笈の小文 資料、乙州

笈の小文 索引
序文序章鳴海保美熱田伊賀伊勢吉野高野奈良須磨箕面旅後
笈の小文 資料、乙州 索引
動向笈の小文と乙州元禄2年7月 乙州、芭蕉に会う
元禄3年 母智月、芭蕉を支える元禄4年1月 乙州、江戸へ行く。餞別の興行
元禄4年6月 乙州、笈の小文を授かる元禄7年 乙州、芭蕉を義仲寺に葬る
題目「笈の小文」という題①:「笈日記」「笈の小文」という題②:「去来抄」
「笈の小文」という題③:「庚午紀行」「芳野紀行」「卯辰紀行」笈の小文、跋文



笈の小文と乙州

lineline
隠居

「笈の小文」のなぞは解けましたか。

書生

序文の「門葉多しと言へども、ただ乙州にのみ授見せしむ」ですね。
「乙州だけに授けた」というなぞです。

隠居

「笈の小文」の旅のあと、芭蕉が大津の尚白のところへ行きましたが、大津の連衆に乙州の名前はありません。
近江の連衆は、尚白・奇香・通雪・松洞・宣秀・江山・官江・一竜でした。
名前はないが、乙州は尚白の弟子です。
乙州はこの年、貞享5年は32歳。26、7歳のとき、尚白の撰集に1句入選。貞享4年には、100句以上入集しています。
この年、乙州が仕事で大津を離れているとき、尚白亭に芭蕉が来て、歌仙を巻いたと聞いたらどうです。ほかの弟子には、巻をひけらかされますな。

書生

大量入選して面白くなってきていますから、それは悔しいですね。

隠居

そんなある日、乙州が仕事の旅先で、そこに芭蕉が来ていると聞いたら……

書生

それは、たまりません。是非会おうと手を尽くしますね。

↑ トップへ


lineline

元禄2年7月 乙州、芭蕉に会う

隠居

翌元禄2年7月、家業が膳所藩伝馬役、すなわち運送業の乙州は、金沢へ荷を運びました。

書生

はい。そこに、「奥の細道」を旅する芭蕉がいたんですね。

隠居

そこで、歌仙の興行に、参加した。飛び入りでな。
次の表は、乙州と「乙州にかかわる芭蕉の動向」。俳諧・書簡・それ以外で、色分けしてあります。


元禄2年7月20日~、 乙州と芭蕉の動向
事項

連衆/内容

出典

備考

元禄2720

十三吟半歌仙
「残暑暫手毎にれうれ瓜茄子」
芭蕉・一泉・左任・ノ松・竹意・語子・雲口・乙州・如柳・北枝・曽良・流志・浪生

花のふるごと

金沢一泉亭
元禄212

芭蕉、膳所義仲寺に来て、越年。

義仲寺
元禄212

二吟二句
   大津にて智月といふ老尼のすみかを尋て、
   おのが音の少将とかや、老の後此あたり
   ちかくかくれ侍しといふを
 少將のあまの咄や志賀の雪   芭蕉
  あなたは真砂爰はこがらし  智月

智月懐紙

智月亭
元禄212

二吟二句
 草箒かばかり老の家の雪    智月
  火桶をつつむ墨染めの袖   芭蕉

智月懐紙

智月亭
書生

12月下旬に、芭蕉が膳所に来ます。
で、智月は、乙州の母親でしたね。

隠居

智月は母親だが、実の姉である。
夫が2年前に世を去って、弟の乙州を、跡取り養子に迎えたというわけでな。
智月は、乙州より24も上の57歳で、これは親子で通る。
また、智月は、夫亡き後、世の良識に従って仏門に入っておる。
そして、芭蕉の生活、取り分け近江滞在を、さまざまな面で、しっかり支援した人です。

↑ トップへ


元禄3年 母智月、芭蕉を支える

元禄313

芭蕉、伊賀上野に帰る。

伊賀上野
元禄3119

芭蕉から智月あて書簡。

体調、水菜・鮭の礼

伊賀上野
元禄33

芭蕉、膳所に来る。

膳所
元禄346

芭蕉、幻住庵に入る。7/23まで滞在。

幻住庵
元禄3421

芭蕉から乙州あて書簡。

明日泊まり掛けで伺うこと

幻住庵
元禄3422

芭蕉、乙州邸に泊まる。

4/21の書簡

乙州邸
元禄35

芭蕉から乙州あて書簡。

幻住庵から大津に出たいこと。

幻住庵
元禄3625

芭蕉、珍碩亭から乙州あて書簡。

加賀から帰るよう勧める。

幻住庵
元禄3723

芭蕉、幻住庵から大津某所へ転居。

※某所は、乙州邸と推定。

大津
元禄3723

芭蕉、智月あて書簡。

痔やや軽快。8月1日以後、智月亭へ行くこと。

大津
元禄3910

芭蕉、智月あて書簡。

薬の礼

義仲寺
元禄39

芭蕉、伊賀上野に帰る。

伊賀上野
元禄311

芭蕉、京都へ行く。

京都
元禄312

芭蕉、句空あて書簡。

加賀にいる乙州を帰らすよう依頼。

京都
元禄312

九吟歌仙
「半日は神を友にや年忘れ」
芭蕉・示右・凡兆・去来・景桃丸・乙州・史邦・玄哉・好春

八重桜集

京都
示右亭

元禄31223

芭蕉、乙州の新宅に来る。

人に家を買はせて我は年忘れ

猿蓑

乙州邸
書生

この年は、伊賀上野、大津、京都で暮らしていますね。

隠居

細道の旅の決意を忘れてはいかん。
「住める方は人に譲り」とあるとおり、江戸を故郷と指しても、戻るところはないじゃろうが。
それでじゃ、2年続けて、伊賀上野で新年を迎えていないことは、特筆ものですな。
しかも、2度とも、松の内に伊賀上野に行っておるのは、世間体への配慮と見るしかなかろう。

書生

ご隠居、うがち過ぎでは。

隠居

いや、当時の良識じゃ。
この年は、見ての通り、智月の献身的支援が光る。
一口に衣食住と言うが、どんなよき宿でも「衣」までは行き届かぬが、智月は伊賀上野の芭蕉にも、着物の洗濯を心配する書状を出しておる。
だが、行旅人が逗留するには、社会的に有力な保証人が必要。
幻住庵にいる分には、膳所藩の重鎮曲水の肝煎りで問題ないが、そこを出るには、別の保証人がいる。

書生

例えば、蓬左の野水、鳴海の知足、熱田の桐葉、岐阜の落梧と言うような豪商の保証ですか。
彼たちは、きちんと役所に届けを出したと聞き及びますが。

隠居

然り。お主も冴えてきたようじゃ
近江の連衆を見ると、乙州以外にはおらん。家業の伝馬は御上の御用である。
乙州に、加賀から早く帰れというのは、そういうことです。

書生

乙州は、12月には戻って、京の興行に参加できてよかったですね。

隠居

示右(しゆう)は、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の宮司、嵯峨野に近いところでの興行です。
帰って来られてよかったな。

↑ トップへ


元禄4年1月 乙州、江戸へ行く。餞別の興行。

元禄411

芭蕉、乙州の新宅で新年を迎える。

人に家を買はせて我は年忘れ

猿蓑

乙州邸
元禄41

十六吟歌仙
「梅若菜まりこの宿のとろろ汁」
芭蕉・乙州・珍碩・素男・智月・凡兆・去来・正秀/半残・土芳・園風・猿雖/嵐蘭・史邦・野水・羽紅

猿蓑

大津・伊賀
元禄41

十八吟歌仙
「梅若菜鞠子の宿のとろろ汁」
芭蕉・乙州・珍碩・素男・智月・凡兆・去来・正秀/探志・其角・路通・曲水・里東・芹花・素葉・寒水・落荷・飛陰

勧進蝶

大津・江戸
元禄41

芭蕉、伊賀上野に帰る。

1/5迄は大津滞在。

1/5曲水宛書簡

伊賀上野
隠居

乙州が、江戸へ行くので、餞別の句会が開かれた。新年の句会と兼ねていたようじゃが、会場は大津としか分からん。

書生

同じ「梅若菜」の発句で、2巻ですか? 

隠居

そう。このときは20句、名オ2則ち名残の折の表第2句まで。
残り16句が違うのじゃ。
上段は、後に芭蕉が、伊賀上野と江戸・京都・名古屋の連衆に付けさせた。
下段は、乙州が江戸に持参し、江戸の連衆と完成させたもの。

書生

乙州にとっては、またとない記念ですね。面白いですね。

隠居

この年6月に完成する猿蓑に入ったのは上段で、芭蕉が完成させた歌仙。

猿蓑>「梅若菜の巻、歌仙」を、別窓で参照

書生

上段でスラッシュ”/”に挟まれている半残・土芳・園風・猿雖が伊賀の連衆ですね。

隠居

3回に分けてな。
1回目は、21半残、22土芳、23半残、24土芳。
2回目は、25半残、26園風、27猿雖、28半残、29園風、30猿雖の順。
3回目は、31土芳、32園風、という具合ですな。
で、これ以上進めると、伊賀連衆個々の句数が多くなりすぎて全体の調和を損ねるので止めた。
猿雖は2句だけですが、月の句を詠んでいる。前半でも月を詠んだ凡兆が2句、花を詠んだ去来が2句なので、丁度よい。

書生

で、残り4句は?

隠居

次の年表のように、3月9日前に江戸の嵐蘭が来たので、名ウ3を付けさせた。

元禄439

この日までに、嵐蘭、伊賀上野を訪問。

※このとき歌仙「梅若菜」名ウ3の付けか。

3/9去来宛書簡

伊賀上野
元禄43

芭蕉、奈良から大津へ行く。

大津
元禄4418

芭蕉、落柿舎へ行く。

嵯峨日記執筆

嵯峨日記

落柿舎
元禄4420

凡兆・羽紅夫妻、落柿舎を訪問。

※羽紅、歌仙「梅若菜」の挙句を預けたか。

嵯峨日記

落柿舎
元禄4422

芭蕉、乙州が江戸から帰ると知る。

旧友・門弟の話や曲水の書状で知る。

嵯峨日記

落柿舎
元禄4425

史邦・丈草・乙州、落柿舎を訪問。

※史邦、歌仙「梅若菜」名ウ4の付けか。

嵯峨日記

落柿舎
隠居

4月、芭蕉は京の落柿舎に行くが、20日に羽紅が訪れ、挙句を詠ませた。挙句は即座に詠むことを要求されるので、普通執筆などがあらかじめ詠んでおく。先に詠んでも、問題はない。
されど、落柿舎を出て凡兆の家で猿蓑の監修をするから、そのとき羽紅に挙句を読ませたとしたほうが無理はないかな。まあいずれかです。
25日、史邦が名ウ4を付ける。
残る名ウ5は、花の句で野水。野水が京都に来たか、文音による付けかの何れかです。
野水は家業で、頻繁に京都に来た記録があるが、日にちは分からん。
まあ、乙州餞別の歌仙については、これくらいで。

↑ トップへ


元禄4年6月 乙州、笈の小文を授かる

書生

で、乙州は無事に仕事を終え、江戸で巻いた下段(「勧進蝶」所載)の歌仙を携えて、落柿舎を訪問しました。

隠居

翌日の五吟五句が、残されておる。

元禄4426

五吟五句
 芽出しより二葉に茂る柿の実 史邦
  畠の塵にかゝる卯の花   芭蕉
 蝸牛頼母しげなき角振て   去来
  人の汲む間を釣瓶待也   丈草
 有明に三度飛脚の行やらん  乙州

嵯峨日記

落柿舎
元禄4427

この日訪問者なし。

日記「人不来、終日得閑」。嵯峨日記落柿舎
元禄4428

芭蕉、杜国の夢で泣く。

↑ 「杜国の夢」参照。嵯峨日記落柿舎
書生

ご隠居、見えてきました。

隠居

ほう。

書生

つながるんですよ。
元禄3年4月、幻住庵に入りますが、このころ杜国の死を知ります。
7月、幻住庵を出て乙州を頼りました。
この年末は杜国の新宅で過ごし、新年を迎え、乙州の餞別句会を開きます。

隠居

つながるとは?

書生

まず、杜国の死と前後して、乙州と親しくなること。
次に、杜国と乙州は同い年であること。
また、共に軽みをよく理解し、芭蕉に期待されること。

隠居

そうか、同い年か。
それで、杜国の代わりとなる存在じゃと言うのかな。

書生

はい。「乙州にのみ」と言うより、託す人物は、乙州がふさわしかったわけです。
序文に、「昼夜に、これを翫びて」とありましたが、杜国の死後、幻住庵のころからでしょう。
折にふれては取り出して、紀行を整理しつつ、杜国をしのび、鎮魂を祈っていたんです。
落柿舎で「終日閑を得」た27日、また「笈の小文」を取り出して、杜国をしのび、夜夢を見て泣いた。

隠居

嵯峨日記には、「終日妄想散乱の気」とあったな。つらい状況です。

書生

芭蕉も前に進まなければいけません。
だれにも見せていなかったが、杜国と重なるところがある乙州には、「笈の小文」を見せて授けた。
杜国に関する草稿は、すべて乙州に託した。
まあ、こんなふうにつながってきたんです。

隠居

根拠求めるのは無理ですな。

書生

状況証拠だけですが、矛盾はありませんから、これで理解できます。

元禄455

芭蕉、落柿舎を出る。

凡兆亭で猿蓑編集の監修など。

嵯峨日記

凡兆邸
元禄4610

芭蕉、乙州邸に3泊。

幻住庵資料

乙州邸
隠居

序文に「乙州にのみ授見せしむ」とあった、その日は?

書生

もう、この6月10日からの三日間しかありません。
受領するだけなら時間は掛かりませんが、「授見」です。説明を受けながら書き取ったのでしょう。2,3日は必要です。

隠居

そういうことかな。
いずれ、証拠はないので、ここまでとしよう。
芭蕉が亡くなるまでの、乙州とのかかわりは、以下に残して、まとめをする。

↑ トップへ


元禄4815

芭蕉、観月会を催す。

乙州、酒を持参。

月見賦

義仲寺
元禄493

12吟歌仙
「うるはしき稲の穂並の朝日哉」

路通・昌房・芭蕉・正秀・野径・乙州・画好・珍碩・盤子・里東・探志・遊刀

菊の露

膳所
元禄4 9 9

乙州、義仲寺を訪問し、二吟二句。
  おなじ年九月九日、
  乙州が一樽をたづさへ來りけるに
 草の戸や日暮てくれし菊の酒 芭蕉
  蜘手にのする水桶の月   乙州

笈日記

義仲寺
元禄4928

芭蕉、乙州邸に一泊。
形見を乞う智月に幻住庵記を贈る。

芭蕉、彦根・垂井・大垣・熱田・新城・島田経由で江戸へ。

乙州邸
元禄557

芭蕉、智月あて書簡

智月亡夫追善句を、冬に乙州が来たとき募るよう提案。

日本橋の借家
元禄6127

芭蕉、羽紅あて書簡

乙州が、羽紅書簡を届け、返信を預かる。

芭蕉庵
元禄67上中

乙州、江戸に逗留。史邦転居。六吟歌仙。
「朝顔や夜は明け きりし空の色」
史邦・沾圃・芭蕉・魯可・里圃・乙州

翁草

芭蕉庵

↑ トップへ


元禄7年 乙州、芭蕉を義仲寺に葬る

元禄747

芭蕉、江戸にいる乙州あて書簡

持病快気次第、上方へ行く予定。

芭蕉庵
元禄7閏517

芭蕉、乙州邸に一泊。

5/11出立、島田・名古屋・佐屋・伊賀・山城経由。

4/7の書簡

乙州邸
元禄7814

芭蕉、智月あて書簡

河合家下男が、南蛮酒一樽、麩20、菓子一棹を届けた礼。

伊賀上野
元禄7107

芭蕉危篤で、門弟たちが駆け付ける。(既に、支考・惟然・之道・舎羅・呑舟・伽香・二郎兵衛が看病)

正秀・李由・木節・丈草・乙州
去来:6日、其角:11日

芭蕉翁終焉記

大坂南御堂前
元禄7108-

芭蕉、「木曽塚に送るべし」と言う。乙州、「約束たがはじ」と答える。

8日から10日の間のこと。

芭蕉翁行状記

大坂南御堂前
元禄71013

芭蕉、12日死去、13日昼義仲寺に到着。

去来・乙州・丈草・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛・其角が搬送。

芭蕉翁終焉記

義仲寺
元禄71014

昼葬儀、深夜木曽塚の右に埋葬。

智月・乙州の妻が浄衣を縫う。

芭蕉翁終焉記

義仲寺

↑ トップへ


笈の小文講読の結び

linelineline

「笈の小文」という題①:「笈日記」

隠居

「笈の小文」の意味は既に見たが、ここでは「笈の小文」という題を検討する。
芭蕉が、「笈の小文」と呼んでいたのは、岩波の「芭蕉紀行文集」によると、
「猿蓑撰のころ、芭蕉は自らの厳撰による蕉門の理想的作品集を企て、その草稿を「笈の小文」と題していた」
とあり、芭蕉が所持していた草稿全体を指すもの。
自らの俳文や句、門人の句を書き留めたものと言うわけです。

書生

なるほど。

隠居

右、笈日記の序文を読まれよ。
支考は、芭蕉の遺品である笈の文を整理し、「笈日記」として編んだ。
芭蕉没後1年にもならぬ翌年7月、支考の序文です。

罫線

笈日記之序 (元禄8年7月、支考)

①笈の小文は、先師はせを庵の、生前におもひおける集の名也。
②是は人々のふみの端に、ほつ句あり、文章あるものをあつめて、行脚の形見となすべきよし、かねておもひたち申されし也。
③しかるにその人おはせずなりて、この心ざしのむなしからん事ををしむに、はた吾ちからの小文集にたへざらんとすや。
④たゞに旧遊の地をたづねて、その時のありさまを思ひあはせ、一夜二夜にちぎり捨し所々も、その面影をうつし出し侍るに、おほむね十ところ十部ばかりも侍らむ。
④その外、奥羽の風流は、奥の細道にみづからかきて洛の去来に残し侍り、潜淵庵が継尾集にも、こもこも出し侍るかし。
⑤越路の遺草は、ありそ海、となみ山の、二興にとゞめられて、ちか比にもてなし侍れば、その間にもらしぬるもの、わづかに百余草に過ざらまし。
⑥是に病前死後の兩編をくはえて、前後日記ともいひ、笈日記とも申侍る也。
⑦誠にをしむべし、此叟の風雅にやつれたる事、五十にして頽年のしら髪をいたゞく。
⑧生涯は風前の一葉にまかせたれば、とゞむべき住家もあらず、衣食は明暮をそなえねば、むさぼるべきあたひもなかりけり。
⑨たゞ世の人の是非にたてる事の、あさましうおぼゆるとて、老後には、恨をふくめる人のもとにも、ひたすら行かよひて、まどかになし給へるは、是をも風雅の上にあらんと、殊さらにたふとかりける。
⑩されば、世に風雅風雅といへるものも、其さま身におはざる時は、終にあらそひの媒となりなむ、いとむづかし。
⑪その間にあそべるものゝ、その膚たゆまずといへる、世にはいくばくも侍らじを、此叟ひとり風雅の上にわすれぬるかな。
 
元禄乙亥の龝七月十五日
             支考 自序

書生

①に、「笈の小文」は、生前に思いおける集の名とありますね。

隠居

②、行脚の形見とある。
④に、「おほむね十ところ」の行脚とあるな。

書生

そうですね。
上方だけじゃないということですね。

隠居

然り。
「十ところ」とは、「伊賀、難波、京都、嵯峨、湖南、彦根、大垣、岐阜、尾張、伊勢」。
ないものがあるな。

書生

ないものはないでしょう。

隠居

いや、あってよい地名がない。
④⑤の文で、除外が分かろう。
先ず、奥羽。これは奥の細道に書いて去来に渡してあるからない。また、潜淵庵、すなわち酒田の中心となる不玉(ふぎょく)が、元禄5年に「継尾集」を刊行しており、既に奥羽の句は網羅されている。
ちなみに、「おくのほそ道」は、後の元禄15年刊行。

書生

⑤は、越路。これは、「ありそ海」「となみ山」に入っているということですね。

隠居

そう、これも既に刊行されている。
元禄8年3月です。⑤に「ちか比にもてなし」とあるな。
浪化は、元禄7年に入門し、芭蕉没後わずか半年で「ありそ海・となみ山」を上梓したわけ。
で、まだ、ないものがあるじゃろう。

書生

はあ、乙州に授けたあれですね。
吉野、奈良、竹内、須磨など。

隠居

そうです。
支考は知ってか知らいでか、⑤に「その間にもらしぬるもの、わづかに百余草に過ざらまし」と書いておる。

書生

はあ、「笈の小文」の句は、どれほど入っているのでしょう、「笈日記」に。

隠居

そのことか。
……ざっと拾うと右の通り。

罫線

「笈日記」に収める「笈の小文」の句

伊賀
 吉野にてさくら見せうぞ檜の木笠 風羅坊
 よしのにておれも見せうぞひの木笠 萬菊丸
 さまざまの事おもひ出す櫻かな
 丈六のかげろふ高し石の上
(紀行として)
 かちならば杖つき坂を落馬哉
 青葉して御目の雫拭ばや

尾張
 ためつけて雪見にまかる紙子哉
 とぎ直す鏡も清し雪の花
 香を探る梅に家みる軒端哉
 星崎の闇を見よとや啼千鳥
(紀行として)
 すくみ行や馬上に氷る影法師
 鷹ひとつ見つけて嬉しいらこ崎
 寒けれど二人旅ねはおもしろき
 
伊勢
 何の木の花ともしらずにほひかな
 裸にはまだ二月のあらし哉
 神がきや思ひもかけず涅槃像
 山寺のかなしさつげよ薢ほり
 物の名を先とふ荻の若葉哉
 梅の木になをやどり木や梅の花
(讃として)
 さびしさや花のあたりのあすならふ
 

書生

伊賀、尾張、伊勢だけですか。
でも、「かちならば」は、四日市。「青葉して」は、奈良。ほかに、伊良湖の句や吉野の句もありますね。

隠居

折角抜いたのだから、しっかり読む。

書生

はい、……
「おれも」?これは、「よし野にて我も見せふぞ檜の木笠」
「丈六の」は初案でしたね。これは、「丈六にかげろふ高し石の上」
「青葉して」は、「若葉して御めの雫ぬぐはゞや」ですね。

隠居

もうよかろう。完成形の句は少ないということです。
ちなみに、「青葉して」句の詞書きは、「幾年ばかり先にや侍らん、この宮古[都のこと]の西大寺に詣して」と不確かで誤りもある。唐招提寺の句です。

書生

「せうだい寺」とでも書いてあって、読み違えたかも知れません。
ともあれ、「笈の小文」の句は、伊賀、尾張、伊勢のものが、入っているが、完成形は少ないと分かりました。
芭蕉は、伊賀、尾張、伊勢のものを残したわけですが、杜国とともに行脚した分は、そっくり乙州に渡していますね。

隠居

杜国同行の句としては、「檜の木笠」と「青葉して」「さびしさや」などが残っておる。

書生

まあ、そうですが、ごく一部です。
乙州は一読し、杜国と行脚した文は、「自分だけ」が持っていると気付くでしょうね。
ところで、岩波の「芭蕉紀行文集」の根拠は、「笈日記」でしたか。芭蕉の草稿全体を言うというところ。

隠居

然り。
これが、芭蕉没後1年に満たぬ元禄8年7月に、語られておるわけですな。
一方、乙州は、芭蕉没後13年、宝永4年の序で、
「上かた行脚せられし時道すからの小記を集て、これをなづけて笈のこぶみといふ」
と、観桂堂砂石子に語らせておる。

書生

つまり、12年も先行する支考の「笈日記」を無視した形。
乙州は、「上方行脚の小記を、『笈の小文』と聞いた」と主張したことになりますね。

隠居

そう、「笈の小文」と銘打って、宝永6年の元日付けで、平野屋から出版した。

書生

ええっと、ちょっと整理しますね。
支考は、芭蕉の遺品である笈にあった文を編んだ。諸国行脚の文は、「笈の小文」と名付けると聞いていたが、そう名のるのははばかられた。

隠居

されども、12年後、乙州が「上方行脚の文」を、「笈の小文」として上梓した。

書生

支考と乙州と、どちらを信じたらよいのでしょう。

↑ トップへ


linelineline

「笈の小文」という題②:「去来抄」

隠居

信ずるかどうかではない。
「去来抄」も見ておこう。
先ず一通り読む。

罫線

去来抄 先師評 (元禄16年前後)
①岩鼻やこゝにもひとり月の客  去来
②先師上洛の時、去来曰く、「洒堂は此句を月の猿と申し侍れど、予は客ガ勝りなんと申す。いかゞ侍るや」
③先師曰く、「猿とは何事ぞ。汝、此句をいかにおもひて作せるや」
④去来曰く、「明月に乗じ、山野ヲ吟歩し侍るに、岩頭ニ一人の騒客を見付けたる」と申す。
⑤先師曰く、「こゝにもひとり月の客と、己と名乗り出でたらんこそ、幾ばくの風流ならん。たゞ自稱の句となすべし。此句は我も珍重して『笈の小文』に書き入れける」となん。
⑥予が趣向は、猶二三等もくだり侍りなん。先師の意を以て見れば、少し狂者の感も有るにや。退きて考ふるに、自稱の句となして見れば、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。誠に作者そのこゝろをしらざりけり。
⑦去来曰く、「笈の小文集」は、先師自撰の集なり。名をきゝていまだ書を見ず。定めて草稿半ばにて遷化ましましけり。
⑧この時申しけるは、「予が発句、幾句か御集に入り侍るや」と窺ふ。
⑨先師曰く、「我が門人『笈の小文』に入句、三句持たるものはまれならん。汝、過分の事をいへり」と也。
 
※去来抄は、元禄15年(1702)頃~宝永元年(1704)の約3年間で成立。
※安永4年(1775)出版。芭蕉没後81年。

書生

……、なるほど。
⑤「此句は我も珍重して『笈の小文』に書き入れける」は、芭蕉が去来の「岩鼻や」句を「笈の小文」に書き入れたということですね。
⑦「『笈の小文集』は、芭蕉自撰の集である。その名は聞いていたが、まだその集を見ていない。
きっと草稿半ばでお亡くなりになったのだろう」と。
⑧去来が、「私の発句、幾つか入っていますか」と聞くと、
⑨芭蕉、「門人で3句入っている者はまれだ。贅沢を言うな」と。
聞かずに、見せてくれと言えばよかったのにね。
この去来の句、芭蕉の遺稿集「笈日記」に入ってますか。

隠居

入っておろう。しばし待て、……
  名月
 岩はなやこゝにもひとり月の客

「京都 附嵯峨」の部ですな。

書生

「笈の小文集」も交ざっているということですね。

隠居

交ざっていたというか、全部入っておったのじゃろう。

書生

②に言う「上洛の時」は、やはり猿蓑撰のころでしょうか。

隠居

そうじゃろうな。
洒堂の名が入っておるが、入門が元禄2年なので、それ以後。
猿蓑撰が元禄4年5月。まあ、そんなところかな。
元禄3年の晩夏、晩秋、冬。元禄4年の夏、初秋、晩秋と、何度も上洛しておったから、元禄4年5月と決めつけることはできんがな。

書生

支考の言うとおりでしたね。
乙州も、去来に聞けばよかったのに。

隠居

去来も、宝永元年に逝去しているから、聞けん。
去来抄の出版は、安永4年。乙州没後55年のことだから、去来抄も読めん。

↑ トップへ


linelineline

「笈の小文」という題③:「庚午紀行」「芳野紀行」「卯辰紀行」

隠居

支考の「笈日記」は、読めたはずだが、乙州は、「笈の小文」という題で、出版してしまった。

書生

こういうことでしょうか。
乙州は「上方行脚の文」を「『笈の小文』という」と聞いて授けられてた。しかし、「笈の小文」は、それだけでなかった。伊賀、難波、京都、嵯峨、湖南、彦根、大垣、岐阜、尾張、伊勢の十ところの文もあった。

隠居

そういうことじゃろうな。
されど、他の門弟たちは、「笈の小文」という題をよしとしなかったわけでな。いろんな題に変えた。
一応、「上方行脚の文」の「題」をたどってみよう。
まず、乙州の「笈の小文」、宝永6年(1709)。芭蕉没後15年。
次に、支考の「庚午紀行」。俳文集「本朝文鑑 」にあって、享保3(1718)年刊。芭蕉没後24年。

支考の「庚午紀行」
書生

「庚午年」って、……元禄3年のことですね。訳が分かりません。

隠居

校正終了の年を題にしたようですな。「本朝文鑑」には自注があって、
 此の記は元禄の庚午ならんか。世に伝ふるも多ければ、或は乙丑紀行とも云へる、
 其の紀は貞享の秋なるべし。さるを武江の芭蕉庵にて、紀行を取捨し給へるは、
 元禄の辛未と見えたれば、両紀の文法を取合はせて此の篇をなせりと見ゆ。
などとあります。
「乙丑」は、貞享2(1685)年ですな。「野ざらし紀行」の旅から4月下旬に深川の芭蕉庵に帰っています。12月には「野ざらし紀行」「冬の日」を板行しています。「笈の小文」には全く関係がない。
「貞享の秋」は、分かりませんな。貞享4(1687)年の秋は出発前で、送別会がありましたが。
「元禄の辛未」は、元禄4(1691)年です。義仲寺で新年を迎え、近江で乙州餞別、3月まで伊賀上野、4月からは「嵯峨日記」、「猿蓑」編集、このころ「笈の小文」も編集していますが、芭蕉庵ではありません。「住めるところは人に譲り」ですから、10月下旬江戸に戻ったときは、日本橋の借家ですな。芭蕉庵の完成は元禄5(1692)年5月、去来宛書簡で分かります。
 愚老住所、内々申し進じ候ふ通り、橘町と申して、浜丁にて越前殿上り屋敷の跡新地、
 江戸はづれながら江戸なか遠くもあらず候。~卯月初めより深川に草庵とりかかり、
 頃日既に成就候。九日十日の内に移り申し候ふ。
支考のことも出ますな。盤子の号は、盤珪禅師に学んだことにちなむようです。
 盤子は二月初めに奥州へ下り候ふ。いまだ帰り申さず候。こいつは役に立つやつにて
 御座無く候。其角を初め、連衆皆々悪み立て候へば、是非無く候ふ。もつとも、投節何
 とやら踊りなどで、酒さへ飲めば馬鹿尽し候へば、愚庵気を詰め候ふこと成りがたく候
 ふ。定めて帰り候はば上り申すべく、そこ元へ尋ね候ふも御覚悟になさるべくと存じ候ふ
 ゆゑ、内証かくのごとくに御座候ふ。史邦へもひそかに御伝へ、沙汰なきやうに御覚悟
 なさるべく候ふ。

書生

おやおや。

隠居

まあ、支考の書いたものは、元号や干支まで信じられません。
例えば、双林寺に建立した仮名碑、芭蕉が「承応の頃より藤堂の家に事ふ」とあるが、承応のころは、まだ11、2歳、出仕は寛文の初めころでしょう。
その仮名碑建立のとき、「二十五箇条」を筆写して、「宝永七辛卯三月十二日」と書いていますが、これは宝永七年なら「庚寅」。
翌8年の「阿誰話」に、「今年は宝永辛卯の秋なりけり」とある。この年は「辛卯」でよいが、宝永は4月までなので、秋なら「正徳」である。
また、吉野山の句は「宝永の戌寅」とあるが、「戌」は「戊」とあるべきだが、直近の「戊寅」は元禄11、これも「庚寅」の誤り。

書生

もう、わかりました。で、内容は。

隠居

「笈の小文」の文を論理的に推敲してあって、読みやすいが、如何せん、内容の改変がある。わしが許せんのは、旅程が頓珍漢になっておるところじゃ。
「遠江より三川をいたりいらご崎といふところに杜国が幽棲をとぶらひてことしも美濃尾張の間に暮れなんとす」、
「みのより十里の川ふねに乗りて」、
「それよりは和歌の浦つたひに津の国をも行過て須磨明石」、

書生

もう、わかりました。目茶苦茶です。

蝶夢の「芳野紀行 又称卯辰紀行」
隠居

話にならん。
蝶夢の「芳野紀行 又称卯辰紀行」、安永5年(1776)、芭蕉没後82年。蝶夢は「芭蕉翁文集」に入れたとき、「芳野紀行」とした。また、貞享4,5年は卯年辰年の旅だとして「卯辰紀行」ともしておる。
内容は、ほぼ「笈の小文」そのままでな。

書生

なんと。題だけ変えた。

隠居

だから、支考の「笈日記」。序文の冒頭にある通り、芭蕉の行脚の形見となる蕉門の作品集が「笈の小文」だと。

書生

去来も同じようなことを書き遺しました。

隠居

蕉門十哲の二人が言うことに、間違いはなかろう。
右は、十哲の筆頭とも言われる許六の寸評。

罫線

許六の乙州評、「俳諧問答青根が峰」

乙州が器も大方なり。第一師の恩によつて乙州という名は出たり。
折節血脈の筋を言へると雖、彼確には知るまじ。たとへば船に乗る人船中の前後も知らずに寝たり、時に順風出でて着船したるが如し。
翁の追善に木節と両吟の俳諧。自慢する所の附合とて、路通が行状記に出でたり、その巻に言ふ。
発句も脇も師の噂なり、また奥に師の噂の句二句あり、かやうに一巻の中に、幾所も出しても苦しからぬ格式ありや、知らずたまたま一句などは其恩を忘れぬ便ともいふべし。度々の事にてうるさく侍るなり、発句に目立たる事は、一巻の奥までも遠慮すべきなりと、師説。

書生

おや。これを書き残す人の人格、並ではありません。
これは、寸評どころか寸鉄。

隠居

去来とやりとりした書簡の中にあります。

書生

「器も大方」とは。

隠居

「凡庸」ですな。

書生

さらに、「師恩で出た名」で、実力ではないと。

隠居

寝てる間に船が着いたとな。

書生

「木節と両吟」はどのようなものでしょう。

隠居

これですな。
「初月忌、おもひおもひの追善ども有る中に、両吟」とあって。

 風月の霜の剱を折らしけり   乙州
  冬の野原にいなす飼鳥    木節
 食をたく煙は同じ時分にて
  番の行燈(あんど)を次へやらるゝ
 月の夜はわかひ衆が寄松の下
  仕舞て飾る小鰯の雑篭(ざる)

 手のひらに乗ていただく早稲の米
  たる木の煤のおつる首筋
 雨雲の間は八町あるながき
  莟ばかりののりし夏菊
 見ゆるのが内の嫁子の在所也
  碁一盤にて中をたがわれ
 朝時から並ぶ天窓(あたま)は白髪にて
  杖笠頭陀は過し世の夢
 不自由なる咄しかあれは外の浜
  物わすれる実方の後家
 夜露にもうたれて庭の月と花
  ともにうきたつ鈴菜すずしろ

罫線

 春の空いねむる馬に声かけて
  日半に家の出来て屋ね葺
 ちんちんと茶釜ひとつが熱かへり
  唯鴬の音を入て飛
 さればこそうかと語らぬ縁の道
  九字切かくる奥の法印
 大庭に六具をしめてなみ居たる
  夜中の過にによいと出る月
 秋風のいなの笹原さはさはと
  まづ吸物にあたらしき茸
 石臼はうすくなるほどしまつして
  祖母様たちのおおき一門

 かい暮にぬかれて帰る三島市
  横にしぐれて山の腰行
 いのらるる神の身にても迷惑さ
  なくななくなと猫をかき撫
 百年の半にちりぬ花の下
  豊芦原のみな霞たつ

書生

芭蕉句の噂にも下線を付けました。

隠居

ちと、うるさい。許六の言うとおりです。
しかし、この評が当たっているとしても、他者を論評することは、芭蕉の最も嫌うところです。
増して、同門をけなすなど、あってはならぬことですな。

書生

はい。
けれども、この評を真に受ければ、題は、いい加減な人物である乙州が安易に付けたものとなります。

仏兮・湖中の「卯辰紀行 又称芳野紀行」
隠居

うむ。
次に、仏兮(ぶっけい)・湖中(こちゅう)の「一葉集」にある「卯辰紀行 又称芳野紀行」。文政10年(1827)刊、芭蕉没後133年。

書生

蝶夢は、「芳野紀行 又称卯辰紀行」ですから、逆にしてますね。
で、「芳野紀行」と言うと「吉野だけ」になりませんか。

隠居

いや、「更科紀行」を除く「笈の小文」の全文。
本文の初めのほうに、「時は冬よしのをこめん旅のつと」という句があります。「始めから芳野を志して出かけたのだから、この称は適はしい」と、大正昭和の権威が言いましてな。

書生

「よしのをこめん」ですよね。いろいろ行く中の吉野ですよ。「吉野も」行くからそれを込めるわけです。とんでもないことです。
それに、芭蕉の句ではありません。
「土産の包みには、吉野を込めているでしょう」と推量した句です。
「芳野を志して」というのは、芭蕉句と勘違いして、「土産の包みに吉野を込めよう」などという意志を読み取っていたのでしょうか。
そんな理屈が通るなら、芭蕉句に「星崎の闇を見よ」がありますから、「星崎ヤミ紀行」とでも……

隠居

まあまあ。
蝶夢は、「笈の小文」参照しつつ、改変しています。
「時はよしのをこめん旅のつと」(笈の小文)
「時はよし野をこめん旅のつと」(芳野紀行)(卯辰紀行)
これは、露沾公の餞別吟。序章で見た歌仙の発句です。
   旅泊に年を越てよしのゝ花にこゝろせん事を申す。
 時は吉野をこめし旅のつと 露沾
  鴈をともねに雲風の月   芭蕉

書生

六本木の露沾公でした。
この歌仙を巻いたのは、秋だった。で、蝶夢は、「秋」に訂正したと。
「こめん」も「こめし」にすれば、訂正したんだぞという意図がはっきりしたのに。
おや、この句の前に、
 旅人と我名よばれん初しぐれ
  また山茶花を宿々にして

という、世吉の発句と脇があります。これは、冬ですね。

隠居

しかり。紀行冒頭で季が戻るのは一大事です。
ここは冬でなければなりませんな。
仏兮・湖中は、蝶夢の改変を踏襲しつつ、さらにもう1句改変しています。
 芳野出て布子売たし衣更       「笈の小文」
 よし野出でて布子売りたしころもがへ 「芳野紀行」
 よし野出て布子売をしころもかへ   「卯辰紀行」

ちなみに、「曠野」には、
 芳野出て布子売おし更衣
となっています。

書生

曠野集の「おし」は、「惜し」ですから、文語表記は「をし」ですね。だから、卯辰紀行は「売をし」と訂正、仮名漢字は、芳野紀行に合わせています。

隠居

当時は定家仮名遣いだから、どうですかな。
で、句はどう変わる。

書生

先ず、「芳野出て布子売たし衣更」。
高野の頁で見ましたが、「吉野ならいいが、下界に降りて歩くともう暑い。これを背負えば重たいしかさばる。いっそ売ってしまいたい、そんな私の衣更えです」
で、「よし野出て布子売をしころもかへ」、これは「売る惜し」と読みたいですね。
「芳野で共に花を味わったこの布子、重たいしかさばるが、売り払う訳にはいかない。そんな私の衣更えです」というところですが、こちらのほうが叙情性があっていいかも。

隠居

売るだろ。

書生

はあ、猿雖あて書簡にありましたね。これは奈良の頁、と。
「うなぎヲ汲み入れたる水瓶も、いまだ残りて、藁の筵の上にて、茶酒ヲもてなし、かの『布子売りたし』と言ひけん万菊の着る物の値(あたい)は、彼(伊麻)に贈りて過ぎる」
売った値を伊麻に贈っています。

隠居

この書簡、「布子売る惜し」と書き換えると意味が通じぬでしょう。

書生

通じません。惜しいと売りませんから。
はい。一つ気付きました。

隠居

おお、なんじゃな。

書生

杜国の布子を売った金、伊麻に与える前は、芭蕉の懐に入っていました。

隠居

……
さて、2項にわたって「笈の小文」という題について見てきたが、どうです。

書生

宝永6年、乙州が「笈の小文」を出版します。
当然、支考など高弟たちが、題目に異を唱えます。この頃、去来は鬼籍に入っていますが、すでに許六との書簡のやりとりは、広まっていて、乙州の「器も大方なり」ということで、異も唱えやすい。
そこで、支考が、「庚午紀行」を出す。
しかし、内容が何なんで、後に「芳野紀行」や「卯辰紀行」が出てくる。

隠居

ともあれ、「笈の小文」という題は、「他の門人たちに認められていなかった」ということは、言えますな。

↑ トップへ


linelineline

笈の小文、跋文

隠居

最後に跋文を見ておきましょう。

罫線

笈の小文、跋

此ノ記行終はりて後、乙州以謂(おもへらく)、猶ホ翁之文、「かさね」及び「烏の賦」、集々に洩れぬることを惜しみ、後集を加へんとおもひ企ぬ。
         江南栰々庵乙州梓之
宝永六年孟春慶旦

書生

はい。
「この記行を書き終えてのち、乙州は思った。
まだ、翁の文、『かさね』と『烏の賦』が様々な集に洩れていることを惜しんで、後集を加えようと企画した」
何庵でしょうね。

隠居

木偏に伐で、「ハツ・バツ」と読む。訓は「いかだ」、木を組んだいかだのこと。竹のいかだは、「筏」。

書生

そうすると、「はつはつあん」でしょうか。
「乙州之を梓す」は、「乙州がこれを上梓した」ですね。
乙州が授けられた文はいろいろあったが、「かさね」「烏の賦」は、まだどの集にも入っていないということですね。

隠居

しかり。
一応、「かさね」と「烏の賦」を右に掲げておきます。「烏の賦」は、例によって訳読みにした。
一通り読まれい。

罫線

「かさね」(重を賀す)
 
 みちのく行脚の時、いづれの里にかあらむ、こむすめの六ツばかりとおぼしきが、いとさゝやかに、えもいはずをかしかりけるを、名をいかにいふととへば、「かさね」とこたふ。
 いと興有る名なり。都の方にてはまれにもきゝ侍ざりしに、いかに伝て何をかさねといふにやあらん。
 我、子あらば、此名を得させんと、道づれなる人にたはぶれ侍しを思ひいでゝ、此たび思はざるえんにひかれて名付親となり、
 
賀重
 
いく事をかさねがさねの花ごろも
しわよるまでの老もみるべく  ばせを
 
-芭蕉真蹟-


 
「烏の賦」
 
一烏ハ小大有りて名を異にす。
小を烏鵲(うじゃく)と言ひ、大を觜太と言ふ。
此ノ烏、反哺の孝を讃して、烏中の曽子[孔子の弟子、孝行者]に比す。
或は人家に行く人を<嘘を言って>告げ、天の川に[原文「の」]翅をならべて、二星の媒(なかだち)となれり。
或は大歳の宿りを知りて、春風をさとり巣を改むと言へり。
雪の曙、声寒げに、夕に寝ところに行くなんど、詩歌の才士も情あるに云ふなし、絵にも書れてかたちを愛す。
只貪猶の中[どんゆう-の-なか、一層貪欲なとき]に言ふ時は、其の徳ハ大いなり。
又汝が罪を数ふる時は、其の徳小にして、害ハ又大なり。
就中彼ノ觜太は性佞[ねい、ねじけている]、強悪(ごうあく)にして、鷲の翼をあなどり、鷹爪の利き事を恐れず。
肉ハ鴻雁の味もなく、声ハ黄烏[こうちょう、コウライウグイス。声がよい]の吟にも似ず。
啼く時は、人ハ不正の気を抱きて、かならず凶事をひいて愁を向ふ。
里にありては栗柿の梢を荒し、田野に有りては田畑を費す。
粮[=糧]に辛苦の労を知らずや。
或は雀のかいご[卵]をつかみ、池の蛙を食らふ。
人のしかばねを待ち、牛馬の腸をむさぼりて、終に烏賊[漢字の由来から]の為に命をあやまり、鵜の真似[ことわざから]をしてあやまりを伝ふ。
これ皆、汝むさぼる事大にして、其知を責めざる誤りなり。

汝がごとき心貪欲にして、かたちを墨に染めたる、人に有りて買僧[売僧(まいす)の誤り、物売りをする堕落僧)]といふ。

釈氏もこれをにくみ、俗士も甚だうとむ。

あゝ汝よくつゝしめ。

羿(げい、弓名人)が矢先にかゝつて、三足の金烏に罪せられんことを。
 
-「雪の流」松琵、寛保3年(1743)から-

書生

かさねという少女は、「おくのほそ道」仁出てますから、細道の旅後から乙州に授けるまでに成立した小文ですね。
烏の賦の成立は?

隠居

「かさね」は元禄3年です。
「烏の賦」は、元禄3年9月13日付、義仲寺にいる芭蕉から、京の凡兆にあてた書簡が、手掛かりとなります。
その抜粋。
「烏ヲ憎む之文、御見せ、感吟いたし候ふ。去り乍ら、文章くだくだ敷き所ガ御座候ふて、しまりかね候ふ様に相見え候ふ間、先づ先づ他見成さるまじく候ふ。殊の外よろしき趣向にて御座候ふ間、拙者に御意を懸けらる可く候ふか。文章に増補いたし、拙者の文に致す可く候ふ。もし又、是非と思し召し候はヾ、拙者の文ヲ御覧成され候ふて、其の上にて、又、御ン改め成さる可く候ふ。文の落ち付き所、何を底意に書きたると申す事御座無く候ふては、をどり・くどき・早物語の類に御座候ふ。古人の文章に御心付けらる可く候ふ。此ノ文にては、烏の伝記に成り申し候ふ間、能く能く御工夫御尤もに存じ候ふ」
これは、芭蕉が凡兆から、「烏を憎む文」を譲り受け完成させたいという内容です。
従って、これ以後、乙州に授けるまでに成立したことになる。
時間的には合います。
なお、「雪の流」が、今のところ初出。

書生

へえ、その元禄3年から「雪の流」に載るまで、実に53年。
乙州は上梓しなかったのですね。
「かさね」は?

隠居

乙州も誰も上梓しなかったようじゃがな。
で、本題の乙州にだけ授けた謎、解明に近づいたかな。

書生

いや、近づいてきたかなと思ったのですが、また、遠のきました。
これは、逃げ水ですね。

隠居

おや。

書生

この「かさね」の文も、「烏の賦」も乙州にだけ、授けたことになるでしょ。
宝永6年に刊行した「笈の小文」の跋に、「かさね」「烏の賦」が明記されているわけですから、他の門弟たちの誰かが持っていれば、53年も……、誰でしたっけ?

隠居

松琵しょうひです。
大津の人で正秀の門下。
芭蕉没の時23歳、享保8年正秀の追悼集「水の友」を編んでおる。

書生

その松琵が上梓するまで、世に出ないことはないでしょう。
……、乙州の帰幽は?

隠居

享保5年。

書生

この年、近江で存命しているのは、……尚白、千那、正秀の3人、と。
なら、芭蕉の遺稿が乙州から正秀に渡り、松琵に渡っても何ら不都合はないわけです。

隠居

都合の問題ではないぞよ。
さて、「乙州にだけ授けた」ことにこだわるべきですな。

書生

逃げ水を追わずに振り返ると、
元禄4年1月1~5日、芭蕉、乙州の新宅で新年を迎える。江戸に行く乙州への餞別句「梅若菜」を与え、歌仙を開始する。
元禄4年1月6日頃、芭蕉、伊賀に行く。
元禄4年3月末、芭蕉、大津へ行く。
元禄4年4月18日、芭蕉、落柿舎へ行き、嵯峨日記の執筆を始める。
元禄4年4月22日、芭蕉、乙州が江戸から帰ると知る。
元禄4年4月25日、史邦・丈草・乙州、落柿舎を訪問。
元禄4年4月26日、史邦・芭蕉・去来・丈草・乙州、五吟五句
元禄4年4月28日、落柿舎で、杜国の夢を見、起きてまた泣く。
元禄4年5月5日、芭蕉、落柿舎を出る。凡兆亭で猿蓑編集の監修。
元禄4年6月10日から、芭蕉、乙州邸に3泊。このとき授けたと推定。
杜国の夢、夢は五臓の疲れ、……ではなくて、

隠居

「ねずみ穴」ではない。芭蕉は、「念夢」と言うておる。
「念」は、「いつまでも思う」こと。いつまでも思うことで夢を見るということ。

書生

はい、そうでした。
しかし、「元禄4年6月 乙州、笈の小文を授かる」の項で見たとおりで、新たなことは浮かびません。
ただ、「烏の賦」、これは、凡兆の「烏を憎む文」を、芭蕉が書き換えたものですね。
凡兆にも渡りますよね。

隠居

当然渡っておるだろう。が、2年後の元禄6年凡兆は入獄する。凡兆の手元の「烏の賦」が日の目を見なかっただろうことは、想像に難くない。

書生

あれ。で、乙州の元だけに残った。
「かさね」も乙州の元だけですね。

隠居

「かさね」の親とな。

書生

はい。一つ気付きました。

隠居

……、また芭蕉の猫ばばか。

書生

いえ、乙州の総ざらえ。乙州は「笈の小文」だけでなく、このとき芭蕉の笈にあった文を、総ざらいしています。
それも、芭蕉が清書したものを渡しています。

隠居

根拠は?

書生

笈日記は、芭蕉の遺稿から編まれていました。
上方行脚の際に詠んだ、伊賀・尾張・伊勢の句の多くは、初案のものが多く、乙州の「笈の小文」の句がすべて勝っています。
芭蕉没後、様々な集が出版されましたが、乙州が渡された文の内、「上方行脚の文」、「かさね」、「烏の賦」はどれも集に入っていなかったということです。
ですから、乙州は、自分だけ授けられたと思っても無理はありません。

隠居

成る程。
されど、乙州にぬかりがあってな、……、「更科記行」は、既に上梓されていた。
と、言っても、この講読には関係ない。版権の問題だけです。
「笈の小文」は、宝永6年平野屋から出版されたが、既に宝永元年岱水の「きその谿」に「更科記行」が、入っておった。これは井筒屋の出版である。これは、版権の侵害で、「笈の小文」は、井筒屋に版権が移る。まあ、それだけのことですが。

書生

はい。
で、「乙州だけ」という謎、証拠は示せませんが、私なりに納得することができました。

隠居

では、この講読を振り返る。

↑ トップへ


笈の小文、講読の振返り

lineline

13 旅後(京~岐阜~大津~岐阜~名古屋、附:乙州)

隠居

で、乙州の動向。
お主の旅程表で、「梅若菜の巻」(これは猿蓑に入ったほうじゃが)、三つの会で32句まで、残り4句は、個々に付けたことが、手に取るように分かったな。

書生

いや、恐縮です、そうおっしゃっていただいて、……

隠居

その後、「乙州だけに授けた」ことを検討した訳ですが。

書生

ええ、私なりに納得できました。

隠居

世間には通用せぬがな。

書生

ええ、「お家に帰って、『ただいま』を言うまでが旅行」なんです。
更科記行を経て、芭蕉庵に帰るまで読みたいと思います。

隠居

ご奇特な事です。

↑ トップへ

 


 
  ---笈の小文講読ページの解説---