笈の小文 伊賀上野(佐屋~日永~伊賀上野~阿波の庄)

笈の小文 索引
序文序章鳴海保美熱田伊賀伊勢吉野高野奈良須磨箕面旅後
笈の小文 伊賀 索引
原文杖突坂~上野~阿波、探丸亭旅程佐屋~桑名~日永~伊賀上野
講読桑名~日永~杖突坂歳末「旧里や」句、生家
新年「二日にも」、伊賀上野生家、付「俳諧一葉集」・「徒然草」
初春「春立ちて」・「枯芝や」新大仏「丈六に」
資料佐屋から伊賀上野までの経路三里の渡しで興を失う事
杖突坂で落馬する事「手鼻かむ」・「香に匂へ」
新大仏寺での句を土芳らと検討「あこくその」句
番外資料 : 「杖突坂」の検討、古事記・古事記伝

伊賀上野


 芭蕉は、佐屋の渡しから東海道、伊賀街道を経由し郷里に至る。伊賀上野で年を越し、伊勢神宮参拝に発つ。

 このページでは、伊賀上野までの行程、伊賀上野での行動の解明を目指します。伊勢神宮参拝後、再度伊賀上野で過ごしますが、その間にかかわる内容は、伊勢のページで検討します。


笈の小文

伊賀上野

段落区分笈の小文、本文備考

道中

杖衝坂

 桑名よりくはで来ぬればと云日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。

↓ 「杖突坂」へ

↓ 「杖突坂で落馬」へ

 歩行ならば杖つき坂を落馬哉

 と物うさのあまり云出侍れども、終に季ことばいらず。

伊賀

上野

旧里 旧里や臍の緒に泣としの暮

↓ 「旧里や」句へ

↓ 「二日にも」句へ

 宵のとし空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば、
 二日にもぬかりはせじな花の春
初春 初春

↓ 「春立て」句・「枯芝や」句へ

 春立てまだ九日の野山哉
 枯芝やややかげろふの一二寸

伊賀

阿波

大仏 伊賀の国阿波の庄といふ所に、俊乗上人の旧跡有。護峰山新大仏寺とかや云。名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶て田畑と名の替り、丈六の尊像は苔の緑に埋て、御ぐしのみ現前とおがまれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全くおはしまし侍るぞ、其代の名残うたがふ処なく、涙こぼるゝ計也。石の蓮台獅子の坐などは、蓬葎の上に堆ク、双林の枯たる跡も、まのあたりにこそ覚えられけれ。

↓ 「新大仏」へ

 丈六にかげろふ高し石の上

伊賀
上野

探丸亭 故主蝉吟公の庭にて、

※伊勢の後に移動

→ 伊勢の後、「さまざまの」句へ

 さまざまの事おもひ出す桜哉

笈の小文 「旅程 佐屋・桑名・日永・伊賀上野」
隠居旅程表、大儀であった。
書生

ですが、伊賀上野着は中旬で、下旬にはなりません。

隠居ほお。
書生東海道は、難所があるのに1日平均31キロ歩いています。
名古屋から伊賀上野までは104キロで、3,4日で着くはずでしょ。
それが、7日かけないと、伊賀上野着が下旬になりません。
隠居その、下旬着の根拠は?
書生岩波の「芭蕉紀行文集」の付録に、「12月下旬 伊賀に帰着し越年」とあります。
隠居だから、その根拠は?
書生……、それは、知りません。
隠居下旬の根拠を聞かれて、「下旬と書いてある」では、永遠に解決しません。
書生じゃあ、教えてくださいよ。
隠居はて。
で、早くて何日の着になる?
書生16日です。
隠居中旬ですな。下旬の始まる21日まで、5日のゆとりですな。

旅程④ 貞享4年12月14日~貞享5年2月3日、佐屋~桑名~伊賀上野
<足跡>事項移動逗留宿所移動左累計
貞亨41214

<荷兮亭-津島街道→甚目寺→梅田追分-佐屋街道→佐屋宿>

○伊賀上野までの経路について

津島街道
佐屋街道
佐屋宿21.3 621.3
貞亨41215

<佐屋宿-三里の渡し→桑名宿>

○三里の渡しで興を失う事

三里の渡し桑名宿11.5 632.8
貞亨41216

<桑名宿-東海道→四日市宿>

東海道四日市宿13.4 646.2
貞亨41217

<四日市宿→杖突坂→石薬師宿>

○杖突坂で落馬する事
「徒歩ならば」土芳付合

《古事記、杖突坂の検討》

東海道石薬師宿11.3 657.5
貞亨41218<石薬師宿→庄野宿>東海道庄野宿3.6 661.1
貞亨41219<庄野宿→亀山宿→関宿>東海道関宿14.1 675.2
貞亨41220<関宿-大和街道(加太越奈良道)→上柘植宿>大和街道上柘植宿16.1 691.3
貞亨41221<上柘植宿→伊賀上野>大和街道上野赤坂
芭蕉生家
13.1 704.4
貞亨41222上野生家上野生家 -704.4
貞亨41223上野生家上野生家 -704.4
貞亨41224上野生家上野生家 -704.4
貞亨41225上野生家上野生家 -704.4
貞亨41226上野生家上野生家 -704.4
貞亨41227上野生家上野生家 -704.4
貞亨41228上野生家上野生家 -704.4
貞亨41229上野生家上野生家 -704.4
貞亨41230

旧里や臍の緒に泣としの暮

上野生家上野生家 -704.4
貞亨511

二日にもぬかりはせじな花の春

上野生家上野生家 -704.4
貞亨512節分上野生家上野生家 -704.4
貞亨513立春上野生家上野生家 -704.4
貞亨514上野生家上野生家 -704.4
貞亨515上野生家上野生家 -704.4
貞亨516上野生家上野生家 -704.4
貞亨517上野生家上野生家 -704.4
貞亨518上野生家上野生家 -704.4
貞亨519上野生家上野生家 -704.4
貞亨5110上野生家上野生家 -704.4
貞亨5111上野生家上野生家 -704.4
貞亨5112上野生家上野生家 -704.4
貞亨5113

<上野生家→風麦亭→上野生家>
風麦亭で句会。

春たちてまだ九日の野山哉

上野忍町風麦亭上野生家 1.7 706.1
貞亨5114上野生家上野生家 -706.1
貞亨5115

<上野生家→伊賀の山家→上野生家>

手鼻かむ音さへ梅の盛り哉

枯芝ややゝかげろふの一二寸

香に匂ほへうにほる岡の梅のはな

「香に匂へ」句を、土芳の些中庵で披露-伊勢のページ3月11日へ

伊賀の山家上野生家 17.4 723.5
貞亨5116上野生家上野生家 -723.5
貞亨5117上野生家上野生家 -723.5
貞亨5118雨水上野生家上野生家 -723.5
貞亨5119

<上野生家→新大仏寺→上野生家>

新大仏寺参拝

丈六にかげろふ高し石の上

新大仏寺上野生家 33.8 757.3
貞亨5120上野生家上野生家 -757.3
貞亨5121

<上野生家→土芳庵→上野生家>
新大仏寺での句を土芳らに聞かす

西日南町
土芳庵
上野生家 2.8 760.1
貞亨5122上野生家上野生家 -760.1
貞亨5123

<上野生家→風麦亭→上野生家>
風麦亭兼日会

あこくその心も知らず梅の花

風麦亭上野生家 1.7 761.8
貞亨5124上野生家上野生家 -761.8
貞亨5125 其角から書簡あり(略)上野生家上野生家 -761.8
貞亨5126上野生家上野生家 -761.8
貞亨5127上野生家上野生家 -761.8
貞亨5128上野生家上野生家 -761.8
貞亨5129上野生家上野生家 -761.8
貞亨521上野生家上野生家 -761.8
※伊賀上野到着を12月下旬に設定している。普通なら、遅くとも12月16,17日に伊賀上野に着く。

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笈の小文 「桑名・日永・杖突坂・伊賀上野」
 

伊賀上野までの経路

隠居

芭蕉の足跡をきちんと押さえることが大切。
しかし、この辺り、資料も限られましょう。

罫線

 ━━ 津島街道 ━━ 本町通(名城-宮)
 ━━ 佐屋街道 ━━ 柳街道(納屋橋-烏森)

書生

はい。一応できました。
荷兮亭から名古屋城をかすめて西進、豊臣秀吉・加藤清正生誕の中村を左に望み、枇杷島から庄内川・新川を渡り、美濃街道に別れ、津島街道を西進します。
甚目寺から、福島正則生誕の美和、福島家ゆかりの蜂須賀を右に見て、
織田信長生誕の勝幡から、緩やかに南下し、
廃止となった津島湊を右に見て、埋田追分から佐屋街道。程なく、佐屋宿に至ります。
なお、航路が陸地を通りますが、今の地形に重ねましたから、こうなりました。

隠居随分武将を並べましたな。
津島街道は、上街道と言って、名鉄津島線に沿っていますな。
書生メー鉄って、名古屋鉄道でしたね。津島街道は、大体沿ってます。
近鉄八田はった駅近くの、岩塚・万場宿から神守宿へと、佐屋街道がありますが、当時は海岸線近くですね。
隠居佐屋街道は、八田駅辺りから、近鉄や関西線から離れていきます。
佐屋の南の弥富駅は、日本一低い地上駅と言われ、海抜マイナス0.93メートル。
書生へえ。
隠居烏森

元禄7年5月、荷兮の許を立ち佐屋へ向かったときは、佐屋街道を通っています。
このときは、荷兮・越人たちが烏森かすもり辺りまで送っています。烏森は、岩塚宿の手前。蓬左からは、柳街道を行き、右手烏森郵便局の脇から佐屋街道へ出ます。
また、岩塚宿を過ぎた辺りで、露川たちが待ち構えていて、佐屋までおくっています。
「笈の小文」の旅は、馬島村の一井がかかわっていたとすれば、津島街道のほうへいくでしょうね。

書生 そうですか。どちらか分かりませんね。旅程表は、上街道と言われる津島街道としてありますが、距離はほとんど変わりません。
いずれ、佐屋泊まりです。
隠居泊まりになりますか。
書生冬の日没は早い上、西に養老山地が迫るところで、すぐ暗くなるでしょう。 だから、佐屋泊まりでよろしいかと。
隠居うむ。
書生荷兮亭から熱田の宮の渡しまでは、快適な本町通りを一直線、6.7キロ、1時間半です。
どうして佐屋から、三里の渡しなんでしょう。
隠居冬ですからな。
芭蕉は、厳冬の七里の渡しを、既に経験している。「野ざらし紀行」を読むときに分かりますがな、この時は日和を選んでいます。
・ 冬は船中でじっとしていると寒いから、なるべく歩きたかった。
・ 北風が厳しく、七里の渡しは、船留めの可能性があった。
などの理由が挙げられましょう。
書生はあ。
隠居冬の船旅はつらい。だから、短い三里を選んだのでしょう。
琵琶湖の低地を抜け伊吹おろしとなる北風は、きつい。冬の七里の渡しは、東海道の難所で、難破も多かったようです。七里の渡しで行くと、桑名終点への航路は、北向きになり、揖斐川の流れや風に逆らうので時間も掛かる。
それに対し、三里の渡しは、川の流れや北風に助けられます。
さらに、落梧や如行に岐阜・大垣行きを約束しましたな。そのとき、三里の渡しから、岐阜の山が見えると聞いたとしても差し支えあるまい。木曽・長良・揖斐の三川を渡りつつ、北を眺めれば、伊吹山や金華山が見えますぞと。
書生伊吹おろしですか。
隠居何せ伊吹おろしはきついので、伊勢湾内のセントレア空港も大変だそうな。
宮から四日市まで、十里の渡しもあるが、下手すると北風に流されて、伊良湖へ行ってしまいます。
書生杜国にまた会えますね。
隠居何をまた。桑名からは、東海道。

桑名、伊賀間の足跡

書生この足跡図のように、三里の渡しで桑名へ、伊勢街道と別れる日永追分をそのまま東海道を行きまして、関からは西の追分で大和街道に入り、郷里伊賀へ。
関西本線に沿っていますね。
隠居経路には、問題ありませんな。
書生まったくありません。
隠居経路にはないが、時程にはある。
泊まり過ぎではないかな。「野ざらしの旅」では、12月23か24日に熱田を出て、25日暮れに伊賀上野に着いていますよ。
書生芭蕉は落馬で負傷して、しばらく養生したか、ゆっくり行ったかでしょう。
隠居うむ。
書生「伊賀上野に下旬着」だと、こうなります。岩波の本に下旬とある以上、譲れません。

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三里の渡しで興を失う事

隠居では、三里の渡し。
本文を補う資料、「杖突坂の落馬」の冒頭。
罫線


貞享4年12月15日、佐屋~桑名
三里の渡しで興を失う事、
「真蹟懐紙」・「横日記」

① 佐屋より恐ろしき髭など生ひたる飛脚めきたるおのこ同船しけるに、
折々舟人をねめにらみいかるに興さめて、山々の景色うしなふ心地し侍る。 
  「真蹟懐紙」(芭蕉、貞享5)


② 佐屋の舟廻りふなまわりしに、
有明の月入り果てて、美濃路・近江路の山々降りかかりて、いとをかしきに、
恐ろしく髭生ひたる、武士の下部しもべ=召使いなどといふ者の、ややもすればともすると舟人を睨めねめ怒る<姿、有様>ぞ、興失ふ心地せらる。
  「横日記」(土芳、元禄2)

書生

①、「佐屋から、恐ろしいヒゲのはえた、飛脚風の男が同船したのだが、
折々に、舟方(或いは船客)を、

にらんで怒るのに興がさめて、
折角の山々の景色が失われるような心地がしました」

②、「佐屋の舟廻り(ふなまわり)をしたときに、
有明の月は、入り果てて、

美濃路・近江路の山々に雪が降り掛かって、大層風情があるときに、
恐ろしくひげが生えた、武士の召使いなどという者(奴でしょうか)が、

どうかすると、舟人をにらみ怒るありさまは、まったく興を失う心地になられた」

隠居①は、芭蕉本人が書いたもの。
②は、伊賀の門人土芳が、「芭蕉が新年に書いたもの」を基に、翌元禄2年に書いたものです。
書生ヒゲの男が、「飛脚」か「武士の僕(しもべ)」か、違っていますね。
隠居

本人が書いた「飛脚」が本当なんでしょうが、

芝居に出てくるような、ひげ面の奴のほうが、絵になって面白いですね。
②にある「有り明けの月は入り果てて」で、時刻が分かります。

書生

陰暦15日、明け方の月を見ていたから、「入り果てて」と言えますね。

沈んでから見たのでは、月があったかどうかわかりません。
この日は新暦1688年1月17日、月はかなり北よりに沈みます。

時刻は6時56分地平に入りますが、養老の山なみがありますから、実際はもっと早いでしょう。

月例は13.7、満月の前日ですね。
日の出は、7時1分で、月没とほぼ同時刻です。

伊吹山の写真

佐屋湊から真西へ数キロで、現在の木曽川の流れに出る。この辺りから、養老の山に白い伊吹山が隠れる。

隠居ほう。
書生これは、朝イチの舟ですから、佐屋泊まりは確定です。
隠居なるほど、正解でしたな。
②に、「美濃路・近江路の山々雪降りかかりて」とあります。これを何と読むかな。
書生はあ、門弟たちのいる方向ですね。あ、ご隠居も大正解ですね。
三里の渡しに来た理由の第3、大垣や岐阜の山々を見たいという説も確定です。
隠居しかり。
書生で、「舟廻り」は?「ふなまわり」と振ってありますが?
隠居これは「佐屋の渡しの舟で行く」の意味。
「宮から行くべきを佐屋から遠回りして」と誤解するとか、「『佐屋の』は『佐屋より』の間違い」と思うとか、ままある。それを避けて、複合語として読んだまで。
「舟廻り」は「舟で行く=渡し」で、書いてあるとおりに読めばよい。
ちなみに「舟で荷を運ぶ」は、「舟廻し(ふなまわし)」ですな。
では、この資料の読みを整理しよう。
書生養老の山なみに沈む満月を眺め、桑名へ向け、佐屋の「三里の渡し舟」に乗り、
すっかり沈んだ月の余韻を味わいつつ、
このところよく降った雪が、美濃路・近江路の山々に積もり、
「この旅の後会うつもりの門人たち」を心に浮かべ、その感興にひたりたかったが、
恐いひげ面の男が、人をにらんでどなるものだから、すっかり興が冷めてしまいました。
隠居ふむ。
書生

②に近江路が出ましたね。
近江路は、伊吹の裾、関ヶ原からと、鈴鹿峠からとありますが、行く手に見える鈴鹿越のほうでしょうね。伊吹山は、じきに養老の山に隠れていますし。

しかし、ここまでの旅の流れで、近江路は唐突かと。

隠居<

 辛崎の松は花より朧にて
芭蕉は、「野ざらし紀行」の途次、大津でこの句を詠んだが、この時千那と尚白が入門。次いで曲翠も入門。 曲翠は、大津膳所藩の中老。貞享4年までに江戸詰のとき、深川の芭蕉のもとに入門した。

この3人の弟子を近江路の山の向こうに見ていたのでしょうな。
今回の講読の流れでは、唐突じゃが、芭蕉の心に沿えば、あながち「唐突」ではあるまい。

鈴鹿連峰写真

佐屋の西からの景色。
右手前の山は養老山地、左端が多度山。左手遠く白いのが鈴鹿連峰。

東海道は鈴鹿連峰を南から回り、近江に向かう。

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杖突坂で落馬する事、「かちならば」句の付合

隠居では、杖突坂。
本文を補う資料、「杖突坂の落馬」で、佐屋の文に続くもの。
罫線

貞享4年12月15日、桑名~日永~杖突坂
杖突坂で落馬する事、「真蹟懐紙」・「横日記」


① 漸々ようよう桑名に付きて、処々籠に乗り、馬にておふ程、杖つき坂引きのぼすとて、荷鞍(にぐら、乗馬鞍に、荷を提げる仕掛けがついたもの)うちかへりて、馬より落ちぬ。
ひとり旅のわびしさも哀増して、やゝ起きあがれば、「まさな(正無し=みっともない、普通でない)の乗り手や」と、馬子には叱られて、
 かちならば杖つき坂を落馬哉
終に季の言葉、入らず。
  初春の状も、此事書き進じ候。もようをかしきゆへなり。
  「真蹟懐紙」(芭蕉、貞享5)


② 桑名より、所々馬に乗りて、杖突坂引き上すとて、荷鞍うち返りて、馬より落ちぬ。
ものの便りなき一人旅さへあるを、「まさなの乗り手や」と、馬子には叱られながら、
 徒歩ならば杖突坂を落馬かな
と云ひければ、季の詞なし。雑の句と言はむも、又悪しからじ。
  「横日記」(土芳、元禄2)


貞享4年12月下旬、伊賀上野
付合(つけあい)、「笈日記」


 かちならば杖つき坂を落馬哉 芭蕉
③ その後、伊賀の人々に、此句の脇してみるべき由ヲ申されしを、
  角のとがらぬ牛もあるもの  土芳
書生① やっとのこと、なんとか桑名に着いて、ちょいちょい駕篭に乗り、馬に負われていくうち、急な杖突坂を、馬子が引いて上らせようとして、荷鞍がひっくり返って、もろともに馬から落ちた。
だれにも助けられず、一人旅のわびしさも相増していて、しばらくして起きあがると、「とんでもなく下手な乗り手だ」と、馬子には叱られて、

 かちならば杖つき坂を落馬哉

ついに季節の言葉(=季語)が入らない。
初春の書状、書きものも、このことを書いて納めました。事の顛末や馬子の言葉に風狂を見るからである。

② 桑名から、所々馬に乗って、杖突坂を引き上らせようとして、荷鞍がうち返って、馬から落ちた。
何ら頼るものもない一人旅でさへあるのに、「とんでもなく下手な乗り手だ」と、馬子には叱られながら、

 徒歩ならば杖突坂を落馬かな

と詠んだのだが、季語はない。雑の句というものも、又悪くはない。

結構駕篭や馬を使っていたんですね。
隠居桑名からは、ほとんど平地だが、鳴海・熱田・名古屋と荷物が増えたのかな?
江戸の餞別は、伊賀に送らせてあるからよいのですが。
書生杖突坂、地名の由来です。
「その地を名付けて当芸(たぎ)と言ふ。その地よりやや少しいでますに、甚だ疲れませるによりて、御杖を突きて、稍に(ややに=少しずつ)歩み給ひき。故ニ、その地を名付けて杖突坂と言ふ。」(古事記)
今の養老辺りで、足がたぎたぎしく(トボトボと)なったので当芸と名付けた。少し進んで杖突坂とあり、養老の近くだから、ここのとは違いますよね。
隠居

違うけれどよい。
古事記の倭建命(やまとたけるのみこと)は、伊吹で病を得て、醒ヶ井、養老、杖突坂、多度、四日市と進み、能褒野(亀山)で崩御。だから、古事記の記述は、養老・多度間になる。
けれど、この東海道の杖突坂は、「芭蕉が通った杖突坂」で問題はない。

「杖突坂はどちらか」という古事記の検討は、芭蕉から離れるので、後でまとめよう。

書生実際、ネットで杖突坂を検索すると、「ここで足が三重になった」と、いい加減なことが書いてありますね。古事記を見ると、杖突坂から多度を過ぎ、四日市で「吾足、三重の勾りのごとくして」と書いてあるのに。

杖突坂碑

四日市市釆女町

隠居ネットの情報を鵜呑みにせぬことです。書物の情報も同様にな。
伊賀に着いたのは、12月末とか下旬とかもそう。
「その根拠は何だ」ということです。
書生はい。
隠居付合は?
書生③その後、伊賀の門人に、この句に脇を付けてみるようにおっしゃったところ、
  角のとがらぬ牛もあるもの
と、土芳が付けた。
隠居うむ。
「脇してみるべき由」の「由」って、何かな。
書生事訳ですか、えっと……
②の「雑の句と言はむも,又悪しからじ」、これですね。
隠居うむ。そこですな。
七部集に、雑の発句があったな。
書生

はいはい、序章でも触れました。

「ひさご、雑」乙州の、
 亀の甲烹らるる時は鳴もせず
ですね。

七部集>ひさご>「亀の甲の巻、九吟歌仙」を参照

やっと乙州登場です。

隠居

乙州は、たまたま。この「笈の小文」のころは、まだ入門していませんな。

本来鳴くはずだが、煮られるときは鳴かないと言うんで、鳴けば春の気配。脇は、
  唯牛糞に風のふく音 洒堂
牛糞堆肥作りは、冬から春にかけての作業、二季にわたって季語にはなりません。だが、この長閑さも春の気配。
なかなかの脇で、神業に近い。
まあ、これは笈の小文よりずっと後の句だから、引合いに出しただけで、どうこうはない。
無季の発句に無季の脇は、未知の領域にあったわけなので、まあやってみたらと、芭蕉は言ったわけですな。

書生で、土芳が、「角のとがらぬ牛もあるもの」と無季で添えたんですね。
隠居「角を突き合わせるつもりがない牛もいます。物事や状況にあらがわず、『杖突坂という名なら、杖を突けばよかったのに』と、思われるんでしょうねえ」と、応じたかな。
書生そういえば、渡し船に、角のとがった髭牛がいましたね。杖突坂で杖を突かないのも、程度の違いはあれ似たようなものだったということを、落馬の瞬間悟ったわけですか。
隠居「に」が「を」になっておるということは、そういうことかな。

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笈の小文、桑名~日永~杖突坂

隠居いよいよ本文。
名古屋から佐屋、佐屋から桑名の文はありませんな。
書生

いきなり桑名です。


「桑名より食はで来ぬれば」と云ふ日永の里より、馬ヲ借りて杖つき坂ヲ上るほど、荷鞍ガうちかへりて、馬より落ちぬ。
 歩行ならば杖つき坂を落馬哉
と物うさのあまり云ひ出で侍れども、終に季ことば入らず


「桑名より食はで来ぬれば」にカギ括弧がありますが、何かの引用ですか?

隠居そう、狂歌集の「古今夷曲集」に、
 桑名より くはで来ぬれば ほし川の 朝けは過ぎて 日ながにぞ思ふ
というのがありましてな。
桑名辺りの地名が三つ入っており、何と西行上人の作とあるぞ。
書生ほし川、朝け、日ながですね。
隠居そうそう。桑名、星川、朝明、日永で、歩く順になっている。
星川村は、平安に市場や港の町としてにぎわった。朝明は、朝明川の下流一帯、日永村は、東海道・伊勢参宮街道の追分の宿である。
で、朝明以外の地名が表記されたものとして、「名所方角抄」の、
 桑名より くはで来ぬれば 星川の 朝餉は過ぎぬ 日永なりけり
もある。
書生はあ。で、もう一つの意味が分かりました。
 桑名より 食はで来ぬれば 干し川の 朝餉はすぎて 日長にぞ思ふ
文語の干すは、空腹ですね。腹は減ったが、朝ご飯の時間は過ぎて1日が長く感じるということかな。
隠居昔は二食にじきですからな。
芭蕉が朝食わなかったわけじゃない。佐屋で食って、桑名では、時分時じぶんどきではないから、食っていないだけですな。
で、追分の日永から馬を借りた。
馬と言っても今のサラブレッドやアラブじゃない。
書生じゃあ、なんですか。
隠居江戸の馬

和種の馬は、いわゆるポニー。江戸時代の馬は小さくて、背中の高さは120センチくらい。

乗馬の芭蕉像に、150センチくらいにした馬の影を入れてみました。

よく見かけるアメリカンクォーターは、背の高さが150センチ。サラブレッドは、さらに高くて160センチ。

日本の在来種は、随分小さいですな。
だから、乗り手は、馬の歩行に合わせて上手に体重移動をしないといけない。
例えば、急な上り坂で、乗り手が平衡を保とうと前屈みになると、前脚に負荷がかかる。馬が前進のため前片脚を上げたとき、そちらに乗り手の体重が掛かれば、不安定になる。すると、馬はあわてて、脚を下ろして踏ん張って腹をへこますな。このとき、乗り手が鞍にしがみつくと、鞍が胴をすべって回り、落馬と相成る道理である。

書生はあ。
隠居

知ったかついでに言うと、当時の馬は骨太で、こけても骨折は少ないし、爪が硬いから蹄鉄はいらない。

書生そうですか。背が低いから、落ちてもダメージは少なそうですね。
隠居

芭蕉には落馬の予感がありましてな。

天和2年の年末、江戸の大火で芭蕉庵が焼け、その翌年の夏甲斐の郡内、今の都留市で、
 馬ぼくぼく我を繪に見る夏のかな
と詠んだ賛に、
「笠着て馬に乗りたる坊主は、いづれの境より出でて、何をむさぼり歩くにや。このぬしの言へる、これは予が旅の姿を写せりとかや。さればこそ、三界流浪の桃尻、落ちてあやまちすることなかれ」
と、自戒の一文を書いています。

書生天和3年夏ですから、この旅の4,5年前ですね。
隠居

徒然草に出る法師は、「桃尻にて落ちなんは心憂かるべし」と、乗馬練習をして本来の修行を忘れますが、芭蕉はしなかったわけですな。

杖突坂

杖突坂(四日市市釆女町)

書生

なるほど。

時に、「で」と「を」の件は?

隠居1 杖つき坂で落馬哉
2 杖つき坂を落馬哉
どちらが正しいかな?
書生これは、1の「で」です。
隠居で、上五が入ると、
1 歩行ならば杖つき坂で落馬哉
2 歩行ならば杖つき坂を落馬哉
書生1は、何やら意味が不明になりました。「歩行ならば落馬」は分かりません。
隠居2を丁寧に訳すと。
書生「歩いていくなら杖をつくところなのに、馬に乗ったので、杖つき坂で落馬したことよ」、ですね。
隠居「を」は、逆説で確定条件を求める。「で」を「を」に代えることで、「歩くなら杖をつく」という確定条件が焦点になる。
書生そういう仕掛けでしたか。
隠居

仕掛けと言えば大げさだが、「を」の力ですな。
徒然草の証空上人なら、息巻いて馬子を罵るところですが、
芭蕉は「杖突坂なら杖を突くべきであった」と、深く感じ入ったのですな。

書生芭蕉は、徒然草を読んでいたのでしょうか。
隠居読んでおるどころか、伊賀と兼好法師の関係もあってか、大いに影響を受けている。
証空上人のことは、笈の小文にも出てくるので、お楽しみですぞ。
書生「物うさのあまり云ひ出で侍れども」の「物うさ」が、今ひとつ落ちませんが。
辞書では、「心が晴れない。だるくておっくう。憂鬱。 苦しい。つらい」などですが、しっくりしません。
隠居芭蕉の身になったらどうですかな。
書生落馬をした上に、本文にはありませんが、馬子に罵られて、……
くそいまいましい、ですね。痛い目に遭った上、持って行き場のない怒りを感じているでしょう。
隠居それを、四日市では、「けったくそわるい」と言うな。縁起もわるいし、むしゃくしゃするしな。
書生蹴った糞が悪いのですか。
隠居

いや、古語では「卦体糞けたいくそ」。

卦体は、占いの結果で、縁起の意と分かれば、納得できましょう。

書生では、「むしゃくしゃするので、気を変えようとこの句を作った」、ですかね。
隠居

まあ、そうですな。

もう一つ言えることがある。

書生また何ですか。
隠居

この坂が「杖付坂」と名付けられていたのは、芭蕉には幸いでしたぞ。

もし、名前がなければ、「芭蕉落馬坂」となっておろう。

書生分かりません。
隠居

考えても無駄じゃ。

大和街道に、「芭蕉しりもち坂」というのが、ありましてな。

これは、芭蕉が伊賀上野から奈良へ行く際、尻餅をついたという「故事」から命名された。この4年前、野ざらしの旅の途中な。

よって、この坂に名前がなければ、「芭蕉落馬坂」となっておる。

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笈の小文、貞享4年歳末「旧里や」句、伊賀上野の生家


付:資料-「古里や」句、詞書き
 
隠居

生家地図本文は伊賀上野の部分。
旧里とは故郷。

伊賀上野城東の上野赤坂町に、芭蕉の生家があります。

近くの愛染院は、松尾家の菩提寺。

上野天神は、芭蕉が江戸へ出るとき、「貝おほひ」を奉納した神社です。

今は、堀が埋められ、道路も随分変わっていますな。

この地図は、「蕉影余韻(伊藤松宇編)」を参考に、作成してあります。

 

書生

 旧里や臍の緒に泣としの暮


これだけですか。

隠居これで十分である。

愛染院・寛永21年、伊賀国で、松尾与左衛門と妻・梅の6子のうち第3子で、次男として生まれる。
・明暦2年2月、13歳 父が死去。伊賀上野の愛染院願成寺(右写真)に葬る。
・寛文12年春、29歳 江戸へ行く。
・延宝4年6月、33歳 この頃俳諧宗匠として立机し、4年目最初の帰郷。
・天和3年6月、40歳 故郷で母死去。
・貞享元年9月、41歳 8年ぶり2度目の帰郷。亡くなった母の墓前で、
  「何事も昔に替はりて、はらからの鬢白く、眉皺寄りて、『只命有て』とのみ云ひて言葉はなきに、このかみ(=長男、子の上の意)の(=が)守袋をほどきて『母の白髪をがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやや老いたり』と、しばらく泣きて」、
 手に取らば消ん涙ぞあつき秋の霜 (野ざらし紀行)
・貞享4年12月、44歳、今回3年ぶりの帰郷。


これで十二分です。
書生で、あと、帰郷の目的、「父三十三回忌法要に列すること」がありますね。
隠居ふむ。
書生で、芭蕉の心情ですが、
1 13歳のとき、死んだ父は、生きていたら、70歳くらい。
2 生まれたとき母は20歳と推量して、死んだのが60ぐらい、生きていれば、64歳ぐらい。父が死んでから、6人の子を女手一つで育てたのだから、並の苦労ではなかったでしょう。
死に目に会えず、1年3か月してからの墓参は、悔やんでいるでしょう。
どちらも、生きていていい年ですね。生きていたらと思うでしょうね。
3 仏壇か神棚の臍の緒を見せたのは兄でしょうね。兄もさらに年を取っている。
4 臍の緒からは、母を思い出すでしょう。幼い甘えたころのことも。
隠居ふむ。
書生約2か月の風羅坊としての旅の果て、故郷に来て、なすこともない年の暮れを迎えている。
こうして、兄に渡された臍の緒に向かうと、何ら親孝行もせず、何もして返さないまま、それどころか、7年も会わぬまま先立たれた母を思い、悔いて泣くばかりである。
隠居では、この文章を読もうか。
書生

訳読みで、
「賢い先人たちも、故郷は忘れがたいものであると、思われるとのこと。
私、今は初めの老いという四十歳も4年を過ぎて、

何事に付けても、昔が懐かしいままに、

兄弟たちのかなり年を取っていますのも、見捨てられなくて、

初冬の空が時雨れる十月から、

雪を重ね霜を経て、

師走の末に、伊賀国上野の山中に至る。
さらに、父母がこの世にいらっしゃったならと、

慈愛を受けた昔も悲しく、

思うことだけがたくさんあって、
古里や臍の緒に泣くとしのくれ  芭蕉」
ですよね。
で、これは。

罫線

貞享4年12月末、伊賀上野赤坂の生家
歳暮、「千鳥掛」


代々の賢き人々も、
故郷は忘れがたきものに思ほへ待るよし。
我、今は初めの老いも四とせ過ぎて、
何事につけても昔のなつかしきままに、
はらからのあたま齢(よわい)かたぶきて侍るも、見捨てがたくて、
初冬の空のうちしぐるるころより、
雪を重ね霜を経て、
師走の末ニ伊陽の山中に至る。
猶ほ父母のいまそかりせばと、
慈愛のむかしも悲しく、
思ふことのみあまたありて、
   古里や臍の緒に泣くとしのくれ 芭蕉

隠居君の「旧里や」句の訳にほぼ沿っております。 大したものです。
書生最初から出してくださいよ。
隠居君が、創造的に獲得した訳の裏付けを示したまで。
書生「師走の末伊陽の山中に」とあるじゃないですか。
「12月下旬伊賀上野着」の根拠が、ここにありました。
隠居いかにも。
書生桑名から伊賀上野まで、通常の3倍の時間が掛かった、何か重大な秘密があるんですね、ご隠居。
隠居……
書生ご隠居!も一つ重大な疑問。
「はらからのあまた齢かたぶきて侍るも、見捨てがたくて」とありますね。
見捨てられないなら、
1 経済的支援をする。
2 一緒に暮らし、家業・家事を手伝う。
このいずれかでしょう。
隠居さて、……
「1」は、どだいむりですな。
「2」とすると、伊賀餞別の危惧、「江戸不帰」が現実味を帯びる。
さりながら、君は、「はらから」は「兄、半左衛門」に限定しているようですが。
書生はらからは、同腹の兄弟姉妹ですね。
と、姉がいましたよね。
「齢かたぶく」のは、年長者に限定していいですよね。
隠居「角のとがらぬ牛もあるもの」、とな。
この姉については、またあとでな。<奈良の段へ>

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笈の小文、新年「二日にも」句、伊賀上野の生家


付:資料-「俳諧一葉集」(句と詞書き) -「徒然草」(空の名残)

隠居本文の続き、
芭蕉は、生家で新年を迎える。
書生

先ず、本文です。


宵の年(大晦日の夜)ニ、空の名残ヲ惜しまむと、酒ヲ飲み、夜ふかして、元日ヲ寝わすれたれば、
 二日にもぬかりはせじな花の春

隠居併せて、右の参考文を。罫線

貞享5年元日、伊賀上野赤坂の生家
「二日にも」句、「俳諧一葉集」


空の余波なごりヲ惜しまむと、旧友の来りて酒興じけるに、元日の昼まで伏て曙見外して
 二日にもぬかりはせじな花の春 芭蕉

書生こちらは、訳読みで。
「空の名残を惜しもうと、旧友が来て、酒に興じたのだが、元日の昼まで寝て、曙を見逃して、
 二日にもぬかることなく曙を見よう。この花の春の」ということでしょうか。
隠居訳で「二日にも」は、どうかな。一日は寝過ごしたのですからな。
書生では、「二日には」でしょうか。
隠居そのほうが分かる。「並立の『も』」じゃなくて「提示の『も』」で強調していると、理解する。
書生ご隠居、「空の名残」を惜しむのに、空を見ないで、曙を見逃すとは、矛盾してますよね。
隠居また左脳が働いておりますな。
いいのじゃ。「名残の空」は歳末の季語、日付は変わって、曙は元旦のもの。季語は、初茜・初曙・初東雲・初明かりなどがある。
書生あれ?日の出が一日のはじまりでは……
それと、「空の名残」が「名残の空」に変わりましたね。
隠居芭蕉が、「空の名残」を惜しもうと眺めたのが、「名残の空」じゃ。
ちなみに、「空の名残」とは、消え残る野辺の煙、
 春霞 かすみしそらの なこりさへ けふをかきりの わかれなりけり
とか、後朝(きぬぎぬ)の空に消え残る月、
 帰りつる 名残の空を ながむれば 慰めがたき 有明の月
など、消えつつある聳き物(そびきもの、雲・霞・虹など)、空に残る余韻や眺めたときの感動を言う。名残の空とは、恋や離別の情をもって眺める空ですが、後にその年の出来事を振り返りつつ眺める空をも指すようになったわけですな。
芭蕉が使った「空の名残」は、徒然草の一文を踏まえておるかも知れん。
書生また、徒然草ですか。
「何もかも捨て去った世捨て人でも、空の名残は捨てられない」
兼好もその通りとうなずいていますね。
なるほど。
罫線

資料「空の名残」
徒然草、第20段


なにがしとかや言ひし世捨人の、「この世の絆し(ほだし、自由を妨げるもの)持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。

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笈の小文、初春[春立ちて」句・「枯芝や」句

隠居

本文の続き。

ちと、地図を見ておきましょう。

ただ、宗七の酒屋の位置は特定できません。上野天神西の上野東町のどこかです。

土芳亭は、些中庵と名付けられ、後に蓑虫庵となります。、

風麦ふうばくは、藤堂式部の配下。式部の下屋敷の南、忍町に屋敷があった。

その、風麦亭での句は、13日です。

風麦亭図

書生

初春
① 春立てまだ九日の野山哉
② 枯芝やややかげろふの一二寸

隠居風麦は、伊賀蕉門の重鎮ですが、三十六歌仙には入りません。
書生①は、立春から9日目なのですが、旅程表に入れたとおり、計算上の立春は3日になります。
隠居

計算できますか。

岩波の脚注に、4日とありますな。

こちらを取れば合います。
立春前後は、厳寒の時期ということを踏まえて味わうとよいでしょう。

書生①は、「立春から、わずか9日で、伊賀の野山は冬枯れの景色のままだが、春の営みは始まっていることだろう」と、見えないけれど春を感じているのでしょう。
②は、春の息吹を目でとらえていますね。
「枯れ芝の野、すでにわずかながら1,2寸の陽炎が立っています」
七部集のかげろうは、「いとゆう」もありましたね。
隠居そうそう、ありましたな。七部集のデータを見ましょうか。
書生「かげろふ13、陽炎(かげろう)2、いとゆふ2、野馬(かげろう)1」です。
隠居漢字の「糸遊」は、芭蕉の句に二つありますから、使い分けていたことでしょう。
おっと、「遊」の読みを書くと「いう」のはずだがな。まあ、糸遊は蜘蛛の糸が漂い日の光にきらめくさまから陽炎の意となったようだな。
さて、この句の初案は、
 枯芝やまだ陽炎の一二寸 (芭蕉翁全伝)
である。
書生「まだ」ですか。「これから育つぞ」と。
生き物のようですね。
隠居育ちます。

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笈の小文、本文:1月19日頃、新大仏

書生

新大仏寺への足跡です。

久居へ抜ける伊賀街道を川沿いに進み、山道を登って、約17キロで着きます。

新大仏寺への足跡

隠居

では、本文の続き、
阿波の新大仏へ行き、陽炎は一丈六尺。

どうですか。4.85メートルに育ちましたぞ。
本文は右のとおり。

罫線

貞享5年1月19日頃、阿波の庄
新大仏参拝、「笈の小文」

 

伊賀の国ノ阿波の庄といふところに、※俊乗(しゅんじょう)上人の旧跡ガ有り。

護峰山新大仏寺とかや云ふ。

名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替はり、丈六の尊像は苔の緑に埋もれて、御ぐしのみガ現前とおがまれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全くおはしまし侍るぞ、其代の名残うたがふ処なく、涙こぼるゝばかり也。

石の蓮台・獅子の坐などは、蓬・葎の上に堆く(うずたかく)、双林(そうりん、舎羅双樹の林)の枯れたる跡も、目の当たりにこそ覚えられけれ。
 丈六にかげろふ高し石の上


※俊乗は房号。名は重源。治承4(1180)年東大寺炎上後復興に当たり、建久6(1195)年に大仏殿再建の功を遂げた。

書生「阿波の庄に俊乗上人の旧跡新大仏寺がある。その名は残ったが、礎石だけになり田畑に変わっている。
丈六の大仏は、苔の緑に埋もれ、頭部だけ拝める状況だが、俊乗上人の像がそのままあるのは、当時のままと分かり、ただ涙するばかりである。
石の蓮台や獅子の座は、雑草の上に積まれていて、釈迦入滅の折、舎羅双樹が枯れた景色をさながらに見るようである。」
【丈六に、かげろふガ高し、石の上ニ。 かげろう:三春】
俊乗上人は、有名ですか?
隠居俊乗上人像

高名である。

「かの俊乗上人の」と訳すとよいでしょう。

俊乗房重源上人は、上の注のとおり、南都焼き討ちの難に遭った東大寺を再建した功労者です。
また、大仏殿再建後、この新大仏寺を開いた方です。
俊乗は、西行と親交がありました。奈良の段に略年譜を置きます。

東大寺は、折角再建されたのに、戦国時代に、また焼き討ちに遭ってしまった。
この貞享5年、再建が始まるというわけで、東大寺ゆかりの新大仏に、旧友の宗七・宗無と見に来た次第。

書生「東大寺再建」で、つながるんですね。
3人で来たんですか。
隠居それは、「伊賀新大仏寺之記」を見られよ。
本文の下書きと思えるが、「いつ来たか」の手掛かりにもなりましょう。
罫線

貞享5年
伊賀新大仏寺之記、「蕉翁文集」


伊賀の国阿波の庄に新大仏といふガあり。このところは奈良の都、東大寺のひじり俊乗上人の旧跡なり。 ことし旧里に年をこえて、旧友宗七・宗無ひとりふたり誘ひ物して、かの地に至る。 仁王門・撞楼の跡は枯れたる草の底に隠れて、「松もの言はば 事問はむ 石居(いしずえ)ばかりに すみれのみして」と云ひけむも、かかる景色に似たらむ。 なほ分け入りて、蓮華台・獅子の座なんどは、いまだ苔のあとを残せり。御仏はしりへなる岩窟にたたまれて、霜に朽ち、苔に埋もれて、わづかに見えさ玉ふに、御ぐしばかりはいまだつつがもなく、上人の御影をあがめ置きたる草堂のかたはらに安置したり。誠にここらの人の力をつひやし、上人の貴願いたづらになり侍ることもかなしく、涙もおちてことばもなく、むなしき石台にぬかづきて、

 丈六に陽炎高し石の上
書生「ことし旧里に年をこえて、……かの地に至る」、ですね。越年後間もなくと読めます。
隠居それと、「仁王門・撞楼のあとは枯れたる草のそこにかくれて」から、冬枯れの残る時期だと。
で、雨水の1月19日ごろで、いいと思うのですが、3説ありましてな。
1 2月上旬で、伊勢へ行く前。
2 伊勢へ行く途中の立ち寄り。
3 伊勢から帰った晩春の3月。
書生ご隠居は、伊勢へ行く前の「1」ですね。
隠居ところが、「2月上旬」と言っても、2月1日しかない。伊勢への旅の出発は2月2日ですから。
明日通る予定の15キロ離れたところへ、前日に行くだろうか。
書生「いや行くまい」と。
隠居

然り。

「3の晩春説」は、「陽炎高し」に合うのだが、「伊勢での懐紙」で否定される。
「丈六に」の句が、伊勢での8句とともに記されているからな。しかも、伊勢別離の句「裸には」がまだ書いてないから、伊勢滞在中に書いたものと断定して差し支えない。

書生じゃあ、「2の立ち寄り説」は、宗七・宗無が新大仏まで見送ったと、合理的に解釈できますね。
隠居

また、ところがです、「伊勢での懐紙」に、「丈六の」とか「かげろふに」とあればよかったが、「丈六に」と完成に近い句が書かれておったわけで、そうはいかぬな。
草稿を、土芳らの人に聞かせて再考し、伊勢で「丈六にかげろふ高し」としたことになる。

長くなるので、このことは、21日の土芳庵の部で検討しよう。
つまり、新大仏に行ったあと、伊賀の門人に句の相談をしておるわけで、「2の立ち寄り説」は、伊賀の門人が伊勢に来ていない以上、否定されねばならぬことになります。

書生残るは、「2月上旬」を除く、「1の伊勢参り以前説」ですね。
隠居そう。条件としては、
・「枯芝ややゝかげろふの一二寸」より後。
・参拝後、土芳に会う日程のゆとり。
・予定済の伊勢行きより、ずっと前。
くらいですかな。
書生で、1月19日ごろに収まるわけですね。
でも、「陽炎高し」が了解困難ですが。
隠居いずれ、4.85メートルの陽炎はあり得ないわけで、「俤つくれ」の句を参考に、「陽炎高し」は心象風景として、十分味わえます。丈六は高さでなく「丈六仏のような」で、「高さ」は気高さ、荘厳さを表している。
書生「今はただ残る石の台座に陽炎が立ち、かつての丈六の尊像が、ありがたくおわすように感じることだ」と。
隠居

台座その巨大な台座は、脇侍の台座とともに(宝物庫)に保存され、拝観することができる。

 

実際の尊像は、丈六以上の立像だったとのこと。

情景を想像するうえで、参考になるでしょう。
ちなみに、丈六を越えるものを大仏という。

 


芭蕉訪問後、60年くらいして、伽藍の再建がされ、今も南大門をくぐることができる。

新大仏寺

境内には、「丈六に」句碑(芭蕉翁涙詠の句碑)があり、「伊賀新大仏之記」も刻まれている。

句碑は江戸時代(芭蕉百年祭)のもので、読みにくいためか、新たに碑文が刻まれている。

読んでみると、「ことし旧里に年をこえて、旧友宗七・宗無ひとりふたり誘ひ物して、かの地に至る」の一文が略されていることが分かる。

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「手鼻かむ」句・「香に匂へ」句

隠居右は、笈の小文の本文にない芭蕉句。
また、この15日に入れた3句は、詠まれた日を確定できません。
罫線

貞享年1月15日頃、伊賀上野の山家
「手鼻かむ」句、「蕉翁句集草稿」

  伊賀の山家にありて
 手鼻かむ音さへ梅の盛り哉

書生推定ですね。
隠居

「1月14日以降の1月中」としか言えない。ただ、行程表に入れるため、梅の開花情報をもととして、早めの15日にしたわけです。

旧暦1月15日は、新暦2月16日。
伊賀上野では梅が咲き出し、八重梅、枝垂れ梅と開花して、3月下旬まで楽しめます。

書生 手鼻かむ音さへ梅の盛り哉
「山里の梅も盛りを迎え、手鼻をかむ音さえも似つかわしいものだ」、でしょうか。
隠居芭蕉は手鼻をかむ人に共感して詠んでいます。
手鼻は、右手親指で鼻の右を押さえ、左の穴から、一気に飛ばす。このとき、右てのひらで、左穴を隠すのが通。
次に右人差し指で、鼻の左を押さえ、親指を伸ばしたてのひらで、噴出する場面を隠して行うが、左、右と、間髪を入れぬのが粋とされる。
書生部屋ではできませんね。
ああ、鼻の穴が通れば匂いが分かる!
隠居そう。君の訳は、合っておりました。
書生漂う梅の香を、よくかぐために鼻を通すのです。
隠居だから、似つかわしいのです。
書生紙を無駄にしないので、エコですね。
隠居

土芳の「蕉翁全伝」に、

「この句(『香に匂へ』)は土芳庵にての吟なり」とある。

伊勢の項「3月11日の些中庵」を参照


詠んだのは土芳庵だが、伊賀の山家の梅「手鼻かむ」の体験があっての句と思うてな。
このとき、既に句はできておりましょう。

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貞享年1月15日頃、伊賀上野の山家
「香に匂へ」句、「有磯海」

 

伊賀の城下にうにと云ふものあり。

わるくさき香なり。


 香に匂へうにほる岡の梅のはな

書生「伊賀の城下に「うに」というものがあって、悪臭がある。」
 香に匂へうにほる岡の梅のはな
句を味わうにも、「うに」とは何か分かりません。
隠居「うに」は伊賀での呼び名。漢字は、やはり「雲丹」らしい。
右は、「蕉翁文集」にあるこの句の詞書き。
参考になりましょう。
罫線

うに、「蕉翁文集」

 

伊陽山家に、うにといふ物有り。

土の底より掘り出でて薪とす。

石にもあらず、木にもあらず、黒色にしてあしき香あり。

書生「掘って燃料にする。石でも木でもない。黒くて悪臭がある。」
石炭ですか?
隠居まあ、泥炭。山家で焚いていたのでしょうな。
この辺りは、未だ琵琶湖がないころ、湖で湿原植物、例えばアシなどが堆積し、長年月を掛けてできたもの。用途は、燃料・土壌改良材・洗剤・ウイスキーの風味付けなど多岐にわたっております。
書生へえ。
隠居これで、句を味わえましょう。
書生「悪臭い泥炭を掘る岡の梅の花よ、存分に香を振りまいて臭いを抑えておくれ」です。
隠居時に、この「山家」だが、芭蕉は城近くの町ではなく、郊外の山にある家を指しているが、具体的にどこかは分かりませんな。
「手鼻かむ」も山家、「香に匂へ」も山家。この山家が、同じ地域の家、同じ家を指しておったとして差し支えあるまい。
書生差し支えはありませんが、同じ家である必要はないかと。
牽強付会のそしりも受けようかと。
隠居

そしりには慣れておるが、行程表に入れるのに、仮に同じ家として、うにの産地に行ったとすればいいかなと思うたまでのことです。
検索できんかな。

書生

はあ、……、ありますね。
伊賀市の古山こやま辺りで採れたようです。

名張街道(国道368号)沿いに「うにの丘」という野菜などの農産物直売所があって、「香に匂へ」句が店内に掲示されています。

地域の活性化の一つで、2007年開店、芭蕉の句もネーミングの理由になっています。

杖突坂

上野南郊(伊賀市蔵縄手)

隠居

ほう、うにの丘と言うんですな。

知らぬと、海産物の海胆かと思うが、この山の中では違うと判断するな。

「うにってなんだ」とか、客が聞いて会話が弾みそうですな。

そうすると、句碑もありそうじゃな。

書生

ありますね。近くの市場寺いちばじです。

「香に匂へうに掘る岡の梅の花 芭蕉

うにの香も年ふる山の冬の梅 竹人」

と2句が並んでいます。左の説明板に「竹人は、宝暦年間この地を訪れた」とあります。

市場寺

市場寺(伊賀市菖蒲池)

隠居

ああ、竹人は、土芳の弟子。芭蕉翁全伝をまとめておる。「年ふる」とあるのは芭蕉没後60年くらいのことだからな。編纂の資料集めで訪れたのでしょう。

じゃあ、「手鼻かむ」の15日に、市場寺への距離を、往復で入れておきましょうか。

書生

市場寺への足跡はい、「伊賀の山家」として、往復17.4キロをいれました。

足跡図は右のとおり、先ほどの新大仏寺の図に重ねてあります。

 

市場寺へは、南へと歩きます。

この道は名張街道と呼び、市場寺から約10キロで名張宿に至ります。

名張との中間くらいです。

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新大仏寺での句を土芳らと検討

隠居

新大仏へ行った日も、確定できない。

1月19日以降の1月中で、早めに行ったという推量でしかない。

この項、土芳庵訪問も「あっただろう」という推定で入れています。

新大仏の項を振り返りつつ、まとめていきましょう。

 

芭蕉が、宗七・宗無を伴って、新大仏寺を参拝したのは、いつのことか。これは、「笈の小文」を読む者にとって興味深いことです。

1 2月上旬で、伊勢へ行く前。

2 伊勢へ行く途中の立ち寄り。

3 伊勢から帰った晩春の3月。

罫線


貞享年1月21日頃、伊賀上野
「丈六の」句、「かげろふに」、「丈六に」句



「三冊子」

  阿波大仏

 丈六のかげろふ高し石の上
 かげろふに俤つくれ石のうへ

此の句、当国大仏の句也。人にも吟じ聞せて、自らも再吟有りて、丈六の方に定むる也。



「蕉翁全伝」

阿波大仏

  阿波の郷、大仏寺にて

 陽炎の俤つゝれいしのうへ(つくれか)

此の句、後丈六に陽炎高しと改むる。



「真蹟懐紙」

 丈六にかげろふ高し石の跡



「蕉翁文集」

 丈六に陽炎高し石の上


「笈の小文」

 丈六にかげろふ高し石の上

書生伊勢で書いたと推定できる懐紙の存在で、2と3が否定され、旅程から1の「2月上旬」も否定されましたね。
隠居

そう。

「2月上旬」については、2月2日に伊勢へ発つので、2月1日しか残りません。

で、1月13日の風麦亭句会以後、伊勢へ行く数日前までに絞りました。

残る手掛かりは、「かげろふ高し」という季から、

「枯芝ややゝかげろふの一二寸」、この句より後だということ。

また、詞書きの「ことし旧里に年をこえて」、「新年間もなく」と「枯たる草の底に隠れて」から、「冬枯れの厳寒期」ととらえ、1月中とする根拠に加えることもできます。

書生新大仏へ行った後、土芳らに句を聞かせたわけですね。
隠居そう。右の1段目、土芳の「三冊子」にあるように、吟じ聞かせ、再吟の後「丈六」に決定。
書生

 丈六のかげろふ高し石の上
 かげろふに俤つくれ石のうへ

ですね。

隠居

大仏寺で、この2句ができて、伊勢に行く前に土芳らに聞かせ、「丈六の」の句に決めました。
「蕉翁全伝」では、

 陽炎の俤つゝれいしのうへ
を、詠み直して「丈六に陽炎高し」としたとあるが、「丈六に」は、最終的な完成句。

書生

では、この日は、「丈六の」だった。

 丈六かげろふ高し石の

隠居

その後、伊勢滞在中の芭蕉が、再考して、
 丈六かげろふ高し石の

と、「裸には」句を除く、他の句と共に懐紙に書きました。

いかが変わりましたかな。

書生

「丈六の→かげろふ」と、「かげろふ」に掛かり、丈六の高さの陽炎の意になります。

「丈六に→高し」と、「高し」に掛かり、丈六仏のような陽炎の意になります。

まあ、本文で鑑賞したとおりですが。
「丈六の」は、誇張表現ととれるので、「丈六に」がいいですね。

隠居では、「石の上」か、「石の跡」か。
書生「石の跡」は、「石のあった跡」と誤解されましょう。
隠居

で、

丈六にかげろふ高し石の上

となったわけですな。

書生なるほど、伊勢に行く前に新大仏へ行き、さらに土芳たちに披露していたということで納得です。

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「あこくその」句

隠居風麦亭、兼日けんじつの会の吟。
「兼日」とは、あらかじめ決めた題で詠むこと。当日に題を出す場合は「当座」。

風麦亭の句だが、1月13日と分けたのは、
・ 兼日会とあり、「春立ちて」句と季語が違うこと。
・ 兼日題は「梅の花」であり、13日では早すぎること。
の2点から。
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貞享5年1月23日頃、伊賀上野
「あこくその」句、「芭蕉句集草稿」


 あこくその心も知らず梅の花
 【阿古久曽(貫之の幼名)の心も知らず。梅の花。 梅の花:三春】

風麦子<の邸>にて、兼日会に、句を乞はれし時の吟也。

書生貫之の、
 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
を、踏まえていますね。
隠居そう。二句切れを踏まえて味わう。
書生「久しぶりに故郷に帰ったが、「人はいさ」という貫之の気持ちを全く味わうことなく、幼なじみの心も、梅の花の香も昔のままである」、でしょうか?
隠居自信がないですか?
書生「貫之」じゃなく、「阿古久曽」なんですが、訳に入らないもので。
隠居いや、その幼名から、「幼なじみ」が引き出されておるから、無理をして入れなくともよいでしょう。
書生「ず」は切れ字でしたか。
隠居

打消や打消推量の助動詞は切字。

ほかに、「じ・ぬ」も切字である。
学校で習うのは「かな・や・けり」かな。

「歌仙の語彙/解説」を見られい。

俗に切れ字十八字と言う。
芭蕉の切字は「四十八字」、「芭蕉の用いた切字」もご覧あれ。
先ず、右に白冊子の文を置くので、参考にするとよいでしょう。

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「三冊子」土芳著
 白さうし、切字

 

<翁が>

 あこくその心はしらず梅の花

といふ句をして、切れ字を入るることを案じられし傍らに<私、土芳が>在りて、

「この句は切れ字を設てまくて=入れて、切るるやうに侍る」

と云へば、

<翁は>

「切るるなり。されば、切れ字はたしかに入りたるよし、初心の人の惑ひになりて悪しし。常に慎むべし。増して、させるさしたることもなき句は、句を思ひ止むとも、常にたしなむべし」

と、示されしなり。

書生

「翁が、『あこくその心はしらず梅の花』で、切れ字について考えているとき、

『切れ字が入り、切れていると思う』と言うと、

『切れている。だから、明確に入っていることが、初心者を惑わせてよくない。いつも気をつけなくてはいけない。

いわんや、大したこともない句なら、句を没にするなど、いつも気を付けるべきだ』と示された」と。

隠居指導する立ち場にある者の心掛けと、了解しておきますか。

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番外資料

「杖突坂」の検討、古事記・古事記伝

隠居

「杖突坂で落馬すること」で資料を見たとき、書生が「古事記の記述と、杖突坂の位置が違うのでは」との疑問をもった。
「芭蕉が通った杖突坂」は、東海道四日市宿と石薬師宿の間、釆女町で問題はない。
笈の小文講読という本題からは離れるが、探究心を尊重し、古事記の記述を検討しておく。

右は、古事記の原文と書き下し文。

ただし、読みやすくするため、漢字仮名遣いは換えてある。


まずは、経路に留意して、概要をつかんでみよう。

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古事記、景行天皇条抜粋


○伊吹山
於是詔、茲山神者、徒手直取而、騰其山之時、白猪逢于山辺。
是に詔りたまひしく、「この山の神は、徒手(むなで=素手)に直(ただ)に取りてむ」と。その山に騰り(あがり)まししとき、白猪(しろい)に山の辺に逢へり。
其大如牛。
その大きさ牛の如し。
爾為言挙而詔、「是化白猪者、其神之使者。雖今不殺、還時将殺」而騰坐。
爾(ここ)に言挙げ(ことあげ)して詔りたまひしく「是れの白猪になれるは、その神の使者(つかひ)ぞ。今殺さずとも、還らむときに殺さむ」とて、あがりましき。
於是零大氷雨、打惑倭建命。
是に大氷雨を零(ふ)らして、倭建命を打ち惑はしき。
此化白猪者、非其神之使者、当其神之正身、因言挙見惑也。
此の白猪に化れるは、その神の使者に非ずて、その神の正身(ただみ)に当たりしを、言挙げ(ことあげ)に因りて惑はされつるなり。
○関が原(玉倉部居覚の清泉)16.8㎞
故、還下坐之、到玉倉部之清泉以息坐之時、御心稍寤。
故(かれ)、還り下りまして、玉倉部の清泉(しみづ)に到りて息(いこ)ひまししとき、御心稍(やや)に寤(さ=覚)めましき。
故、号其清泉、謂居寤清泉也。
故、その清泉を号(なづ)けて、居寤(いさめ)の清泉と言ふ。
○養老(当芸)17.5㎞
自其処発、到当芸野上之時、詔者、「吾心恒念自虚翔行。然今吾足不得歩。成当芸当芸斯玖」。(自当下六字以音)
其地(そこ)より発(た)たして、当芸野(たぎの)の上に到りまししとき、詔りたまひしく、「吾が心、恒(つね)に虚(そら)より翔り行かむと念ひつ。然るに今吾が足、え歩まず、『たぎたぎしく』成りぬ」と。(「当」より下、六字は、音を以てす)
故、号其地言当芸也。
故、其地を号けて当芸(たぎ)と言ふなり。
◎杖衝坂12.3㎞
自其地差少幸行、因甚疲衝御杖稍歩。
その地より差(やや)少し幸でますに、甚だ疲れませるに因りて、御杖を衝きて稍(やや)に歩みたまひき。
故、号其地言杖衝坂也。
故、その地を号(なづ)けて杖衝坂と言ふ。
○多度(尾津)11.6㎞
到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀、不失猶有。
尾津の前の一つ松の許に到りまししに、先に御食(みおし)したまひし時、その地に忘れたまひし御刀、失はずして猶有りき。
爾御歌曰、「袁波理邇 多陀邇牟迦幣流 袁都能佐岐那流 比登都麻都 阿勢袁 比登都麻都 比登邇阿理勢婆 多知波気麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁 比登都麻都 阿勢袁」
爾(ここ)に御歌曰み(みうたよみ)したまひしく、「尾張に 直(ただ)に向かへる  尾津の崎なる 一つ松 あせを  一つ松 人にありせば 大刀佩け(はけ)ましを  一つ松 あせを 衣服せましを あせを」と。
○四日市(三重)18.0㎞
自其地幸、到三重村之時、亦詔之、「吾足如三重勾而甚疲」。
其地より幸でまして、三重村に到りまししとき、また詔りたまひしく、「吾が足は三重の勾(まが)りの如くして甚だ疲れたり」と。
故、号其地言三重。
故、其地を号(なづ)けて三重と言ふ。
●記伝は、ここに杖衝坂 7.7㎞
○能褒野(能煩野)18.6㎞(三重から)
自其幸行而、到能煩野之時、思国以歌曰、「夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯」
其れより幸行でまして、野煩野(のぼの)に到りまししとき、国を思(しの)びて歌曰ひ(うたうたい)たまひしく、「倭は国のまほろば たたなづく 青垣(あおがき) 山隠れる(やまごもれる) 倭しうるはし」と。

書生

倭建命(ヤマトタケルノミコト)は、伊吹山の神に、氷雨による、打撃を受けた。

ミコトは、関ヶ原玉倉部の泉で覚醒した。

養老で、足がタギタギシクだめになり、そこを当芸(たぎ)と名付けた。

そこから少し行ったところで、大変疲れ、杖を突いて、わずかに歩いたので、「杖衝坂」と名付けた。

多度(尾津)の前で、置き忘れた刀を見付け、歌を詠んだ。

四日市(三重村)で、足が三重になり、三重と名付けた。

・記伝は、「杖衝坂の文24字」はこことする。

能褒野(能煩野)に至り、望郷の歌を詠んだ。


「記伝」ってなんすか。

隠居「古事記伝」、宣長の。
書生はあ。
隠居

宣長は、古事記伝の中で、「延佳本古事記」の頭書き、「『伊勢国に桑名郡から入る時は、尾津を経て三重、杖衝、能褒野と行くのが、今の道。

『杖衝坂』の文二十四字は、後の『三重』の次にあるべきか」という考えを引用しておる。

書生

それで、四日市の次に●印で入っているのですね。

しかし、今の道と違うからというだけで、古事記の文を勝手に移動するというのは、ちと乱暴な。

これは、延佳の説。

で、宣長は?

隠居

この説に賛同し、次の意見を附しておる。

 

一、杖衝坂は、今も三重郡にあって、名高い。

二、別の所とも言えるが、多芸野から尾津までの間に、坂道はないそうである。

三、もともと三重の次にあったのを、順序を誤り、そのまま書いたのではないか。

四、「差少幸行(ややすこしいでます)」は、三重から今の杖衝坂まで、ほど近いのに合う。

 

いかがかな。

書生

一の「名高い」は認めますが、名高いから正しいとは、限らない。

二に至っては、伝聞情報を鵜呑みにする姿勢で、受け入れがたいものがあります。

「別の所とも言える」は、養老・多度間のある所、推定地を想定しているかのような書きぶりです。

三が、見解として通れば、古事記の記述を、好きなように順序を変えられます。

四、「ほど近い」について、検証しましょう。

距離を出して、右の文に追加します。

しばしお待ちを。

……

隠居

わしも、伝聞とか推量はあってはならぬと思いますがな。

おお、できましたか。

書生

はい。

右の文にも、距離を入れました。

すべて、区間距離です。

隠居

養老の次とすると、12.3キロ、四日市の次なら、7.7キロか。

近いのは四日市の次ですな。

書生

まさに、五十歩百歩。

他の区間に比べれば、古事記どおり養老の次で12.3キロ。十分短い距離です。

隠居時に、養老・多度間に急な坂、「杖突坂」の候補地はありますか。
書生海津市の杖突坂

あります。

それで、距離が出せました。

海津市南濃町上野河戸の池の近くに、「日本武尊杖突坂」の碑が建っています。

宣長の説のように、四日市の次なら、古事記の記述に矛盾が生じます。

既に、「足が三重になった」わけです。

これを、「日本古典文学全集『古事記』小学館」は、「足が三重に折れるようになって歩けないこと、杖をついても足が立たない状態」と説明しています。

平地で杖を突いても足が立たないのに、急坂を歩くなんてとんでもないことです。

四日市からは、馬かなんかで、采女の坂を越えるしかありません。芭蕉のように、落馬したかも知れません。

隠居当時はまだ、乗馬することはなかったろう。農耕馬はあったかも知れんが。
書生

なら、戸板の担架でしょう。

足が三重になった後に、杖を突いても歩けません。三重になったあとは、戸板坂です。

隠居

かもな。

いずれにせよ、神話・伝説の世界を史実としてとらえるには、無理があって、謎も多い。

  • 「玉倉部の清泉」は、醒ヶ井か関ヶ原か。
  • 「尾津(おつ)の崎」は、どこか。多度には、小山・戸津・御衣野と、尾津神社が三つある。
  • 「野煩野」と言っても広い。どこで亡くなったか、塚はどこか。

などなど。

ともあれ、杖突坂は、宣長の説で、四日市になっておる。

書生

資料を検討すれば、南濃町になると思いますよ。

でも、そうなれば、四日市の坂は、「芭蕉落馬坂」になるか、……

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笈の小文、講読の振返り
 
06 伊賀上野(佐屋~日永~伊賀上野~阿波の庄)
書生

桑名までの海路ですが、宮の七里の渡しでなく、佐屋の三里の渡しでした。

隠居

佐屋の渡しは、証拠資料も示したからよいでしょう。

書生

杖突坂に関する情報も、注意したいものがありました。

隠居

ここでの問題は、伊賀上野まで日が掛かりすぎていること。これは、解決していない。

芭蕉の晩年、元禄7年の旅を見ておこう。

5月25日、佐屋山田庄右衛門宅へ。露川・素覧と三吟半歌仙、発句は「水鶏啼くと」。

 〃26日、佐屋湊から舟で伊勢長島大智院へ。一宿。

 〃27日、伊勢長島から舟で桑名へ、久居で一宿。

 〃28日、伊賀上野に到着。

書生

佐屋から、3日ですね。伊勢長島は佐屋の近くですから、ここでの一泊を無視すると、伊賀上野へは2日で着きますね。

隠居

そう。5日も余分にかかっている。これが未解決。

書生

「丈六の」句は、1月19日頃に詠んだこと。この指摘は圧巻です。

隠居

当然の帰結じゃ。何ほどのものでもない。

書生

「手鼻かむ」句の鑑賞、これはまさに目から鱗でした。

隠居

何の、目ではない、鼻からコルクですな。生活経験で句を味わう。手鼻もやってみるとよい。

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  ---笈の小文講読ページの解説---