笈の小文 高野(葛城~高野~和歌浦・紀三井寺)

笈の小文 索引
序文序章鳴海保美熱田伊賀伊勢吉野高野奈良須磨箕面旅後
笈の小文 高野 索引
原文高野~和歌の浦~紀三井寺旅程吉野~高野~和歌浦~紀三井寺~奈良
講読3/26 高野山「ちちははの」句3/28 和歌浦「行春に」句・3/29、紀三井寺
旅の所感「跪は破れて」4/1 更衣「一つぬひで」句
資料吉野山から高野・和歌浦までの経路
猿雖あて書簡に見る訪問地の一覧和歌浦から奈良への足跡

高野・和歌浦・紀三井寺


 芭蕉は、吉野から高野・和歌浦・紀三井寺と巡り、奈良へ向かう。
 このページでは、実際の行程を確定していくことで、笈の小文の記述の順序を整理し、行程に沿って鑑賞していきます。行程の特定は、4/25付け猿雖(惣七、意専)あての書簡にある訪問先の一覧を参考にしつつ、本文や句を検討して行います。


笈の小文

高野~和歌の浦~紀三井寺

段落区分笈の小文、本文備考
葛城葛城 葛城山
 猶みたし花に明行神の顔。

※ 句は、吉野3/21 初瀬の次。
→ 吉野 3/20 句の鑑賞へ
↓ 句作地資料へ

高野  高野↓ 3/26 高野山
高野山 ちちははのしきりにこひし雉の声
奥の院 ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊
和歌  和歌

↓ 3/28 和歌浦
↓ 3/28 紀三井寺

和歌浦 行春にわかの浦にて追付たり
紀三井寺 きみ井寺
 跪はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時は、いきまきし聖の事心にうかぶ。山野海浜の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の実をうかゞふ。猶栖をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩駕にかへ、晩食肉よりも甘し。泊るべき道にかぎりなく、立べき朝に時なし。只一日のねがひ二つのみ。こよひ能宿からん。草鞋のわが足によろしきを求んとばかりは、いさゝかのおもひなり。時々気を転じ、日々に情をあらたむ。もしわつかに風雅ある人に出あひたる、悦びかぎりなし。日頃は古めかしくかたくなゝりと、にくみ捨たる程の人も、辺土の道づれにかたりあひ、はにふむぐらのうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中にこがねを得たる心地して、物にも書付、人にもかたらんとおもふぞ、又是旅のひとつなりかし。↓ 3/29~ 旅の所感
衣更道中 衣更↓ 4/1 衣更え
 一つぬひて後に負ぬ衣かへ
 吉野出て布子売たし衣がへ 万菊

笈の小文 「吉野~高野~和歌浦~紀三井寺~奈良」
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隠居本文は、高野から衣更えまでです。
書生

旅程は、吉野から高野、和歌の浦、紀三井寺、そして奈良までです。

隠居

うむ。

書生

奈良着から8日の灌仏会までの行動は、皆目分かりません。

隠居手掛かりはあります。

旅程⑦ 貞享5年3月24日~4月3日、吉野山~高野山~和歌浦・紀三井寺~奈良
<足跡>事項移動逗留宿所移動左累計
貞亨5324<吉野-伊勢街道→宇野坂(宇野峠)-大和街道→五條宿>大和街道五條宿 20.9 1,087
貞亨5325

<五條宿→橋本宿→学文路(かむろ)宿→かぶろ坂→不動坂→高野山宿坊>
・出立のとき、葛城山を望む。
・かぶろ坂、不動坂を行く。

不動坂道高野山宿坊 33.0 1,120
貞亨5326

<高野山宿坊→奥の院など→高野山宿坊>
ちゝはゝのしきりにこひし雉の声
ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊

高野山高野山宿坊 7.3 1,127
貞亨5327<高野山宿坊→西高野街道→名手宿(なてじゅく)>西高野街道名手宿 26.9 1,154
貞亨5328

<名手宿→粉河(こかわ)→且来(あっそ)-熊野街道→小野坂(汐見峠)→和歌浦(わかのうら)の宿>
・小野坂を行く。
行春にわかの浦にて追付たり

和歌浦和歌浦の宿 34.6 1,188
貞亨5329

<和歌浦の宿-紀三井寺-和歌浦の宿>
・紀三井寺参詣

紀三井寺和歌浦の宿 2.0 1,190
貞亨541

<和歌浦の宿-熊野街道→小野坂→且来→粉河-大和街道→名手宿>
一つぬいで後(うしろ)に負(おひ)ぬ衣がへ
吉野出て布子(ぬのこ)売たし衣がへ  万菊

・奈良に向かう。

熊野街道 大和街道名手宿 34.6 1,225
貞亨542

<名手宿-大和街道→五條宿>
八十八夜

大和街道五條宿 26.7 1,252
貞亨543

<五條宿-下街道→奈良>
・奈良、東大寺辺りに着く。

下街道奈良の宿 44.2 1,296
「3月19日に伊賀上野を出る」から、「4月8日、奈良にいる」まで、日付を確定する資料はない。
この間の行程は、本文の表現、句中の季語、訪問地間の距離などをもとに推定したものである。

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笈の小文 「高野山・和歌浦」
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吉野山から高野・和歌浦までの経路

隠居高野山へは北から入りますか。
書生

高野足跡はい。
猿雖あて書簡のリストにある「宇野坂・くらがり峠」を経由するのは、この道しかないでしょう。
吉野山から五條まで、右図のスケールでは十数キロに見えますが、道が屈曲し、実測では21キロあります。
大和からは、学文路かむろを経由するのが、高野山への最短経路です。
また、「かぶろ坂」は「学文路坂」のことです。
同じく書簡にある「不動坂」は、目的地「金剛峰寺」への長い下り坂です。
現在、電車で行くときは、右図不動坂の矢印のところ、南海電鉄高野線の終点「極楽橋駅」から入ります。
金剛峰寺へは、ケーブルカーとバスを利用します。

隠居

難儀な山道でしょうな。

で、宿は?

書生金剛峰寺辺りに宿坊があります。
隠居うむ。
書生和歌浦足跡

これは、高野山から和歌浦わかのうらまでの足跡です。
西高野街道で、紀ノ川へ下り、名手宿(なてじゅく)へ。
最短コースですが山道です。
この経路も、猿雖あて書簡にある「小野坂」が手掛かりになりました。
 
小野坂の峠は汐見峠と言って、大坂から熊野へ行くとき、初めて海を眺めることができる峠です。

※ ここは「井田の小野坂」で、「生田の小野坂」ではないことは、後に分かる

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笈の小文 高野山・和歌浦・紀三井寺
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猿雖あて書簡に見る訪問地の一覧

宇野坂、くらがり峠、かぶろ坂、不動坂、高野山、小野坂

隠居右の猿雖あて書簡の記録が、芭蕉の足跡をたどる根拠になります。罫線

 
貞享5年3月24日~28日、高野山・和歌浦
「猿雖あて書簡抜粋、旅の記録」

 


 
峠 六つ
 琴引 臍峠 小仏峠 くらがり峠 岩や峠 樫尾峠
 
坂 七つ
 粧坂 西河上ぢいが坂 うばが坂 宇野坂 かぶろ坂
 不動坂 生田小野坂

 
山峯 六つ
  国見山 安禅嶽 高野山 てつかいが峯 勝尾寺ノ山 金龍寺ノ山

書生

残りの坂四つは、吉野・和歌浦間にあります。
宇野坂は、地図の通り、吉野・大淀から五條宿に入る手前です。

宇野坂

「宇野坂」、峠を越えた辺り。

当時の街道は、左奥、木立の中。

隠居

葛城山(金剛山)宇野坂を越えたことが、五條宿へ行く根拠です。
右は、宇野坂を下り、眺望の開けたところに出て、初めて見える葛城山。中央右、電信棒のある向こうが現金剛山。先程の地図に↑を置いておいた。
今の葛城山は、右の花と建物に隠れている。
この山塊全体が、葛城山だったのですな。
ここから、1里弱で五条宿に至ります。

書生

早朝の葛城山(金剛山)五條で泊まり、芭蕉たちは、葛城山の「曙の景色」を、南側から見ます。
右の絵は、貞享5年3月25日午前6時20分ごろの景色をシミュレートしています。
曙では暗くて分かりませんから、日の出後1時間にしました。

 猶みたし花に明行神の顔

この句を詠んだのは、「明け行く」午前5時ごろです。
また、撮影地点は五条宿本陣、画面の右端が北になります。

 → 吉野3/20、葛城山の記事へ行く 

隠居

如何様。
花に霞む夜明けの景色です。
笈の小文の行程で、花の時期の早朝に葛城山を眺められるのは、このときと断定できます。帰路にも通るが、夏になっておりますからな。

こんな杜国の句があります。
 八重がすみ奥迄見たる龍田哉  杜国
「曠野巻之七」の巻頭ですぞ。
これも、往路の五條で詠んだと確定します。

書生

竜田?
竜田は、もっと奈良京都寄りかと。

隠居

よく味わいなされ。「奥迄見たる龍田」ですな。
 葛城や高間の桜咲きにけり 立田の奥にかかる白雲 (寂蓮、新古今)
これを踏まえている。
葛城は、葛城・金剛連山の総称。高間山は今の金剛山のことです。
白雲は山桜の比喩ですから、この景色さながらであります。

書生

葛城、高間、……
はあ、ここが竜田の奥ですか。

隠居

京・奈良から見れば、これより奥はない。

書生

なるほど。葛城は、竜田の奥。それで「奥迄見たる」ですか。
得心いたしました。

さて、次に「峠」です。
「くらがり峠」は、五條宿から大和街道で、橋本宿に入る手前にあります。漢字では「闇峠」です。

隠居

橋本宿は、大坂からの高野街道と大和街道が交わる要衝です。

書生

さらに西へ進み、「かぶろ坂」から、高野に入ります。
今は、「学文路」と書いて「かむろ」と読み、難読地名にもあげられています。
江戸の「禿坂」も、今は「かむろ」と読みます。この「学文路」も昔は「禿」と書いたそうです。
辞書の見出し語は「かぶろ」のほうで、意味は、「1はげ。2短く切った子供の髪型、またはその髪型の子供、3遊女見習いの少女。かむろとも言う」とあります。

隠居

江戸の禿坂と言えば、平井権八。

書生

はあ。学文路坂は、学文路宿から南進、苅萱堂へ至る急坂です。
さらに、下って川を渡り、登って 尾根道を進み、桜茶屋を通り、上り下りを繰り返し、「不動坂」へ。 不動坂を下りると、女人堂。金剛峰寺へ至ります。 これがいわゆる、高野参りの不動坂道。

隠居「高野山」、書簡では山峰に入れてあるが、山登りではありませんな。
書生

はい。金剛峰寺などの宗教施設のあるところと了解しています。寺の辺りから山頂へ行くと、往復15キロくらいですね。その道筋や山頂には何もないかと。

隠居最後の「小野坂」は、岩波の書簡集には、「不詳」とあったはずです。
書生

その書簡、「小野坂」の頭には、小さく「生田」と書いてあります。
私、これは、「井田」じゃないかと思うんです。
大坂から、熊野に向かう街道に小野坂があります。この坂を登ると、初めて海が眺められるというので、坂を登ったところは、「汐見峠」と呼ばれます。
この坂が、和歌浦(わかのうら、「の」は書かない)への入り口で、「井田」にあるんです。
井田を生田と誤って記録したか、井田の「井」の崩し字を「生」と読んだかでしょう。

隠居

仮定では、「不詳」と同じことですな。
崩し字で生と井を読み違えることは、ないでしょう。
また、神戸には生田があるから、そこで「生田の小野坂」も確認したらいかがかな。

書生

はい。生田に小野坂があれば、そちらということで。
ここが、「小野坂」と呼ばれ、和歌浦への入り口であったことは、間違いないところです。
一応、この書簡にある坂は、全部通ることになります。
ときに、この猿雖あて書簡というものは?

隠居

極めて長い書簡です。文字数は、笈の小文の半分近くもありましてな。
奈良のことが詳しく書いてありますので、そこで全文を見ます。
[ → 猿雖あて書簡全文を参照 ]

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笈の小文、 3月26日、高野山「ちちははの」句

隠居

3月24日、吉野山を出立。
翌25日、五條で、明け行く葛城山を眺め、不動坂を経由し、夕刻高野山着。
翌26日、高野山奥の院で、句を詠みます。

罫線

貞享5年3月26日、高野山


 高野
 
① ちちははのしきりにこひし雉の声
② ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊

書生

①、「キジの声。それを聞くと、
亡き父母が、しきりに恋しく思われる」か、

隠居か?
書生①、「父母を、しきりに恋しがるキジの子の声が、聞こえる」。
隠居

春の季語となるのは、「雉子のほろろ」。
これは、雌の「ほろ、ほろろ」という声が、春に似つかわしい声とされたもの。わしのところにもキジはおるが、聞いたことがない。雄のホロ打ちでしょうな。
 春の野の繁き草葉の妻恋ひに 飛びたつ雉のほろろとぞ鳴く (平貞文、古今)
しかし、飛び立つときにホロ打ちはない。羽音はするが。

書生では、亡き父母への思い。
隠居

さりながら、高野のような山で、ほろろを聞いたなら、ヤマドリかも知れません。
キジは、標高の低いところの平地の鳥ですからな。
ヤマドリは、名の通り山に棲み、ホロ打ちもする。

書生芭蕉は嘘を言わないでしょ。
隠居

そうです。
だから、声を聞いて、それをキジと思えば、それが真実です。
芭蕉がキジだと思えばキジです。
事実と真実は違います。
 
13歳で父が死に、33回忌を済ませた。母も5年前に世を去った。
キジのほろろを聞くと、二人に大切にされた幼い日のことが思い出されましょう。
右の文も参照しておきましょう。
芭蕉もわしも嘘は言いません。

「焼け野のきぎす」というように、キジの子への愛情は深い。
芭蕉はキジの声で、父母にも蝉吟公にも会えたのです。

罫線

「枇杷園随筆」(士朗)


高野の奥に登れば、
霊場ガ盛んにして、法の燈(ともしび)ハ消ゆるときなく、坊舎ハ地を占めて、仏閣ハ甍をならべ、
一印頓成(いちいんとんじょう、印を一つ結び、すみやかに悟りを得ること)の春の花は、寂莫の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼くにも腸(はらわた)を破るばかりにて、
<弘法大師の>御廟を心しづかに拝み、骨堂のあたりに佇みて、つらつら思ふやうあり。
此の処は多く人の形見の集まれるところにして、
わが祖先の鬢髪(びんぱつ)をはじめ、親しき懐かしきかぎりの白骨も、此の内にこそ思ひ籠めつれと、袂もせきあへず、そぞろにこぼるる涙をとどめて、
 父母のしきりに恋し雉の声

書生

「わが祖先の鬢髪」には、「父母のもの」もありますね。
「親しき懐かしきかぎりの白骨」は、芭蕉が納骨した蝉吟公のものでした。

隠居

「鬢」は頭の横の毛。埋葬の時、切り取る。
奥の院の骨堂で、芭蕉の感興は深まり、万菊丸にも伝わったはず。

書生

なるほど、どちらも奥の院でしたか。
では、②。
「奥の院の花は散りだしている。その花を笠に見せようと、乾坤無住同行二人と書いた笠の内で受け止める。あ、笠を脱いだ頭には、僧形ながら髷がある。この厳粛な奥の院で髷を見せるのは恥ずかしい」が、笠で落花を受け止め続ける万菊丸でありました。

隠居普通は、参拝で笠を取ると理解します。
書生

いや、そういうことです。
芭蕉が涙する厳粛な奥の院で、道中笠で花を受ける、これは風狂ですから、止まりません。
高野の標高は800メートルで、吉野の奥千本くらいですが、日当たりがよく満開は早い。
このころ落花盛んです。

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笈の小文、 3月28日、和歌浦「行春に」句・29日、紀三井寺

隠居

3月27日、高野山を出立、西高野街道を北西に進み、名手宿に泊まる。
ここは、華岡青洲で有名ですが、後の人で、まだ生まれていません。
紀州公が参勤交代で泊まった本陣のある宿場です。
翌28日、熊野街道の且来あっその南、小野坂から汐見峠をを越え、和歌浦に入ります。

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貞享5年3月28日和歌浦、29日紀三井寺


  和歌
③ 行春にわかの浦にて追付たり


きみ井寺
※句がない。

書生③、「行く春に追い付いた」ということは、行く春が先に和歌浦に来ていたということ?
隠居空間的には然り。 
書生

時間的にも、間に合った。
春3月中に着けたと。 

隠居この年の3月は小の月で、29日まで。和歌浦着は28日夕刻だから、後1日ある。 春が先に行ってしまったような陽気だったのでしょう。
書生「ここまでの道中、もう夏になってしまったかと思うほど暑くなったが、和歌浦に来てみると晩春の景色であった」というわけですね。
隠居

暑いから夏ではない。暑さに向かう変化が夏です。
論より証拠に最も暑い日が立秋、この日から秋。
暑さを感じると脱ぎたくなる、高野山を下りてすぐ感じた。
花のある爛漫の春から、一気に暑さを感じ、行く春を味わう間もなかったということ。
和歌浦の夕景に立ちつくすと、海風で一気に冷えてくる。立ち止まればまだ夏ではない。
行く春には追い付いたわけです。
 
が、紀三井寺の花には追い付けなかった。

書生あれ?紀三井寺は、句がありませんが。
隠居

紀三井寺に句碑がある。芭蕉句としては、存疑の部に入ります。
 見あぐればさくらしまふて紀三井寺

書生

「行く春」句とよく調和しますね。
「さくらはもう葉桜になってしまっていた」のでしょうか。

隠居紀三井寺の花は、早咲きで有名です。
伊賀上野探丸亭で、満開の桜を眺めているとき、紀三井寺の桜はどうなっておりましょうや。
書生

御意。検索……
紀三井寺本堂前のソメイヨシノが、気象協会の標準木になっています。
開花は、伊賀上野より1週間早いですね。
旧暦3月6日には、もう満開ですから、探丸亭の3月13日の会のころには散っていたでしょう。

隠居

なるほど、間に合わぬわけです。
紀三井寺には、三つの湧き水があって三井。その一つが吉祥水で、そこに遅桜があった。
 宗祇にもめぐり逢ひけりおそ桜
これも存疑の部に入ります。

書生

遅桜ですか。
宗祇にも桜にもめぐり逢った。

隠居

八重桜か、山桜の仲間で遅桜かな。ソメイヨシノより、1、2週間遅い。
わしの庵の裏山、椎の木があるじゃろ、その右に遅桜がある。
庭のソメイヨシノが4月8日満開、山桜が、14日満開。
そして遅桜は、28日満開、桜前線が盛岡や弘前にあるころですな。

遅桜

左が14日満開の山桜じゃ。ソメイヨシノの1週間後に満開となる。
中が21日の山桜で、山桜の葉が萌えて、濃いピンクになる。
手前右上の枯れ枝のように見えるのが遅桜で、このころ花芽は固い。
その1週間後、山桜の葉は新緑となり、枯れ枝に見えていた遅桜が、突如満開となる。右は、28日。左の高木はヒノキで、下の新緑はウツギ。右下の濃緑が裏山のシイ。

書生

裏山シイ?

隠居

「宗祇にも」の「も」だが、「西行にも」めぐり逢っていたのではないかな。
和歌浦に玉津島神社があります。聖武天皇の仮宮に同行した赤人の「田鶴鳴き渡る」で有名だが、業平・小町・慈円・寂蓮・実朝も来ています。
西行は、この歌枕を
 はまゆふに君がちとせの重なれば よに絶ゆまじき和歌の浦波
 和歌の浦に塩木かさぬる契りをば かける焚く藻のあとにてぞみる

と詠んでいます。
どちらも、「和歌」を懸けているでしょう。
「絶えることのない和歌」
「藻塩をたくように、たゆまぬ和歌の精進」

書生

あっ、それだ!
ご隠居、詞書きは、「和歌」ですよ。
紀の国、和歌山、和歌浦じゃなく、ただ「和歌」。
玉津島神社に参拝し、西行の歌を思い出したんだ。

隠居

ほほう、「和歌」な。
ともあれ、玉津島神社で、西行にめぐり逢いました。
紀三井寺へ行くと、そこには宗祇の結んだ庵の旧跡がありました。
宗祇が、この庵から玉津島神社に通い、歌の上達を祈願したという旧跡。
「めぐり逢ひけり」が踏まえた和歌は……

書生

ご隠居、皆まで。
 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな

隠居

雲に隠れては、元も子もありませんな。
それ、紫式部です。
 月を見て心浮かれしいにしへの 秋にもさらにめぐり逢ひぬる
これは西行で、新古今。
そう言えば、「めぐり逢ふ」という文言のある歌は、式部と西行くらいかな。
覚えておる範囲ですが。

書生

おや。「めぐり逢ふ」の意味が皆違いますね。
式部は「久しぶりに会う」、西行は「再会」、芭蕉は「邂逅」。

隠居

ほう。
邂逅、これはいわゆる出会いです。
和歌の道に精進する西行、祈願する宗祇に出会ったのでしょうな。
芭蕉、何かをつかみましたな。

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笈の小文、 旅の所感「跪は破れて」

隠居

「紀三井寺」の後に記された、旅の所感。
④の「跪」は「ひざ」、「踵きびす」とあるべきところです。

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貞享5年3月29日、4月1日、旅:所感


④ 跪(きびす、踵のこと)は破れて西行に等しく、天龍の渡しを思ひ、馬を借る時は、息まきし聖の事ガ心に浮かぶ。
※天竜の渡し……<西行が>遠江国天竜の渡りにまかり着きて、舟に乗りたれば、「所なし。おりよ。」と鞭をもちて撲つほどに、頭(かしら)割れて血流れてなむ、西行うち笑ひて、憂ふる色も見えて下りける。(西行法師絵詞)
※息まきし聖……高野の証空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬に乗りたる女の、行き合ひたりけるが、<馬の>口ヲ引ける男、悪しく引きて、聖の馬を堀へ落としてげり。…………
上人は馬子を罵るが、馬子は理解できず、いっそう息巻いたという話。(徒然草)


⑤ 山野・海浜の美景に、造化の功を見、あるは無依の道者の跡を慕ひ、風情の人の実を伺ふ。


⑥ 猶ホ栖(すみか)を去りて器物の願ひなし。空手なれば途中の愁ひもなし。


⑦ 寛歩ヲ駕(のりもの、駕篭)に替へ、晩食ハ肉よりも甘し。


⑧ 泊るべき道に限りガなく、立つべき朝に時なし。


⑨ ただ一日の願ひ二つのみ。今宵よき宿ヲ借らん。草鞋のわが足によろしきを求んとばかりは、いささかの思ひなり。


⑩ 時々気を転じ、日々に情を改む。


⑪ もしわづかに風雅ある人に出会ひたる、悦びかぎりなし。


⑫ 日頃は、古めかしく頑ななりと、にくみ捨てたる程の人も、辺土の道づれに語り合ひ、埴生(はにゅう)・葎(むぐら)のうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に黄金(こがね)を得たる心地して、物にも書き付け、人にも語らんと思ふぞ、又是レ旅のひとつなりかし。

書生

④、「道中の下り坂は、かかとで踏ん張り、傷だらけになるが、西行と同じと思えば苦ではなく、西行が天竜の渡しで、『降りろ』と言われ、頭を割られたが、『これも修行』とこらえた話を思い出したり、
馬を借りるときは、高野山の証空上人が、馬から落ちて馬子を罵った失敗談を浮かべたりする」。
自分の落馬は、思い出さないんでしょうか。

隠居書いてないことはよろしい。
書生

⑤、「山野海浜の美景に、造物主の働きを見、或いは無依の行者の旧跡を慕い、風情と人の真実のかかわりに思いを巡らす」。
「無依の道者」が、分かりかねます。

隠居一切の執着を捨てた仏道修行者。臨済録にある。
書生⑥、「私も住居を去っているので、器物で欲しいものはない。何も持たないので、道中の運ぶ苦労や無くす心配もない」。
隠居そうですな。
書生

⑦、「ゆっくり歩くことで、駕篭に乗ることに替え、そうして歩けば、晩食は肉よりもうまい」。
これは、なるほどですね。

隠居芭蕉としては、ゆっくり歩いたんでしょうな。
書生

⑧、「宿泊を予定する地はなく、出立する朝も時間を決めていない」。

⑨、「ただ、旅をするその一日の願いは、二つだけである。
『今宵は、いい宿に泊まろう』、
『わたしの足にちょうどよいわらじを、手に入れよう』
と、いうことだけは、ささやかな願い事だ」。

いい宿ってどんな宿でしょう。
和倉の加賀屋とか、稲取の銀水荘とかいうような宿でしょうかね。

隠居さて。もてなしよりも風流ですな。
書生⑩、「時々は気を転じ、日々に情を改む」、これが難解。
隠居何の。「旅ゆけ」ば、こうなるということ。
書生

⑩は、「旅ゆけば、その時々で気分が変わり、日々心持ちが変わる」ですね。
⑪、「まずないのだが、少しでも風雅のある人に出会えば、その悦びは限りないものだ」。

隠居

「風雅ある人」は、「俳諧を解する人」ですな。
次は、「風雅ある人に会わなければ」だ。

書生⑫、「そう言った風雅ある人に会わなければ、古式にしがみつく人、頑固な人だなどと、日頃の生活なら受け入れがたい人でも、片田舎の寂しいところで道連れになって語らったり、赤土と雑草だらけの辺鄙なところで会った人に、風雅を見出したりすると、がれきの中に宝石を拾ったり、泥の中に黄金を見付けたりするような心持ちになるもので、文に書いたり話の種にしようと思う。それが、私の旅の在り方の一つである」。

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笈の小文、 4月1日、更衣「一つぬひで」句

隠居

衣替えは、陰暦4月1日、綿入れから袷あわせに着替えるならわし。
袷は、裏地を付けた着物で、近世は初夏・晩秋に用います。
衣替えは、普通「更衣」と書きますが、芭蕉のように「衣替(え)」とも。

罫線

貞享5年4月1日、更衣


  衣更
⑬ 一つぬひで後に負ぬ衣かへ
⑭ 吉野出て布子売たし衣がへ 万菊

書生

⑬、「家に在れば袷に着替えるのだが、旅中のこと、一枚脱いで笈に入れて背負う。それが私の衣更えだ」、
なんて、着装総重量に変化はありませんが。

隠居「旅の具多きは道さはり」と書いてあったが、やむをえんな。
書生

それに気づいた万菊丸、
⑭、「吉野ならいいが、下界に降りて歩くともう暑い。これを背負えば重たいしかさばる。いっそ売ってしまいたい、そんな私の衣更えです」と、諧謔味のある句です。
現代なら圧縮袋に入れるでしょう。

隠居かさは減るが、圧縮袋の重さが増えます。

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4月1日~3日 和歌浦から奈良への足跡

隠居

4月1日、和歌浦を後にして、二人は奈良へと向かいます。

奈良への足跡

奈良への足跡

書生和歌浦から一旦南へ振りますが、当時の熊野街道に入るためで、汐見峠、小野坂、且来と進み、名手宿を目指します。
隠居名手は本陣のある宿場でしたな。
書生はい。それに、名手のすぐ手前に粉河寺こかわでらが、あります。
隠居ああ、枕草子。「寺は、石山・粉河」のな。
書生

流石。

そんな名刹なのですが、「一つぬいで」の句碑があるんです。

 ひとつぬきてうしろにおひぬころもかへ
隠居根拠があってのことならば、「経路として差し支えない」わけですが。
書生和歌浦の宿を出、名手宿までの道中で詠んだのでしょうが、粉河寺に寄ったのでしょうか。
昭和14年6月建立です。この年は、生誕296年。没後245年では、微妙。笈の小文の旅、251周年か、そんな年です。
隠居蘊蓄は要りません。根拠を聞いております。
書生……
隠居粉河寺は名刹。奇特な人がいて、句碑を建てるのは自由です。
書生はい。
この粉河や名手は、紀伊葛城山の南麓にありまして、この山頂にも葛木神社があります。
隠居

ああ、昔はこの山から東の金剛山、大和葛城山、さらに二上山までの”」”字型の連山を「葛城山」と呼んでいたらしいな。
いずれ、どの葛城山でも、この時期花は終わり、夏になっていますから、棄却されましょう。
芭蕉が「花に明け行く」と詠んだのは、3月24日の葛城(金剛)山で解決済みです。

書生

名手宿から、東大寺まで、どこかで1泊ですが、2日五條宿泊にしてあります。
4月3日、五條から北に下街道で、大和高田へ。そこからは、そのまま下街道でも、橿原から中街道でも、桜井から山の辺の道でも距離は変わりません。
図では斜めに進んでいますが、碁盤の目をジグザクに進みますので距離は同じでしょう。
4月8日の灌仏会には十分間に合いますので、もう1泊してもいいですね。

隠居

4月8日は、大仏殿釿ちょうな始めの千僧供養。諸国から、数十万の見物人が、集まります。
されども、芭蕉は、俊乗上人に心を寄せておりましたな。上人の月命日が4月5日、この日にも行事があるとしたら、当然行きますな。
それには、人がわんさと集まる。
当時の奈良の人口は、町方・社寺合わせて3万5千。その10倍以上が集まってくるわけです。
宿の予約がしてなければ、泊まれないかも知れません。

書生心は急きますね。では、3日奈良着で。

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笈の小文、講読の振返り
 
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09 高野(葛城~高野~和歌浦・紀三井寺)
書生

3月24日から4月3日までの行程が、概ね明らかになりました。
葛城山「猶見たし」の句が、高野出発の朝できたことが解明されました。
これは特筆かと。

隠居

行程順に読むという目的のお蔭で、達成されたわけです。

書生

行程の解明は、猿雖宛書簡のお蔭でした。

隠居

大いに役立ちましたな。
「和歌」という見出しを詞書きとして読むという発想には、驚きましたな。

書生

行春にわかの浦にて追付たり
西行、宗祇に出会った句という鑑賞からそう思われました。
ですが、「紀三井寺」という見だしの後、句が欠落したかどうかの検討が残りましたね。

隠居

しても詮無いことでしょう。

書生

ですが、整理しておきたいので。
欠落していたとするなら、次の句。
 見あぐればさくらしまふて紀三井寺
 宗祇にもめぐり逢ひけりおそ桜

ただし、他の記録からも洩れていて、芭蕉句と断定できません。
欠落していないとすると、
旅の所感「跪は破れて云々」の小文の見出しが「紀三井寺」となりますが、

隠居

さすがに、それはありません。

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  ---笈の小文講読ページの解説---