笈の小文 伊勢(伊賀上野~伊勢~伊賀上野)

笈の小文 索引
序文序章鳴海保美熱田伊賀伊勢吉野高野奈良須磨箕面旅後
笈の小文 伊勢 索引
原文伊勢山田、探丸亭旅程伊賀上野~伊勢~伊賀上野
講読本文構成概観「何の木の」、「御子良子の」「いも植て」大江寺
「梅の木に」雪堂亭「神垣や」、「物の名を」竜尚舎菩提山「此山の」神宮寺跡
「裸には」句、神路山を後にして「さまざまの」探丸亭で花見
資料伊賀上野・伊勢間の経路、杜国の経路歌仙「何の木の」益光亭
六句「紙衣の」右近亭付合「暖簾の」園女亭
平庵宛書簡「進物の礼」杉風宛書簡「近況」宗七宛書簡「酒の乞食」
「初ざくら」薬師寺「香に匂へ」土芳の新庵「花を宿に」他、瓢竹庵

伊勢


 芭蕉は、伊勢で杜国を出迎えて、伊勢神宮を参拝、伊勢の門弟と多くの興行をした後、菩提山などを巡り、父の三十三回忌のため、伊賀上野に戻る。
 このページでは、伊勢往復の行程を推理し、伊勢での行動を追跡、伊勢の門人たちとの交流の様子をとらえます。また、帰郷後約1か月の伊賀上野滞在では、桜の開花状況の記録から、吉野への出立日変更の謎を解いていきます。


笈の小文

伊勢

段落区分笈の小文、本文備考

伊勢

伊勢
山田

 伊勢山田

② 何の木の花とはしらず匂哉

↓ 2/4「何の木の」句へ
↓ 歌仙「何の木の」へ

③ 裸にはまだ衣更着の嵐哉

↓ 2/17「裸には」句へ

菩提山 菩提山

↓ 2/16「此の山の」句へ

④ 此山のかなしさ告よ野老掘
尚舎 竜尚舎

↓ 2/15「物の名を」句へ

⑤ 物の名を先とふ蘆のわか葉哉
雪堂 網代民部雪堂に会

↓ 2/8「梅の木に」句へ

⑥ 梅の木に猶やどり木や梅の花
大江寺 草庵会

↓ 2/14「いも植て」句へ

⑦ いも植て門は葎のわか葉哉
神垣 神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有事にやと神司などに尋侍れば、只何とはなしをのづから梅一もともなくて、子良の館の後に一もと侍るよしをかたりつたふ。

↓ 2/4「御子良子の」句へ

⑧ 御子良子の一もとゆかし梅の花
⑨ 神垣やおもひもかけずねはんぞう

↓ 2/15「神垣や」句へ

伊賀
上野

探丸亭 故主蝉吟公の庭にて、

← 「1月の伊賀上野」から
↓ 「さまざまの」句へ

① さまざまの事おもひ出す桜哉

笈の小文 「旅程 伊賀上野~伊勢~伊賀上野」
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隠居できましたな。
書生

書簡や参考句で、結構特定できます。
しかし、時間的推移をとらえるのに、この伊勢滞在中の句はやっかいですね。
星の数で、日付を決める度合いを示しました。表中、
 青玉青玉は、「この日と断定」できるもの、
 緑玉緑玉は、「この日だろうと推定」できるもの、
 桃玉桃玉は、「この日かなと推量」から、「この日かもと当て推量」までさまざまあります。
 は、「事柄」というような違いです。

隠居ふむ。
書生

例えば、「何の木の花とはしらずにほひかな」は、杉風あて書簡に「二月四日参宮いたし」とあり、「参宮 何の木の花とはしらず匂ひ哉」と、詞書き付きの句が記されていますので、2月4日で青玉、というわけです。

隠居ほお。で、経路は?
書生

まず、「二月四日参宮」ですから、伊賀上野出発は2月2日と推定。距離80キロで、一泊二日の行程で、かろうじて着くでしょう。
経路は、伊賀街道と初瀬街道の二つがありますので、往と復に振りました。
復路は、18日の午前中に着くよう、伊賀上野近くに宿場がある初瀬街道でよいかなと。

隠居

そう。


旅程⑤ 貞享5年2月2日~3月18日、伊賀上野~伊勢~伊賀上野
<足跡>事項移動逗留宿所移動左累計
貞亨522<伊賀上野赤坂生家-伊賀街道→津宿>伊賀街道津宿 43.4 805.2
貞亨523<津宿-伊勢街道→伊勢山田大江寺二乗軒>
杜国、鳥羽経由で、大江寺に来る。
 【→杉風あて書簡】
啓蟄
伊勢街道船江町
大江寺
二乗軒
35.4 840.6
貞亨524伊勢神宮外宮参詣。
青玉何の木の花とはしらずにほひかな

「何の木の」八吟歌仙、益光亭、「勝延筆懐紙」
【芭蕉・益光・又玄・平庵・勝延・清里・の人(杜国)・正永】


青玉御子良子の一もと床し梅の花
益光亭外宮前 4.0 844.6
貞亨525大江寺大江寺 - 844.6
貞亨526

<大江寺→外宮前右近亭→大江寺>
桃玉紙きぬのぬるともをらん雨の花 右近亭。
「紙衣の」表六句・他、右近亭、「一幅半」
【芭蕉・乙孝・一有・杜国・応宇・葛森】

右近亭大江寺 3.8 848.4
貞亨527<大江寺→外宮前一有亭→大江寺>
桃玉暖簾の奥ものゆかし北の梅 園女亭
「時雨れてや」付合、園女亭、「笈日記」
【園女・芭蕉】
「暖簾の」付合、園女亭、「蕉翁句集草稿」
【(芭蕉・園女)】
園女亭大江寺 4.0 852.4
貞亨528

<大江寺→外宮前雪堂亭→大江寺>
網代民部雪堂に会う。馳走あり。【→平庵あて書簡】

緑玉梅の木に猶やどり木や梅の花
「梅の木の」付合、民部亭、「蕉翁句集草稿」
【(芭蕉・雪堂)】

民部亭大江寺 4.0 856.4
貞亨529平庵から進物到来【→平庵あて書簡】大江寺大江寺 - 856.4
貞亨5210

<大江寺→外宮前嵐朝亭>
嵐朝亭に泊る。平庵の進物を持参し嵐朝・杜国と賞味。【→平庵あて書簡】
芭蕉、杉風の句を見る。【→杉風あて書簡】

嵐朝亭嵐朝亭 2.0 858.4
貞亨5211

<外宮前嵐朝亭→大江寺>
平庵あて書簡。

嵐朝亭大江寺 2.0 860.4
貞亨5212荒天で二見行き延期。【→平庵あて書簡】大江寺大江寺 - 860.4
貞亨5213杉風あて書簡。大江寺大江寺 - 860.4
貞亨5214

桃玉いも植て門は葎の若葉かな

大江寺大江寺 - 860.4
貞亨5215

<大江寺→外宮前竜尚舎→大江寺>

青玉神垣やおもいもかけず涅槃像
緑玉物の名を先とふ芦のわか葉かな

竜尚舎大江寺 3.9 864.3
貞亨5216<大江寺→楠部→菩提山神宮寺跡→大江寺>
緑玉盃に泥な落としそむら燕
緑玉此山のかなしさ告よ野老堀
神宮寺大江寺 10.4 874.7
貞亨5217

<大江寺-伊勢街道→雲出宿-初瀬街道→青山峠→阿保あお宿>
伊賀上野に向かう。

青玉裸にはまだ衣更着の嵐哉

初瀬街道阿保宿 65.7 940.4
貞亨5218

<阿保宿-街道→伊賀上野生家>
父の三十三回忌追善供養。

阿保宿生家 13.4 953.8
貞亨5219

杜国・宗波来訪。

宗七あて書簡「酒の乞食について」

春分

上野生家生家 - 953.8
貞亨5220宗波、奈良へ向かう。上野生家生家 - 953.8
貞亨5221上野生家生家 - 953.8
貞亨5222上野生家生家 - 953.8
貞亨5223上野生家生家 - 953.8
貞亨5224上野生家生家 - 953.8
貞亨5225上野生家生家 - 953.8
貞亨5226上野生家生家 - 953.8
貞亨5227上野生家生家 - 953.8
貞亨5228上野生家生家 - 953.8
貞亨5229上野生家生家 - 953.8
貞亨5230

<伊賀上野生家→上野東日南町瓢竹庵>
杜国と、苔蘇の瓢竹庵に滞在

瓢竹庵瓢竹庵 1.3 955.1
貞亨531瓢竹庵瓢竹庵 - 955.1
貞亨532瓢竹庵瓢竹庵 - 955.1
貞亨533瓢竹庵瓢竹庵 - 955.1
貞亨534

(土芳新庵を開き、些中庵と命名)
清明

瓢竹庵瓢竹庵 - 955.1
貞亨535瓢竹庵瓢竹庵 - 955.1
貞亨536

瓢竹庵瓢竹庵 - 955.1
貞亨537瓢竹庵瓢竹庵 - 955.1
貞亨538

菅社のほとり薬師寺の会に、
桃玉 初ざくら折しも今日はよい日なり

薬師寺瓢竹庵 1.7 956.8
貞亨539瓢竹庵瓢竹庵 - 956.8
貞亨5310瓢竹庵瓢竹庵 - 956.8
貞亨5311

<瓢竹庵→上野西日南町些中庵→瓢竹庵>
青玉香に匂ほへうにほる岡の梅のはな
土芳の新庵「些中庵(さちゅうあん)」を訪問、
「みのむしの」自画賛を贈る。
土芳は蓑虫庵(みのむしあん・さちゅうあん)と改名。

蓑虫庵瓢竹庵 0.4 957.2
貞亨5312瓢竹庵瓢竹庵 - 957.2
貞亨5313

<瓢竹庵→上野玄蕃町探丸亭→瓢竹庵>
藤堂探丸亭(生家の裏西北直近)で花見。
桃玉さまざまのこと思ひ出す櫻哉
以後「様々園」と名付ける。

様々園瓢竹庵3.2 960.4
貞亨5314瓢竹庵瓢竹庵 -960.4
貞亨5315吉野への出発予定日【杉風あて書簡】瓢竹庵瓢竹庵 -960.4
貞亨5316瓢竹庵瓢竹庵 -960.4
貞亨5317瓢竹庵瓢竹庵 -960.4
貞亨5318

緑玉花を宿に始め終りや二十日ほど
青玉このほどを花に礼いふ別れ哉(19日吟)

瓢竹庵瓢竹庵 -960.4
※ 経路は、伊賀街道と初瀬街道の二つがあり、往と復に振った。
※ 丸数字①~⑨は、笈の小文記載の順を示す。

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笈の小文 「伊勢」

伊賀上野、伊勢間の経路・杜国の経路

隠居行きを伊賀街道、帰りを初瀬街道としましたか。
書生

どちらか一方でも構わないんでしょうが、距離がほとんど変わらないので、このように想定しました。

伊賀、伊勢間の足跡

書生

往路は、新大仏寺を経由し、長野峠を越え津宿に至り、泊まります。津からは伊勢街道で大江寺へ。津宿はこのルートのほぼ中間です。
復路は、松阪の月本の追分から初瀬街道、青山峠を越えて阿保あお宿に至り、泊まります。ここからは北に向かい、伊賀上野へ。
初瀬街道は、阿保宿まで近鉄大阪線に沿っています。

隠居阿保宿は伊賀上野に近いな。
書生この日は午前中に着く予定でないと、ちと。
隠居ちと何じゃ。
書生父の三十三回忌ですよ。遅れてはなりませぬ。
隠居

なるほどな。
で、杜国の経路はどうかな。

書生

杜国の経路杜国亭から陸路3.6キロで、中山港。中山港は、自然の良港で、漁港としてはもちろん、伊勢からの入り口としてにぎわっていました。
現在、鳥羽へ行くのは、伊良湖港からになりますが、海流が強いので、当時は開港していません。
中山港から大湊まで、伊良湖水道の潮流を避けて、約30キロを渡ります。
伊良湖岬・神島間の伊良湖水道は、潮流が強く、
「阿波の鳴門か 音戸の瀬戸か 伊良湖渡合どあいが 恐ろしや」と、
船頭が歌って恐れた難所です。この「渡合」を大きく回って避けていきます。
大湊から大江寺までは、4.4キロの陸路です。
杜国のたどる陸路は合計8キロ、たったの2里で大江寺に着きます。

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笈の小文、本文構成概観

隠居

貴君の「旅程表」にある発句と、「笈の小文」の記述とは、順序がちょっと違う。

書生全然違います。
隠居右①~⑨は記述順、❶~❾は日付順。大いに違っております。罫線

「笈の小文」 伊賀・伊勢の発句
①❾ さまざまの事おもひ出す桜哉
②❶ 何の木の花とはしらず匂哉
③❽ 裸にはまだ衣更着の嵐哉
④❼ 此山のかなしさ告よ野老掘
⑤❻ 物の名を先とふ蘆のわか葉哉
⑥❸ 梅の木に猶やどり木や梅の花
⑦❹ いも植て門は葎のわか葉哉
⑧❷ 御子良子の一もとゆかし梅の花
⑨❺ 神垣やおもひもかけずねはんぞう

書生①は前段「伊賀」の末尾にありました。この桜の句が、花の句②の前に置かれるのは当然です。
隠居自然ですな。
書生それに、実際は、「伊賀-伊勢-伊賀-初瀬」ですが、「伊賀-伊勢-初瀬」と、すっきりした流れになります。
隠居ほお。
では、すっきりしたところで、❶~❾の順で参ろう。

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笈の小文、2/4、「何の木の」句、「御子良子の」句
付:資料-「何の木の」句、詞書き
隠居

外宮鳥居
一の鳥居            二の鳥居            拝所前

一の鳥居をくぐると、右手に立派な門があって、奥に斎館いつきのやかたがあります。神職が潔斎するところですな。
玉砂利の道を行くと、二の鳥居。正中を避けて進むと、右手に外宮正殿の拝所があります。僧尼は、この三つ目の鳥居をくぐることはできません。その手前の決められた場所で、遙拝することになります。西行も芭蕉もそこに座りました。

書生はあ。
隠居本文は、日を追って味わうゆえ、❶「何の木の」句からですな。
❾「さまざまの」句は、伊賀上野に戻ってからなので、この項の最後ですな。
罫線

貞享5年2月4日、伊勢山田

伊勢山田
② 何の木の花とはしらず匂哉


神垣かんがきのうちに、梅一木もなし。
「いかに、故有ることにや」と、神司かんづかさなどに尋ね侍れば、「ただ何とはなし、おのづから梅一もともなくて、子良の館こらのたちの後ろに一もと侍る」よしを語りつたふ。
⑧ 御子良子の一もとゆかし梅の花

【御子良子(おこらご)の、一もとゆかし。梅の花。】

書生

はい。
「13日付杉風あて書簡」に「二月四日参宮いたし」とあります。4日は、青玉青玉、確定です。
西行の
 何事のおはしますかは知らねども
   かたじけなさに涙こぼるる

を踏まえて、 「何の木の花か分からないが、そこはかとなく漂い香っています」と詠んでいます。

隠居西行歌を踏まえた芭蕉の心を忖度すると。
書生「西行のように率直には言い表せませんが、神威のかたじけなさを、花の香に感じ、引き締まる思いがします」、でしょうか。
隠居秋屋、「花はさくら」の詞書きが、参考になりましょう。罫線

寛政13年刊「花はさくら」
「何の木の」句・詞書き

貞享五とせ如月の末、伊勢に詣づ。
この御前の土を踏むこと、今五度に及び侍りぬ。
更に年のひとつも老い行くままに、かしこきおほん光も尊さも、猶ほ思ひまされる心地して、
彼の西行の「かたじけなさに」と詠みけん、涙の跡もなつかしければ、
扇うち敷き、砂にかしらかたぶけながら、
           武陵 芭蕉桃青拝
 何の木の花とはしらず匂ひ哉

書生「参拝も5度目で、前回から年も一つ取り、神の光も尊さも勝っている心地で、西行の涙の跡も懐かしかった」。
隠居

西行も、同じく指定された「僧尼拝所」から、参拝した。人一人分の同じ場所に畏まったわけで、500年の時を隔てても、
「ここが西行の涙こぼれた跡」という感動が強い。
その場所に扇を広げ、額づいたわけ。

書生

前回の参拝、「野ざらし」の旅で、「われ僧にあらず」と掛け合ったのと、随分違いますね。

隠居あれは、内宮でした。内宮は、一の鳥居もくぐれません。
書生

外宮はここまでこれるのですから文句はありません。
西行と同じ場所だと実感できたから、この句が生まれたんですね。
僧尼拝所を右図に入れました。大江寺から、外宮までは、約2.5キロ。道路は大正時代のデータを元にしました。
境内に入り、二の鳥居を過ぎた五百枝の杉のところ、三の鳥居の手前です。
ときに、歌仙の連衆も、一緒に参宮しているんですね。

伊勢古地図
隠居

そうです。次に出てきます。

書生⑧、「御子良子の」の前文と句です。
「神垣の内に、梅は1本もない。『どんな事訳が』と、神官に聞くと、『これという訳はなくて、自然にないことになっているが、子良の館の裏に1本あります』と語ってくれた」
「この広い神域の中で、御子良子の館の裏にあるという一もとの梅、こころ引かれることだ」
隠居

子良は厳重に物忌みをし、神に仕える斎いつきの童女。一切の障り汚れから隔絶され、お篭もりをする。
一の鳥居近くの斎館の一部でしょうね。そんな館に、僧形の芭蕉は近寄れません。

書生だから「ゆかし」ですね。
隠居そう。
書生で、この句は⑧で後ろのほうですが、4日というのは?
隠居もう、手掛かりはそろっておる。
書生4日、門人と共に参宮した。何の木の花か、そのほのかな香に、神域の気を感じた。そう言えば、盛りのはずの梅の香がしない。
「梅の木は?」と探すがない。
「自ずからないが、子良の館に一本」と神官が答える。
神官がいたんですね。
隠居ああ、何人もな。
この日同行の門人が神官です。
益光ますみつ、勝延かつのぶ、又玄ゆうげんは間違いなく、伊勢の神官。あと、平庵へいあん、清里きよさと、正永まさなががいるが、多分、神官か御師。
書生

そうですか。門人の何人かが神官でしたか。
じゃあ、もう詠んだのは、この日しかないですね。青玉青玉です。

隠居そうですな。 本文は、雪堂の会に続きますが、先に、この日の歌仙を見ましょう。

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2/4,歌仙「何の木の」全、外宮前益光亭

隠居歌仙「何の木の」の巻。
益光亭は、所在地が分からぬが、伊勢の神官の家が多い外宮前としよう。
罫線

貞享4年2月4日、伊勢山田益光亭
八吟、歌仙、「勝延筆懐紙」

連衆:芭蕉・益光・又玄・平庵・勝延・清里・の人・正永


「何の木の」歌仙
発句  何の木の花とは知らず匂ひ哉   芭蕉1
脇    こゑに朝日をふくむ鶯     益光1
第三  春ふかき柴の橋守雪掃きて    又玄1
初オ4  二葉の菫御幸待ちけり     平庵1
初オ5 有明の草紙をきぬに引き包み   勝延1
初オ6  寝覚めはながき夜の油火    清里1
初ウ1 釣柿に鼠のかよふ音聞きて    益光2
初ウ2  しをりを戸ざす田の中の寺   芭蕉2
初ウ3 山路来て清水稀なる袖の汗    平庵2
初ウ4  煩ふ鷹ををしむかなしき    又玄2
初ウ5 女のみ古き御舘の破れ簾     芭蕉3
初ウ6  碁に肱つきて涙落としつ    勝延2
初ウ7 いねがてに酒さへならず物おもひ の人
初ウ8  陣のかり屋に僧の籠りて    益光3
初ウ9 白雲にのぼれと雁を放つらし   清里2
初ウ10  はじめて得たる国の初稲    平庵3
初ウ11 もる月を賎き母の窓に見て    又玄3
初ウ12  藍にしみ付く指かくすらん   芭蕉4
名オ1 神役に雇はれ来ぬる注連縄の内  益光4
名オ2  返歌につまる衣の俤      の人
名オ3 恋草と池の菖蒲を折りかねて   勝延3
名オ4  水鶏を追ひに起きし暁     又玄4
名オ5 たばこ吸ふ篝の跡の煙りたる   平庵4
名オ6  誰が駕のりものぞ霜かゝるまで 清里3
名オ7 あこがるゝ楽の一手を聞きとりて 芭蕉5
名オ8  釣の王子の浦はさびけり    益光5
名オ9 声さりて鳥居に残る秋の蝉    又玄5
名オ10  しぐるゝ風に銀杏吹きちる   勝延4
名オ11 笈かけて夜毎の月を見ありきし  の人
名オ12  心と住まん家の図もなき    平庵5
名ウ1 親ひとり茶に能き水と嘆かれつる 益光6
名ウ2  まづ初瓜を米に代為す     芭蕉6
名ウ3 此の坊を時鳥聞くやどりにて   正永
名ウ4  ゆり込む楫にふねつなぎけり  又玄6
名ウ5 武士の弓弦に花を引きたわめ   勝延5
挙句   短冊のこす瑞籬の春      の人

書生文字を小さくしましたので、何とか収まります。 この発句の「花」は、「正花(しょうか)」ですか?
隠居そう。
「何の木の花」かは分からないが、「匂ひかな」で、花を称美していますから桜で、正花。
添えた脇が、発句の花を、桜以外に限定すれば、正花にはならぬが。
脇の鴬で、梅とはなりません。
花は桜にあらず、桜にあらざるにもあらず」ですな。また、「決め事、花の句」を参照してください。
書生実際、この時期、桜は咲いていませんね。
発句が西行歌を踏まえていますから、脇も、西行歌が下敷きでしょうか。
隠居はあ。
 花の色や声に染むらん鴬のなくねことなる春のあけほの
ですかな。
花に染む声では、発句にさわるゆえ、朝日にしたかな。
書生「の人」は杜国でしたね。
そこにいたんですね。
隠居でしょうね。
や、書生君。ちょっと、ここ、初ウ5。
膝送りが、乱れています。
名前の後に何回目か、番号を入れてください。
書生はあ、……
2回目がまだの勝延・清里を抜かしています。何か?
隠居ここ初ウ5で、詠むべきは清里です。
書生……
隠居ここまでは六吟。
偶数の人数の場合、2巡目は、順を変える。
変えないと長句ばかり、短句ばかりにになる。膝送りでは、一人が長句長句、短句短句と続かないように、また打越句を読まぬようにする。
2巡めは芭蕉と益光、又玄と平庵が入れ替わっている。
従って、初ウ5は ……
書生はい、勝延と入れ替わって、清里の番です。
隠居そう。
それが、芭蕉。
書生おや。
隠居指合を繰って、執筆か芭蕉が却下。芭蕉が代わって詠んだということ。
書生へえ。
隠居却下して、芭蕉が詠んだということ。
書生はい。

隠居初ウ3が恋の呼び出しなのに、初ウ4は恋の色が薄い。そこで、初ウ5は恋句とした。
初ウ6は、勝延。次いで、初ウ7は清里だが、また指合があったのか、杜国句になっている。
これは、打越の初ウ5が芭蕉なので、やむなく杜国が詠んだということかな。
杜国は、最初から居たが、例の事情で、参加は控えていた。のでしょう。
まあ、「詠んだ」じゃなく、「芭蕉が詠ませた」かな。
書生なるほど、順を追うと、名オ2・名オ11も、清里に代わって杜国が詠んでいることが分かります。
挙句は、だれの代わりかな。
隠居ああ、杜国が執筆をしていたと考えたほうがいいですね。執筆は、一巡後に詠まなければ、挙句を詠みますから。
「瑞籬の春」と下七の用意があって、名残の花に合わせ、即座に「短冊のこす」と付けたのでしょう。これは、心得です。
書生「短冊のこす瑞籬の春」ですか。この会にぴったりですね。
隠居瑞籬は神垣のことです。
「神垣の内で、何の木か分からぬ花の香に合い、梅の花を求め、神垣の見える外で歌仙を巻いた」と、短句七七で表すのは流石です。
この日、杜国は「野人」の号であることを心に留めておきましょう。

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2/6,表六句「紙衣の」及び21句、外宮前右近亭

書生

右近亭地図右近亭は、外宮のすぐ近くです。
 
さきほど読んだ、歌仙「何の木の」の第三を詠んだ又玄の屋敷も分かりましたので、入れました。
島崎又玄について、調べる内に分かったことをメモしておきます。
・「木曽殿と背中合せの寒さかな」を、義仲寺で詠んでいます。
・元禄2年、芭蕉は又玄亭に滞在し、けなげな妻のおもてなしに感動し、
 月さびよ明智が妻のはなせしむ
という句を贈っています。

隠居

ご大儀。
さて、「紙衣かみぎぬの」句を発句とする巻。
右近亭で、5日~7日に興行したと想定。
連衆は、伊勢の人で、この日入門。右近は御師(伊勢では「おんし」と言う)。 なお、「乙孝いっこう」は、右近の俳号。旧号、路草。

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貞享5年2月6日頃、外宮前岩淵の右近亭
六吟、「表六句・付合・11句」
連衆:芭蕉・乙孝(右近)・一有・杜国・応宇・葛森
、「一幅半」

  歌仙
発句 紙衣のぬるとも折む雨の花  芭蕉1
脇   すみてまづ汲水のなまぬる 乙孝1
第三 酒賣が船さす棹に蝶飛て   一有1
オ4  板屋板屋のまじる山本   杜国1
オ5 夕暮の月まで傘を干て置   応宇1
オ6  馬に西瓜をつけて行なり  葛森1
 このすゑおきなの句をあげて余はのぞく。
①  稲妻の光て来れば筆投て   -
②   野中の別れ片袖をもぐ   芭蕉
③   夕に駕籠を借みやこ人   -
④  命ぞとけふの連歌を懐に   芭蕉
⑤  汐は干て砂に文書須广の裏  -
⑥   日毎にかはる家を荷ひて  芭蕉
⑦  乞食年とる楢の木の中    -
⑧  聖して霰ながらの月もみつ  芭蕉
⑨  目前のけしきそのまゝ詩に作 -
⑩  八ツになる子の顔清げなり  芭蕉


※「一葉集」初オ6に続けて
7  秋寒く米一升に雇れて    芭蕉2
8   襦袢の糊のたらでさびしき 杜国2
9  吹付けて雨はぬけたる未申  葛森2
10③  夕に駕をかる都人     杜国3
11④ 命ぞとけふの連歌を懐に   芭蕉3
12   寺に祭りし業平の宮    応宇2
13  世の中を鶺鴒の尾に喩へたり 葛森3
14   露にとばしる萩の下末   乙孝2
15① いなづまの光て来れば筆投て 一有2
16②  野中のわかれ片袖をもぐ  芭蕉4
17  君が琴翌の風雅をしたひつゝ 応宇3

書生

 紙衣の濡るとも折らむ雨の花
紙ぎぬは、紙子ですね。「濡れてもいいから、しっとりと雨に潤う花の枝を折りに行こう。」
この花は、梅ですね。

隠居

ほお。

書生

桜はまだ咲きませんし、折りません。
脇は、「水が濁るほど雨が降ったが、澄んで先ず汲んだ水の生ぬるさは、冷たくなく春の盛りを感じる」ですか?
「なまぬる」って、辞書では「なまぬるい」しかありませんが。

隠居七部集にありましたな。
書生

はあ、……。乙州の「なまぬる一つ餬ひ(もらい)かねたり」と、

「卯月哉」の巻、初オ4」、別窓で参照
野坡の「銅壺よりなまぬる汲んでつかふ也」の2句です。

「案山子」の巻、初オ5」、別窓で参照


乙州のは「微温湯」、野坡のは、「ぬるんだ汲み置き」
隠居

形容詞語幹の名詞形です。
現代語でも、語幹の名詞形「生ぬる」は、つかいませんね。乙孝のは、活用語尾の省略形。君の訳で問題ありません。

書生いえね、乙孝の脇、何か違和感が。
隠居

何でしょう。

書生

はい。発句と時間に隔たりがあります。だからかな。
しかも、「て」が使ってある辺り。

隠居右近邸跡

「て」に問題はありません。
発句・脇に「て」があれば、第三が工夫するだけのことです。
おや、第三も「て止め」ですか。

ともあれ、芭蕉が一座してのことですから、問題はないのでしょう。

それより、杜国が、「野人・野仁」としてでなく、「杜国」として、しかも、表で詠んでいます。

書生4日の会では既に「野人」でした。
隠居了解不能です。
乙孝の「一幅半ひとのはん」は右の通り、初表の六句プラス付合です。一葉集には初裏の11句がありますので、追加しました。如何でしょう。
書生回数を入れます。
ふむふむ。杜国の順が早すぎ、芭蕉も4句目が早い。
これは、4日の会と展開が似ています。
それに、「13鶺鴒」と秋に移りましたが、何と素秋。
隠居ほお。
書生それで、乙孝に破棄を命じたのでしょうね。破棄するものに杜国名があっても構いません。
隠居でしょうな。
凉菟序に「元禄庚辰13年の春、この巻のはじめになして、ほのかに行脚の面影をみる」とあります。
書生しっかりと見せられなかったのですね。
隠居

ときに、第三を詠んだ一有いちゆうな、お内儀がそれはもう絶世の美人で、年は25と妙齢。そこへ、芭蕉が翌日に行く。

書生ほお。

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2/7,付合「暖簾の」、外宮前辺園女亭

隠居前日右近亭で会った一有は、神職で医師。住まいは外宮前でしょう。
この日は、一有の妻、園女そのめ、そのじょが、芭蕉と会う。 ちなみに、右の句順は、園女の「菊のちり」の記述に沿ったもの。
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貞享5年2月7日頃、外宮前辺の園女亭
二吟、付合
連衆:芭蕉・園女、「笈日記」


 時雨てや花迄残るひの木笠 園女
  宿なき蝶をとむる若草  翁

書生【時雨てや。花まで残る桧木笠。 園女  花:三春】
【 宿なき蝶を、泊むる若草。 翁  若草:晩春】
「冬の時雨から、この花の時期まで旅を続けられたのですね。その桧木笠で」
「そんなあてもなく旅をする蝶のような私ですが、若草に惹かれ、ひとときの宿といたします」 素敵なやりとりですね。
隠居そうじゃな。
書生若草のような美人ですか。
隠居次は、梅の花のような美人になる。
暖簾、読みは「のうれん・のんれん」で、つまって「のれん」となります。
、二月は「きさらぎ」。
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同日同所
二吟、付合、「蕉翁句集草稿 」

   園女亭
 暖簾の奥ものゆかし北の梅 (芭蕉)
  松ちりなして二月の頃  (園女)

書生

この梅と園女が結びつきませんが。

隠居暖簾に書いてあるものは何?
書生はあ、屋号とか店名。
一有は医者だから、「万の病、なおしどころ 一有」などと、書いてあった、かな?
隠居で、「北の方」じゃよ。
書生

では、「暖簾の奥、お内儀の居所、北庭にゆかしく咲く梅の花」、医業を支える内助の功を言っているような。
脇は、「松尾」の「松」が掛けてあるような。

隠居

まあ、次は白菊のごときとなる。

書生やあ、照れますねえ。「君は野菊のようだ」だって、なかなか言えません。
隠居次と言っても4年後、芭蕉最期の興行です。
元禄5年、園女は、夫一有と大坂に移り、西鶴とも交流。
元禄7年9月27日の午前、芭蕉を招き、九吟歌仙を巻く。
この時の発句・脇が、
 白菊の目に立てて見る塵もなし 芭蕉
  紅葉に水をながすあさ月 園女
連衆は、芭蕉・園女・之道・一有・支考・惟然・洒堂・舎羅・荷中と、そうそうたる顔ぶれ。
これが、芭蕉最期の歌仙となりました。
園女は、死後も芭蕉を師と仰ぎ、元禄16年夫と死別後、其角を頼って江戸に出る。
芭蕉句を追い求め、女流蕉門随一の活躍をするが、享保11年、63歳で没。
墓は、江東区白河の雄松院。芭蕉庵から500メートルもないところです。
書生この日、「北の梅」と呼ばれた園女、才能開花の瞬間でしたか。

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笈の小文、2/8、「梅の木に」句、網代民部雪堂亭
付:資料-同句付合
書生

雪堂亭地図雪堂亭です。
「神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに」(万葉集、大伯皇女)
神風は、伊勢の枕詞。
 
神風館という屋号はなかなかのものです。
その位置は、JR参宮線、近鉄宇治山田線の「伊勢市駅」前です。
言わば、駅前一等地。

隠居

一等地があって、後に駅ができました。
それはさておき、「網代あじろ」となっておるが、正しくは「足代」。
神風館と号した足代民部は、雪堂の父。
外宮三方家の御師で、談林の著名俳人であったが、この5年前44歳で死去。雪堂が二代目となった。
平庵がこの会に向けて尽力したこと、会が8日頃であったこと、ご馳走になったことは、次の【平庵あて書簡】に見られます。

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貞享5年2月8日、伊勢山田本町網代民部亭


   網代民部雪堂に会ふ
⑥ 梅の木に猶やどり木や梅の花


二吟、付合 連衆:芭蕉・雪堂、「蕉翁句集草稿」
 梅の木の猶やどり木や梅の花 (芭蕉)
  見るにけ高き雨の青柳 (雪堂)
書生 ⑥、梅の木は老木で、父を指していますが、息子は、さて。
隠居さて、何?
書生「宿り木」か、「梅の花」か迷いますねえ。
隠居その二通り、訳してみたら。
書生先ず、「宿り木」。
「梅の老木に、さらに宿り木が花開いてめでたいことだ。先代の梅もうれしげに咲いています」
隠居梅の花は?
書生「梅の老木に、さらに宿り木のように、違う色の梅の花が咲いている。まさに初代を引き継いでいる」
隠居ああ、そうか。
わしの信条じゃが、句は言葉通りに受け取るということ。
書生はあ、……。と、すると。
隠居「梅の花」とすると、「宿り木のように」と喩える無理な訳となる。無理をしているので、没。
それに、違う色の花を付けさせるのは、挿し木じゃ。宿り木じゃない。芭蕉が違えることはない。枝ごとに色の違う「オモイノママ」という品種の梅もあるが、これでは句が成り立たぬな。
君は、宿り木が目出度いと知っていたのかな。
書生とんでもない、二者択一で宿り木にした場合、「目出度い」としなければ、訳せなかっただけですよ。
隠居そう。そのまま読んで、宿り木でいい。
 あしひきの山の木末こぬれの寄生ほよ取りて かざしつらくは千年寿くほぐとぞ
これは、「山の梢の宿り木を取って、髪飾りにするのは、千年の長寿を祈ってのことだよ」ということ。
書生万葉?
隠居家持。
厳寒期に咲く梅と同様、宿り木の金色の花に生命の源泉を感じていたわけ。宿り木は目出度い。
書生ああ、私の訳、的を射てましたか。
隠居そう。
さて、脇句。万葉ついでに、
 青柳梅との花を折りかざし 飲みての後は散りぬともよし
また、新古今、
 春雨の降りしくころは青柳の いと乱れつつ人ぞ恋しき
書生梅に青柳を付け、雨まで取り合わせるとは、いかがなものかと。
隠居談林の真骨頂です。芭蕉はしませんが、否定はしません。
書生

ところで、民部亭の場所ですが、JR参宮線伊勢市駅前でいいですか。
月夜見宮南東にも足代邸跡があり、迷いましたが。

隠居

又玄亭の西ですな。こちらは、多分居所。
駅前でよいでしょう。歓待するには、宿泊施設である神風館を選ぶのが道理。

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2/11,平庵あて書簡「進物等の礼、二見行きなど」、伊勢山田嵐朝亭にて

隠居

門人平庵への書簡。
 ・ 平庵から進物があったこと。
 ・ 嵐朝亭に泊まったこと。
 ・ 12日は二見に行く予定だったこと。
 ・ 杜国がいたこと。
など、この頃の動向が分かる貴重な資料です。

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貞享5年2月11日付、平庵あて書簡
「進物等の礼、二見行きなど」


① 痛み入りたるご音信(いんしん、進物)、忝(かたじけな)く存じ奉り候ふ。
② 一両日、御ン物遠にナリ<礼も言わぬまま>罷り過ぎテ候ふ。
③ 昨日より嵐朝へ参り、一宿仕り候ふ。
④ 先づ以つて、先夜民部殿へ、召し寄せられ候ふて、ご厚志のご馳走、貴様よりご内通のよろしきゆゑと、ご亭主振りガ゙感心デ、忝く存じ奉り候ふ。
⑤ 明日、二見へトの心ざしガご座候へども、天気ハこのごとく<悪く>御座候へば、先ず引き延べ仕るべく候ふ間(原文旨)、今晩罷り帰り、明日、<民部殿の>御意を得べく候ふ。
⑥ そのうち民部殿へ御ン逢ひ候はば、然るべく頼み奉り候ふ。
⑦ 猶ほ(さらに)、貴面(お目もじしての対話)ニテ。
 以上二月十一日
             芭蕉之
平庵様


⑧ 貴報
尚々、ご音信(進物)ハ、忝く賞玩ヲ仕り候ふ。
然り乍ら、ご牢人(=浪士、平庵のこと)の御心遣ひ、却って痛み入り申し候ふ。
亭主(嵐朝)且つ野人(のひと=杜国)へ御伝へ申し候ふ。 以上

書生①、「ご進物を頂戴し恐縮。ありがたく思います」。
隠居益光亭や右近亭での興行の礼とか、大江寺逗留中の食物の調達とか、伊勢の門人を代表して贈ったんでしょうな。
書生②、「この1,2日ご無沙汰したので、礼も言わないままに過ごしました」。
隠居

一両日は、「一日か二日」。
11日午前に手紙を書いているとすると、平庵に会ったのは、9日か、8日になる。

書生③、「昨日嵐朝亭に来て、一泊しました」。
隠居

10日のことだ。
嵐朝は、江戸の嵐雪の門下、既に天和3年の「虚栗(みなしぐり)」に入集しておる。

書生

④、「何はさておき、先日の夜、足代民部殿に召し寄せられまして、」。
「召し寄せられ」ですから、書状か使いの者が来て、呼び寄せられたということかな。
「お心のこもったご馳走を頂戴したのは、あなた平庵さまからの手配が行き届いていたからと、また雪堂殿の客を迎えるご亭主ぶりがご立派と感じ入り、感謝いたします」。

隠居

先夜ですから、8日以前の夜。
9日は「一昨夜」ですから、その前ですな。

書生

「一両日物遠」は、10日・9日に会っていないことを示します。
だから、平庵に、最後に会ったのは、8日で、日中。
民部亭は8日の夜に、決まります。

隠居

「ご内通よろしき」平庵は、8日「民部殿から呼ばれるのでご承知を」と芭蕉に伝える。
その後、民部からお召しがあり、夜出向く、というところでしょう。

書生

平庵からの進物は、9日に届く。
10日、それを持って、嵐朝亭に行くで、すっきりします。
⑤、「明日12日、二見へ行こうとの心づもりをお持ちですが、天気が悪いので、先ず日延べすべきところでございまして、今晩は大江寺に帰り、明日民部殿の意向を頂こうと思います」。

隠居

嵐朝亭は、民部亭のある外宮前からは遠いようだな。
右近亭、民部亭も雨でしたな。

書生⑥、「近いうちに、民部殿にお会いなさるようなら、よいようにお取りはからいくださるようお頼みします」。
隠居婉曲な強制ですな。明日の予定について明日意向を聞いても遅いな。
書生

今日中に段取りをしなさいということですね。
⑦、「なお、詳しくは会ったときにお話しします。年月日・送り手・受け手」。
⑧、「貴報」は、「あなたの御手紙について」ということで、
「尚々書き。ご進物は、ありがたく賞味いたしました。しかしながら、今は、ご浪士である平庵様のお心遣いは、却って恐縮いたします。亭主嵐朝と野人(=杜国)へは、あなたからの伝言をお伝へしてあります。 以上

隠居

牢人は、牢籠の士分について言う語。
平庵は武士じゃったわけ。

書生貧しい中での歓待、さぞ感じ入ったでしょう。
隠居

また、お主が家を調べた又玄、わしのように極貧だったようですな。
その話をしようか。 いや、長くなるのでやめよう。

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2/13頃,杉風あて書簡「近況、安否など」、伊勢山田二乗軒にて

隠居

門人杉風への書簡。
 ・ 伊勢での様子。
 ・ 帰郷の予定。
 ・ 旅の予定。
 ・ 杜国のこと。
など、この頃の動向が分かりましょう。

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貞享5年2月13日頃、杉風あて書簡
「近況、安否など」


① 其元(そこもと)ハ御無事と見え候ふて、歳旦(歳旦吟、杉風や嵐朝の句あり)ヲ、伊勢にて一覧、珎重に存じ候ふ。
② 拙者ハ、無事に越年いたし、今程ハ山田に居申し候ふ。
③ 二月四日ニ参宮いたし、当月十八日ハ親ノ年忌ガ御座候ふにつき、伊賀へ帰り候ふて、暖気になり次第ニ、吉野へ花を見に出で立たんと心がけ、支度ヲいたし候ふ。
④ 尾張の杜国も、吉野へ行脚せんと伊勢まで来候ふて、只今ハ一所に居候ふ。
⑤ 卯月末、五月初めに帰庵致すべく候ふ。
⑥ 木曽路と心がけ候。
⑦ 深川ノ大屋(大家)、吉(きち某の名)ニ御逢ひ候はば然るべく願ひ奉り候ふ。よく御伝へ成され下されべく候ふ。
⑧ いまだ爰元(ここもと)にても、発句も致さず候ふ。
⑨ 参宮
 何の木の花とはしらず匂ひ哉
⑩ 追っ付け、二見(ふたみ)・浅熊(あさま、朝熊)へ参り候ふ。爰元ハ方々(ほうぼう)ニ馳走シ(駆け回り)、残る所もなく、万(よろず)ノ御気遣ひヲ成さるまじく存じ候ふ。
 ⑪ 一、濁子丈・御子達・御奥方ハ、御堅固に御座成され候ふや。拙者ハ無事の旨、御告げ下さるべく候ふ。其元、別条ガ御座なく候はば、御状に及ばず候ふ。若し、急に御しらせの事ガ御座候はば、関の地蔵にて、笠屋弥兵衛と申す方まで、飛脚便に御状ヲ遺は(つかわ)さるべく候。二月十八日より三月十四五日までは、伊賀に居申し候ふ。 以上

 杉風さま                  はせを

⑫ 尚々、猪兵衛ハ相ひ勤め候ふや、心元なく(心許なく)候ふ。

書生①、「あなたは、ご無事と見えまして、歳旦吟を、伊勢で一覧し、めでたいことと思いました」。
隠居杉風の元旦の句を、嵐朝亭で見て、無事を喜んだことが分かります。
書生②、「私は無事に越年し、今は伊勢山田にいます」。
隠居「無事に越年」は、故郷での年越し。
祖霊のもとで無事年を重ねること。
本当は、早起きして初日を拝まなければ無事とは言ませんがな。
書生

③、「2月4日に参宮し、今月18日は、父親の三十三年忌がありますので、伊賀へ帰り、暖かくなり次第、吉野へ花を見に出で立とうと心に掛け、支度をしております」。

④、「尾張の杜国も、一緒に吉野へ行脚しようと、伊勢まで来ていまして、今同じところにおります」。

隠居

そこなんですが、「三河」と言わない。
ということは、

書生芭蕉も、鳴海で三河にいることを知ったのだし、江戸の門人たちもまだ知らないということ。
隠居杜国は、「尾張」で知られているし、手紙で一々書く内容でないからな。
書生

同行者がいるので、安心せいと、言外に伝えただけですね。
⑤、「4月末から五月初めには、帰庵することになります」。
⑥、「木曽路を通って帰る心づもりです」。
⑦、「深川芭蕉庵の大家の『吉』にお会いされたら、然るべくお願いをしてください。予定など、よくお伝えください。

隠居この時点での計画がよく分かります。
杜国は吉野までですな。
芭蕉はもとより京都へ行く予定があったし、岐阜・大垣へ行く約束もしていました。
書生

⑧、「いまだ、爰元にても、発句も致さず候ふ」。
⑨、「参宮  何の木の花とはしらず匂ひ哉」。
「発句も致さず」と書きながら、「何の木の」句を書いているのは、矛盾しています。
⑧の意味は、「未だ、この伊勢の地で発句は詠んでいない」ではないということでしょうか。
「ここもと」は、さらに限定された場所なのかな。

隠居

文脈上、大江寺や嵐朝亭ではなく、「当地の伊勢山田」。
芭蕉は、他の書簡に、
「発句も二、三句ならでは致さず候ふ、そのくせ不出来に候ふ」とか、
「ここ元発句も、さのみ出でず」とか書いてますな。
そうこだわらなくて、よさそうです。

書生

はあ、「満足できる句ではないけれども」と謙遜しているわけですか。
⑩、「追っ付け、二見・浅熊へ行きます。この地はほうぼう駆け回り、訪問予定先は残っていませんので、いろいろなお気遣いはいりません」。
句は、二見・朝熊に期待してくださいという感じですね。

隠居

そう。
で、この⑩の2文を加えると、手紙を書いた日がかなり限定できましょう。
岩波の書簡集には「中旬」とありますが。

書生

伊勢山田の訪問予定は消化していること、……、「追っ付け」もですね。
「二見へ行く」は、民部の計画だと平庵あての書簡にありました。
民部亭は、8日ですから、9日以降となります。

隠居

それでは、限定になりません。
⑩の2文を加えてですぞ。

書生

はあ、……。 ああ、①だ。
嵐朝亭で杉風の句を見たから、10日以後。
で、10日なら、「12日の二見行き」は決まっているから、もはや「追っ付け」ではない。
11日でも、翌日なので、「追っ付け」とは書かない。
「追っ付け」は、「未定だが早くに」というとき使うので、12日中止になり、決まるまでの短期間。
だから、早くても12日です。

隠居

伊賀への出立は遅くとも17日です。
14日に「追っ付け」と言っても2日しか残りません。

書生12日か13日に限定されます。
隠居ですな。
書生

⑪、「一つ、濁子丈・お子たち・奥方ハ、ご健勝でございましょうか。 私は無事ということを、お知らせくださるようお願いします。
あなたが、お変わりなければ、ご連絡には及びません。
もし、急なお知らせがあれば、「関の地蔵」にて、笠屋弥兵衛のところへ、飛脚便で手紙を届けください。2月18日から3月14,5日までは、伊賀におります。 以上
杉風さま                  はせを
⑫尚々書き。猪兵衛は、ちゃんと勤めていますか。心許なく思いますが。

隠居

「関の地蔵」は、関宿の地蔵院でしょう。
濁子は、江戸詰め大垣藩士。
猪兵衛は訳あり。
在伊賀期間に留意を。

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笈の小文、2/14、「いも植て」句、伊勢山田大江寺「草庵会」

隠居

「真蹟懐紙」には、
  二乗軒といふ草庵の会
 薮椿門は葎の若葉かな
とあります。

罫線

貞享5年2月14日、伊勢山田大江寺

  草庵会
いも植て門は葎の若葉かな

書生

葎の若葉は、晩春ですね。
②、「二乗軒の畑には里芋の苗が青々として、門かどの葎が柔らかな緑の若葉が出ている」、です。

隠居

君、芋を栽培したことありませんか。
この日は、新暦の3月15日ですか。このころから4月中旬にかけて、種芋を植えるが、芽が出るまでに、1,2か月はかかります。
また、ムグラは、あばら家や貧乏のお友達。

書生

そうすると、種芋を植えて、土をかぶせると何が植えてあるのだか、見えませんから、
「この庵の主が芋を植えているが、無頓着な性分か、体裁には構わないので、門の葎に若葉が出始めている」ですね。

隠居ムグラは、ひっつき虫ができるから、出入り口は特に気になり、遅くとも秋には抜かれるはずだが、ここのは運良く冬を越せたな。
書生風流なんですね。
隠居

芭蕉のムグラの発句は、これが初めて。
次のムグラの句は、この年の冬で、
 さし籠る葎の友か冬菜売り
さし籠もるは、自分の隠棲を言う。
翌春の画賛には、
 葎さへ若葉はやさし破れ家やぶれいえ
と詠みました。
まさに、風流の極みですな。芭蕉も、ムグラは抜かなくなりました。

書生訳の「無頓着な性分か」は、「隠者にふさわしく」にしましょう。
隠居

そうそう、短句に名作がありました。
 二の尼に近衛の花のさかりきく  野水
  蝶はむぐらにとばかり鼻かむ  芭蕉

書生「冬の日」の、名恋句でした。
ご隠居の家も風流です。

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笈の小文、2/15、「神垣や」句、「物の名を」句、伊勢山田竜尚舎

書生

竜尚舎地図竜尚舎、ここも外宮近くです。
「御師竜大夫跡」の碑は、伊勢市大世古1丁目にあります。
世古とは、伊勢における狭い路地の呼び名。
ちなみに、右近亭は西之世古にあり、又玄亭は極楽寺世古の近くにあります。

竜尚舎の跡地は広く、今や伊勢神宮のご用紙を製造する和紙工場。
伊勢和紙を展示する「伊勢和紙ギャラリー」、や「伊勢まちかど博物館」などが並んでいます。

隠居

「芭蕉翁略伝」に、
  十五日、外宮の館といふ處にありて、
 神垣やおもひもかけず涅槃像
とある。
「外宮の館」は、外宮の北、神官の屋敷を言う。「館」は、貴人豪族の屋敷、屋形のこと。竜尚舎は、御師竜太夫個人の住まいではなく、宿泊施設でした。
一つ。この西に「野ざらしの旅」で泊まった御師風瀑の館があって、風瀑は貞享3年から家業に専念しているはずですが、「笈の小文」に全く出てこない。不思議です。

罫線

貞享5年2月15日、伊勢山田竜尚舎

⑨ 神垣やおもいもかけず涅槃像


 竜ノ尚舎
⑤ 物の名を先とふ芦のわか葉かな


※ 竜尚舎は、著名な神道家で、伊勢俳壇の重鎮、御師竜太夫の屋敷。日に参拝客が800人も泊まったという。
竜太夫は、この年73歳。
書生近くでしたか。
隠居

道を隔てて右左。まあ、余談です。

世古

書生おや。どうしたんでしょうね。
さて、⑨「今日2月15日は、涅槃会。外宮神域を示す神垣の近くに、何と釈迦入滅の図が掲げてある」。
隠居神域ではないから、あって不思議はないのだが、芭蕉は、神宮が周辺から仏道を排除していると思ったとすれば、理解できます。
書生現に、僧形の参拝は許されなかったわけで。
隠居

そう。
僧は、葬儀をする。従って普通の参拝は許されない。
あの篭もりの子良も、親が死ぬと解任されましたな。そういうものです。

書生へえ。
隠居

お伊勢さんの神々は、皇室の祖霊。清浄な御霊のいますところ。
外宮前の家で、臨終近い人は、息があるのに墓所へ運ばれたという話もあるくらいです。
涅槃図は、言わば死体の絵だが、それがあった。

書生いよいよわけが、……
隠居

「竜の尚舎」では、仏道も共存していたようですな。
竜は名字、尚舎が号。尚舎は博学で有名でした。
さて、次へ参ろう。。

竜の尚舎

書生

はあ。
⑤、「芦の若葉が萌え出ている。これを伊勢でどう呼ぶか、聞いてみましょう。難波ではアシですが」と。
これは、
 草の名も所によりてかはるなり
  難波の芦は伊勢の浜荻

を、踏まえているかと。

隠居

それは、良元の「菟玖波集」にありますな。その良元に連歌をならったのが、世阿弥。
♪あ~ら面白オ~や候ふ。さて、よ~しと~あしとは同じ草にて候~ふか♪

御師竜大夫碑

書生え?「よし」と「あし」ではなくて、伊勢は浜荻かと。
隠居

聞け!
♪さてふぁ~物の名も~所によりて変るよ~なう~
♪なかなかのオ~事この芦を~オ♪伊勢人は浜荻と~いひ♪難波人は♪芦と云~ユ~ふ♪

書生だから、浜荻だと。
隠居

♪浮寝忘る~る難波江の~オ、浮寝エ~忘るる難ニ~波江の♪
♪芦のわか~ばを~越ゆる白浪~イ♪
お、「芦のわかば」が出ましたぞ。

書生

出ましたね。「芦のわか葉かな」の。
で、この義太夫を踏まえていると。

隠居

何?謡曲じゃぞ。世阿弥の「芦刈」ですぞ。
問うて答えるやりとりがあって、この謡曲そのままですな。

書生

あの、何ですが、普通に読んでいただけばわかります。

隠居

なに、謡わねば出ん。
次に、「涅槃像はいかなる故にか。思いも掛けぬことなり」などと、問う。
尚舎は、「そのことに候ふ。神も仏も一つなる故に候ふ」などと、答える。

書生と言うことは、いわゆる本地垂迹の説。
隠居

実は、尚舎は、仏教を了慧、玄心、隠元などに学び、「仏教的な神道」を広めていましてな。
だから、ばしょうは「ここに、涅槃像があっても何ら不思議ではない」と、納得する。

書生ほお。
隠居

当然、話は仏教に及ぶ。
芭蕉は、「新大仏寺に行ったこと」、「荒廃していたこと」などを語るますな。
で、尚舎は、
「その俊乗上人が、大仏再建発願の際、この内宮外宮に東大寺の多数を連れて参詣し、『大般若経』を奉納した記録がありましてな」
とか語り、
「この伊勢の地にも、新大仏寺同様、聖武天皇の勅願の寺があることをご存じか」
と、芭蕉に問い掛けますな。

書生芭蕉は知らなかった。
隠居

そうとも。知っておれば、野ざらしの旅で伊勢にきたとき、西行谷だけで帰るわけがない。
そこで、尚舎は「菩提山神宮寺」について語り、
芭蕉は「明日行かないでいられようか」となる。

書生「いやいられない」と。その裏付けとなる資料は、ありましょうか。
隠居疑うな。
尚舎の著作に「東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記」及び「新編伊勢名所拾遺集」などがある。
書生聞いたのは、対話の裏付けなんですが。
隠居ない。ないが、論より証拠、翌日芭蕉は神宮寺跡へ行く。

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笈の小文、2/16、「此の山の」句、菩提山神宮寺跡

書生

菩提山足跡図大江寺二乗軒から、菩提山神宮寺跡への足跡です。
先ず、古市街道へ向かいます。
古市街道は、外宮と内宮を結ぶ街道で、当時はこのルートしかありません。
右図に、紫色で示してあります。
 
古市の辺りは、備前屋・杉本屋・油屋など、旅館が多くあったようです。今残るのは麻吉旅館一軒だけです。
伊勢参りを済ませ、精進落としをするところだったようです。どんなふうに落とすのか調べましたが、そこだけエラーメッセージが出て分かりませんでした。
 
僧尼拝所は、「伊勢参宮名所図絵」の「外宮宮中之図其二」と「内宮宮中図」を参照しました。
外宮の拝所は、三の鳥居前で、真っ直ぐに正殿を見ることのできる位置です。
一方、内宮の拝所は、五十鈴川を挟んだところで、随分遠くにあります。僧は、橋を渡れなかったものと思われます。
 
このピンクの経路は、約5キロです。

隠居

なるほど、大江寺から、楠部、古市と、神宮寺の旧跡に向かったわけですな。
神宮寺は、西行谷の少し手前で、朝熊の西麓。
五十鈴川の東のほとりになる。
川の上流に内宮があり、その奥一帯が神路山かみじやまです。

罫線

貞享5年2月16日、菩提山神宮寺跡

 盃に泥な落としそむら燕
  伊勢市楠部


  菩提山ぼだいせん
④ 此山のかなしさ告よ野老掘

書生「ツバメが巣作りのためしきりに泥を運んでいる。おいおい、この杯に泥を落とすんじゃないぞ」
酒を飲んだんですね。
隠居

伊勢滞在最後の日。
伊勢の門弟たちも同行し、別れの宴があったのかな。
 蘭の香やてふの翅にたき物す
これは、野ざらしの旅で、西行谷の帰り道、古市の茶屋に寄ったときの句。
昔、古市は、楠部の一部だったが、遊郭が栄えて独立している。吉原・島原・古市、これが所謂三大遊郭。昭和33年売春防止法の施行とともに消え、同年学習指導要領の公示により、学校では道徳の時間が始まり、わしは不遇な少年時代を過ごすことになるわけである。

書生

はあ。
同じ茶屋でも、ツバメが出入りする店先での句ですね。
④、「この山、荒廃した菩提山神宮寺の哀しさを語っておくれ。野老掘りところほり、三春よ」。
野老は新年の季語とする向きもあるようですが。

隠居それは「野老飾る」、「(飾る)野老」じゃ。句の内容次第。
書生「神宮寺」は、神宮の寺、神仏混淆ですか。
隠居

神仏習合です。
神社に附帯する寺で別当寺、神護寺、宮寺とも言うな。
昔は大伽藍で、丈六堂・本堂・多宝塔・経蔵・宝蔵などがあったようです。しかし、中世には衰退したらしい。

書生

西行谷が近かったですね。
西行とのつながりは?

隠居

称往という上人が、神宮寺の奥に一宇を建てて西行と交流があった。
69歳の西行が伊勢を発つとき、上人に惜別の歌を詠んでいる。
 めぐりあはで雲ゐのよそに成りぬとも 月になれ行くむつび忘るな

書生芭蕉句、この別離の悲しみは、踏まえていませんね。
隠居

神宮寺の荒廃だけだろうね。
荒れ果てても、野老掘りなど、人の営みは変わらないということだな。

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笈の小文、2/17、「裸には」句、神路山を後にして
付:資料-「裸には」句、詞書き -「撰集抄」(増賀上人)
隠居神路山(かみじやま、歌枕)を後にして、伊賀上野に向かう。
西行、神路山の歌。
 神路山みしめにこもる花ざかり
  こらいかばかり嬉しかるらむ

句は、「泊船集」の詞書きを参考にして味わおうか。
罫線


貞享5年2月17日、神路山を後にして


③ 裸にはまだ衣更着の嵐哉


「泊船集」
二月十七日、神路山を出るとて、西行の涙をしたひ、増賀の信をかなしむ
 裸にはまだ衣更着の嵐哉

書生

「2月17日、神路山を出るというので、西行の涙を慕い、増賀の信心を悲しむ」、
「西行の涙」は、あの感涙ですが、増賀の信とはなんでしょう。

隠居

芭蕉は、旅立ちに当たって、
② 何の木の花とはしらずにほひかな
③ 裸にはまだ衣更着の嵐哉

この2句を神宮に奉納しておる。 ②が西行の涙、③が増賀の信。

書生「増賀の信」が分かりません。
隠居

右の文。
昔は西行著とされた「撰集抄」の抜粋。

罫線「撰集抄」
<増賀上人が、>ある時、ただ一人デ伊勢太神宮に詣でて、祈請(きせい、加護祈願)し給ひけるに、夢に見給ふやう、「道心を発さんと思はば、この身を身とな思そ」と、示現を蒙り給ひけり。
打ち驚きて覚す(おぼす)やう、「『名利を捨てよ』とにこそ侍るなれ。さらば捨てよ」とて、着給へりける小袖衣ヲ、皆乞食どもに、脱ぎくれて、一重なる物をだにも身に掛け給はず、赤裸にて下向し給ひけり。

書生

要は、
「上人は、伊勢の神のお告げが、『名利を捨てよ』ということで、
『既に捨てるべきは捨てている。最早着物しかない』と思って、
着物を乞食にやり、赤裸で帰った」ということ。

隠居そう。
書生芭蕉は、「この寒い如月だったらできなかったろう」と、浅い信心を悲しんだ。
隠居そうではない。
書生「悲しむ」の意味はそういうことです。
そういう奇行の結果、撰集抄にも書かれ、増賀の名を世に知らしめることになった。
まさに名利を得たことになり、「これぞ、自家撞着の見本なり」と哀れんでいるのです。

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笈の小文 「伊賀上野」
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2/19、宗七あて書簡「酒の乞食について」、伊賀上野芭蕉生家にて

隠居

宗七地図伊賀上野の頁で触れましたが、宗七の酒造大和屋は上野東町ひがしまちにあったということは、分かっています。右図に示した囲み内のどこかで、特定はできません。
東町は、大和街道に沿った伊賀上野城東大手門に近い絶好の地で、東西3丁の商店街が形成されていたと思われます。中央の十字路は東大手町とも呼ばれていました。
宗無もこの辺りに住んでいたのではないでしょうか。
芭蕉の妹婿堀内与惣右衛門、丸屋も東町です。
猿雖えんすいの店は上野片原町かたはらまち、上野天神南の大和街道に沿った東西1丁足らずの狭い町域です。
後の文化年間、蓑虫庵を再興する服部猪来ちょらいこと、猪田屋ししだや又五郎も片原町の豪商でした。
なお、右図は、江戸時代の「上野城下町絵図」などから起こしたもので、現在とは大きく異なります。例えば、伊賀上野城の外堀は、明治になって市街地化のために埋められ、現在の地図にはありません。

書生

芭蕉生家の近くですね。なのに書簡ですか。

隠居

使いの者が、届けたんでしょうな。
三河の杜国が江戸の宗波と共に、伊賀上野に来たのは晩でした。
晩というのは、夕暮れでしょう。
あて先の宗七は、大和屋窪田彦左衛門と称して、造り酒屋を営んでいました。店は、上野天神がある上野東町、芭蕉生家と6~700メートルの距離。
宗無は、米問屋菅野十兵衛の三男、延宝頃から江戸に住み禅の修行をするが帰省中。これは、藩の帰省令によるものかと思われますが、僧籍ではありません。
宗波は、江戸本所の定林寺住職で黄檗派の僧。深川芭蕉庵の隣に住んでいました。
前年、「鹿島紀行」に同行しています。
ちなみに、上野東町の東端にある上野天神宮の南にいた猿雖は、内神屋窪田惣七郎という薬問屋で、豪商でした。猿雖は、宗七と同じ窪田姓で、大和屋の一族です。

罫線
貞享5年2月19日付、宗七あて書簡
「酒の乞食について」



①辛口<の酒>壱升ヲ、乞食(こつじき)申したく候ふ。
②芳慮に懸けらるるべく候ふ。
③江戸・三河より、晩に二人ガ来候ふて、明日ニ奈良へ通り候ふ間、今夕(こんせき)宗無モ同道にて、御出で、御語り下さるべく候ふ。
④壱人は、宗無も近づきにて御座候ふ。 以上


二月十九日


宗七様
                       桃青

書生

①、「辛口の酒を一升、無心いたしたく存じます」、
②、「御心にお掛けいただくようお願いします」。
これは、ただで下さいというお願いでした。

隠居「乞食(こつじき)」は、頭陀行(ずだぎょう)の一つですからな。
書生

③、「江戸と三河から、晩に二人が来まして、明日は奈良へ向かうということなので、今夕は宗無も一緒にお出でくださり、お語らいくださるようにお願いします」と、
これは酒無心の理由。
④、「一人は、宗無がよく知っている人です」と。

隠居

遠方から二人来て、明日はもう発つというのでは、宗七も宗無も来ないわけにはいかぬな。

書生ご隠居。宗波とはどこにも書いてありませんが。
隠居

宗無と宗波は、禅のつながり。宗無は、江戸で禅を学んでいます。
土芳の「蕉翁全伝」に、「この春武蔵野の宗波、美濃杜国伊賀に来たり」とある。
杜国の「美濃」が違うが、あえてかも知れぬ。

書生はあ、宗七や宗無は、「二人」が誰かは知らないで来る。わくわくしたでしょうね。
隠居そりゃ、飛んでくるな。実際奈良へ行くのは宗波だけなんだが、二人共行くかのように思ってな。
書生ところで、「宗波と杜国は落ち合って来たのか?」、「宗波が奈良へ行く目的は何か?」と、謎は深まりますね。
隠居どう思ってるの?
書生

先ず、落ち合ったかですが、伊勢から芭蕉だけ伊賀に来ましたよね。
それが不自然ですね。
杜国は芭蕉の家を知らないし、「宗波が来るから、一緒においで」ということでしょうね。

隠居芭蕉は、宗波がくることを知っていたことになるぞよ。
書生もちろんです。杜国を置いて帰った理由は、ほかに見当たりません。
隠居なるほど。 で、宗波が奈良へ行く目的じゃが、大仏再建の儀式だとすると、みなつながるな。 宗波も俊乗上人にならって、伊勢参宮をするつもりであることを芭蕉は知っていた。
書生わけが分からなくなりつつあります。
隠居

では、整理しよう。
宗波と芭蕉は庵が隣同士、江戸出立前に、互いが大仏再建の儀式を見る計画があるのを知っていたのじゃ。
芭蕉は、「2月4日から17日までは伊勢の大江寺にいる」と、1月に手紙を出す。
数日して手紙が宗波に届く。
宗波は、2月下旬に奈良に着く予定でいたので、ちょうどよい。
17日までに伊勢に着くよう、2月上旬に出発する。
されど、厳寒の旅で予定より遅れ、道中のどこかから、遅れる旨を大江寺の芭蕉に伝える。
芭蕉は、それならと、杜国に宗波を待って一緒に伊賀へ来るよう言い付ける、という次第だな。

書生

つながりました。
宗波が、伊賀を一泊しただけで奈良へ向かったことも、自分の予定より遅れていて先を急いだということで納得です。

隠居

「大仏再建」が鍵ですな。
この年の式典は、4月2日から8日に行われています。
2日は聖武天皇の月命日、5日が俊乗上人の月命日、8日が仏生会。大仏殿の手斧ちょうな始めということだ。
急ぐということは、何か役割があったのでしょう。

書生俊乗上人の新大仏寺、聖武天皇の旧跡菩提山神宮寺が、大仏再建に関係しましたね。
隠居

「涅槃像」もな。

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3/8、「初ざくら」句、菅原天神社の薬師寺

隠居

寛永期、上野の産土神「上野天神」の境内に、薬師寺は、平楽寺から移築されてあったという。
ここを会場に、門人が月並つきなみ、月例句会を発足させた。
右は、その日の句。

罫線

貞享5年3月8日頃、薬師寺
「蕉翁全伝」


  菅社のほとり薬師寺の会に、
 初ざくら折しも今日はよい日なり

書生

上野天神「菅社」は、菅原神社(上野天神宮)のこと。
神社の位置は、酒屋の惣七の店がある上野東町の東端になります。
「菅社のほとり」の「ほとり」は近辺ですね。

菅社の近くの薬師寺で月並句会がはじまったので、
「さくらが咲き出した。折しも今日は、月例会発足のめでたさも重なり、よい日となったことだ」と詠みました。
桜の開花が祝うかのようです。

隠居

上野天神の桜上野市内の桜が満開のときに行きましたが、ここの桜は早いようで、もう散りかけていた。
「初ざくら」にふさわしい桜ですな。

ときに、桜の開花について、調べてくだされ。
この句を8日に置いたのも、探丸亭の会が満開であるという推量があってのこと。
吉野の花も分かれば、芭蕉の足取りの手掛かりになろうという次第である。

書生

では検索を、……
伊賀上野の近くは、津が観測地点でした。開花の平年値は、3月30日です。

隠居

平年って、過去何年かの平均ですな。
今年(2012年)は寒かった。
雪も多くて、わしのところでも雪飛ばし機を買うはめになったくらいでな、笈の小文の貞享4から5年にかけての冬は、雪も多かっただろう。
今年より寒かったかもしれんな。

書生今年の開花は、……4月4日ですね。 適当に案配して、表にしましょう。新暦(太陽暦)、旧暦(太陰暦)の違いに注意してください。
隠居伊賀上野の開花状況が、分かるといいな。
書生

開花情報はい、こんなところです。
伊賀上野は、今年の上野城花見情報のデータです。
津より二日遅れです。津が観測地で、基準です。
吉野も、今年の記録です。
津風呂湖から始まって、下千本から奥千本まで、十日かかって咲いていきますね。
笈の小文の冬は、今年より寒かったとして、二日遅くしてみました。
貞享5年のほうは、旧暦表示です。この年は、新暦と旧暦の日付は、月名が変わるだけで、日は一致しています。
満開から十日で葉桜になりますから、貞享5年の吉野は、3月20日から23日くらいまで、全山桜色ですね。

隠居早かったな。おお、伊賀上野の貞享5年、3月8日がズバリ「初ざくら」じゃないか。
書生

8日は、まだ開花ですよ。
開花宣言は、3本の基準木の内2本に5、6輪咲いた程度で出されますから、一般の目ではわからないかも。

隠居

初桜句碑いや、「花」ですぞ。俳人の目を侮ってはいかん。1輪でも咲けば、「初ざくら」じゃ。
5、6輪も咲けば十分である。
 
この上野天神東門の角地に、「初ざくら」の句碑がある。月ヶ瀬という梅の景勝地から移植された紅白の梅の木が背景になってな。それがまだ咲いていて、なかなかの景観となっておる。
 
句碑の説明板に、「ちらほら咲いて」とあったが、丁度それくらいが、この句に似つかわしい咲き方ではある。

書生そうですか。
伊賀上野での満開が、14日。探丸亭に行くのは13日ですね。
隠居これもちょうどよい。九分咲きの花見だったとは。
書生それほど厳密な表ではありません。
大体このくらいだろうということで、ご容赦ください。
隠居

貝おほひの碑ちなみに、芭蕉は江戸に出る前に、この天神社に「貝おほひ」を奉納しています。
 
門前に、誓子謹書とある碑が建ち、初ざくら句碑の右に、「貝おほひ顕彰記」の碑がある。その碑文には、「遂に我が国詩歌史に蕉風俳諧という庶民詩を完成された/その孤高の理念は人類未踏の孤峯と仰がれ世界的文豪として崇敬されるに至った」とあり、徳川の時代を支えたのは俳諧であると信ずる身供は、深く首肯しつつ、しばしの落涙を禁じ得なかった次第であります。

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3/11、「香に匂え」句、土芳の新庵・些中庵

書生

蓑虫庵地図住所は、伊賀市上野西日南町にしひなたちょう
去る1月21日、芭蕉が訪れたとき(新大仏の句を披露)は、「土芳とほう・どほう庵」としましたが、この頃の号は芦馬ろばです。
翌元禄2年、土芳に改号します。
新庵が、この3月4日完成し、土芳は「些中庵」と名付けました。
芭蕉生家から1.5キロくらいです。
芭蕉が「蓑虫」の句を贈り、土芳はその後「蓑虫庵」と改名します。
「些中」は「さちゅう」と読みますから、「蓑虫」も「さちゅう」と読んで贈ったかもしれません。
私は、そんな粋な計らいのように思います。
土芳は、伊賀上野の藩士で、内海流の槍術をもって仕えました。30歳頃(貞享3頃)致仕し、俳諧に専念します。芭蕉俳論の聞き書き「三冊子」を著したことで有名です。

隠居 伊賀上野に、芭蕉ゆかりの庵は五つあったが、何度か建て直されたものの、現存するのはこれだけです。

「香に匂へうに掘る岡の梅のはな」は、伊賀の項「1月21日」で鑑賞した句。《伊賀のページ1月21日に飛ぶ》
芭蕉はこの日、初めて披露した。
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貞享5年3月11日、土芳の新庵・些中庵
「蕉翁全伝」


伊賀の古山こやまといふところに、うにといふものあり、土にあらず木に非ず。くさき香して本草にいへる石炭の類ならんと高梨野也やや(京の俳人)ノ有り。
其の句を案じ置けりとて、蓑虫庵にての吟、
 香に匂へうに掘る岡の梅のはな

みのむしの句自画讃、其の時の携へ物なり

書生

「伊賀の古山というところに、うにというものがある」、
これ、「古山」とありますね。

隠居貴殿のうに産地調査と、一致しておるではないか。
書生

今さらですが、古山にたどり着くのには、苦労しました。
「うにについての野也の考」を読むか、うにの話になるかして、「うにの句なら作ったよ」と、芭蕉は「香に匂へ」句を披露した。

隠居

そんなところかな。
 
時に、「みのむしの句自画讃、其の時の携へ物なり」、
これで、芭蕉が、新築の祝いにかいて持ってきたと分かりますな。
面壁の図と言われている。

蓑虫句自画讃
蓑虫句自画讃(蓑虫庵)

書生

面壁と言えば、達磨大師。
蓑虫の音を聞いているということですね。
 
はて、どこかで見たような……

隠居

「蓑虫」は三秋の季語。前年秋の句じゃ。
「みの虫の音をききにこよ草の庵」
芭蕉は、何人かにこの句を送り、何人かが芭蕉庵を訪れた。
嵐雪が句を詠み、素堂は「蓑虫説」を書いた。
感動した芭蕉は、「蓑虫説跋」を書き、これに英一蝶が画を添えたり、さらに素堂が「蓑虫賛」を書いたりしている。
こうした江戸の出来事は、当然素堂にも伝わっているだろうな。

書生

そんなすごい句を、しかも自画讃を贈られたわけなんですね。

隠居

感涙ものですな。
伊賀上野の芭蕉五庵の中で、何度も建て替えながらも現存するのは、蓑虫庵だけじゃ。
芭蕉が訪れた旧暦3月11日に合わせて行ってみた。

蓑虫庵1

蓑虫庵2

左上は、蓑虫庵の門で、維新後の建立。右の老桜は満開を迎えている。
蓑虫庵は茅葺き。鮑の貝殻(厄災除け)が載せてある。
桜の開花と共に、朴伴ぼくはん(願泉寺初代住持卜半斎了珍の名が由来か)椿は、終わりを迎える。
左下、土芳の墓。墓碑銘は碧梧桐の書で、二百回忌に建立。
芭蕉の「古池や」の句碑で、古池塚とある。
円窓は蕉風開眼をイメージしたそうです。ほかに、「よくみれば」のなづな塚がある。
右下は、芭蕉堂。義仲寺にならい、昭和5年に建立されたもの。
お主も行ってみられよ。
書生ああ、あのお姿。思い出しました。JR境港駅の前のブロンズ像の後ろ姿に似ておられます。
隠居ほお。禅の古刹に行かれたか。ご奇特である。

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笈の小文、3/13、「さまざまの」句、探丸亭で花見
付:資料-「さまざまの」句、付合
隠居探丸(たんがん、「たんまる」とも)亭で、花見の会。
探丸亭は、藤堂新七郎家の下屋敷地内にあり、芭蕉生家の裏手、西北方向直近の地にあった。芭蕉の句により、以後「様々園」の名になる。
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貞享5年3月13日頃、探丸亭で花見
「さまざまの」付合、探丸亭、「真蹟懐紙」


探丸子のきみガ、別墅の花見ヲ催させ給ひけるに、昔の跡もさながらにて

さまざまのこと思ひ出す櫻哉 桃青
【さまざまのことヲ思ひ出す桜かな。 桜:仲春】

春の日はやくふでに暮行 探丸子
【春の日ハ早く、筆に暮れ行く 春の日:三春】

書生

「探丸子公が別荘で花見の会を催されたとき、昔のままで」、
①、「昔の様々のことを思い出す桜であることよ」と懐旧の思いに浸っています。
生家のすぐ裏です。幼いころからここで遊んでいたのでしょうね。
あんなこと、こんなこと、あったでしょと、脳裏を巡り、時の経つのを忘れているかのようです。

隠居どんな桜か、見て参りました。
枝垂桜でした。現在は非公開だそうです。ではありますが、隣の敷地に枝が伸びていました。
 糸桜腕一杯に咲きにけり
と言った風情。
様々桜
書生枝垂桜が腕を伸ばしましたか。風流ですねえ。
隠居隣は、伊賀上野屈指の料亭「三田清」。泊めてもらえますが、一日一組限定。連れ合いは、伊賀牛だの刺身だのを堪能しておりましたが、歯のないわしは、朝の「湯葉で巻いた出汁巻き卵」に感動いたしましたな。
書生腹一杯に食べにけりですか。
で、芭蕉はどんな思い出でしょうか。
隠居

芭蕉の若いころのことです。
芭蕉は19歳で、津藩上野城代付の侍大将、藤堂新七郎家の三男良忠に仕えました。
良忠の俳号は蝉吟せんぎん、年は21、親は城代。
芭蕉は、近習役とも料理役とも言われますが、俳諧のお供もしました。蝉吟は季吟に師事していましたが、25歳で死去。墓は新七郎家の菩提寺、山渓禅寺にあります。
芭蕉は蝉吟の遺骨を高野山に納め、京都に出奔。俳諧に専念し、6年後「貝おほひ」を故郷の上野天神に納め、江戸に出ています。

書生蝉吟の死で無常を実感し、俳諧に没頭したのでしょうか。探丸亭地図
隠居想像するしかあるまい。
書生探丸と蝉吟の関係は?
隠居親子です。探丸は、この時23歳。
書生と、……蝉吟の死んだ年に生まれていますね。
隠居ほお。
書生蝉吟逝去のとき芭蕉23歳、今45歳。
22年経過していますから、数え年23歳の人の満年齢と一致します。
隠居うむ。
書生春の日早く筆に暮れ行く、ですか。探丸は、日永の春にもかかわらず、暮れてから脇を詠みましたか。
隠居脇を身柄で解釈してはなりません。
発句の、様々のことを思い出す人物の感興を添えたものです。

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3/19、「花を宿に」句他、瓢竹庵

隠居

2月末から、杜国と吉野に発つ3月19日まで、伊賀上野城代の家臣、苔蘇の瓢竹庵に滞在しています。
瓢竹庵は、蓑虫庵の東、東日南町ひがしひなたちょうで、近くに桜の古木がありました。
また、瓢竹庵は、故郷塚のある愛染院に新築、復元されているそうです。

罫線

貞享5年3月19日まで、瓢竹庵に滞在
「真蹟懐紙」

 
瓢竹庵に膝を入れて、旅の思ひ、いと安かりければ、
 花を宿に始め終りや二十日ほど


貞享5年3月19日、瓢竹庵から出立
「真蹟懐紙」
 
  旅立つ日
 このほどを花に礼いふ別れ哉

書生

「花を宿」の句、詞書きからも、「心安らかに」過ごせたと分かります。
「膝を入れて」という表現から、茶室のような造りを想像しました。

隠居

法性寺の入道前さきの関白太政大臣の
 咲きしより散りはつるまで見しほどに 花のもとにて二十日経にけり
を踏まえています。

書生長い名前ですね。
隠居寿限無ほどではない。短く言うと忠通。ただ、この和歌の花は牡丹だが。
書生

「『この度は、始めから終わりまでの二十日ほどを。ゆるりと味わわせていただきありがとうございました』と、花にお礼を言う風流な別れです」、
と詠み、旅立ちました。

隠居3月19日じゃな。
書生二十日ほど泊まったなら、3月19日は含みませんから、瓢竹庵滞在開始は、2月28日か29日かも知れませんね。
隠居

そうなるか。
それと、宿泊先じゃが、新年から瓢竹庵に来るまでは、良品りょうぼんのところに逗留したという情報もあります。ちなみに、良品の妻は、風麦の娘で梢風。
だが、逗留については、手元の資料では分かりません。

書生

ひとつ、芭蕉が伊勢から杉風にあてた書簡に、「3月14,5日ごろまでは伊賀上野だ」とありましたね。逗留が延びたわけは、吉野の開花状況だと思うのですが。

隠居ほお。
折角行くのに花がなければ甲斐がないですな。
書生

19日に出立すると、着くころは、上千本が満開。
滞在中には、奥千本が満開を迎えるという計画ですね。

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笈の小文、講読の振返り
 
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07 伊勢(伊賀上野~伊勢~伊賀上野)
書生

2月3日から17日の伊勢滞在、日程を収めるのが大変でした。

隠居

大江寺が宿泊地であることを押さえれば、左程でもない。
この間の書簡や、俳諧の記録が多く残っておって、大いに助かりました。

書生

「梅の木に」句、「宿り木」は「宿り木」でよかったというのが驚きでした。

隠居

文字通りに読む。大抵は自分の枠で読んでしまう。自分の価値観を捨て、句を詠んだ者の価値観で読む。
さすれば、詠み手の思いが分かります。

直旨伝に、「他の句を聞く事、大切の習あり。わが好かたを胸中にさだめては、人の句、聞がたし」とある通りですな。

書生

はあ。
「いも植て門は葎の若葉かな」、この「葎」の深さに脱帽しました。

隠居

「葎」は「葎」。自分のイメージで読んだら、自分の声を聞いているだけです。芭蕉とは交流できん。
「葎」を通して芭蕉と一体になる。「造化にしたがひ、造化にかへる」芭蕉とな。

書生

?、……
「神垣や」句の鑑賞、「思ひもかけず」が鍵でした。

隠居

寺では詠めん句です。

書生

増賀、西行、俊乗と、つながっていたのには驚かされました。

隠居

史実をたどれば簡単なこと。

書生

杜国が、2月4日には、もう伊勢にいたこと。これも驚きです。歌仙に名前が残っていましたからね。ご隠居の眼力は元よりですが、いや驚きました。

隠居

杜国が既に伊勢におったという事実があっただけである。

書生

はあ。
また、上野天神の「初ざくら」、探丸亭の花見と、この辺りで吉野の開花情報につなげるのもご隠居の慧眼かと。

隠居

お主の資料でな。

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