく候へ共、五十年来人の見出でぬ季節、愚老が拙き口にかかり、若し上人真霊あらば我名をしれとぞわらひ候ふ。此の冬は物むつかしく、句も出でず候ふ。以上
  極月五日               芭蕉子
尚白様

路通は芭蕉の隣に引っ越しましたか。

隠居

路通は芭蕉に教えを請うため、笈の小文、更科紀行の旅から帰る芭蕉を待ち、貞享5年8月下旬念願を果たした。9月30日元禄に改元、その歳末の5日付である。

書生

と、「大津の松本で徒然草を読んでいた」ことは、尚白も知っていたが、誰とは知らなかった。
「あの狂隠者」で、尚白に通じるということ。

隠居

左様、狂隠者という共通認識。「あのとき」とは、芭蕉が、
1 貞享2年3月、野ざらし紀行の旅で、伏見から大津へ行ったこのとき。
2 貞享5年5月下旬から6月5日まで、笈の小文の旅を終え、岐阜から来て逗留し、岐阜へ行くとき。
この2回に限定されるが、「2」ならば、「狂隠者」でなく、「蛭が小嶋の桑門」「弟子の路通」など、別の表現で大津の門人に紹介しているはずである。

書生

「蛭が小嶋の桑門」って、路通なんですか。

隠居

そう、貞享2年4月、熱田に路通が登場する。これは、次回の講読に任せ、路通との邂逅を見ておく。
これは、話半分どころか話九分九厘創作、建部綾足(涼袋)の「芭蕉翁頭陀物語」の話で、先に言った「2」を前提に書かれている。先ずは、そのあらまし。


芭蕉は、松陰で憩いつつ、乞食僧の昼寝を眺めて、
 昼顔に昼寝せうもの床の山
と詠んだが、その僧、目を開けたり閉じたりしつつ、鼾をかいている。芭蕉が昼げの飯を与えると、
 露となる浮き世を旅のままならば いづこも草の枕ならまし
と、和歌を上手な字で書いた。
芭蕉は感心し、「汝に路通という名を与へん。汝に我が頭陀を隠すことなし」と言って、弟子にした。


この物語は長いが、天生目杜南(あまなめとなん)が、「評伝芭蕉」の中で要約し、紹介しているので、読んでみられよ。

書生

話は分かりましたが、一応、


    路通を救ふ
一年(ひととせ)草津守山を過ぎて、琵琶の海近く、比良の峰颪薫り来り、並樹の古葉散りて、蝉の声四辺(あたり)を去らざる、最と(いと)涼しき處に休らひけるに、色白き乞食、草枕涼しく、菰を蹴り除き、古びたる高麗の茶碗に瓜皮拾ひ入れ、破扇を以て蝿を払ひつつ側に横臥せり。怪しきままに差し覗けば、眼を開閉す。然かもまた忽ち雷の如き鼾声を発す。稍々(やや)ありて、この男夢醒めたりけん。起き上がりて独り微笑す。
芭蕉近寄りて身上を問へば、男笑って曰く、主君の財を費すものは、剣の下に眼を塞ぎ、親の賓を費やす者は、松原に袖を乞ふと、我は即ち其の袖を乞ふの也。芭蕉ここに於て、荷なへる昼餐を開きて曰く、この飯色白く、味美なるも、人の恵む処なり、されば我もまた乞食なり。例へば柔かなる褥に夢見、濃なる衣に身を包むも、元より我物にあらざるを知らば、この松か根も、担げる菰も相等し。只舊を知ると知らざると、現実なると、仮想なるとの差のみ、是れを迷悟の義と云ふべきか。汝若し我に従はば、茶碗を旅篭屋の膳に代へ、菰を仮着の小袖に代へ、廓の夢を風雅に代へて、老の杖を助けなば、楽またその中にあらむと。男頷きて、その昼餐を給はらんと、直ちに清水に浸して喰ひ、頭を叩へて曰く、誠にこの飯、五味を欺き、咽喉(のんど)に甘露を通すが如し。実に雪の日は寒くとも、美味は美味に相違なし、今日より御坊に従はん。我昔三十一文字を好みてこれを知る、御坊笑ひ給ふ勿れとて、失立を借り扇を取りて
  露と見る浮き世を旅の儘ならば
      いつこも草の枕ならまし
と記す。筆跡最と拙なからず。芭蕉依つて路通の名を与へて、門弟となせり。


まるで、伝説・神話のようですが、信ずべき点は、
・芭蕉が乞食僧に興味を持って、話し掛けて弟子にした。
ということでしょうか。

隠居

大津近くの山道であることや路通の和歌もよいではないかな。

書生

あ、「咽喉に甘露を通す」、だから「露通」じゃないですか。

隠居

路通の略歴は、次回載せるが、……、おお、別号に露通があるな。うむ、でかした。

書生

はい、まとめますと、
・大津への途次、路通と邂逅し弟子にした。
・路通は、大津松本で徒然草を読み、尚白もそれを知っていた。
で、よろしいですね。

隠居

よい。では、素堂がこの吟行の秀逸と言った「すみれ草句」について、去来抄を読みますか。

資料、「去来抄 同門評」から

書生

  山路きて何やらゆかし菫草   芭蕉
湖春曰く、
「菫は山に詠まず。芭蕉翁俳諧に巧(たくみ)なりと云へども、歌学なきの過ち也」
去来曰く、
「山路に菫を詠みたる證歌多し」
湖春は地下(じげ)の歌道者也。いかでかくは難じられけん、おぼつかなし。


「山」に「すみれ」は、詠みませんか。

隠居

 春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野を懐かしみ一夜寝にける 万葉、山辺赤人
 山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり  万葉、高田女王
 あとたえて淺茅しげれる庭の面に誰分け入りて菫つみけむ   山家集、西行

野か庭かですな。
「俳人芭蕉」に、
 はこね山うす紫のつぼすみれ二しほ三しほ誰かそめけむ   夫木抄、 大江匡房
を挙げる。ほかにもないわけではなかろうが、去来も湖春と同じ姿勢で反論したのは残念ですな。しかも、湖春は元禄2年幕府歌学所に召されるほど、和歌の大御所。宮中でないにせよ、もはや地下とは呼べまい。

書生

伝統は守るだけでなく、創っていくものだとでも言えばよかったのに、残念。
ん?……

隠居

いかがなされた?

書生

ご、ご隠居……、すみれは路通です
寝ている僧に興味を持って、声を掛けています。「なにやらゆかし」そのものです。
伝統的にすみれは乙女子の比喩でしょうが、芭蕉は伝統を超えていたわけです。

隠居

むくつけき僧がすみれ?
次へ参る。


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辛崎

辛崎の松は花よりおぼろにて (真蹟天理本)

   湖水の眺望
 
 辛崎の松は、花より朧にて。

罫線辛崎の松 真蹟「藤田本」

  湖水の眺望

 辛崎の松は花より朧にて

書生

湖水の景を、遠く眺めて、
「志賀の辛崎、堂々とした由緒あるこの一つ松は、折しも咲く花よりも今宵は薄くかすみ、朧というににつかわしいものでして」


「にて」の訳が難しいですね。

隠居

この「にて」は、「城之崎にて」の「にて」のように、場所・時刻をしめすような格助詞でなく。断定の助動詞「なり」の連用形に接続助詞「て」が付いたもの。そんな訳になるでしょう。
「朧なり」と断定し、「て」で叙述の中止を避ける形かな。
この句、千那の脇があります。

資料、付合「辛崎の」

 辛崎の松は、花より朧にて。     芭蕉

  山は、さくらを霑る(しおる)春雨。 千那

罫線

芭蕉・千那、付合 「鎌倉海道」千梅編


 辛崎の松は花より朧にて  翁

  山はさくらをしほる春雨 千那

書生

芭蕉、発句「志賀の辛崎、堂々とした由緒あるこの一つ松は、折しも咲く花よりも今宵は薄くかすみ、朧というににつかわしいものである」
千那、脇「比叡山では、満開の桜を、春雨が湿らせている」


「しほる」は「霑る」、「濡らす」がいいかと。

隠居

然り。「しほる」ですからな。「しぼる」とか「しをる」とか書く御仁もおられるが、桜を絞ったりできんし、枝折ったりしてはいかん。「撓る・萎る・責る」でもない。皆「しをる」と書く。「しほる」は「霑る」の一択。

書生

それにしても、発句に「花」があって、「桜」を付けますか。

隠居

うむ。
「俳諧有也無也關うやむやのせき」に、ありましてな。

書生

芭蕉の伝書?ぜひ。


<花にさくら付句の事>
   ┌ 唐崎の松は花よりおぼろにて
   └  山はさくらをしほるはる雨

右花に桜付る事、前よそをひの花、花聟、花嫁、花かつを等ならば、家桜、山桜の類をつくれども、正花の時は、桜貝、桜鯛、桜人など、と作する也、桜に花も亦同じ。


ふむふむ。
一般論だけで、この付合について、何ら記述がありません。
もう少し読みます。


<雑の花の事>
   ┌ かひらぎの鮫は花より見事にて
   └  行列といふものはなにやら

右雑の花は、秋移りなどにあるべき事なり、歌仙に八句目より、月秋を句作るときは、十一句目の花、春に及びがたし、さるは冬季をまたぬ故也、其巻には雑の句花を出し、花より三句去て、素春をする事習なり、雑の花とは異名なり、又は花嫁、花聟も、称美の言葉なれば、皆是雑正花なり、春を付行く時は、みたて花と云ふ。
 ※ かいらぎ、梅花皮・鰄、堅い粒状の突起のある魚皮。サメやエイの背皮。刀剣の鞘・柄の装飾用。


辛崎句のパロディーが例句ですか。
かひらぎ句の花が雑なら、正花ではありませんね。辛崎句の花については、記述がありませんよ。
どうなんでしょう。

隠居

「幻住庵俳諧有也無也関」は、伝書の一つ。巻頭に芭蕉の文、巻末に幻住庵三世在判という、いわゆる珍書。
 蕉門の句を挙げており、蕉風俳諧を探る手掛かりにはなりますから、一覧するとよいでしょう。
 「翁相伝有也無也之関」と「幻住庵本」とを比べつつ整理してありますから、暇なときに。
 この句については、「貞享式海印録」を見せるべきでしたな。
[本書]は、「貞享式」とか「二十五箇条」とか題する別の伝書の引用。▲印が、著者の言なので、読み分けてくだされ。

有耶無耶之関、五花の口訣

貞享式海印録、花に桜を付け……

二十五箇条、花に桜をつくる事

書生

では、貞享式海印録を。


△花に桜を付け、桜に花を付くる曲節。
[本書]
 古へより、花に桜を付くる事、伝授ありとて、初心には許さず。或ひは、桜鯛の類など、前句の花にあらざる桜ならば、明かにつくべき也。但し、花は桜にあらず、桜にあらざるにあらずといふ事、我家の伝授也。(約文)

     噂│辛崎の松は花より朧にて  翁
      └ 山は桜をしほる春雨   千那 ※「鎌倉海道」

 伝に曰く、「さゞ波や真野の入江に駒とめてひらの高根の花を見る哉(※ 近江路やまのの浜べに駒とめて比良の高ねの花をみるかな 続新古今、源頼政)」と、遠く眺めたるよりも、「辛崎の松は朧にて」面白からむと、疑の詞をもて決せぬ所、此句の妙所也。
 脇は「さゞ波やしがの都はあれにしを昔しながらの山桜哉(※千載集、平忠度。昔ながら-長等の山-山桜)」とよみし、其辺りの風景を対し、辛崎の松を「花より」といへるに、山には雨の桜といへる。花と桜の別様をしれとぞ。
▲ 発句の花は噂にて、姿なけれども、花よりと云ふは、桜を見ていふ詞と見立、朧と云ふは、夜の雨の体と見て、雨の桜に辛崎の景を定めたり。


発句の「花」が「噂」というのは、そこに花はないということですね。初心でなければ、花に桜を付けられるということが分かりました。

隠居

そう書いてありますがな、花に桜を付ける例にはできません。
 千那の弟子に千梅がいることは、既にふれましたな。千梅の「鎌倉海道」、原本なのでわしが読みましょう。


      辛崎の松は花より朧にて    翁
       山はさくらをしほる春雨   千那

 此発句ハ世人知ル翁の吟なり。湖水の眺望を詠せられし蒲萄坊ふとうぼうにての句なり。
 去比或ル集に此句の事を記す。湖南尚白亭にての吟と云ヘリ。大キに非也。まさに此脇の句証拠なり。されば此句に脇ある事、蕉門俳諧師しらぬも、残おほし。よつて是を記ス。
 此句はじめハ「松ハ小町が身の朧」とも申されしが、師弟鍛錬の後、「花より朧」にハ極りぬる。
 且「此脇の句、花に桜大秘伝也」、ちかき比、人の語リけるハ、伊勢ノ国のあたりにて、辛崎伝授とて専ら沙汰し侍る事在。慥に是等の事ならんと云り。此発句脇の事ならバ、習ふ人必御無用たるべし。外人の知る事に非ず。


と、まあ、この付合は、
      辛崎の松は小町が身の朧    翁
       山はさくらをしほる春雨   千那

であったと、分かりますな。

書生

おや、私の疑問、答えがあるではありませんか。
小町でしたか。検索すると、逢坂越え東海道大谷の月心寺、境内に小野小町の百歳像、終焉を迎えた百歳堂があると。
「小町が身の朧」、これに千那が桜で付けたのであれば、納得です。
でも、松が小町なんですか。

隠居

いかにも、松は小町であるな。
♪松風も~匂ひ~枕に花散りて~それと~~ばかりに白雲の~色香~おもしろきイ~けしきかなア~北に出づれば湖の~志賀辛崎のオ~一つ松は~ア~身の類なるものをオ~東に向へば♪

書生

うう。

隠居

いかがなされた。か様に、「松は身」とある。鸚鵡小町です。
さて、千梅は、「或る集に此句の事を記す。湖南尚白亭にての吟と云ヘリ。大きに非也」と言っていましたな。
この「或る集」とは、元禄4(1691)年出版、其角の「雑談集」で、「大津尚白亭にて 辛崎の松は花より朧にて」とあります。また、其角は本堅田出身ですから、世間は「尚白亭」での吟と思い込みますな。

書生

で、尚白亭ではないと。

隠居

そう。其角は千那の脇を知らなかったのでしょうな。

書生

で、「この脇の句証拠なり」と。
では、どこで詠んだのでしょう。

隠居

「湖水の眺望を詠せられし蒲萄坊にての句なり」とありましたな。

書生

蒲萄坊は、千那の別号でしたね。この場合、千那の寺を指しますが、大津本福寺と堅田本福寺のいずれか示されていません。
まあ、旅程上、堅田に行ったと思われませんから、大津のほうということになります。

隠居

付合をした場所と句を得た場所は、別ですな。

書生

付合は大津本福寺。句を得た場所、即ち辛崎の松を眺めた場所は、唐崎。
貞享2年7月の書簡で、大津坂本に一宿したのは明らかで、唐崎も経由しますからね。

隠居

大津本福寺辺りの湖岸からも、唐崎は見えましょう。「湖水の眺望」という詞書きにも合いますな。

書生

かつてご隠居に、「春のぼやけた景は、昼は霞、夜は朧という」と教わりました。
陰暦13日前後で宵に月が出たにせよ、5キロ北の唐崎の一本松が見えようはずがありません。松並木や松林ならまだしも、巨木と言えど一本松。見えるのは朧だけ。

隠居

あい分かり申した。
唐崎の松を見、坂本に泊まり、鹿追の声を聞き、大津本福寺で句会をしたでよいではないかな。

書生

まあ、そうですね。
では、大津に二日逗留、その間路通は大津松本の某所で、徒然なるままに日暮らし徒然草を読んでいたということで。

隠居

それでよかろう。
この初案「小町が身の朧」が「花より朧にて」に推敲され、千那らに伝えられるのは、芭蕉帰庵後5月12付の書簡です。
で、この句評が、去来抄にありましてな。

資料、「去来抄 先師評」から

書生

 辛崎の松は花より朧にて   芭蕉
伏見の作者、にて留めの難有り。
其角曰く、「にては哉にかよふ。この故に哉どめの発句に、にて留めの第三を嫌ふ。哉といへば、句切迫せばしくなれば、にてとは侍る也」
呂丸曰く、「にて留めの事は已に其角が解有り。又此れは第三の句也。いかで発句とはなし給ふや」
去来曰く、「これは、即興感偶にて、発句たる事うたがひなし。第三は句案に渡る。もし句案に渡らば第二等にくだらん」
先師重ねて曰く、「角・来が弁、皆理屈なり。我はただ花より松の朧にて、面白かりしのみ」
と也。


「にて」は、「かな」に似通うということで、其角の弁は理屈とは思えませんが。

隠居

解釈をした時点で、既に理屈ですな。去来も同じ、呂丸は先入観。

書生

私としては、
 辛崎の松は小町が身の朧
こちらのほうが気に入りましたが。

隠居

百歳になんなんとす朧小町が、お気に召したか。
天智天皇お手植えの松が枯れたため、天正18年(1590)新庄直頼が植え替え、元禄の頃には既に7間四方に生い茂っていたと「俳人芭蕉」に出ていましてな、この松も百歳近くで、その話を聞いた芭蕉は小町を詠み込んだのでしょうな。

書生

朧小町、……
時に、ご隠居。「辛崎句の謎」とかおっしゃいましたね。

隠居

解けたな。「だれとどこで松を見、どこで詠んだか」という謎。

書生

はい。
「坂本で一宿」ですから、大津の3人と唐崎に行き、近景として見ています。詞書きの「湖水の眺望」は、「湖水を背景として」と解せます。
千那亭大津本福寺に戻って詠んだことも分かりました。初案の句、
 辛崎の松は小町が身の朧
千那の脇、
 山はさくらをしほる春雨
これは、まさに「小町」の句に付けたもので、「花より朧」の句ではありませんでした。

隠居

実は、「のちに千那がなすあらん」という者もいてな。後なら「花より朧」に付けるから、この脇にはならない。この脇はこの時しか詠めん。

書生

謎は解明できたと。

隠居

爽快である。
さて、芭蕉は、大津から守口・石部・水口を経て、東海道を鈴鹿越え。
水口までに2句、「泊船集」に載る。

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石部~水口

つゝじいけて其の陰に干鱈さく女

 昼げの休憩にと、旅篭の店先に腰を掛けて、
 
  躑躅生けて、その陰に、干鱈割く女。

罫線

干鱈さく女 「泊船集」風国編


  昼の休らひ迚旅店に腰を懸て

 つゝじいけて其陰に干鱈さく女
書生

石部宿で昼の休憩として、茶など所望して眺めると、、
「躑躅が生けてある、その陰に、水に浸した干鱈を割く女がいる」


今度は、西行でなくとも詠みましたか。

line
隠居

そういえば、「女」と詠んだ句は、4句ありますが、内2句が野ざらしの旅ですな。残り2句は、延宝期。
干鱈は、最近食べませんな。昔の内陸では、貴重なタンパク源、冬に作られ春に出荷、保存食だから通年食べられていましたな。
次も泊船集。

菜畠に花見貌なる雀哉

 道を行きながら句を詠む、
 
  菜畑に、花見顔なる雀かな。

罫線菜畑 「泊船集」風国編
  吟行

 菜畠に花見貌なる雀かな
書生

昼下がり、水口への街道を吟行、
「菜畑の続くのどかな街道、雀たちは春の到来に欣喜雀躍、花見で盛り上がっているかのようだ」


小動物を詠む芭蕉句は、いいですね。
吟行は、一人ではないでしょう。

line
隠居

当時の「吟行」の意味はどうであろうか。わしは知らぬ。
路通が荷を引き受けて、同行した可能性はありますな。

書生

この時の路通句があれば解決ですね。

隠居

あればな。
この街道を行くと、東海道十三渡の一つ、「横田渡」。野洲川を渡れば水口である。
渡し舟を下りると、若い武士がこちらを見つめ、駆け寄ってくる。
「宗房様。お師匠様、私で御座います。木津の、」
「おお、保英殿か。立派になられたのう。」
「今は、養子に出、服部半左右衛門と申します。伊賀に戻りましたところ、京にお出ましと聞き、矢も立てもたまらず東海道に出たばかり。かくも早く適うとは。ささ、お荷物は私めが」
「忝うござる。この芦辺の道、荷を運んでくださるか。然らば、芦馬の号を与えよう」

書生

「二十年を経て故人に逢ふ」ですね。

隠居

あの9歳で門下となった少年の瞳、一目で分かったな。
この「蕉翁全伝」、読んでみますか。


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資料、「蕉翁全伝」土芳著、曰人写

いのちふたつのなかにいきたる桜かな (真蹟天理本)

 水口にて、二十年を経て故人に会ふ。
 
 命二つの中に生きたる桜かな。

罫線

故人に逢ふ 真蹟「藤田本」


  水口にて二十年を経て、故人にあふ

 命二つの中に生たる桜哉

命二ツ中に生たるさくら哉 (蕉翁全伝、土芳編)
隠居

芭蕉は、19の年、寛文2年(1662)藤堂新七郎家嗣子良忠、所謂蝉吟公に出仕。先輩自笑とともに、俳諧のお相手をした。
9歳の土芳は、その3年後、宗房と名のったばかりの芭蕉に俳諧を教わりだしたのだが、翌年蝉吟公が逝去。以後芭蕉は伊賀上野を去る。

書生

あの土芳でしたか。

隠居

再開の様子は、土芳の記録に詳しい。

<土芳略歴>
服部土芳(どほう・とほう)、通称半左右衛門、旧姓木津、名保英、旧号芦馬。槍術家で伊賀上野藩士。この年29歳だが、30歳で致仕、以後俳諧に専念。1688些中庵を結ぶが、芭蕉に蓑虫の画賛を贈られ、蓑虫庵に改称。翌年土芳に改号。「三冊子」著、「蓑虫庵集」、「蕉翁句集」「蕉翁文集」編。享保15年没、74歳。

 命二つ、中に生きたる桜かな。

これは、水口にて土芳に賜る句なり。
土芳、この年は播磨にありて、帰るころは、早この里(伊賀上野)を出でられ侍る。
尚、跡を慕ひ、水口越しに京へ上るに、横田川(野洲川の渡し場辺りを横田川と呼ぶ)にて、思はず行き逢ひ、水口の駅うまやに、一夜昔を語りし夜のことなり。
明の日より、中村柳軒という医医者の下に招かれて、またこの句を出だし、「二十年来の旧友二人ニ[同じ句で]挨拶したり」と笑はれ侍る。
蓮花寺という寺に、折節伊賀の大仙寺の岳淵あり。各昼夜、四、五日談じて、発句あり、歌仙あり。
また、多賀何某といふ老医、翁に旧き因よしみあり、もてはやしもてなしあり。
これより名古屋へ出でられしなり。

罫線

故人に逢ふ 「蕉翁全伝」土芳編、曰人あつじん


 命二ツ中に生たるさくら哉

是ハ、水口ニテ土芳ニ玉ル句也。
土芳、此年ハ播广ニ有テ、帰ル比ハ、はや此里ヲ出ラレ侍る。
ナホ跡ヲシタヒ、水口越ニ京へ登ルニ、横田川ニテ思ハス行逢ヒ、水口の駅に一夜昔ヲ語シ夜ノ事也。
明の日ヨリ中村栁軒ト云醫ノモトニ招レテ、又此句ヲ出シ、廿年来ノ旧友二人挨拶シタリト笑ワレ侍る。
蓮花寺ト云フ寺ニ、折フシ伊賀ノ大仙寺ノ嶽渕あり。
各昼夜四五日談じテ発句アリ、哥仙有。
又、多賀何某ト云老醫、翁ニ旧キ因ヨシミ有、モテハヤシ有。
是ヨリナゴヤヘ出ラレシ也。

書生

芭蕉が伊賀上野を去ったのは、寛文6(1666)年で、水口の再会が貞享2(1685)年です。足掛け20年か。なるほど。
中村柳軒も20年ぶり、たまたま来ていた伊賀の岳淵、多賀某も20年ぶりの再開なんでしょうね。

隠居

おそらく、蝉吟公の句会で交流していたのでしょうな。中には、少年土芳もいるでしょう。
3年後の貞享5年3月中旬、「笈の小文」の旅、蝉吟の屋敷(子息探丸亭)での句。
 さまざまのこと思ひ出す桜哉
これと併せて味わうとよいでしょう。
 命二つの中に生たる桜哉

書生

「折しも桜の時期ですが、命あって再開した、私とあなたの心の中には、蝉吟亭の花が今もさいておりますね」
そして、3年後の「さまざまのこと」には、この水口の再開のことも含まれていることでしょう。
時に、蓮華寺で、「発句あり。歌仙あり」とありますが。

隠居所謂葭の髄、管見に入りませんな。
書生はあ、なるほど。
隠居

それとな、東海道の鈴鹿越え、
 ほつしんの初にこゆる鈴鹿山
これは、「猿蓑、梅若菜の巻」初ウ3の芭蕉句。元禄4年1月上旬の作だが、西行の俤でつけています。
  世をのがれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて
 鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて いかになりゆくわが身なるらむ 西行
西行23歳の歌を、浮かべつつ歩く道で、土芳と邂逅しますから、「いのちなりけり」という西行歌が、脳裏をよぎり、二人共々の「いのちなりけり」と、句が生まれるのも自然な流れでしょうな。

書生

はあ、「また逢うべきと思いきや」でしたか。
この資料、旅程表つくりに、大いに参考になります。「四、五日談じて」のところです。

隠居

それとな、土芳と「一夜昔語り」の一日があります。「多賀何某のもてはやし」はいれるかどうか、微妙ですな。
さて、次回は、いよいよ「熱田」です。

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資料、「柿衛文庫」発表資料

酒の闇寒し春の夜千鳥哉 百則/朧の柳窓の二百歩 岳淵/三股の桜にのぼる人有て 芭蕉

 平成28(2016)年6月3日、「『柿衛(かきもり)文庫』は3日までに、江戸時代の俳人、松尾芭蕉(1644~94年)の直筆の句や絵、手紙など計16点が見つかったと発表した。〔共同〕」と、報道された。
右は、産経フォトが紹介した3点の写真の内1点から読み取ったもの。

① 2月下旬~3月上旬、京鳴滝か玉津島での付合。
② 3月14日頃、大津にての吟。
③ 3月15日頃、石部での吟。
④ 同日、横田の渡しで土芳と出会う、及び翌日中村柳軒に招かれて、二度の吟。
⑤ 3月17日頃から、水口山蓮華寺に4、5日逗留して。ここに、伊賀上野の大仙寺岳淵が来ていた。

※ ①②④は、「野ざらし紀行」に、②③④は「泊船集」出る。

罫線

京~大津~石部~水口 芭蕉真蹟


① 梅絶て日永し桜今三日   湖春
   東の窓の蠶むし桑につく  桃青
  巣の中に燕の顔のならびゐて 同
②   大津
  唐崎の松は花より朧にて  愚句
③   旅店即興
  躑躅生て其陰に干鱈サク女
④   水口にて
    歴二十年会故人
  命二つの中に活たる桜哉
⑤   夜千鳥鳴ければ、主人
  酒の闇寒し春の夜千鳥哉  百則
   朧の柳窓の二百歩    大仙寺
  三股の桜にのぼる人有て  愚句

⑤が今回初めて、世に出たものである。
これは、「蕉翁全伝」に「蓮花寺ト云寺ニ、折フシ伊賀ノ大仙寺ノ嶽渕あり。各昼夜四五日談しテ発句アリ、哥仙有」とある中の「歌仙」と思われる。
今回の柿衞文庫の公開により、「歌仙」の冒頭三句が、分かった。
 発句 酒の闇寒し春の夜千鳥哉  百則
 脇   朧の柳窓の二百歩    岳淵
 第三 三股の桜にのぼる人有て  芭蕉
「百則」が蓮華寺の「主人」であろう。
これが、蓮華寺での興行であることに、疑念を差し挟む余地はないが、土芳の句がないのは残念である。
芭蕉は「三つ物」にこだわることなく、連衆が4人であれば「四句物」としている。
土芳は参加していなかったのであろうか。
あるいは、この書き物の成立に関係するのであろうか。
この書き物は、「野ざらし紀行」の途次のものではなく、「野ざらし紀行」成立後のものであることは、明らかである。
② 初案 貞享2年3月14日頃  辛崎の松は小町が身の朧 「鎌倉海道」
  改案 貞享2年5月12日書簡 辛崎の松は花より朧にて 「野ざらし紀行」
 ※ 「花より朧にて」は、これより後の形である。また、「からさき」を「辛崎」とする。
④ 初案 命二ツ中に生たるさくら哉 「蕉翁全伝」
  改案 命二つの中に生たる桜哉  「野ざらし紀行」
 ※ 「いきたる」を「生たる」とする。

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野ざらし紀行、講読の振返り
lineline
奈良・京・大津・水口
書生

この間、旅程表の日付は、3月末の書簡から遡ることで、入れられました。

隠居

よく入れられたものですな。
1月からの竹内滞在も、仮説であるし。

書生

竹内滞在は、「こうあって差し支えない」という消極的な仮説でなく、「春なれや句」、「半残宛書簡」、竹内滞在の2句を合理的に説明する積極的なものです。
私は、この講読の成果と思います。
二月堂修二会の見学は、2月12日で、問題ないでしょう。
その後の、秋風亭滞在ですが、26日間もあります。その間の動向が気になります。

隠居

なるほど、長い滞在。京都では、桜の満開を迎える時期にあたります。
この頃、去来が入門しているはずだし、去来は秋風の別荘を譲り受けたという話もある。
去来を軸に、調べると何かが、見えてくることでしょう。

書生

千那が、宗因亭近くの六条で、芭蕉を待ち受けた話は新鮮でした。大津へ来た芭蕉と巡り会ったかと想像していましたから。

隠居

路通とは邂逅、千那とは出会いじゃ。ボルノウが言うではないか、
 山と山とは出会わねど 人と人とは出会うなりけり

書生

ん?船と灯台では、……

隠居

千那が動いたから会えたわけです。
路通とは巡り会ったが、出会ってはいませんな。杜南の「評伝芭蕉」にある頭陀物語の抄訳、題は「路通を救う」である。救ったのはその才能ですかな。

書生

「なにやらゆかし」と救いましたか。

隠居

いやそれは、……

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