更科紀行 木曽路~猿ヶ馬場

更科紀行 索引
原文・資料旅程・足跡講読木曽路姨捨山善光寺旅後の資料
更科紀行 木曽路 索引
原文旅立ち道連れ高山奇峰九十九折木曽路の発句
資料尾張蓬左「餞別・留別句」 美濃岐阜「留別四句」
講読

旅程 岐阜~大湫留別2句 ㉕㉘旅立ち 文①②③
旅程 大湫~妻籠道連れ 文④「六十斗の道心の僧」
旅程 妻籠~福島高山奇峰 文⑤「高山奇峰~」 文⑥「只あやふき~」
寝覚ノ床 文⑦「桟~」桟の句 ⑲「蔦かづら」 ⑳「馬むかへ」 ㉑「霧晴て」
旅程 福島~洗馬松本へ句㉗「木曽のとち」
旅程 洗馬~姨捨九折 文⑦「猿がばば~、九折~、仏の御心に~」


講読、その一


 芭蕉は、「笈の小文」の旅の後、江戸に帰る途中、念願の姨捨の月を見ようと、越人を伴い更科へ向かいます。
 このページでは、「更科記行」の冒頭から、姨捨到着前の10文及び留別の2句・桟3句を取り上げ、原文・訳読み文・口語訳を示して、講読していきます。



更科紀行

このページは、更科紀行の冒頭「木曽路の段」を、原文・訳読み・口語訳を示し、資料を掲げつつ、行程順に講読していく。

更科紀行 「木曽路」

旅立ち

① さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。

更科の里、姨捨山の月見んこと、しきりに勧むる秋風の∽ガ、心に吹き騒ぎて、共に風雲の情を狂はす者、又ひとり[あり、名を]越人と云ふ。

かの更科の里や、姨捨山の月を見ることを、しきりに勧める秋風が、心の中にに吹き騒いでいる。そんな私と共に風雅の情を狂わしている者が、又一人あって、名を越人と言う。

② 木曾路は山深く道さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をしておくらす。

木曽路は、山深く、道は険しく、旅寝の力も心許なしと、荷兮子が奴僕をして送らす。

木曽路は、山が深く、道は険しいので、旅寝で頼るものもなく心配だと、荷兮先生は、その下男を供として送らせた。

③ おのおの心ざし尽すといへども、驛旅の事心得ぬさまにて、共におぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、中々にをかしき事のみ多し。

[この二人は、]おのおの心ざし尽すといへども、驛旅[羈旅]の事心得ぬさまにて、共におぼつかなく、物事のしどろに後先なるも、中々にをかしき事のみ多し。

この二人、それぞれが、誠意を尽くすのだが、旅のことは不案内で、共に頼りなく、物事の後先が乱れてしくじり、それも却って旅の一興となることが多い。

道連れ

④ 何々といふ所にて、六十斗の道心の僧、おもしろげもをかしげもあらず、たゞむつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるもの共、かの僧のおひねものとひとつにからみて馬に付て、我をその上にのす。

何々といふ所にて、六十歳(むそじ)斗り(ばかり)の道心の僧、面白げもをかしげもあらず、ただむつむつとしたる[者]が、腰たわむまで物負ひ、息は忙しく、足は刻むやうに歩み来れるを、伴ひける人の哀れがりて、[二人]おのおの肩に掛けたるものども、かの僧の負ひねものと一つに絡みて、馬に付けて、我をその上に乗す。

何とかいうところで、六十歳くらいの乞食修行の僧で、面白げもを愛想もない、ただ無口そうな人が、腰がしなうまでの荷物を背負い、呼吸は激しく、足は一寸刻みで歩いてきたのを、供の者が同情して、自分たちが肩に掛けた荷物と、その僧が背負っていたものを、一つに絡げ、借りた馬の荷鞍に付けて、私をその上に乗せた。

高山奇峰

⑤ 高山奇峰頭の上におほひ重りて、左りは大河ながれ、岸下の千尋のおもひをなし、尺地もたひらかならざれば、鞍のうへ静かならず。

高山奇峰頭の上に覆ひ重なりて、左は大河流れ、岸下の千尋の思いなし、尺地も平かならざれば、[揺れて]鞍の上静かならず。

高い山や見慣れぬ峰々が頭の上に覆い重なって、左には木曽の大河が流れ、岸の下は千尋深さを思わせ、わずかな土地も平らなところがないので、鞍の上の荷物も私も、大いに揺れる。

⑥ 只あやふき煩のみやむ時なし。

ただ、危ふき煩ひのみ、止む時なし。

ただ、いつまた荷鞍ごと落ちるかという怖れだけは、やむときがない。

九折(つづらおり)

⑦ 桟はし・寝覚など過て、猿がばゝ・立ち峠などは四十八曲リとかや。

桟(かけはし)・寝覚[ノ床]など過ぎて、猿が馬場峠・立峠などは、四十八曲りとかや[言う難所である]。

崖に沿って付けられた桟(架け橋)・寝覚ノ床などをなんとか過ぎたが、猿が馬場峠・立峠などは、四十八曲りの難所であるそうだ。

⑧ 九折重りて、雲路にたどる心地せらる。

九十九折り重なりて、雲路にたどる心地せらる。

九十九折りが重なって、雲路にたどり着くような心地がしてくる。

⑨ 歩行より行ものさへ、眼くるめきたましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるゝけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたゝびなりけるを、あとより見あげて、あやふき事かぎりなし。

歩行より行く者さへ、眼くるめき魂萎みて、足定まらざりけるに、かの連れたる奴僕、いとも恐るる景色見えず、馬の上にて、ただ眠りに眠りて、落ぬべきこと数多たびなりけるを、後より見上げて、危ふきこと限りなし。

歩いて行く者さえ、目がくらみ、魂が萎んで、足の震えが止まらないのに、かの連れてきた下男は、少しも恐れる様子が見えない。馬の上でただぐっすり眠って、落ちるであろうことが何度もあったのに、後ろから歩いて見上げていると、危ういことこの上ない。

⑩ 仏の御心に衆生のうき世を見給ふもかゝる事にやと、無常迅速のいそがはしさも我身にかへり見られて、あはの鳴門は波風もなかりけり。

仏の御心に、衆生の浮き世を見給ふもかかる事にやと、無常迅速の忙はしさも、我が身に返り見られて、阿波の鳴門は波風もなかりけり。

仏の御心をもって、衆生の浮き世をご覧になるのもこのようなことかと、無常迅速の慌ただしさも、我が身のことと省みられ、「あはの鳴門は波風も」なかりけりということが実感される。

更科紀行 「木曽路」関連の句

留別

㉕ ひよろひよろと尚露けしやをみなへし

  ひよろひよろと、尚露けしや。をみなへし。

  ※ 句の大意は、検討の部参照。以下同。

㉘ 送られつ別ツ果ては木曾の秋

   送られつ別れつ、果ては、木曾の秋。

㉗ 木曾のとち浮世の人の土産かな

㉗ 木曽の橡(トチの実、栃)、浮世の人の土産かな。

桟(かけはし)

⑲ 桟やいのちをからむつたかづら

  桟や。命を絡む、蔦葛

⑳ 桟や先おもひいづ馬むかへ

  桟や。先づ思ひ出づ、馬迎へ

㉑ 雱晴れて桟ハ目もふさがれず 越人

  霧ガ晴れて、桟は目も塞がれず。  越人

↑ トップへ


更科紀行 講読資料

linelineline

更科紀行 資料:送別句

尾張蓬左 餞別・留別句

 右、「曠野集(荷兮編)」の標注に、「貞享五年芭蕉翁更科月見の送別カ。以下七句同時」とある。
 芭蕉と越人が送られるので、上の7句が餞別、末尾の芭蕉句が留別となる。
 見送るのは、釣雪・一井・野水・舟泉・鼠弾・荷兮で、いずれも名古屋在住の俳人である。
 荷兮・重五・越人は、蓬左の人で、歌仙「冬の日」でよく知られる。
 釣雪(聴雪)・一井・舟泉・鼠弾は、笈の小文講読のページによく登場している。

「笈の小文 熱田」<聴雪・一井・舟泉>

「笈の小文 旅の後」<一井・鼠弾>

曠野集 巻之七


 芭蕉士を送る
稲妻にはしりつきたる別かな   釣雪
なきなきて袂にすがる秋の蝉   一井
あき風に申かねたるわかれ哉   野水
物いはじたゞさへ秋のかなしさよ 舟泉
霧はれよすがたを松に見えぬ迄  鼠弾
 さらしなに行人々にむかひて
更級の月は二人に見られけり   荷兮
 越人旅立けるよし聞て
 京より申つかはす
月に行脇差つめよ馬のうへ    野水
送られつおくりつはては木曽の秋 芭蕉

書生

尾張の門人ばかりです。
従って、尾張の送別です。ただし、野水はこのとき、京にいますから、書簡での餞別。
「あき風に」は、芭蕉への餞別、「月に行」は、越人への餞別です。
書簡の野水を含め、名古屋の門人たちが、二人を見送ったわけです。
であれば、更科紀行出立の地は、名古屋になりませんか。

隠居

芭蕉と越人は、当然名古屋から旅に出る。
しかし、「更科姨捨月之弁」によれば、「八月十一日、美濃の国を立ち」とあり、美濃出立は動かせません。

美濃岐阜 留別四句

 右は、「笈日記」の留別四句。餞別句は見当たらない。
「この国」が美濃を指すことは、「岐阜部」に収められていることから、明白である。
「送られつおくりつ果ては」で、送別が一度ではなかったと、分かる。
「草いろいろ」句は、見送りの門人たちへの褒美であり、謝辞である。
当時の岐阜中心部は、加納宿。当時は次の宿まで送るのが習わしなので、「郊外」とは、鵜沼辺りか。
「送り」でなく「送り出て」、「三盃、酒盛」とあるので、送別の酒宴と分かる。
「女郎花」句が分からない。「草いろいろ」の中に、女郎花があったのか。

罫線

笈日記 岐阜部


 その年(貞享5年)の秋ならん。
 この国より旅立て、更科の月みんとて

  留別四句
送られつおくりつ果ては木曽の秋 翁
草いろいろおのおの花の手柄かな
  人々郊外に送り出て、
  三盃を傾侍るに
朝がほは酒盛知らぬさかり哉
ひよろひよろとこけて露けし女郎花

この4句の内、2句が推敲され、更科紀行に入る。


更科紀行
㉕ ひよろひよろと尚露けしやをみなへし
㉘ 送られつ別ツ果ては木曾の秋

書生門人の餞別句が見つかりません。
「阿羅野・岐阜連衆・秋の句」で検索すると、6句ありますが、餞別句ではありません。

ただ、「瓜畠集」、右の句が気にはなります。
罫線

「瓜畠集」落梧・岐阜連衆編


なを聞てまた見直や草の花   低耳
叩かれて駒のかぎ行花野かな  炊玉
くねるとは萩もいはせよ女郎花 一髪
片かげや茗荷の花のうすよごれ 梅餌
隠居ほう。「草いろいろ」ですか。
書生このような句を見て、「おのおの花の手柄」と言ったのではないですか。
隠居花の字を入れた秋の草を詠みましたか。成る程。
書生 で、芭蕉も「朝顔句・女郎花」を詠みました。餞別句ではなく、秋の花を詠むことを送別会で行ったと解釈すれば、「ひよろひよろと句」が「留別四句」に入る理由が分かります。
隠居あり得ることですな。ただ、落梧・蕉笠・己百・鴎歩といった面々の句がないのが残念ですな。

↑ トップへ


更科紀行 講読その一 見送り、㋑出立

旅程 「見送り」 岐阜妙照寺~鵜沼宿(20.9㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/上08:00岐阜稲葉山麓妙照寺発。
越人、荷兮の奴僕を伴う。人々郊外まで送る。
妙照寺--0
 〃09:00南へ一里、中山道加納宿通過。-加納-4.14
 〃12:20街道を東へ向かう。各務ヶ原かがみがはらを通り、鵜沼宿着。-鵜沼宿16.821
8月11日美濃国出立は、「更科姨捨月之弁」にあり、動かない。しかし、妙照寺から姨捨までは250㎞で、15日の名月間に合わせるには、1日当たり50㎞歩く必要がある。木曽路は山道であり11日出立の計画は無謀である。計画段階では、遅くとも9日には発つ予定ではなかったか。それが、止むを得ず11日になってしまったのではないか。
止むを得ぬ理由は、体調か天候かと想像するしかない。
鵜沼宿泊は、「笈日記」の「人々郊外に送り出て、三盃を傾侍る」から、最寄りの宿場で首途の宴席をもったと推測したことによる。但し、芭蕉たちが鵜沼脇本陣に泊まったという説があるが、証句となり得る句や記録はないので、この説に拠ったわけではない。
太田宿を出ると、今渡いまわたりの渡しがある。川止めの情報は、鵜沼宿でも入るし、木曽川の状況はすぐわかる。
そのような止むを得ぬ何らかの状況(体調不良でもよいが)、が生じ、11日の出立になったと推測し、旅程を作成した次第である。

旅程㋑ 「出立」 岐阜~大湫宿(37.3㎞)

8/1106:00美濃国出立。鵜沼宿発。鵜沼宿-21
 〃08:40うとう峠を越え、木曽川右岸の道に出る。太田宿通過。-太田-7.829
 〃11:20難所今渡の渡しを経て、木曽川の左岸へ。伏見宿通過。-伏見-7.937
 〃12:20鬼の首塚、御嵩宿通過。標高100m。-御嵩-3.941
 〃15:20

山道になり、物見峠を経由、細久手宿着。標高約400m。

-細久手-11.852
 〃17:20琵琶峠を経て大湫大久手宿着。標高500m。-大湫宿5.958

足跡、長湫まで

linelineline

更科紀行 「留別2句」 ㉕、㉘の検討

行程順では、この2句が、本文に先立つ。
㉕句は、「ひょろひょろと頼りげなく咲く女郎花、別れを思い涙の露に濡れそぼっている」かのような景を映している。
草稿にある初案は、
 ひよろひよろとこけて露けしやをミなへし
で、よよと泣き崩れる手弱女の体である。

罫線

「ひよろひよろと」句
 
㉕ ひよろひよろと尚露けしやをみなへし


「送られつ」句

 
㉘ 送られつ別ツ果ては木曾の秋

㉘句は、「人に見送られ、また分かれて、私が行き着く先は、山深い木曽の秋であろう」の意。
初案は、「曠野」の
 送られつおくりつはては木曽の秋
で、「人に見送られ、人を見送り、私が行き着く先は、山深い木曽の秋である」となる。
また、この句は、「更科紀行」の草稿には書かれず、清書の時追加されている。
この句を追加した位置や、句の配列については、講読の最後に検討したい。

ひよろひよろと尚露けしやをみなへし
隠居女郎花だが、
 手に取れば袖さへにほふをみなへし この白露に散らまく惜しも (万葉集)
 名にめでて折れるばかりぞ女郎花 われおちにきと人に語るな (古今集 遍昭)

古来、美しい女性を喩えてきました。
書生

やはり、冒頭には出せません。表では御法度ですから。
しかし、遍昭はお達者ですね。神杉の御利益、恐るべし。

送られつ別ツ果ては木曾の秋(紀行)/おくられつおくりつはては木曽の秋(阿羅野)
隠居

……。で、㉘句初案の「送りつ」は、「人を見送り」でよろしいかな。

書生はい。この句で状況が分かりました。
岐阜の連衆が鵜沼まで見送り、送別の句会・酒宴を行いました。ところが、木曽川今渡の渡しが川止めとなるわけです。それで、岐阜の連衆が帰るのを見送ったと。
芭蕉が病気なら見送れません。台風なら門弟も帰れません。それで、川止めと推測した次第です。
芭蕉が見送ったのです。本当に、芭蕉は嘘を言いませんね。
隠居

言いません。
㉘の初案「おくられつおくりつはては木曽の秋」の句碑が、美濃・信濃の国境にあって、藤村の「夜明け前」に出る。馬籠本陣の年寄役金兵衛が、俳諧好きであった親父の供養にと、天保14(1843)年4月はじめに建立したとあります。


木曽の穐碑

 碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ送りつ果は木曽の穐  はせを

「これは達者に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾へんがくずして書いてあって、それにつくりが亀でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曽の蝿としか読めない。」
 こんな話の出たのも、一昔前だ。


この句碑を建立するに当たって、「秋」の字を「穐」として、崩し字で書いたものだから、「蝿」に見えるというもの。碑の文字

 

書生 穐と蝿「穐」と「蝿」、普通の崩し字と比べてみます。
碑文は、禾の筆順、画の省略が独特ですね。縦棒を右にはねたので虫に似ましたが、ノがありますから、虫偏とは異なります。
旁は、クを略して乚を突きだしたので、蝿の旁とも異なります。
linelineline

更科紀行 「旅立ち」 文①~③検討

① 「さらしなの里、おばすて山の月」
 これは、古歌、
 我心なぐさめかねつさらしなや
   をばすて山にてる月をみて
       読人知らず(古今和歌集)

と、詠まれた月に他ならない。
 また、月は出ないが、
 月も出でで闇に暮れたる姨捨に
   なにとて今宵たづねきつらむ
       孝標女(更級日記)

も、人口に膾炙していた。
②、「さがしく」は、険しいこと。奴僕の名は後に分かる。
③、「おのおの」は、3人それぞれのこと。

罫線

原文①~③


① さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。

② 木曾路は山深く道さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をしておくらす。

③ おのおの心ざし尽すといへども、驛旅の事心得ぬさまにて、共におぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、中々にをかしき事のみ多し。

書生

「笈の小文」講読の折、「田毎の月句」に触れましたので、一言入れます。

この蛍田毎の月にくらべみん

 「更科の里」への思いは、この年貞享5年5月、京から一旦岐阜へ行き、大津に戻っての句に見て取れる。
  この蛍田毎の月にくらべみん
 田毎の月とは、姨捨の千枚田一枚一枚に月が映るという現象を言う。これは、苗を植える頃、水を湛えた仲夏の田でなくてはならない。
 しかし、現実の光景でないことは、容易に分かる。
 もし、重力異常で、千枚田の水面が、一枚一枚平であり、かつ連携して放物面上にあった場合は見られるだろう。しかし、その田毎の月が見られるのは、一点のみである。
 さらに、月ではなく、田毎の太陽ならば、この景を見る人は、焼けてしまうであろう。
 田毎の月はロマンであり、浮世絵に描かれるだけの、まさに絵空事である。
 しかし、芭蕉は、千枚田一枚一枚に映る月と、大津の蛍をくらべてみようという。これは、文学的真実であり、ロマンを超えた風狂である。

隠居

そうか。
でも、一時に千枚田の千の月を見られなくとも、歩きながら、一枚また一枚と映る月を見て、田毎の月と言ったのではありませんかな。

書生

それなら、姨捨でなくとも、田圃でなくとも、水があれば、どこでも見られましょう。

↑ トップへ


更科紀行 講読その一 ㋺木曽路

旅程㋺ 「木曽路」 大湫宿~妻籠宿(39.8㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1206:00大湫宿発大湫宿-58
 〃10:30上り下りしつつ西行塚を経て、恵那峡の南、標高280mの大井宿通過。-大井-13.772
 〃13:00石仏、一里塚、高札場をいくつも見ながら、中津川宿通過。-中津川-9.982
 〃14:00標高300mの落合宿を通過。山道に向かう。-落合-3.986
 〃15:10十曲じっこく峠を越えて、標高500mの新茶屋(宿間茶屋)から木曽路に入る。馬籠城址を経て、標高600mの馬籠宿を通過。-馬籠-4.590
 〃17:50標高800mの馬篭峠を越えると下り坂。標高400mの妻籠宿に着く。-妻籠宿7.898

足跡、妻籠まで

linelineline

更科紀行 「道連れ」 文④検討

「六十歳ばかりの道心の僧」が登場し、更科紀行に色を添える。
 道心の僧とは、行脚乞食を修行とする僧である。、
 「何々という所」でとあるが、緻密な芭蕉としては珍しい。地名は問題ではないわけだから、これでよいわけである。
 行程表を作る上では、残念だが、次項⑤⑥及び⑦の文から場所を絞ることはできる。

罫線

原文④


④ 何々といふ所にて、六十斗の道心の僧、おもしろげもをかしげもあらず、たゞむつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるもの共、かの僧のおひねものとひとつにからみて馬に付て、我をその上にのす。

次項⑤に、「左は大河」とある。この大河は木曽川であり、妻籠から約1キロのところ「南木曽町読書」から、川沿いになる。
④で、馬は一頭と推測できるが、道心の僧に出会ったのは、「⑦寝覚ノ床」の手前で、「⑤高山奇峰頭の上におほひ重り、左は大河、岸下千尋」の道を通る前としか推測できない。どこからかは不明であるが、妻籠までの道中も推測の範囲に入れられる。

隠居まさに「何々のところ」で構いませんな。

時に、馬籠宿の手前に、藤村揮毫、昭和32年建立、「是より北木曽路」の碑がありまして、ここから、木曽に入るわけです。
近くに平成6年建立の「信濃・美濃 国境」の碑もあります。
ただ、現在は、馬籠の属する木曽の山口村が、岐阜の中津川市に合併しましたから、承知しておきましょう。
従って、この辺りは、国名と県名が異なるわけです。今は馬籠峠が県境です。
木曽路碑
書生へえ。県が変わることがありましたか。
隠居文化2(1805)年板の「木曽路名所図会」巻三に「岐蘇路 馬籠峠より東、木曽路なり。贄川まで二十一里が間、水、南へ流る」とありまして、馬籠峠以西、馬籠宿を越えた国境まで、木曽路に入っていません。
書生え?贄川を流れる奈良井川は北へ向かい、松本で梓川と合流し、犀川と名を変え、果ては信濃川となっていきますが。
隠居馬籠宿川については勘違いがあっても、「木曽路名所図会」が木曽路の定義を間違えることはありえないと思いますがな。見出しは「岐蘇路」でも文中に「木曽路」とあります。巻一の凡例に「岐阻路名所図会は所謂東山道なり。今俗に中山道といふ。京師より起りて江戸に到る~これを吉蘇街道といふ」とあります。中山道全体の名称です。
馬籠峠以東、贄川までは特に険阻なので、木曽路中の木曽路と言ったところですかな。
「是より北木曽路碑」は、美濃・信濃の国境に、「是より南木曽路碑」は、同じ信濃の筑摩郡ながら、木曽側の尾張藩領地と松本藩領地との境、桜沢に置かれています。
馬籠峠以西は、視界が開け、険阻な趣が薄れますから、入れなかったのでしょうか。
「木曽路・木曽街道」は、「中山道全体を指す広義の木曽路」か、「険阻な木曽地域の路」かを、その都度読み分けましょう。

↑ トップへ


更科紀行 講読その一 ㋩高山奇峰

旅程㋩ 「高山奇峰」 妻籠宿~福島宿(45.2㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1306:00妻籠宿発。妻籠宿-98
 〃07:20妻籠城址を過ぎ、今は南木曽と呼ばれる三留野宿を通過。-三留野-5.6104
 〃09:50木曽川添いの木曽路を北上し、野尻宿を通過。-野尻-10.2114
 〃11:40片欄干橋の難所関山関所跡を経て、須原宿を通過。-須原-7.2121
 〃14:50一里塚を二つ越えると小野の滝。次に寝覚ノ床に至る。上松宿通過-上松-12.8134
 〃17:101里ほどで慶安元年(1645)石垣造りとなった桟に至り、1里強で福島宿に着く。今の木曽福島。月齢12.7。-福島宿9.4143

足跡、福島まで

linelineline

更科紀行 「高山奇峰」 文⑤⑥検討

 「馬の荷鞍に荷を付けて不安定になった上に芭蕉が乗る」という④の文に連続し、頭上に山峰が重なり、左に大河があり、千尋の崖という⑤の文、危うい思いという⑥の文は、一連の記述として読める。
 つまり、僧に会ったのは、高山奇峰、左に大河の前ということになる。
 さらに、次項⑦の文頭に、桟・寝覚めノ床とあるので、三留野みどの宿から須原宿の間ということになる。

罫線

原文⑤⑥


⑤ 高山奇峰頭の上におほひ重りて、左りは大河ながれ、岸下の千尋のおもひをなし、尺地もたひらかならざれば、鞍のうへ静かならず。

⑥  只あやふき煩のみやむ時なし。

隠居

なるほど。だが、⑥の口語訳に、「いつまた荷鞍ごと落ちるか」とあるが、「いつまた」というのは、穿ち過ぎではあるまいかな。

その他のオプション」で拡大

書生

おや、7、800年昔の古今集の歌を引き合いに出すのですから、わずか8か月前の芭蕉自身の体験を踏まえても、何ら不都合はないかと。<「笈の小文」伊賀の段参照
次項⑦に「桟はし、寝覚など過て」とあって、順番が逆ではないかと思ったのですが、寝覚ノ床の手前にも桟かけはしがあります。
いわゆる羅天の難所です。三留野宿を過ぎ、金知屋から十二兼の間約2キロは川に断崖が迫り、所々に桟道が設けられていたようです。Google Earth でご覧ください。

隠居やっ、これは難所ですな。国道も宙に浮いておるところがある。
⑤の一文のとおりですぞ。
「木曽路名所図会」巻三、「三冨野みどのより野尻まで、都て険路なり。桟道多し」とありました。
羅天桟道
書生おや、桟が描いてありますよ。
隠居確かに、桟ですな。
「桟はし、寝覚ノ床」の順でよいわけです。
解説本の注釈には、ことごとく「順が逆」などと書いてありますが、芭蕉を舐めておりましたな。
では、図会の本文も読んでみなされ。
書生甘く見て舐めましたか。では、本文。
木曽路はみな山中なり」、ん?これって?
木曽路はすべて山の中である」?
隠居次は、「あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である」とでもありますか。
書生はあ。
「名にしおふ深山幽谷にて、岨づたひに行くがけ路多し」、おやまあ。
「就中三留野より野尻までの間、はなはだ危き道なり。此間左は数十間、深き木曽川に」、あれあれ。
「路の狭き所は木を伐りわたして並べ、藤かづらにてからめ、街道の狭きを補ふ。右はみな山なり。屏風を立てたる如くにして、其中より大巖おおいわさし出で、路を遮る。此間に桟道かけはし多し。いづれも川の上にかけたる橋にはあらず。岨道の絶えたる所にかけたる橋なり。他国にはかやうなるかけはし、稀なり。山の尾崎を廻りて谷口へ入り」、なんとまあ、一緒。
但し「あるとことろは」は、オリジナルです。
隠居それはさておき、芭蕉は自分の言葉です。
「⑤高山奇峰、頭の上に覆ひ重りて、左は大河流れ、岸下の千尋の思ひをなし、尺地も平かならず」とな。
難所を抜けて見る景色は格別です。
須原宿では、木曽山脈最高峰、木曽駒ヶ岳が正面に見えます。
2,956mの木曽駒の左に並んで、2,826mの木曽前岳が見えるのを覚えておいてください。麦草岳は、隠れて見えませんな。
木曽路を行くと、山の配置が変わって見えて、なかなか面白い。これは、四月中旬の写真。芭蕉たちが見たのは、雪のない山々ですが。
須原宿

↑ トップへ


linelineline

更科紀行 「寝覚ノ床」 文⑦検討

⑦の「寝覚」は、「寝覚ノ床」。「寝覚ノ床」は、木曽路の名所である。また、その名称の由来となる浦島伝説は、上松町観光ガイドに、
 竜宮城の夢のような日々から現実に帰った太郎は、竜宮城にいたひとときが300年であったこと、周りに自分のことを覚えているものがいないことに驚き、やがて諸国漫遊の旅路に出ます。
 一説には、竜宮城から持ち帰った秘宝の中の飛行の文書で寝覚の床までやってきたとか。
 寝覚の床の風景を気に入った太郎は、魚釣りをしたり、竜宮城の巻物を参考に仙薬を作って地元の住民に分け与えたりしながら暮らしていました。
 ふとある時、竜宮城から玉手箱を持ち帰ったことを思い出します。
 決して開いてはならないと忠告されていましたが、太郎は玉手箱を開いてしまいました。すると中から紫色の煙が立ち上り、太郎はたちまち300歳の翁の姿に…。

と紹介されている。

罫線原文⑦
⑦ 桟はし、寝覚など過て、猿がばゝ・立ち峠などは四十八曲リとかや。

寝覚ノ床

レストハウス木曽路駐車場より遠望

隠居300歳の翁、会ったことありませんな。寝覚から見た木曽駒
書生芭蕉が生きていたら、370歳位。
蕪村がそろそろ300歳です。
隠居西行より500歳くらい若いですな。

寝覚ノ床の景色、木曽前岳がその名の通り正面に来ます。
木曽駒は、前岳に隠されますが、麦草岳はしっかり見えます。
書生随分歩くんですねえ。
隠居ここから上松、桟は近い。

↑ トップへ


linelineline

更科紀行 「木曽路」関連の「桟」句⑲⑳㉑の検討

桟は、「かけはし」と読み、普通は「掛橋・懸橋」と書くが、ここは川や谷を渡る橋ではない。断崖に沿って通路とする棚状の橋である。

かけはし

崖に横穴を明け、梁とする丸太を打ち込み、板を渡して、つるなどで固定したものである。
柱がないので、増水時に流されることもないが、構造上、上からの圧力には弱く、落石に弱い。
上松宿と福島宿の間にある木曽の桟は、古くからあったが、正保4(1647)年に焼失し、翌年再建されている。
貞享5(1688)年、芭蕉たちが渡ったのはどのような桟であったのか、資料をもとに探る。

※ 下記資料について
 ㋑ の説明。
 ㋺ 慶安元年の工事について。
 ㋩ 寛保元年の工事、及び以後の工事について。

桟案内看板

資料1「旧国道擁壁銘板」
㋑ 木曽の桟とは対岸へ架した橋ではなくこの絶壁に平行して作られた桟道であった。往古は丸太の柱に板を敷いた桟道であったが、正保四年に焼失したため、
㋺ 尾張藩が直轄工事として木曽の山村、千村両家中に命じ、慶安元年に尾張の十兵衛により当時の金子八百七十三両を費して石垣を完成した。
  長さ 五十六間(一〇二メートル)
  巾  二丈二尺(六・七メートル)
  高さ   七間( 一三メートル)

左の岸壁に彫られた銘文がそれである。
㋩ なおこの岸壁には往時の柱穴や工事担当者名寛保元年修理の銘文が刻まれていたが上部巨岩崩落し通行安全のためコンクリート防護壁が施工されその中に埋没された

桟案内看板

資料2「駐車場の案内看板A」
㋑ 桟は、けわしい崖に橋をかけ、わずかに通路を開いたもので、木曽桟は歌枕にもなっていると共に、県歌「信濃の国」に歌いこまれており、寝覚の床とともに木曽路の旅情をあたためたことでその名が高い。
 昔はけわしい岩の間に丸太と板を組み、藤づる等でゆわえた桟であったが、正保四年(一六四七)にこれが通行人の松明で焼失した。
㋺ そこで尾張藩は翌慶安元年(一六四八)に長さ五十六間(一〇二メートル)中央に八間(一四・五メートル)の木橋をかけた石積みを完成した。このことが、今も大岩壁と石垣に銘記されている。
㋩ 寛保元年(一七四一)の大改修と、明治十三年(一八八〇)の改修と、二度にわたる改修で、木橋下の空間はすべて石積となり、残されていた木橋も、明治四十四年(一九一一)には、国鉄中央線工事のため取り除かれてしまった。

桟案内看板

資料3「河川敷の案内看板B」
㋑ 木曽の桟というのは、対岸に見える断崖絶壁に木曽川に沿って作られた木の桟道のことをあらわしています。(対岸にかけられた橋ではありません。)これが人災で焼失したので、
㋺ 尾張藩により慶安元年(一六四八年)に、当時八百七十五両という大金をかけ、中央部を木橋とした長さ五十六間(一〇二メートル)に及ぶ石垣をつくりあげました。
㋩ 寛保元年(一七四一年)には、木橋の部分も石垣にしました。(中央部分の石積みが異なっています。)

資料4「木曽路名所図会」
㋑ 木曽桟かけはし旧跡 駅路の中にあり。いにしへは山路険難にして、旅人大に苦む。
㋺ 慶安元年1648、尾州敬君より有司に命じて桟道を架す。長さ五十六間、横幅三間四尺
㋩ 又寛保年中1741~3同邦君また有司に命じて、左右より石垣を数十丈築き上げ、桟道を除き、今往来安穏なり。これを波許橋はこばしといふ。長さ僅か三間許、聊いささか危き事なし。橋下の石に銘あり」。

隠居慶安元年の工事木曽路に桟は外にもありますが、「名所とされる木曽の桟」は、ここの桟です。
資料それぞれ、㋺を見ると、慶安元年の工事が共通して、記述されています。
長さは、56間で102m。幅は、2丈2尺とも3間4尺ともありますが、どちらも22尺ですから、6.7m
。これは、今の中山道と同じ道幅で、車幅2.5mの大型バスがすれ違えます。
二本の円柱、これは明治のものですが、その左右に見える石垣が、慶安の工事のものです。
円柱の間は、目視13m。資料2にある「八間の木橋」が架かっていた幅に合います。ここは、小さめの石で埋められていますが、寛保・明治の改修によるものです。
資料1にある「高さ7間」もよく合っています。
書生とすると、……、芭蕉たちが来たのは、再建から40年後ですから、既に木橋はあったと。
「ここに丸太の桟はなかった」ということですか。
木曽の桟
隠居いかにも。
書生資料3に桟の絵がありますよね。拡大すると、……、丸太の桟ですね。
この絵と石垣の遺跡との関係は?
隠居だから、
「この絵の桟道が燃えて、翌年長さ102mの石垣を造り、6.7mの道を整備し、14.5mの木橋を架けた
と書いてあるわけですな。
書生う~む。
一寸眩暈が、……
で、桟の遺跡とは?
隠居桟の遺跡が、「石垣と木橋」ですな。
書生う~む。桟の代わりの石垣と木橋が、遺跡と。
ならば、最初の写真は、「『桟の代わりの石垣と木橋』の遺跡」な訳ですか。
隠居元よりそうです。
文化2(1805)年のものですが「木曽路名所図会」の石垣の図には、「桟道」ではなく「桟道旧跡」と、明瞭に書いてあります。
芭蕉がここで丸木を刺した桟を渡ったというのは、単なる思い込みです。
波許橋
書生ぬぬ。
隠居ああ。遺物・遺溝と思いましたか。
資料1に、「往時の柱穴は埋没」とありましたな。
書生何と。
すっかり騙されました。
隠居誰も騙しておりません。
思い込みは自己責任です。
書生では、芭蕉たちは、ここで桟を渡らなかったと。
慶安元年の8間の橋でも木橋なら、危ういことはありませんね。
しかし、資料4に、
㋩寛保元(1741)年の改修、「桟道を除き、今往来安穏なり。~いささか危き事なし」
とあります。
寛保の改修まで、桟道はあったのではありませんか。
隠居芭蕉の時代の資料がいるようですな。
これ、益軒の「木曽路之記」、貞享2(1685)年の旅の記録。

資料5「木曽路之記」
㋑ 板敷野有。是より七八町下りて木曽の桟有。木曽川にかけたる橋にはあらず。山のそば道の絶たる所にかけたる橋なり。右の方は木曽川のきはなり。
㋺ 横二間、長さ十間ある板橋なり。欄干あり。両旁は石垣をつき、むかしはあやうき所なりけらし。今は尾州君よりこの橋を堅固にかけ繕て、聊かあやうき事なし。

書生芭蕉の3年前ですね。恐れ入りました。「聊かあやうき事なし」と。あれ、図会と同じ言葉?

要するに、この桟地名の地で、芭蕉たちが渡った桟道は、道幅「資料1㋺幅二丈七尺」「資料4㋺横幅三間四尺」で、6.7mの堅固なもので、幅二間(3.6m)長さ八間か十間(14.5m~18.2m)の木橋があって、「いささかも危ういこと」はないと。
隠居左様ですな。ここでは、川を対岸に渡るためでなく、危険なところを崖に沿って渡るための橋を「桟」と呼んでいるわけですな。丸太の横杭造りだけを言うわけではありません。
書生しかし、「更科紀行」で芭蕉や越人が詠んだ句は、「丸木を崖に打ち込んで、板を載せ、蔦かづらでくくったような桟」だと思いますが。
桟は、岩波本の注に「上松・福島間」、和泉本に「寝覚め床、かけはしより手前にあった」と。
隠居「桟」は、その通りで違いありません。但し旧跡であり地名でもあり、幅二間の堅固な木橋であります。
目くるめく桟がここであったと書いてありますか。ないでしょう。
そんな桟は、既に渡っていましたな。寝覚ノ床の手前、貴君が指摘したところです。
益軒の「木曽路之記」に、三留野の辺りも書いてある。見ておきますか。

「木曽路之記」貝原益軒著
野尻より三留野へ二里半
野尻家数五十許り。荒田むらより十町程行く。がてい坂あり。其先に橋二あり。一は欄干あり。たてんのはしといふ。
凡信濃路は皆山中なり。就中木曽の山中は深山幽谷にて山のそばづたひに行くがけ路多し。殊更野尻と見どの三留野の間尤あやうき路なり。此間左は山也。其山のかたはらのわづかなる石おほき道を行く。右は数十間高きがけにて、屏風を立たる如くなる所もおほく、其下は木曽川の深き水なり。此間かけはし多し。まへにある名を得し木曽のかけはしよりあやうし。いづれも川の上にかけたる橋にあらず。そば道のたえたる所にかけたる橋なり。かやうのかけはし唐絵などに多し。他国にはかやうのかけはしまれなり山の尾崎をいくらもまはりて、谷口へ入る。又先の山の尾をまはる所多し。あやうきこと甚し。
此間に中柄なかがらといふ所あり。其むかひに垣反かきぞりと云所有り。其所より谷川ながれ出づ。
むかひとこなたと南岸に大岩有り。ことに好景なり。
又其の下左の方に横河戸よかわどと云所に、谷川をくより流出。橋有り、横河戸のはしといふ。
又かけはし有り、曲尺かねのごとくまがりてかけたる橋也。谷川の奥に横川といふ村あり。凡此山中の橋かけはしを尾州君よりうけたまふに其ついゑ甚多しといふ。

書生やはり、三留野から野尻の間でしたか。益軒は逆方向ですが。
やや。これは丸写し、……、例の部分に赤色を、その余は、紫色を付けますね。
隠居「木曽名所図会」、益軒の「木曽路之記」を抜いていましたか。「日光」については、「貝原氏のを抜粋した旨」は書いてありますがな。
書生益軒の文章、孫取りされたわけです。
隠居本題、桟句へ。
桟やいのちをからむつたかづら

桟は、ツタやカズラを幾重にも巻き付けて板をつなぎ止めている。私たちはこの蔦葛に命を託しているのだ。

罫線

句⑲


桟やいのちをからむつたかづら

隠居やはり、この句は三留野から野尻までにある桟で詠まれましたな。
三留野の桟の図には、新後拾遺集の歌が書いてあります。
 雲もなほ下に立ちけるかけはしの
   はるかに高き木曽の山道  源頼貞

「桟という歌枕、名所」は、上松・福島間の桟とは限らないことが分かりましょう。
書生これは、随分高い所にある桟を詠んでいますね。
隠居上松・福島間の旧跡の高さは、せいぜい7間ですから、違いますな。
しかし、その桟道旧跡のところに、この芭蕉句が書いてあります。

桟や句碑

書生で、私のような者が思い込むわけです。
絵には、芭蕉句碑も描いてありますね。
おや、右の句碑と、石の形が違います。
絵の句碑は、おむすび形ですよ。
隠居右の句碑は、図会板行から24年後、文政3(1829)年のものです。
おむすび形の句碑は、板行の39年前、明和3(1766)年に建立されています。これを描いたのでしょう。
しかし、それが、谷に埋没したので、右の句碑、文政12年の再建となったわけです。
書生ということは、文化2年には旧跡に句碑があって、「谷に埋没」は、その後となります。
隠居いかにも。
福島に居住する山村良喬が建立しています。代々山村甚兵衛を名のる尾張藩の与力、木曽の代官ではないかな。
句碑が、谷に埋もれたので、写真の句碑を建立した。しかし、その後発見されたが、新しい句碑があるので、福島町中畑の津島神社に設置した。
こんな経緯がありますが、最初の句碑の複製が、昭和11年、桟地名の河川敷に設置されました。どんな経緯があってのことでしょうかな。
桟や先おもひいづ馬むかへ

芭蕉たちが、桟を渡ったのは、8月13日。
「丁度この日くらいだろうか、朝廷に貢進する馬がこの桟を渡ったのも」と、渡り終えほっとして思う。
駒迎えとは、逢坂の関に貢進馬を迎え、天皇が8月16日にご覧になり、御料馬を定める儀式である。
駒迎えは、応仁の乱前年に途絶えるが、多くの和歌に詠まれ、現代でも「駒迎え」は、仲秋の季語となっている。

「こんな恐ろしい断崖の桟を、献馬は渡っていたのか、望月の駒は」と、渡り終えて先ず脳裏をよぎった。

罫線

句⑳


桟や先おもひいづ馬むかへ

隠居

一言。
芭蕉が鴨長明作だと思っている「東関紀行」に、
 東山の邊なるすみかを出て、相坂の關うち過ぐる程に、
 駒ひきわたる望月の比も、漸近き空なれば、秋霧立ちわたりて、
 ふかき夜の月影かすかなり。

とあります。仲秋の名月の頃の駒牽き(駒迎え)を芭蕉は思ったのでしょう。
「おもひいづ」とありますが、経験では無く読んだ記憶です。
以下の様に「望月の駒」は、数多く詠まれています。
 相坂の関の清水に影みえて 今やひくらん望月の駒      紀貫之
 望月の駒よりをそくいでつれば たどるたどるぞ山はこえつる 素性法師
 あしびきの山ぢ遠くやみえつらん ひたかく見ゆる望月の駒  平兼盛
 あふさかの関の杉むらひくほどは おふちにみゆる望月の駒  良暹法師
 望月の駒引時はあふさかの 木の下やみもみえすそありける  恵慶法師
 東路をはるかにいづる望月の 駒にこよひや逢坂のせき    源仲正
 嵯峨の山千世のふるみち跡とめて 又露わくる望月の駒    藤原定家

もちろん駒引きの駒を詠んでいるが、「望月の」を冠しているのは、駒引きが8月15日に行われるからではありません。
数多く名馬を貢進した、信濃国佐久の御料牧場の名が「望月」なのです。だから、望月の駒は、望月牧場産の駒の意であり、また満月の日と読まれることを期待しています。
このように、数多く詠まれ、「歌枕」として定着しているからこそ、芭蕉は「先ず思い出す」のです。

霧晴れて桟は目もふさがれず 越人

霧の中では、高所であることも分からずにいたが、霧が晴れると、目くるめく断崖の中途を歩いていることがはっきりわかり、足を踏み外さぬよう目を見張らなければならず、恐くて目をとじるわけにもいかないのだ。

罫線

句㉑


 霧晴れて桟ハ目もふさがれず 越人 

隠居

なるほど、越人は歩いていたわけですな。
これも野尻までの桟です。芭蕉もさすがに、馬を下りて、歩いたことでありましょう。

↑ トップへ


更科紀行 講読その一 ㋥松本へ

旅程㋥ 「松本へ」 福島宿~洗馬宿(38.4㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1406:00福島宿発。福島宿-143
 〃07:50福島関所を通り、木曽義仲ゆかり手習い天神を過ぎると、京江戸の中間点。間の宿原野から宮ノ越宿を通過。-宮ノ越-7.1150
 〃09:40木曽義仲ゆかりの地や巴淵を過ぎ、薮原宿を通過。標高950m。-薮原-7.5158
 〃11:30標高1200mの難所鳥居峠を越え、奈良井宿を通過。標高950m。-奈良井-5.3163
 〃13:20奈良井川に沿って、贄川宿を通過。-贄川-7.3170
 〃15:20間の宿桜沢、茶屋本陣を過ぎると松本藩の領地に入る。狭義の木曽路はここまで。日出塩から本山宿を通過。-本山-7.9178
 〃16:10しばらく進むと次第に視界が開け、洗馬宿に着く。月齢13.7。-洗馬宿3.3182

足跡、洗馬まで

linelineline

木曽から松本へ

隠居宮ノ越宿の手前、原野に間の宿がありまして、南西方向の景色が開け、非常に眺めがよいので有名です。

木曽駒の右に麦草岳、寝覚では左にありましたな。
またこれ、三沢岳の山頂近くがわずかに写っておりましょう。須原で真正面に見えていた山です。

さて、ここは、講読すべき句文がありませんが、茶屋本陣を過ぎると松本藩の領地になりますから、残された木曽の句を味わっておきましょう。
原野から見た木曽駒
書生残るは「木曽の橡句」です。
実は、鳥居峠の旧街道を歩くと、随分拾えるという情報がありまして、丁度よいかと。
隠居隧道ができ、現在は人が通りませんからな。
昔の木曽路は、あちこちで拾えましょう。「木曽路之記」、桟の次に木のことが書いてあります。
「木曽路之記」 福島より上松
 山中にも、道のほとりにもとちの木多し。大木有り。葉はほうの木に似たり。枝はすぐにして、はびこれり。実あり、棟子れんし、苦棟子?のごとし。土民とりて、粉にし餅として飯にあてて食す。尤も飢饉をたすく。その木横紋ありて器うつわものに作るべしといへども、尾州より禁制きんぜい有てきらず。実を民の食物にするゆへなり。
「木曽路名所図会」 上松
 山中にも、道の側に橡の木多し。大樹あり。葉は朴の木に似たり。枝はすぐにして、はびこれり。実ありて棟子のごとく、土民これをとりて、粉にし餅として飯に宛てて食用とす。尤も飢饉をたすく。その木に横文ありて器物可なりといへども、尾州君より伐る事を禁制にて、それ故きらず。実を民の食物にするゆへなり。
図会は福島に、名物・名産が挙げてありますが、とちの実はありません。
 名産駒・赤魚(味はひ美)・河鹿魚(声清亮)・岩奈魚いわな(味佳ならず)・
 名製瓠蓄かんぴょう、干瓢・凍豆腐・凍蒟蒻・凍糯こおりもち・諸薬種・諸器物(桧)
linelineline

更科紀行 「木曽路」関連の「木曽のとち」句㉗の検討

トチノキは、落葉高木。本州以北の山地に広く分布。トチの実は、クルミ・ドングリとともに、古来食用とされた。平地に乏しく積雪も多い木曽の山地では、貴重な保存食であった。
都会では珍しく、土産としてうってつけである。
収穫は、陽暦9月中旬から20日ほどで、地面に落ちたものを拾う。
芭蕉が訪れた陰暦8月中旬に当たり、正に旬である。

罫線

句㉗


 木曾のとち浮世の人の土産かな
 
 草稿には、
 よにおりし人にとらせん木曾のとち
 も記されており、見せ消ししてある。

㉗句の大意は、「道中、木曽のトチの実を一杯拾った。これを町中の浮き世に暮らす人たちへのみやげとしよう」。
浮き世の人とは、門弟たちであり、自分である。句の裏には、浮き世にいない人が存在する。
それは杜甫であり西行である。
杜甫の七言律詩「乾元中、寓居同谷県作歌」に、
  歳拾橡栗随狙公(歳年橡栗を拾ひて狙公に随う)
 とあり、
高野の西行から、大原の寂然に贈った歌には、
 山深み岩にしたるる水ためん かつがつおつるとちひろふほど
とある。
これを踏まえれば、「閑寂な木曽で、橡を拾うという隠者の為す業をしたのだが、世俗な私はこれを土産に持ち帰るのだ」となる。
草稿の「よにおりし」は、「をりし」ではないので、「居りし」ではなく、「世に降りし」である。武士を辞めて市井に暮らす門人を浮かべたか。

隠居

なるほど。
曽良は、まさに「世に降りし人」。武士を辞めている。嵐雪もこの年に致仕したから、入るでしょうな。
このトチの実には、後日譚がある。
先ず、翌元禄2年正月の歌仙「水仙は」の巻。
 名オ8  陀袋さがす木曽の橡の実 路通 ※陀袋=頭陀袋
 名オ9 月の宿亭主盃持いでよ   翁

旅の後のページ、歌仙「水仙は」の巻]参照

書生

これは面白い。路通も貰ったわけです。
で、芭蕉は体験で付ける。
先ずとおっしゃいましたが。

隠居トチの実煎餅

荷兮も貰っておる。「曠野」に、

 木曽の月みてくる人の、みやげにてとて杼とちの實ひとつおくらるる。
 年の暮迄うしなはず、かざりにやせんとて

  としのくれ杼の實一つころころと  荷兮
とあります。

銘菓「大鳳堂 とちの実せんべい」包装紙の画像

書生

下僕を付けてもらった礼が、トチの実一つでしたか。荷兮は指で弾きましたね。

隠居

芭蕉の名誉のために言うが、土産はトチの実だけではありません。また、「旅後」で触れます。

「更科紀行」、旅の後「荷兮あて書簡」]参照

↑ トップへ


更科紀行 講読その一 ㋭更科の姨捨へ

旅程㋭ 「更科の姨捨へ」 洗馬宿~姨捨(67.2㎞)

月日時分記事移動距離累計
8/1401:00旧暦なので、日の出るまでは14日。
姨捨の名月に間に合うよう、深夜洗馬宿発。
洗馬宿-182
8/1505:40善光寺西街道に入り、松本宿を通過。月没は4時、日の出が、5時半。-松本宿-18.4200
 〃11:00山道を北進、大沢口から東進、錦部から北進し、会田宿を通過。-会田宿-15.9216
 〃15:50立峠、中ノ峠を越え、西条宿、青柳宿、麻績宿を通過。-麻績宿-19.2235
 〃19:20七曲がり急坂を越え、聖高原に出れば、猿ヶ馬場峠。さらに西に向かい、視界が開けると、八幡の姨捨に出る。-姨捨の里-13.7249

足跡、姨捨まで

linelineline

更科紀行 「九折(つづらおり) 」 文⑦~⑩検討

 「猿がばゝ・立ち峠」とあるのは逆で、「立峠、猿ヶ馬場さるがばんば峠」の順、これは松本を経由する信濃路の峠である。
実際、峠はいくつかあり、まとめて四十八曲がりである。近くの別街道に「四十八曲峠」という名の峠があるがそれではない。

 ⑧は、その峠道での描写。
 前夜出発し、松本で日の出を迎え、午前中に九十九折つづらおりの峠に入り、夕暮れに抜ける。下僕は芭蕉を助けようとして疲労困憊し、馬上で眠っている。
 馬の口は越人が捉え、芭蕉は後から歩き、下僕を見上げている。

 ⑨、芭蕉は、「人の危うさを見るのは、天上の仏が下界の衆生を見るようなものだ」と思いを巡らし、我が身の危うさも同じことだと気付く。

罫線

原文⑦~⑩


⑦ 桟はし、寝覚など過て、(再出)猿がばゝ・立ち峠などは四十八曲リとかや。

⑧ 九折(つづらおり)重りて、雲路にたどる心地せらる。

⑨ 歩行より行ものさへ、眼くるめきたましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるゝけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたゝびなりけるを、あとより見あげて、あやふき事かぎりなし。

⑩ 仏の御心に衆生のうき世を見給ふもかゝる事にやと、無常迅速のいそがはしさも我身にかへり見られて、あはの鳴門は波風もなかりけり。

⑩の文は、徒然草第41段「加茂の競べ馬」を思い起こさせる。
 「楝(オウチ、センダンの古名)の木の股に取り付いて見物している法師が、居眠りをして度々落ちそうになる。見ている人は『世の痴れ者』とあざける。
 兼好は『我らの死の到来も今かも知れないのに、忘れているのは、もっと愚かだ』と言うと、皆は『そのとおりだ』と、見やすい所に呼び入れられた」という話である。


 五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて、見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
 かかる折に、向ひなる楝の木に法師の登りて、木の股についゐて物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。
 これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給え」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
 かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。「徒然草 第41段」


 芭蕉は、この話を思い出し、「あはの鳴門は波風もなかりけり」と、兼好家集の和歌を引用し締めくくる。


 世の中を渡り比べて今ぞしる 阿波の鳴門は波風もなし 作者不詳(兼好家集)

隠居

芭蕉は、徒然草を引用したわけではないでしょう。

書生

ですから、杖突坂の落馬です。
「笈の小文」の旅で荷鞍ごとひっくり返り、馬を借りるときは、徒然草の証空上人のことを思い出しています。

「笈の小文」高野の段「旅の所感」参照

木曽路の須原宿辺りで馬を借りたときも、徒然草の逸話を思い出します。その後の九十九折りで落ちそうな下僕を見上げ、徒然草の加茂の競べ馬を思い出すのは、ごく自然の流れです。

↑ トップへ


更科紀行、講読の振返り
linelineline
原文、木曽路・信濃路
書生

いかがでしょうか。

隠居

行程に沿って読めそうですな。

書生

街道の資料が豊富なので助かりました。
しかし、姨捨の名月を見たいという思いが、いかに強かったかよくわかりました。

隠居

九十九折りの山道でも、下僕を馬に乗せ、自分たちは歩くのですからな。

書生

風狂の道は大変ですね。

隠居

それが、生きる実感となるわけですな。

↑ トップへ


- 更科紀行講読ページの解説へ -


更科紀行 索引
原文・資料旅程・足跡講読木曽路姨捨山善光寺旅後の資料