更科紀行 旅程 美濃~更科~江戸

更科紀行 索引
原文・資料旅程・足跡講読木曽路姨捨山善光寺旅後の資料
更科紀行 原文・資料 索引
旅程見送り 岐阜~鵜沼宿第1日 鵜沼宿~大湫宿第2日 大湫宿~妻籠宿
第3日 妻籠宿~福島宿第4日 福島宿~洗馬宿
第5日 洗馬宿~姨捨第6日 八幡~善光寺~丹波島
第7日 更科の旅宿~坂木宿第8日 坂木宿~追分宿第9日~ 追分宿~深川


旅程


 芭蕉は、「笈の小文」の旅の後、江戸に帰る途中、念願の姨捨の月を見ようと、越人を伴い更科へ向かいます。

 このページでは、「更科記行」の旅程を、表現や他の資料を基に、明らかにし、、講読の準備をします。



更科紀行 旅程

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【説明】
<旅程表> 8月上旬岐阜妙照寺発と仮定して、8月下旬深川芭蕉庵帰着までの旅程を推定して示した。
<更科紀行> 「更科紀行」の旅は、旅程表の内「第1日鵜沼宿出立」から、「第8日浅間山麓通過」までである。
 ・ 「月日」は陰暦である。
 ・ 「時分」は、宿間距離と推定時速(道により、3~5㎞/hを仮定)を元に算出した。
 ・ 「更科紀行」「更科姨捨月之弁」の記述により確定するものは、「記事」欄に太字で示した。
 ・ 旅程作成に用いた資料を日毎に示した。

見送り 岐阜~鵜沼宿

旅程 貞享5年8月上旬 「妙照寺出立」 岐阜妙照寺~鵜沼宿(20.9㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/上08:00岐阜稲葉山麓妙照寺発。
越人、荷兮の奴僕を伴う。人々郊外まで送る。
妙照寺--0
 〃09:00南へ一里、中山道加納宿通過。-加納-4.14
 〃12:20街道を東へ向かう。各務ヶ原かがみがはらを通り、鵜沼宿着。-鵜沼宿16.821

※ 以下、旅程表の「月日」は陰暦/「時分」は、宿間距離と推定時速(道により、3~5㎞/h)を元に算出。

「岐阜妙照寺発」は、どの資料にもない。名古屋の門人の見送りは既に終わり、岐阜の門人が、「郊外まで送る」という記述から推測するのみである。更科の名月を見る計画としては、遅くとも8月9日までに妙照寺を出る必要があるが、日付不明のため上旬とした。

第1日 鵜沼宿~大湫宿

旅程㋑ 貞享5年8月11日 「更科紀行出立」 鵜沼宿~大湫宿(37.3㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1106:008月11日、美濃国鵜沼宿発。鵜沼宿-21
 〃08:40うとう峠を越え、木曽川右岸の道に出る。太田宿通過。-太田-7.829
 〃11:20難所今渡の渡しを経て、木曽川の左岸へ。伏見宿通過。-伏見-7.937
 〃12:20鬼の首塚、御嵩宿通過。標高100m。-御嵩-3.941
 〃15:20

山道になり、物見峠を経由、細久手宿着。標高約400m。

-細久手-11.852
 〃17:20琵琶峠を経て大湫大久手宿着。標高500m。-大湫宿5.958
8月11日美濃国出立は、「更科姨捨月之弁」にあり、動かない。しかし、岐阜から姨捨までは250㎞で、15日の名月間に合わせるには、1日当たり50㎞歩く必要がある。木曽路は山道であり11日出立の計画は無謀である。
計画段階では、遅くとも9日には発つ予定ではなかったか。それが、止むを得ず11日になってしまったのではないか。
止むを得ぬ理由は、体調か天候かと想像するしかない。
鵜沼宿泊は、「笈日記」の「人々郊外に送り出て、三盃を傾侍る」から、最寄りの宿場で首途の宴席をもったと推測したことによる。但し、芭蕉たちが鵜沼脇本陣に泊まったという説があるが、証句となり得る句や記録はないので、この説に拠ったわけではない。
太田宿を出ると今渡いまわたりの渡しがある。川止めの情報は、鵜沼宿でも入るし、木曽川の状況はすぐわかる。
そのような止むを得ぬ何らかの状況(体調不良でもよいが)、が生じ、11日の「更科紀行」の旅、出立になったと推測し、旅程を作成した次第である。

第1日 「更科紀行出立」の資料

・ 「11日出立」の根拠は、「更科姨捨月之弁」にある。

「更科姨捨月之弁」
 八月十一日ミのゝ国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出て暮に草枕す。


・ 支考の「笈日記」の岐阜部に、芭蕉の留別句がある。その内、「送られつ」句、「ひよろひよろ」句を、「更科紀行」に載せている。

「笈日記」
 その年(貞享5年)の秋ならん。この国より旅立て、更科の月みんとて
    留別四句
 送られつおくりつ果ては木曽の秋  翁
 草いろいろおのおの花の手柄かな
   人々郊外に送り出て、三盃を傾侍るに
 朝がほは酒盛知らぬさかり哉
 ひよろひよろとこけて露けし女郎花

足跡、大湫まで

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第2日 大湫宿~妻籠宿

旅程㋺ 貞享5年8月12日 大湫宿~妻籠宿(39.8㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1206:00大湫宿発大湫宿-58
 〃10:30上り下りしつつ西行塚を経て、恵那峡の南、標高280mの大井宿通過。-大井-13.772
 〃13:00石仏、一里塚、高札場をいくつも見ながら、中津川宿通過。-中津川-9.982
 〃14:00標高300mの落合宿を通過。山道に向かう。-落合-3.986
 〃15:10十曲じっこく峠を越えて、標高500mの新茶屋(宿間茶屋)から木曽路に入る。馬籠城址を経て、標高600mの馬籠宿を通過。-馬籠-4.590
 〃17:50標高800mの馬篭峠を越えると下り坂。男滝・女滝、大妻籠を経て、標高400mの妻籠宿に着く。-妻籠宿7.898

第2日 「木曽路へ」資料

・ 山道が徐々に険しくなるが、同行は越人の他に、荷兮の奴僕がいたと分かる。


「更科紀行」
 さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。
 木曾路は山深く道さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をしておくらす


・ 大久手宿、大井宿、中津川宿、落合宿と進み、馬籠の手前から木曽路の名が付き、本格的な山路となる。

落合宿

十曲峠への上り坂から振り返った落合宿。陽暦4月中旬の撮影。

新茶屋、峠、大妻籠

国境新茶屋の翁塚         馬籠峠、子規句碑       妻籠宿手前、大妻籠の里

妻籠まで

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第3日 妻籠宿~福島宿

旅程㋩ 貞享6年8月13日 「高山奇峰」 妻籠宿~福島宿(45.2㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1306:00妻籠宿発。妻籠宿-98
 〃07:20妻籠城址を過ぎ、今は南木曽と呼ばれる三留野宿を通過。-三留野-5.6104
 〃09:50木曽川添いの木曽路を北上し、野尻宿を通過。-野尻-10.2114
 〃11:40片欄干橋の難所関山関所跡を経て、須原宿を通過。-須原-7.2121
 〃14:50一里塚を二つ越えると小野の滝。次に寝覚ノ床に至る。上松宿通過-上松-12.8134
 〃17:101里ほどで慶安元年(1645)石垣造りとなったに至り、1里強で福島宿に着く。今の木曽福島。月齢12.7。-福島宿9.4143

第3日 「道心の僧、高山奇峰」資料

・ この辺りで旅の僧に出会い、馬で荷物を運んでやる。


「更科紀行」
……六十斗の道心の僧、……、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるもの共、かの僧のおひねものとひとつにからみて馬に付て、我をその上にのす。
高山奇峰頭の上におほひ重りて、左りは大河ながれ、岸下の千尋のおもひ……、
桟はし・寝覚など過て、……


・ 「左に大河」は、三留野宿を過ぎた辺りからなので、それまでに道心の僧と出会っている。

・ 野尻宿を過ぎ、須原宿を越えると、寝覚ノ床。上松宿から1里で桟かけはし、地名に至る。

福島まで

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第4日 福島宿~洗馬宿

旅程㋥「信濃へ」 福島宿~洗馬宿(38.4㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1406:00福島宿発。福島宿-143
 〃07:50福島関所を通り、木曽義仲ゆかり手習い天神を過ぎると、京江戸の中間点。間の宿原野から宮ノ越宿を通過。-宮ノ越-7.1150
 〃09:40木曽義仲ゆかりの地や巴淵を過ぎ、薮原宿を通過。標高950m。-薮原-7.5158
 〃11:30標高1200mの難所鳥居峠を越え、奈良井宿を通過。標高950m。-奈良井-5.3163
 〃13:20奈良井川に沿って、贄川宿を通過。-贄川-7.3170
 〃15:20間の宿桜沢、茶屋本陣を過ぎると松本藩の領地に入る。狭義の木曽路はここまで。日出塩から本山宿を通過。-本山-7.9178
 〃16:10しばらく進むと次第に視界が開け、洗馬宿に着く。月齢13.7。-洗馬宿3.3182

第4日 「信濃へ」資料

・ 薮原から難所鳥居峠を越えると、奈良井宿。次の贄川宿を過ぎた桜沢で、狭義の木曽路は終わる。視界が開け、中山道・善光寺西街道の追分、洗馬せば宿に至る。


・ この辺り、芭蕉の動向を知る資料は見当たらない。

洗馬まで

福島・宮ノ越間に、間の宿原野があって、「中山道東西中間之地」の碑が建ち、南東の眺望がひらける。

駒ヶ岳 これにならって、「更科紀行中間之地」を探れば、鵜沼宿と追分宿の中間、洗馬宿辺りになる。

奈良井宿
楢井とも書す。東西七町(760m)余り。この宿繁盛の地にして、木曽駅中の甲たり。(木曽路名所図会)

洗馬まで

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第5日 洗馬宿~姨捨

旅程㋭ 「更科の姨捨へ」 洗馬宿~姨捨(67.2㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1401:00旧暦なので、日の出るまでは14日。
姨捨の名月に間に合うよう、深夜洗馬宿発。
洗馬宿-182
8/1505:40善光寺西街道に入り、松本宿を通過。月没は4時、日の出が、5時半。-松本宿-18.4200
 〃11:00山道を北進、大沢口から東進、錦部から北進し、会田宿を通過。-会田宿-15.9216
 〃15:50立峠、中ノ峠を越え、西条宿、青柳宿、麻績宿を通過。-麻績宿-19.2235
 〃19:20七曲がり急坂を越え、聖高原に出れば、猿ヶ馬場峠。さらに西に向かい、視界が開けると、八幡の姨捨に出る。-姨捨の里-13.7249

第5日 貞享5年8月15日 九十九折り、姨捨の月

・ 8/14深夜、洗馬宿を出発。松本宿手前で日の出を迎え、15日となる。


「更科姨捨月之弁」
 ……姨捨の月ミむことしきり……、
 八月十一日ミのゝ国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出て暮に草枕す
 思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。


・ 洗馬宿の月は、月齢13.7、満月前夜である。姨捨の月を見るため、夜更けに出立する。


「更科紀行」
 ……過て、猿がばゝ・立ち峠などは四十八曲リとかや。
 九折重りて、雲路にたどる心地せらる。
 歩行より行ものさへ、眼くるめきたましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるゝけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたゝびなりけるを、あとより見あげて、あやふき事かぎりなし。


・ 松本宿からまた山道に入り、立峠から、西条宿、青柳宿、麻績宿を過ぎる。七曲がりの急坂から猿ヶ馬場峠を越え、八幡(やわた)姨捨の北に出る。


「更科紀行」
 ……夜は草の枕を求て、……。
 ……。とてもまぎれたる月影の、かべの破れより木の間がくれにさし入て、……。
 ……さかづき持出たり。……ふつゝかなる蒔繪をしたり。
 ……おもひもかけぬ興に人て、■[王+靑]碗玉巵[せいわんぎょくし]の心ちせらるも所がらなり。
  あの中に蒔絵書たし宿の月


・ この宿の月は、仲秋の名月である。この粗末な宿は、八幡にあった。

姨捨まで

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第6日 八幡~善光寺~丹波島

旅程㋬ 八幡~善光寺~丹波島の宿(26.8㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1610:00八幡(姨捨)を発つ。八幡発-249
 〃15:20丹波島を経て、善光寺に着く。善光寺西街道21.1270
 〃19:30

善光寺で月を見る。善光寺外苑西之門辺りから見たとき、地平の月の出18時30分頃、東方笠ヶ岳からの月の出は19時10分頃である。

善光寺界隈-270
 〃20:50月を見つつ犀川を渡り、丹波島の宿に着く。善光寺西街道5.7276

第6日 貞享5年8月16日 善光寺

・ 無事姨捨の月見を終え、善光寺を参拝。

・ 19時10分、笠ヶ岳から十六夜の月が出る。


「更科紀行」
   善光寺
  月影や四門四宗も只ひとつ
「更科紀行」
  いざよひもまだ更科の郡かな

・ 十六夜の月を背に、犀川を渡り、更科の里に入る。更科で最寄りの宿場は、丹波島である。
・ 次の資料により、「坂木で十六夜の月を見た」としない。「坂木で書き留めた」と見る。距離からして、善光寺と坂木で十六夜の月を見ることはできないからである。また、善光寺は水内郡、坂木は埴科郡である。
「壬生山家集」
 掛物/翁真蹟/しなのの国さかきといふ所にて/いさよひもまたさらしなの郡哉
「岩波 芭蕉俳句集 脚注」
「真蹟短冊にもしなののさかきと云処にとまりてと前書」

善光寺まで

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第7日 更科の旅宿~坂木宿

旅程㋣ 更科の旅宿~坂木宿(20.5㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1708:00丹波島の旅宿発。丹波島-276
 〃10:40

善光寺西街道、篠ノ井から千曲川をわたり、北国街道へ。この辺りから冠着山(姨捨山)を正面に遠望する。
屋代宿を通過する。

-屋代-10.4286
 〃12:40

上戸倉かみとぐら宿を通過する。

-上戸倉-7.8294
 〃13:20

坂木宿、到着。
辛味大根のおしぼりで饂飩を食べる。
月齢16.7、立ち待ちのを、越人は千曲川の中州で眺める。

-坂木-2.3296

第7日 貞享5年8月17日 坂木宿

・ 善光寺の帰途、埴生(更埴)辺りから、正面に姨捨山が見える。


「更科姨捨月之弁」
 山は八幡といふさとより一里ばかり南に、
 西南によこをりふして、冷じう高くもあらず、
 かどかどしき岩なども見えず、
 只哀ふかき山のすがたなり。


・ 八幡(やわた)は、姨捨地区を含む地名。そこから、「一里ばかり南」「西南に横折り伏し」という姿は、正面から全容を見ての記述である。

・ この姨捨山を前方に見つつ、屋代、戸倉と姨捨山に近付き、坂木(坂城)に向かう。


「更科紀行」
  更科や三よさの月見雲もなし 越人
  身にしみて大根からし秋の風


・ 坂木で、立待月も見た。ちなみに、坂木は、更科郡ではなく埴科郡である。

坂木まで

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第8日 坂木宿~追分宿

旅程㋠ 坂木宿~追分宿(42.6㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1806:00坂木宿発。坂木宿-296
 〃07:10千曲川右岸、北国街道を東進、鼠宿を通過。-鼠-4.7301
 〃09:00難所の岩鼻を越え、上田城を眺め、上田宿通過。-上田-7.7308
 〃10:40信濃国分寺を経て、海野宿を通過。-海野-6.9315
 〃11:10川沿いに進み、田中宿通過。-田中-1.9317
 〃13:30浅間山を左手前方に見つつ進み、小諸宿通過。-小諸-9.3326
 〃16:40千曲川から離れ、浅間山麓を進み、追分宿に着く。月齢17.7、居待月。-追分宿12.7339

第8日 貞享5年8月18日 浅間山

・ 坂木宿から、中山道追分宿を目指す。


「更科紀行」
  吹とばす石ハ浅間の野分哉


・ 浅間山を間近に眺め、南麓を東に進む。「野分」は噴火活動の喩え。天候ではない。

追分まで

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第9日~ 追分宿~深川芭蕉庵

旅程㋷ 追分宿~深川芭蕉庵(118.5㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1906:00追分宿発。追分宿-12.7336
 〃07:10浅間を背に、馬頭観音を見つつ、中山道沓掛宿通過。今の中軽井沢。-沓掛-4.3340
 〃08:20多数の道祖神を見ながら、軽井沢宿通過。-軽井沢-4.4345
 〃12:10碓氷峠を越え、坂本宿通過。-坂本-11.7356
 〃14:30碓氷関所を通り、松井田宿通過。-松井田-9.5366
 〃16:50杉並木を通り、安中宿へ。月齢18.7寝待月。安中宿9.6375
8/2006:00安中宿発。
 〃06:50 川を渡るとすぐに板鼻宿通過。-板鼻-3.2379
 〃09:10若宮八幡から、高崎宿通過。-高崎-7.2386
 〃10:40町中を通り、古墳近くの倉賀野宿通過。-倉賀野-6.0392
 〃12:10川を渡り、川沿いに進み、新町宿通過。-新町-5.9398
 〃14:10見通し燈籠を見て進み、本庄宿通過。-本庄-7.9406
 〃16:50空っ風除けの屋敷森を見つつ。深谷宿へ。月齢19.7更待月。深谷宿10.6416
8/2106:00深谷宿発。
 〃08:10見返りの松を経て、熊谷宿通過。-熊谷-10.8427
 〃11:30白井権八延命地蔵前から、鴻巣宿通過。-鴻巣-16.4443
 〃13:00十三仏を見つつ進み、桶川宿通過。-桶川-7.2451
 〃13:40南北の木戸をたどり、上尾宿通過。-上尾-3.7454
 〃15:20天満宮を通り、大宮へ。月齢20.7下弦の月。大宮宿7.9462
8/2206:00大宮宿発。
 〃07:00氷川神社の鳥居を左に見つつ、浦和宿通過。-浦和-5.0467
 〃08:10焼飯坂から蕨宿通過。-蕨-5.4473
 〃10:00荒川を渡り、板橋宿通過。-板橋-9.0482
 〃12:00赤門、神田明神を経て、日本橋通過。-日本橋-9.8491
 〃12:30深川芭蕉庵帰着。-芭蕉庵2.5494

第9日~ 貞享5年8月19日~22日 江戸路

・ 追分宿から、一路江戸に向かう。

足跡、倉賀野まで
足跡、鴻巣まで
足跡、深川まで

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更科紀行、講読の振返り
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2 旅程表
書生

講読の準備は、完了です。

隠居

旅程に沿って読めそうじゃな。

書生

俳文「更科姨捨月之弁」で、姨捨前夜は、夜を徹しての強行軍と分かりました

隠居

風狂の極みじゃな。

書生

旅程表を作りつつ、芭蕉の体力には、驚かされました。

隠居

この辺り、馬を下僕に譲っておりますしな。

書生

それは、乗れば落馬しますからね。杖突坂で学習したところです。

 

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