笈の小文 旅後(京~岐阜~大津~岐阜~名古屋、附:乙州)

笈の小文 索引
序文序章鳴海保美熱田伊賀伊勢吉野高野奈良須磨箕面旅後
笈の小文 高野 索引
旅程旅後の芭蕉須磨~西宮~山崎~京都大津・瀬田・岐阜・名古屋
動向5/3頃 北向雲竹訪問5/9~12 芭蕉「蛍の句」
5月中旬、岐阜の己百5月下旬から6月5日、大津尚白亭
6月8日、十八楼6月中旬、落梧別亭6月中旬、庄屋松橋邸・己百亭
6月17日、荷兮・越人らと寸木亭訪問6月18日、鵜飼い見物
6月19日、芦文発句の五十韻・関の惟然7月3~6日、蓬左(名古屋)の荷兮
7月7日、鳴海の知足7月15日以後、名古屋島田町で静養、長虹亭の会

資料、「乙州」へ


旅の後


 簑面を経て京へ着いて後、杜国が保美に帰り、芭蕉は岐阜・大津・名古屋への旅に出る。
 このページでは、更科紀行の旅に出る前の、芭蕉の足跡を追うとともに、岐阜・大津・名古屋の門人との交流をたどります。
 また、乙州とのかかわりをまとめ、乙州編集の謎に迫ります。


笈の小文、旅後の芭蕉

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隠居

さて、話を、笈の小文の旅から帰ったばかりの4月に戻して、芭蕉と門葉たちのかかわりを見ましょう。
4月25日付、卓袋あて書簡に、
 「大方は節句過ぎ、七日八日までは逗留」
と書いています。
よって、「9日あたりから予定があった」と推定できます。

書生

芭蕉の予定は何でしょうか。

隠居

須磨の浦の月はお留守のようでしたから、姨捨・更科の月が心に掛かります。
2月中旬杉風宛書簡に「卯月末、五月初めに帰庵致すべく候ふ。木曽路と心がけ候」
とありましたが、その時期では、またお留守かも知れません。

書生

学習しましたね。5月初めの帰庵は既に無理で、五月雨の月になりますし。

隠居

無月も風流ですが、残念を重ねても無風流です。
時期的には、「五月雨に鳰の浮巣」が丁度よろしい。梅雨入りは?

書生

近畿の梅雨入りと。
太陽暦の平年6月7日、貞享5年は5月10日になります。

隠居 
書生


芭蕉の予定に合わせてでしょうね。杜国は5月10日ごろ、保美に向けて出立しています。


旅程 貞享5年4月21日~25日、須磨~西宮~山崎~京都
<足跡>事項移動逗留宿所移動
貞亨5421

<須磨-山陽道→良将楠が塚→河原太郎兄弟塚→人丸塚・小野坂→乙女塚→布引の滝→西宮宿>
須磨の曙をもって、笈の小文終結。

山陽道西宮宿28.2
貞亨5422

<西宮宿-山崎街道→箕面の滝→勝尾寺→郡山宿>

山崎街道

郡山宿

33.5
貞亨5423

<郡山宿-山崎街道→能因法師塚→金竜寺→宗鑑屋敷-西国街道→京の宿>

西国街道

去来別亭

36.2
貞亨5424

杜国、猿雖あてに手紙を書く。

去来別亭

-
貞亨5425

芭蕉、猿雖あてに手紙を書く。(杜国連名)
芭蕉、卓袋あてに手紙を書く。

去来別亭

-
貞亨5426

 

去来別亭

-
貞亨5427

 

去来別亭

-
貞亨5428

月末、卓袋からの書状を携え、宗無が来る。

去来別亭

-
貞亨5429

月末、卓袋あて返信を書く。 

去来別亭

-
貞亨551

 

去来別亭

-
貞亨552

 

去来別亭

-
貞亨553

北向雲竹を訪問。

東寺観智院

京の宿

10.0
貞亨554

人に誘われて、歌舞伎見物。

四条河原

去来別亭

11.0
貞亨555

歌舞伎で見た若衆方、吉岡求馬もとめが急逝。
花あやめ一夜に枯れし求馬哉

去来別亭

-
貞亨556

卓袋を待つ。

去来別亭

-
貞亨557

卓袋を待つ。

去来別亭

-
貞亨558

卓袋を待つ。

去来別亭

-

 ※ 以上再掲。

旅程 貞享5年5月9日~8月11日、瀬田・岐阜・大津・名古屋
<足跡>事項移動逗留宿所移動
貞亨559

瀬田の蛍を見に行く。

瀬田

瀬田の宿

25.6
貞亨5510

 

瀬田の宿

-
貞亨5511

 

瀬田の宿

-
貞亨5512

 

瀬田の宿

-
貞亨5513
前後

己百に誘われて瀬田を発つ。
・二吟二句

杜国、水口経由で帰途に着く、伊賀上野に4,5日逗留。

中山道

宿場

-
貞亨5515
前後

岐阜の日蓮宗妙照寺へ着く。

中山道

岐阜妙照寺

103.5
貞亨5517

去来の妹、15日に婚家で逝去。芭蕉、美濃から追悼の句を贈る

岐阜妙照寺

-
貞亨5518

岐阜から大津の尚白亭へ。

中山道

宿場

107.0
貞亨565

・十吟歌仙
「鼓子花の短夜ねぶる昼間哉」

大津奇香亭

大津の宿

-
貞亨566

<大津宿-草津宿-守山宿-武佐宿-愛知川宿>
大津から岐阜へ向かう。愛知川宿泊と仮定。

中山道

愛知川宿

41.4
貞亨567

<愛知川宿-高宮宿-鳥居本宿-番場宿-醒井宿-柏原宿-(近江・美濃の境)-今須宿-関ヶ原宿-垂井宿-赤坂宿>
岐阜へと向かう。美濃赤坂宿泊と仮定。

中山道

美濃赤坂宿

47.5
貞亨568

<赤坂宿-美江寺宿-稲葉山西加島亭-妙照寺>
岐阜に着き、長良河畔、賀島善右衛門邸訪問
・十八楼の記
※この日が小暑前日で、仲夏最終日。

加島亭

岐阜妙照寺

21.6
貞亨56

・二吟二句(落梧との付合)
「山かげや身を養む瓜ばたけ」
※落梧が、周辺の案内・自己紹介など。岐阜滞在の早期と推定。

稲葉山
落梧亭

岐阜妙照寺

-
貞亨56

庄屋松橋喜三郎邸訪問
「城跡や古井の清水まづ訪はん」
※再三の招き。早めに訪問と推定。

稲葉山
松橋邸

岐阜妙照寺

-
貞亨5617

・六吟六句(名古屋の荷兮・越人、岐阜の落梧・己百を伴い、近郊の寸木亭を訪問)
「どこ までも武蔵野の月影涼し 寸木」

地蔵寺

岐阜妙照寺

12:2
貞亨5618

・鵜飼いを見物
「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」
※荷兮、越人も同行。

落梧亭
近く

岐阜妙照寺

-
貞亨5619

・十五吟五十韻(荷兮・越人、関の惟然らが加わる)
「蓮池の中 に藻の花まじりけり 芦文」
・二吟二句(惟然と)
「見せばやな茄子をちぎる軒の畑」

妙照寺

岐阜妙照寺

-
貞亨5620

※荷兮・越人が名古屋へ帰ったと推定。

岐阜妙照寺

-
貞亨57

1か2

・三吟三句(荷兮・落梧)
「蔵のかげかたばみの花めづらしや」
※一日か二日に、荷兮が迎えに来たと推定。

落梧亭

岐阜妙照寺

-
貞亨573

名古屋円頓寺(えんどうじ)に行く。

名古屋の宿

33.4
貞亨578

・三吟六句
「よき家や雀よろこぶ脊戸の粟」

鳴海知足亭

鳴海知足亭

14.0
貞亨5710

・七吟歌仙
「初秋はうみやら田やらみどりかな」

鳴海重辰亭

鳴海知足亭

-
貞亨5714

14日まで鳴海に滞在。

 

鳴海知足亭

-
貞亨5715~

15日以後、名古屋島田町の借家で8月上旬まで療養。
同じく15日以後、京都へ行く野水を見送る。
「見送りの後ろや寂し秋の暮」

島田町の
借家

13.5
貞亨5720

・七歌吟仙
「粟稗にとぼしくもあらず草の菴」

名古屋長虹亭

島田町の
借家

-
貞亨58

越人を伴い岐阜へ行く。

岐阜街道

岐阜妙照寺

34.1
貞亨5811

越人と更科紀行の旅に出る。

中山道

-

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旅後の動向
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北向雲竹訪問

書生こう申しては何なんですが、奈良のページで、雲竹を訪れるとか何とか。
隠居おお、失念しており申した。
「其の後芭蕉翁は、此の村を去りて、余所を周遊し、貞享五年四月、京都に行きしとき、其の友北向雲竹といふ書家に会ひて、竹の内の孝女のことを語られば、雲竹大きに感じて、画工友竹を竹の内へおこせて、伊麻が肖像を写さしめ、雲竹事跡を記して嘆賞せり」
とありましたな。
書生いつでしょうか。
4月は、26・27日。5月は1~3日が空いてますね。
隠居さて。
嵯峨野滞在と仮定していますから、4月26・27は無理でしょう。
雲竹は、「東寺観智院」の僧です。
東寺までの距離は。
罫線

貞享5年4月末、推定卓袋あて書簡


① 飛脚便並に宗無老御越之節、御状、忝く拝見致し候ふ。
② 二十五日立ちの飛脚に、書状を以て之を申し進じ候へば、もはや別条御座無く候へ共、発句等御見せ、其上いよいよ其元なつかしく候ふ故、又此の如くに御座候ふ。
③ 京滞留、両人にては物たらず候ふところに、宗無老御越し、大悦浅からず存じ候ふ。
④ 貴様、其元御仕舞ひ明け候はば、節句過ぎ早々、あたご参り成さるべく候ふ。
⑤ 方々見物は致し候へ共、あたごは、一所一緒に御出もあるべきかと、残し置き申し候ふ。
⑥ 尚々 一庵老よりも、又々御状申し下し候へ共、先書御報申し上げ候ふ間、此度其儀なく候ふ。

書生10キロ丁度です。
隠居ちと行き来するには無理があります。
③に「滞留」とあるのは、移動していないということ。「両人にては物たらず」は、変化がなかったことですな。
24日に、京到着の書簡を送ったのは伊賀上野だけではありません。
近江・岐阜・名古屋・江戸にも出しているでしょう。
書生はい、返信待ちの時期であったと。
では、5月1から3日と。
隠居でしょうな。
中でも3日、翌日は四条河原町です。東寺から近いでしょう。
書生4.0キロです。
では、旅程表を修正します。

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芭蕉「蛍の句」

この蛍田毎の月にくらべみん / 目に残る吉野を瀬田の蛍かな
書生今更ですが、芭蕉の蛍句、気になったので、時期を調べました。
琵琶湖周辺では、守山が新暦5月中下旬、瀬田・西浅井・米原が6月上旬から中旬にかけてです。
6月下旬に見られるのは、標高の高い大石竜門辺りとなります。
罫線

「三つのかほ」 越人撰
  木曽路の旅を思ひ立て
  大津にとどまるころ、
  先づ瀬田の蛍を見に出て
 此ほたる田ごとの月にくらべみん 翁


真蹟詠草
  ほたる
 目に残る吉野を瀬田の蛍哉


「いつを昔」 其角撰
 草の葉を落るより飛ぶ蛍哉 翁

隠居陰暦で言うと?
書生貞享5年は、「5月4日から23日」が、新暦の6月上中旬に当たります。
隠居何を言いたいのか、有り体に申されよ。
書生芭蕉句のような蛍の盛りは、その中程、旧暦5月8日から18日の間に迎えるかと思う次第で、従って、そのころに瀬田に行っておるやと。
隠居ん?そう言えば、……
これこれ、「伊勢参宮名所図会、桜谷」。「桜谷」は「さくなだり」の転訛、唐橋近くです。
「北瀬田の橋、南は供御ぐこの瀬まで、およそ二十五丁がその間を群り飛ぶ事十丈ばかり衆星の光にまがふ」とな。「空に集まりては飛び、水上、人家の軒までもひとへに白昼のごとし」。
うむ、「芒種の後五日より、夏至の後五日に至るまで、およそ十五日の間を盛りなりとす」。
いや面目ない、歳を取るとな。ちゃんとあり申した。
書生いやいや。
この年の芒種は旧暦5月8日ですから、蛍の盛りは13日から29日となります。
しかし、現在のデータは、新暦6月20日、夏至の前日までですから、期間が長すぎですね。
隠居そう書いてあるわけです。
蛍は、夏至から下流に移りますな。
「夏至をすぎて、小暑の節に至れば川下へくだり、宇治橋の間、盛りなり」とあります。
考えてみれば、17日に岐阜にいて、そのあと大津に戻っても蛍は見られそうです。
しかし、洛西から岐阜へ行って、その後瀬田に行くという計画は、ちと考えにくい。岐阜は木曽路への当初からの計画ではありませんな。
五月雨の唐橋、瀬田の蛍、鳰の浮巣を見たから、岐阜へ行くことにしたのでしょう。
大津へ戻ったのは、たまたま、事があったからですな。
書生結局、そこですか。
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋
隠居そこである。初めに大津行きがあった。
8日までは、卓袋を待つから、瀬田に行くのは、9日以降ですな。
 五月雨に隠れぬものや瀬田の橋
雨では蛍、飛びませんから、少なくとも2日は瀬田にいて、盛りを迎えることになる。
落柿舎から瀬田の唐橋までは。
書生25.6キロです。徒歩5時間半ですね。旅程表を直します。
隠居杜国も同行しますな。大津から伊賀上野に行くのは、「野ざらし紀行」のように、水口経由が最短です。旅程表の修正は、このページと杜国のページだけでよろしい。

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岐阜、大津、名古屋、鳴海の門弟
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5月中旬、岐阜の己百

隠居

瀬田へ、岐阜から己百きはくが来て、上手に誘ったようですな。

書生

予定には、なかったのですか。

しるべして見せばや美濃の田植歌 己百
隠居

嵯峨野の去来別亭に、岐阜から再三連絡が来ていたので、瀬田へ行くことを連絡してありますな。
岐阜の己百は、稲葉山の麓、日蓮宗妙照寺の住職。
落梧、蕉笠と、岐阜へ行く約束は、もう前年末に名古屋でできていたとは言え、いつ行くかは約束していません。落梧は商人で、店を空けるわけにはいかないから、代理に己百を寄越したのでしょう。
お誘いの、付合、二吟二句を味わいましょう。

書生

「笈日記」の詞書きに、
 「所々見巡りて、洛(京)に暫く旅寝せしほど、美濃の国より、度々消息ガ有りて、桑門(僧籍)己百の主、道標(みちしるべ)をせむと、訪ひ来はべりて」
とあります。
ということは、京都に迎えに行ったことになります。
 しるべして見せばや美濃の田植歌 己百
 笠あらためむ不破の五月雨    芭蕉

不破の関は、美濃国関ヶ原にあり、3年前に訪れていますね。
旅の支度をするという脇は、いわゆる二つ返事。

不破

貞享2年9月、「野ざらし紀行」の旅、
秋風や薮も畠も不破の関

隠居

京への滞在は当初から8日までの予定であり、蛍の時期を逃さず瀬田へ出向いたわけです。詞書きには省略されたとしましょう。

書生

先に名古屋で、落梧は越人から誘い方を聞いていて、己百に伝授したのでしょうね。
「芭蕉先生、連衆が毎度私を責めます。すぐ来られないなら、瀬田へ押しかけるそうです。私はひたすら留め置いていますが」などという次第。
瀬田から岐阜は、104キロ。普通は、二、三泊の旅になります。

無き人の小袖も今や土用干
隠居

さて、何日に瀬田を出たかですな。手掛かりはわずかです。
この5月15日、去来の実妹千子ちね、婚家で逝去。享年28、9歳ですな。去来は38歳。
 もえやすくまた消えやすき蛍かな 千子辞世
 手の上に悲しく消ゆる蛍かな   去来

知らせを受けて、芭蕉は、5月17日、美濃から追悼の句を贈る。
  千子が身まかりけるをきゝて、
  美濃の国より去来がもとへ、
  申しつかはし侍りける
 無き人の小袖も今や土用干 (猿蓑、巻之二)

書生千子と面識はありましたか。
隠居貞享3年の冬から翌4年仲春にかけて、去来が江戸へ来ましてな。「伊勢記行」の草稿を見てもらったようです。この記行は、貞享3年8月下旬、去来と千子が伊勢参りしたときの記録で、芭蕉が跋を書いています。だから、俳人としての千子は知っていました。
「笈の小文」の旅が、4年の初冬で、落柿舎着が翌5年4月ですな。
面識はさて。
そう言えば、京滞在中、去来の影が見えません。千子の病状が思わしくなく、去来はそちらにかかり切っていたのでしょうかな。
書生

なるほど。
まず、手掛かりとして、「15日逝去」があります。それまでに芭蕉は京を発っていたことが分かります。実際は瀬田に行ってましたが。
17日の追悼句で、芭蕉はその日、連絡を受けたこと、岐阜にいたことが分かります。
岐阜への出立を、5月13日とすると、2泊なら15日着、3泊なら、16日着となります。
取りあえず、13日前後としましょう。

隠居

うむ。
この5月に、落梧の句が見当たりません。落梧が招いたのに妙ですな。
落梧の子が亡くなりますが、己百が芭蕉を迎えに出、帰るまでの間に亡くなったとすれば、了解可能です。

書生

では、僧侶の己百も忙しいですね。

隠居

まあな。落梧は芭蕉の歓迎会を催すどころではない。
「十八楼の記」には「仲夏」とあるので、この時期のものであれば、収まりもよいのですが、落梧の子や千子が亡くなってすぐですからな。

書生

「皆涼し」では、文字通り涼しい顔ですからね。

隠居

鵜飼などは、以ての外ですな。
芭蕉は、後日出直すことにしたでしょう。

書生

では、「18日」に修正します。
岐阜にいたのは3、4日間ですね。
大津は桝屋町の尚白亭として、距離110キロ、二泊三日の旅。21日の到着です。

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5月下旬から6月5日、大津尚白亭

ひるがおの短夜眠る昼間かな
隠居

「野ざらし」のとき、貞享2年春3月、大津の「千那・尚白・青亜」が入門しています。大津へ来たかったのでしょう。
貞享4年夏の芭蕉句に、
 五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん
がありましたな。鳰の海とは琵琶湖のことです。「吉野の花」、「須磨の月」もありますが、「五月雨の鳰の浮巣」もこの旅の目的と言ってよいでしょう。
近江では、医師江左尚白やその弟子たちと交流しつつ、句を残しています。
  大津にて
 世の夏や湖水を畳む波の上    井狩昨卜亭
  五月末、ある人の水楼にのぼる
 海は晴れて比叡降り残す五月かな 苗村宰陀亭
  涼み
 夕顔や秋はいろいろの瓢かな   苗村宰陀亭

近江出立の前日、6月5日には歌仙を巻きます。

書生

発句は、芭蕉ですね。
 鼓子花ひるがおの短夜眠るねぶる昼間かな 鼓子花:仲夏
連衆は、「芭蕉、奇香、尚白、自笑、通雪、松洞、宣秀、江山、官江、一竜」と、あります。

隠居

大津の連衆ですな。官江は千那の別号。一竜は膳所の商人。

書生

おや、自笑の名が。
鳴海の知足が放った刺客。また芭蕉を連れてこようと目論んでいたわけですね。

隠居

出羽守氏雲ですか。
しかし、加賀の山中やまなかにも自笑がいますし、大津に同号の別人がいたかも知れません。

書生

はあ。

隠居

これは、芭蕉送別の会。
瀬田・大津滞在中に、8句残していますが、これは極めて多い数です。
近江湖南の風土を愛した証しのひとつでしょう。

書生

鳰の浮巣が見当たりません。

隠居

もちろん見ていますが句は詠みません。
ほら、吉野の花は口を閉づ、布留の滝は言葉なし、須磨の月は留守。これぞ風雅の極み。

書生

はあ。

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6月8日、十八楼

書生

翌日6日、また岐阜へ向かいます。

昼顔に昼寝せうもの床の山
隠居

6日、大津を出発し、愛知川宿辺りで泊まる。
7日、彦根の手前で、句を詠む。
 昼顔に昼寝せうもの床の山
床の山は、鳥籠山とこやま(鍋尻山)のことです。
李由の寺へ寄らぬ言い訳の句で、東に鳥籠山、西に李由の住む平田の集落を眺める中間地、中山道大堀で詠んでいます。
「泊船集」に、「大堀より李由が方へ文通にて」とあって、詠んですぐ、送付したようです。

明照寺
李由の寺、彦根の妙法山明照寺(めんしょうじ)

書生

「名にし負う、床の山。李由のところで、昼寝をしたいものだが……、残念ながら寄ることはできません」と、これは見事な言い訳ですね。

隠居

建部綾足(涼袋)の「芭蕉翁頭陀物語」に、面白い話があります。
芭蕉は、松陰で憩いつつ、乞食僧の昼寝を眺めて「昼顔に」の句を詠んだのじゃが、その僧、目を開けたり閉じたりしつつ、鼾をかいておる。芭蕉が昼げの飯を与えると、「露となる浮き世を旅のままならば いつこも草の枕ならまし」と、和歌を上手な字で書いた。

書生

「何処も」と「菰草」を掛けてますか。

隠居

芭蕉は感心し、「汝に路通という名を与へん。汝に我が頭陀を隠すことなし」と言って、弟子にしたそうじゃ。
「露」にちなんで「露通」であったが、「露沾公」に遠慮して「路」にしたようです。

書生

あの路通ですか。はあ、……
しかし、ご隠居の「路通略歴」を見ると、「野晒の旅の芭蕉に入門」となっておりますが。

隠居

実際はそうでしょう。貞享2年3月、「野ざらし紀行」の折、大津辺りで知り合った「蛭が小嶋の桑門」が、尾張熱田まで慕ってきた。それが、路通ですからな。

書生

はあ、……

隠居

これは、芭蕉没後57年、路通没後13年に上梓された、題の通り単なるお話。
しかし、この貞享5年9月、芭蕉が戻った芭蕉庵に、路通は姿を現します。路通は、芭蕉の動向をどこかで知り、江戸で芭蕉を待ったわけです。これは、事実。

「更科紀行」旅後のページ、十日の菊

この日は、今須峠・関ヶ原を越え、美濃赤坂辺りで泊まる。

書生

美濃赤坂から岐阜へは、20キロくらいです。
昼頃には到着します。

十八楼 / このあたり目に見ゆるものは皆涼し
隠居8日の昼には、岐阜に到着しますな。
昼下がりでしょう。長良川舟運の拠点、中河原にある、油商賀島善右衛門の別邸に招かれます。
善右衛門の俳号は鴎歩おうほ
翌元禄2年の「阿羅野」に数句入選。
画面中央奥に長良橋が見えますが、そこから300メートルほど下流の左岸駐車場で写したものです。
ここに、鴎歩の別邸がありました。
水楼に上れば眼下に長良川、後ろに金華山。
芭蕉は、360度の絶景を眺めて、「十八楼の記」を書き残しています。

水楼跡地
十八楼のあった場所から撮影

書生

「阿羅野」ですか。鴎歩の句は6句あります。
 折るときになりて逃けり花の枝 / 鷹据て折にもどかし梅の花
梅はいいが、桜を折ってはいけません。
 引くいきに後へころぶ柳かな
柳まで折ろうとして、引っ張ったところ転びました。

隠居実に風流ですな。
書生

十八楼は、今はないんでしょ。ご隠居は行かれたとか。

隠居

いや、水楼はないが、その近くに「十八楼」という旅館があります。万延元年創業の老舗。
宿の名は、天保期に水楼を再建し、屋号を十八楼としたのが始まりです。
「このあたり目に見ゆるものは皆涼し」の句碑があって、1階待合の席から、ガラス越しに見ることができます。

十八楼

また、ここには手湯があってな、手を温めれば体も温まる。長良橋を渡って、石金旅館の足湯に入れば疲れも取れる。手と足が浸かれば、なぜか全身入った気分になる。しかも、無料で嬉しいかぎりである。
で、十八楼の待合には、壁一面に十八楼記が掲げてあって、これは壮観であります。

書生

<十八楼の記>

十八楼の記

美濃の国長良川に望みて水楼あり。あるじを賀島氏と言ふ。
稲葉山(岐阜城がある)、後ろに高く、乱山(山並み)両に重なりて、近からず又遠からず。
田中の寺は杉のひと群に隠れ、岸に沿ふ民家は竹の囲みの緑も深し。
晒し布ガ所々に引き映へて、右に渡し舟浮かぶ。
里人の行き交ひしげく、漁村軒を並べて、網をひき、釣<糸>を垂るるをのがさまざまも、ただこの楼をもてなすに似たり。
暮れがたき夏の日も忘るるばかり、入り日の影も月にかはりて、波にむすぼりしかがり火の影もやや近く、高欄のもとに鵜飼ひするなど、まことに目ざましき見ものなりけらし。
かの瀟湘の八つの眺め、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひためたり。
もしこの楼に名を言はむとならば、「十八楼」とも言はまほしや。

                   はせを
 このあたり目に見ゆるものは皆涼し
 貞享五仲夏


芭蕉は、目で涼しさを味わい、瀟湘八景と西湖十景を足して十八楼の名称が生まれましたか。入り日・月・かがり火、夕暮れまで眺めたと分かります。

隠居

日付、貞享5年仲夏とありますな。
「仲夏」は、二十四節季の「小暑前日」までです。この年の小暑は?

書生

すぐ出ますので、お待ち……
陰暦6月9日です。

隠居

うむ。
では、十八楼の記は、岐阜に到着した8日に決まりますな。仲夏最後の日です。
大津での歌仙「鼓子花の」の巻。この詞書きには「元禄元歳戌辰六月五日會」とある。
「元禄元」とありますが、6月はまだ「貞享五」です。9月末日元禄に改元だから、それ以後の清書です。
ともかく、5日は大津で歌仙を巻いているから、大津出立は6日以後ですな。また、岐阜到着は仲夏の日なので、8日まで。
つまり、出立から到着までは、6、7、8 の三日に限られることになり、大津・岐阜間の110キロという距離を勘案すれば、6日出発、8日到着しかない訳です。

書生

はい。旅程表もそうします。

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6月中旬、落梧別亭

もろき人にたとへん花も夏野哉 / 埋火も消ゆや涙の烹ゆる音
隠居

芭蕉が落梧に対面したのはいつか分かりませんが、追悼の句として、
 もろき人にたとへん花も夏野哉
 埋火も消ゆや涙の烹ゆる音

が、あります。

書生

夏野に花がないように言葉もないと。
あれ、「埋み火」は冬ですよ。

隠居

三冬ですな。

山陰や身を養はん瓜畠
隠居

また、稲葉山西麓、落梧の別亭で句を贈っています。
  落梧なにがしのまねきに応じて、
  稲葉山の松の下涼して、
  長途の愁をなぐさむほどに
 山かげや身を養む瓜ばたけ  芭蕉
  石井の氷あらふかたびら  落梧 ※「石井の水に」

どう味わいますかな。

書生

はい。
詞書きは、「落梧某の招きに応じて、稲葉の山(金華山)の松の下で涼んで、長い旅路の心身の疲れをほぐしなぐさめているとき」、
発句は、「瓜が植わっていますね。ここに滞在するうち頂いて、体力を付けたいものです」で、
脇は、「夏の単衣ものを、きれいな水で洗うころです」と応じています。

隠居

その発句の訳は、
 山かげに身を養むまくわ瓜
のものですな。
そもそも瓜畑は、「日当たり・水はけ・風通し」がなければなりません。山かげに瓜畑があろうはずもない。

書生

おや。まさか。

隠居

「今は山かげだが、瓜畑よ身を養おうではないか」とな。
書いてあるとおりに読む。

書生

へえ。
脇は?

隠居

「服喪の帷子を脱いで洗う」とな。
書いてあるとおりに読む。

書生

へえ。

隠居

三七日も済んでおりましょう。

書生

へえ。
その句碑は、伊奈波神社にありますね。
句碑をまとめたサイトに、
「山かげや身をやしなはむ瓜ばたけ……安川落梧に案内されて伊奈波神社を訪れた帰り道、近くの浄土院で催された句会で詠まれた句といわれている」
とあります。

隠居

詠んだのは、稲葉山麓にあった落梧の別邸。岩波の連句集にも、「落梧庵」とある。ここは、鵜飼いの始まるのを待った場所だから、長良川に近いところです。
「いつ」かだが、到着した日ではない。十八楼の記に、夕景の描写があるから、後日のこととみるのが普通。やりとりの内容から、到着した翌日とみるのが順当ですな。
ほかに、落梧が「瓜畠集」の草稿を遺し、支考が笈日記に転載している。自句を割愛した以外、詞書きも真蹟懐紙のままである。
「泊船集」や「いつを昔」の詞書きは、「美濃に入て」とあるのみ、と。
蝶夢の「芭蕉翁發句集」は、「秋芳軒宜白のまねきに應して」とあるが、後年のまとめだからこんなところか。
「宜白(ぎはく)」は「己百(きはく)」のこと。妙照寺の住職な。己百の招きに応じて「岐阜へ行った」わけだから、誤りとは言えぬが、ここだけを見て妙照寺で詠んだと勘違いされそうですな。
どうも、妙照寺ならともかく、わしの資料では、伊奈波神社で詠んだとか、浄土院で俳諧の席をもったとか、たどれぬのじゃが。
それに、句を詠んだのは「稲葉の山の松の下」で、「稲荷山」と「伊奈波山」の谷にある伊奈波神社とは、とうてい思えません。
はて、さて。

書生伊奈波神社

裏付けのないことを言ってしまって、相済みません。
もう少し裏を取ってみます。……ネットですが。
う~ん。「伊奈波神社へ芭蕉を案内しての帰途、その麓の閑静な浄土院で俳筵を開き、旅情をなぐさめ」と書いているサイトは、先ほどの「真蹟俳諧の詞書き」を挙げています。これではお手上げです。
 
ちなみに、伊奈波神社は、妙照寺から約800メートル。当時の浄土院はその麓で、今の大泉寺の近くです。
今浄土院は、そこにありません。その縁起によれば、明治維新後、南方約1キロ先に移転しています。

隠居

柳ヶ瀬に近いな。行かざるはなるまい。
当時の浄土院は、ひょっとして、落梧の家、安川家の菩提寺であったかも知れん。芭蕉を、美濃の三の宮である伊奈波神社へ案内し、浄土院で墓参をする。

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6月中旬、庄屋松橋邸・己百亭

城跡や古井の清水まづ訪はん
書生

「庄屋、松橋喜三郎邸」を訪問とあります。
  喜三郎何某は稲葉山の麓に閑居を占めて、
  納涼のために、度々招かれ侍りしかば、
 城跡や古井の清水まづ訪はん (真蹟懐紙)

「度々招かれ」てですから、岐阜へ来て5、6日たったころでしょうか。

隠居

そう。到着後、何日かしての訪問です。
この地の有力者の屋敷で、妙照寺の東隣にあります。すぐ行けるのに、遠慮したのでしょうな。
「城跡や」の句碑は、ロープウェイ乗り場の北側あたり。三重の塔まで石段を登らぬと見られぬので諦めました。
 
時に、芭蕉の宿、己百の妙照寺、泊まった部屋が残されているそうです。
ここの「やどりせむ」の句碑は、本堂前にあって、間近に見られます。

妙照寺

宿りせん藜の杖になる日まで
書生

7月1、2日まで滞在しています。

隠居

「笈日記」に、その句が記されている。
  其の草庵に日比ひごろありて、
 宿りせん。藜あかざの、杖になる日まで

「日頃ありて」だから、5月でなくて、この6月のことですな。
アカザの杖は、軽くて中風の予防になるとされる。ごつごつして、手のひらに刺激があるのがいいのかな。去年腰痛のとき買おうと思ったが、4万もして買えん。
結局100円均一の杖になった。先端にゴムもついておるが、消耗品。ついでにと、替えゴムをと買ったら100円。
ゴムだけでも100円だ。杖を2本買えばよかったと後悔した。
未だに悔しい。

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6月17日、荷兮・越人らと寸木亭訪問

書生

さて、17日の六吟六句に荷兮・越人もいて、名古屋から来ていたことが分かります。

 どこまでも武蔵野の月影涼し   寸木
  水相ひ似たり三またの夏    芭蕉

連衆は他に、荷兮・越人・落梧・秋芳(己百)。未完の、表六句です。

隠居

「一葉集」の詞書きに、「林鐘(陰暦6月)十七日」とあって日付が決まります。
神山寸木は、岐阜郊外、折立三ツ又にある地蔵寺の僧。
芭蕉は、その地名を聞き、脇に、江戸三つ股の地名を入れました。

書生

「水相ひ似たり」が分かりません。何と何の水が似ているのでしょうか。

隠居

芭蕉庵のあるところが、「三つ股」。隅田川と小名木川とが合流するところですな。寸木のところは、伊自良川と新堀川ですか。それが、合流して、長良川へとそそぎますな。

書生

川でしたか。

隠居

句碑は、寸木の子が48年後の元文元(1736)年に建てたもの。円柱形の古い句碑で、二本立て。由来もあれば銘もある。そこらの句碑とは違います。一見に値するものです。

三また句碑

地蔵寺と道を隔てた西側に「芭蕉公園」があります。
時に、距離は?

書生

己百亭から西北に約6キロ。近いですね。

隠居

うむ。句碑の銘に「翁来遊」とありました。号に「木」を用いるのは、やはり木因ゆかりでしょうかな。大垣の手前、美濃赤坂で泊まったのも木巴亭です。


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6月18日、鵜飼い見物

書生

さて、鵜飼い見物は、翌18日になります。
荷兮・越人も一緒に鵜飼いを見物し、句を詠んでいますから、この日です。
ですが、ネットには、「十五夜の前後七日間は鵜飼いは行われない」とありまして、この夜は満月の二日後で、無理かと。

隠居

長良川では、十五夜もやってますな。仲秋の名月以外は。

書生

しかも、「岐阜県史」による情報だそうであります。

隠居

なになに。
「五月五日より正式に鵜飼が始まるので芭蕉を招待し、五月十一日までに鵜飼を見せた」とな。
なんじゃ。「5月5日開始」は、新暦の日付ですぞ。旧暦ではありません。

書生陰暦ですね。貞享5年は、4月6日になります。この日、立夏です。
隠居ほら、とっくに始まっていましょう。
で、県史にあるのは、長良川でも、ここではなく、もっと下流ですな。
それがし、月の晩、石金大広間の窓から見たことがあって言うておる。
わしを疑うなら、例の何で月を調べなされ。今すぐ。石金ホテルと長良川パークホテルを結んだ線、川の真ん中から金華山を眺め、月を出してみなされ。
書生

おっと。はい。

鵜飼いの月

ライカ判10mm超広角レンズで描画しました。実際にはもっと山が迫っています。

隠居

芭蕉たちは、右手の川岸、金華橋のたもと辺りから見たそうじゃ。
当時は金華橋はなかったから、橋のたもとでは見られぬといわれそうだがの。
どうじゃ。橋がどうこうではなくて、このあたりの長良川左岸なら、名月でも山影に入りましょう。
わしは、右岸から見たが山影であった。

書生

恐れ入りました。なんと金華山が月を隠してくれるわけですね。
18日は、鵜飼いが済んでから月が出ますから、全く問題ありません。

又やたぐひ長良の川の鮎なます / 夏来てもたゞひとつ葉の一葉哉
隠居鮎なますの碑

だからここで鵜飼いをする。理の当然であるな。
次も「笈日記」です。
   貞享五年夏日
  名にしあへる鵜飼といふものを見侍
  らむとて、暮かけていざなひ申され
  しに、人々稲葉山の木かげに席をま
  うけ、盃をあげて
 又やたぐひ長良の川の鮎なます 芭蕉
 夏来てもたゞひとつ葉の一葉哉 芭蕉


長良は仮名書き「ながら」で、「又やたぐひな(き)」と相成りますな。

石金ホテルの西隣、神明社前「鮎なます」句碑  

書生句碑は、「又たぐひ」で「や」がありません。
隠居泊船・句撰は、「や」はなしです。支考は岐阜に来て採集していますから、「又や」が初案でしょう。
書生「夏来ても」とは?芭蕉、前に来てますか。
隠居「蕉翁句集」の詞書は「山路にて」です。
「野ざらし」に「今須・山中を過て、いにしへ常盤の塚有」とあります。中山道の今須峠は切り通しの道で日が当たらない。ひとつ葉は、羊歯類で、陰湿を好みますから、この辺りで見たのではないですか。
その日、大垣木因亭で詠んだのが「死にもせぬたび寐の果よ秋の暮」。
書生そうか。秋の暮に山路で見たひとつ葉、この夏見てもひとつ葉であったと。
隠居「ひとつ葉」は、山かげの落梧別亭にもあって、鵜飼前の宴席で詠んだかもしれません。
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな
書生

「鵜舟」の文。
  岐阜の庄長良川の鵜飼とて、世にことごとしう言ひののしる(世間で大評判)。
  まことや、その興の人の語り伝ふるにたがはず、
  浅智短才の筆にも言葉にも尽くすべきにあらず。
  「こころ知れらん人に見せばや」(後撰集)など言ひて、闇路に帰る、
  この身の名残り惜しさをいかにせむ。
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな  芭蕉


「闇路」とありますね。
この日の月令は17、川の中央にいて月が山から出るのが9時20分。山麓ではさらに遅いでしょう。
鵜飼いは8時半には終わりますから、稲葉山麓に沿って妙照寺に向かうときは、全く闇の中です。

隠居

闇路を帰るか。
♪鵜舟のかがア~り影消えて~闇路に帰るう~この身の~オ名残惜しさを如何にせ~ん、名残惜しさを~オいかに~せ~ん♪

書生

ちょっと、ご隠居。なんですか。

隠居

謡曲の「鵜飼」です。全く一緒じゃろう。芭蕉も謡ったに違いない。当時の人はこの文句を知っておる。
阿羅野に、荷兮・越人の句を連ねる。

 鵜のつらに篝こぼれて憐也    荷兮 ※あわれなり
 声あらば鮎も鳴くらん鵜飼船   越人


瓜畠集には、落梧の句がある。
 かゞり火に見れば知たる鵜匠かな 落梧

書生

荷兮は「鵜」、越人は「鮎」で、落梧は「鵜匠」。芭蕉は「鵜舟」を詠んでいます。
分業体制を組んでいたのでしょうか。


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6月19日、芦文発句の五十韻・関の惟然

隠居

はて。
越人がいるので、鵜飼の翌日、19日としました。節句前で、紺屋の越人に暇はそれほどないだろうということです。
この日は、岐阜・名古屋・関の連衆が連合して、十五吟五十韻。
五十韻は、百韻の半分。懐紙二の折で満尾としたもの。
「誹諧之秘記」に「五十韻は半韻とて好まず」とあります。芭蕉も生涯二度目。人数は多いが、百韻では長く掛かる、そんなときにしたのでしょう。

書生

発句  蓮池の中に藻の花まじりけり   芦文
脇    水おもしろく見ゆるかるの子  荷兮
第三  さざ波やけふは火とぼす暮待ちて 芭蕉


 連衆:他に越人、惟然、炊玉、落梧、蕉笠、己百、梅餌、露蛩、鴎歩、拾景、角呂、東巡。

隠居

芦文ろぶんは、美濃関の人で、丈草門。丈草の入門は翌元禄2年ですな。
この五十韻は、芦文編「つばさ」巻尾に、芭蕉捌きとして納められています。

書生

惟然(いねん)も関ですね。

隠居

地元では、「いねんさん」。一般的には「いぜん」と読みます。「ユイネン」か「イゼン」か迷うが、「江戸文学研究、藤井乙男著」に、「いぜん」が正しいとある。根拠は、「四山集、菰洲編」に惟然の名が「いせん」と、仮名書きされた句が二つあることです。
惟然は、このとき入門。
惟然は後、続猿蓑あたりから大量に入集し、三十六俳仙にも入ります。

書生

その惟然との二吟二句。
発句 見せばやな茄子をちぎる軒の畑  惟然
脇   その葉をかさねをらむ夕顔   翁


これも五十韻と同じ19日ですね。
また、「見せばや」で行きますか

隠居

関に行ったという資料はない。岐阜稲葉山から関は、往復30キロくらい。日帰り可能な距離ですが。
惟然の住んだ弁慶庵は、惟然記念館になっています。
若いころ、暑い夏の日、行ったことがあります。

惟然記念館

芭蕉句碑「鴬や柳のうしろ薮のまへ(元禄7吟)」がある。
天保14年(1843)、芭蕉の百五十回忌で露牛が建立。

書生

例の遠足ですか?

隠居辻屋

結果的に万葉遠足。惟然の業績に感じ入り、街に出ると煙が鼻に染みる。
煙を吸いながらいくと、これが鰻屋で、外を歩く人はまばらなのだが、店内は客がびっしり。
相席ながら番が来て、特上を奮発したが、「お客様にはご無理かと」と言われ、「何!身なりで人を」と言おうとしたら、「食べきれない方が多いんです」とのこと。並にしておいたが、食べきれん。
「石麻呂にわれもの申す 夏痩せによしといふものぞ 鰻とり食せ」(家持)
鰻は「むなぎ」、「んなぎ」と読みなされ。これには注意書きがあってな。
「痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻をとると 河に流れな」。

書生

へえ。
そして、荷兮が迎えに来ます。
先ほど出ましたが、荷兮発句の三吟、三つ物。
  落梧亭
 発句 蔵のかげかたばみの花めづらしや  荷兮
 脇   折てやはかむ庭の箒木      落梧
 第三 たなばたの八日は物のさびしくて  翁

隠居

カタバミは雑草。箒木は、「ははきぎ」。「ほうきぎ」の別名でほうきの材料。

書生

この席に越人がいないのは、荷兮だけで芭蕉を迎えにきたということですね。

隠居

その通り。荷兮一人だな。
越人は、節句の決算が間近で、忙しい。それに盆前の準備で、住職も忙しい最中だから、3人だけの別れの会となったということだろう。

書生

別れと言っても、また来る予定がありますしね。
まあ、この芭蕉の逗留で岐阜蕉門が成立したことは確かですね。

隠居

そうですな。

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7月3~6日、蓬左(名古屋)の荷兮

隠居

荷兮に迎えられ、名古屋に移り、円頓寺えんどうじで句を詠む。

書生

  尾張円頓寺にて
 ありとある譬にも似ず三日の月 (真蹟懐紙)

あれ?これは、笈日記や泊船集では、「大曽根の成就院」での句になっています。
その辺りは、眺望がいいので、名古屋三景の一つということですよ。
この句は、円頓寺か成就院か、どちらでしょう?

隠居

岐阜から荷兮の家に行くのに、大曽根は通らん。1里も行き過ぎる遠回りはないだろう。
別の日としても、尾張名所図会にある名古屋三景の一つは、「大曽根の関貞寺かんていじ)の書院から北の眺め」。
成就院はその西隣にあるが、やや低いところにあって、景色の眺望はできない。
蓬左から、わざわざ名所に連れて行ったとするなら、「関貞寺の書院」で、「北の眺め」でなければならぬ。
このあと芭蕉が行く鳴海の知足は、「円頓寺にて ありとある見立てにも似ず三日の月」と、句の完成形とともに、記録しておる。
円頓寺で問題ない。
ときに、この7月3日は、三日月かな?
光って見える時間は?

書生

月齢1.8の二日月です。
20時20分ころ、利鎌の月が弧を下にして、真西より北、養老の山に沈みます。

隠居うーむ。二日の月とな。

〽伊勢は♪ナ~津で~持つ♪津は~伊勢で持つ〽ア、ヨイヨイ♪尾張名古オ~屋は〽ヤンレ♪城で持~つ〽

書生

はて、さて。

隠居「ア、ヨイヨイ」じゃ。
書生何ですか。
隠居

分からぬか。荷物にゃならぬ伊勢土産、その伊勢音頭の正調である。
暁台の門弟、井上士朗、寛政の三大家と言われる人でな、「三日の月」の芭蕉真蹟懐紙の箱に、
円頓寺ニての月の句拝して
 三日月によく似たものよ二日月  士朗

と、書いてある。

書生

士朗は二日月と知っていた!

隠居

知らなければ詠めぬ句です。
士朗は、本業の医学は名古屋一、俳諧はもちろん、画や平曲も一流じゃった。天文に精通していたとしても、何ら不思議ではない。
「尾張名古屋は士朗で持つ」とな。

書生

それで、伊勢音頭ですか。

隠居いかにも。
書生

三日月は、翌4日ですね。
月が輝くのは、航海薄明が終わるころ。日の入りが19時ですから、20時ころ、月没20分前ですね。

隠居

荷兮や越人の家から、大曽根は遠いな。二日月はすぐ沈む。月を見たあと、暗い夜道を1時間も歩いて帰れん。

地図

円頓寺なら、荷兮の住む桑名町から、10分もかかりません。
この地図は、享保9年以後のものです。当時の円頓寺は、南に約400メートルほどのところにあった。名もそのまま「元円頓寺筋」、その辺りにあって、享保9年に焼け、移転したわけです。元は、「重五のいる上材木町」から中橋か伝馬橋を渡ってすぐのところですな。
距離からしても、円頓寺でまったく不都合はない。

書生

そうですか。元にした古地図は、製作年不明とあったのですが、建築物から結構特定できそうですね。
円頓寺に決定ですね。

隠居

そうですな。
古地図の研究をするわけではないので、「三日の月句が、円頓寺で詠まれた。貞享5年、円頓寺は、元円頓寺筋にあった」と言うだけで、十分です。

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7月7日、鳴海の知足

隠居

七夕の節句休みに入り、知足のところから迎えが来る。

書生

多分、出雲の守、自笑でしょうね。

隠居

知足の弟かもしれん。いずれ、推量は避ける。
8日は、その知足の弟、知之邸の新築を祝う三吟六句。
知之は、この前年、熱田の芭蕉を見舞った三郎左衛門のこと。

書生

  新宅を賀す
 発句 よき家や雀よろこぶ背戸の粟 芭蕉
 脇   秣にみゆる野菊苅萱    知足 ※まぐさ=戸・窓上の横木
 第三 投げ渡す岨の編橋霧こめて  安信 ※そばのあみはし
  以下略(表六句)


連衆は3人。
安信は、知足の母の弟。菐言(ぼくげん)は兄。
知之がいてません。

隠居

追悼・追善に本人が入らぬと同じ。賀の俳諧に本人は入れません。
10日は、重辰じゅうしん亭で七吟歌仙。

書生

 発句 初秋は海やら田やらみどりかな 芭蕉
 脇   乗り行く馬の口とむる月   重辰
 第三 藁庇霧ほのぐらく茶を酌みて  知足
  以下略(歌仙)。連衆は他に、如風、安宣(安信)、自笑、牛歩。


初秋とみどり、よく合いますね。海は鳴海潟でしょうか。
脇の馬と月は、つかみかねます。馬の月見?

隠居

芭蕉は、「初秋や海も青田も一みどり」と改案し、すぐに知足も書き留めておるな。
月に見とれて、馬の口を止めたのは馬子。これは、いわゆる投げ込みの月。春季なら「口とむる花」などとする。
亭主の重辰は鳴海の荷問屋、児玉源右衛門。
鳴海六俳仙(知足・菐言・安信・自笑・重辰・如風)の一人。

書生

鳴海の六俳仙ですか。芭蕉を支えた人たちですね。

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7月15日以後、名古屋島田町で静養、長虹亭の会

隠居

鳴海から、名古屋の島田町に移る。
これは、「しまだまち」と読む。
「町」を「ちょう」と読むか「まち」と読むか、決まっておるので、間違えてはならぬ。車ノ町はくるまんちょう、水主町はかこまちと読めぬとなめられる。何言っとりゃあすとな。七間町を「し」でなく、ひちけんちょうと読むと一目置かれる。
島田町は、今の錦二丁目の北でな、ここに家を借りる。
保証人は例によって、町代の野水という記録がある。
持病が再発し、医者にもかかったようだから、入院のようなものか。
野水の店がある大和町やまとちょう、荷兮邸の住む桑名町くわなまちからは、ほど近い。
長島町ながしまちょうと田町たまちの中間なので、島田町と名づけられておる。

島田町地図

書生

長田町にはならなかったんですねえ。
ときに、荷兮も医者なのでは。

隠居

野水が、信頼できる医者を選んだのでしょう。
荷兮は俳諧で忙しい。

書生

明解です。
偶然でしょうかね。前年も鳴海の後、医者に掛かっていますが。

隠居

だからどうじゃ。たまたまである。
野水は、このころ京へ出かける。
わしは盆明けの16日と思うています。
 見送りの後ろや寂し秋の暮  芭蕉 (三つのかほ)
野水は、現金掛け値なしの呉服物を商う大和町の備前屋、4代目岡田佐次右衛門。
父祖が、清洲の長者町から、この町の屋敷を150両で買って越してきました。屋敷の持ち主は、名古屋城築城の大工頭領中井大和守正清であったことから、町の名を大和町としました。

書生

はあ。「現金掛け値なし」って。

隠居

当時は節季払い。客は、七夕あるいは盆と年末の2回払うが、手数料が上乗せされる。その手数料が掛け値。その都度現金で払えば、掛け値がないので安くなる。
これは、江戸三越の商法が有名。これより14、5年前から三井高利たかとしが行った商法。高利は、江戸の金を大坂で銀に換え、京の西陣で大量に仕入れておったが、仕入れ値より安く売っても、換銀差益で商売になったと言います。越後屋の三井なので、三越。

書生

では、野水もその商法なので、京へ行ったわけ?

隠居

名古屋で流通したのが金か銀かは知らぬので、何だが、まあそうでしょう。現金掛け値なしの場合、反物の切り売りもするので、繁盛しました。元禄13年からは総町代、町人の代表になるほどです。
されど、7月の節季後、盆明けに京へ行くのは、節季払いも相当あってのこと。仕入れの資金を持っての上京ですな。
こんな句はどうじゃ。
 あき風に申かねたるわかれ哉  野水 (曠野集巻之七)

書生

「私は旅に出ます。折角お越しになったのに、なかなか言い出せなくて」ということですね。よくわかります。

隠居

わしもこのときの句だと思う。
次の句でどうじゃ。
  越人旅立けるよし聞て、京より申つかはす
 月に行脇差つめよ馬のうへ  野水 (曠野集巻之七)

書生

また酔っ払って、馬から落ちますからねえ。脇差しがあぶないですね。

隠居

そうではない、京におっても、野水は気に掛けておるということ。また、馬にも乗れるよう、路銀は渡してあったのでしょう。
 
さて、20日長虹亭で七吟歌仙。
長虹は、阿羅野・続猿蓑に多数入集する実力派。江戸牛込、長国寺隠居だが、このころは名古屋城郭北東、杉の薬師堂(解脱寺、北区清水)にいて、寺内に庵「竹葉軒」を結んでいます。

書生

  竹葉軒(長虹亭)において
  長虹興行
   俳諧之連歌
 発句 粟稗にとぼしくもあらず草の庵  芭蕉
 脇   藪の中より見ゆる青柿     長虹
 第三 秋の雨歩行鵜に出づる暮れかけて 荷兮 ※かちう(歩行鵜飼い)
 (荷兮筆懐紙)


 以下省略(歌仙)。連中は他に、一井・越人・胡及・鼠弾。
3キロ出かけていますが。

隠居

芭蕉の希望であろう。一井は馬島(大治)、胡及は、名古屋の人。鼠弾は越後出身で蕉門。一井・鼠弾・胡及・長虹の四吟歌仙一巻が阿羅野にある外、4人の句が、阿羅野に多数入集。
また、成就院に訪れるならこのときか。成就院は、この長虹亭の東約1キロのところにあるが、この日なら下弦の月になっておろう。
「笈日記」に成就院とあるのは、何らかの記録を参考にしているはずじゃが。

書生

「笈日記」の記述はこれですね。

寺の地図

  覓閑三句 ※閑をもとむ三句
①  杉の竹葉軒といふ庵をたづねて
  粟稗にまづしくもなし草の庵
②  田中の法蔵寺にて
  刈あとや早稲かたかたの鴫の声
③  大曽根成就院の帰るさに
  有とあるたとへにも似ず三日の月


①は、長虹亭での発句の改案。
②は、早稲の刈りあとの句。時期が分かります。
③、「帰るさ」とありますね。

隠居

前書きは、支考の付けた説明で、詞書きではない。成就院については、支考がそう判断した資料がないと、結論は出ない。
②は、この時期名古屋での句。「かたかた」は、「方々」で、あちこち。
法蔵寺は、元円頓寺から1.5キロ。北西方向で、岐阜街道にあります。

書生

早稲の収穫は、早くても陽暦8月中旬。貞享5年で言うと、7月15日以降です。

隠居

なるほど、名古屋へ来たときでなく、岐阜へ戻るときの句と見ていいわけですな。法蔵寺は、岐阜へ戻るときに通ります。

書生

これ以外、名古屋での興行は見当たりませんが、芭蕉の体調を考慮したのでしょうか。

隠居

熱田興行もない。桐葉も遠慮したでしょう。
皆、無事に江戸に帰られるよう、案じたことでしょう。

書生

そして、更科の旅には越人を同行させることにした。

隠居

越人の同行は約束されていたかも知れませんが、無事江戸に送り届ける役目でしょう。そうそう、笈を担ぐのは荷兮の下僕、3人の旅です。

書生

8月上旬に岐阜へ行き、11日に更科へ出立ですね。

隠居

そうですな。

書生

その後越人は?

隠居

9月中旬までに、江戸で歌仙を四つ巻いておる。最初の傘下さんかは、名古屋の俳人ですな。

曠野>「団(うちわ)の巻、歌仙-越人・傘下」を、別窓で参照

曠野>「雁がねの巻、歌仙-越人・芭蕉」を、別窓で参照

曠野>「天津雁の巻、歌仙-其角・越人」を、別窓で参照

曠野>「新酒の巻、歌仙前半(半歌仙ではない)-嵐雪・越人」を、別窓で参照

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笈の小文と乙州

lineline
隠居

「笈の小文」後の足跡をたどるのもここまでじゃが、あのなぞは解けたかな。

書生

序文の「門葉多しと言へども、ただ乙州にのみ授見せしむ」ですね。
乙州「だけに」というなぞ、皆目分かりません。

隠居

では、改めて探るといたそう。

「資料、乙州」へ

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笈の小文、講読の振返り

lineline
13 旅後(京~岐阜~大津~岐阜~名古屋、附:乙州)
旅程<旅程検討> 6月6・7・8日、大津から岐阜へ。
芭蕉の動向を基に推定したが、「芭蕉翁略伝」に日付の記載があった。
 祖翁の日記 自筆にして三行ばかり 六月六日大津を立、ゑち愛知川に泊、七日赤坂に一宿、八日岐阜に到る。秋芳軒宜白己百を主とすと云々。
これで、確定とする。
<課題 1> 6月17日、六吟六句「どこまでも」
「一葉集」の詞書きに「林鐘(陰暦6月)十七日」とあって日付が決まるが、場所が未定である。
芭蕉・荷兮・越人・落梧・秋芳の5人が、5㎞離れた折立三ツ又を訪れたという資料を知らない。
「岐阜県-芭蕉塚蒐」によれば、建立者は寸木の子二春、銘に「貞享五林鐘十七日、芭蕉尊翁来遊于此家」とあるので、従うべきであろう。
  
書生

ここは、旅後として、岐阜・大津・名古屋の門人たちとのかかわりを明らかにしました。

隠居

岐阜蕉門にとっては、大きな出来事で、詳しく見たな。

書生

「瀬田-岐阜-大津-岐阜」と、2度岐阜を訪ねる無駄が解明できました。

隠居

5月、最初の訪問の時、落梧の子が亡くなったということですな。
ただ、その資料はありません。状況として推察するのみですが、そう思って読み直すとすっきり分かるはずです。
浄土院の過去帳が残っておれば明らかになるが、明治の廃仏毀釈を経ておるから無理ですな。

書生

はい。
「十八楼の記」の日付が確定しましたね。

隠居

左様。鵜飼い見物の日もな。

書生

円頓寺、三日月の句も確定です。
また、日付は確定しませんが、田中の法蔵寺「刈あとや早稲かたかたの鴫の声」
この句は、岐阜へ戻る日として、問題ありません。

隠居

で、乙州の動向。
お主の旅程表で、「梅若菜の巻」(これは猿蓑に入ったほう)、三つの会で32句まで、残り4句は、個々に付けたことが、手に取るように分かりましたな。

書生

いや、恐縮です、そうおっしゃっていただいて、……

隠居

その後、「乙州だけに授けた」ことを検討した訳ですが。

書生

ええ、私なりに納得できました。

隠居

世間には通用せぬがな。

書生

ええ、「お家に帰って、『ただいま』を言うまでが旅行」なんです。
更科記行を経て、芭蕉庵に帰るまで読みたいと思います。

隠居

ご奇特な事です。

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  ---笈の小文講読ページの解説---