笈の小文 箕面(幾田~箕面~京、附:杜国)

笈の小文 索引
序文序章鳴海保美熱田伊賀伊勢吉野高野奈良須磨箕面旅後
笈の小文 高野 索引
原文旅の結び旅程旅の後「須磨~西宮~山崎~京都」
講読資料4月21日、須磨から西宮宿までの経路・足跡
4月22、23日、西宮宿から京までの経路・足跡4月23日~、京の宿
杜国資料杜国の動向 貞享5年4月24日~5月10日4月24日付 杜国の猿雖宛書簡
5月4日 芭蕉、杜国らと観劇5月上旬、杜国との別れ

資料「杜国」 索引 (別ページ)
杜国資料杜国略歴杜国略年譜
講読資料「笈の小文」、その後の杜国4月24日、杜国から猿雖への書簡
5月4日、杜国と観劇5月上旬、杜国との別れ
その後の杜国元禄3年1月、杜国の安否
杜国哀悼の句文元禄3年4月6日~7月26日、幻住庵の芭蕉、写経をする
元禄4年4月28日、杜国の夢


須磨の後 箕面、京


 「笈の小文」は21日の日の出前、20日の須磨の曙で終わるが、笈の小文には、「布引の滝」「箕面の滝」が記述されている。したがって、「笈の小文終焉の地」は、箕面と言うことができる。
 その後、京都へ至り、杜国と別れ、岐阜・大津・名古屋への旅に出る。
 このページでは、芭蕉の足跡を追うとともに、杜国のその後や芭蕉とのかかわりをたどる。


笈の小文

旅の結び

段落区分笈の小文、本文備考
摂津 滝津国幾田の川上に有

※ 吉野のページから移動
→ 4/21 西宮への足跡へ

布引の滝
大和大和

※ 吉野のページから移動
→ 4/22 京への足跡へ

箕面の滝
勝尾寺へ越る道に有

笈の小文、旅の後「須磨~京都」

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隠居

京都に行き、更級紀行の旅に出るまで数か月。
その間、美濃、大津、名古屋、鳴海と移るので、行程や足跡もその区切りに従い、笈の小文にかかわることに絞る。

書生

その前に、どこまでが笈の小文の旅でしょう。
ちなみに、修学旅行などは、校長先生が「おうちに着くまでが修学旅行です。気を付けて帰りましょう」とおっしゃいますが。

隠居

本文の末尾は、須磨の曙じゃが、本文には、「箕面の滝」が記述されておる。
猿雖あて書簡で、訪問先の名所旧跡一覧を見ると、旅自体は京都までとなるな。

書生

笈の小文の旅ではないけれど、旅は続くと。

隠居

さよう、京都まで。ここがおうちとしよう。

書生

須磨を出たのが21日。この日からいつまでですか。

隠居

京に入るのが23日じゃが、猿雖あて書簡の日付は25日なので、まずこの日まで。


旅程 貞享5年4月21日~25日、須磨~西宮~山崎~京都
<足跡>事項移動逗留宿所移動左累計
貞亨5421

<須磨-山陽道→良将楠が塚→河原太郎兄弟塚→人丸塚・小野坂→乙女塚→布引の滝→西宮宿>
須磨の曙をもって、笈の小文終結。

山陽道西宮宿28.2 1,534
貞亨5422

<西宮宿-山崎街道→箕面の滝→勝尾寺→郡山宿>

山崎街道

郡山宿

33.5 1,567
貞亨5423

<郡山宿-山崎街道→能因法師塚→金竜寺→宗鑑屋敷-西国街道→京の宿>

西国街道

京の宿

36.2 1,603
貞亨5424

杜国、猿雖あてに手紙を書く。

京の宿

- 1,603
貞亨5425

芭蕉、猿雖あてに手紙を書く。(杜国連名)
芭蕉、卓袋あてに手紙を書く。

京の宿

- 1,603

 ※ 宿場は推測。京の宿は、去来の嵯峨野別亭と推定。

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笈の小文、旅後の足跡「須磨~西宮宿~郡山宿~京の宿」
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4月21日、須磨から西宮宿までの経路・足跡

隠居須磨から西宮までの足跡

須磨の曙で、笈の小文の旅を終え、山陽道を西宮宿に向かいます。
良将楠が塚は、湊川神社にあり、太平記の時代。楠正成の働きは、鎌倉幕府を倒す契機となりました。
河原太郎兄弟は、関東の武将で源氏方。生田の森の戦いで、先陣を切って討ち死にしました。生田の森は、生田神社境内。塚は神戸開港の際ならされ、三の宮神社境内に移されています。
生田小野は、秋風の名所。生田山から海にかけて、新旧生田川に挟まれた一帯の名称です。若菜摘みの名所でもあり、謡曲「求塚」は、菟原処女うないおとめの亡霊が生田の小野で若菜摘みをします。
生田小野坂は、天井川であった旧生田川を、東側から越える街道の小坂。平家の時代、小野坂に関が設けられています。
人丸塚は、生田神社境内にあり、柿本人麻呂を祀っています。詳しいことは知りません。
布引の滝は生田川上流の歌枕。笈の小文本文に、この滝の名が記されています。
乙女塚は、謡曲「求塚」に登場する菟原処女の塚。その伝説は万葉歌にあります。
芭蕉たちは、これらを巡り、西宮宿で泊まったと推測します。

書生

猿雖あて書簡の訪問先リストを見ましょう。
滝は、箕面の滝を残すのみとなりました。
古塚も能因法師塚を残すのみですが、記述の順が気になりますね。
兼好塚、歌塚までは訪問順、能因法師塚は最後。

罫線

貞享5年4月25日、猿雖あて書簡 抜書
 
テ 廿一日、布引の滝にのぼる。


ミ 滝の数七つ
竜門 西河 蜻めい 蝉 布留 布引 箕面
シ 古塚十三
兼好塚 哥塚 乙女塚 忠度塚 清盛石塔 敦盛塚 人丸塚 松風村雨塚 通盛塚 越中前司盛俊塚 河原太郎兄弟塚 良将楠が塚 能因法師塚
ヱ 峠六つ
琴引 臍峠 野路 小仏峠 くらがり峠 当麻 岩や峠 樫尾峠
ヒ 坂七つ
粧坂 西河上 ぢいが坂 うばが坂 宇野坂 かぶろ坂 不動坂 生田 小野坂
モ 山峯六つ
国見山 安禅岳 高野山 てつかいが峰 勝尾寺の山 金龍寺の山

隠居

兼好塚、歌塚が既に記録してある懐紙に、須磨の旅で訪れた塚を思い出しながら、一気に書いたということですな。
西宮の宿で、訪れたばかりの乙女塚を先ず書きます。そして、この二日間に訪れた先を思い出しながら、「良将楠が塚」までを書いたということです。
で、最後に、京で能因法師塚を追加した。
 
とすると、人丸塚は生田の人丸神社に決まります。
櫟本の人丸塚なら、歌塚と並べで書いていなければなりません。
もっとも、「哥塚 人丸塚」となっていたら、吉野の人丸塚や、葛城柿本神社の墓と区別が付かなくなりますが。

書生吉野にありましたか。
隠居

はい、人丸塚は金峰山寺の近くにあります。芭蕉たちが吉野山に来ている以上、ここに来ていないという証明はできません。人麻呂を祀ったとは言えないらしいですが、名称は「人丸塚」。
葛城の新庄にある柿本神社、ここにも墓があり、人麻呂の命日には祭りをするそうです。ここに、耳成から竹内へ行く途中、立ち寄っていないとも言えません。約3キロの遠回りになるだけですからな。

書生

この旅で立ち寄っているのが、
・ 和爾下神社近くの歌塚で、同じ所にある人丸塚
しかし、猿雖あて書簡のリストに、「哥塚」と離して書いてあるので、ここではないでしょう。
先にご隠居がおっしゃいましたが、今ある歌塚の碑は、芭蕉訪問の44年後、人麻呂の塚の上に建てられています。歌塚と人丸塚と二つあったのではなくて、一つの塚が歌塚とか人丸塚とか呼ばれていたわけです。
従って、ここであれば、「歌塚 人丸塚」とか「人丸塚 歌塚」のように、どちらかが小文字で書かれるはずですね。
また、立ち寄った可能性があるのは、
・ 吉野山金峰山寺近くの人丸塚
・ 葛城の柿本神社、人麻呂の墓
・ 生田神社内の人丸神社
で、いずれも否定できませんが、明石城の人丸塚、人丸神社は除外されます。

隠居

然り。敦盛塚から明石郡には1,2歩入ったが、垂水を越えて3里も離れた明石城までは、行けませんからな。
もし行ったとしても、明石の人丸塚は城内にある。坤櫓ひつじさるやぐらのほとりです。庶民は城内に入れませんから、いかんともし難い。
塚は、墳丘のみならず、墓石や塔、御霊を祀る社なども含むと解釈できます。
行程上無理がないことと、猿雖あて書簡、訪問先一覧の配列から、生田にある人丸神社と推量しただけのことです。

書生

おっと、ご隠居。
訪問先リストは、すべて行程順ですよ。
先ほどの古塚ように、まとまりとしてとらえると、そうなります。
滝は、吉野へ行く途中「蝉、西河、蜻めい」の順に訪れていますが、この三つはまとめて書いたので順が変わったわけです。まとめたところを、中点「・」でつないで示します。
・ 滝 …… 竜門→[西河・蜻めい・蝉]→布留→布引→箕面。
古塚も一応示しておきます。
・ 古塚 …… 兼好塚→哥塚→[乙女塚・忠度塚・清盛石塔・敦盛塚・人丸塚・松風村雨塚・通盛塚・越中前司盛俊塚・河原太郎兄弟塚・良将楠が塚]→能因法師塚
まとまりでとらえれば、峠・坂・山峰は、それぞれ行程どおりの順です。

隠居

成る程、そうなっておりましたか。
宿で、行程ごとに書き足したことがわかりますな。
乙女塚から楠が塚まで、まとまりになっていることは、須磨の宿で記録しなかったことを示しています。その夜は、懐旧・悔悟・夏の月などに浸っていたわけですからな。

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4月22、23日、西宮宿から京までの経路・足跡

隠居

西宮宿から京までの足跡

西宮宿から山崎街道で京に向かう。
途中、山道に入り、名瀑箕面の滝みのおのたきを見物。
「笈の小文」に書かれた地名としては、ここが最終ですから、旅の終焉の地と見ることができます。
勝尾寺かつおうじ、一ノ谷の戦いのあおりで焼失したが、頼朝の命で、熊谷直実らが再建しました。
この寺には、法然が晩年に滞在しています。
勝尾寺の山を下り、山崎街道に戻って郡山宿辺りに泊まります。
郡山は、本陣、脇本陣も置かれ、当時栄えていた茨木の宿場。ここでの一泊は、単なる推量。
能因法師は、高槻の古曽部に住み、古曽部入道とも称しました。塚はその古曽部にあります。
金竜寺こんりゅうじは、その近く。
山歩きの人の残り火で燃えてしまったのは、記憶に新しい。と言っても、30年以上昔ですが。今は跡を残すのみです。
宗鑑の屋敷跡はして、山崎の地に現存します。山崎宗鑑は俳諧の祖。宗鑑は、晩年の二十数年を讃岐の一夜庵で過ごし、天文22(1553)年、没。89歳。

書生

これで、滝・古塚・山峰も、すべて出ました。
猿雖あて書簡は、詳しいですね。

罫線

貞享5年4月25日、猿雖あて書簡 抜書


ア 山崎道にかかりて、能因の塚・金龍寺の入相の鐘を見る。
サ 「花ぞちりける」といひし桜も、若葉に見へて又をかしく、
キ 山崎宗鑑屋敷(待月庵)、近衛殿の、宗鑑が姿を見れば「餓鬼つばた」と遊ばしけるを思ひ出でて、「有がたき姿をがまんかきつばた」と心の内に言ひて、
ユ 卯月廿三日、京へ入る。


メ 三月十九日ニ伊賀上野を出でて三十四日、道のほど百三十里、此ノ内船十三里、駕籠四十里、歩行路七十七里、雨にあふ事十四日。
 
ミ 滝の数七つ
竜門 西河 蜻めい 蝉 布留 布引 箕面
シ 古塚十三
兼好塚 哥塚 乙女塚 忠度塚 清盛石塔 敦盛塚 人丸塚 松風村雨塚 通盛塚 越中前司盛俊塚 河原太郎兄弟塚 良将楠が塚 能因法師塚
ヱ 峠六つ
琴引 臍峠 (野路)小仏峠 くらがり峠 (当麻)岩や峠 樫尾峠

ヒ 坂七つ

粧坂 (西河上)ぢいが坂 うばが坂 宇野坂 かぶろ坂 不動坂 (生田)小野坂
モ 山峯六つ
国見山 安禅岳 高野山 てつかいが峰 勝尾寺の山 金龍寺の山

隠居

「サ」の「花ぞちりける」は、新古今の、
 山里の春の夕暮きてみれば
    入相の鐘に 花ぞ散りける

のこと。
この桜は、能因桜と呼ばれていたそうです。
入相の鐘は晩鐘のこと。
 
「キ」は、書いてあるとおり、宗鑑が痩せていたので「かきつばた」を「餓鬼つばた」と詠んだわけ。
風狂人にふさわしい姿とみて、「有りがたき姿」と、芭蕉は詠みました。
 
「ユ」にあるとおり、4月23日に京都に着くことが分かる。
この書簡のお蔭ですな。
で、「メ」の日数や距離は、合っていましょうかな。

書生

3月は小の月で、29日が晦日つごもりです。
出発の3月19日から29日までで11日間。
到着の4月23日までで、4月は23日間、足して34日間。なんと、ぴったり合います。
旅程表の移動距離累計は、江戸深川からです。
伊賀上野を立つ前日までが、960.4キロメートル。
京都到着が、1603.2キロメートル。その差が、杜国との旅で、642.8キロメートルです。
「メ」に、「百三十里」とあります。
1里は、3.927キロメートル。換算すると、510.5キロメートルになります。
約130キロ少ないという結果です。

隠居

まあ、貴殿は見物先までの距離を、こまごまと入力したし、芭蕉は宿間の概数を足したと思えば、さほどの違いはないでしょう。
また、その130里の内訳が書いてあって面白いですな。
船13里、駕籠40里、歩行路77里を足すと、見事130里であるな。

書生

伊賀上野からですから、船は尼崎・兵庫間の渡海船だけですね。
尼崎・兵庫間は、10里もなさそうですが。

隠居

だから、小型渡海船の「浦伝ひ」。そんな程度でしょう。

書生

駕篭40里ですか。歩行77里の約半分ですね。全体の三分の一が駕篭ということになります。
これは意外。
駕篭は、竹内から誉田八幡だけだと思っていました。

隠居

所々で駕篭を使ったのでしょう。馬だとまた落ちます。

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4月23日~、京の宿

隠居

京都の滞在先は、卓袋あて書簡をもとに推量しました。

罫線

貞享5年4月25日、卓袋あて書簡


① 大坂へ十三日に着き候ふて、十九日ニ発足、久左衛門方に逗留いたし候ふ。
② もっとも狭ばくやかましく、逗留の内さてさて難義、ざつと大坂にて大事の旅の興ヲ失ひ申し候ふ。
③ 気づまり候ふて、方々見物に出で候ふ。
④ 若(もし)は、貴様ガ御越成さるべきかと、愛宕(あたご、神社)は、<端午の>節句過ぎまで残し置き申すべく候ふ。
⑤ 去り乍ら、人を待ちて約束は違ひ候へば、興を失ひ、力を抜かし候ふ故、御出でとは存ぜず候ふ間、もっとも成り合ひに成さるべく候ふ。
⑥ 大方は節句過ぎ、七日八日までは逗留致すべく候ふ。
⑦ 先日、大坂よりも書状をもって申し進じ候ふ。
⑧ 奈良にて遊興、誠に旅中の慰み、与兵(利雪)・貴様、御ン物入りト推量いたし候ふ。
⑨ 猶ホ追って具にこれを申し進ずべく候ふ。
⑩ 到着いまだ間も御座なく候ふ故、早々申し残し候ふ。
⑪ 与兵衛殿・権左衛門(示蜂)殿へ然るべく御ン意得(こころえ、=心得)成され下さるべく候ふ。
⑫ 又々伊賀衆(いがしゅ)なつかしく罷り成り候ふ。以上

 卯月廿五日        芭蕉桃青 書判
卓袋丈


⑬ 尚々、奈良墨屋も大坂にて見舞ひ申され候ふ。留守にて遭ひ申さず候ふ。道々言ひ出だし語り出だし笑ひ申し候ふ。


「旅寝論」去来


一とせ、
 一昨日はあの山越つ花ざかり 去来
と云句を作したるとき、
「この句、今はとる人もあるまじ。なほ、二、三年早かるべし」
となり。
その後、吉野行脚の帰りに、立寄り給ひて、
「日々、汝が『あの山越つ花盛』の句を、吟行し侍りぬ」
と、語り給ふ。

書生

①②は、大坂のページで読みましたね。
③、「退屈なのであちこち見物に出ています」。
④、「ひょっとして、あなたがお出でになるかと思って、愛宕神社へ行くのは、端午の節句、五日過ぎまで残しておきます」と。

隠居

その愛宕神社、近いので当然行くべきところだが、卓袋が来たら一緒に行こうということで、残してありますよと読む。
で、愛宕山に近いところに逗留しておると推量したわけ。

書生とすると、嵯峨野の落柿舎。
隠居

庵と言うか別宅というか。まだ、落柿舎という名ではなかったが、貞享2年にできました。その年末、去来は深川へ行っています。このとき入門したのでしょう。従って面識もありました。
芭蕉の来訪は、去来も書き残してあるだろうと、探したら、ありました。

書生「旅寝論」、「吉野行脚の帰りにお立ち寄りになって」。
なるほど。
隠居

④の節句は、端午。節句は当時の休日で、いわゆる節句休み。年末年始の二季のほか、五つの節句ごとに決算をします。
だから、「今は節句前で忙しいだろうが、節句休みにはお出でなさい」ということだな。
嵯峨野の愛宕神社は、全国千近くある愛宕神社の総本社。標高約900メートル、愛宕山の山頂にあるため、参拝には往復4、5時間かかる。

書生

⑤は、「無理強いするわけではないから、お出でと決めたわけでもありません。あなたもなりゆきに任せてください」と、配慮もしますが、
⑥、「大体は節句過ぎ7、8日まではここにいます」と、期限を切り、婉曲に強制しています。

隠居

9日以降は、どこかへ行くことが決まっていたわけですな。
これは、また後で。

書生

この書簡で、利雪・示蜂が卓袋に近い人物と分かりますね。

隠居

いろんな情報が込められていますな。

書生猿雖あて書簡で、梅軒が猿雖に近い人物と分かったはずなのに、気づきませんでした。
隠居

さて、次は杜国について整理しよう。

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笈の小文と杜国

隠居

杜国は、5月上旬まで京にいる。

書生

まず、京での動向ですね。

隠居

24日、猿雖に手紙を書いている。この日から、杜国が発つ5月10日までにしよう。

杜国の動向 貞享5年4月24日~5月10日、京都
<足跡>事項移動・逗留宿所移動
貞亨5424

杜国、猿雖あてに手紙を書く。

京の宿

-
貞亨5425

芭蕉、猿雖あてに手紙を書く。(杜国連名)
芭蕉、卓袋あてに手紙を書く。

京の宿

-
貞亨5426

 

京の宿

-
貞亨5427

 

京の宿

-
貞亨5428

月末、卓袋からの書状を携え、宗無が来る。

京の宿

-
貞亨5429

月末、卓袋あて返信を書く。 

京の宿

-
貞亨551

 

京の宿

-
貞亨552

 

京の宿

-
貞亨553

 

京の宿

-
貞亨554

人に誘われて、歌舞伎見物。

四条河原

京の宿

20.6
貞亨555

歌舞伎で見た若衆方、吉岡求馬(よしおかもとめ)が急逝。
花あやめ一夜に枯れし求馬哉

京の宿

-
貞亨556

 

京の宿

-
貞亨557

 

京の宿

-
貞亨558

 

京の宿

-
貞亨559

 

京の宿

-
貞亨5510

このころ杜国が伊良湖へ戻る。

旅の宿

-
貞亨55

帰途、伊賀に4,5日逗留。

猿雖邸

-

※ 旅を終えたので、移動距離累計を省略。以下杜国に関した略歴。

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4月24日付 杜国の猿雖宛書簡

隠居

杜国が猿雖あてに書いた手紙。
杜国の人柄を垣間見ることができる。

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貞享5年4月24日、杜国の猿雖あて書簡


① 奈良の別れの悲しさ、腸はらわたを断つばかりに覚え申し候ふ。そこ元、御無事に御座候ふや。

② 私共も大坂を十九日に出で、廿一日に須磨・明石思ひのままに一見、桃青老も達者にて、鉄枴が峰まで分け登り、一の谷の崩れも見るやうに覚え、
敦盛の塚にまゐりては、各々こたへられず、泣き申し候ふ。

③ 其の夜須磨に一宿も、うれしき一つに存じ奉り候ふ。

④ 此のおもしろさ、御物がたり申さでは、と御ゆかしく御座候ふ。

⑤ 今市村の伊麻にも、会ひ申し候ふ。

⑥ 伊麻が庵の煮茶しゃちゃ、胸を清め申し候ふ。

⑦ 大坂にて例の墨屋訪ね<来たり>申し候ふ。

⑧ され共ども<我々ガ>留主のときにて、うれしく存じ奉り候ふ。

⑨ 宿に居申し候はば、又々なぶり申さるべきものをと、残り多くも御座候ふ。

⑩ そこ元、さればあやしの御うなり、御精出だし申し候ふよし、をかしく候ふ。

⑪ なにとぞ御上京あれかし。一うなり承りたく候。

⑫ 漸くゆびを折りて見申し候へば、百三十里ばかりの旅、
されども両人共に無事に見めぐり候ふこと、ありがたきことに候ふ。

⑬ 猶ほ此の末は、姨捨・更級・武蔵野・富士までも、安く見めぐり候ふ様にと、祈るばかりに御座候ふ。一笑。

  以上

   卯月廿四日     万菊市助

  惣七様

  人々御中

書生

これも長文ですね。
②、「21日」は、「20日」が正しいかと。
③、「須磨の一宿もうれしいことの一つ」、
④、「この面白さは語ってお聞かせしたいと言うと、お聞きになりたいと思われるでしょう」と、
気を持たせ、京に誘っていますね。

隠居

多分、明石夜泊の蛸壺じゃないかな。風狂の極みじゃ。
②で、「須磨明石を思ひのまま」と、あるのもおかしみのあるところ。

書生

明石は一二歩思いのままでしたし、夜は蛸壺に入るわけですからね。
⑤の「今市」は、竹の内と勘違いですね。

隠居

いや、晩年の伊麻は、今市で暮らしています。
今市には、話に出た弟の家がありました。
竹の内の東隣の集落です。
伊麻は、こちらから出向いたのでしょう。

書生

⑧⑨は、例の墨屋が登場します。
よほどおかしな人だったんでしょうね。
⑩、「聞くところによれば、義太夫のお稽古に精をだされているとか、心ひかれます」、
⑪、「京へぜひお越しいただき、ひとうなりしていただきたい」というのは、からかっているかのようです。

隠居

「あやしの御うなり」とあるから、完全になぶっておる。
まあ、旦那芸程度で、人に聞かせる謡はできんがな。

書生

⑬は、今後の芭蕉の予定ですが、「一笑」とは何でしょう。
まさか大坂の一笑ではあるまいと。

隠居

その名を借りて、「お笑いください」程度の書き添えだな。
尺牘語としては、他に「爲一笑耳」「發千里一笑」「得一笑」がある。

書生

差し詰め、メールで、<笑>とか、(^o^)とか、にこにこ画像 を付けるようなノリですね。
軽いですねえ。

芭蕉は、杜国の影響で軽みに目覚めたのでしょうか。

隠居……

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5月4日 芭蕉、杜国らと観劇

隠居

節句休みの4日、人に誘われて歌舞伎見物。
四条河原町へ劇と踊りを見に行きました。
落柿舎辺りから四条河原町までは、東へ約10キロ。結構ありますな。

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「蕉翁句集」


俗士にいざなはれて、五月四日、吉岡求馬を見る。
五日はや死すと聞きて。
 花あやめ一夜に枯れし求馬哉

書生

「俗士にいざなはれて」とありますが、俗士というと見下した感じがします。

隠居

風流を解さない人じゃなくて、門弟など俳諧関係ではない、世間一般の人の意味ですな。

書生

はあ。
求馬は役者ですね。

隠居

若衆方わかしゅがたという、美少年役。
歌舞伎には、ほかに、立役・敵役・道外どうけ(道化)・若女方などがある。
多分初代の求馬で、この貞享4,5年は、早雲座はやくもざに出ていたという記録がある。
京都の河原町には、七つの芝居小屋がありましたが、早雲座はその一つです。
今残るのは南座だけですな。

書生

はあ。
求馬は、見た翌日に亡くなったが、その追善の句。
【花菖蒲(はなあやめ)。一夜に枯れし求馬(もとめ)かな。 花菖蒲:仲夏】
「菖蒲は、端午の節句の花。その日の前日、もとめという菖蒲は枯れてしまった」、ですね。

隠居

然り。

書生

たまたま、こういうことがあったということですね。

隠居

芭蕉が猿雖に書いた「生死事大無常迅速、君忘るる事なかれ」を、二人が実感する機会となりましたな。

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5月上旬、杜国との別れ

隠居

5月5日以降の上旬ですから、9日までに杜国出立。伊賀を経由し、伊良湖へ向かいます。

2月3日、芭蕉に再会してから、90日以上同行したことになります。

京から保美の図
当時、鳥羽港伊良湖港間の航路はない。

書生

京の宿からは、嵐山、松尾、上鳥羽と、桂川に沿って下り、伏見、宇治をかすめて木津川へ。

木津川を東にさかのぼり、笠置経由で、伊賀上野に至ります。

伊賀上野を通るのが、伊勢への最短経路です。

隠居

斜めに向かって伊勢へいくか。なるほど、最短経路。

伊賀上野に寄るのは、書状などを届けるのに都合いいですな。

これ、竹人の「芭蕉翁全伝」、いい加減なところがあって、何なんですが、「猿雖がやどに四、五日の足休して、六月廿五日美濃に帰る」とありましてな。

「猿雖がやど」と、「4、5日」は採用できます。竹人は伊賀上野の人で、土芳の弟子だから、資料を見ているだろうと、一応尊重します。6月は5月の誤りでしょう。「美濃」とあるのは、杜国への配慮ですかな。二月の記録は、「美濃杜国伊賀に来り」としてあり、一貫している。

書生

伊賀上野からは、新大仏を経由して久居、そして大湊へ。阿保あお宿を経由しても距離は変わりません。
京から大湊まで40里。160キロの道のりで、通常4泊はします。猿雖亭逗留を加えると、7、8泊です。

大湊からは船で伊良湖の中山港へ。当時伊良湖岬に港がなかったのは、伊勢の項で見たとおりで、中山港に違いありません。
そこから保美へはわずか一里です。

神島鳥羽・伊良湖航路の中程。南に神島が見える。

隠居

うむ。5月9日に京を発ったとして、19日までには大湊に着くでしょう。竹人の「6月25日」を5月と読み替えてもいささか合いません。大湊で日和待ちしていたのでしょうかな。

資料「それからの杜国」へ続く。

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資料「杜国」 索引
杜国資料杜国略歴杜国略年譜
講読資料「笈の小文」、その後の杜国4月24日、杜国から猿雖への書簡
5月4日、杜国と観劇5月上旬、杜国との別れ
それからの杜国元禄3年1月、杜国の安否
杜国哀悼の句文元禄3年4月6日~7月26日、幻住庵の芭蕉、写経をする
元禄4年4月28日、杜国の夢

 



笈の小文、講読の振返り
 
lineline
12 箕面(幾田~箕面~京、附:杜国)
書生

須磨の後、京までの足跡が詳らかになりました。

隠居

然り。
ただ、乙女塚は二つあって、どちらかという点には触れなかった。近くにあるからどちらでもよかろうと案配したわけでな。
猿雖宛書簡の訪問先一覧が、訪問順であったのには、驚いたぞよ。
重畳である。

書生

はあ、行く先々で追加するのではなく、宿でまとめて書くのが道理ですからね。
また、普通は、須磨が結びの地とされますが、本文の滝づくしに、箕面の滝が書いてありました。
行程順に見れば、簑面が最終地ということになります。

隠居

笈の小文の旅としては、そうじゃな。
されど、小学校では校長先生が、「おうちに着くまでが修学旅行です」と言うんじゃったな。
で、去来のお家に着いて、杜国が保美に帰るまでを見たわけじゃ。

書生

そして、杜国没後の芭蕉の動向も見みました。

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  ---笈の小文講読ページの解説---