笈の小文 吉野(初瀬~西河~吉野)

笈の小文 索引
序文序章鳴海保美熱田伊賀伊勢吉野高野奈良須磨箕面旅後
笈の小文 吉野 索引
原文伊賀~初瀬~多武峰~吉野旅程伊賀~国見山~初瀬~多武峰~吉野
講読本文構成概観3/19 瓢竹庵出立
3/20 名張宿~初瀬(粧坂・長谷寺)3/21 初瀬~葛城山遠望~多武峰
3/21 初瀬~三輪~多武峰・臍峠3/21 多武峰・臍峠~竜門の滝
3/22 樫尾峠~西河・大滝~蜻めいが滝3/22 姥が坂・爺が坂~安禅岳~苔清水
3/21~23 桜花、『桜がり』句、『日は花に』句、『扇にて』句
資料伊賀上野・吉野山間の経路
3/19,20 兼好塚・国見山~名張~初瀬3/21 平尾の宿

吉野


 芭蕉は、万菊丸と名を変えた杜国と、吉野の旅に出、長谷寺から多武峰を越えて吉野の里に入る。吉野山へは西河から山道で西行庵に至る。
 このページでは、実際の行程を確定していくことで、笈の小文の記述の順序を整理し、行程に沿って鑑賞していきます。行程の特定は、4/25付け猿雖(惣七、意専)あての書簡にある訪問先の一覧を参考にしつつ、本文や句を検討して行います。


笈の小文

初瀬~多武峰~吉野

段落区分笈の小文、本文備考
出立 弥生半過る程、そぞろにうき立心の花の、我を道引枝折となりて、よしのの花におもひ立んとするに、かのいらこ崎にてちぎり置し人の、伊勢にて出むかひ、ともに旅寐のあはれをも見、且は我為に童子となりて道の便りにもならんと、自万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさまいと興有。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書ス。

↓ 3/19 出立

 乾坤無住同行二人
 よし野にて桜見せふぞ檜の木笠
 よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸
道中 旅の具多きは道さはりなりと、物皆払捨たれども、よるの料にと、かみこ一つ、合羽やうの物、硯筆かみ薬等昼笥なんど、物に包て後に背負たれば、いとどすねよわく力なき身の、跡ざまにひかふるやうにて、道猶すすまず、ただ物うき事のみ多し。

↓ 3/19 出立

宿 草臥て宿かる頃や藤の花

※奈良のページへ
4/11 耳成の東へ

初瀬初瀬

↓ 3/20 初瀬

 春の夜や籠り人ゆかし堂の隅
 足駄はく僧も見えたり花の雨 万菊
葛城葛城山

※ 句作地は高野への途次
3/21 葛城遠望、句の鑑賞へ
高野3/24 句作地へ

 猶みたし花に明行神の顔
多武峰三輪 多武峯

3/21 臍峠

臍峠 多武峯より竜門へ越道也
 雲雀より空にやすらふ峠哉
竜門竜門

3/21 竜門の滝

 竜門の花や上戸の土産にせん
 酒のみに語らんかかる滝の花
西河西河

3/22 西河

 ほろほろと山吹ちるか滝の音
蜻[めい]が滝(せいめいがたき)  ※[めい]は、[虫+鳥]=[]=[[虫+鳥]]
 ×蜻螐(セイウ) ×蜻螟(セイメイ) ×蜻蛉(セイレイ)

3/22 蜻めいの滝

布留布留の滝は、布留の宮より二十五丁山の奥也。

※ 奈良のページに移動
→ 4/11 布留の滝へ

摂津津国幾田の川上に有

※ 箕面のページに移動
→ 4/21 西宮への足跡へ

布引の滝
大和大和

※ 箕面のページに移動
→ 4/22 京への足跡へ

箕面の滝
勝尾寺へ越る道に有
吉野

3/21~23 桜花

 桜がりきどくや日々に五里六里
 日は花に暮てさびしやあすならう
 扇にて酒くむかげやちる桜
苔清水苔清水

3/22 苔清水

 春雨のこしたにつたふ清水哉
 よしのの花に三日とどまりて、曙黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめにうばゝれ、西行の枝折にまよひ、かの貞室が是は是はと打なぐりたるに、われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたるいと口をし。おもひ立たる風流、いかめしく侍れども、ここに至りて無興の事なり。

3/23 桜花


笈の小文 「伊賀上野~国見山~初瀬~多武峰~吉野」
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隠居伊賀から吉野ですな。
書生

今回の講読は、「旅程に沿う」という前提です。
旅程を明らかにしつつ、乙州の編集の意図も見ていこうということですから、原文の配列を参照しやすくしました。
この、吉野の段は、旅程に沿わない部分が、何か所かありますので、備考に示し、後日講読します。

隠居

うむ。
でも、葛城山の句は、このままの位置でよいでしょう。
事訳はそのときに。

書生

では、経路です。
初瀬までに、名張泊を仮定してあります。

隠居ほう。で、吉野着と発は?
書生

吉野着は、「3月21日竜門滝」で、発は、23日です。

隠居

「吉野の花に三日とどまり」も踏まえていますな。


旅程⑥ 貞享5年3月19日~3月23日、伊賀上野~兼好塚・国見山~初瀬~多武峰~竜門滝~大滝~吉野山
<足跡>事項移動逗留宿所移動左累計
貞亨5319

このほどを花に礼いふ別れ哉
<伊賀上野瓢竹庵→兼好塚・国見山→名張宿>
杜国は万菊丸と名を変え、笠に「乾坤無住同行二人」書いて、出立。
よし野にて桜見せふぞ檜の木笠
よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸

穀雨

名張街道

名張宿
(旧名張)

33.7 994.1
貞亨5320

<名張宿→琴引峠→初瀬・粧坂→長谷寺→初瀬泊>
初瀬
春の夜や籠り人ゆかし堂の隅
足駄はく僧も見えたり花の雨  万菊

初瀬街道初瀬の宿23.2 1,017
貞亨5321

<初瀬→桜井→多武峰→臍峠(ほぞとうげ=細峠)→竜門滝→平尾泊>
多武峰 雲雀より空にやすらふ峠哉
竜門滝 竜門の花や上戸の土産にせん
大和国平尾村に泊まる。

多武峰越

平尾の宿

23.7 1,041
貞亨5322

<平尾→(立野宿)→樫尾峠→大滝→蜻めいの滝→婆が坂・爺が坂→安禅嶽(青根ヶ峰)→苔清水・西行庵→吉野山泊>
西河 ほろほろと山吹ちるか滝の音
苔清水 春雨のこしたにつたふ清水哉

吉野

吉野山
の宿

24.6 1,066
貞亨5323

<吉野山>
櫻狩りきどくや日々に五里六里
日は花に暮てさびしやあすならう
扇にて酒くむかげやちる桜

吉野

吉野山
の宿

- 1,066
「3月19日に伊賀上野を出る」から、「4月8日、奈良にいる」まで、日付を確定する資料はない。
この間の行程は、本文の表現、句中の季語、訪問地間の距離などをもとに推定したものである。

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笈の小文 「吉野山」
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伊賀上野、吉野山間の経路

隠居兼好塚へ行くと、遠回りですな。
書生

伊賀から、例のうにの山家を通ってまっすぐ名張に行けば、18キロですから、約16キロの迂回になります。また、兼好塚への標高差は300メートルで、結構きついですね。

隠居

伊賀、吉野山間の足跡

兼好塚は目的地の一つです。迂回と言う表現は当たりません。

書生

兼好塚へ行かなければ、長谷寺へは約41キロ。その日のうちに着けます。

隠居

いや、行っても57キロです。1日で長谷寺へ行く必要はありません。山道なので、名張泊がよいでしょう。

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笈の小文、本文構成概観

隠居ここも、句や段落の配列と旅程とがちょっと違っています。
書生ちょっとですね。
隠居句は2句です。
先ず、「草臥て句」、初瀬の前にありますが、実際は、耳成の東ですから、奈良のページで講読します。
も一つは、「猶みたし句」。本文では、葛城遠望の句に位置づけられていますが、実際は高野へ行く途中の吟で、高野のページでも味わいます。
書生はい。
隠居滝は、この旅でおとずれたものを、列挙してあります。
「布留の滝」は、耳成の手前ですから、奈良のページ。
「布引の滝」「箕面の滝」は、須磨の後ですから、箕面のページです。
書生はあ。
隠居後は、旅程順ですから迷いません。

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笈の小文、 貞享5年3月19日、伊賀上野瓢竹庵から出立

隠居出立です。罫線

貞享5年3月19日、出立


① 弥生半ば過ぐるほど、そぞろに浮き立つ心の花の、我を道引く枝折(しおり)となりて、吉野の花に思ひ立たんとするに、かの伊良湖崎にて契り置きし人の、伊勢にて出でむかひ、共に旅寝のあはれをも見、かつは我がために童子となりて、道の便りにもならんと、自ら万菊丸と名を言ふ。まことに童らしき名のさま、いと興有り。いでや門出での戯れ(たわぶれ)ごとせんと、笠のうちに落書きす。
②  乾坤無住同行二人
③ よし野にて桜見せふぞ檜の木笠
④ よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸


⑤ 旅の具ガ多きは道さはりなりと、物ヲ皆払ひ捨てたれども、夜の料にと、紙子一つ、合羽やうの物、硯・筆・かみ・薬等、昼笥なんど、物に包みて後に背負ひたれば、いとどすねガ弱く力なき身の、後ざまに引かふるやうにて、道ハ猶ほ進まず、ただ物憂きことのみ多し。

書生

①、「3月半ば過ぎて、何となく浮き立ち、心に浮かぶ花に導かれ、吉野へ立とうと思うとき、伊良湖で約束した人を、伊勢で出迎え、共に旅寝のあわれをみよう、さらに私のために童子となって道中の支えになろうと、自らが、万菊丸と名付けた。
本当に子供のような名で、大変面白い。
それでは、門出の戯れにと、笠の内に落書きした」。
②、乾坤無住同行二人。
乾坤とは?

隠居乾は天、坤は、地。
書生天と地の間に留まることなく、いつも二人と。
隠居本来、二人とは、仏と自分だが、ここは、芭蕉と万菊丸です。
書生

③、「吉野で、桜を見せましょうぞ、桧木笠よ」、
④、「吉野で、私も見せましょうぞ、桧木笠よ」。
万菊丸の句の、季語は「桧木笠」で、三夏ですね。

隠居 それは、桜ですよ。
書生え?
隠居何を見せるのかな。
書生……、桜。
隠居

桜ですな。
「笈日記」(支考著)も見ておこう。

罫線

「笈日記」(支考)

貞享五年の春、何月幾日。芭蕉老人ガ、吉野山の桜ヲ見むとて、伊賀の国より旅立ち申されしに、尾張の国の杜国も是に供せられて、ともに筆をとつて、檜の木笠の裏に狂ぜしとなり。
  乾坤 無住
芳野にてさくら見せふぞ檜の木笠 風羅坊
よしのにておれも見せうぞひの木がさ 万菊丸

書生

「芭蕉、杜国それぞれが筆を取って、笠の裏に、興じて書いた」と。

隠居

笈の小文①にも「笠の内」とありましたぞ。
お遍路さんは外に書くがな。
ともあれ、この2句の、高揚感、出立の気分は共感できよう。

書生

⑤、「旅の用具が多いのは、道中の邪魔と、たいてい始末したが、夜の料にと、紙子一つ、合羽のようなもの、硯・筆・かみ・薬や、昼食などを、包んで背負ってみると、かなり足が弱く力ない体で、後方に引っ張られるようで、道は進まず、ただつらいことばかりである」。
すごい落差です。

隠居

旅は身軽が一番。
わしも、小学5年から、遠足は握り飯2個を左右のポケットに入れて行ったな。

書生お茶は?
隠居

いらん。行く先々に水道がある。とくとく清水ですな。
ともあれ、芭蕉は、浮き浮きした気分で旅立ったが、道中はきついというわけです。

書生花のための風狂ですね。

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3月19、20日 兼好塚・国見山~名張~初瀬

隠居

伊賀上野を出て、兼好塚に向かいました。
兼好法師の旧跡は、一般的には京の双が岡、墓は東麓の長泉寺とされています。
一方、伊賀には、「種生たなおの国見で晩年を過ごし、この地に埋葬された」という伝承がある。
それが兼好塚。 右の猿雖あて書簡に、訪問の記録があります。

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貞享5年3月19日、兼好塚・国見山
「猿雖あて書簡抜粋、旅の記録」


古塚 十三
 兼好塚 哥塚 乙女塚 忠度塚 清盛石塔 敦盛塚 人丸塚 松風村雨塚 通盛塚 越中前司盛俊塚 河原太郎兄弟塚 良将楠が塚 能因法師塚

峠 六つ
 琴引 臍峠 小仏峠 くらがり峠 岩や峠 樫尾峠

坂 <略>
山峯 六つ

 国見山 安禅嶽 高野山 てつかいが峯 勝尾寺ノ山 金竜寺ノ山

書生兼好塚、国見山、共に筆頭ですね。
隠居だいたい訪問順ですな。
書生ということは、旅程の手掛かりにできるわけですね。
隠居

左様。また、山峰と言っても、登山ではないから、山頂を極めるということではない。
その山を訪れたと了解する。

書生

はあ。
まず、兼好塚か国見山か、どちらへ行ったかですが。

隠居

だから、そうではなくて、国見山の兼好塚へ行ったととらえる。山に行くことが目的ではない。

兼好法師塚

種生神社前の「兼好法師塚へ」という道標から、国見山への坂を1.3キロ上り、草蒿寺跡に着いたら、国見山を背にして、100メートルくらいで到着。
「町史跡兼好塚」と彫った石から、少し登れば塚がある。

書生

兼好の墓。

隠居

左右。
この草蒿寺は、七堂伽藍の大きな寺で、兼好が晩年を過ごし、観応元(1350)年、68歳で逝去し、寺の裏に葬られたと伝えられています。
この没年と年齢から、兼好の生年は弘安6(1283)年とするのが、通説となっていました。
しかし、その没年の2年後、観応3(1352)年「後普光園院殿御百首」に加点した記録があって、没年はそれ以後とされました。
また、この地で徒然草を書いたことから、草稿、すなわち草蒿寺の名が付いたというのは、如何なものかな。
徒然草の執筆は、正和6(1317)年から元徳3(1331)年、4、50歳代とされていますからな。

草蒿寺跡

書生

しかしながら、兼好終焉の地と信じて、訪れています。
吉野へ行くには遠回りですが、先ず行きたかったのですね。

隠居

だから行きました。晩年をこの地で過ごした兼好に、思いを馳せたことでしょうう。
ここから、名張へ行って33.7キロ。ほどよい距離です。
名張で泊まって、20日伊勢街道を初瀬へ向かう。その途中に、琴引峠がある。
伊賀から奈良へ向かう最初の峠。北条時頼や義経が琴を弾じた峠です。
されど、昭和3年に参宮線建設の折、峠道を掘削して、道路と線路を作っています。今は峠跡の碑が、丘の上の寺にあるのみです。

琴引峠跡

書生

ここで義経を偲びましたか。
この琴引峠も筆頭ですね。
また、この街道を通ったという経路も確定します。

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笈の小文、 貞享5年3月20日、名張宿~初瀬:粧坂・長谷寺

隠居

「道ハ猶進まず、ただ物憂きことのみ多し」と言って、
 草臥て宿かる頃や藤の花
と、これはよくつながっておるし、「藤の花」の季は晩春なので、この位置でよろしいが、詠んだのは4月11日。そこで鑑賞する。

で、初瀬到着。

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貞享5年3月20日、初瀬:長谷寺


  初瀬

⑤ 春の夜や籠り人ゆかし堂の隅

⑥ 足駄はく僧も見えたり花の雨 万菊

書生⑤、「籠もり人こもりど」って、どんな人でしょう。
隠居

まさに「ゆかし」、うら若いおなごじゃ。
初瀬街道から、長谷寺へと下る粧坂の上で、長谷寺を眺めつつ、化粧を直しての参籠。
源氏の玉蔓、更級の孝標女、枕の清少納言、蜻蛉の道綱母など、参籠の歴史がありましてな。

罫線


「猿雖あて書簡抜粋、旅の記録」


坂 七つ

 粧坂(けわいざか) ぢいが坂 うばが坂 宇野坂 かぶろ坂 不動坂 小野坂

書生これは、恋句?
隠居

釈教の恋句でしょう。
牡丹を見に行った折、寺のどこに籠もるのか、僧侶に聞いたところ、観音様のいらっしゃる本堂ということでした。
折しも特別拝観で十一面観世音菩薩の御足に触れてよいとのことでしたが、広隆寺弥勒菩薩の故事もある。畏れ多い、裳裾ならと、そっと触れたところ、「足だけ!」と、無慈悲な一喝。善男善女の視線を集め、まさに「物憂きことのみ多し」です。

長谷寺

書生天罰かも。
さて、⑥「足駄はく僧も見えたり」で、墨絵のような味わいです。
隠居阿羅野には、「木履ぼくりはく僧も有りけり雨の花」とありますな。
書生「足駄」と「木履」、「花の雨」と「雨の花」の違いもありますが、「有りけり」より「見えたり」が絵になります。
隠居

ほお。
さて、芭蕉は粧坂けはいざか(今は化粧坂と書く)を下って、長谷寺に入る。

化粧坂

当時の女人はこの坂の上で化粧を直して、参籠したそうな。
わしは、逆に、長谷寺側の伊勢辻橋から上ってみたが、途中で力尽きた。

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笈の小文、 貞享5年3月21日、初瀬~葛城山遠望~多武峰

隠居

葛城山の句の位置は、この日でよいでしょう。
多武峰に向かい、三輪山の南麓を西に歩くとき、桜井までは葛城山が見えます。
葛城山に向かって歩き、一言主神ひとことぬしのかみの伝説に思いを馳せていたとして、差し支えない。

罫線


貞享5年3月21日、葛城山遠望


  葛城山

⑦ 猶みたし花に明行神の顔

書生

なるほど、山は遠望できますね。
カシミール(山岳展望シミュレートソフト)で、描画してみます。

葛城山展望

右端の雄岳雌岳が二上山、この方向が真西。
大和三山が皆見えますが、その畝傍山の奥に葛城山は見えます。
私、合点いたしました。
早速、ページ冒頭の本文「葛城の句」、後日へ移動するリンクを外しましょう。

隠居

しばし、待たれよ。
右「泊船集」の詞書き。

罫線「泊船集」(風国)


大和の国を行脚して、葛城山の麓ふもとを過ぐるに、
四方の花は盛りにて、峰々は霞みわたりたる曙の景色、いとど艶なるに、
彼の神のみ容貌かたち悪ししと、人の口さがなく世に言ひ伝へ侍れば、
 猶見たし花に明け行く神の顔

書生

「葛城山の麓を過ぐる」とあります。

隠居

実際、葛城山麓を通っております。
「過ぐる」は、芭蕉の動作。聞き書きなら「過ぎ給ふ」など、敬語になる。だから、これは芭蕉の残した文の書き写しです。
こんな経路はありましょう。

書生

3月20日、談山神社へ行く前は、無理です。
3月24日、吉野から高野へ行くときなら、迂回をすれば通れます。
4月2日ごろ、和歌浦から奈良へ行くときは問題ありませんが、花は散り終えています。「花は盛り」ではありません。

隠居4月では、夏になります。高野へ行くときでよろしい。
書生

え?
1辺10キロの正三角形。その2辺を通るような迂回ですよ。
麓を通るためだけに、それはないでしょう。

隠居

芭蕉は嘘は言わん。
麓は通っておる。

書生

無理ですよ。
後は、山を動かすしかありません。役行者えんのぎょうじゃ、小角に頼みますか。

隠居

おっと、それはいい発想かもしれん。
役小角えんのおづぬが、葛城山を移したかも知れませんな。

書生

冗談ですよ……
一応、調べてみます

あらら。金剛山のことじゃないですか!
今でも金剛山の頂上は、葛木岳と呼ばれていますし、葛城神社があります。
右、益軒の「和州巡覧記」と、宣長の「菅笠日記」が根拠になりますね。
整理すると、
・ 今の葛城山は、篠峰と呼ばれていた。(篠峰は、河内側の呼称。大和側の呼称は戒那岳かいながたけ
・ 葛城山は今の金剛山のことである。山上からは、大和・河内・摂津が見える。
・ 昔の葛城山は、「今の葛城山」と「金剛山」の総称でもある。
ということです。
葛城山は金剛山でした。
金剛山なら、3月24日、高野への道中、五條辺りから間近に見られます。
吉野山もぐっと近くなります。

罫線
「和州巡覧記」(貝原益軒)
 
葛城山  篠峰しのみねの南にあり。篠峰より猶ほ高き大山なり。是れ金剛山なり。山上に葛城の神社あり。山上より一町西の方に金剛山の寺あり。転法輪寺と云ふ六坊ガ有り。山上は大和なり。
南は河内に属せり。婦人はこの山に上ることをゆるさず。大和の方のふもとより一里あり。河内の方のふもと水分の社より六十六町あり。或説に日本四番の高山なりと云ふ。山に登れば、大和・河内・摂津、其外諸国眼下に見ゆ


「菅笠日記 三月十一日」(本居宣長)
 
なほ西には金剛山、いと高く遙かに見ゆ。その北にならびて、同じほどなる山のいささか低ききひききをなん、葛城山と、今は言ふなれど、いにしへはこの二つながら葛城山にて有りけんを、金剛山とは寺ヲ建てて後にぞ付けつらん。

隠居

おお。
これで、葛城山と吉野山に橋を架ける話が理解できる。
今まで葛城山は遠すぎるがと、腑に落ちなんだ。

書生山と山に橋を架ける話ですか?
隠居うむ。
役行者は、葛城山と金峯山の往来に不便なので、一言主神たちに橋を架けるよう命じた。
これは、川に石を置く工事だな。飛び石の、いわゆる石橋いわばしですな。万葉にもある。
神たちは仕方なく従ったが、仕事が遅いので、行者が様子を見ると、夜しか働いていなかった。
問うと、自分たちの顔と格好が醜いので人に見られたくないという。
小角は大層怒り、術で一言主神を金縛りにした。
概略こんなお話です。
書生

⑦、「なほ見たし」は、「口さがなく世に言ひ伝えた」世間への反感ですね。
芭蕉は、では見てみようという。
どこで、聞いたのでしょう。

隠居

どこで?
吉野山の金峯山寺きんぷせんじは、修験道の本山ですからな。宿もこの辺りに集中しておるし、山伏の姿も見る。
葛城の神の話を聞くなら、吉野のこの辺りでしょう。
しかし、聞かなくても芭蕉は知っていましたな。
謡曲の「葛城」です。謡曲では、「かづらき」と読む。右はその最後の部分。
句は花だが、謡曲では雪になっています。
また、「女体の神」として描かれていますから、芭蕉句はそれを踏まえて味わうべきでしょう。

罫線謡曲「葛城」(世阿弥)


月白く、雪白く、いづれも白妙の景色なれども。
名に負ふ葛城の。
神の顔がたち、面なや面はゆや。
恥づかしや浅ましや。
朝まにもなりぬべし。
明けぬ先にと、葛城の。
明けぬ先にと、葛城の、
夜の、岩戸にぞ入り給ふ、
岩戸の内に入り給ふ。

書生

この日の明け方は、月もあります。
女神は、恥ずかしいと隠れてしまうんですね。これは見たくなります。
筋が通りましたので、この句は、高野の頁3月24日に決定してよいかと。

隠居

句を詠んだのは、その24日の明け方でよい。「花は盛り」で、「峰々は霞みわたりたる曙」とあります。
しかし、句の配置としては、葛城山が遠望できるから、初瀬の次にしてあって問題ありません。
また、釈教句の次に神祇句を置いたと見ることもできます。
「笈の小文」のままでいいでしょう。

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笈の小文、 貞享5年3月21日、初瀬~三輪~多武峰・臍峠

隠居

初瀬から、正面に葛城山(金剛山)を望みつつ、
三輪山の南麓を西に進みます。
桜井から多武峰を目指して南進。
じきに登り坂となって、葛城山は見えなくなります。

罫線

貞享5年3月21日、三輪・多武峰


 三輪 多武峰
 臍峠 多武峰より竜門へ越す道なり
⑧ 雲雀より空にやすらふ峠哉

書生

「三輪_多武峰」とありますが、間のスペースは、「そして」ですね。

隠居

「三輪から多武峰」でしょう。

書生

「臍ほぞ峠は、多武峰から竜門へ越す道である」
⑧、「ヒバリよりずっと上で一休み」ですね。

細峠下の旧道

細峠下の旧道、鹿路トンネル吉野側出口

隠居

臍峠は、今の細峠です。
ヒバリの声な、普通は上空でさえずるのを聞きますな。
このさえずりを下に聞くわけです。
聞きなしは、「日一分、日イ一分、利イ取る、利イ取る、月二朱、月二朱」

書生

ヒバリは金貸しですか。
日に1分なら、月に7両2分になります。
計算が違います。

隠居

これは、日すなわちお天道様に1分貸したわけで、月2朱の利を取るということでな。ヒバリは、くたびれると「降りよう、降りよう、降りよう、降りよう」と鳴く。
細峠は、東に三津みづの平地があるから、その上空で鳴くと、声は峠に届くわけですな。
ヒバリは、平地の背丈が低い草地や畑地に営巣する鳥です。平地が無ければなりません。細峠ならではですな。
この細峠は、吉野への最短経路。
昔、ここに隧道ができた(1966)と聞いて行ったが、道が未舗装なのであきらめ、芋峠から吉野に入った。
が、これも細いし急だし、クラッチが滑って大変じゃった。

旧道から三津への道

旧道、左三津への岐路

右、吉野への道はこの後狭くなり、落石も多い。

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笈の小文、 貞享5年3月21日、多武峰・臍峠~竜門の滝

隠居

細峠を下り切って、西谷から尾根を迂回します。
東側の谷を2キロほど上ると、竜門の滝。

罫線

貞享5年3月21日、竜門


 竜門
⑨ 竜門の花や上戸の土産つとにせん
⑩ 酒のみに語らんかゝる滝の花

書生

⑨も⑩も、
「この滝の花を、酒飲みに土産として話そう」ですね。
具体的には、だれでしょう。

隠居其角とも嵐雪とも言われるが、はて。
書生竜門と酒は、どうつながりましょうか。
隠居さて。
書生

黄河上流の竜門という激流、鯉が登ったら竜になる、登竜門ですねえ。
竜門→中国→李白=酒飲み
というような連想でしょうか。竜門の滝のお写真は?

隠居

あるよ。

竜門の滝道標

書生

これって、道標。

隠居

「龍門滝」とありますな。
吉野町山口の山口神社。
「是より」の下が土に埋まっておる。
文化3(1806)年建立だから、芭蕉はこの碑を見ていませんが。
この辺りから、山道になる。

書生

で、行ってらっしゃらない。

隠居

この日、キャメラと三脚をかついで、兼好塚、琴引峠、化粧坂と登ったわけじゃ。さすがにな。

書生

無理は禁物です。

隠居

うむ。
ところで、あの開花予測、もう一度見られぬか。

書生

開花予測

すぐ出ます。
 
雪が多く、寒かった平成24年の実際をもとにした表です。

右端の満開欄を見てください。
この21日は、上千本が満開を迎え、奥千本は開花しています。
竜門は津風呂より標高が高いので、下千本を目安にしましょう。

隠居

満開から葉桜までは?

書生

7日から10日で葉桜になるでしょう。
見頃は満開から3,4日間すね。

隠居

竜門の花は、ぎりぎり見られたようですな。

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笈の小文、 貞享5年3月21日、平尾の宿

隠居

竜門の滝から下ったところに、吉野町平尾の集落があります。
阿羅野の巻七、旅の項に右の句がある。
芭蕉が書いた懐紙の詞書きも参考になります。

罫線

貞享5年3月21日、平尾


「阿羅野 巻七」
 
  大和国平尾村にて
 花の陰謡に似たる旅ねかな


「真蹟懐紙」
 
大和の国を行脚しけるに、ある農夫の家に宿りて一夜を明かすほどに、あるじ情け深くやさしくもてなし侍れば
 花の陰謡に似たる旅寝哉

書生

農家に宿を借り、主の情けに感じ入って、
「謡に似たる旅寝かな」と詠んだわけですね。
どんな謡に似ているのでしょう。

隠居

「花の陰」じゃな。
♪夕映匂う花の陰~、
♪夕映え匂お~花の陰~エ♪

書生あ、もう結構です。
隠居

聞かれたから謡ったまで。
これは、「吉野天人」である。
都から吉野に花見に来た男が、娘に出会う。娘は、ここに泊まるなら、舞を見せようと言う。
はたして、その夜天人が現れ、花に戯れて舞い、声ばかりを残して、天に帰るというわけですな。
♪声ば~かり雲に残りて、失せえ~にけり~失せにけえ~♪

書生

恐れ入りました。

隠居

なんの。
いささかでも謡曲を知らぬと、笈の小文は味わえん。
しかし、日本人なら知っておらねばならぬ。
お主、他国の人に会うことがあろうが。日本文化を問われたら、何とする。

書生

はい。
謡に似た旅寝の意味は、謡曲のおかげで、よく分かりました。
それで、夜、芭蕉は寝ずに天人を待っていたことも分かりました。
農家には娘がいましたね。

吉野町平尾、芭蕉句碑

吉野町平尾の句碑「はなのかげ」

隠居

さて。

書生

娘がいないと謡に似ません。
詞書きに「一夜を明かす」とありますから、朝まで待っていたのでしょう。寝ずに天女を待つのは、風狂の極みです。
芭蕉の真筆です。芭蕉は嘘を書きません。
寝たら、「泊まる」と書きますね。

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笈の小文、 貞享5年3月22日、樫尾峠~西河・大滝~蜻めいが滝

蝉滝、樫尾峠、西河の大滝
隠居

平尾村から、立野宿を経て宮滝を通り、西河(「にじっこう、にじこう」と読むが、現在の地名としては「にしがわ」と読む)に向かう峠が、小仏峠、樫尾峠(現五社峠か。猿雖あて書簡にある)。
峠手前に、蝉滝(猿雖あて書簡、滝の一つ)がある。

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貞享5年3月22日、西河・大滝


  西河
 
⑪ ほろほろと山吹ちるか滝の音
蜻[虫+鳥(めい)]が滝(せいめいがたき)

書生⑪、「ほろほろと散るヤマブキ」と、「滝の音」の取り合わせですか。
隠居

西河の滝は、大滝と呼ばれている。
しかし、垂直に落ちる滝じゃない。斜めに落ちる、急流に近いもの。その音。

書生

では、滝壺に落ちる音でない、か。
……分かりません。

隠居

1、古来、垂直に落ちるのは、「垂水」。
2、落差のあるところを、水がほとばしり流れるのが「滝」。
これの区別が肝要でな。ま、多少万葉を知っておられる貴殿には、釈迦に説法じゃが。

書生

 石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(志貴皇子)
ですね。

隠居

そう。
垂水は、あと2首ある。
 命をし幸くよけむと石走る
  垂水の水をむすびて飲みつ(作者不明)
 石走る垂水の水のはしきやし
  君に恋ふらく我が心から(作者不明)

これで、すべてです。
一方「滝」は、長歌短歌あわせて30首ほどありますが、たいていは、ほとばしりたぎる川の流れと読めます。
その代表が、宮滝であり、西河の大滝です。
実際の宮滝や大滝を見て、滝ではないと言う人があれば、万葉を知らぬということですな。

西河の大滝跡

西河の大滝

平成24年(2012)大滝ダムが完成し、普段は流量が少ない。

書生

はい。
で、戻って恐縮ですが、蝉滝のお写真は、やはり……

隠居

何の。キャメラを担いで行こうとしたが、滝の辺りが水源であると聞いて、遠慮しました。
当然、蝉滝を経由する小仏峠、樫尾峠も。
水源地に足を入れてはならぬのは、当然ですな。
長い五社トンネルの中央から仰いで、峠越えに思いを馳せたのみです。……

書生

いたしかたないと。
書簡のリストですが、訪問済みは斜体、今回訪問は太字にしました。
滝、七つの内、残るは三つ。
峠、六つの内、残るは二つです。
蜻めいの滝は、垂直に落ちる大きな滝。
「清めい」の「めい」は、虫偏に鳥、「䳋」とあります。
この字は、ブラウザにより表示しませんので、以下画像「虫偏に鳥の文字」で表示します。

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「猿雖あて書簡抜粋、旅の記録」


滝の数 七つ
竜門 西河 蜻[虫鳥] 蝉 布留 布引 箕面
古塚 十三<略>
峠 六つ
琴引 臍峠 小仏峠 くらがり峠 岩や峠 樫尾峠

隠居

西河足跡地図で確認しましょう。
滝は、順序が違います。蝉-西河-蜻虫偏に鳥の文字せいめいの順です。
西河の滝は大滝のこと。ただし、蝉滝の位置は確定できていません。
猿雖宛書簡で、樫尾峠が末尾になっているのは、付け足したのでしょうか。実際は、小仏峠-樫尾峠と連続して越えていますな。 芭蕉たちは、三船山の東を、小仏峠-蝉滝-樫尾峠と進み、西河の大滝を見、蜻蛉滝へと向かいます。

書生

なるほど。

隠居

葛城山で「和州巡覧記」が、役に立ちましたな。
益軒は、芭蕉より14歳年長で、83歳と長命。
右「巡覧記」は、益軒67歳、元禄9(1696)年の筆、ほぼ同時代のものですから、時代差を検討する必要もありません。
右、大滝の説明、よく分かりますな。

「西河の大滝から山を越えて北へ行けば、また西河がある」とあります。上の図緑掛け、平仮名「つ」のようなところが当時の西河です。「山を越えて」とありますから、「つ」の終筆部分から始筆部分へ行ったのでしょう。
全く離れた集落と錯覚したようですな。
実に面白い、西河から、山を越えたら、また西河。
ブーメランとは、このこと。

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「和州巡覧記」(益軒)


○西河にじこうの滝
これ吉野川の上なり。大滝とも云ひ、村の名をも大滝と云ふ。清明が滝より五町ばかりあり。この滝は、ただ急流にて、大水、岩間をみなぎり落るなり。よのつねの滝ごとく、高き所より流レ落ルにはあらず。岩間のみなぎり沸くこと、甚だ見事なり。近く寄りて見るべし。遠く見ては、賞するに堪ず。
これより山を越て北に行ば、また村あり。これまた西河にじこうと云ふ。この河を音無河と云ふ。清明が滝の流れなり。この河は、上半月は下流に水なし。下半月は上流に水なし。これ奇異の事なり。訛言かげん=誤伝にあらず。西河の奥に、所々村里あり。

書生

てか、エンドレス。

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蜻めいが滝
隠居

芭蕉は「蜻虫偏に鳥の文字」と書き、益軒は、「清明」と書きました。
どちらも「書いたもの」を見て書いていると思われます。

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「和州巡覧記」(益軒)


○清明が滝
青折あおりが岳より一里あり。
この滝は、岩間よりみなぎり落る滝なり。
十二間ばかりもあらんか。はなはだ見事なる滝なり。
滝の上、岩の間に淵あり。この下の辺りハ、蜻蛉かげろうの小野とて名所なり。
しからば蜻螟せいめいが滝なるべきを、誤りて、清明が滝と書くなるべし。
滝の上なる山を琵琶びわ山と云ひ、この滝の末を音無おとなし河と云ふ。名所のおとなし川にはあらず。

書生

益軒は、
「かげろうなら、蜻螟と書くべきだ。『清明』は誤りだ」 と、言ってますね。

隠居

はい。
「せいめい」と読むのは共通しています。
「蜻蛉(かげろう)の小野」にちなんだ名なら「蜻螟(せいめい)が滝」と書くべきだというのが、分かりませんな。
巡覧記の原本で見ていますが、確かに「螟」と書いてあります。

書生

「蜻蛉」と書いて、「せいめい」と読むのが誤りなのは、当然です。
「せいめい」と呼び、それがかげろうなら、「蜻螟」と書くべきだろうと言うだけで、益軒は、「蜻螟」を認めたわけではありませんね。

隠居

ただ、益軒が「かげろう」を「蜻螟」と書くと思っていた点は疑問が残ります。
「螟」は、「メイガ」で蛾を表します。 カゲロウのように水辺に生息するミズメイガというのもあります。メイガたちは上から見ると、デルタ形の羽をしています。水生昆虫にトビケラがいて、形としては似ています。当時、水辺に生息して飛ぶものを総称して「蜻螟」と言っていたならば、分からぬでもないのですが。
いずれ、根拠はありません。
益軒の巡覧記で言えることは一つ。
滝の名称が「せいめい」であったことですな。
また、「かげろうの小野」については、
 みよしのゝかげろふのをのにかるかやの思ひみだれてぬるよしぞおほき
という万葉歌に歌われ、「五代集歌枕」にも見える。
・ ただし、「この小野」が「せいめいが滝のある小野」かは定かでない。「かげろうのおのに」は、8音節だから、「あきつのおのに」と読むべきかも知れません。
・ 「かげろうの」という枕詞は、「陽炎」の字が当てられ、一般名称の「小野」にかかる。
などだが、この言葉があったことは確かです。
この有名な蜻蛉(かげろう)の小野にちなむなら、「かげろうが滝」と呼ばれるべきではありませんかな。

書生

ネットで検索してみます。
……、ご隠居、益軒の巡覧記、2バイト文字で打ち込んであるサイトですが、「誤りて清明が滝と書く」が、「誤りて蜻蛉が滝と書く」となっていますぞ。

隠居

まさか……、ほお。
わしは、原本を見ているから間違いない。

書生芭蕉の書いた虫偏に鳥、「虫偏に鳥の文字」はどうなんですか。
隠居

それが本来の名だろう。
虫偏に鳥の文字」は、鳥。ケラ、ハシタカ、モズなどを言う。

書生

あれ、画像で「虫偏に鳥の文字」にしなくても、ちゃんと表示できますよ。
いくつかのサイトで「蜻螐の滝」としてあります。

隠居

よく見なさい。「螐」はムシ偏に烏(カラス)で、「オ」としか読めませんぞ。「せいおの滝」と書きたかったのではないか。

書生

まさか、……
ちょっと拡大すると、「」。あら本当だ。なるほど、「虫偏に烏」ですね。「虫偏に鳥の文字」ではありません。
では、似た字の[虫+烏]を、[虫+鳥]と間違えて使ったと。

隠居ですな。
書生はい。
隠居まあ、わしもな。
「とろゝ汁」な、長いこと「とゝろ汁」のままじゃった。トトロの汁は飲めんぞよ。
書生[虫鳥]ですが、文字フォント[]は、Safariが初期設定のままでは表示しませんので、画像[めい]で表示しています。
この[めい]について調べてみました。
この字は形声文字ではありません。会意文字です。「鳴」が「メイ」だからと言って、「めい」を「メイ」と読むのは誤りです。字音は「ト・トウ・トン(tóng)」です。体色は黒で脚が赤いキジのような鳥とあります。ヤンバルクイナのような鳥でしょうか。
隠居

そうですか。メイと読むのは無理があますか。
とまれ、「蜻」はトンボ、「メイ」は鳥。
トンボや鳥の楽園の意であろう名を疎かにはできん。
益軒の言うように、いっそ「蜻螟」と書くほうがましである。「蜻めい」でもよかろう。
宣長は、平仮名で「せいめい」と書いている。このほうが潔い。
右は、明和9年(1772)3月9日の日記。

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「菅笠日記」(本居宣長)


三月九日
 
① かくて又、里の中を通りて、西河にじこうのかたへかへり、こたみこの度は、さきの板橋をわたりて、
石のはしを一町ばかりものぼり、こしげき谷かげを分入リて、いはゆる「せいめいが滝」を見る。
これは、かの大滝とは、やうかはりて、しげ山の岩のつらより、十丈ばかりが程、ひたくだりに落る滝なり。
この見る所は、かたはらよりさし出たる岸のうへにて、ちかう滝のなからにあたりたれば、上下かみしもを見あげ見おろす。
上はせばきが、やうやうに、一丈あまりにもひろごりておちゆく。
末は、こなたかなたより、み山木ども、おひかゝりて、をぐらき谷の底なれば、穴などをのぞくやうなる所へ、山も、とよみて、おちたぎるけしき、けおそろしく、そぞろさむし。
かたはらに、ちひさき堂のたてる前より、岩根をよぢ、つたかづらにかゝりつゝ、すこしのぼりて、滝のうへを見れば、水はなほ、上より落チ来て岩淵にいる。
この淵二丈ばかりのわたりにて、程はせばけれど、深く見ゆ。
<略>

② そもそも、此ノ滝を「清明せいめいが滝」としもいふは、かげろふ蜻蛉の小野によりたる名にて、虫の蜻螟せいめいならんと云し人もあれど、さにはあらじかし。

③ 里人は、蝉の滝ともいふなれば、はじめはなべて、さいひけむを、後に清明せいめいとは、さかしらにぞ、いひなしつらん。
いま、滝のさまを見るに、かみはほそくて、やうやうに、下ざまのひろきは、蝉のかたちに、いとようにたるに、なる音はた、かれが声にかよひたなれば、さもなづけつべきわざぞかし。
又、その蝉のたきは、これにはあらず。こと滝なりともいへど、里人は、「すなはち此滝のことなり」とぞいひける。

④ そはとまれかくまれ、かの虫の蜻螟は、ひが事なるべし。

⑤ かげろふの小野とは、かのあきづ蜻蛉野をあやまりたる名にて、もとより、さる所はなきうへに、そのあきづ野、はた、此わたりにはあらじ物をや。

書生宣長の日記、①の文、すごい描写力です。
隠居

わしのキャメラも及ばぬな。

せいめいの滝

書生いやいやいや。
右の手すりは、「上下を見上げ見下ろす岸」ですか。
隠居

では、滝の見下ろし。

せいめいの滝

書生

もう一歩前へ出ると、滝壺が。

隠居

落ちる。手を伸ばせば。

せいめいの滝

書生①、「いわゆるせいめいが滝」とあります。
②、清明が滝名称の由来は、虫の蜻螟ではない。
これは、益軒の説への反論ですね。
③、蝉滝が、後に清明の滝になったのではない。
「せみsemi」から、「せいめいseimei」の音韻変化ではない。蝉滝は別にある。
これはご隠居が行けなかった蝉滝ですね。里人の俗説への反論ですが、里人は納得しない。
④は、②に戻って「蜻螟」の根拠を否定しています。してみると、「蜻螟」は「かげろう」の意であったわけです。
⑤、「かげろうの小野」自体、もともとない。「あきづ野」を誤った名で、「あきづ野」は、ここではない。
以上ですが、宣長の説、代案は読み取れません。
隠居

一言言う。蝉滝は、「行けなかった」のではなく、「行かなかった」のじゃ。
てにはを違えてはならん。
それはさておき、⑤「かげろうの小野」な、「小野」と呼ばれる地は特定できぬ。「かげろうの」は、漢字で書くと「陽炎の」で、単なる枕詞じゃ。
折角芭蕉が「蜻虫偏に鳥の文字」と書き残したのにな。「めい」とは読めぬが「虫偏に鳥の文字」という字は存在する。
その字をどこかで確認しなければ、芭蕉も書けぬ。

書生

ここまで、整理します。
1、芭蕉は、「蜻虫偏に鳥の文字(せいめい)」と書いた。
2、益軒は、「清明(せいめい)」と書いた。
3、宣長は、「せいめい」と書いた。
※ ア、「蜻[虫烏]」は「せいお」としか読めない、ネットにありがちな誤字である。
※ イ、「蜻螟(せいめい)」は、益軒や宣長の時代「かげろう」の意と思われるが、益軒は採用せず、宣長は否定している。ご隠居は、「螟」は蛾であり、トンボでもカゲロウでもないとして否定している。
※ ウ、「清明(セイメイ)」については、検討されていない。
※ エ、「蜻メイ」は、「せいめい」と読めないから、「蜻めい」あるいは「せいめい」と書けばよい。
いかがでしょう。

かげろうの小野辺り

せいめいの滝下流「あきつの小野」?

公園として整備されている。

隠居

ご大義であった。
ともあれ、「せいめい」という名称は、何人も否定はできまい。

書生ご当地の観光マップを見ると、「蜻蛉の滝」で、「せいれい」と振ってありますね。
隠居

看板何、「せいれい」とな。すぐ否定されたではないか。
しかし、わしに二言はない。
自身の言の真偽には、身命を賭す覚悟があって、一言一言を発しておる。
お主、この看板の説明を見事読解してみられい。


①、蜻蛉(せいれい)とはトンボのことである。
②、二十一代雄略天皇がこの地に行幸の際、狩人に命じて獣を馳り、自ら射ようとしたとき、突然大きな虻(アブ)が飛んできて、天皇の臂(ひじ)に喰いついた。
③、ところが、何処からともなく蜻蛉(トンボ)が現われ、その虻を噛み殺したので、天皇が大いにほめたたえ、これより、この地を蜻蛉野(あきつの)と呼ぶことになった。
④、蜻蛉の名にちなんで、この滝を蜻蛉の滝と呼んでいる。
⑤、高さ約五十メートル。飛沫は太陽に映じて常に虹をつくっていることから、この付近は一名虹光(にじっこう)といわれている。
⑥、蜻蛉の滝は古く万葉集にも記述されており、松尾芭蕉、本居宣長など著名人が多く訪れている。


いざ、「蜻蛉(せいれい)」でよかろうか。

書生

はあ。
①、「蜻蛉」を「せいれい」とよむなら、その通りトンボです。
②、「獣を馳り」は、「獣をはせり」と、読むんでしょうか。
引用元の日本書紀には、「駈獣」とあって、「獣ヲ駈ら(から)しめたまふ」と読めますね。
「馳す(はす)」は「早く走る」、「駈る」は「せき立てて追う」。
これは違います。
「獣を駈らしめ」とあるべきです。
次に、「この地に行幸」ですが、書紀は「(18日)吉野宮に行幸す。(20日)、河上の小野に幸す」とあります。この地が、「河上の小野」なら問題ありません。
③は、書紀の記述によく合っています。
書紀に、「因りて蜻蛉(あきづ)を讃めて、此の地を名づけて、蜻蛉野(あきづの)とす」とありますし。
④は、「(この)蜻蛉(あきづ)の名にちなんで、この滝を蜻蛉(せいれい)の滝と呼んでいる」と、いうことでしょうね。
ただ、「だれが呼んでいるか」分かりません。

隠居書紀の蜻蛉の名にちなむなら、「蜻蛉(あきづ)の滝」、あるいは、「蜻蛉(とんぼ)の滝」としなければならん。論理的に破綻しておる。
書生破綻ではなくて飛躍ですね。仮名書きにすると分かります。
③は「此の地を名づけて、あきづ野とす」
④は「あきづの名にちなんで、この滝をせいれいの滝と呼んでいる」
この2文はまったくつながりません。漢字にしてつながりができます。
「あきづ→蜻蛉→せいれい」
隠居

漢語を介そうが、何をしようが、「あきづ」が「せいれい」になってしう時点で、破綻である。「せいめい」を十回言えば「せいれい」になるかも知れぬが、「あきづ」を千回言っても「せいれい」にはならん。

書生まあまあ。
隠居

芭蕉、益軒、宣長が「せいめいの滝」と、せっかく書き残しておるのにな。
で、ここが「あきづの小野」かどうかですな。
⑤に、宣長は、「かげろふの小野とは、かのあきづ野をあやまりたる名にて、もとよりさる所はなきうへに、そのあきづ野、はたこのわたりにはあらじ物をや」と書いているが、これはどういうことかな?

書生

宣長は、当然、古事記を根拠にしているでしょう。古事記を探りますので、お待ちを。


……、古事記には、概略、「阿岐豆野(あきづの=秋津野、蜻蛉野)に幸でまして、御みかりしたまひし時、天皇、御あぐらに坐しましき。ここに虻御腕をくふ。即ち、蜻蛉(あきづ)来てその虻をくひて飛びき。ここに御歌をよみたまひき。その歌に曰ひしく、
 み吉野の 袁牟漏が嶽(おむろがたけ=小牟漏岳)に 猪鹿(しし)伏すと
 誰れぞ 大前に奏(もう)す やすみしし 我が大君の 猪鹿待つと
 呉床(あぐら)に坐(いま)し 白栲(しろたえ)の 衣手著(そてき)そなふ
 手腓(たこむら)に 虻かきつき その虻を 蜻蛉(あきづ)早くひ
 かくのごと 名に負はむと そらみつ 倭(やまと)の国を
 蜻蛉島(あきづしま)とふ

といひき。故、その時よりその野をなづけて阿岐豆野(あきづの)と謂う。


これはもう、小牟漏岳と特定できますね。
こちらの秋津野は、東吉野村小(小は「おむら」と読む)の丹生川上神社あたりで、背後に小牟漏岳があります。
とすると、②③の日本書紀の記述だけで、せいめいの滝辺りを秋津野とするのはいかがかと思われます。

隠居おむろ岳

ですな。
宣長はそれを言っております。
「小牟漏岳」の辺りとな。
また、万葉の「秋津野」は、吉野離宮の辺りのことです。

柿本人麻呂の長歌、
 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば(巻一、36)
のように。

この離宮が、「秋津の宮」と呼ばれたことは、笠金村の長歌
 み吉野の 秋津の宮は 神からか 貴くあるらむ(巻六、907)
で分かりましょう。
さて、まだ残っていますな。

書生

⑤、虹がいつも出るので、この付近は虹光(にじっこう)。
虹は、太陽・水滴・見る人の位置関係によります。にじは訓、こうは音ですね。地名はいかようにも付けられますから、「へえ」としか言えません。

隠居

どの滝でも、太陽を背にすれば虹が見られます。この滝は、南側に人が立ちますから見やすいことでしょう。
「西河」を「にじっこう」と呼んでましたな。さすれば、「虹光-にじっこう-西河」ですか。
西河の大滝も飛沫をあげますな。こちらも、盛大に広い範囲で見られます。
「にじっこう」を「この付近」と、「蜻めいの滝付近」に限定することは、大滝がある以上できないでしょう。

書生

⑥、「蜻蛉の滝は古く万葉集にも記述されて」とは、どんな記述でしょう。

隠居

はて、「歌」でのうて「記述」とな。
和歌なら、長短合わせて33首、滝や垂水を詠んだものがあるのだが。
せいれいの滝・垂水、秋津の小野の滝・垂水か。思い当たらぬな。
あきづの小野なら、「かげろうの小野」で引いた
 み吉野の秋津の小野に刈る草の思ひ乱れて寝る夜しぞ多き(巻十二、3065)
があるが、垂水でも滝でもない。
「記述」とあるのは、詞書きや注釈なのかな?まあ、わしは、知らぬことのほうが多い。

書生

ネット検索すると、「笠金村の歌」とするサイトが見つかりました。どの歌かは書いてありませんが。

隠居

まさか。
万葉の金村歌は、40ほどあるが、思い当たらぬ。待たれよ、……
金村で「秋津」なら、先ほど吉野離宮で引いた「巻六の巻頭歌」しかない。


雑歌/養老七年癸亥夏五月/幸于芳野離宮時、笠朝臣金村作歌一首、并短歌
 滝の上の 三船の山に 瑞枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし知らさむ み吉野の 秋津の宮は 神からか 貴くあるらむ 国からか 見が欲しからむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしも
反歌二首
 年のはにかくも見てしかみ吉野の清き河内のたぎつ白波
 山高み白木綿花におちたぎつ滝の河内は見れど飽かぬかも


「垂水」ではなく「滝」ですな。しかも、ほとりに「三船の山」。これは、宮滝の歌です。
この長歌1首、反歌2首は、先に言うた、長短30首の滝の歌に入れてあるが、問題外ですな。

書生

「蜻蛉の滝」を記述ということに関して、金村の40首あまりは、該当しないと。

隠居

勿論。
今でこそやくざな身の上なれど、笠村の歌は知っております。

書生

⑥には、芭蕉や宣長の名が出ます。

隠居せいめいゲだけ

芭蕉や宣長が、この滝をどう書き残したか、いささかでも調べていたなら、こうは書けぬ。権威付けで名を利用したのみ、単なる由緒書きですな。
「著名人が多く訪れ」たことで、価値を確認したんでしょう。
万葉を消し、益軒を入れて、こう書くべきですな。
⑥、蜻蛉の滝は、芭蕉・益軒・宣長が訪れたが、なぜか「せいめいの滝」と呼んでいる。
「せいめい」の根拠、まだありますな。
芭蕉が安禅岳と書いた青根ヶ峰、ここは西行庵にほど近いが、お地蔵様の光背が道標になっていて、「左せいめいヶ゛だき」とあります。
「せいめい」という名称は、何人も否定はできぬぞ。

書生

まあまあ。

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笈の小文、 貞享5年3月22日、姥が坂・爺が坂~安禅岳~苔清水

隠居

桜三句は、この後で鑑賞。
 
蜻めいの滝から、音無川をさかのぼる。
書簡のリストにある
「姥が坂」(うばがさか=婆が坂)、「爺が坂」(これは、一続きの坂)
を過ぎて、
「安禅岳」(=青根ヶ峰)を越えると、苔清水。

罫線


「猿雖あて書簡抜粋、旅の記録」


坂 七つ
粧坂 ぢいが坂 うばが坂 宇野坂 かぶろ坂 不動坂 小野坂
山峰 六つ
国見山 安禅岳 高野山 てつかいが峰 勝尾寺ノ山 金龍寺ノ山

書生これは、道のり約5キロ、標高差約500メートルか。厳しいコースですね。
隠居

そこに、奥千本があり、西行庵がある。
心弾む上り道だったでしょうな。
 
 とくとくと落つる岩間の苔清水
  くみほすほどもなきすまひかな
 西行

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貞享5年3月22日、苔清水


  苔清水
⑫ 春雨のこしたにつたふ清水哉

書生⑫、「音も無く降る春雨が、木の下を伝って湧いてくる」と、見えないものを見ていますね。
急坂で渇いたのどを潤し、体の汚れを拭いましたか。
隠居

足跡いや、口を漱いだだけでしょう。
三四考、芭蕉翁口授」に、「清水影をうつし、嗽くちすすぎなどするとも、足洗ふべからず」とありますな。
野ざらしの旅では、
 露とくとく心みに浮世すすがばや
でした。
心の欲や穢れはすすいだしょうが。
私も同じ道を歩みました。

書生

世を忍び、浮き世の塵も払われましたか。

隠居

山道じゃ。
川上村のホテルで前夜に調達した握り飯を背に、朝6時に出発。せいめいの滝、じいが坂・うばが坂を越え、青根ヶ峰から、9時西行庵に到着。握り飯を一つ頂き、水を飲みに苔清水に戻る。
とたんに元気が出て、山肌を一気に駆け上ったな。見下ろした左下が苔清水じゃが、トクトクという音がそこでも聞こえ、感に堪えざる思いで西行庵のほうを眺むれば、名残花が谷をうずめるという絶景。

西行庵

程なく金峯神社に着き、義経の隠れ塔を見るなどしたという案配。

金峯神社

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笈の小文、 貞享5年3月21~23日、桜花

隠居

桜花三句は、ここで鑑賞。

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貞享5年3月21~23日、桜花



  桜
⑬ 桜がりきどくや日々に五里六里

⑭ 日は花に暮てさびしやあすならう

⑮ 扇にて酒くむかげやちる桜

書生

⑬、「奇特」なのは、自身のこと。
「桜狩りに、毎日5里6里歩いて」と自分を褒めてやりたい。
⑭、「人は桜ばかりに関心を寄せている。アスナロは寂しいであろう」。
⑮、「扇で酒を酌む影」は、能の仕草。まことに吉野の散る桜にふさわしい。
どの句も、「どこで」がありません。

隠居 特に⑬は、振り返りの句ですな。どこでは問題とならない、吉野を発つころと、時は明確です。
書生

ああ、この日も雨ですね。
前日の22日は春雨でしたが、この日は本降り。
宿に降り籠められていたと想像します。

隠居19日から4日間、歩き詰めでした。吉野の花も堪能しました。
書生

十分味わったので、アスナロも見えてきた。
「よく歩いたもんだ」と、杜国と語り合った。

隠居

酒酌む影の散る桜は、宿のある下千本辺りの景かな。
落花も終わりに近いころの酒宴。
「扇にて酒酌む影」は、興じて能の「猩々」か「紅葉狩」か想像させます。
酒を酌む仕草を扇でするのですが、扇にも本物の杯にも花が散り落ちている、風情ある光景ですな。
ひとつ謡ってみましょうか。

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貞享5年3月23日、花


吉野の花に三日留まりて、曙ヤ黄昏の景色に向かひ、有明の月の哀れなるさまなど、心に迫り胸に満ちて、
あるは摂政公(後京極摂政、藤原良経)の眺めに奪はれ、
西行の枝折に迷ひ、
かの貞室が「是はこれは」と打ちなぐりたるに、
われ言はん言葉もなくて、いたづらに口を閉ぢたるハいと口惜し。
思ひ立ちたる風流、いかめしく侍れども、ここに至りてハ無興のことなり。


※ 昔誰 かかる桜の 花を植ゑて 吉野を春の 山となしけむ (新勅撰、良経)
 
※ 吉野山 昨年の枝折の 道かへて まだ見ぬ方の 花をたづねむ (新古今、西行)
 
※ これはこれはとばかり花の芳野山 (阿羅野、貞室)

書生

いや、……、本文が残っていますので。

隠居最後の文は、花にこだわっているので、ここで味わうのがいいだろうな。
書生要は、吉野の花に三日留まったが、花の句は詠めなかったという。
隠居花を称美する句がよめなかった。
書生「竜門の花」とか、「日は花に」とかありますが?
隠居

竜門は吉野山じゃない。
また、「日は花に」はアスナロを詠んだ句で、花を称美したとは言えない。

書生

ああ、だから、苔清水の句をはさんだ。
紛らわしいですからね。
花を称美する句は、ありませんね。

隠居

いさんで吉野に来て、日に5里6里歩いた。
光景は心に迫り胸に満ちたが、花の句はできなかった。
無興のことと言っているが、これこそ風狂。

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笈の小文、講読の振返り
 
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08 吉野(初瀬~西河~吉野)
書生

まず「草臥て」句、「猶見たし」句の詠んだ場所を明解に示せたことですね。

隠居

「草臥て」の上五はこの位置、「藤の花」の下五は、奈良のあとじゃった。
「猶見たし」は、この位置にあってもよいが、詠んだのは、吉野のあとじゃった。
まあ、明解に示せたな。

書生

「せいめい滝」は、何ともなりません。この、「卯辰紀行」「芳野紀行」の原本、どちらも「蜻蛉の滝」と書き換えてありますね。

隠居せいめいの筆文字

それは、誤読に基づく誤写である。
右が、「笈之小文、再刻本」の2文字。
上は、「虫へん+青」。下は「虫へん+鳥」。
三刻本、筆写本も見たがこの文字どおりであった。
下の字を、卑近な「虫へん+令」と読んだんじゃろうな。

書生鳩蛉の崩し字

鳥の字が入る「鳩」と「蛉」の崩し字を比べてみましょう。
なるほど、鳥と令は違いますね。
でも、「虫偏に鳥の字」という字は、なじみがないので、「蛉」と読んでしまったわけですね。

隠居

「蜻虫偏に鳥の字の滝(せいめいのたき)」への名称復活、道は遠そうじゃな。

書生

表示しないブラウザもありますからね。

「雲雀より」句ですが、平地があって雲雀が上がるという鑑賞が斬新でした。

隠居

自然にひたれば、自明なことじゃ。

書生

流石です。
私も、平尾の宿で、芭蕉が寝なかったことを証明しました。

隠居

芭蕉は、初瀬から臍峠を越え、竜門の滝を往復し、平尾まで24キロ。翌日青根ヶ峰を越えて西行庵から吉野まで25キロ。これを、寝ずに歩いたという斬新な説である。
わしが与する訳がない。

書生

ご隠居の義太夫を聞いてひらめきました。間違いありません。

隠居

「謡い」である。

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  ---笈の小文講読ページの解説---