笈の小文 奈良(奈良~布留~八木~大坂)

笈の小文 索引
序文序章鳴海保美熱田伊賀伊勢吉野高野奈良須磨箕面旅後
笈の小文 奈良 索引
原文奈良~大坂旅程奈良・西の京~八木~竹の内~大坂
講読4/8 奈良東大寺灌仏会4/10 唐招提寺
4/11 伊賀上野の人たちとの別れ4/11 布留の滝(吉野から移動)
4/11 耳なし山の東に泊る(初瀬から「草臥て」句の移動)4/18 「杜若」句、一笑亭
資料奈良から大坂への旅程東大寺、奈良から誉田八幡への足跡
大仏殿再建、起工式見物-西行のかかわり-4/8 大仏殿起工式-大仏再建の歴史-
南都の再会-猿雖あて書簡の謎-伊賀上野の人たち(旧友)
4/12 孝女お伊麻、竹の内~岩屋峠4/12,13 誉田八幡から大江の岸へ
番外資料西行と俊乗について西行と俊乗、略年譜
出会い高野山、修行時期の重なり高野山、別所造営
邂逅伊勢二見、西行の隠棲と俊乗の神宮参拝伊勢の神官の働き

奈良・大坂


 芭蕉は、奈良で大仏殿起工の法要を見物し、須磨へ行く途中大坂に滞在する。
 このページでは、和歌浦から須磨に向かわず、奈良へ戻る不可解な行動を読み解き、さらに、須磨へ行く途中大坂に滞在するわけを、限られた資料をもとにひもときます。


笈の小文 「奈良・大阪」

奈良~大坂

段落区分笈の小文、本文備考
奈良大仏 灌仏の日は奈良にて爰かしこ詣侍るに、鹿の子をうむを見て、此日におゐてをかしければ、

4/8 灌仏会へ

 灌仏の日に生れあふ鹿の子哉
唐招提寺 招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎ給ひ、御目のうち汐風吹入て、終に御眼盲させ給ふ尊像を拝して、

4/10 唐招提寺へ

 若葉して御めの雫ぬぐはゞや
別れ 旧友に奈良にてわかる。

4/11 旧友との別れへ

 鹿の角まづ一ふしのわかれかな
布留 布留の滝は、布留の宮より二十五丁山の奥也。

※ 吉野のページ 3/21 西河の次から
4/11 布留の滝へ

八木 草臥て宿かる比や藤の花
 (別案 時鳥宿かるころの藤の花)

※ 吉野のページ 3/20 初瀬から
4/11 耳成の東へ

大坂一笑亭 大坂にてある人の許にて、

4/18 一笑亭へ

 杜若語るも旅のひとつ哉

笈の小文 「奈良・西の京~八木~竹の内~大坂」
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隠居本文は、奈良と大坂の句ですな。
書生

旅程は、4月4日の奈良から、竹の内、大坂、そして、19日神戸着までです。

隠居

約2週間ということです。

書生

大坂6泊7日は、その半分近くになります。何をしていたんでしょう。

隠居旅程を見てから、探ってみましょう。

旅程⑧ 貞享5年4月4日~4月19日、奈良~竹の内~大坂~神戸
<足跡>事項移動逗留宿所移動左累計
貞亨544

<奈良の宿-諸社寺参詣-奈良の宿>
・諸社寺参詣

奈良町奈良の宿 10.0 1,306
貞亨545

<奈良の宿-東大寺参詣-奈良の宿>
・俊乗上人月命日の式見物

奈良町奈良の宿 10.0 1,316
貞亨546

<奈良の宿-諸社寺参詣-奈良の宿>
・諸社寺参詣
立夏

奈良町奈良の宿 10.0 1,326
貞亨547

<奈良の宿-諸寺参詣-奈良の宿>
・伊賀上野の人々と再会

奈良町奈良の宿 10.0 1,336
貞亨548

<奈良の宿-東大寺灌仏会-奈良の宿>
・灌仏会の日、大仏殿釿始めの式(起工式)見物。

奈良町奈良の宿 10.0 1,346
貞亨549

<奈良の宿>
・伊賀連衆と俳諧興行。

奈良町奈良の宿 - 1,346
貞亨5410

<奈良の宿-唐招提寺-奈良の宿>
・ 招提寺見物。
 若葉して御目の雫拭ぐはばや

西の京奈良の宿 10.2 1,356
貞亨5411

<奈良の宿-山の辺の道→歌塚→在原寺→布留の社→布留の滝→八木の宿>
・伊賀上野の人々と別かれる。
 鹿の角先づ一節のわかれかな
・在原寺・布留の社・布留の滝を見物し、耳なし山の東に泊る。
 草臥て宿かる比や藤の花

上街道八木の宿 32.0 1,388
貞亨5412

<八木の宿→竹の内→当麻-竹ノ内街道→誉田八幡の宿>
・竹の内、伊麻の家に行く。
・ 誉田八幡の宿に泊まる。

竹ノ内街道誉田八幡の宿 25.2 1413
貞亨5413

<誉田八幡-1.5㎞ 道明寺-2.3㎞ 藤井寺-17.8㎞ 大江の岸(天満)=八軒家>
・大坂大江、八軒屋の宿に泊まる。

大江八軒家の宿 21.9 1,435
貞亨5414  大江八軒家の宿 - 1,435
貞亨5415  大江八軒家の宿 - 1,435
貞亨5416  大江八軒家の宿 - 1,435
貞亨5417  大江八軒家の宿 - 1,435
貞亨5418<八軒家→一笑亭> 

  大坂にてある人の許にて、
 杜若語るも旅のひとつ哉

浦江辺り一笑亭 3.7 1,439
貞亨5419

<一笑亭→尼崎の港-神戸の宿>
大坂から渡海舟で神戸に行く。

笈の小文神戸 31.4 1,470

※ 4月8日までの、諸社寺参詣は、概略10キロを入力。
※ 八軒家の宿滞在中は、行動不明のため入力せず。

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笈の小文 奈良~西の京~八木~竹の内~大坂
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東大寺、奈良から誉田八幡への足跡

隠居

東大寺付近

紀三井寺から奈良への経路は、前段「高野」の最後で見たとおりです。

 
芭蕉がどこに泊まったか、定かではないけれど、東大寺の近くが穏当ですな。
仮に、猿沢の池、南の畔としてみた。
右図では、猿沢池の「沢」の字辺り。
今は老舗「魚佐旅館」があるが、この15日(2013/01/15)で、江戸後期からの長い歴史を閉じるという。
芭蕉の頃、魚佐はまだなかったでしょうが、旅館には最適の地です。何らかの旅館はあったことでしょう。
魚佐には、小泉八雲も泊まったし、猿沢の池に映る興福寺五重の塔には、感動する。
わしも、学生のとき、万葉遠足で泊まったことがある。非常に残念です。
さて、芭蕉が、小文に「灌仏の日ここかしこ詣ではべる」と、書いています。
右図はその辺り。
聖武天皇陵、俊乗堂、鑑真の戒壇院は、まず行っておりましょう。
再建勧請の拠点、竜松院も行くでしょう。
和歌浦からの旅程を見るかぎり、遅くとも4日には着いています。
8日の灌仏会まで、3、4日のゆとりはあるので、もっといろんなところへ行ったことでしょう。

書生

唐招提寺も行ってますね。

唐招提寺へ
隠居

行きました。
伊賀上野の人たちも一緒ですな。
従って、灌仏会の後と、日付も確定します。

書生え?
笈の小文に、一緒だなんて、書いてありませんよね。
隠居

何も書き残してはないけれど、証拠はあります。また後で。

書生誉田八幡へ

奈良で、伊賀上野の人たちと、別れます。
伊賀上野の人たちは、北へ行き、奈良坂を越えて、東進。
芭蕉たちは南へ、上街道を進みました。
三輪山麓、山の辺の道も歩いたんですね。
人麻呂の歌塚は、在原寺の近くで、どちらも櫟本いちのもとにあります。
石上神宮から、布留の滝往復。
丹波市は、今の天理の中央辺りで、そこを過ぎ、八木の宿で泊まります。
ただ、耳成山の「東」は、疑問です。
八木宿は耳成山の「西」、今は橿原市の中心市街です。
宿を朝出て、真西へ、二上山に向かって行きますと、竹の内の伊麻の家に至ります。
ここで伊麻に再会。
次に当麻寺に詣で、二上山へと登り、雌岳山頂手前の岩屋峠から太子へ抜けて、誉田八幡へ至りました。
ここで一泊しています。

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大仏殿再建、起工式見物

-西行のかかわり-

隠居

さて、芭蕉は、須磨・明石へ行く予定をしていたが、反対方向の奈良へ来ました。
その理由とは、何でしたかな。

書生灌仏会の日に、大仏殿の起工式が行われるのを見るためでした。
隠居そうですな。で、そこまで奈良大仏に心惹かれる訳は?
書生俊乗上人の旧跡である伊賀の新大仏を訪れたこと、俊乗上人が、大仏再建を祈った伊勢神宮や、天平期の大仏創建にゆかりのある菩提山に訪れたことで、興味が深まっていたからではないでしょうか。

→ 伊賀/新大仏

隠居うむ。さらに、西行のこともありますぞ。
書生西行と大仏に関係がある、と。
隠居

左様。
俊乗上人が、大仏再建を伊勢神宮に祈ったのが、文治2年(1186)の4月。
西行が、伊勢の西行谷を旅立ったのも、同じ文治2年の7月。

→ 伊勢/菩提山

書生同じ年?
隠居

西行69歳、菩提山の称住上人に別れを告げましたな。
 めぐりあはで雲ゐのよそに成りぬとも 月になれ行くむつび忘るな (西行、山家集)
この旅は、奥州への旅。
 年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山 (西行、新古今)

西行、奥州行の訳
書生

二つの歌から、生きて戻れぬかもしれない旅に感じられます。
奈良とは逆方向、しかも、陸奥一人旅。

隠居

秋七月に伊勢を出て、月の松島、時雨の白河と進んで、
目指すは、奥州平泉藤原秀衡。砂金勧進の督促です。

書生なんでまた。
隠居

なんでは、なかろう。
大仏に鍍金するためじゃ。
勧進をし、
 まちわひぬおくれさきたつあはれをも 君ならてさは誰かとふへき
感謝する。
 すてやらていのちををふる人はみな ちちのこかねをもてかへるなり

西行と俊乗は、高野聖の仲間。西行が三つ上。

書生

へえ!
歌はともかく、見事つながります。
新大仏~伊勢~菩提山~行基~俊乗~高野~西行~大仏

隠居

再建のため、年長けてから奥州に旅立った西行の思いをかみしめ、大仏殿再建の儀式を見たいという芭蕉の思いは、いかばかりであろうか。
南都大仏殿の縁である。

書生

なんと。

隠居

如何なされた。

書生

いえ。
西行と俊乗のつながりとか、二人の再会とか、出来過ぎかと。

隠居

やんぬる哉。
しかし、根拠を求むる姿勢は天晴。
ならば、西行と俊乗の年譜を作って参られよ。
然すれば、自ずと得心がいくはず。

書生

はあ。

 番外資料「西行と俊乗、出会いと邂逅」へ ↓

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4月8日大仏殿起工式

-大仏再建の歴史-

隠居

この年、大仏殿建築開始の主な式は、
4月2日 聖武天皇月命日の法要から、
4月5日 俊乗上人月命日の法要、
4月8日 大仏殿釿ちょうな始めの式まで、7日間行われました。
これを、ある程度承知しておくことは、笈の小文の講読に役立つでしょう。

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大仏再建の歴史


743(天平15)年……良弁の進言で、聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を出す。行基が諸国で大仏造立の勧進
744(天平16)年……聖武天皇の勅願により、伊勢に菩提山神宮寺を、行基が創建
752(天平勝宝4)年大仏開眼供養
753(天平勝宝5)年鑑真来日、東大寺に戒壇院を建立し僧を育成。
758(天平宝字2)年大仏殿竣工


1180(治承4)年……平清盛の命で、平重衡が南都を焼き討ち。諸堂焼失
 同年春……西行、伊勢二見浦に草庵を結ぶ。
1181(養和元)年……俊乗、大仏修復の勧進を開始
 同年 ……大仏修復開始
1185(文治元)年3月……平家滅亡
 同年8月28日……鍍金されぬまま大仏開眼供養
1186(文治2)年4月……俊乗、伊勢神宮に大仏殿再建祈願。
 同年7月……西行、奥州藤原氏に砂金寄進要請の旅に出る
1190(建久元)年……大仏殿竣工
1195(建久6)年……大仏殿落慶法要、源頼朝列席
1202(建仁2)年……俊乗を開基として、伊賀に新大仏寺を建立
1203(建仁3)年……東大寺総供養


1567(永禄10)年三好・松永の戦いで、諸堂焼失
1568(永禄11)年山田道安、大仏仮修理、仮堂建設
1610(慶長15)年暴風で仮堂倒壊
1684(貞享元)年……公慶、大仏修復の勧進開始
1686(貞享3)年……大仏修復開始
1688(貞享5)年……4月8日、大仏殿起工式に僧1千、匠5百、68万人参詣
1691(元禄4)年……大仏修復完了
1692(元禄5)年……大仏開眼供養に僧1万3千が出仕、1か月で21万人参詣
1694(元禄7)年……大仏殿再建開始
1704(元禄15)年大虹梁用松材(23m×径1.2m×2本)が霧島で見つかる。
1708(宝永5)年……大仏光背を除き、大仏殿竣工。落慶法要に18日間で16万人参詣
1739(元文4)年……勧進により光背完成取付。

書生右に概略を置きましたが、結構「笈の小文」と関連しているのに、驚きます。
隠居

うむ。菩提山神宮寺建立。
鑑真和上来日。
芭蕉にとって、千年近い昔のことです。

書生俊乗の伊勢参拝、西行の奥州砂金勧進も、5百年昔のことでした。
隠居

新大仏寺も5百年前です。

書生ところが、永禄10年の戦乱は、百年前。
隠居

百年など、ついこの間のことですな。
平安末期、治承の焼失は、即座に俊乗上人が立ち上がった。
されど、安土桃山末期、永禄の焼失後は、仮修復はされたが、百年放置されている。

書生そこで、公慶上人が立ち上がりました。
隠居

まだ上人ではない。
一文二文と寄進を勧め、その輪が全国に広がって、この4月8日を迎え、68万の参詣者を集め、その後上人になった。大変な功績です。
この勧進の拠点が、東大寺竜松院。

書生

この68万は、主催者発表ですね。

隠居

いかなる意味かな。

書生

いえね、変ですよね。
右の資料によれば、大仏開眼は、1か月で21万人の参詣。
大仏殿落慶法要は、18日間で16万人ですね。
大仏開眼や、大仏殿竣工は、見るべきものがあって、庶民が集まるのは分かります。
でも、起工式って、まだ何もないですよね。
なのに68万人は多すぎです。
仮に、4月2日から8日の7日間の延べ人数としても多すぎ、十分の一の6万でも多すぎです。
大仏開眼の様子は、どうだったんですか?

隠居

いやもう、それは大変な騒ぎですな。
若草山麓には、救護所、迷子預かり所が作られ、人面魚の見世物小屋も出ました。
まあこれは、鯉にお面を付けただけでな。
一方、猿沢の池では、大仏拝観の順番待ちで、皆が餌をやるもんだから、亀や鯉も辟易。鹿が池に飛び込んで餌を片付けていたという。
宿は当然満室で、「庶民の家に泊まらせてよい」という触れ書きも出ましたぞ。

書生

ですよね。1か月で21万でも大変です。

隠居……
書生

それに、当時の奈良の人口は3万5千、各家庭で家族の人数分引き受けても、収容できるのは3万5千。68万はあり得ない。
ちなみに、大阪万博の1日最高入場者数は83万人。会場面積は330ヘクタールですから、ピーク時68万人として、1㎡当たり0.2人です。
大混雑したことで名高い愛知万博、1日最高入場者数は28万です。会場面積は173ヘクタールありましたが、半分は森で、人が入れませんでした。約半分の90ヘクタールとしましょう。1㎡当たり0.3人です。
奈良公園は、道路や池を含む平坦部が、40ヘクタール。68万人では、1㎡当たり1.7人。
万博の6~9倍の混み具合です。しかも鹿もいてますから、大騒ぎになります。

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南都の再会

-猿雖あて書簡の謎-

隠居

さて。
高野から、芭蕉の足跡の手掛かりに、猿雖あて書簡を引用しましたが、奈良以降は、その全文を参考にします。

書生はい。
隠居

先ず、奈良に来た4月3日夜に、芭蕉が書いたはずの手紙。これを想定します。


「三日、猿沢の宿、『魚屋佐兵衛』に、着き申し候ふ。東大寺辺りは、既に満室に候ふ故、此の所(=猿沢)に成り申し候ふ。其処(そこもと)らガ、灌仏会にお越しに成られ候ても、最早泊まる可き宿は無きに候ふ処、此処元(ここもと)の部屋は広く、同宿能ふ可き故、御心労成さる間敷く候ふ。
四月三日     芭蕉
惣七雅丈
猶、
五日は、三河の万菊共に、俊乗上人の法要に参列奉る可く存じ候ふ
猶々、再会の命もがなと願ひ申す事に候ふ」


というようなことでしょう。
4日の朝に出せば、夕刻までには、伊賀上野に手紙が届き、伊賀の人たちは、5日に旅立ちの準備、6日笠置泊、7日昼には東大寺に着け、8日に間に合います。
伊賀上野からは、9~10里の旅、一泊する必要はないかもしれません。

書生……
猿雖宛書簡、詳細にわたる訳
隠居4月25日付、猿雖あての書状の謎は、こうした手紙なしでは解けません。
書状を下に置くので、先ずご覧あれ。

貞享5年4月25日、猿雖あて書簡


イ 大坂までの御状忝くかたじけなく拝見、この度南都の再会ニツイテ、大望生々たいもうしょうじょう(生じて成就し終えること)の楽しみ、言葉に余り(言葉に尽くせず)、離別の恨み、筆に尽くされず候ふ。
ロ 我が頼もし人にしたる奴僕、六ろく(人名)にだに別れて、いよいよ重きもの打ちかけ候ふて、我ら一里来るときは人々一里行くべくや。<我等ガ>三里過ぐるときは、<人々ハ>各々三里<先ヲ>行くべくや。
ハ いまだしや、梅軒何がしの足の重きも、道づれの愁ひたるべきと、<行商ノ>墨売りがをかしがりし事ども云々。
ニ 石の上ノ在原寺、井筒の井の深草ガ生ひたるなど尋ねて、布留の社に詣で、
ホ 神杉など拝みて、<素性法師が>「声ばかりこそ昔なりけれ」と、詠みし時鳥の比にさへなりけると、面白くて滝山(布留の滝)に昇る。
ヘ 帝の御覧に入りたること、古今集<遍昭歌ノ詞書>に侍れば、猶ほ懐かしきままに、二十五丁分け登る。
ト 滝の景色言葉なし。
チ 丹波市たんばいち(今の天理市一帯)<ヲ経由シ>、八木(今の橿原市中心部一帯、耳成山の南西)と言ふところ、耳成山の東に泊る。
リ  時鳥宿かるころの藤の花
 と言ひて、なほおぼつかなき黄昏たそがれに、哀れなる宿駅うまやに至る。
ヌ 今は人々、旧里に至り、妻子童僕の迎へて、水きれいなる水風呂すいふろ(みずぶろと異なる)に入りて、足のこむらを揉ませなどして、大仏法事の話取り取りなるべき。
ル 市兵衛は草臥れながら、梅額子に<奈良デ編ンダ俳諧ノ>巻をひけらかしに行かるべく、梅軒子は、孫どのに土産ねだられておはしけんなど、
ヲ 草の枕のつれづれに、<万菊丸ト>二人語り慰みて、十二日、竹の内伊麻が茅舍に入る。
ワ うなぎ汲み入れたる水瓶も、いまだ残りて、藁の筵の上にて、茶酒もてなし、かの「布子売たし」と言ひけん万菊の着る物の値あたいは、彼(伊麻)に贈りて過ぎる。
カ 面白きもをかしきも、仮の戯れにこそあれ、実まことの隠れぬもの(伊麻の孝心の証し)を見ては、身の罪数へられて、万菊も、暫し落涙抑へかねられ候ふ。
ヨ 当麻に詣でて、万よろずの尊きたっときも伊麻を見るまでのことにこそ、あなれと、雨降り出でたるを幸ひに、そこそこに過ぎて、駕籠借りて太子に着く。
タ 誉田八幡に泊まりて、道明寺・藤井寺を巡りて、津の国(摂津国)大江の岸に宿る。
レ いまの八間屋(八軒家)久左衛門あたりなり。
  かきつばた語るも旅のひとつかな 愚句
    山路の花の残る笠の香 一笑
   朝月夜紙干板に明そめて 万菊

 二十四句にて止む。
ツ 十九日、尼崎出船。
ネ 兵庫に夜泊
ナ 相国入道の心を尽くされたる経の島・和田の御崎・和田の笠松・内裏屋敷・本間が遠矢を射て名を誇りたる跡など聞きて、
ラ 行平の松風村雨の旧跡、薩摩の守の六弥太と勝負し給ふ旧跡、かなしげに過ぎて、
ム 西須磨に入りて、「幾夜寝覚めぬ」とかや、関屋のあとも心とまり、
ウ 一ノ谷逆落し・鐘掛松、義経の武功おどろかれて、
ヰ 鉄枴てっかいが峰にのぼれば、須磨・明石ガ左右に分れ、淡路島・丹波山、かの海士が(あの松風村雨の)古里、田井の畑(多井畑)村など、目の下に見下ろし、
ノ 天皇すめらぎの皇居みやいは須磨の上野と言へり、
オ 其の代のありさま心に映りて、女院にょういんヲ負ひかかえて舟に移し、天皇を二位殿の御袖に、横抱きにいだき奉りて、宝剣・内侍所ないしどころ(神鏡)あわただしく運び入れ、あるは下々の女官は、くし箱・油壷をかかえて、指し櫛・根巻を落としながら、緋の袴に蹴躓き、伏しまろびたるらん面影、さすがに見る心地して、
ク あはれなる中に、敦盛の石塔にて、泪をとどめ兼ね候ふ。
ヤ 磯近き道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして戦場に望み、熊谷くまがいに組みて、いかめしき名を残しはべる。
マ その哀れ、其時のかなしさ、生死事大無常迅速、君忘るる事なかれ。
ケ 此の一言梅軒子へも伝へ度く候ふ。
フ 須磨寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗りに候ふ。
コ 蝉折せみおれ(敦盛の笛)・高麗笛こまぶえ・料足十疋、見る迄もなし。
ヘ この海見たらんこそ、物にはかへられじと、明石より須磨に帰りて泊る。
テ 廿一日、布引の滝にのぼる。
ア 山崎道にかかりて、能因の塚・金龍寺の入相の鐘を見る。
サ 「花ぞちりける」といひし桜も、若葉に見へて又をかしく、
キ 山崎宗鑑屋敷(待月庵)、近衛殿の、宗鑑が姿を見れば「餓鬼つばた」と遊ばしけるを思ひ出でて、「有がたき姿をがまんかきつばた」と心の内に言ひて、
ユ 卯月廿三日、京へ入る。

メ 三月十九日ニ伊賀上野を出でて三十四日、道のほど百三十里、此ノ内船十三里、駕籠四十里、歩行路七十七里、雨にあふ事十四日。
ミ 滝の数七つ
  竜門 西河 蜻めい 蝉 布留 布引 箕面
シ 古塚十三
  兼好塚 哥塚 乙女塚 忠度塚 清盛石塔 敦盛塚 人丸塚 松風村雨塚 通盛塚
  越中前司盛俊塚 河原太郎兄弟塚 良将楠が塚 能因法師塚
ヱ 峠六つ
  琴引 臍峠 野路小仏峠 くらがり峠 当麻岩や峠 樫尾峠
ヒ 坂七つ
  粧坂 西河上ぢいが坂 うばが坂 宇野坂 かぶろ坂 不動坂 生田小野坂
モ 山峯六つ
  国見山 安禅岳 高野山 てつかいが峰 勝尾寺の山 金龍寺の山
セ 此の外橋の数、川の数、名も知らぬ山々、書付にもらし候ふ。
以上

ス 卯月廿五日  万菊、桃青
ン 惣七様

書生

長いですねえ。
例の訪問先リストも、ありますね。

隠居

ありますな。
で、この「手紙の用件」は何と見る?

書生

用件?奈良以降の旅の報告ですよね。
「イ」にあるように、大坂で、猿雖からの手紙を見て、旅の報告をしたということで、何の問題もないかと。

隠居

では。
イ、「御状かたじけなく拝見」ですな。
猿雖の手紙に書かれた内容は分からぬが、どんな内容にせよ、「かたじけない…… もったいない。恐れ多い。 身に受けた恩恵などに対して、感謝の念で一杯。身に過ぎて、ありがたい」、なんて、ことになりましょうかな?

書生……
隠居

大坂への手紙は、為替手形。旅費の送金。
だから、「かたじけない」。
かたじけなく頂戴する以上、どう使ったか報告するのが、良識。
で、「この度南都の再会、大望生々の楽しみ、言葉に余り、離別の恨み、筆に尽くされず候ふ」なんて、大仰なことも書きますな。
では、この「大望」とは何か?

書生……
隠居

「今奈良に着いたから、こぞって来てほしい」という望み。
大それた望みとへりくだっておりますな。
それが来てくれ、宿代も払ってくれた。
援助も受けた。
でも、足りないので。「離別の恨み」。
大坂で待つので送ってほしいと頼む。
猿雖は、郷里へ戻り、さらに義捐を募って、大坂へ送金しました。

書生

それが、4月3日、旅籠「魚屋佐兵衛」から、「奈良においで」という手紙を書いただろうという根拠?

隠居

うむ。
「だろう」ではない、先に言った手紙の存在がなければ、このような展開はないということです。

書生

まあ、そういうことで……
では、「唐招提寺に一緒に行った」なんてことは、見当たりませんが?

隠居

唐招提寺ですな。
文を読むことを教えましたな?
「書いてないことも読む」、これが「読む」ということです。

書生

訪問先の記述は……、「ニ」の、在原寺、布留の社からですね。
これは、唐招提寺には一緒に行ったから、書く必要はなかったということですか。

隠居

如何にも、そのとおりである。
唐招提寺は伊賀の人たちとの共通体験、句も伝えてあるから書く必要はありません。
当然、別れの「鹿の角」句も、別れるとき言ったから書きません。

書生

なるほど。
だから、一緒だったと。
これは、目から鱗です。

隠居これで、よかろう。
書生

あれ。
「離別の恨み」って、金額が足りないという恨みなんですか?

隠居

あそこ?
「足りないので」の後に、ちゃんと「。」が付いておる。切って読む。

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伊賀上野の人たち(旧友)

隠居

さらに、その再会した伊賀の人たちのことも整理しておきますか。
猿雖あて書簡は、芭蕉の足跡の手掛かりになるだけでない。
「笈の小文」の旅を支援した人として、見てまいる。

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伊賀上野から来た人


 
猿雖(1640-1704、65歳)
-別号:意専、苗字:窪田、通称:惣七郎・惣七、屋号:内神屋うちのかみや
・上野天満宮の南、上野片原町の富商で薬問屋。
・車坂町に、父六太夫の別邸初麓亭しょろくてい(後の東麓庵)があった。
・猿雖は次男で、元禄2年9月、出家して意専と号した。
・元禄5年、車坂町に草庵を結び、芭蕉が西麓庵と名付けた。
・芭蕉が没した元禄7年、この庵で7~9月に芭蕉を招いて興行し、歌仙など4巻が残る。
・伊賀蕉門の古参で、蕉門撰集「猿蓑」に2句、「続猿蓑」に7句入集。
 
※ 上野片原町は、上野天満宮の南沿いで町域はごく狭い。
※ 上野車坂町の西麓庵跡に芭蕉句碑がある。

書生

先ず猿雖。
書簡では通称の「惣七」と書かれることが多いですね。
三十六俳仙の一人でした。

隠居

新大仏に同行した酒屋窪田宗七の親戚でしてな、宗七の先祖は大和の窪田から移って来て、大和屋と称しました。
この百年くらい前、筒井氏の伊賀上野転封のときです。
この酒造大和屋から出たのが、薬草の内神屋。伊賀・名張は、薬草がよく採れます。
奈良に来たとき、猿雖は、49歳。
芭蕉より四つ上。

書生

上野天満宮は、芭蕉生家に近い、「貝おほひ」を奉納した上野天神ですね。

隠居

然り。上野天満宮の敷地の南が上野片原町。
このように家並みが一望できる狭い町域で、ここに猿雖の薬草店があったわけです。

片原一色町

書生

西麓庵も近くですか?

隠居伊賀上野地図

地図を見ましょう。
まあ近い。
わしが訪ね歩いて15分。東の方に約1㎞くらいですかな。
縁取りのある道は古地図のとおりだが、西麓庵への道は古地図になかったので、今の道です。
西麓庵の東、約150mには、東麓庵の跡があります。
 
西麓庵跡には、
 西麓庵にて 芭蕉
 新藁の出初て早き時雨哉

の句碑があり、
東麓庵跡には、
芭蕉五庵の内 東麓庵跡」の碑があります。

西麓庵・東麓庵

ちなみに、芭蕉五庵というのは、伊賀上野の芭蕉ゆかりの草庵で、他に芭蕉生家の無名庵、土芳の蓑虫庵、苔蘇の瓢竹庵がありました。

書生

猿雖ゆかりの草庵が二つあったわけですね。
卓袋の草庵は、ないんですか?

隠居

さてな。如是庵と号していたから、あったのではないかな。

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伊賀上野から来た人


卓袋(1659-1706、48歳)
-別号:如是庵、苗字:貝増(かいます)、通称:市兵衛、屋号:絈屋(かせや)
・富裕な絈糸商。土芳を介し蕉門に加わる。終生土芳と親交。
・貞享5年秋(9月30日、元禄に改元)、芭蕉の姉を看取った。
・元禄7年10月16日、芭蕉の訃報を受け、土芳と共にまず大坂へ、さらに義仲寺へと駆け付けた。
 葬儀や初七日の追悼句会に出席し、遺髪を伊賀上野の墓所に納めた。
・柘植町の萬壽寺に句碑がある。
一声は柘植の在所へほととぎす 卓袋
 
※芭蕉の生誕地は柘植だという説がある。
 芭蕉の父は柘植の出身、実姉は柘植に嫁いでいる。


利雪(生没?)
-別号:梨雪、苗字:中野、通称:与兵衛
・「猿蓑」「続猿蓑」に入集。「続猿蓑」(元禄7年成稿)に「亡人」とある。
・大仏殿起工式見物で、芭蕉たちの経費を援助した。
 
※ 4/25付、卓袋あて書簡に「与兵・貴様(卓袋のこと)、御物入り推量いたし候ふ」とある。


示蜂(生没?)
-苗字:植田、通称:権左衛門
・「猿蓑」、「枯尾花」に入集。


梅軒(生没?)
・高齢か?
・士分か?


(生没?)
-通称が、六何何であったか?
・兄半左右衛門の使用人か?

書生

貝増卓袋というんですね。
計算すると、この年は30歳です。
随分若いですね。

隠居

芭蕉は、この人をいろいろな面で頼りにしていた。
卓袋が看取った姉とは、「実の姉」か「兄の嫁」か、判然としません。議論は多いが決め手がない。
笈の小文の旅程からすると、「実の姉」に傾く。
それ、名古屋から伊賀上野に来るとき、やたら日数が掛かりましたな。
実の姉の嫁ぎ先である柘植で、何日か看病したとすれば、なるほどと分かる。
吉野への出立が遅れたことも、姉の病状が思わしくなかったと仮定することもできます。
「はらからのあたま齢よわいかたぶきて侍るも、見捨てがたく」という表現も、「はらから」である実姉を指すとみればさらに納得できます。
 一声は柘植の在所へほととぎす 卓袋
この卓袋の思いも分かりますな。
芭蕉の父の出身地であり、卓袋が看取った実姉の眠る柘植ですからな。

書生今回の講読に関係しますか。
隠居

一応、念頭に置くべきです。
今回、触れてはいないが、わしらは、兄嫁の病を前提に読み進めています。
伊勢から帰って、父の三十三回忌のあと、生家を出て、瓢竹庵に長期滞在しましたな。
来客の多い芭蕉のこと、兄嫁の安静のため生家を出たとすれば、納得できます。
まあ、もっと早く生家を出、「正月には良品亭にいた」ともされていますが、良本亭滞在の確証を見いだせなかっただけです。
また、吉野への旅立ちの遅れは、奥千本の開花情報で理解できましたしな。

書生

そうでしたか。
さて、利雪ですが、卓袋と二人で、芭蕉たちの奈良滞在費用を払ったんですね。

隠居

卓袋あて書簡で分かります。
猿雖あて書簡と合わせれば、奈良へ来た人も分かる。
「卓袋あて書簡」は、また後に触れることになります。

書生示蜂・梅軒については、ほとんど分からないんですね。
隠居

知らないのでな、許されよ。
されども、元禄4年に出た「猿蓑」な。全国から118人が選ばれたが、これに伊賀蕉門が29人も入って、一躍その存在を世に知らしめたのです。
で、その内4人が奈良へ来てござる。
伊賀蕉門発展の基礎が、この旅でできたんだなと、感無量であります。

書生あの、伊賀上野で梅軒というと、……
隠居

あ、……、宍戸八重垣流、鎖鎌の達人ですか。
時代が違います。この100年前、慶長のころ武蔵に斬られておられる。
では、 猿雖あて書簡のロとハを読んで。

書生

ロ、「奈良にいる間は、六さんが持ってくれたのだが、土産などでますます重い荷を担いで、歩みが遅くなりました」。

ハ、「 まだ着いていないでしょうか。梅軒何とかさんの足が重いのが道連れの憂いだと、墨の行商さんがおもしろがってましたが、などなどと」。

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貞享5年4月25日、猿雖あて書簡 抜書


ロ 我が頼もし人にしたる奴僕、六(ろく、人名)にだに別れて、いよいよ重きもの打ちかけ候ふて、我ら一里来るときは人々一里行くべくや。<我らが>三里過ぐるときは、<人々は>各々三里<先を>行くべくや。

ハ いまだしや、梅軒何がしの足の重きも、道づれの愁ひたるべきと、<行商の>墨売りがをかしがりし事ども云々。
隠居この手紙は、2週間も後に書かれているから、その「いまだしや」の訳はなあ。
書生「云々」は、「うんぬん」「いういう」などと読みますが、「いまだしや」から「云々」までは、道中語り合った内容ではと。
隠居

いやな、石上までは、ゆっくり歩いて2時間じゃよ。
奈良を出て間もないときに、伊賀に着いたかどうか話すなど、ありえない。

書生「未だしや」は、「未だし+や」で、「まだ~であるか」でよろしいかと。
隠居

それはよろしいが、この絶句をご覧あれ。
「故郷から来た」
「梅軒」の「梅」
「未」は「いまだしや」
みな入っているでしょう。
故郷から来て、故郷に帰った「梅何とかさん」
「いまだしや」は、この詩を踏まえた軽口で、意味はない。

王維の絶句

書生

訓読します。
 「雑詩(ざっし)」 王維
 君、故郷より来たる
 応に故郷の事を知るべし
 来日(らいじつ)、綺窓(きそう)の前
 寒梅は、花を着けしや未だしや

隠居

「来日」は、来るとき、「綺窓」は、(妻の部屋で)飾りのある窓。

書生

「いまだしや梅軒なにがし」の「いまだしや」は、単に「梅」に懸かるだけの、言わば枕詞で、意味はなさそうですね。
行商の墨売りは?

隠居

奈良墨の行商で、伊賀上野の人たちが来るとき、どこからか同行したようです。
あ、奈良墨屋が、梅軒の足の遅さを「いまだしや」とからかっていたかもしれません。
この墨売り、大坂の宿にも来るのですが、芭蕉たちは留守をしていて助かっています。
この抜き書き、二つとも読みますか。

書生

留守で会わなかったが、なぶられずに済んで助かったけれど、何か残念でもある。

なかなか、心に残る人であったような。

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貞享5年4月24日、杜国から猿雖あて書簡 抜書

大坂にて、例の墨屋ガ訪ね申し候ふ。されども、<二人>留守の時にて、うれしく存じ奉り候ふ。宿に居申し候はば、又々なぶり申すべきものをと、<心>残り多くもござ候ふ。


貞享5年4月25日、卓袋あて書簡 抜書

尚々
奈良墨屋も、大坂にて見舞申され候ふ。<二人とも>留守にて、<墨屋には>逢ひ申さず候ふ。道々<二人で>言いだし出だし、語り出だしテ、笑ひ申し候ふ。

隠居

当意即妙で、人を笑わす才に長けた人のようです。
それで、ここでは、この墨売りが大坂の宿に来たというところが、肝要でな。

書生はい。大坂でどこどこへ泊まるという話は、もう奈良でできていて、墨売りも知っていたということですね。
隠居しかも、1泊2泊ではなく、しばらく逗留することもな。
書生「猿雖からの為替手形を待つため」だったですね。
隠居然り。
書生で、残る「六」は?
隠居

奴僕とのみあります。

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笈の小文 本文 奈良~西の京~布留~八木
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笈の小文、 貞享5年4月8日、奈良東大寺灌仏会

隠居

灌仏会は、仏生会とも言います。
花祭りという言い方は、子供中心の行事で、桜花で飾るが、陰暦4月8日は初夏で、ツツジ、シャクナゲなどを用いました。
この日の灌仏会は、大仏殿起工式の最後を締める大切な行事で、参拝者は多かったでしょう。

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貞享5年4月8日、奈良東大寺灌仏会


灌仏の日は、奈良にてここかしこニ詣デ侍るに、鹿の子を産むを見て、此の日におゐてをかしければ、

① 灌仏の日に生れあふ鹿の子哉

書生

灌仏、ご隠居の季寄せでは、晩春ですね。

「灌仏会の日は、奈良のあちこちに詣でましたが、その折、鹿が子を産むのを見て、仏陀が生まれたこの日であるのに、心をひかれましたので、」。
①、「灌仏の日によくぞ生まれ合わせた鹿の子であることだ」と、詠みました。
鹿の子は三夏です。
鹿の子の健やかな成長を祈る気持ちも感じられます。
生類憐れみの令の趣旨に沿った句です。

隠居

「臍の緒」句、「雉の声」句の延長でとらえたいものです。

書生自分も含めた、生きとし生けるものの命の尊さを感じたことでしょう。
隠居命のつながりですな。

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笈の小文、 貞享5年4月10日、唐招提寺

隠居

鑑真和上は、日本に渡来し、東大寺に戒壇を設け、大仏殿が竣工するまでの5年間に、多くの僧に受戒させ、育成しました。
さらに、75歳で生涯を閉じるまでの5年は、唐招提寺を開き戒壇を設け、戒律や仏教を学ぶ場とする一方、貧民を救済することにも力を入れました。

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貞享5年4月10日、唐招提寺


 招提寺鑑真和尚ガ来朝の時、船中七十余度の難をしのぎ給ひ、御目のうちニ汐風ガ吹キ入りて、終に御眼ノ盲ひさせ給ふ尊像を拝して、
② 若葉して御めの雫ぬぐはゞや

書生

そうでしたか。大仏殿とも深くかかわっていたんですね。
「唐招提寺の鑑真和上が日本に来るとき、船で七十数度の難を乗り越えられたが、ついには視力を失ったという尊像を拝んで」、
②、「大変な労苦の末、日本に来ていただいたことを思うと、せめて、この若葉で、あなたの涙を拭ってさしあげたい」。
和上の尊像に接し、その生涯に思いを馳せたのでしょう。

隠居うむ。
書生

井上靖の「天平の甍」を読みました。若い優秀な弟子を行かせようとしたが、だれ一人行こうとしない。そこで、自ら決意する。本当に感動しました。

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笈の小文、 貞享5年4月11日、伊賀上野の人たちとの別れ

隠居

伊賀上野の人たちは、笠置を経由し帰郷します。伊賀上野への最短路で、登大路を真北に進み、平城山を越えた後、東に向かいます。
一方、芭蕉たちは、布留を経由するため真南に向かう、逆方向への別れです。

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貞享5年4月11日、伊賀上野の人たちとの別れ



 旧友に奈良にてわかる。
③ 鹿の角まづ一ふしのわかれかな

書生

「古くからの友人たちに奈良で別れる」。
③、「鹿の袋角が生え、先ず一節の分かれとなる、そんな別れである」。
「先ず」ですから、また会えるでしょうという意も入りますね。

隠居

 鮎の子の白魚送る別れ哉
これは、細道出立、千住での吟。
舟で見送る「むつまじきかぎり」が、鮎の子。旅立つ芭蕉と曽良は、白魚。
留まる人が、旅立つ人を見送る別れですな。

書生

こういうことでしょうか。
「鹿の角」は、同時の旅立ち。
「送る、送られる」の関係は、同時に「送られる、送る」の関係でもあります。

隠居

同じ別れでも、比べると違うでしょう。
次に、これは?
 蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
細道終焉の地、大垣での別れ。

書生

これは、蓋と身に分かれますね。
ああ、鹿の角は分離しない。
つながってますね。
「別れてもつながっていますよ」と言うんですね。

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笈の小文、貞享5年4月11日、布留の滝

(吉野から移動)

隠居

吉野の段には、この旅で訪れた滝が、列挙してある。右は、「吉野西河、蜻めいの滝」の次にある一文。
布留の宮は現在の石上神宮を指します。

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笈の小文、布留の滝


 布留の滝は、布留の宮より二十五丁山の奥なり。

書生

「笈の小文」では、旧友との別れ「鹿の角」句から、いきなり大坂になっていました。
旧友との別れから大坂までの経路は、猿雖あて書簡に詳しいですね。
訪問地を経路順に並べると、
歌塚-在原寺-布留の社-滝山(布留の滝)
となります。
 
先ず、歌塚は、万葉第一の歌人、人麻呂の旧跡。
妻(め)依羅娘子(よさみのいらつめ)が人麻呂の生地櫟本(いちのもと)に葬った所とされ、柿本寺(しほんじ)跡にあります。
 
次に、在原寺ですが、今は、業平と、父阿保親王を祀る在原神社になっています。
現在、夫婦(めおと)竹もあり、筒井筒の井戸も屋根付きで保存・整備されていますから、「深草生ひたる」という景色は見られません。

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貞享5年4月25日、猿雖あて書簡 抜書

ニ 石の上ノ在原寺、井筒の井の深草ガ生ひたるなど尋ねて、布留の社に詣ず。

ホ 神杉など拝みて、<素性法師が>「声ばかりこそ昔なりけれ」と、詠みし時鳥の比にさへなりけると、面白くて滝山(=布留の滝)に昇る。
ヘ 帝(みかど)の御覧に入れたること、古今集<遍昭の歌の詞書き>に侍れば、猶ほ懐かしきままに、二十五丁分け登る。

ト 滝の景色言葉なし。


ミ 滝の数七つ
竜門 西河 蜻めい 蝉 布留 布引 箕面
 
シ 古塚十三
兼好塚 哥塚 乙女塚 忠度塚 清盛石塔 敦盛塚 人丸塚 松風村雨塚 通盛塚 越中前司盛俊塚 河原太郎兄弟塚 良将楠が塚 能因法師塚

隠居

哥塚は、普通「歌塚」と書く。

哥塚

歌塚の碑は、享保17年(1732)建立ですから、芭蕉は見ていません。人麻呂の塚の上に建てられたと、伝わっています。


在原寺、今は在原神社。

在原神社

なるほど、よく整備されています。芭蕉の句碑は、「うくひすを魂に眠るか矯柳(たおやなぎ)」。虚栗の句。

布留の社とは?
書生

次に、布留の社、「神杉など拝み」とあります。
で、布留の社とは?

隠居

石上神宮です。

石上神宮

七支刀や、十種の神宝で名高く、物部氏が祭祀をし、記紀にも記されている古い社。

書生

で、神杉は?

隠居

今境内にある神杉は、東西に2本あるが、樹齢は350~400年だから、芭蕉の頃に芽が出た杉じゃな。
芭蕉が拝んだ杉ではない。
芭蕉の言う神杉は、人麻呂が、
 石上布留の神杉神さびし 恋をも吾(あれ)は更にするかも
と、詠んだと思われる杉。

書生神さびし恋……、老いらくの恋ですか。……、芭蕉も祈ったわけですね。
隠居

そんなこたあない。
「布留」は「魂ふり」である。「ふる」は、振る・奮うの語源。
石上様は、元気な者はさらに元気に、まかれる者は、「ふるべゆらゆら」と生き返らせてくださる。

書生

昔のAEDですか。蘇生もできたんですね。
そういえば、「ホ」に、素性法師が出てますが?

隠居

 いそのかみふるきみやこの郭公 こゑばかりこそ昔なりけれ (素性法師、古今)
「いそのかみ」は、「ふる(し)」に懸かる枕詞。「いそのかみ」は、「布留」だから。

書生

「都も私も年を経ておりますが、ホトトギスだけは、昔のとおり元気です」、かな。
情けない。神杉を拝んでなかったのでしょうか。

隠居

はて……

桃尾の滝が布留の滝か?
書生

芭蕉は拝んだので、二十五丁を、元気に分け登れました。
25丁を換算すると、約2700メートル。
おや。石上神宮東北角から、経路約3キロ。これは、桃尾もものおの滝。
布留の滝ではありません。神宮から200メートルくらいに、ハタはたの滝がありますが。

隠居

ああ、高橋の滝ですな。
布留川が渓谷となり、支流からわずかに水が落ちているところです。橋が懸けられ、そこから見下ろす小滝です。
万葉に、
 石上布留の高橋高々に
  妹が待つらむ夜ぞ更けにける

が、ありますぞ。

布留の滝近くの道
桃尾の滝への道
左、滝へ約300m。
右への小径は石上神社(神宮とは別の社)に至る。

書生

やはり元気出ると、妹がしのばれますね。
すると、布留の滝は桃尾の滝ですか。

隠居

しかり。根拠がいるなら、「和州巡覧記」。
ほれ、「桃の尾の滝。布留より北の山にあり。布留の滝と云ふ名所なり」とな。
ちなみに、「滝山」は「桃尾山もものおさん」です。

書生布留の滝の句は、ありませんか?
隠居

「言葉なし」ですな。

布留の滝

書生どういうことでしょう。
隠居句は詠まなかったということです。名所では、しばしば「口をとづ」「言はず」となります。
書生なるほど、絶景では絶句と。
次の「ヘ」に「みかど」とありますが?
隠居仁和のみかどは、光孝天皇です。
 君がため春の野にいでて若菜つむ
   わが衣手に雪はふりつつ 
(古今集)
ご存じですな。
書生

はい。
百人一首でおなじみです。
「わかころもては つゆにぬれつつ」を取って、お手つきになります。

隠居

よくぬかりますな。
この札は、 「君がため」だけ聞いて、「なかくもかな」を取ったりしますしな。
 
その光孝天皇が即位する前、布留の滝への途中、遍昭の母の家に寄った。
古今集にある文は右のとおり。
ちなみに、僧正遍昭は、素性法師の父。
「里」は生家の意、「荒れて」は謙遜。

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古今和歌集 巻第四 秋歌上 248番


仁和のみかど、親王(みこ)におはしましける時、布留の滝御覧ぜむとておはしましける道に、遍昭が母の家にやどり給へりける時に、庭を秋の野につくりて、御(おおん)物語りのついでに詠みて奉りける。
 里は荒れて人はふりにし宿なれや
  庭もまがきも秋の野らなる

書生

僧正遍昭と言えば、「天つ風 雲のかよひぢ 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」でしたね。息子よりお達者です。
祖母は、「天つ風坊主かよひじ吹きとじよ 乙女の姿しばし追いかけ」と読んで、おもしろがっていました。
遍昭は、石上様や神杉に祈って、その御利益で、元気が出たんでしょうね。

隠居……

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笈の小文、 貞享5年4月11日、耳なし山の東に泊る

初瀬から「草臥て」句の移動

隠居

「草臥て」句は、初瀬の前に置かれ、その前の文、
「旅の具多きは道さはりなりと、物皆払捨たれども~、いとゞすねよわく力なき身の、跡ざまにひかふるやうにて、道猶すゝまず、たゞ物うき事のみ多し」
から、よくつながっています。
旅程上の日付は、伊賀上野を出立した翌日の3月20日。
されど、猿雖あて書簡により、この句を詠んだのは、4月11日。八木辺りの吟と断定できます。

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貞享5年4月11日、耳なし山の東に泊る


 草臥て宿かる比や藤の花
 
 (初案 時鳥宿かるころの藤の花



貞年5年4月25日、猿雖あて書簡 抜書


チ 丹波市(たんばいち、今の天理市一帯)<を経由し>、八木(今の橿原市中心部一帯、耳成山の南西)と言ふところ、耳成山の東に泊る。
 
リ 時鳥宿かるころの藤の花
 と言ひて、なほおぼつかなき黄昏(たそがれ)に、哀れなる宿駅(うまや)に至る。

書生

笈の小文の「草臥て」句は、季語が藤の花ですね。季は晩春で、よく合っています。
初案、
 時鳥宿かるころの藤の花
この 「時鳥」句の季語は時鳥です。
時鳥は三夏の季語で、4月11日に詠んだのですから、ここでの季に合います。

隠居

いかにも。
「道なお進まず」と言って、「くたびれて」とつながっていくわけです。
だがな、春の句として、初瀬のところに置いたはよいが、藤の花、初瀬で、3月20日に咲いておるやいなや。
実に悩ましい。

藤の花の時節
書生

実際、藤はいつごろ咲きますか。
春ですよね。

隠居山の藤季語としては「咲き初めの晩春」に扱うが、この辺りではどうかな。
このわしの庵は山中で、標高も緯度も初瀬とそう変わりません。
山の藤が咲くのは、新暦5月中旬。
降雪情況や桜の開花が似ている平成24年の写真がこれ。
5月11日の撮影で、満開です。
大体桜より3、4週間は遅れてます。
八木に着いた貞享5年4月11日、新暦で言うと?

書生……、5月10日です。
隠居

ほぼ、合いますな。
藤は、そのころです。芭蕉が見たのは、咲き初めではありません。これより二十日ほど前の初瀬に、この句を置くのは、いささか苦しいと思います。
ただ、わしが思うというだけのことです。まあ、早咲きの品種があればそれで済む。
まあ、陰暦4月11日に詠んだという書簡の記述に間違いはない。

書生大和八木で詠んだんですね。
隠居

その辺りです。
書簡の「チ」と「リ」の文をきちんと読むと、いかがかな。

書生

「チ、丹波市<を経由し>、八木と言ふところ、耳成山の東に泊る」
「リ、『時鳥宿かるころの藤の花』と言ひて、なほおぼつかなき黄昏に、哀れなる宿駅に至る。」
はあ、泊まる前に詠んでいました。
この文から言えるのは、「どこどこという点ではなくて、丹波市から耳成山の東という線のどこかである」ということです。

隠居

でしょう。
芭蕉たちは、上つ道、山の辺の道の西を南下し、初瀬街道、これは、先に名張から長谷寺へ来た街道に出、大和八木へ西進する。その途次のどこかということになります。
時にお主は、足跡図のところで、「耳成の東は疑問」と言いましたな。

書生

そのことなんですが、大和八木は、朱雀大路からつながる下つ道と、初瀬街道につながる横大路が交差し、古くから宿場としてにぎわっていました。街道の交差する札の辻には、旅籠も多くありました。
でもそこは、耳成山の「西」なので、いかがなものかということです。

隠居

「西と勘違い」したかもしれませんが、講読において「間違いと断定」するのは確かな根拠があるときだけです。
まあ、八木には旅籠があったが、その手前、耳成の東の「哀れなる宿駅」の木賃宿でよいではないかな。

書生

はい。
では、夏の季語の時鳥。
「宿借るころ」の「ころ」は、時刻ですね。

隠居

時鳥と言っているし、黄昏時です。
異名に「黄昏鳥」もあります。

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時刻にかかわるホトトギスの異名


黄昏鳥(たそがれどり)
射干玉鳥(ぬばたまどり)
夜直鳥(よただどり)
夕影鳥(ゆうかげどり)

書生ホトトギスの異名、多いですね。
隠居

中国古来の「子規」を頭に、40以上あるな。
芭蕉はたいてい仮名書き、漢字は、「郭公」か「時鳥」。1句だけ「杜宇」がありました。

書生黄昏の藤の花、花房だけが明るく見えているように想像しました。
隠居

なるほど。
「草臥て」句も、夕暮れ。同じ味わいです。

書生う~む……、
隠居

またか。如何いたした。

書生

「時鳥宿かるころの藤の花」と詠んだのは、丹波市から耳成の東で、八木に近い所ですね。
「笈の小文」の、「草臥て宿かる比や藤の花」は、初瀬の句のように配置されています。
と、この二つの句にかかわる足跡図を重ねると、次の通り。

初瀬と八木地図

三輪山の右左ですが、ほとんど同じ場所です。吉野への足跡と、大坂への足跡が近付いたところです。

隠居

ほうほう。

書生ですから、三夏の「時鳥」句を、晩春の「藤の花」句にして、初瀬に置いても、芭蕉としては違和感がなかったわけです。
隠居

なるほど。

書生

でしょ。
では、戻りまして、「哀れなる宿駅(うまや)に至る」わけです。

隠居

「哀れなる」は「物寂しく粗末な」というところですか。風流はあるが、風呂はない。
この書簡の、次の文を見てみられい。

書生

ヌ、「きっと今頃は、皆さん伊賀上野に着いて、妻子や使用人が出迎え、水の綺麗な風呂に入って、足のふくらはぎを揉ませ、大仏の法事の話をいろいろしているでしょう」と。
水風呂は「すいふろ」と読ませていますが、これは、普通に風呂でいいんですか?
みずぶろではないんですか?

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貞享5年4月25日、猿雖あて書簡 抜書


ヌ 今は人々、旧里に至り、妻子童僕の迎へて、
水きれいなる水風呂すいふろ(みずぶろと異なる)に入りて、足のこむらを揉ませなどして、大仏法事の話取り取りなるべき。
 
ル 市兵衛は草臥れながら、梅額子に<奈良で編んだ俳諧の巻を>ひけらかしに行かるべく、梅軒子は、孫どのに土産ねだられておはしけんなど、
 
ヲ 草の枕のつれづれに、<万菊丸ト>二人語り慰みて、十二日、竹の内伊麻が茅舍に入る。

隠居

芭蕉もわしも嘘は言いません。
わしに二言が、あろうはずもない。
なんで冷たい風呂に入らねばならぬ。真夏ではない。
「すいふろ」が正しい。
今は単に風呂と言うが、水を沸かして、湯にするものであるから水風呂と言う。
湯風呂としたら、湯を沸かすことになる。
沸けば、熱くて入れません。
根拠は圓生の「薬罐」だけではない。ほれ。

書生

おや、広辞苑。
「すい-ふろ【水風呂】蒸風呂・塩風呂・薬湯などに対して、水をわかす風呂、風呂桶に焚口を設けてあるもの」
へえ。

隠居江戸時代、自宅で沸かす風呂など、ごく一部の贅沢設備。一般庶民は、せいぜい沸かした水をくみ入れる程度です。
書生

恐れ入りました。
ル、市兵衛って、卓袋?
「卓袋は、くたびれながらも、梅額さんのところへ、奈良で巻いた歌仙などの巻を見せびらかしに行くことでしょうし、梅軒さんは、お孫さんに土産をねだられていらっしゃるだろうなどと、」
ここで、やむを得ず来られなかった梅額さんのような人がいたと、分かります。

隠居

梅額は、翌元禄2年、冬の歌仙あたりから、伊賀上野の興行で、連衆として名前が見られますな。
梅額を始め、何人かが来たがっていたこと自体、芭蕉に伝わっていたことが分かります。

書生

ヲ、「旅の暇合いに、万菊丸と二人で語りながら、12日に竹の内の伊麻の茅屋に入りました」
で、竹の内に至ります。

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4月12日、孝女お伊麻、竹の内~岩屋峠

隠居

「笈の小文」では、八木から大坂までの、道中がすっかり省略されている。
書いてないということが、何を意味するか興味深いものがあります。

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貞享5年4月12日、竹の内・岩屋峠
「猿雖あて書簡抜粋」


ヲ <略>……、十二日、竹の内伊麻が茅舍(ぼうしゃ)に入る。
 
ワ うなぎヲ汲み入れたる水瓶も、いまだ残りて、藁の筵の上にて、茶酒ヲもてなし、かの「布子売たし」と言ひけん万菊の着る物の値(あたい)は、彼(伊麻)に贈りて過ぎる。
 
カ 面白きもをかしきも、仮の戯れにこそあれ、実の隠れぬもの(伊麻の孝心の証し)を見ては、身の罪ヲ数へられて、万菊も、暫く落涙ヲ抑へかねられ候ふ。
 
ヨ 当麻に詣でて、万(よろず)の尊き(たっとき)も伊麻を見るまでのことにこそ、あルなれと、雨ガ降り出でたるを幸ひに、そこそこに過ぎて、駕籠ヲ借りて太子に着く。
 
<略>
 
ヱ 峠六つ
 琴引 臍峠 小仏峠 くらがり峠 岩や峠 樫尾峠

書生

ヲ、「竹の内の伊麻の茅屋(かやや)に入る」。
茅舎は茅屋、粗末な家と訳すんでしょうね。
 
家は戸建てがいいかなと、屋根の坪単価を調べたのですが、銅板7万、陶器瓦3万、瓦2万、ガルバリウム1.5万、茅はなんと12万。
伊麻の茅葺きの家は、現代なら豪邸です。
まあ、法令をクリアしないと、建てられませんが。
 
ワ、「うなぎを汲み入れた水瓶も、いまだ残っていて、藁の筵の上にて、茶酒を私たちにもてなし、
あの『布子売たし』と言った万菊丸の着物、それを売った金を伊麻に贈って出た」、 ということですよね。
言葉は分かるのですが、なんのことやら、見当も付きません。

隠居屋根の講釈が長いので、どうしたかと思ったら、次の文を考えていたわけですな。
書生

いきなり「うなぎ・茶酒・万菊」では、分かりません。まるで三題噺。

孝女お伊麻
隠居

伊麻のことを知らぬと、分かるまい。
右、「孝女お伊麻の伝」が参考になる。
原著は、詳細につづっていて、長くなるので、抜き訳にてご無礼。

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「孝女於伊麻乃伝」松林専明、抄訳

昔、寛文のころ、伊麻と長兵衛という姉弟がいた。
  父は長右衛門。幼いころ母が死に、後妻とその子二人の6人暮らし。
  後妻が継子姉弟を憎むので、父は、13歳の伊麻を近隣農家の下女(後、苗村家に移る)、9歳の弟を大坂の丁稚に出した。
  しかし、後妻は田舎がいやになり、父と大坂の天満に移った。
  後、姉弟は長じ、父に仕送りを続けたが、後妻は気ままおごりに暮らして父を捨て、二人の子を連れ家を出た。
  それを知った姉弟は、天満に駆け付け、父を引き取り、十五日毎交互に、今市に住む弟と竹ノ内の伊麻で面倒を見た。
  その折、父を背負い往還する姿を見て、村人は称賛した。
  1671(寛文11)年、疫痢がはやり、父が感染。姉弟は竹ノ内で懸命に看病したが重くなる一方であった。
 ある人がウナギで治るというので捜すが、手に入らない。
 その6月12日の夜更け、水瓶に音があり、見ると大きなウナギがいる。
 二人は「神仏が憐み、援けてくださったものだ」と拝み、すぐに調理して父に食べさせた。
 奇なるかな、さしも重かった病もたちまち全快。人々も、残りをもらい、十余人が全快した。
人びとは聞いて、孝子の誠心が天に通じたのであろうと感激した。


同著、抜粋
 貞享元年の秋、江戸の俳哲芭蕉翁、其の友千里(ちり)とともに、参宮の序でに、大和行脚し、竹の内は千里の故郷なれば、其の村に暫し足を止(とど)め、興善庵に住めり。
 其の時の吟
 綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥
 此の句に、暫し此所(ここ)に住むよしの前文を記して里人に与へ、又吉野にての作、
 木の葉散る桜は軽し桧木笠
というをも書きて残されたり。
 芭蕉翁、かく竹の内に在りしほどに、伊麻のことを聞きて深く感じ、其の家を訪ひて面会し、互ひに物語して交じらはれけるが、其の後芭蕉翁は、此の村を去りて他(よそ)を周遊し、貞享五年四月、京都に行きしとき、其の友北向雲竹(きたむき-うんちく、芭蕉に書法を授けた人)といふ書家に会ひて、竹の内の孝女のことを語られば、雲竹大きに感じて、画工友竹を竹の内へおこせて(遣せて、よこして)、伊麻が肖像を写さしめ、雲竹事跡を記して嘆賞せり。
※北向雲竹……猿蓑序文の版下を書く。

書生

ふむふむ、なるほど。
生類憐れみの令は、……まだ出てない、……ごんはやなべか……

隠居

何?
孝女伊麻は実在し、48歳のときの話。
嫁ぐと父の面倒が見られぬと、ずっと独り身でいた。
下段、抜粋の一節にもあるが、貞享元年9月「野ざらし紀行」の旅で、同行者千里ちりの実家、竹の内の興善庵に、芭蕉はしばらく滞在した。
このとき、千里の紹介で伊麻に会っているから、今回は2度目です。このとき、伊麻は64歳。

書生

その文、芭蕉が「貞享元年伊麻に会い、その後旅を続けて、貞享5年4月京に行った」となっていますね。なにか変です。

隠居

そう言えば、この「笈の小文」の旅で、伊麻に会ったことは書いてない。
貞享元年は、竹の内に逗留しているが、「笈の小文」の旅では、伊麻に会っただけで、里人との交流はなかったからでしょうか。
また、「笈の小文」にも、伊麻が記述されていないし、知らなかったからでしょうか。
いきなり、京の雲竹の話になるのも、仕方ないか。

書生

まあ、一応「ウナギの水瓶」が納得できました。
「万菊の着物の値」は、辞去するとき、
「よいお話を伺いました。じつはこれ、この万菊が、『布子売りたし』という句を詠みましたが、実際奈良で売りまして、身軽になったわけでして、これはその値、些少ではありますが、本日の記念として、まあどうぞお納めください」
などということだと、つかめました。
いくらぐらい置いたんでしょう?

隠居

茶代4文、酒手8文が相場。
二人で24文だな。
古着の売値は、100文くらいだから、24文くらいで買い取ってもらったかもしれん。
丁度ですな。
それより、これは、旅費提供者への手紙。
頂戴したお足を、人に呉れたとは書けんところを、ちゃんと押さえる。

書生

なるほどそうですね。
伊麻に渡した金は、自前であるというメッセージですね。
で、今さら何なんですが、千里ってどんな人でしたか?

伊麻と千里
隠居

「ごん」だの「生類憐れみの令」など気にしているから、分からなくなる。
野ざらしの旅に同行した門人です。
右は、千里の句碑
 深川や芭蕉を富士に預け行く 千里
「野ざらし」出立の句。
句碑は綿弓塚のすぐ右にあります。
千里は一時浅草に住んでおって、旅に同行、芭蕉は竹内の家に立ち寄っている。
その苗村家の興善庵に、十日ほど逗留したときの芭蕉句。
 海苔汁の手際見せけり浅黄椀 芭蕉


浅草にいた千里が、旅に出る芭蕉に贈った餞別句。
 来月は猶雪ふらん一しぐれ 千里

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千里(1648-1716、69歳)


・苗字:苗村、通称:粕屋甚四郎、油屋嘉右衛門
・家は葛城の竹内、浅草は寓居。
・「猿蓑」「蛙合」に入集。
千里の句碑 深川や

書生

気象予報士のような。
苗村?すると、伊麻が働いた苗村家ですかね。

隠居

竹内の地図おお、そうです。
右図のAが、綿弓記念館。造り酒屋の建物を利用した風情ある記念館。
Bが、野ざらしのとき滞在した千里の興善庵。
Cが、伊麻の墓がある法善寺。「孝女於伊麻乃伝」(明治27)を書いた松林氏は、ここの住職。
Dが、粕屋千里の苗村家。
Eが、伊麻が借りた家。旧宅とあるのは、晩年弟の近くに転居したため。
 

伊麻は昼に苗村家で働き、夜に糸を紡ぎ、機を織ったそうです。
 
抜粋にある「綿弓や」句は、「野ざらし紀行」に入っておる。
綿弓は、糸を紡ぐ前に綿打ちをする道具。芭蕉の句から、琵琶のような音がしたと分かるな。
それが、伊麻の奏でる音と思うと、感慨も一入です。

書生なるほど、苗村家と伊麻の家は向かい隣ですね。
隠居

伊麻の家のあった辺りの奥に法善寺があり、記念碑が建っています。

法善寺


綿弓塚は綿弓記念館の敷地にあります。

綿弓記念館

書生地図の小川は、コンクリートの水路になっていますね。
隠居

そうですな。
本題に戻りましょう。

書生

はい。
カ、「興をそそられ、風情あるものに心を引かれる風雅の道も、一時の戯れであって、人の信実が表れた伊麻の孝心の証しを見ては、風雅に興じるこの身に重ねた罪が数へられ、私も万菊も、しばらく涙が落ちるのを抑えることができませんでした」
と、芭蕉も万菊丸も感動しました。

隠居

ほお。
「万菊も」の「も」を、きちんと読めました。
ここを勝手に「万菊は」と読んで、例の空米売買を持ち出しがち。もう罰は十分受けています。
だが、わしはこの「数えた罪」に、芭蕉も万菊も、自らの親不孝を入れていると思います。
訳には入れられませんが、深い反省があったから、次の文につながるわけです。

書生ヨ 「当麻寺に詣でると、極めて多くの尊いものがあるが、その感動も、伊麻に直に接したあとはそこそこのものだなあと、雨が降り出したのが幸いと、駕籠を借りて太子に着く」。
隠居

伊麻からの感動が深かったのでしょう。
当麻寺と伊麻と比べたのではなく、伊麻と他の尊いものすべてと比べても同じだな。
でも、ここでは中将姫伝説との関連かな。
中将姫も継母にひどいめに遭わされているのは、伊麻と一緒。ただこちらは、話として聞くだけで直に接しておらんからな。
わしは、 学生のとき万葉遠足で、当麻寺に行ったことがある。独特の伽藍配置で、塔も美しかった。で、それが、丁度「聖衆来迎練供養会式」の日でな、仏様の行列を見ているうちに、奈良飛鳥の時代に戻ったような気分になりましてな、いまでも不思議……
本題に戻ろう。

峠越え
書生ここからは、駕篭なんですね。
隠居

わしとしては、ここだけは首をかしげざるを得ん。
駕篭は無理だと思います。

書生現に駕篭と書いてあります。書いてあることを読むわけです。
隠居

理屈はそうだが、現実問題。
書簡のリスト、「ヱ」に「岩や峠」があるだろ。当麻寺から、この峠を駕篭で越えるのは無理。
当麻寺とは別の日じゃが、わしは万葉遠足で、同じ道から二上山の雄岳に行ったことがある。

書生

ひとつ。
その、マニョ遠足って。

隠居

「まんにょう」、知らんで聞いておられたか。

書生まんようのこと?
隠居

そう。
当麻寺から岩屋峠への道は一つ。雄岳・雌岳の鞍部まで、わしが歩いた道と同じ。
当麻寺の北西から、登り坂で、大竜寺を過ぎると、急坂になる。杖突坂どころではない。
人一人がやっと通る幅で、岩を削った急な階段もある。
峠を越えれば岩屋がある。いわゆる石窟ですな。中将姫が曼荼羅をここで織ったという言い伝えがあります。
この岩屋があるので、岩屋峠。

岩屋

左は岩屋峠を100m下った辺りで、坂も幾分かは、ゆるくなっている。右が、岩屋。

書生

普通の駕篭は勿論、たとえ山駕籠でも、こんな道を行けば、今度は座布団ごと落ちて、駕篭屋にどなられ、また無季の句が詠めます。

しかし、駕篭と書いてありますから、そこだけ、歩いたんではないですか。
芭蕉も学習しているでしょう。

隠居

「かち」ならば落ちんか。

書生

「尻もち」はあっても、落ちません。
この坂の名が「芭蕉駕篭落ち坂」になっては、沽券にかかわります。

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4月12、13日、誉田八幡から大江の岸へ

隠居

岩屋峠から、竹の内街道に下り、太子を通り誉田八幡(こんだはちまん)へ。
誉田八幡宮は、応神天皇陵の後円部に接し、応神天皇を祀る。
また、全国最古の八幡宮として有名なところである。
ここで、日暮れを迎えて、一泊する。

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貞享5年4月12日、高野山・和歌浦
「猿雖あて書簡抜粋、旅の記録」


タ 誉田八幡に泊まりて、道明寺・藤井寺を巡りて、津の国(摂津国)大江の岸に宿る。
レ いまの八間屋(八軒家)久左衛門あたり也。

誉田八幡宮
書生

誉田八幡宮
応神天皇陵に接してと言うと、社殿の向こうに見える森が、その古墳ですね。
誉田八幡宮の辺りは、竹内街道・東高野街道・古市街道が交差するとあります。
いい宿があったことでしょう。
 
で、検索すると、4月12日誉田八幡で、芭蕉は、
里人は稲に歌詠む都かな
と詠んだとあります。

誉田八幡宮参道 

隠居

ん?季が違うぞよ。「稲」は、三秋の季語。
句の出典は?

書生

真蹟懐紙とあります。詞書きは、
蓮は花の君子なる物なり。牡丹は花の富貴なる由。早苗は泥濘より出でて蓮より清し。秋は香稲実りて牡丹より富めり。一物にして二草を兼ね、誠に清く富貴なり
です。

隠居

懐紙か。じゃあ、詠んだのでなく、「書いた」わけじゃな。投宿の礼か何かでな。
土芳に授けた画賛の蓑虫句、あれも前年秋の句じゃったろ。

書生

もう一句、4月12日、誉田八幡としてありますね。
鶯宿る竹の内に梅やや散りて桜咲くより、五月雨の空うち晴れて、早苗を取れと啼く鳥の声、夕暮るる里の細道、肥えたる牛にまたがりて、きせるを取りて蛍を招き、瓢がもとは暑しなんどとて、月を洗へる盃の曲、げに一瓢千金の思ひ出
楽しさや青田に涼む水の音
これは、「真蹟懐紙写」とあって、季語は「青田」。季も合います。

隠居

これこれ、よく読め。これも詠んだのでなく、「書いた」もの。投宿先は、農家に決定じゃな。
第一、陰暦4月に五月雨はなかろうが。
また「うち晴れて」か?猿雖あて書簡になんとあった。

書生

はあ、……。書簡は、「雨降り出でたるを幸ひに、そこそこに過ぎて」でした。
言葉書きに、「竹の内」とありますが、この日詠んだのではないと、……
稲と青田を礼賛する句、これを受け取るにふさわしいのは農家であると、……。なるほど。

道明寺
隠居道明寺

誉田八幡も道明寺も、「そこそこに」ですな。
風雅に興じ、母御の葬儀にも行かなかった罪を噛みしめるとな。
いい季節を迎えた誉田八幡宮、道明寺なんだが、造化の神との交信もかなわんだろう。
謡曲「道明寺」で有名な木槵樹もくげんじゅは、道明寺でなく「道明寺天満宮」ゆかりのもので、260メートル南にある。おそらく見に行ったと思われますが、記述されていません。
まあ、いくら臍の緒に泣き、しきりに恋しと言っても、今となっては詮方ないこと。
風樹の嘆でなく、風雅の嘆じゃ。

道明寺本堂 

藤井寺(葛井寺)
書生

何か、うまいことおっしゃいました?
ご隠居、地図に藤井寺という地名はあっても、藤井寺というお寺がないんですが。

隠居

葛井寺

字が違いましょう。
葛井寺と書いて「ふじいでら」。
葛(くず、かずら)と藤(ふじ)は違うが、蔓がもつれるのは同じで、葛藤と言うがごとしであります。
だが、単に字が違うだけでない。
この寺は、7,8世紀に、地元の葛井氏の氏寺としてできました。
また、11世紀に荒廃を嘆いた奈良の藤井氏が修理再建に励みました。
で、藤井寺と呼ばれたが、今は地名として残ったということです。
寺名はどちらの寺にするか、まさに葛藤の末「葛井寺」として今に至るわけであります。

葛井寺南大門 

大江の岸、「八間屋」は「八軒家」
書生

また何か、うまいことを、……
「葛井寺」、……ありました。
ならば、足跡図は右のようになります。

大江への足跡

隠居

到着した大江の岸も歌枕。
大坂城も近く、京大坂を結ぶ三十石舟の船着き場としてにぎわっていた。

書生

レ、「いまの八間屋(八軒家)久左衛門あたり也」とありますが、「八間屋」ではなく、「八軒家」が正しい?

隠居

そう、八軒の宿が並んでいたので、たれ言うとなく八軒家。これは、正式な地名ではない。八間屋が屋号とすると、八軒家と紛らわしい。屋号ではないだろう。
芭蕉が字を間違えることはほとんどないが、音声で「はちけんや」と聞いて、脳内で「八間屋」と変換するのは、ないことではない。
芭蕉・嵐雪の両吟34句「売若菜」の巻にも出てましてな。

書生

はあ。

隠居

ええと、ほれ。名オ11「やどりせん大江の岸は八間家 はせを」、これは嵐雪の「芭蕉一周忌」、いわゆる「若菜集」。後年の「幽蘭集」は、「やどりせむ大江の岸は八軒家 蕉」と、「八軒家」にしてありますな。
「袖草紙」は「八軒屋」。なぜか、36句までありますから、これを置きましょう。

  「芭蕉袖草紙」から
     売若菜

01 蒟蒻にけふは賣かつ若菜哉   芭蕉│19 身のうさも弟子の見継に春も立 芭蕉
02  吹あけらるゝ春の雪花    嵐雪│20  和泉のかつら桶の名をとる  嵐雪
03 帰る鴨かへらぬ鴨も沢立ちて  嵐雪│21 柴垣のふるき都は荒まさり   芭蕉
04  七耀山を出かゝる月     芭蕉│22  よみも読たり椎は黒石    嵐雪
05 町作り粟の焦たる砂畠     芭蕉│23 年寄のしのひてわせる秋の風  芭蕉
06  露しも窪く溜る馬の血    嵐雪│24  髪きる宵の月そひかめく   嵐雪
07 坊主とも老ともいはす追たてて 芭蕉│25 長門より西の噺の根問ひして  芭蕉
08  土の餠つく神事おそろし   芭蕉│26  粥に玉子はなにと喰ふらん  嵐雪
09 生篠に燃つけふり雨となり   嵐雪│27 山茶花の後は水仙梅つはき   芭蕉
10  日暮て残る杣か切かけ    芭蕉│28  雪に鞍置丿貫か馬      嵐雪
11 真白な塩なき飯をつきつけ   嵐雪│29 宿りせん大江の岸は八軒屋   芭蕉
12  なみたに顔をよごす目薬   芭蕉│30  削りへらし(い)た状箱のふた 嵐雪
13 舌根の念仏に痩る居士衣    嵐雪│31 御謀叛もまつ調はぬ金の沙汰  芭蕉
14  小城は稲の中につつ立    芭蕉│32  祢宜か袂に神も嘘つく    嵐雪
15 杖でうつ座頭の砧上手也    嵐雪│33 花曇鮑も物を思ふらん     芭蕉
16  いさりふひんや姨捨の月   芭蕉│34  誰こいしと田鶴渡る春    嵐雪
17 散る花に垣根を穿つ鼠宿    嵐雪│35 赤人も今一しほの酒機嫌    珍碩
18  かけろふ寒き籾の下敷    芭蕉│36  かはらけ嗅き公家の振廻   芭蕉

書生

はあ……、ん?
ご隠居、これ。その付句、名オ折端「30削りへらいた状箱のふた 嵐雪」。
打越、名ウ折立「31御謀叛もまづ調はぬ金の沙汰 はせを」。
これって、

隠居

状箱に金の沙汰、これは、この旅でのことですな。
おや、「姨捨の月」……、「鼠宿ねずみじゅく」、ですか。
……ってえことは、これは、これは。

書生

なんですか。

隠居

いずれ「更科紀行」で、分かります。
とりあえず、ここでは、「今八軒家と呼ぶ地の、久左衛門あたり」としておこう。

書生

「いまの八間屋」とありますが、「いま」がここだけ仮名ですよ。
なので、「伊麻の父ゆかりの」かと思いました。父は天満とありましたから。

隠居

そういう読み方があったか。
大江の辺りを天満橋というが、その大江から天満橋を渡った北側が天満。
天満は近いが、川を挟んだ反対側だから、違いましょうな。

八軒家浜

手前が今の八軒家浜。整備され、水上観光でにぎわっている。対岸が天満。

書生

今も船着き場があるんですね。

隠居

写真、「今の」八軒家浜・船着き場は、観光事業で平成20年(2008)に整備されたものです。
当時の船着き場は、南に100メートルの内陸にある。
浜から、天満橋の駅ビルを迂回して、少し歩けば、当時の船着き場がある。
永田屋昆布本店前の、八軒家船着場跡の碑が、それを伝えておる。
碑の横には、同店提供の「八軒家の今昔」というパンフレットが置いてある。オールカラーの豪華版じゃが、これを一冊有り難く押し頂いて、店に入る。
北海道の昆布に鹿児島の鰹でんぷがかけてあるという「黒潮」「磯の華」などを、貴君にも土産と思いましたがな、これが旨くなかろうはずがない。出汁のかたまりですぞ。丹後の山椒入りも、まあ実に旨かった。
店の右隣、工事現場のフェンスを垣間見ると、二段の石垣がある。下段は江戸期、上段は明治期の造作ということじゃった。

八軒家船着き場跡

この辺りに船宿があったのかと、想像しながら西へ歩き、最初の角を曲がると、高倉筋の石段が見える。

高倉筋

これが、間口の広い堺屋の店を東西に分ける二間幅の道である。
石段を上ると、そこは公園。当時を偲ぶよすがはなかった。

八軒家浜の宿「久左衛門」
書生ご隠居、昆布は……
隠居

聴きなされ。「旨かった」と言いましたな。パンフを進ぜる。
ちなみに、その堺屋の間口は53間あり、その間口が2間幅の道で分かれていたわけです。また、京屋の間口は11間あったそうです。

書生へえ、堺屋は、96.4メートル、京屋は、20メートル。京屋にしても大変な規模ですね。
隠居

芭蕉の時代の資料はないが、芭蕉たちが訪れたこの年から55年後のものはある。
生國魂神社いくくにたまじんじゃに、寛保3年6月、「八軒家旅籠中」が願主となり、「御神燈」を奉納している。
これに、八軒家の宿の名が彫ってあるのです。

生國魂神社御神燈

「京屋忠兵衛、大和屋利兵衛、堺屋源兵衛、同 源八、若松屋善助、榎並屋茂兵衛、有馬屋弥兵衛、大津屋嘉左衛門、錢屋覚右衛門、舛屋藤右衛門」と、10人の名が読める。道で分かれた堺屋が2軒として扱われていることが分かりましょう。

八軒家寄進者

幕末の安政3年(1856)の水帳(みずちょう=御図帳、土地台帳のこと)によれば、宿は、東から「堺屋、京屋、有田屋、天王寺屋、伏見屋、播磨屋、小川屋、長浜屋」の順に並んでいたという。
明治初頭の船着き場の写真に、「いづみ屋、嶋屋、ます屋」の屋号が写っている。いづみ屋は、新撰組の定宿となっていた京屋が名を変えたといわれる。

書生「久左衛門」が出てません。
隠居

残念ながら、時代が違うせいか、出ておらぬ。
ただ、道頓堀の北西沿い、大黒橋から戎橋辺りには、「久左衛門町きゅうざえもんちょう」がありました。道頓堀の掘削など、この辺りの開発に功績のあった「播磨屋久左衛門」の名を取った町名ですな。東のほうには、同様な「宗右衛門町そえもんちょう」があって、こちらは今も名が残っています。
けれど、この播磨屋久左衛門と八軒家の関係は知りません。
とまれ、船宿「久左衛門」が、八軒家にあったとして、先へ参りましょう。

書生

播磨屋?
播磨屋なら台帳にありましたよ。

隠居

おや、ありましたな。そこですかな。西から3軒目ですか。
けれど、そこが、久左衛門という断定は、できません。この件、これにて。
さて、次に、伊賀上野との関連を押さえておきましょう。
芭蕉たちが八軒家に来た7年前、藤堂伊予守良直が、大坂西町奉行に就任している。
古地図を見ると、藤堂家の屋敷、下屋敷などが、天満橋の南北に何軒もあります。
伊賀上野の藤堂家と祖を同じくしており、伊賀の藩士が大坂に出るときは、何かと頼り、近くの宿を定宿にするのは自然で、何らの不都合もない。

書生

伊賀上野の人たちの定宿が、久左衛門……
で、「あたり」は?

隠居

それは、婉曲表現。「下呂の宿は小川屋あたりにしよう」とか、「明日あたりやってみよう」とか言いますな。
右卓袋あて手紙には、「久左衛門方に逗留」とはっきり書いておる。

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貞享5年4月25日
「卓袋あて書簡」抜粋


大坂へ十三日に着候而、十九日発足。
久左衛門方に逗留いたし候ふ。
もっとも狭ばくやかましく、逗留の内さてさて難義、
ざっと大坂にて、大事の旅の興ヲ失ひ申し候。

書生

「とは言っても、狭くやかましくて、逗留の間、もう難儀で、すっかり大事な旅の興を失いました」と。
いやなら、宿を替わるか出立すればいいけれど、この宿に届く為替手形を待っていたから、できない道理。

隠居

そんなところ。ついでにやかましい話。
江戸後期の「澱川よどがわ両岸勝景図会」に、
 空海の ふうじたまひし八軒家に 蚊のなくやうな 舟上がり人
「空海が蚊を封じたという八軒家だが、舟を降りる人は蚊のようにうるさい」とな。
ここは船着き場だから、宿も昼夜分かたず大勢の人で、やかましいのは当然である。
一日の内、静かなのは、せいぜい深夜の3,4時間だったいう。
芭蕉たちは、うるさい宿を出て、あちこち見物に出たが、もひとつよいことがあった。

書生はあ、「例の墨売りに会わなくて済んだ」、ということですね。

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4月18日、「杜若」句、一笑亭

隠居

そう。
奈良の墨売りには会わずに済みました。
まあ、ちょっとは残念だったようですが。
為替手形は、17日に着いたと断定してよい。
うるさい宿に別れを告げ、これを換金して、18日は一笑亭。
尼崎の港へ行く途中に寄るかたち。
一笑は、芭蕉の先輩、伊賀上野の保川一笑です。この年、店を大坂に移しています。

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貞享5年4月18日、大坂一笑亭
大坂にてある人の許もとにて、
 杜若語るも旅のひとつ哉


「蕉翁句集」(土芳)
此句は万菊を供して難波の一笑が元に旅寝の時なり。一笑は伊賀にて紙屋弥右衛門と云へる旧友なり。三吟有。二十四句にて終る。
 一笑が脇、山路の花の残る笠の香
 万菊第三、朝月夜紙干板に明そめて
書生一笑と言うと、あの細道の一笑とは違いましたか?
隠居

加賀の一笑は、小杉一笑。前年入門し、この年12月に亡くなります。
芭蕉が、細道の旅で知り、「塚も動け」と詠んだので、印象に残るでしょうが、違います。
もう一人「阿羅野に2句入った津島の若山一笑」がいますが、この人でもない。
この一笑は、芭蕉の先輩です。
芭蕉は若い頃、津藩上野城代付の侍大将、藤堂新七郎家の三男良忠(蝉吟)に仕えていました。
「探丸亭花見」でも触れましたが、芭蕉は俳諧のお伴もしていました。
そのときすでに、一笑は藤堂家の屋敷に出入りしており、芭蕉22歳のとき、蝉吟発句、季吟脇、(これは文音ですが)の五吟百韻に共に参加しています。
この人に俳諧を学んだかも知れぬような、そんな古くからのお付き合いでした。

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一笑(生没?)

苗字:保川、通称:弥右衛門、屋号:紙屋か
 
・代々伊賀上野で紙屋を営む。
 
・父か祖父の代の慶長年間、紙屋弥右衛門の名で、伊賀上野の社寺に鐘を寄進。一笑は上野天神社に灯篭を寄進。
 
・芭蕉(21から33歳)と共に、「佐夜中山集」「続山井」「如意宝珠」「続連珠」「薮香物」「大和順礼」などに多くが入集。(寛文4~延宝4)
 
・貞享5年大坂に移転している。

書生

芭蕉が「小夜の中山集」に2句入集したのは、21歳のときですね。
そんな古くから。
「 蕉翁句集」の文には、旧友とあります。

隠居

これは、芭蕉の書いた文ではない。土芳の書いた文。
土芳は9歳で、22歳の芭蕉の弟子となっていて、一笑を芭蕉の友人と見ていたことが分かる。
一笑は芭蕉の年上だが、隠居していないようですから、それほど年の差はなかったことでしょう。

書生「一笑が元に旅寝」は、土芳の推測という可能性は?
隠居

ない。
土芳は、例の猿雖あて書簡を写して、「蕉翁全伝」を補う資料としている。
「いまの八間屋久左あたりなり」と「衛門」が省略されているが、逗留先も知っていたわけでな。
まあ、芭蕉に泊まったことを聞いていたわけだ。 一泊でも旅寝です。

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貞享5年4月12日、高野山・和歌浦
「猿雖あて書簡抜粋、旅の記録」


レ いまの八間屋(八軒家)久左衛門あたり也。
 
ソ かきつばた語るも旅のひとつかな 愚句
   山路の花の残る笠の香   一笑
  朝月夜紙干板に明そめて   万菊

 
  二十四句にて止む。

書生

発句、かきつばたは仲夏、脇、花の残る笠で三夏。第三は、紙干すで三冬。季移りしています。

隠居

うむ。24句の残り21句が見つかるといいですね。

書生

ときに、この旅で芭蕉と対座した人が、笠を詠むのは三回目ですね。
前には、如行の「旅人と我見はやさん笠の雪」、園女の「時雨てや花迄残るひの木笠」。

隠居なるほど。「冬の日」の「笠の山茶花」を踏まえたかな。
書生

一笑は紙屋ですね。第三は紙すきの景。
たまたまでしょうか。

隠居

訪問の記念かもしれません。
貞享5年、大坂に移転したばかりですな。

書生

この年ですね。移転してすぐに訪問したわけですか。
で、一笑亭にカキツバタが咲いていたんですね。

隠居

丁度その時期だな。
一笑亭は、堂島の東、福島の浦江辺りとされる。
その浦江は、明治末期淀川改修までは、湿地が多く、カキツバタの群落もあったようだ。
話は、業平の在原寺へ行ったことから始まり、鳴海の杜若、池鯉鮒八橋の話も出たことでしょう。
わしならは、三河八橋近くの小堤西池、見渡すかぎりの大群落を語るな。

書生そんな群落があるんですか?
隠居

学生の頃、年魚市潟への万葉遠足でな。星崎、鳴海、小堤西池、三河八橋と歩いて、この目で見た。
万葉遠足と言えば、この浦江へも来たな。「難波潟・難波津はどこだ」というテーマのとき。

書生へえ、この浦江が難波潟なんですか?
隠居

いや、少し南の高麗橋か心斎橋の辺りが有力。歩いたのは、そこから粉浜、霰松原まで。
一笑の浦江、今は市街地だが、当時は田舎です。
小さな川が網の目のように流れ、紙屋と言っても販売店を出すような場所ではない。
水が豊富だから、万菊の句にあるように、紙すきに適した土地で、紙すきの作業所を建てたのでしょう。

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笈の小文、講読の振返り
 
lineline
10 奈良(奈良~布留~八木~大坂)
書生

4月4日から19日までの足取りが、ほぼ特定できました。
奈良の再会のところは、ご隠居の推測をもとにしていますが。

隠居

推測ではない。根拠のある推定です。

書生

はあ、その推定で、伊賀上野の人々の動きも解明できています。

隠居

しっかりとな。

書生

大仏殿再建の項では、
「新大仏-伊勢-菩提山-行基-俊乗-高野-西行-大仏」と、
これらが、見事につながりました。

隠居

すっきりと解明しましたな。

書生

そうですが、何かひっかかります。

隠居

ほう。

書生

すっきりし過ぎと言うか、特に、俊乗が伊勢に行くと西行がいて、俊乗が頼んで奥州に砂金勧進に行く辺り、ドラマにしてもできすぎじゃないかと。

隠居

わしは、生まれてこの方、嘘を一度も言ったことはござらぬ。
納得がいくまで、調べてみられい。
笈の小文を読むには、既に必要にして十分な検討をしたから、まあ、番外で。

西行と俊乗について検討する。

書生

得心いたしました。
さて、
 時鳥宿かるころの藤の花
この句を詠んだのは、4月11日、八木宿と推定できました。

隠居

推定ではない。断定である。
ずばりとな。
しかも、お主は、この句を
 草臥て宿かる比や藤の花
として初瀬に置いた謎を解明した。
これは、手柄ですぞ。

書生

行程順に読んだおかげです。
そして、大坂に何日も逗留した謎も解けています。

隠居

くっきりな。
資料をもとにきちんと読めば、真実というものは、白日の下にさらけ出されるわけです。

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  ---笈の小文講読ページの解説---