笈の小文 須磨(・明石)

笈の小文 索引
序文序章鳴海保美熱田伊賀伊勢吉野高野奈良須磨箕面旅後
笈の小文 高野 索引
原文須磨(~明石)旅程大坂~兵庫~須磨(~明石~須磨)
講読須磨浦、一ノ谷、須磨寺須磨の宿、夏の月
深更、蛸壺須磨の曙「須磨」のまとめ
資料大坂から兵庫への経路、兵庫と須磨での足跡
足跡、兵庫の宿~さまざまな旧跡~須磨現光寺

須磨・明石


 芭蕉は、大坂から船で兵庫に着き、行平や平家の旧跡を巡って、須磨に泊まる。
 このページでは、芭蕉の足跡を丹念に拾い、明石の町中には行かなかったことを明らかし、本文にある「明石夜泊」の謎を解きます。また、平家懐旧の文章を行程順に並べ替えると、読み解きやすくなるいう確認をします。


笈の小文 「須磨・明石」

須磨(~明石)

段落区分笈の小文、本文備考
須磨 須磨
⑨ 月はあれど留守のやうなり須磨の夏

4/20
 須磨2「夏の月」へ

⑩ 月見ても物たらはずや須磨の夏
⑬ 卯月中頃の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとど艶なるに、山はわか葉にくろみかゝりて、時鳥啼出づべき東雲も、海の方よりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂なみあからみあひて、漁人の軒ちかきけしの花の、たえだえに見わたさる。

4/20
 須磨4「曙」へ

⑭ 海士の顔先みらるるやけしの花

① 東須磨西須磨浜須磨と三処にわかれて、あながちに何わざするとも見えず。藻塩たれつゝなど歌にも聞え侍るも、今はかゝるわざするなども見えず。きすごといふ魚を網して、真砂の上に干ちらしけるを烏の飛来りてつかみ去ル。これをにくみて弓をもておどすぞ、海士のわざとも見えず。
③ もし古戦場の余波をとゞめて、かゝる事をなすにやと、いとど罪深く、なを昔の恋しきままに、てつかひが峰にのぼらんとする。導きする子のくるしがりて、とかくいひまぎらはすを、さまざまにすかして、麓の茶店にて物くらはすべきなどいひて、わりなき体に見えたり。かれは十六と云けん、里の童子よりは四つばかりも弟なるべきを、数百丈の先達として羊腸険岨の岩根をはひのぼれば、すべり落ぬべきことあまたたびなりけるを、つつじ根笹にとりつき、息をきらし汗をひたして、漸雲門に入こそ、心許なき導師の力なりけらし。

4/20
 須磨1「一ノ谷」へ

② 須磨の海士の矢先に啼やほとゝぎす
⑤ 時鳥きえゆく方や島ひとつ
須磨寺⑧ 須磨寺やふかぬ笛きく木下闇

(明石)

 明石夜泊

4/20
 須磨3「蛸壺」へ

⑫ 蛸壺やはかなき夢を夏の月
須磨感想

⑪ かかる処の秋なりけりとかや、此浦の実は秋を宗とするなるべし。悲しさ淋しさいはんかたなく、秋なりせばいささか心のはしをも、云出べきものをとおもふぞ、我心匠の拙きをしらぬに似たり。

4/20
 須磨2「夏の月」へ

須磨懐古

④ 淡路島手にとるやうに見えて、須磨明石の海右左にわかる。呉楚東南のながめも斯る処にや。物しれる人の見侍らば、さまざまのさかひにも思ひなぞらふるべし。
⑥ 又うしろの方に山を隔てて、田井の畑と云処、松風村雨のふるさとといへり。尾上つづき丹波路へかよふ道あり。
⑦ 鉢伏のぞき、逆落など、おそろしき名のみ残て、鐘掛松より見下に、一の谷内裏やしき目の下に見ゆ。其代のみだれ、其時のさわぎ、さながら心にうかび、俤につどひて、二位の尼君皇子をいだきたてまつり、女院の御裳に御足もたれ、船屋形にまろび入らせ給ふみありさま、内侍局女嬬曹子のたぐひ、さまざまの御調度もてあつかひ、琵琶琴なんどしとね蒲団にくるみて、船中になげ入、供御はこぼれてうろくづの餌となり、櫛笥はみだれて、海士の捨草となりつつ、千歳のかなしび、此浦にとゞまり、素波の音にさへ愁おほく侍るぞや。

4/20
 須磨1「一ノ谷」へ

※ 丸数字①から⑭は、講読・鑑賞の順を示す。

笈の小文 「大坂~兵庫~須磨」

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隠居

上の原文は、須磨に関する文と句。

書生

明石は括弧書きですか。

隠居

ちと、腑に落ちぬことがありまして、括弧書き。

書生

日程は、19日と20日の二日間だけですね。

隠居

20日をもって、笈の小文の結びと、あいなる道理ですな。

書生

旅程は、大坂から兵庫への船旅と、須磨巡りということになりますね。


旅程⑨ 貞享5年4月19、20日、大坂~兵庫~須磨(~明石~須磨)
<足跡>事項移動逗留宿所移動左累計
貞亨5419

<浦江一笑亭→尼崎港-渡海船→兵庫宿>
大坂から船で兵庫港着。

渡海船兵庫宿33.3 1,472
貞亨5420

<兵庫宿→兵庫の旧跡→須磨の旧跡→現光寺風月庵>
 
……須磨の海士の矢先に啼やほとゝぎす
    時鳥きえゆく方や島ひとつ
……須磨寺やふかぬ笛きく木下闇

……月はあれど留守のやうなり須磨の夏
    月見ても物たらはずや須磨の夏

……蛸壺やはかなき夢を夏の月
……海士の顔先みらるるやけしの花
この日で「笈の小文」終結。

須磨巡り

現光寺
風月庵

33.2 1,505

※ 4月20日の旧跡巡りは、経路を推測して入力。

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笈の小文 大坂~兵庫~須磨(~明石)

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大坂から兵庫への経路、兵庫と須磨での足跡

隠居

兵庫への図浦江の一笑亭から、尼崎港へ。

尼崎港は、大型の回船から、北国や西国の荷を運び入れ、江戸に送る拠点として栄えていました。
また、小型の渡海船で人や荷を瀬戸内の各港に、運んでおったそうです。
芭蕉たちはここから、海路で兵庫津へ到着、山陽道兵庫宿に泊まるでしょう。例によって、地図は現在のものです。

書生

兵庫で一泊でしたね。

隠居

翌日、一日で旧跡を巡ったようですな。
訪問先は、本文と書簡にありますが、「行平・平家・湊川の戦い・歌枕」と、さまざまなです。
さて、どのような順で巡ったか、一苦労しそうですな

書生はあ。

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笈の小文 兵庫・須磨(・明石)

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4月20日の足跡、兵庫の宿~さまざまな旧跡~須磨現光寺

隠居

先ず、20日の足跡を押さえなければ、本文を読むのに苦労しますな。

罫線

貞享5年4月25日、猿雖あて書簡 抜書


ネ 兵庫に夜泊ス。
ナ 相国入道の心を尽くされたる経の島・和田の御崎・和田の笠松・内裏屋敷・本間が遠矢を射て名を誇りたる跡などヲ聞きて、
ラ 行平の松風村雨の旧跡、薩摩の守の六弥太と勝負し給ふ旧跡ヲ、かなしげに過ぎて、
ム 西須磨に入りて、「幾夜寝覚めぬ」とかや、関屋のあとも心とまり、
ウ 一ノ谷逆落し・鐘掛松、義経の武功おどろかれて、
ヰ 鉄枴(てっかい)が峰にのぼれば、須磨・明石ガ左右に分れ、淡路島・丹波山、かの海士が(あの松風村雨の)古里、田井の畑(多井畑)村などヲ、目の下に見下ろし、
ノ 天皇(すめらぎ)の皇居(みやい)は須磨の上野と言へり、
オ 其の代のありさまガ心に映りて、女院(にょういん)ヲ負ひかかえて舟に移し、天皇を二位殿の御袖に、横抱きにいだき奉りて、宝剣・内侍所(ないしどころ、神鏡)ヲあわただしく運び入れ、あるは下々の女官は、くし箱・油壷をかかえて、指し櫛・根巻を落としながら、緋の袴に蹴躓き、伏しまろびたるらん面影ヲ、さすがに見る心地して、
ク あはれなる中に、敦盛の石塔にて、泪をとどめ兼ね候ふ。
ヤ 磯近き道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして戦場に望み、熊谷(くまがい)に組みて、いかめしき名を残しはべる。
マ その哀れ、其時のかなしさ、生死事大無常迅速、君ヨ忘るる事なかれ。
ケ 此の一言ヲ梅軒子へも伝へ度く候ふ。
フ 須磨寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗りに候ふ。
コ 蝉折(せみおれ、敦盛の笛)・高麗笛(こまぶえ)・料足十疋、見る迄もなし。
ヘ この海見たらんこそ、物にはかへられじと、明石より須磨に帰りて泊る。

<略>


シ 古塚十三

兼好塚 哥塚 乙女塚 忠度塚 清盛石塔 敦盛塚 人丸塚 松風村雨塚 通盛塚 越中前司盛俊塚 河原太郎兄弟塚 良将楠が塚 能因法師塚

 
ヱ 峠六つ

琴引 臍峠 小仏峠 くらがり峠 岩や峠 樫尾峠
 
ヒ 坂七つ

粧坂 ぢいが坂 うばが坂 宇野坂 かぶろ坂 不動坂 (生田)小野坂
 
モ 山峯六つ

国見山 安禅岳 高野山 てつかいが峰 勝尾寺の山 金龍寺の山

書生はい。では。
ネ、夜泊、広辞苑に  「①夜、船に泊まること②夜中に船を碇泊させること」 とあります。
隠居尼崎から出る船は、屋形のない三十石以下の小さな渡海船。泊まれる船ではありません。
しかし、「夜泊す」と書いてある以上、船で夜を明かしたんでしょう。
風流ですなあ。
いや、「よどまりす」とも読めますな。
書生はあ、「夜泊まり」は、「夜外泊すること」。なるほど。
では、「ネ 兵庫に泊まる」と。
ナ、「清盛が心を尽くして作った経が島、和田岬、和田笠松、遠矢の跡」とありますが、「聞きて」が気になるところです。
古塚のリストを見ると、清盛石塔にも行っていることが分かります。
隠居

「聞く」は、話を情報として受け入れることですが、訪ね訊くの意もあり、「聞いて訪れた」でよい。行かなければ書かないでしょう。
港に近いのは、経が島ですな。
かなり広い面積を埋めて、波から港を守ったようですが、位置については諸説あるようです。
「築島」と区別して、「旧湊川左岸」という説もあり、確定しません。
ここは、築島寺(来迎寺)にある松王供養塔としておきましょう。
和田の笠松は、往事入江にあり、船の目標となりました。古来の歌枕です。
清盛石塔は、没後百余年建立、十三層の供養塔。大正時代に現在地へ、11メートル移動しています。
遠矢跡は、太平記。義貞家臣の本間が650メートル矢を飛ばし(これは与一の約9倍)、敵足利軍を驚かした話です。
大正まで、ここにも松があり、「遠矢の松」の標石もありました。今は標柱ですな。
和田岬は景勝地。仲秋名月の名所です。

書生経が島は位置が特定できないので、供養塔ですか。松王とどうつながりますか。
隠居特定できても広大なので、ここじゃと示せないわけです。
芭蕉の時代でもそうでしょう。
経が島は大和田港の波を防ぐ人工島です。
何度築いても、何度も強い波に削られて失敗。
そこで、生田小野坂に関を設け、人柱30人を強制募集。
庶民の嘆きとなったところ、清盛の従者、17歳の松王丸が一人、その身代わりになり、経を書いた石が投入され、完成したということです。
築島寺に「松王小児入海」の碑と墓がありますから、位置が示せるでしょう。
書生今、生田小野坂とおっしゃいましたか。
隠居いかにも。
書生和歌浦の井田小野坂では、なかったんですね。
隠居

然り。
芭蕉の書いたとおり、生田にありました。
和歌浦にも小野坂があったから、生田と注記した訳ですな。
生田山から海辺までを「生田小野」と言います。
わしも、摂津名所図会を見るまで知らなんだゆえ、許されよ。
小野坂については、「兵庫名所記」に「生田川の東、小坂あり」とあります。小野坂の関については、昭和9年の「神戸又新日報」にもありました。
また、京へ行くときに通る辺りにあるので、そこで。

書生

相分かりました。
では、高野のページに注釈を入れておきます。
ラ、「行平の松風・村雨の旧跡忠度が六弥太と戦った旧跡を、悲しい気持ちで通り」ですが、地図を見ると、順が違いますね。

隠居

なに、それは並立・列挙であるから、どちらが先ということはない書き方でしょう。
何より証拠に、その前の文にある「経が島から遠矢跡」にしても、何ら経路を示すものではござらん。

書生忠度は平氏ですが、松風村雨も平家ですか?
隠居

いや、時代が違います。平安の初期で、松風村雨は多井畑の姉妹。業平の兄、在原行平は、天皇の勘気に遭い須磨に流され、潮汲みに来た二人を寵愛する。
潮汲みは日常の仕事、当時は塩水を使い、煮炊きしました。多井畑に近い海は播磨国で、当時対立していた村も通ることになる。それを避け、須磨の浜に来ておったところを見そめられたのですな。
数年後、行平は都へ帰るが、姉妹は行平亭近くに住まい、行平の帰りをひたすら待ちます。
これが、松風村雨堂
 立ちわかれいなばの山の峯におふる 松としきかば今かへりこむ 行平

書生ああ、それ。祖母が、猫がいなくなる度に、うたっていました。
隠居

猫には効くかも知れぬが、行平は戻らない。
姉妹は老いて多井畑に戻り、そこで葬られました。多井畑には、松風村雨の塚があります。

書生ム、「西須磨に入って、
隠居あいや、待たれい。
西須磨に入りましたな。
東須磨にある松風村雨の旧跡からは、西須磨の須磨寺・現光寺が近いのですが……
書生飛び越えた。
隠居ですな。書簡の一覧にある「松風村雨塚」は、多井畑にある。こちらへ行ったことは間違いありません。
書生なるほど、須磨寺をワープして北から入りましたか。
ム、「西須磨に入って、
 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に 幾夜寝覚めぬ須磨の関守 (源兼昌、金葉集)
と歌われた、須磨の関にも心ひかれ」と、須磨の関跡へ。
隠居須磨の関は、山陽道の関。関守稲荷か、現光寺の辺りです。
書生ウ、「一ノ谷の逆落としや鐘掛けの松など、義経の武功に大変感心して」は、そんな話を聞いた。「あの辺りですよ」などという指さしながらの話を聞いた。
隠居

成る程な。一ノ谷の急坂を下から眺めてな。その急なこと、杖突坂どころの騒ぎではないと驚いたでしょうな。
鐘は、弁慶が長刀に掛けて運ぼうとしたが、持ちにくいので、反対側に提灯を提げてみたという。これが提灯に釣り鐘の語源であります。

書生

はあ。
ヰ、「鉄枴が峰てっかいがみねに登ってみると、須磨と明石が左右に分かれ、南東に淡路島、北に丹波山が見え、あの松風と村雨の古里、多井畑村などを、すぐ手前に見下ろし」と、眺望をつづっています。

隠居

眺めて、多井畑と分かるのは、さっき行ったばかりだから、地形で分かったのでしょう。
播磨の国に流れ落ちる塩屋川を、ずっとたどった最上流、厄除け八幡が目印となります。

書生

鉄枴の名は、中国の鉄枴仙人が来たのですか。

隠居

いや、摂津名所図会には、「むかし樵夫有りて多力にして常に鉄の枴を携へ山中に入る、これよりこの名を呼ぶ」とある。
木偏の「枴」は、杖や天秤棒のことで、字になじみがないことから、「拐」の字で代用されることが多い。手偏の「拐」は「かどわかし」で、意味をなさん。如何なものかのう。

書生

名の由来を示す文字は尊重されるべきですね。
ノ、「安徳天皇の御所は、須磨の上野と呼ばれた」は、反対の「南を見れば」ですね。

隠居南の麓で、一ノ谷に陣を置くときの行宮。近すぎて、山頂からは見えません。本文では、鐘掛けの松から見たと書いてあります。その松は、幕府の命により藩の威信を懸けて作られた「元禄国絵図」を見ると、鉄枴峰の山頂近く、東側に描かれていていますな。
書生

高所から見下ろした記述として、矛盾しません。
オ、「戦いのときのありさまが、心に映って、安徳帝の母である女院を背負って舟に移し、安徳天皇を清盛の妻である二位殿の御袖に、横抱きになさって、皇位継承の証しとなる宝剣・内侍所ないしどころ(神鏡)をあわただしく運び入れ、あるいは下々の女官は、化粧道具のくし箱・髪油の壺を抱えて、飾りの挿し櫛や・根掛けの飾り紐を落としながら、緋色の袴につまずいて、倒れころんだような様子を、まざまざと見る心地がして」と、叫喚が聞こえるような記述です。

隠居うむ。
書生ク、「(まざまざと見る心地がして、)底知れぬ悲哀を感じた中でも、敦盛の石塔の前で、涙ををとどめかねました。
隠居

一度敦盛塚に行ったことがある。30年くらい前だな。
例の遠足で行ったのが、たまたま二月の七日。敦盛塚へ行ったら、読経が始まるところでしてな。聞けば、敦盛八百年忌という。不思議な巡り合わせと思うたことですが、読経の後、須磨琴(これは一弦琴で行平が考案したものという)で、「青葉の笛」という曲が合奏された。なにか懐かしい音色で、往事に戻ったような心持ちじゃった。

書生

まれな偶然ですね。
今なお法要が続いているんとは、感動です。
ヤ、「磯に近い道端、松風が寂しい陰に年を経て古びたありさまで、生年16歳(数え17歳)にして戦場に望み、熊谷直実くまがいなおざねに組みて、勇猛で立派な名を残されました」。

隠居

平家物語によれば、直実も泣く泣く首を取り、後生を敦盛の供養に捧げる決心をしています。
実際仏門に入り、こちらも5年ほど前に八百年忌を迎えたところ。

書生

マ、「その哀れ、その時のかなしさを思えば、まさに『生死事大無常迅速』である。猿雖もこれを忘れないように」、
ケ、「この一言を梅軒様へもお伝へください」。
猿雖はこのとき49歳、梅軒は60歳くらいでしょうか。どちらも芭蕉より年上だし、敦盛の夭折には結びつかないかと。

隠居

年だからなおさらということだな。
お主も肝に銘じておくとよかろう。

書生

銘じました。
フ、「須磨寺の淋しさは、口を閉じっぱなしでした」。
コ、「蝉折せみおれ・高麗笛こまぶえは、料金100文で、見るまでもない」とは、まことににべもない。16文でソバが食えた時代だから、無理もない。

隠居

「口を閉じ」は、句ができなかったということ。
須磨寺は、今や駐車料・入場料・参拝料・宝物館入館料など、一切無料。

書生芭蕉のこの一言が効いたかもしれません。
隠居

そんなわけでも、あるまい。
されど、後に芭蕉が訪れる某神社。どことは言えませんが、小野坂辺り。駐車代を祈祷料と称して徴取しながら、お祓いをしないというのが話題となりましたな。

書生

須磨寺は大したものです。
で、蝉折は敦盛の笛ですね。

隠居

いや、どうも違う。
岩波の注釈で、蝉折は「敦盛のもの」とされるが、須磨寺の宝物館にあるのは、無料なのでわしは見ましたが…、青葉の笛と高麗の笛の2本。どちらも敦盛遺愛の笛とされています。
しかし、蝉折の笛は、高倉の宮のものが義経に渡り、能登の須須神社に奉納したとされ、現存します。

書生

ヘ、「この海を見たということこそ大事なことであり、笛などの物には代えられないと、明石へ行くより須磨に帰って泊る」。

隠居

そう。「物」は笛などですな。また、明石で見たいと思っていたあれこれも入りましょう。

書生

明石へ行かなかったんですよね。「ヘ この海見たらんこそ、物にはかへられじと、明石より須磨に帰りて泊る」と。

隠居

「より」は比較の格助詞ですな。
イ 比較・対照  「辛崎の松は花より朧にて」
ロ 比較の基準  「石山の石より白し秋の風」
ハ 動作・作用の起点 「今日よりや書付消さん笠の露」
ニ 同時・連続 「草の葉を落つるより飛ぶ蛍哉」
ホ 移動・経由 「咲き乱す桃の中より初桜」

書生ハの起点は、あり得ませんね。須磨寺でそのように思ったのですから、このあと明石を経由するのでもありません。
隠居

明石は、既に行っております。
猿蓑にある芭蕉句の詞書きが、鍵です。
「この境」とは、境川の国境。
読んでみられよ。

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猿蓑集 巻之二

 この境、這ひ渡るほどと言へるも、
 ここのことにや
かたつぶり角ふりわけよ須广明石 芭蕉

書生

「この境は、這い渡るほどといわれるのも、ここのことであろうか」、
「蝸牛かたつぶり、角を振り分けよ。須磨明石。 かたつぶり:三夏」。
「この境」ですか。「ここのこと」とは、どこのことですか。

隠居

明石と須磨の境。
境川という小川で、鉢伏山の西の麓、敦盛塚のすぐ脇にあります。
細い川なのに、元禄国絵図には「この境川中央国境」とあります。つまり、国境は幅のない線ですから、カタツムリの角の間を通ることができるわけですな。

書生須磨と明石はカタツムリが這い渡れるほどの短距離であると。
「ここ」で、芭蕉も一歩二歩、明石に入った。だから、明石から須磨に帰って泊まった。
隠居

それは違います。
須磨寺の後で、語る言葉であることを念頭に置くべきです。
境川から1、2歩明石に入った。明石から須磨寺に行っております。ここには、百文の値の付いた物があるのみ。山から眺めた海や敦盛塚で得た感興を胸に、そこから「明石へ行くより、須磨に戻って泊まった」わけである。
「帰って」とは、同じところに戻る意です。須磨の関屋から鉄枴山、敦盛塚、須磨寺と巡り、須磨の関屋にある現光寺に戻ったということです。
芭蕉は嘘を言わぬし、間違いもない。

書生では、本文の「明石夜泊」はいかがなります。
隠居

むろんのこと。
「夜泊」は漢詩文をまねた格調ある表現。
句は卑俗な蛸壺で、その落差のおかしみも計算されている。

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猿蓑集 巻之二

  明石夜泊
 蛸壺やはかなき夢を夏の月  芭蕉

書生嘘でないなら、芭蕉は明石で泊まったことになります。
隠居

え?どこに芭蕉が泊まったと書いてあるのかな。

書生書いてありませんね。と、すると、……
隠居

お分かりですな?
泊まったのは蛸じゃ。

書生

おや、……
こだわるようで、恐縮ですが、忠度の旧跡・人丸塚は明石にもあり、諸説はこちらへ行ったとしておりますが。

隠居

わしは、笈の小文を旅程に沿って読んでおるだけです。
忠度塚や人丸塚は、須磨か明石かなどということに興味はない。
矛盾なく笈の小文が読めればよい。
整理します。
まず、忠度の旧跡ですが、兵庫から須磨の関に行くまで、松風村雨の旧跡とともに訪れています。腕塚と胴塚があります。悲惨ですな。「兵庫名所記」に、所在地は「こまの林一丁西」とあり、「腕塚は是より三里余り。播州明石人丸墓のほとりに有り」としています。当時、駒ヶ林の塚は胴塚だけだったのでしょう。
通盛塚、盛俊塚も行っていますから、忠度塚だけ明石市内のわけはない。
人丸塚のことが出ましたが、人麻呂を祀る社は全国に107。遺骨や遺髪を納めた墳墓伝承地も石見を始め何か所かあります。
明石には社も墳墓もありますが、歌塚のある奈良櫟本、今回の経路近くに奈良の葛城、橿原にも墳墓はあります。
明石の墳墓は明石城内、社は明石城東です。
敦盛塚と明石城の距離は約12キロ、往復するだけで5、6時間はかかりますな。
明石市へわざわざ行くなら、それに見合った記述と日程上のゆとりがなくてはなりません。

書生

では、人丸塚はどこなんですか。櫟本の人丸塚は、「歌塚」と書いてありますし、葛城・橿原のは記述されていないし。

隠居明石の人丸塚には行っていません。と言うより、須磨に泊まるので「行けません」。
従って、足跡図には入りません。
書生須磨足跡では、足跡は右のようになります。
兵庫津で「夜泊」、ここから和田岬へ行き、同じ道を戻って通盛塚へ。同じ道を通るときは色分けしてあります。
後はいろいろ巡って、現光寺に至ります。

右の訪問先は、概ね本文と書簡にあるものですが、名称は適宜変えてあります。
松王供養塔は、経が島の象徴として入れました。書簡の一覧にだけ見られ、本文に出てこないところも、緑色にしました。
また、眺めただけのところや、位置を特定できないところは、割愛してあります。
行平、平家、湊川の戦い、歌枕と、時代の違うさまざまな旧跡を訪れていますね。

ここでも、足跡をたどるには、猿雖あて書簡が大いに役立ちました。
この書簡のおかげで、20日の宿泊は須磨と分かりました。
宿は現光寺という寺です。関屋の右、須磨寺の南にあります。
源氏物語ゆかりの寺ですから、「源光寺」「源氏寺」とも呼ばれました。この寺では、今でもこの20日を芭蕉の日として、行事が行われるそうです。

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笈の小文、 4月20日、須磨1「須磨浦、一ノ谷、須磨寺」

隠居

芭蕉と万菊丸は、朝兵庫宿を発ち、
和田の笠松-清盛石塔-本間が遠矢を射て名を誇りたる跡-和田の御崎-経の島-通盛塚- 盛俊塚-忠度が六弥太と戦った旧跡-行平の松風・村雨の旧跡(松風村雨堂・松風村雨の塚)-須磨の関
と、歩きました。
須磨の本文は丸数字の順に読むと、足跡・時間の推移に合うと思うたが、いかが相なりますやら。

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貞享5年4月20日、須磨1

① 東須磨・西須磨・浜須磨と三ところに分わかれて、あながちに何わざするとも見えず。
藻塩たれつつなど歌にも聞え侍るも、
今はかかるわざするなども見えず。
きすごといふ魚を網して、真砂の上に干しちらしけるを烏の飛び来りてつかみ去ル。
これをにくみて弓をもておどすぞ、海士(あま)のわざとも見えず。
 
③ もし古戦場の余波をとどめて、かかる事をなすにやと、いとど罪深く、
なを昔の恋しきままに、てつかひが峰に登らんとする。
導びきする子の苦しがりて、とかく言ひまぎらはすを、
さまざまにすかして、「麓の茶店にて物くらはすべき」などトいひて、<子は>わりなき体に見えたり。
彼は十六と云けん、里の童子よりは、四つばかりも弟なるべきを、
数百丈の先達として羊腸険岨の岩根を這ひ登れば、滑り落ちぬべきこと、あまた度なりけるを
、つつじ根ヤ笹に取り付き、息をきらし汗を浸して、漸く雲門に入るこそ、心許なき導師の力なりけらし。
 
② 須磨の海士の矢先に啼やほととぎす
 
⑤ 時鳥きえゆく方や島ひとつ
 
⑧ 須磨寺やふかぬ笛きく木下闇
 


 
④ 淡路島ガ手に取るやうに見えて、
須磨明石の海ハ右左に分かる。
呉楚東南の眺めもかかるところにや。
物知れる人の見侍らば、さまざまのさかひにも思ひなぞらふるべし。
 
⑥ また、後ろの方に山を隔てて、
田井の畑(多井畑)といふところハ、松風村雨のふるさとと言へり。
尾上つづきニ、丹波路へ通ふ道モあり。
 
⑦ 鉢伏のぞき、逆落しなど、おそろしき名のみ残りて、
鐘掛け松より見下ろすに、一の谷内裏屋敷ガ目の下に見ゆ。
其の代のみだれ、其の時の騒ぎ、さながら心に浮かび、俤につどひて、
二位の尼君皇子をいだきたてまつり、
女院の御裳に御足ガもつれ、船屋形にまろび入らせ給ふみありさま、
内侍局女嬬曹子のたぐひ、さまざまの御調度もてあつかひ、琵琶琴なんどしとね蒲団にくるみて、船中になげ入れ、
供御はこぼれてうろくづの餌となり、
櫛笥はみだれて、海士の捨草となりつつ、
千歳のかなしび、此浦にとどまり、素波の音にさへ愁おほく侍るぞや。

書生

①、「須磨は、東須磨・西須磨・浜須磨と三つに分わかれているが、どこも取り立てて、何かの業に専念しているとも見えない。
『藻塩たれつつ』などという歌で有名だが、今はこのような製塩事業をする光景も見えない。
きすご(キスの西国名)といふ魚を網で捕らえて、真砂の上に干ちらしたのを、烏が飛んできてつかんで去って行く。
これを許せぬとて弓でおどすのは、漁師のすることも思われない」。

隠居

「藻塩たれつつ」は、松風村雨堂近くにわび住まいした行平の、
 わくらばに問ふ人あらばすまのうらに もしほたれつつわぶとこたへよ
から。
「わくらばに」は、「たまたま」の意で、「邂逅」の字を当てる。
海士の弓は、無興のことと感じたようです。

書生

②、「須磨の海士の矢先に鳴くや、ほととぎすガ。 ほととぎす:三夏」
弓矢で狙っているけれど、その矢先にいるのはホトトギスですよと、漁師の業の無意味さを楽しんでいるような句です。
生類憐れみの令の関係でしょうか。もうお止めなさいと言いたかったかも知れません。

隠居①の文が、詞書きとするとそんな解釈も可能ですな。
書生

③、「もしや古戦場の名残で、鳥を射るようなことをするんだろうか、たいそう罪深いことですと思いつつ、やはり昔が恋しいという気持ちに従って、なを昔の恋しきままに、鉄枴てっかいが峰に登ろうとする。
道案内する子が苦しがって、とかく何とか口実を見付けて帰りたがるのを、あれこれなだめすかして、
「麓の茶店で、何か食べさせよう。」
などと言うと、その子はつらさに嘆きつつも渋々先導した」。
何があったでしょうね。

隠居敦盛そば、敦盛団子、須磨海苔が入ったのりのり氷菓子に須磨水ぷくぷく炭酸水、それに源平煎餅。
書生

へえ。
「彼は、16歳と言った里の童子より、四つほど下なのだが、数百丈(実際は236.1m、78丈)の先達として、曲がりくねった険しい道の岩根を這い登れば、滑り落ちそうなことが、何度もあったのだが、ツツジの根や笹につかまって、息を切らし汗でぐっしょりになって、ようやく頂上に着いたことは、頼りないながらもありがたい導師のお蔭であったことよ。」
「昔」とは、源平の戦のころのことですね。
その恋しさの中身が語られていません。

隠居語られぬところは、察するか斟酌する。
書生この日巡った平家物語の旧跡、太平記の旧跡、古今集行平の旧跡を巡ったことで、感じるところがあったのですね。
隠居中で感じたところは?芭蕉、平家の系図
書生平家の旧跡ですね。
隠居

しかも、塚巡りとでも言ってよいかのような足跡。
父の三十三回忌、臍の緒に泣き、高野で父母恋しと詠んだな。 「わが祖先の鬢髪も」と、とめどない涙を流した。
平家一門は直接の祖ではないが、さかのぼれば、同じく伊勢平氏の貞盛に行き着く。祖先の同族たちに、会いに行ったということ。
言わば、先祖供養の墓参行脚ですな。

右図はその関係。忠盛・清盛・忠度のところが、いわゆる平家一門。
中央、盛俊の家系が、伊勢平氏。左下の宗清が伊賀で、柘植姓を名のり、地名も柘植となった。芭蕉の父は柘植から伊賀上野に移っている。芭蕉の家系図は蕉翁全伝にあるので、詳しくはそちらを見られたい。
平家の出というと、すぐ落人と短絡する向きがあるが、宗清は平家として戦うも、実は頼朝の恩人。逃げ隠れはしていない。これは、「大日本史」に詳しく伝えられています。

書生

それで、昔が恋しいと。すっきりとつながりました。
④、「淡路島が手に取るように見えて、須磨明石の海は島で右左に分かれている。「呉楚東南」の眺めもこのようなところだったのであろうか。物事をよく知る人が見るならば、さまざまの名勝になぞえることであろう」。呉楚東南とは?

隠居

芭蕉が、古人と慕う杜甫の五言律詩、「岳陽楼に登る」の第3行、
   昔聞く 洞庭の水(洞庭湖)
   今上る 岳陽楼
   呉楚 東南に圻け(さけ=裂け)
   乾坤(日輪と月) 日夜浮かぶ

 以下略。

書生

こちらは、湖を境に大地が分かれている。ネガとポジですね。
⑤、「時鳥ガ消えゆく方や。島一つ。 時鳥:三夏」
左に須磨の海、右に明石の海。その真ん中の島に時鳥が鳴きながら消えていく。
この句だけ味わうと、小さな島のようですが、④を読むと大きな淡路島が見えてきます。

隠居

手に取るように見えているのは、見下ろしているからですな。
これも④のおかげと言いたいが、基本的には単独で味わう。

書生

分かりやすい方がいいですよ。紀行文のよさはそこにあると思います。
⑥、「また、振り返れば、山を隔てて見える多井畑というところは、松風・村雨の古里と言う。頂から稜線を伝い、丹波路へ続く道もある」。
多井畑は古里と「言へり」で、伝聞したことですね。

隠居

行って知っておれば、多井畑は古里なりと断定したと言いたいのかな。
かも知れぬが、訪問先リストに松風村雨の塚とある以上、行ったとしましょう。
松風村雨堂を塚と書いた可能性もないわけではないがな。
山頂から見て、行ったこともないところを、多井畑と同定できませんしな。

書生

⑦、「鉢伏のぞき、逆落しなど、恐ろしい名だけが残って、鐘掛け松から見下ろすと、一ノ谷の内裏屋敷が、目の下に見える。
その際の乱れ、そのときの騒ぎ、そのまま心に浮かび、まざまざと眼前に出てきて、
清盛の奥方である二位の尼君が、安徳天皇をお抱きさしあげて、
建礼門院は御裳に御足がもつれ、船の屋形に転がり入られたありさまや、
内侍・部屋付きの女官・雑用の女官・女官の下役らが、さまざまな御調度品を持ち出し、琵琶や琴などを敷物や蒲団にくるんで、船の中に投げ入れ、
天皇の召し上がるはずのものは海にこぼれて、魚の餌となり、
化粧道具入れは乱れ散って、漁師も見捨てるくずとなっていき、
千年の悲しみは、この浦にとどまり、白波の音にさへ、愁いが多く感じられることです」。
猿雖あて書簡の表現と似ていますね。
「鉢伏のぞき」は、そういう名の名所でしょうか。

隠居

さて、……
鉢伏山は、240メートル、鉄枴山より高いから覗けませんな……
ああ、「源平盛衰記」に
「鵯越ひよどりごえ一谷の上、鉢伏礒の途いそのとと言う所に打ち登る。兵ども遥かに指のぞきて谷を見れば」
と、ある。ここですな。
平家物語では「鉢伏蟻の戸ありのと」。「礒の途」は、磯へ通じる道。「蟻の戸」は、狭い通り道。
いささか違いますが、いずれにせよ、「指のぞき」をした場所のことでしょう。

書生

ともあれ、そんな場所があったということで。
「千歳のかなしび」以下は、書簡にはありません。
今なお、愁いを感じられると。

隠居

現在、平家没後約830年か。
敦盛八百年忌では、つい昨日のことのように感じましたな。
これは名文じゃなあ。

書生で、この後に須磨寺の句はいかがなものかと。
隠居

それは、別。
時間を追って味わうため。

書生

⑧、「須磨寺や。吹かぬ笛聞く木下闇(こしたやみ)。 木下闇:三夏」
聞こえてくるんですね。敦盛の笛が。
猿雖書簡にあった 敦盛の一文はないけれど、この位置だと、悲しみや愁いがそのまま句になったと感じます。

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笈の小文、 4月20日、須磨2「須磨の宿、夏の月」

隠居

芭蕉は須磨の月が見たかった。
それは、「鹿島詣」の冒頭に、貞室の句を引用していることで分かります。
「洛京都の貞室ガ、須磨の浦の月ヲ見に行きて、
 松陰や月は三五夜中納言
     ※ さんごや、=十五夜
と、言ひけむ、狂夫(風狂人)の昔も懐かしきままに、この秋、鹿島の山の月見んと思ひ立つことあり」。

罫線

貞享5年4月20日、須磨2
 
⑨ 月はあれど留守のやうなり須磨の夏
⑩ 月見ても物たらはずや須磨の夏


⑪ 「かかる処の秋なりけり」とかや、此の浦の実は、秋を宗とするなるべし。悲しさ淋しさ言はんかたなく、秋なりせばいささか心の端をも、言ひ出づべきものをと思ふぞ、我が心匠しんしょう(心中の工夫・才能)の拙きを知らぬに似たり。
書生吉野で「これはこれは」と詠んだ貞室ですね。
隠居

然り。
芭蕉は、それを不易の句としています。
貞室の句は、右の通り。
ちと違いますが、「月見の松跡」の碑には、芭蕉の思い違いの句が書かれていておもしろい。
まあ、それはよいとして、句の中身に注目。

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「玉海集ぎょっかいしゅう
明暦2年、貞室

須磨の月見に赴きしころ、昔、行平卿の住みたまひし所やいづこと尋ね侍りしに、上野山福祥寺といふ。

是れ今の須磨寺なり。

この山(月見山)の東の尾の続きニ、松ガ一村(むら、=群)侍るノを、 月見の松と名付けたまひしなど、人の教へけるほどに
 
 松にすめ月も三五夜中納言 貞室

書生

行平でしたか。
「行平が須磨寺にいたころ月見の松と名付けたというので、貞室が夜中と中納言をしゃれて詠んだと、言うんですね。
で、芭蕉は須磨へ行きたかったが、先ず鹿島の月を見に行った。
鹿島詣では、笈の小文の旅の前年でしたね。

隠居陰暦8月の仲秋のことです。
書生須磨に来たけれど、仲秋ではなかった。
残念ですねえ。
隠居それで、貞享5年のの須磨の夏の月はどんなですかな。
書生御意。しばしお待ちを。……1688年5月19日と、……
隠居日の出、日の入りもな。
書生分かりにくいので、図にしました。 こんな月です。月の出没
隠居はて、どう見るのかな。
書生

地面の上に、空を覆う半球があるとして、真東・天頂・真芯・真西を結ぶ面で、真っ二つに切って、南の方を向いたと想像してください。
月は左、東から出て、真南で一番高く上り、西へ傾いていきます。
時刻に合わせて、新暦の日付をいれました。
新暦は、夜0時で日付が変わります。
旧暦は、日の出で日付が変わります。
従って、夜0時から日の出まで、陰暦・陽暦の日付が異なりますので、よろしく。

隠居月は、こんな形なんだな。
書生

月齢19です。
半月、下弦の月になるまで、あと2、3日ありますので、まだふくらみはあります。
三日月の輝きと影を反転させた形ですね。

隠居形が寂しいのう。
書生

もっと寂しいのは、高さでしょう。この年、最も低い月です。
冬至の太陽よりさらい低いですね。
比較に、冬月を入れました、かなり北寄りから上り、中天高く登る月です。

隠居

そうですか。
 夏の月御油より出でて赤坂や
これは、延宝期の芭蕉句。夏月は、出てすぐ沈む。
御油宿と赤坂宿は、宿間距離16町、1.7キロと短いのが、句の視点。

書生

「かたつぶり」の句、須磨と明石は、カタツムリの角の間で、数ミリ。こちらの勝ちです。

この夏月は、夜11時に、真東の大坂よりずっと南の、岸和田辺りから出ます。
真南に来るのは3時44分。日の出が4時52分ですから、既に薄明が始まり、星が消えつつあるころですね。
芭蕉が見た夜空の月は、せいぜい3,4時間。4時20分には有明状態。
⑨ 月はあれど留守のやうなり須磨の夏
⑩ 月見ても物たらはずや須磨の夏

何か肝心なものが見られないという、物足りなさは、
 ・ 細りつつある姿。
 ・ 月の低さ。
 ・ 見られる時刻の遅さ。
 ・ 見られる時間の短さ。
と、 いろんなことが重なってのことではないでしょうか。

隠居

加えて、昼に遺跡を巡り、平家一門の滅亡の様を目の当たりに見、声や音も聞こえた体験。

書生見たのは消えゆく様であり、消えたので、須磨にはもう何もないということですか。
隠居だが、秋ならどうか。秋なら何かあるのではないかというのが、次の文。
書生⑪、「かかるところの秋なりけり」とかいうが、この浦の本質的な姿は、秋を旨とするはずだ。悲しさや淋しさは言うまでも無く、秋でありさえすれば、いさでも心の一端をも、句や文章にできると思うのであるが、それは、我が才の乏しさを知らないままということか」。
隠居

「かかるところの秋なりけり」は、源氏物語の一節。
「源氏物語」の須磨の巻に、「またなくまたとなくあはれなるものは、かかるところの秋なりけり」とあります。
「もののあはれ」は、紫式部の真骨頂。
「またとなくあはれ」というのは、「もののあはれ」の最上級ですな。
その「またなくあはれなるもの」とは、行平の歌に「関吹き越ゆる」とある「須磨の波音」のことです。

書生

行平の歌の波音、須磨の関を越える風の波音でしたか。
でも、芭蕉が、白波に聴いた音は水底にある愁いの音でしたが。

隠居

この「もののあはれ」は、松風村雨の住む北の多井畑から、須磨の関を越えてしまう風の波音ととらえなければ、感じ取れません。
そんなことは、芭蕉も承知で、須磨の波音に「もののあはれ」を聴きにきた。
でも、聞こえるのは愁いのみ。
秋なら違って聞こえるだろうか、自分の問題だろうかと、内省に向かうしかありませんな。

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笈の小文、 4月20日深更、須磨3「蛸壺」

隠居

芭蕉は、明石に泊まっていないのに、
「明石夜泊」として、「蛸壺や」句を残している。
これは、笈の小文の謎の一つ。
わしは、泊まったのは蛸だと思うので、疑問は感じませんがな。

罫線

貞享5年4月20日、須磨3


  明石夜泊

⑫ 蛸壺やはかなき夢を夏の月

書生この句の前後は、須磨の文で、不自然なところにありますね。
隠居

泊まったのは芭蕉たちと読むから、そうなりますな。
前書きが猿蓑にあるものと一致するので、乙州が挿入したのではないかという説が出てくるわけです。
しかし、「明石夜泊」という前書きを付けたのは、芭蕉であることには変わらぬわけです。

書生

「須磨夜泊」なら問題はないのに、須磨でなく明石としてあるのは?

隠居

まず、明石は、
 ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれゆく船をしぞ思ふ (古今集、伝人麻呂歌)
これ以来の歌枕であるし、また源氏物語との関連も深いので、芭蕉は明石の句を詠みたかったのでしょう。
次に、明石は、蛸壺漁発祥の地で、水揚げ高も多く、蛸と言えば明石となる。

書生

蛸の句である以上、明石となると。
ここは、「よどまり」でなく「やはく」ですよね。夜泊は、「夜、船を泊めて寝る」ことでした。

隠居

「よどまり」ではありません。ものの本に「夜泊まりは、廓に泊まること」と書いてありましてな。やはり「やはく」がよろしかろう。

書生「明石夜泊」は虚構ですね。
隠居

「須磨の浦伝ひして、あかしに泊まる。そのころ卯月の中半なかばにやはべるらん」という詞書きがあるらしい。文末に「らん」とり、芭蕉の書いたものでないと分かる。
「明石夜泊」の4文字を、だれかが推量しつつ書き換えたものに過ぎない。
「浦伝い」では船で行ったことになってしまう。
芭蕉の詞書きには、こだわりがある。
「明石夜泊」、これを書き換えてはいけない。
「明石夜泊」は、「楓橋夜泊」のもじり。文学的虚構です。
右が、張継の唐詩、七言絶句。

唐詩、楓橋夜泊
書生

「月落ち烏啼いて、霜天に満つ。/江楓漁火、愁眠に対す。/姑蘇城外、寒山寺。/夜半の鐘声、客船に到る。」
これは、高校で習いました。

隠居

まさに南船、蘇州運河の船旅。
愁眠は、愁いで眠られぬこと。 蛸壺の句と気分が通います。
「明石夜泊」とすることで、この唐詩の世界と重なってくる。そんな工夫が、詞書きにあります。

書生「はかなき夢」からは、一炊の夢を連想しますが。
隠居

盧生、黄梁の夢ですな。
この句だけ味わうと、そんな解釈もできるが、笈の小文の中で読むと違ってこような。

書生平家一門の栄華の夢でしょうか。
隠居

成る程な。
でも、この蛸が芭蕉自身だとすると、……

書生

ああ、伊麻の衝撃。
「面白きもをかしきも、仮の戯れにこそあれ、実の隠れぬものを見ては、身の罪数へられて、万菊も、暫く落涙抑へかねられ候ふ」と、猿雖あて書簡にありました。
「面白きもをかしきも、仮の戯れ」は、俳諧のことです。
そのあと、当麻寺、誉田八幡など何か所か巡っても、句は出ない。
7日後の一笑亭の興行で、やっと句が出ますが、歌仙は24句で止めて未完。
この須磨泊も、伊麻に会ってまだ十日ほどです。
この風雅のに身をやつす慚愧の念を基調に、先ほど須磨の月に「ものたらはず」と感じ、「秋なら違って聞こえるだろうか、自分の問題だろうか」と内省し、気分も沈潜しています。

隠居

うむ。唐詩にある「愁眠」状態の中、壺に入った蛸が浮かんできます。
この壺が、俳諧です。
その壺に入り込んで、はかない夢をおのれは見ているだけとつながって、句ができる。

書生

気づいたが、やはり句は出てくるわけですね。
まさに、ど壺はまり。

隠居あのなあ。
書生

まとめると、
 ・ 「明石泊」も「夜泊」も虚構だが、「蛸壺や」句に、この4文字は欠かせない。
 ・ 「蛸壺や」句は、「明石夜泊」の詞書きを付けて味わいが深まる。
 ・ 詞書きも句も、芭蕉の愁いをとらえる上で、笈の小文に必要である。
と、いうことですね。

隠居文学的真実、「明石夜泊」は、まさにそれです。
書生嘘はいけないと言われれば、「泊まったのは蛸じゃ」で、解決します。

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笈の小文、 4月20日(21日への夜明け)、須磨4「須磨の曙」

隠居

芭蕉は、物足りぬ夏の月を見、愁いで眠れぬ短い夜を過ごし、夜明けを迎える。
陰暦では、日の出まで日付は同じ。 日の出は、4時52分。
右の文はその1時間ほど前か。

罫線


貞享5年4月20日、須磨4

 
⑬ 卯月中頃の空も朧に残りて、
はかなきみじか夜の月もいとど艶なるに、
山はわか葉にくろみかかりて、
時鳥ガ啼き出づべき東雲(しののめ)も、
海の方よりしらみそめたるに、
上野とおぼしき所は、
麦の穂なみあからみあひて、
漁人の軒ちかきけしの花の、
たえだえに見わたさる。
 
⑭ 海士の顔先みらるるやけしの花

書生

⑬、「4月中ごろの空もおぼろげに残って、はかない短か夜の月も大変風情があり、山は若葉でくろみがかって、時鳥が鳴き出すはずの東雲も、海の方よりしらみ初めたときに、御所のあった高台の上野と思われるところは、麦の穂なみが丁度色付いて、漁師の家の軒近いけしの花が、とぎれとぎれに見渡される」 。
20日は、中旬ですか。

隠居

11日から20日までが中旬。
日の出まで、4月20日ですな。

書生⑭、「海士の顔ガ先ず見らるるや。けしの花。 けしの花:初夏」
隠居

けしの花は、虞美人草とも言われるヒナゲシかな。
4片の薄い花びらで、赤・ピンク・白・絞りなどがある。

書生

日の出前、先ず漁師が起き出してきました。
日焼けをした精悍な漁師とけしの花の対比でしょうね。

隠居⑬の文がないと、曙の景色とは分かりませんな。
書生須磨に着いて先ず見たとも受け取れますね。
隠居

いや、須磨かどこかも分からんでしょうな。
でも、「先ず」があるので、この句は最後に置きづらいなあ。

書生行程に沿って読むと、この句が最後になりますね。
隠居最後には置けん。
書生それで、入れ換えましたか。
隠居

そうですな。
この講読は、京都までの旅と、笈の小文にかかわる芭蕉の足跡を見て終わります。従って、次に箕面の段が来ます。

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笈の小文、「須磨」のまとめ
line

笈の小文、「須磨」

隠居行程順に見てきたが、ずっと読み通したときどうだろう。
書生では、行程順に入れ換えます。
須磨(行程順の本文)
段落区分本文(行程順に並べ替え済み、丸数字は原文の順)備考
須磨 須磨
風土⑤ 東須磨西須磨浜須磨と三処にわかれて、あながちに何わざするとも見えず。藻塩たれつゝなど歌にも聞え侍るも、今はかゝるわざするなども見えず。きすごといふ魚を網して、真砂の上に干ちらしけるを烏の飛来りてつかみ去ル。これをにくみて弓をもておどすぞ、海士のわざとも見えず。↑ 
「一ノ谷」へ
⑦ 須磨の海士の矢先に啼やほとゝぎす
鉄枴⑥ もし古戦場の余波をとゞめて、かゝる事をなすにやと、いとど罪深く、なを昔の恋しきままに、てつかひが峰にのぼらんとする。導びきする子のくるしがりて、とかくいひまぎらはすを、さまざまにすかして、麓の茶店にて物くらはすべきなどいひて、わりなき体に見えたり。かれは十六と云けん、里の童子よりは四つばかりも弟なるべきを、数百丈の先達として羊腸険岨の岩根をはひのぼれば、すべり落ぬべきことあまたたびなりけるを、つつじ根笹にとりつき、息をきらし汗をひたして、漸雲門に入こそ、心許なき導師の力なりけらし。
眺望⑫ 淡路島手にとるやうに見えて、須磨明石の海右左にわかる。呉楚東南のながめも斯る処にや。物しれる人の見侍らば、さまざまのさかひにも思ひなぞらふるべし。
⑧ 時鳥きえゆく方や島ひとつ
⑬ 又うしろの方に山を隔てて、田井の畑と云処、松風村雨のふるさとといへり。尾上つづき丹波路へかよふ道あり。
懐古⑭ 鉢伏のぞき、逆落など、おそろしき名のみ残て、鐘掛松より見下に、一の谷内裏やしき目の下に見ゆ。其代のみだれ、其時のさわぎ、さながら心にうかび、俤につどひて、二位の尼君皇子をいだきたてまつり、女院の御裳に御足もたれ、船屋形にまろび入らせ給ふみありさま、内侍局女嬬曹子のたぐひ、さまざまの御調度もてあつかひ、琵琶琴なんどしとね蒲団にくるみて、船中になげ入、供御はこぼれてうろくづの餌となり、櫛笥はみだれて、海士の捨草となりつつ、千歳のかなしび、此浦にとゞまり、素波の音にさへ愁おほく侍るぞや。
須磨寺⑨ 須磨寺やふかぬ笛きく木下闇
夏月(須磨の夏)
「夏の月」へ
① 月はあれど留守のやうなり須磨の夏
② 月見ても物たらはずや須磨の夏
感想⑪ かかる処の秋なりけりとかや、此浦の実は秋を宗とするなるべし。悲しさ淋しさいはんかたなく、秋なりせばいささか心のはしをも、云出べきものをとおもふぞ、我心匠の拙きをしらぬに似たり。
(明石)蛸壺 明石夜泊
「蛸壺」へ
⑩ 蛸壺やはかなき夢を夏の月
須磨(須磨の曙)
「曙」へ
③ 卯月中頃の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとど艶なるに、山はわか葉にくろみかゝりて、時鳥啼出づべき東雲も、海の方よりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂なみあからみあひて、漁人の軒ちかきけしの花の、たえだえに見わたさる。
④ 海士の顔先みらるるやけしの花
行程順にした本文について
書生これは、いいですね。つながりも自然で、すっきりと読めます。
隠居

すんなりと入るな。
⑪の文「かかるところの秋~」の収まりもよい。
でも、笈の小文を締めくくるには、原文のまま⑭がくるほうが、はるかによいな。
「先づ見らるるや」の句で終わるのは、何とも尻切れとんぼ。

書生

編集の意図が見えてきます。
敦盛の文が、入らなかったのでしょうか。猿雖あて書簡にある「あはれなる中に、敦盛の石塔にて、泪をとどめ兼ね候ふ」で、始まる文章ですが。

隠居

入れるとしたら、⑭の後になるじゃろ。⑭は、締めの文、悲しみの焦点が分散するのを避けたわけです。

書生原文のままの順で、⑨の前ならいいのではないでしょうか。
隠居

そうですな。吹かぬ笛句の詞書き程度にな。
「かたつぶり角ふりわけよ須广明石」
この句も省略されておるが。

書生

須磨明石の境ですね。
この文脈の中で、入る余地はないかと。

隠居

そうですな。入らんな。
乙州の編集では、行程が分かりにくくなるが、味わいは深いということだな。
⑪の文と蛸壺は、気になるが。

書生明石夜泊の4文字も、「蛸壺や」句も、意味が分かれば外せません。
隠居

そういうことで。

書生では、いよいよ京への道ですね。

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笈の小文、講読の振返り
 
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11 須磨(・明石)
書生

明石は、一歩踏み込んだくらいですから、括弧書きです。
兵庫宿からの足跡、猿雖あて書簡にある訪問地をすべて入れました。

隠居

ご大儀。

書生

月見ても物たらはずや須磨の夏
この句は、どんな月を芭蕉が見たのか明らかにし、鑑賞できました。

隠居

計算、ご苦労。

書生

「明石夜泊」、この夜泊。「船の中に泊まること」でした。
「蛸」が蛸壺という「潜水艇」に「泊まった」のだというのは、斬新な解釈です。

隠居

言葉通りに読むとそうなる。

書生

須磨の段落を、行程順に読んだのが面白い経験でした。

隠居

普通はせんが、この講読の筋ですからな。

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  ---笈の小文講読ページの解説---