笈の小文 保美(吉田~天津縄手~保美~伊良古崎)

笈の小文 索引
序文序章鳴海保美熱田伊賀伊勢吉野高野奈良須磨箕面旅後
笈の小文 保美 索引
原文吉田~天津~保美旅程鳴海~保美・伊良湖岬~鳴海
講読保美への道中伊良湖岬
資料杜国の隠棲杜国と鷹
権七にしめす杜国回生

保美(伊良湖)


 芭蕉は、伊良湖とは反対方向の熱田へ行き、越人を迎えた。伊良湖の杜国訪問のためである。また、歩いてきた東海道を吉田宿(豊橋)まで戻って、伊良湖で杜国に合い、熱田の手前鳴海へ戻る。
 このページでは、伊良湖での行動について推理し、本文に矛盾しない行程をとらえます。


笈の小文

保美(伊良湖)

段落区分笈の小文、本文備考
保美 吉田① 三川の国保美といふ処に、杜国がしのびて有けるをとぶらはんと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊る。

↓ 「保美への道中」へ

② 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき
天津 ③ あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き処なり。
④ 冬の日や馬上に氷る影法師
保美

⑤ 保美村より伊良古崎へ一里計も有べし。三河の国の地つづきにて、伊勢とは海へだてたる処なれども、いかなる故にか万葉集には、伊勢の名所の内に撰入られたり。
⑥ 此洲崎にて碁石を拾ふ。世にいらこ白といふとかや。
⑦ 骨山と云は、鷹を打処なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。
⑧ いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし、

↓ 「伊良湖岬」へ

 鷹一つ見付てうれしいらこ崎


笈の小文 「旅程 保美の杜国を訪問」
 
linelineline
隠居旅程表、できましたのう。
書生できました。8・9日分を再掲しています。
8日桐葉亭では、俳諧の興行はしていないんですね。
隠居

していないですな。
桐葉亭では、杜国のことで持ち切りでしょう。
右足跡図、緑は越人、本町通りを真っ直ぐ南進する。桃色は芭蕉、安宣亭から笠寺をかすめて熱田に至る。
桐葉亭は、熱田神宮南門の前で、越人・荷兮など、蓬左の連衆と鳴海の連衆とをつないでいたわけです。

熱田足跡
書生越人を迎えるというのは?
隠居

越人を同行させるためです。
越人は、杜国の後見人か保証人だったようで、杜国の居場所も知っていました。
杜国の状況について、本文を読む前に見ておこうか。

書生蓬左とは、何でしょう。
隠居

熱田神宮の西側の北、名古屋城辺りまでのことです。
熱田神宮は蓬莱宮と言い、その左だから蓬左。
そこが、政治・経済・文化の中心地。
名古屋の門人は、多くが、名城西南、丸の内に住んでおりました。

書生名城は、姫路・大阪・熊本にもあるかと。
隠居

めいじょうではなく、めえじょうと読んで名古屋城。
名古屋駅は、めええき。後は推して知るべし。
地図に星崎城址とありましょう。この 辺りは、歌枕や名所がいくつかありまして、既に「星崎・笠寺・呼続・寝覚・松風」などが出ましたな。
 桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟
    潮干にけらし鶴鳴き渡る
(万葉)
桜田も近いですな。


笈の小文 「旅程 保美:杜国訪問」
旅程② 貞享4年11月8日~11月16日、鳴海~保美・伊良湖岬~鳴海
<足跡>事項移動逗留宿所移動左累計
貞亨4118<鳴海安信亭→熱田、桐葉亭>東海道桐葉亭5.6354.9
貞亨4119<熱田→鳴海、知足亭>三吟(6句)
○置炭や更に旅とも思はれず
-越人・寂照・翁
東海道知足亭7.3 362.2
貞亨41110<鳴海→池鯉鮒→岡崎→藤川→赤坂→御油→吉田>
越人と、杜国が住む保美(伊良湖畑村)へ向かう。
吉田に宿泊。
○旅宿
  ご〔枯れ松葉〕を焚いて手拭あぶる寒さ哉
  -笈日記(おいにっき、支考著)
東海道吉田宿53.6 415.8
貞亨41111<吉田→天津縄手→田原→宇津江→保美>
○伊羅古に行く道、越人酔うて馬に乗る
  雪や砂馬より落ちよ酒の酔
田原街道杜国邸35.9 451.7
貞亨41112<保美→堀切(伊良湖)→伊良湖岬→保美>
杜国・越人と伊良子崎へ吟行
○いらご崎、ほど近ければ見にゆき侍りて
  いらご崎似るものもなし鷹の声
○杜国が不幸を伊良古崎に訪ねて、鷹の声を折りふし聞きて
  夢よりも現の鷹ぞ頼もしき
  -鵲尾冠(しゃくびかん、越人編)
さればこそ荒れたきままの霜の宿
  -阿羅野(あらの、荷兮編)
田原街道杜国邸20.1 471.8
貞亨41113<保美、杜国邸>三吟(3句)
麦生えて能き隠れ家や畠村  はせを
  冬をさかりに椿咲く也  越人
 昼の空蚤かむ犬の寝かへりて 野仁
杜国邸杜国邸-471.8
貞亨41114<保美→吉田宿>田原街道吉田宿35.9 507.7
貞亨41115<吉田宿→藤川宿>東海道藤川宿20.8 528.5
貞亨41116<藤川宿→鳴海> 鳴海の知足亭に戻る。越人同宿東海道知足亭32.8 561.3
※杜国邸への往路や伊良湖岬往還は、記録通り。復路の保美出発日は不明だが、1宿加え、無理のない日程とした。

↑ トップへ


笈の小文 「保美:杜国訪問」
lineline

杜国の隠棲

隠居

杜国、元は正万寺しょうまんじ町の米穀商で、町代を務めていました。町を代表し、町政の業務をしていたということは、かなりの豪商と思われます。
正万寺町は、名城南の東西に1500メートルほど延びる外堀の西端から、南に延びる木挽町こびきちょう・元材木町もとざいもくちょう通りの一筋東。南北240メートルほどの縦に長い通り。図の左上です。

蓬左古地図

青色、左が堀川、上が名古屋城外堀。
本町大手が中央の門。この南の大道が、本町ほんまち通りで、熱田神宮・宮の渡しに至ります。
杜国の店は正万寺町にありましたが、資料によっては御薗町みそのまちとされます。御薗御門に近いですな。この門が御用商人の出入り口であったから、商売には絶好の場所です。

書生なるほど。
隠居越人は、杜国や野水の世話で、紺屋になりました。店は、御薗町近くの木挽町です。住まいは、桑名町くわなまち
野水は、桑名町の東、長島町ながしままち通りと長者町ちょうじゃまち通りの間、大和やまと町の大きな呉服屋で町代。後に町代の元締め総町代を務めます。野水は清洲越しです。
重五は、木挽町南の上材木町かみざいもくちょう、川万屋加藤善右衛門です。材木問屋で、清洲越しの富豪です。
荷兮は、木挽町から4筋東の桑名町で医者をしています。
書生杜国と野水は町代つながりですか。
隠居清洲越しつながりでもあります。
野水の数代前が、名古屋城築城の折、信長の築いた清洲城下の長者町から移転してきました。
今でも名古屋で、清洲越しの家柄と言えば、皆恐れ入ります。
ちなみに、貞享元年11月、野水が家請け保証人となり、芭蕉逗留の家を借りています。そこで、冬の日五歌仙を巻きました。
そこが蕉風俳諧発祥の地と呼ばれ、名古屋のテレビ搭東北角の脚の辺りに記念碑があります。
書生で、杜国は?
隠居もちろん、このときが芭蕉との出会いですが、数か月後、杜国は死罪となりました。
書生は?
隠居

空米くうまい売買の廉かどです。
これは、先物取引の先駆けですが、収穫前に売買するのは御法度。十両盗めば死罪という時代ですから、当然死罪となります。
しかし、杜国は以前、「蓬莱や御国のかざり桧木山」と、尾張藩を称える句を作ったことを、藩主が覚えていて、罪を減じ追放ということになります。
罪一等減なら、遠島だから、二等減ですな。遠島は5年で恩赦もあったようですが、追放は、土地・家屋は没収、重追放なら家財も没収。追放は、いわば終身刑。

書生追放だと戻れない。
隠居

そう。遠島なら、数年で赦免もありました。ただ、生き延びればの話ですが。
いずれにせよ、死罪よりはいい。死罪は斬首の上、試し切りもされます。
中追放の場合、領国尾張と、「武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・下野・甲斐・駿河」の9か国及び「東海道筋・木曽路筋・日光道中」のお構い。ただし、墓参りを除くとある。また土地・家屋も没収。
重追放なら、さらに6か国のお構いと、財産の没収。
このどちらかでしょう。
これが、貞享2年の8月。

書生「冬の日」の翌年ですね。で、三河国の渥美半島、保美に移った。
隠居杜国墓

奉公人の郷里のようですな。
当時、番頭や手代のせいにして、自分は罪を逃れる例が多かったようですから、罪を一身で負った杜国への感謝もありましょう。
さりながら、残念なのは、その45年後、空米相場が公認されたことですな。
吉宗の治世、豊作で米価が下落したため、武士が困った。で、高値で安定させる方策として、堂島に会所を作る。これは世界でも初めての、先物取引所。
空米売買が罪にならなくなって、しばらくして、初めて杜国の墓が作られます。

書生没後約50年ですね。
杜国は、若くして亡くなったんですね。病気とかですか。
隠居

それは、分かっていません。ただ、1、2か月前までは元気だったと、芭蕉の書簡で分かりますし、遺言もあったようです。
杜国の弟かも知れない坪井庄八についても、触れておきましょう。

書生ご隠居が「かも知れない」というのは、珍しいですね。
隠居

この「芭蕉と蕉門俳人(大礒義男著)」、読めば分かりますが、概略を言います。
時は貞享4年4月、出来町の坪井庄八が、妻と妻の付き人を斬殺、召使いの女にも傷を負わせ、庄八は同年6月に斬首。
斬首と死罪とどっちがよいかだが、……

書生さて、……
隠居斬首は一番軽い死罪で、遺体は返され、葬式もできる。
さて、悲惨な事件でありますが、問題は苗字。
書生坪井で、杜国と同じですね。弟でしょうか。
隠居

「弟かも知れない」ということです。
杜国は、正万寺町あるいは隣の御薗町(上の地図では、上御薗町・中御薗町)の米穀商でした。名は坪井庄兵衛、代々の富豪。
一方、庄八、このときは名古屋の東端、出来町の住人だが、御薗町から引っ越したとあります。
庄八に庄兵衛、「庄」の字が同じです。
また、庄八の父は清洲越しの富豪でしたが、後に零落したとあります。
さらに、庄八は、藩主の御前で太鼓等を打ったそうです。これは、遊芸をするゆとりの証明で、杜国の俳諧に通じるものがあります。

書生つまり、出来町に引っ越したのは、杜国の事件で家屋敷・財産を没収されたからで、父は零落したということですね。
隠居

そうすると、うまく話がつながるのだが、直接証明できる資料がない。だから、「かもしれない」ということです。
もしそうだとすると、弟の斬首が6月、芭蕉が来るのが11月。
たった5か月です。

書生はあ。
隠居もし、そんな事件があれば、名古屋の連衆が芭蕉に言うだろうと思いますが、そんな形跡は、さらにありません。

↑ トップへ


linelineline

笈の小文、「保美への道中」

書生line① 三河の国、保美といふ所に、杜国が忍びて有りけるを訪はんと、まづ越人に消息(=連絡)して、鳴海より跡ざま(=後ざま、戻る)に、二十五里尋ねかへりて、其夜ハ吉田(豊橋の宿)に泊る。
② 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき 【寒けれど、二人デ寝る(=泊まる)夜ぞ、頼もしき 寒し:三冬】
③ 天津縄手<という>、田の中に、細道ガありて、海より吹き上る風ガ、いと寒き所なり。
④ 冬の日や馬上に氷る影法師 【冬の日や。馬上に凍る影法師 氷る:晩冬】
隠居「越人に消息」というのは、こんなところかな。
鳴海到着の翌日5日、、蓬左の越人に連絡。「鳴海に無事ついた。杜国に会いたいから、案内をしてほしい。鳴海は知るまいから熱田の桐葉亭で落ち合おう」。
同5日夕刻、越人に手紙到着。
6日、越人は、荷兮・野水らに連絡をしつつ、休業の段取りをする。
7日、朝、桐葉亭に向かう。芭蕉がまだ来ていない。桐葉の案内で鳴海に向かう。
同日、午後、道中芭蕉に出会う。
書生これは、ご隠居の嫌いな「もし~ならば」ではないんですね。
隠居元より乏しい知性、「もし」だの「仮に」だので浪費するわけにはいかん。
「如行集」7日の項、熱田に行く芭蕉への餞別句、鳴海に向かう桐葉の句が証拠です。
書生はい。
① 二十五里とありますが、鳴海・吉田間は54キロです。
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき
隠居

まず、鳴海から吉田まで1日で行ったということで、いかに杜国に会いたかったかが、分かります。
「二十五里尋ねかえり」は、保美まで約100キロ、ほぼ合いますな。
「東海道を鳴海まで来たが、そこから後ざまに、保美まで25里訪ね帰るのに、その夜は吉田宿に泊まる」、
こんな解釈。

伊良湖足跡

書生

② 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき
江戸から鳴海まで「一人寝る夜」だったこと、杜国に会うまでの不安感もあり、越人がいて、心丈夫だったでしょうね。

隠居

そう、「寒けれど」と言う。
実に見事な感情表現ですな。
でも、「笈の小文」の本文、①から②を読んで、越人が同宿と分かるかな?

書生なるほど、分かれというほうが無理かも。越人も「消息して」とあるだけですから。
隠居

これは、何なんですが、芭蕉男色説というのがあって、「杜国と寝た証拠がこの句」だと。

書生

あれ。同宿は越人です。実は、杜国ではなく、越人と抱き合った?

隠居

これ、これ。
芭蕉が男色であっても別段のことはありませんが、この句が証拠にはなりません。
詮議どころは、「二人寝る」を同宿ではなく、同衾・同床と読んでおるところですな。
第一、同床なら寒くない!
「寒けれど」じゃぞ。

ごを焚いて手拭あぶる寒さ哉
書生

まあまあ、ご隠居。血圧に障ります。
こんな芭蕉句を見つけました。
 ごを焚いて手拭あぶる寒さ哉
「ご」は枯れ松葉、それを焚いて、手拭をあぶるほどの寒さでした。

隠居支考の「笈日記」にでる形ですな。
「如行集」は、下五が「氷かな」です。これが、初案ですな。
「十日の夜」に入れてありますが、これは、「十一日朝」でしょう。夜寝る前、手拭いを使うのは風呂ですから、あぶる必要はさらさらない。あぶるにしても、炉や火鉢があります。
朝、よほど寒かったんですな。洗面しようにも手拭いが氷っていた。
枯れ松葉は着火剤ですが、それを「ご」と呼んでたくのは、静岡・愛知・岐阜あたりの文化だったようです。これも旅の味わいでしょう。
それにしても、手拭いが凍るとは。普通、豊橋はこんなことはないが。
時に、この日の日の出・日の入りは、分かりますかな。
罫線「如行集」如行編
霜月十日の夜

三河の国いらごといふ所に、杜国といひし此道のすき人有、翁むかしよりむつまじくかたりたまひけるゆゑ、かの所たづね給ふ道すがら、霜月十日の夜よし田にて名古屋の越人を伴ひければ、
 寒けれどふたり旅寝ぞたのもしき 芭蕉
 凩に菅笠たつる旅寝かな     越人
 ごを焼て手拭あぶる氷かな    芭蕉

同十二日

 鷹ひとつ見つけて嬉しいらご崎  芭蕉
 冬海や砂吹あくる花のなみ  閑人野仁


同十三日

畠村に至りて
 さればこそあれたき侭の霜の宿  芭蕉

 麦蒔てよき隠れ家や畠むら    同

とありければ、
 冬を盛りに椿咲くなり      越人
 昼の空蚤かむ犬の寝かへりて   野仁


あまつ縄手を通とて
 冬の田の馬上にすくむ影法師   芭蕉
書生貞享4年11月11日ですね。
しばしお待ちを。
太陽暦では、1687年12月15日と。
……、日の出が6時52分、日没が16時44分です。
隠居と、すると、田原で休憩して、保美へは何時に着きますかな。
書生田原を城址として、約18キロ。時速5キロとして、3時間半。
そこから、保美まで20キロ、で4時間です。
隠居朝、吉田宿を8時に出たとして、田原が11時半。1時間休んで、保美が16時半。
かろうじて日没ですな。月はどうですかな。
書生陰暦11日の月ですが、一応計算します。
月の出は、13時59分です。
だから、日没時は、地平と天頂の中間、満月の83パーセント、結構光ります。日が暮れても歩けるでしょう。
隠居ご大儀であった。当時の馬は小さいから、人を乗せて時速6キロ、休ませますから、せいぜい4キロです。到着時は暗くなっていたでしょう。
まあ、安堵いたしました。
冬の日や馬上に氷る影法師
書生③に「天津縄手」とありますが?
隠居天津は地名、上の足跡図にある。縄手は縄を張ったようにまっすぐな道。
天津から田原まで、まっすぐ10キロ以上ある道です。
書生はあ。
隠居太古、渥美半島は島で、この辺りは海。江戸時代でも、海が近かったようです。
山があれば日本海側に雪が降るが、琵琶湖を渡る風が、伊吹を越えて尾張平野に雪をもたらす。時に、知多半島や三河湾を越えて、豊橋にも雪を運ぶ。雪がないときも冷たい風が吹き付け、半島としては高い蔵王山を避けて、天津縄手を吹き抜けますな。
書生へえ。
隠居

なに、天津から田原に入る所にあった「ほへと茶屋」で聞いた受け売り。
茶屋という名に引かれて入ったが、いわゆるレストラン。
「風が強いだら。外を見りん。風力発電所がいっぱいあるじゃん」などと、教えてもらいましてな。
さて、この句、「如行集」では13日。「冬の田」は初案。
この日は杜国亭にいます。帰り道でもない。北西の向かい風、馬上の影は保美への道中ですから、11日しかありません。

書生④の、
 冬の日や馬上に氷る影法師
の「影法師」は、芭蕉自身の影ですが、どこに映っているのでしょう。
道か、馬の背かとは思いますが。
隠居どちらかな。
書生

「馬上に」だから、文字通り、馬の背か肩。寒くてすくんでいる自分の影。
天津縄手、……真っ直ぐな道。真っ直ぐ行くから影は、動かない。

隠居冬の日は、太陽・陽光・暦の日……。
書生冬の淡い陽光の薄い影が、馬の背にすくんで凍り付き、風が強く吹き上げる道を、どこまでもどこまでも真っ直ぐ行く。
隠居「冬の日や」です。
書生ああ、杜国と巻いた「冬の日」!
隠居

この道が、風雅の道というわけだな。「冬の日」の杜国のところへ行くときの心境。

冬の日」を、別窓で参照

書生

孤独と寂寥の極みですね。
冬の日……、孤独……、寂寥……、影法師……

隠居また、固まったか。
書生ご、ご隠居、すべて、つながりました。
影法師は、杜国です。
杜国が、芭蕉の影法師。
この句の孤独感、寂寥感はそこから来ています。
芭蕉は2年前の冬、杜国の才能に出会っています。その才能に自分の分身を見いだしていたのではないでしょうか。

隠居

「ないでしょうか」は、推量ですな。
推量を認めると、無限に広がってしまいます。

書生

でも、まあ、私の中ではつながりました。
で、越人は。

雪や砂馬より落ちよ酒の酔
隠居越人は、真っ昼間からただの酔っ払い。
 雪や砂馬より落ちよ酒の酔
宇津江の下り坂で、越人は、実際落ちています。
書生おや、「落ちよ」で落ちた?
隠居

書いてある通りに読む。
酔いが落ちよです。あと2里ほどで保美に着きますからな。

↑ トップへ


   
lineline

笈の小文、「伊良湖岬」

書生⑤ 保美村より、伊良古崎(いらござき=伊良湖岬)へ、一里計りも有るべし。三河の国の地つづきにて、伊勢とは海ヲ隔てたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には、伊勢の名所の内に撰び入れられたり。
⑥ この洲崎(すざき=砂がたまり、海に突き出たところ)にて碁石を拾ふ。世に(=世間では)いらご白と言ふとかや。
⑦ 骨山ほねやまと云ふは、鷹を打つ(獲る)所なり。南の海の果てにて、鷹のはじめて渡る所といへり。
⑧ いらご鷹など、歌にも詠めりけりと思へば、猶ほあはれなる折ふし、
 鷹一つ見付てうれしいらこ崎
伊良湖崎へ一里ばかり
隠居

伊良湖足跡2保美の杜国亭から岬先端へは、約10キロ(緑色は田原街道)、2里半です。
しかし、⑤に、「伊良古崎へ一里計りも有るべし」とあるから、杜国亭は保美の東端ではなくて、西端ではないかとも言われます。しかし、「伊良湖崎」は半島先端(灯台のあるところ)だけを指すわけではありません。
芭蕉のいう「伊良古崎」は、歌枕です。
 巣鷹わたる伊良湖が崎をうたがひて
     なほきにかくる山帰りかな   西行
 伊良湖崎に鰹釣り船ならびうきて
     はかちの波に浮かびつつぞ寄る 西行
 波もなし伊良胡が崎にこぎいでて
     われからつけるわかめかれ海士 西行

伊良湖崎と伊良湖岬は同義ですが、伊良湖岬は地名でもあります。
明治39(1906)年「和地・小塩津・堀切・日出・伊良湖」が合併し、伊良湖岬村が発足しています。
「崎・岬」は水辺の詞、海辺に出て実感できる言葉です。海の見えるこの辺りを「伊良湖崎」「伊良湖岬」と呼ぶのは適していましょう。また、地名でもありますから、この地域の公共施設・事業所の多くに「伊良湖岬」が冠されています。
さて、芭蕉たちは、足跡図の桃色の線のように、4キロ半南下して、海の見える堀切に出ています。芭蕉たちにとっては、ここからが「伊良湖崎」です。「伊良古崎へ一里計」は、正しいと言えましょう。
堀切から先端の伊良湖岬灯台へは、6.0キロで、計10.5キロ。帰り道は最短路を想定して、緑の線の田原街道、9.5キロ。
往復20キロですな。

書生

はあ。
堀切が芭蕉にとって「伊良古崎」でしたか。

隠居

旅慣れた芭蕉の距離感は正しい。そこで初めて海が見えますしな。
堀切から西進、日出ひいの石門せきもんを、高捲きの道から眼下に眺め、海辺に出ると、⑥で言う「この洲崎」。今は、恋路ヶ浜と言います。
ちなみに、「洲」は、古来「ひじ」「こひじ」と読む。「泥」といっしょの読みですな。「恋路」と掛詞にしたりするから、「洲崎」は「こひじざき」とも読めます。 「日出ひじ」という集落もここにある。
ただ、町名としては、「日出ひい」で、日出の石門の「ひい」からきたようです。

書生へえ。
では、恋路ヶ浜。
次に「碁石を拾ふ」とありますね。白の碁石にする貝殻が拾えたから、「ごいしが浜」。後に「゛」の位置が変わって「こいじが浜」と。いかがでしょう。
隠居まあ、語源としてはもっともらしくて、面白いですな。
ま、芭蕉が「いかなる故にか」という、伊良湖は伊勢の名所となっているというのは、いかがかな。
書生さっき、隠居が、万葉の麻続王おみのおおきみについておっしゃいましたね。
その歌って、地元の人が「打つ麻を麻続王海人あまなれや伊良虞の島の玉藻刈ります」、麻続王が、答えて「うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島に玉藻刈り食す」と読んだあれですよね。地元の人も王も「島」と言ってます。万葉人は伊良湖は島だと思ってたんですよ。
伊勢の国から見ると、神島の向こうに伊良湖がすぐ近くに見えます。神島は今でも三重県ですよね。
隠居ほう。
書生はい。で、「いかなる故にか」は?
隠居「いかなる故にか」は「いかなる故にか」でよい。
書生……
骨山
隠居⑦、「骨山と云ふ」は、の「骨山」とは。
書生岩波本は、「ほねやま:岬の突端にある小高い山」、隠居の本では、「こつやま:先端の小高い山。現在コヤマと呼ぶ」、ですね。
隠居あいまいなんじゃ。だから、現地踏査をしてまいった。写真を見られよ。
中央の砂浜が、恋路ヶ浜、中央突端が「コヤマ」で、「古山」と書き、標高91メートル。
骨山からの眺望写真
隠居この写真、キャメラを構えたのが骨山ほねやま山頂辺り。曙の西景で、左は伊勢の答志島。
書生あら。ということは、「こつやま」でなくて「ほねやま」で、骨山はある。
隠居あると言うか、無いと言えばない。骨山はあるけれど、山頂はない。

ビューホテルP

削られて駐車場になっておる。なってはいますが、そこの建物に登れば、削った分の高さ。だから、高さもある。
書生あるんですね。
隠居撮り鷹名人あるから、そこで写真を撮った。ここが、タカの渡りの拠点じゃ。「南の海の果てにて、鷹のはじめて渡る所」は、「春に、南の果てから、海を渡って、タカが初めて陸地に着く所」じゃよ。
春はバラバラとやってくるが、秋に南に行くときはすごい。上昇気流を待って、数百メートル上昇し一気に南を目指す。上昇気流がないと、待つわけ。待ってる内にタカがたまるが、気流が起こると一気に飛び立つ。
ときには数百羽、いや千羽のタカが舞い上がるが、これを鷹柱と言う。
書生へえ。これ、どこでしょう?
隠居

伊良湖ビューホテル。最上階には、プレミアムワイドビューツインルームがある。

書生いい部屋に泊まったんですねえ。
隠居

いや。泊まるにやぶさかでないが、手元不如意の折節、普通の部屋を所望いたした。
ともあれ、鷹柱は、この伊良湖ビューホテル辺りに出ます。だから、骨山は断じてここであります。
伊良湖岬先端の古山ではありません。

書生⑦では、「鷹を打つ所」とありますが、とれましたか。
隠居鷹は素早いし空高くを飛ぶから、獲れるわけがない。
だから、タカが眠る夜、そっと近づいて両足をつかむか、おとりに襲いかかるのを待って、二つの網で挟む仕掛けで獲るかしたらしい。これは地元で聞いたこと。
書生いや、写真です。撮れましたか。
隠居モモアカノスリ

いやいや。
トンビは何枚も撮れたが、オオタカは超速い。
望遠で狙うのは至難の業であった。
屋上にいた撮り鷹名人に、掛川で練習するとよいと教えられ、帰り道に寄ってみた。
苦節を重ね、やっと撮れた。
これは、ももが赤いモモアカノスリ。
オオタカ並の狩猟能力があり、飛翔も速い。
高速シャッターでも背景が流れましたぞ。
 

モモアカノスリ

いらご鷹
書生いや見事です。
⑧に「いらご鷹など、歌にも詠めりけり」とありますね。
隠居

家隆や西行の歌にあります。西行歌は再掲です。
 ひきすゑよ伊良湖の鷹の山帰り まだひはたかしこころそらなり 家隆
 巣鷹わたる伊良湖が崎をうたがひて なほきにかくる山帰りかな 西行

芭蕉の脳裏に浮かんだのは西行歌でしょう。「なほあはれ」と感じた事実を踏まえればよいでしょう。

書生⑧の文は、完結していません。
隠居完結しておる。
「またいっそうあわれに感じていたところ、タカを一匹見付けてうれしかった。」と。
書生あら、なるほど。句も文のうちなんですね。
しかし、タカは渡り鳥です。この日は今の12月半ばで、もういないでしょう。
隠居

なるほど。
これは、名人からの受け売りですが、秋、タカはほとんどが南に行き、サシバ・ハチクマはまず残らない。でも、オオタカやハヤブサは、残るものもいると。
西行歌「巣鷹渡る」の詞書に「ふたつありける鷹の、伊良湖わたりをすると申しけるが、ひとつの鷹は留まりて、木の末にかかりて侍ると申しけるをききて」とあります。
「巣鷹」は、今年巣立った若タカ、「山帰り」は、山留まりを経験したタカです。
「山帰り」は、ためらって、また越冬するのでしょう。西行も「山帰り」です。西行は、自分を重ねているのでしょうか。などなど、思い巡らせば、実にあはれですな。
ともあれ、ここでは、「見付けて嬉し」をしっかりとらえましょう。芭蕉は探し求めていたから、嬉しいのです。芭蕉が見付けたタカは、西行でしょうか、杜国でしょうか。
 鷹一つ見付てうれしいらこ崎
伊良湖の段、末尾にこの句があることで、タカが杜国に重ねられます。

↑ トップへ


linelineline

杜国と鷹

書生時にご隠居、吉田宿から天津縄手はいいんですが、その後いきなり伊良湖岬でしたね。
隠居何か抜けておると。
書生

杜国に再会した話や、その喜びはどこへいったのでしょう。
「鷹一つ見付けてうれし」と喜んでいますが、鷹が杜国なんですね。

さればこそあれたきままの霜の宿
隠居杜国屋敷址

そう読ませるための編集ですな。
 
杜国再会の句や文は残っておる。
この頃の日没は、午後5時前だが、それまでには再会しているはず。

「阿羅野」(荷兮編)
  人のいほりをたずねて
 さればこそあれたきままの霜の宿

「如行集」(如行編)
  畠村に至りて
  さればこそあれたき侭の霜の宿

書生

追放の経緯を逐一聞いて、そうかそうかと。だから、こんな荒れ放題の家にいるのかと。
……、「さればこそ」か、……
しかし、保美に移り住んで、最初から「あれたきまま」にしたのでしょうか?
名古屋の一等地で大店を張っていた人です。それなりに家の整備もしていたが、何かがあって、屈託し荒れ放題となったのではないでしょうか。
「弟かもしれない」坪井庄八の件、この年ですよね。「さればこそ」の中身は、追放のことでなくこの事件ではないでしょうか。
追放のことは、本人に聞かなくても越人から聞いて知っていたでしょ。知っていたから訪れているわけでしょ。

隠居

それは、推測の域を出んし、仮説としても証明はできん。詮方ないことじゃな。
それに、お主は裏の意味で読んでおる。
ま一度読む。
  人のいほりをたずねて
 さればこそあれたきままの霜の宿

表の意味は、
「兼て閑人の住居たりとて、心掛けて訪れしに、『結ぶにくやし雨なかりせば』と言へるごとくの庵なるに、『さればこそ』と、其人の清廉を称し給へるにや、余情ハ言外に巍々たり」
に語り尽くされている。
安永3年(1774)、乙由の門下康工こうこうの「蕉句後拾遺」じゃ。
細道にある仏頂和尚の歌、
 竪横の五尺にたらぬ草の庵 結ぶもくやし雨なかりせば
を踏まえての釈。
前後截断、この句だけを味わうと、こうなる。

書生

へえ。荒れ放題は、みじめじゃなく、理想的な庵。
それって、何たらセラピー。
過去に何をしたか、なぜかを問わない。今ここで、いかにあるかが問題。気づき、体験する中、自分自身であるという自由を取り戻していく。

梅つばき早咲ほめむ保美の里 / いらご崎似る物もなし鷹の声
隠居

まあ、見方が変われば逆境は、順境となる。
そういう体験の場を、芭蕉は俳諧を通して示しておる。別段のことではない。


  此里をほびといふ事ハ、
  むかし院のみかどのほめさせ給ふ地なるによりて、ほう美といふよし、
  里人の語り侍るを、いづれの文に書きとどめたるともしらず侍れども、
  いともかしこく覚え侍るままに、
 梅つばき早咲ほめむ保美の里
  いらご崎ほど近ければ、見に行き侍りて、
 いらご崎似る物もなし鷹の声
        武陵芭蕉散人桃青


これは、帰り際、杜国及び土地の人に与えた俳文。
お主、何と読まれる。

書生

保美は由緒ある素敵な里だ。
杜国よお前は、類のない鷹だと。
はい。まるで、杜国に生きる力を注ぐかのように思われます。

麦生えて能き隠れ家や畠村
隠居

そうじゃろう。
では、前後するが、その間に詠まれた他の句も見ていこう。
先ず、この三つ物。

書生

 麦生えて能き隠れ家や畠村  はせを
  冬をさかりに椿咲く也   越人
 昼の空蚤かむ犬の寝かへりて 野仁(杜国)


畠村ですか。保美でしたよね。

隠居

畠神社畠村は、今の田原市福江町。保美は田原市保美町。
解説書に、「杜国は先ず畠村に行き、後保美に移った」というようなことが書いてありますが、根拠が示されていません。
芭蕉は、「杜国亭にいて、畠村と言い、同時に保美と言っている」わけです。
 麦生えて能き隠れ家や畠村
 梅つばき早咲ほめむ保美の里

どちらも、「今の杜国亭の場所」を言っているわけで、以前の住まいを詠んだ訳ではない。
芭蕉は、嘘を言いませんから、答えは一つしかない。
すなわち、杜国亭は保美と畠村にまたがっていた訳であるな。
確かめるまでもないが、畠神社に「麦生えて」の句碑が建ったというので、見に行った折、杜国亭にも行ってまいった。

書生

句碑は?

隠居

畠神社と書いた石碑と鳥居との間に、案内看板が僅かに写っておりましょう。黒御影の碑面に、鮮やかな白字で「麦はえてよき隠家や畠村」とありました。実に読みやすい。句碑はこうありたいものと感じ入りました。この句は「笈日記」の表記ですな。

書生

折角見に行って、お写真は?

隠居

撮ったつもりでしたがな。
句の後に、確か「貞享四年十一月十三日」とありましてな。これは正しい。「如行集」にもそうあって、「正しいけれど、首肯できぬが」と、悩みつつ潮音寺に向かってしまい、撮り忘れたんですな。

書生

おや。

隠居

潮音寺は近くでした。晋永機揮毫の句碑がありました。其角堂永機は、義仲寺で芭蕉200回忌を行った方です。
碑は、芭蕉・越人・野仁の三句三吟。曇り空で陰影が映らなかったので、画像処理してもらいました。

三吟句碑

「丙申初秋」とありますから、明治29年の揮毫と分かります。大正11年、万菊社中により建立されています。26年後ですから、永機は見られなかったことでしょう。


杜国亭跡

潮音寺から800メートルくらいで、「杜国屋敷址」。よく整備され、杜国句碑もあります。
 春ながら名古屋にも似ぬ空の色 杜国
杜国亭は、畠村との境界、保美側にありました。
画面左端のカーブミラーや、右手看板の向こう側は畠村です。
つまり、保美ではありますが、杜国亭は畠村に食い込んだ土地でした。
また、境界の目印となるような道や川はありません。手前に道路が映っていますが、これが境界のように見えます。
両村にまたがっているという予想は外れましたが、行政上は保美であっても、見かけは畠村であったわけすでな。

書生

ということは、芭蕉は畠村と思って詠んだ。それを訂正され、以後は保美とした。

隠居

そういうことです。
詠んだ句は、「麦生えて」ですから「畠村」、下五を「保美の里」にはできません。
従って、この「麦生えて」句、「如行集」に13日とありますが、保美到着の11日と決まります。
到着直後の挨拶句は、
 さればこそあれたき侭の霜の宿
です。これは、詞書「畠村に至りて」でわかります。

罫線「如行集」如行編 (再掲)
霜月十日の夜
三河の国いらごといふ所に、杜国といひし此道のすき人有、翁むかしよりむつまじくかたりたまひけるゆゑ、かの所たづね給ふ道すがら、霜月十日の夜よし田にて名古屋の越人を伴ひければ、
 寒けれどふたり旅寝ぞたのもしき 芭蕉
 凩に菅笠たつる旅寝かな     越人
 ごを焼て手拭あぶる氷かな 芭蕉11日暁

同十二日
 鷹ひとつ見つけて嬉しいらご崎  芭蕉
 冬海や砂吹あくる花のなみ  閑人野仁


同十三日
畠村に至りて
 さればこそあれたき侭の霜の宿 芭蕉11日夕

 麦蒔てよき隠れ家や畠むら 同11日暮
とありければ、
 冬を盛りに椿咲くなり      越人
 昼の空蚤かむ犬の寝かへりて   野仁

あまつ縄手を通とて
 冬の田の馬上にすくむ影法師 芭蕉11日朝
書生

「阿羅野」は「人のいほりをたずねて」でした。
「如行集」の13日分はすべて11日でしたか。

隠居

そうです。ただ、脇・第三は後日かも知れませんが、越人・杜国ですから、すぐ付けたことでしょう。

書生

神社でご隠居が悩まれたわけが分かりました。

隠居

保美の句がありましたな。
 梅つばき早咲ほめむ保美の里
これは、地名を入れ損ねたので、「保美」と正して作り直したのでしょう。12日か13日の作です。 12日の句がまだあります。
 いらご崎似る物もなし鷹の声
これは、既に味わいました。
 先いわへ梅をこころの冬篭
これは、13日。次に出ます。
この3句、如行の記録に載らなかったわけもうなずけることでしょう。

「麦生えて」、三吟三句
書生

はあ、なるほど。
これで、句の日にちが特定できますし、芭蕉が畠村と保美の句を詠んだ説明が付きますね。初めは畠村と思っていたわけです。この滞在中に杜国が転居する可能性はありませんから。
潮音寺三吟句碑の字を拾ってみます。
 麦はへて能隠家や畑村    はせを
  冬をさかりに椿咲也    越人
 昼の空蚤かむ犬のねかへりて 野仁

時に、脇が越人なのはどうでしょう?
当然、杜国の脇かと。なのに、越人の脇ですね。

隠居

ん?如何なる問いか、解しかねる。

書生

前にご隠居は、「客発句、脇亭主」と。
杜国が亭主ですよね。杜国が、屈託して出せなかったとか。

隠居

おおそうか。
「客発句、脇亭主」は、文字通り「発句が客の位、脇が亭主の位」ということでな、「発句は客が詠み、脇は亭主が詠む」ということではござらん。
古式の「誹諧小式」に、「第三は相伴人」ともある。また、読んでおかれよ。

書生

おや、そうでしたか。

夢よりも現の鷹ぞ頼もしき
隠居

まあ、土芳も「三冊子の白」で「脇は亭主のなす事むかしよりいう」などと書いておる。お気に召されるな。
脇作法」に加えるといたそう。
さて、越人の「鵲尾冠」にある、もう一つの鷹の句。


  杜国が不幸を伊良古崎に訪ねて、鷹の声を折りふし聞きて、
 夢よりも現うつつの鷹ぞ頼もしき

書生鷹の声を実際に聞くと、夢よりも頼もしいと。
隠居

古今集に、「夢・うつつ」を読み込んだのが11首あるが、中に、
 むばたまの闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり
というのがある。
これを踏まえていよう。

書生

うつつが勝っていると。
ご隠居は、鷹を写そうと夢見て、遂に撮影なさったのですが、芭蕉が夢見たのは杜国ですよね。

隠居そう、杜国じゃ。
書生

鷹三句を並べてみます。


 夢よりも現の鷹ぞ頼もしき
 いらご崎似る物もなし鷹の声
 鷹一つ見付てうれしいらこ崎


鷹はすべて杜国……
やはり、鷹は杜国です。

隠居だから……
書生

いえね、この鷹は渡りそびれ、仲間にはぐれ、ただ一羽伊良湖にいます。
杜国そのものじゃないですか。

隠居

ほお。

書生

蓬左の仲間と別れ、一人伊良湖にいます。
「独りだけれど、お主は鷹だ」と、繰り返し杜国に言っているわけです。

隠居

なるほど。

書生あとは、杜国が本来の自分を取り戻せば、いいんですが。
隠居

取り戻しますが、その前にもう一つ。

↑ トップへ


linelineline

権七にしめす

隠居杜甫七言律詩

「権七にしめす」を読むには、杜甫の詩を承知しておかねばなりません。
「 獠 奴の阿段に示す」という右の七言律詩。
獠 は、南西の夷の国。人に名前はなく、長男は阿段と呼ばれていた。
これが杜甫の召使い。
飲み水の乏しい所にいたときの話でな、
②の竹竿は、竹の樋で遠い山から水を引いていたわけ。
③の「瀝」は「滴」と同じで、「したたり」。
④豎子は、若者をさげすんで呼ぶ言葉、若造とか。阿段のことじゃな。
また、⑤にあるように、杜甫は「渇きの病」、すなわち糖尿病。水がないとつらいですな。
⑦にある陶侃は、人名。召使いは大勢いたが、ある日無口な胡の奴僕を得た。後に僧がこの奴僕を見て驚き、礼をする。実は、尊いお方でありました。
あとは、読書百遍。

書生

読むだけでも大変そうですが、一応、


① 山の木は、蒼蒼(そうそう)として、落日は曛れゆき、
② 竹竿は裊裊(なよなよ)として、細泉に分かる。
③ 郡人〔村人〕は、夜に入って餘瀝〔わずかな滴り〕を爭ふ。
④ <だが>豎子〔阿段〕は源を尋ねて獨り聞せず。
⑤ <我は>渇を病んで、三更〔夜更け〕に白首を迴せば、
⑥ <水の>聲を傅へて、一つ注ぎ、青雲を濕す。
⑦ 曾て驚く、陶侃の胡奴に異なるに、
⑧ 爾(なんじ)が常に虎豹の羣〔群〕を穿つを怪む。


と、いうところかな。

隠居

うむ。

書生

③④は、「阿段は村人の水争いに加わらず、水源を尋ねて直しに行った」と了解。
⑤、「病でのどが渇いて、夜更けに白髪頭をめぐらすと、」、⑥「水音が聞こえ、しぶきが青雲を潤すほどだ」と、阿段が水路の修理を済ませたことが分かります。
⑧は、どうも。阿段は虎や豹をやっつけていたんですか?

隠居

いや、「穿つ」は、群を分け入って進むと解釈する。恐れないということですな。

先いわへ梅をこころの冬篭
書生

なるほど。
で、「権七にしめす」は、杜甫の「阿段に示す」を踏まえているのですね。

隠居

そのとおり。「権七」もまた仮の名。
七部集にあったろ、道心坊主を「西念」としたり、

書生

鳥刺しが、「仁平次」で、農家の律儀者は「作大夫」でしたね。
で、召使いは「権七」と。

隠居

そうです。
右は、「はけついで」にある俳文、「権七にしめす」。

罫線刷毛序はけついで
巴静はじょう編、宝永3年刊


「権七にしめす」
① 旧里を去てしばらく田野に身をさすらふ人あり。
② 家僕何がし水木のために身をくるしめ、心をいたましめ、 其獠奴阿段が功をあらそひ、陶侃が胡奴をしたふ。
③ まことや道は其人を取べからず。
④ 物はそのかたちにあらず。
⑤ 下位に有ても上智の人ありといへり。
⑥ 猶石心鉄肝たゆむ事なかれ。
⑦ 主も其善のわするべからず。
⑧  祝
⑨ 先いわへ梅をこころの冬篭   芭蕉

書生

①のさすらう人は杜国。
②の家僕は権七。「水木」は、水や燃料の薪を得るのに苦労をしていた。その働きは、阿段に匹敵し、胡奴に追随すると。
杜甫を読んだので、すんなりと分かります。

隠居

伊良湖も、地形上、水が乏しかったようですな。

書生

「麦生えて」とありました。畑作ですね。
④⑤、いいですね。人は身分や地位じゃない。
⑥は権七への言葉、⑦は、あれ、杜国への言葉ですね。主も権七の善を忘れるなと。
題と合いません。

隠居

まあ、味わうことです。
曠野巻之八、巻末に⑨句がある。その詞書きは、「しばしかくれゐる人に申遣はす」で、杜国に贈ったものと分かる。

書生

では⑧、「祝い」です。
 先ず祝え梅を心の冬篭り
冬篭もりをする今だが、梅の咲く春も来る。冬篭もりは花咲くための時期……
希望を持てということですか。で、「祝え」ですか、……、先ず……

隠居

また固まったか。

書生ご、ご隠居。
隠居

うむ。

書生

はい。
俗事に惑わされず、俳諧の道に専念できる情況が、調ったではないか。
これを先ず祝えと。

隠居

うむ。

書生

理想的な庵がある。
麦も生えていいところである。
みかどがほめた、ほう美という由緒ある地である。
梅・つばきが早咲きする地である。 
阿段・胡奴に匹敵する権七がいる。
一羽でいようが鷹は鷹である。
だから、祝えと。

隠居

うむ。

書生 でも、言われて、その気になりますかね。
隠居

なる。
……、証拠がある。

↑ トップへ


杜国回生

書生して、その証拠とは?
隠居

右は「阿羅野」の「曠野集巻之七」、芭蕉句、杜国句のすべてじゃ。
斜体の2句は、「野晒しの旅」の句、他は「笈の小文の旅」で、江戸に帰るまでのもの。
ほとんどが、これから講読する句で、なじみがないかもしれぬ。
だが、杜国句に回生の句がある。

罫線
曠野集巻之七の芭蕉句
 
から崎の松は花より朧にて
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋
いざよひもまださらしなの郡哉
星崎のやみを見よとや鳴千鳥
雲雀より上にやすらふ峠かな
花の陰謡に似たる旅ねかな
ひとつ脱で後におひぬ衣がへ
おくられつおくりつはては木曽の秋
草枕犬もしぐるゝか夜るの聲
寒けれど二人旅ねぞたのもしき
旅寐して見しや浮世の煤拂
父母のしきりに恋し雉子の声
さればこそあれたきまゝの霜の宿
ふるさとや臍の緒に泣年の暮
埋火もきゆやなみだの烹る音
神垣やおもひもかけず涅槃像
灌佛の日に生れ逢ふ鹿の子哉
先祝へ梅を心の冬篭り



曠野集巻之七の杜国句
八重がすみ奥迄見たる龍田哉
芳野出て布子賣おし更衣
散花にたぶさ恥けり奥の院
こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉

杜国句 先いわへ梅をこころの冬篭
書生

杜国句は4句。
上三つは旅の句ですね。
消去法でいくと、「こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉」ですか?

隠居

そのとおり。
詞書きがありましてな。
  旧里の人に云ひつかはす
 こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉

と。

書生

旧里は、尾張の蓬左ですね。
蓬左の人にと、言い遣わしました。
越人に託したんでしょうね。

隠居

そうじゃな。土産をそえてな。
「蓬左の人」とは荷兮、
「ある人のもとより見よやとて、落葉を一篭おくられて、
 あはれなる落葉に燒く(たく)や島さより
とな。

書生落葉一篭とサヨリを贈ったんですね。
隠居

貞享4年11月16日、鳴海から戻った越人が、翌17日荷兮に届けました。
冬から春がサヨリの旬、これは干物ですな。
と、いうことより、荷兮が「あはれなる」と受けたところが見事ですな。

書生

杜国の回生ですよね。
 こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉 杜国
 あはれなる落葉に燒くや島さより 荷兮

杜国の落葉、小指の傷、……あはれなる落葉、……
ご隠居、つながりません。

隠居

右は、杜国が踏まえた「世説新語」にあるお話。
先ず読んでみる。

世説新語
書生

はあ。
范宣年八歳のとき、後園に菜を挑り、誤りて指を傷め大いに啼く。
人問ふ、「痛むか」と。
答へて曰く、「痛むが爲にあらず。身體髪膚、敢へて毀傷せず。是を以ちて啼くのみ」と。

隠居

いかがかな。

書生菜を採るとき指にけがをした。痛いから泣くのではない。「身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」と、親不孝を嘆いたのですね。
隠居

「孝経」の教えじゃ。「身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以って父母を顕わすは、孝の終わりなり」と続くな。

書生

杜国の句は、
 こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉
ですね。これを荷兮に届けさせた。
こがらしの……

隠居

いかがなされた。

書生

はい。つながりました。
まず、「こがらしの」。これは、「冬の日」の「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」を連想させます。また、芭蕉、荷兮、杜国をつなぐ言葉と言えます。
次に、「落葉」。この落葉を集める仕事は、保美での日常的な作業でしょう。落葉を集めるという自然とのかかわりを受け入れています。「見よや」と荷兮に贈る行為には、誇りすら感じさせます。
そして、「やぶる小ゆび」。我が身を愛おしむのは、孝の始め、と言うより自己肯定の礎です。
これは自然な感情ですが、逆境に置かれたと感じる人には、発動しません。
芭蕉の数々の言葉と態度で、逆境が順境と感じられたからではないかと思われます。
つまり、自分の境遇を祝った結果生じた句です。

隠居

いかにも。

書生杜国は回生しました。
隠居

いか様。

↑ トップへ



笈の小文、講読の振返り
 
04 保美(吉田~天津縄手~保美~伊良古崎)
書生

ここも11月8日から16日まで、日毎の足跡を示せました。
大きな成果は、「骨山と云は、鷹を打処なり」の「骨山」は、岬の先端にある「古山」ではなく、伊良湖ビューホテルの建つ山と指摘できたことです。

隠居

現地踏査の成果ですな。

書生

「鷹一つ見付てうれしいらこ崎」は、その骨山の吟でした。
この一羽の鷹は、渡りそびれ、仲間とはぐれた鷹で、杜国と重なりました。
また、伊良湖の段の最後に置かれているのも印象的です。
また、杜国の罪と罰について、整理できたのも成果です。情報が乱れている部分ですから、正すことができたでしょう。

隠居

流罪とか蟄居とか無茶苦茶でしたな。
また、芭蕉男色説にも、疑問を投げかけましたな。
芭蕉が男色であっても別に構いませんが、根拠がなければいけません。
野ざらし紀行の杜国に贈る句
 白げしににはねもぐ蝶の形見哉
についても同断ですな。
何にせよ、先入観を持って読むことは避けたいものです。

書生

「冬の日や」句も、新しい鑑賞の視点が見えました。

隠居

発句は味わう文学、表現をきちんととらえた上で、創造的に味わえるとよいでしょう。
また、伊良湖岬往復の道筋を示せたのも成果です。「一里計有べし」も納得できましたな。

↑ トップへ

 


 
  ---笈の小文講読ページの解説---