笈の小文 版行序文

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笈の小文 序文 索引
原文版行序文講読笈・小文とは?序文
資料まとめたのは誰か?乙州にだけ授けたのは?
蕉門十哲、乙州は入るか?蕉門三十六俳仙、乙州は入るか?
三十六俳仙図の謎砂石子とは?俳諧の形式
まとめ講読の振返り凡例「笈の小文」講読ページ解説・凡例

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序文


 俳諧好きで暇な隠居と、書生が、笈の小文を読みました。

 笈の小文は、芭蕉が、「忘れぬ処々、跡(あと=後)や先やと書き集め」たものを、「ただ乙州(おとくに)にのみ授見」させたものとあり、芭蕉没後13年に乙州が編集したものです。

 このページでは、版行序文を読み、蕉門俳人について調べ、本文講読の準備をしています。


笈の小文

版行序文(砂石子序)

段落区分備考

版行

序文

見出 笈之小文  風羅坊芭蕉

本文

① 風羅坊芭蕉桃青と聞えしは、今此道の達人なり。其門葉日々に茂り月々に盛なり。門葉推て翁と耳いへば、皆芭蕉翁なることを知れり。是江戸深川の庵室に閑居せしむる時、手づから芭蕉を植置レたりし故成べし。

② 此翁上かた行脚せられし時道すからの小記を集て、これをなづけて笈のこぶみといふ。積て漸浩瀚となる。昼夜に是を翫て、花に戯ては歌仙の色をまし、月にうつしては四十四百韻の色をます。

③ 爾来門葉多しといへども、唯乙州にのみ授見せしむ。乙州其群弟と共にせざることをなげき、今般梓にちりばめて世伝を広ふせんと欲して、物すといへども、俄に病に遇て息ぬ。暫愈日を俟といふなる。

↓ 「序文の読み」へ

筆者④ 江州大津松本之隠士 観桂堂砂石子

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日付⑤ 宝永四丁亥年春 乙州之因慇求不得止染筆畢

「笈の小文」版行序文
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「笈・小文」とは?

書生 「笈の小文」を読みたいので、お願いします。
隠居 「笈」、「小文」とは、何かな?
書生 「笈」は「おい」と読みますから、「負い」。背負うものだと思います。
辞書に、「背に負う物の意」とあります。「修験者などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱」です。
隠居 小文こぶみは?
書生

小文は、文字通り小さな文でしょう。短い文章でしょうか。
……、辞書には、

「書状の形式の一。鳥の子・杉原紙(すぎはらがみ)などを半分に切り、一方に文を書き、残りを上巻きに用いる」

とあります。
小文を「しょうぶん」と読むと、「 自分の文章をへりくだっていう語」です。これは、違いますね。

隠居 書状の小文のように、懐紙か何かに書いたものなんじゃな。
書生懐紙というと、小さいですね。
隠居現代のお茶席の懐紙は、小さいが、そんなに小さくはない。
昔の懐紙は、横1尺6寸・縦1尺2寸、(48センチ×36センチ)、大体B4の紙2枚分。これを、細長く二つに折り、それをまた折って、使う。B5判程度になる。
書生俳諧の記録も懐紙でしたね。
隠居そう、懐紙式。
で、「笈の小文」は……
書生 「笈の小文」は、「旅で背負う箱に入れて持ち歩いた、懐紙に書いた短い文章」となります。
隠居

ひとつ。この「笈」を「おいずる」と読ませる文を見たが、これは違います。

「笈摺おいずる・おいずり」は、擦れるのを防ぐ小袖のことです。
では、序文。

笈の小文 序文の読み

書生では、テニヲハを補いながら読みます。
※以下、片仮名は書生が挿入、括弧内は、隠居の補足。①~⑤は便宜上の段落。句読点は書生。

① 風羅坊芭蕉桃青と聞えし(=世に知られた人)は、今この<俳諧の>道の達人なり。

 その門葉(もんよう=門人)ハ日々に茂り、月々に盛んなり。

 門葉、推して(=尊びあがめて)、「翁」とのみ言へば、皆ハ芭蕉翁なることを知れり。

 是れ、江戸深川の庵室に閑居せしむる(=閑居をなさる)とき、手づから芭蕉を植ゑ置かれたりしゆえなるべし。

② この翁ガ゙、上方ヲ行脚せられしとき道すがらの小記を集めて、これを名づけて「笈の小文」と言ふ。

 積もりて漸く(ようやく=だんだんと)浩瀚(こうかん=ページが多い書物)となる。

 <翁は>昼夜に、これを翫び(もてあそび)て、花に戯れては歌仙の色(=趣、味わい、芸術性)を増し、月に映しては四十四(よよし=世吉)ヤ百韻(ひゃくいん)の色を増す。

③ 爾来(じらい=以前から、元より)門葉ガ多しと言へども、ただ乙州(おとくに)にのみ授見せしむ(=授けて見させた)。

 乙州ハ、その群弟と共にせざることを嘆き、今般、梓にちりばめて(=梓の版木に字を彫って)、世伝(せいでん=世に伝えること)を広ふせむと欲して、物す(=編集・刊行する)といへども、俄(にわか)に病に遇ひて息み(やみ=止み)ぬ。

 暫し(しばし)、愈ゆる(いゆる=癒ゆる)日を俟つ(まつ=期待する)と言ふなる。

④ 江州(ごうしゅう=近江)大津松本の隠士(いんし)、

 観桂堂砂石子(させきし、しゃせきし、いさご等と読むか)

⑤ 宝永四[丁亥(ひのとい)]年(1707年)の春、

 乙州の慇ろ(ねんごろ=懇ろ)なる求めに因り(より)、

 止むを得ずして、染筆(せんぴつ=揮毫・執筆)し畢んぬ(おわんぬ)。

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笈の小文をまとめたのは誰か?

隠居分からないところが、ありましたかな?
書生①段、「閑居せしむる時」は、使役ではないのですか?
隠居使役では読めぬな。尊敬ととらえる。
本来なら「閑居せしめ給ふ時」と、「給ふ」が入るところです。それが省略されております。
「閑居す」+「しむ」+「給ふ」で、「しむ」は尊敬の意を強める助動詞。
使役だと、芭蕉が芭蕉に「閑居させる」となる。これは、ありえぬ。
で、「笈の小文」と名付けたのは?
書生②段、第1文の主語を押さえると、芭蕉ということになります。
隠居この序文を読むかぎり、そうですな。
時に、宝永四年に序文が書かれておる。これは、芭蕉没後13年である。
書生

誰が、まとめたのでしょう。

隠居

「編集」ですかな。

「物す」とありますな。一つの作品として刊行したとしかつかめません。

「物す」について整理しようか。

先ず、「物す」は、何か行為をした結果、どうなったかの婉曲表現ですな。

この場合、最低限「刊行する」の意。

編集したかどうかは、分からぬな。

書生

「道すがらの小記」を書いたのは、芭蕉。

「笈の小文」と名付け、「昼夜に、これを翫び」、「ただ乙州にのみ授見」させた。

このとき編集は終わっていて、そのまま乙州は刊行したと感じますが。

隠居

笈の小文は、芭蕉の他の記行と比べ、「散漫」、「まとまりに欠ける」などと評されることがある。

そのような印象は、叙述が行程に沿っていないところからくるように思う。

今回は、芭蕉の足跡をたどり、行程に沿って読んでみますか。

書生

何か見えてくるかも知れませんね。

隠居

さて、やって見ねば分かりません。

何かほかに。

書生③は、「乙州にだけ、笈の小文を授けて見させたが、乙州は他の門弟や世に広めるため、刊行することにした」と読めます。序文は乙州が書くべきところなのですが、急病なので、砂石子が序文を書いたと分かります。
で、「乙州にだけ」というのが、気に掛かるのですが。

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乙州にだけ授けたのは?

隠居乙州について、何ぞ知っておるかな?
書生「笈の小文」を刊行した俳人だということくらいです。
隠居では、一応、乙州について、見ておこう。
乙州は、「乙刕」とも書く。七部集にも登場しておる。
書生先にご隠居と七部集を読みましたが、名前に見覚えがあるくらいで、印象に残っていません。
隠居七部集の中に、無季の発句があったな。
書生あ、「亀の甲」ですね。
 亀の甲烹らるゝ時は鳴もせず
隠居印象に残っていたようですな。
書生無季ですからね。
亀が鳴けば、三春の季語。鳴かなければ、通年の亀と変わりないので無季扱い。
これが、乙州でしたか。
隠居

面白い句を、詠んだものですな。
七部集連句の中で、無季の発句はこれだけ。

七部集>ひさご>「亀の甲の巻、九吟歌仙」を、別窓で参照

この歌仙は、「ひさご」集中のもの。ちなみに、「ひさご」は珍碩ちんせきの編纂。

さて、この句は知っておろう。
 梅若菜まりこの宿のとろろ汁

書生ええ、鞠子宿と言えばとろろ汁。
隠居然り。今なお、この句で丁子屋は繁盛しておるが、この句は、江戸に行く乙州へのはなむけとして、大津で巻かれた歌仙の発句で、その歌仙は、「猿蓑」にある。
乙州の詠んだ脇。
 かさあたらしき春の曙
書生思い出しました。
隠居乙州の句は七部集に31句ある。歌仙中に15、単独句が16。
結構多い数です。1位は荷兮(かけい)で147句、乙州の31句は20位。
書生全部で何句でしょう。
隠居

3328句で、俳人は約445名。

ちなみに蕉門十哲の「丈草・杉風・土芳・曽良・許六」は、乙州より少なくて、12句から29句ですな。
ほかに、「史邦・桃隣・尚白・路通・杜国・曲翠・猿雖・嵐蘭」も、句数はそんな程度。

書生じゃあ、よく活躍していたと。
隠居そういうことになる。
書生乙州に授けても不思議ではないと。
隠居

まあ、「執心の輩」の一人であったという程度だな。
「乙州にだけ」の「だけ」に答えた訳ではない。

そうした人物は、ほかにもいるから、ここで、門葉を見ておこう。

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蕉門十哲、二つの説。乙州は入るか?

隠居先ず蕉門十哲ですが、乙州は入りません。
蕉門の主な俳人は、三百人。門弟は二千とも三千とも言われる中での十人。
この蕉門十哲だが、おおまかに言えば二説。説により4人が入れ替わる。
句作の技量、俳諧への貢献、芭蕉との親密さ・帰依の度合いなど、どこに重きを置くかで変わってくるわけです。
諸説ありますが、
 去来・其角・嵐雪・丈草
の4人は必ず入っておる。
蕉門十哲の表
書生乙州が十哲に入っていれば、誰もが納得するでしょう。
隠居そうですな。
右は、先の4人に、二説に共通する許六と支考を加え、確定組としてある。この二人は芭蕉に師事した期間が短い。
A説は、この6人に、
 北枝・杉風・野坡・越人
の4人を加えて10人。
B説は、土芳・桃隣・曽良・惟然を加えておる。
書生私も、名前を知っている人ばかりでです。
隠居知っている人、すべて出たかな?
書生いえ。
隠居知っていても、入っていない人は、あるでしょう。
書生……

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蕉門三十六俳仙、二つの説。乙州は入るか?

隠居 次に蕉門三十六俳仙、表を見てみなされ。
これも二説あり、仮にC説、D説としてある。

三十六俳仙の表

書生乙州が入っていますね。
隠居左様、入っておる。
書生太字は、何でしょう。
隠居いわゆる近江蕉門。湖南蕉門とも言われます。
 辛崎の松は花より朧にて
 行く春を近江の人と惜しみける

こうした句を見ると、近江は芭蕉にとって、格別な地であったと分かろう。
書生D説の括弧書きは何ですか?
隠居珎碩ちんせきのことだな。洒堂と珍碩は同一人物なので、括弧書き。
洒堂に改号したのは、芭蕉晩年のころで、七部集ではほとんどが珍碩になっておる。ちなみに、珎は珍の異体。
確定組の括弧書き、東花坊は、支考の別号。C説には東花坊と書いてある。知らない人は別人と思うかもしれぬのでな。
C説は、義仲寺の芭蕉堂建立に貢献した蝶夢の三十六俳仙です。
D説は、甫尺ほせきの三十六俳仙図。これは蝶夢の図を基に描いおる。芭蕉も入って37人の姿・句・名が描かれておるので、芭蕉をのいて36人。洒堂・珍碩の重複があり、一人減って35人ということになる。
書生近江の人が多いですね。11人もいますね。
隠居気になるかな。
書生如行・素堂・荷兮・一笑などが、必ずしも入らないのに、十哲を除く確定組の半数が近江なのは、納得できません。
この間ご隠居と読んだ、「芭蕉七部集」でおなじみの利牛・孤屋・沾圃・里圃も入っていないのに。
隠居 おお、知っている俳人が出ましたな。
書生表を見ているうちに思い出しました。路通・史邦とかも入らないんですね。
やはり、近江に偏っていませんか。

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三十六俳仙図の謎

隠居 では、地域別の表も見ておこう。太字は確定組である。
わしは、近江の門人が多くても、不思議には思わぬ。
書生どういうことですか。
隠居俳仙図のひとつに、「粟津義仲寺三十六俳仙」がある。
これは、春蔭の署名があるもので、C説と同じ人選。
「義仲寺に縁がある俳人たちの図」ということですから、近江の人が多くて構わない。
俳仙、国別の表
書生なるほど。
隠居D説の図は、甫尺の遺墨。
甫尺は、金沢で描いておる。
金沢の人からすれば、北枝しか入っていないのは如何なものかという訳。
一笑・句空が入るのは、これで、肯ける。
合点がいくじゃろう。
書生はい。
隠居加賀の俳人を入れるためには、誰かを削らなければならぬ道理である。
書生なるほど。
で、削ったのは、江戸の素堂、伊賀の苔蘇、大坂の舎羅、大垣の如行。
でも、入れた荷兮は名古屋の人でしょう?
隠居蕉風復帰、でしょうな。
いわゆる天明俳諧、明和・安永・天明のころのこと。
これは、芭蕉没後70から100年くらいの時期ですな。
蕪村を筆頭に樗良・暁台らが、俳諧の堕落を嘆き、芭蕉に帰れと活躍したわけである。
書生おや。
隠居

芭蕉没後20から40年くらいの享保期に、俳諧の大衆化が進み、社会人必須の教養になり、社交であり遊びになってくる。

まあ、これが徳川265年安泰の礎であっただろうと、わしは思うが、俳諧師・宗匠も林立し、俳諧の質は下がってくる。

面白ければよしとする点取り俳諧の横行など、最たるものだが、出版を競う風潮など、風雅の道からかけ離れてしまう。

それを反省したのが、天明俳諧でな。

書生荷兮が出てきませんが。
隠居

そうそう。
その、蕉風復帰のよりどころが芭蕉七部集ですな。言わば聖典。

「芭蕉七部集(俳諧のみ)」を、別窓で参照

これは、享保の中頃(芭蕉没後30年くらい)、柳居(りゅうきょ)が俳諧七部集としてまとめたものです。
句数3328のうち、句数が最も多い人は誰じゃったかな?

書生荷兮でした。
隠居

そうです。芭蕉を除けば荷兮。芭蕉が260句だから、147句は大したもの。

二人合わせて417句で、全体の約13パーセントを占める。

書生だから、入れた。
隠居

芭蕉逝去の前年に、荷兮は貞門に戻ったようなので、義仲寺の俳仙図に入らなかったのでしょう。
甫尺は、蕉風確立期に戻れとしていたんですな。荷兮は「冬の日」の立役者だから入れたいし、名古屋の門人も削れぬ。
ちなみに、甫尺は丹後の出で、天明俳壇の樗良に入門、芭蕉没後77年、26歳のこと。

俳画もよくし、奥の細道をたどり、加賀の俳人とも親交、三十六俳仙図は、晩年金沢での遺墨。文化元年(芭蕉没後111年)に京の東山で逝去している。

書生蝶夢の絵を参照したんでしたね。
隠居

芭蕉堂画像いかにも。
義仲寺翁堂の「三十六俳人画像」は、芭蕉を中心とし、左右に18人ずつ配置されている。向かって左手前、芭蕉から遠いところの4人が「苔蘇・如行・舎羅・素堂」です。

蝶夢を置いて蕉風復帰は語れません。
京の出、9歳で得度(時宗)、

13歳で俳諧に志す。

志したのは、芭蕉没後50年のことで、

甫尺より15歳年上になる。

名古屋の暁台や加賀の俳人と交流し、

蕉風復活を誓う。

後、義仲寺の荒廃を嘆き、全国から寄付や句を募り、ついに明和7年(芭蕉没後76年)、芭蕉堂建立。

(右は現在の翁堂。安政3年焼失により、2年後に再建され、昭和40年修復されている。)

さらに、芭蕉の遺稿や句集を上梓、11年掛けて、「芭蕉翁絵詞伝」を執筆。

後に、粟津文庫を設立し、その絵詞伝3巻を納め、百回忌を盛大に行う。その3年後、65歳で逝去。
俳仙図は、翁堂建立の資金集めの一つとして、描かれたようです。

書生ご隠居の話をまとめると、
・蝶夢が、三十六俳仙をかいたのは、義仲寺で芭蕉百回忌を行う時期で、義仲寺のある近江の俳人たちが多く入っていても構わない。
・その蝶夢の絵を参考に、甫尺が金沢でかいたものには、当地加賀の二人と蕉風復帰の象徴である名古屋の荷兮が追加された。
ということですね。

隠居時代の整理もしておくと、
・芭蕉没後76年、蝶夢が、義仲寺に芭蕉堂を再建。
・同100年までに、蝶夢が三十六俳仙図を作成。
・同110年頃、甫尺が金沢で三十六俳仙を描く。
・同120から150年、春蔭が「粟津義仲寺三十六俳仙」を描く。
ということ。
あわせて、
・安政3年(芭蕉没後162年)、義仲寺が焼け俳仙図も消失。
・明治20年(同193年)、其角堂永機が芭蕉200回忌を行い、翌年、俳仙図を義仲寺に奉納。
というところ。

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笈の小文、序文のまとめ。砂石子とは?

隠居では、序文のまとめを。
書生笈の小文という題ですが、これは芭蕉がそう呼んでいた。
上方を行脚したとき、懐紙に書きとめた小記がたまって、かなりの分量になった。
芭蕉は、昼夜とありますから、一日中笈の小文をもてあそんだ。「もてあそぶ」は、心の慰めとして愛したということですね。
また、これを参照することで、歌仙や世吉・百韻の趣、文学性でしょうか、これを深めた。
笈の小文は、「乙州にのみ見授せしむ」とありますから、読ませ、解説をし、書き写させた。
乙州は、刊行するところまできたが、急な病で倒れたので、砂石子が代わって序文を書いた。
と、こんなところでしょうか。
隠居

そんなところです。

不明な点はあろうかな。

書生「乙州にだけ」の「だけ」が分かりません。
隠居本文を読むうちに、分かるかもしれぬ。
書生書いてあるでしょうか。
隠居

書いてない。
なにせ、乙州が芭蕉にきちんと会ったのは、笈の小文の翌年、奥の細道の旅が終わるころからです。

書生では、分かりませんね。
隠居分かるということが、分からないのかな。
書いてあっても分からぬこともある。書いてなくても分かることはある。
では、次回は……
書生ちょっと待ってください。④にある、序文を書いた砂石子という人、蕉門ですか?
隠居わしは、読み方も知らぬ。「させきし」とか「いさご」とか、勝手に読んでいる程度です。
大津の松本に住む、隠士で、観桂堂砂石子という人と了解してな。
書生検索してみます。
……、笈の小文しか出ません。
松本は、大津にある町の名、義仲寺のある馬場にほぼ隣接しています。隠士は、いんじとも読み、俗世を離れて静かな生活をしている人。いわゆる隠者。
隠居「観桂」を検索すると。
書生はい、観桂阪散人(かんけいはん さんじん)という人がいますね。
隠居おや。
書生あらあら、乙州の別号だ。
隠居

観は、「みる」。桂は「かつら、月に生える木」。阪は文字通り「さかみち」。月見の坂道というような意味じゃろう。

「観桂阪」が雅号で、散人は「用なし人」の意で、号に添える語。わしのように山に籠もれば、「やまびと」の山人(さんじん)というところかな。

書生乙州自身だったんですか。
仮病でしたか。
隠居そうやもしれぬがな。
あ、そうそう。四十四(よよし)について、知っておったか。
書生俳諧の一形式というくらいです。

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俳諧の形式「百韻と世吉」

隠居四十四は世吉とも書く。
書生縁起のいい文字ですね。
隠居百韻の省略形。
百韻は知っておるな。
百韻、世吉の表
書生

はい。七部集で読みました。猿蓑の「ててれ」の発句。

百韻「早苗舟の巻」を別窓で参照

隠居 子は裸父はてゝれで早苗舟 利牛
ててれだけ覚えておられたか。
書生挙句が、
  三人ながらおもしろき哉
利牛・野坡・孤屋の三吟、百句。
隠居そうそう。大したものです。
百韻は懐紙4枚、世吉は二の折と三の折を省略したもの。
書生なるほど、1枚目と4枚目の計2枚というわけですか。
足すと44句で、四十四。なるほど。
隠居その通り。
細道の冒頭「表八句を庵の柱に掛け置く」というのは、百韻か世吉の初折の表だったわけ。
笈の小文でも関連で出てくる。
書生はい。
隠居

「歌仙」については、サイトのメニュー「ガイド」を見ておきなされ。

「俳諧のあらまし、用語」などを、別窓で参照

「俳諧の歴史」を、別窓で参照

「俳諧の形式」を、別窓で参照

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笈の小文、講読の振返り
 
01 版行序文(附、十哲・俳仙)
書生

版行序文の筆者が、「江州大津松本之隠士 観桂堂砂石子」で、「乙州之因慇求不得止染筆畢」とありました。

これは、「乙州の丁重な依頼により、やむを得ず序文を執筆した」と理解できました。

しかし、「観桂堂」は、乙州の号「観桂阪散人」と「観桂」が同じだと指摘できます。

隠居

観桂の号は、他に見当たらぬしな。

補足ですが、宝永四年序版の原本を見ると、版行序から本文、刊記まで同一の筆跡。

版下は一人で書いておる。版下とは、木版に彫るための下書き。薄い紙に書き、裏返しにして版木に張り付ける。

序文にあった「染筆」は、版下の清書の意味ですな。

書生

では、その筆跡を乙州と比べればいいわけですね。

隠居

一致すれば、「染筆し畢んぬ(おわんぬ)」と書いてあるから、乙州自身と断定できるわけです。

問題は、乙州の筆跡が乏しく、比較できないこと。

これは、如何ともし難い。

では、明日から本文を読む。

書生では、これにて、ご無礼します。

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「笈の小文」講読ページ解説

・ 俳諧を趣味とする隠居と書生との、講読記録です。

 

・ 購読図書

 

・ 参考文献

 

・ 利用ソフトウェア

 

・ 笈の小文の文章は、以下のように変更しています。原文は上記講読図書を参照。

 

・ 古文に以下のように追加しています。

※ 凡例